断想(3)──プシューケーについて・その他




【388】『心とは何か』は面白い

▼アリストテレスの『心とは何か Peri Psyches/De anima』(桑子敏雄訳,講談社学術文庫)を、懇切丁寧な訳注や適切この上ない訳者解説に導かれ繰り返し読んでいるうち、いま少し掘り下げて調べたり想像をたくましくしてみたいと思う「論点」がいくつか出てきた。

 たとえば、アリストテレスは「質料は可能態[dynamis]であり、形相は終局態[entelechia]である」とし、プシューケー(psyche:桑子訳で「心」)を「可能的に生命をもつ自然的物体[ソーマ:soma]の第一の終局態」と定義している(第二巻第一章)。桑子氏の訳注によると、エンテレケイアはエネルゲイア(energeia:桑子訳で「実現態」)とほぼ同義だというのだが、ここに出てくるエネルゲイアとデュナミスの対概念は、ラテン語の actualitas と virtus に、そして現代語の、たとえば英語では actuality と virtuality にそれぞれ対応している。

 また、アリストテレスがプシューケーの能力として掲げる栄養摂取・生殖能力、感覚能力、思惟能力、運動能力のうち、感覚と思考の間にあるものとされたファンタシア(phantasia:桑子訳で「心的表象」)はラテン語の imaginatio やドイツ語の Einbildungskraft (カント哲学の文脈で「構想力」)につながるものだろうし、デカルトが使った realitas obiectiva ともあやしげな関係がありそうに思えてくる。[*]

 そうだとすると、希羅仏独英の五つの言語が交錯する概念のポリフォニーもしくは思考的「倍音」を腑分けした結果、ファンタシアは reality と possibility の対概念に関係づけて考えることができるかもしれないし、さらに、先のエネルゲイア・デュナミスの対概念と組み合わせるならば、フェリックス・ガタリが『分裂分析的地図作成法』(訳書50頁)で示した「四つのカテゴリーの交叉行列」── actuel と virtualite'、re'el と possible の二組のカテゴリーの組合せによって四つの「機能体」の構成法則を示したもの──にもつながっていくと思う。

* ハイデガーの『現象学の根本問題』に準拠した木田元氏の解説によると、デカルトのこの〈realitas obiectiva〉は「スコラ哲学においてと同様、心に投影[オブイエクテレ]された事象内容、単なる表象作用のうちで思い描かれただけの事象内容、つまりある事象の本質を意味し、〈可能性〉と同義である」のに対して、ラテン語とドイツ語の違いはあれ言葉の形はそっくりな「カントの〈objective Realitat〉は、客観のうち現実化された事象内容を意味し、〈現実性〉と同義である」。《デカルトにあってカントのこの概念に対応するのは、むしろ〈realitas actualis〉の方で、これは現実化された(actu)事実内容を意味する。》(『ハイデガー『存在と時間』の構築』159頁)

▼あるいは、デモクリトスについて。アリストテレスは本書の第一部で「心はいわば生物の原理[アルケー:arche]だ」と述べ、続いてプシューケーをめぐる先人の諸説を紹介し批判しているのだが、その中でたびたび──索引によると、「暗い人」ヘラクレイトスの名がただ一回であるのに対して八回──「笑い人」(斎藤忍随)デモクリトスの名が出てくる。たとえば次の文章。

《デモクリトスは、…心は理性である、と述べた…。つまり、理性は、第一にして不可分な物体に属している。その形状も微少であることによって動きやすいというわけである。かれは、形状のうちもっとも動きやすいのは球状であると述べる。そして、理性と火がそのような球状のものだと言う。》(29-30頁)

 神埼繁氏は『プラトンと反遠近法』(新書館)で、古典文献学者時代のニーチェには「プラトン・アリストテレスに匹敵しうるだけの哲学的体系を備えながら、資料的な制約で不当な評価を受けているという、彼のデモクリトスへの思い」があり、後々まで「デモクリトスを起点として、古代哲学史そのものを読み替えようという、哲学的野心」を燻らせ続けていたのではないかと書いている。

 話はアリストテレスのプシューケー論から逸脱していくが、エピクロス(ニーチェが『漂泊者とその影』で「永遠のエピクロス。──エピクロスはあらゆる時代に生きていた。いまも生きている」と書いたエピクロス。また「死は、死にゆく者にとってはなんらの不幸ではない。生き残る者にとっての不幸にすぎない」と、つねづねマルクスがその言葉を口にしていたとエンゲルスが伝えるエピクロス)がヘロドトス宛の書簡に記した「多世界論」──《さらにまた、世界は限りなく多くあり、その或るものは、われわれのこの世界と類似しているが、他のものは、類似していない。》(出隆他訳,岩波文庫『エピクロス』15頁)──をめぐって、神崎氏は次のように書いている。

《エピクロスは懐疑論とは異なり、「感覚」を信頼する経験主義的な立場から、現前する事物に関しては、感覚によって「確証」されるものが真であり、されないものは偽であるのに対して、感覚されない「不分明なもの」に関しては、逆に「反証」されないものは真であり、されるものは偽とされる。こうして、宇宙が無限である限り、反証がない以上、世界は多数存在することになるというのである。このような「多世界論」は、それが同時的であるか、通時的であるか、解釈は分かれるが、いずれにしてもその基本的な論理は…デモクリトスにまで遡ることのできる考え方である。》(149-150頁)

 ──以上に述べた事柄は、イデアとアトムとモナド、さらにはノマドを加えた概念のポリフォニーの聴き分け、あるいはストア派とライプニッツとニーチェを媒介として、さらにはエピクロスやルクレティウスをからませてのベンヤミン/ドゥルーズの思考的「倍音」の腑分けといった、私の脳髄のうちにインキュベートされつつある関心に即したものであって、アリストテレスのプシューケー論をめぐる現在の話題とは直接の関係はない。[*]

* 付言すると、ベンヤミンは『パサージュ論』(Y2a,1)で次のように書いている。《ナダールはバルザックのダゲレオタイプに関する理論を再現している。それは幻像[エイドラ]に関するデモクリトスの理論から来ている。(ナダールはこのデモクリトスの理論を知らないようで、その名を挙げていない。)ゴーティエとネルヴァルはバルザックの意見に賛成だったはずである。「……だが、幻影[スペクトル]がどうしたというような話をしていたのに、ゴーティエもネルヴァルも……われわれのレンズの前を快く通過した最初の人々の一人となってくれた。」ナダール『私が写真家だった頃』八ページ》(岩波書店『パサージュ論V』249頁)

 ここに出てくる「幻像に関するデモクリトスの理論」というのは、デモクリトスやエピクロスが視覚について、それは事物の表面の薄い皮膜(エイドーロン)が空気中を飛来し眼に達して生ずる感覚であると考えたことをいうものだ。──ちなみに、神崎氏は前掲書(75頁)で、ギリシア語のエイドーロン[映像・虚像・影像]/エイコーン[描像]/ファンタスマ[表象像]の関係をめぐって、エイコーンが「何か対象につくり出される像」であるのに対して、ファンタスマは、関連語のファンタシアとともに「われわれの心に映し出される像」を意味するという違いがあり、これらをとりまとめるエイドーロンは、ホメロスにおいて「化身」や「分身」を表すもので、実物に対する「写し」や「像」を表すのは後のことであると述べている。



【389】プシューケーとソーマ

▼いうまでもないことだと思うけれど、『心とは何か』で何より面白いのはプシューケー論そのものである。──桑子氏がアリストテレスのプシューケーを「霊魂」や「魂」ではなく「心」と訳したのは、たとえば『パイドン』で、身体(ソーマ)を魂(プシューケー)の牢獄(墓場=セーマ)であるとしたプラトンとの対比にあった。[*]

 アリストテレスはプラトンと違って、あくまで身体から分離できないものとして、すなわち生物が「生きている」と言われるとき、その原因にあたるものとして、より具体的には栄養摂取・感覚・思考・運動の諸能力として、プシューケーを論じた。「生きとし生けるものにはこころあり」という言い方もされる日本語の「心」とアリストテレスの「プシューケー」は重なるところ多いように思われる、と桑子氏はいうのである。──たとえば、「心と身体についてアリストテレスの立場が明瞭に示されている重要な一節」と訳注が付された次の文章。

《すると、心と身体とは一つであるかという問題を立てて探求すべきではない。それはちょうど蜜蝋と印形とが一つであるか、一般的に言えば、個々のものの質料と、その質料をもつものが一つであるかどうかを探求すべきでないのと同じである。というのは、「一つ」と「ある」は多くの意味で言われるが、もっとも主要な意味で言われるのは終局態だからである。》(第二巻第一章,72頁)

* 古東哲明氏は『現代思想としてのギリシア哲学』で、身体には「物体としての身体」(カラダ:殻に通じる)と「機能しつつある生ける身体」(ミ:実に通じる)の二つの認識相があり、プラトンが「肉体を離脱し、たましいだけになる」というとき、そこで考えられている「たましい」(プシューケー:ギリシア語で「生命の息吹き」の意味)とは後者、すなわち生命体を生命体たらしめる「無定形で不可視な生命力」のようなものとしての「ミ」なのであって、それこそが「現にぼくたちが生きている身体のリアリティである」と述べている。そして、「器官なき身体としてのプシューケー」について、次のように書いている。

《だが〈ミ〉は、そのあまりにもの直接性(透明性)のため、事後性と対象化を余儀なくされたぼくらの認識対象のテリトリーからは、不断に脱けさってしまう。そのため、ぼくたちが現にソレを生きており、ソレなしでは在りえようもないリアルな身体にもかかわらず、クリプトグラムと化し、非知のままにとどまりつづける。野口三千三のいう「原初的身体」、レヴィナスのいう「非志向的な裸性」(nudite')、あるいはドゥルーズ/ガタリが「組織された身体」(corps organise)にたいしてもちだす「組織器官なき身体」(corps sans organes)は、ほぼこの《ミ》にあたる。(中略)こういいかえてもよい。ぼくたちの具体的な生の大部分は、精神とも身体ともつかない《非意識の生命性》のなかで生起している。この非意識の生命性こそ、リアルなぼくたちの本体(身)であり、精神とか身体は、このミの抽象化された一局面でしかない。》(166頁)

 付言すると、鎌田東二氏は、生命と自然と神と人間のつながりをめぐる西欧の概念との比較を踏まえながら、次のように述べている。

《日本の場合、はっきり言えるのは、人間は神々や自然とはっきりした境界を持っていないということです。たしかに、人間的な身体形象を持っているけれど、その身体形象はかっちりした鎧のようなものじゃなくて、境界はすごくあいまいだという感覚がある。それゆえに、自然が持つ身体性と人間が持つ身体性と神が持つ見えない身体性は、身体と霊魂というふうに、はっきり二分化できないものとしてあったと思うのです。たとえば、み(身・実・霊)が身体性と魂の中身の双方を表現していたように。》(鎌田東二×鶴岡真弓「習合とエグザイルの精神」,『ケルトと日本』255頁)

▼桑子氏は『心とは何か』の「解説」で、日本語の「身体」には「命あるもの」という意味が、「物体」には「命をもたないもの」という意味が含まれていて、この両者を共通に呼ぶ適切なことばを日本語はもっていないのだが、これに対してギリシア語の「ソーマ」は「物体」と「身体」の両方を意味すると述べている。[*]

 そして、プラトンが身体を「物体」的に考えたのに対して、アリストテレスは──植物も含めたすべての心に共通する説明として「道具としての器官をもつ自然的物体の第一の終局態」(ここでいう「自然的物体」とは「自己自身のうちに運動と静止の原理をもつ物体」と定義される)を与えることで──日本語の「身体」により近い位置で考えていると理解できる、と書いている。

《…もっとも重要な点は、アリストテレスが「自然的物体」ということで、自己自身のなかに運動の原理をもつものを考えている点である。アリストテレスの立場では、心をもつものは生物に限定され、そしてそのような生物であるかぎりでの身体との関係が問題になる。だから、「物体」と「身体」を区別すれば、アリストテレスは心と物体の関係ではなく、心と身体の関係を論じていると考えることができる。/したがって、アリストテレスの研究の図式では、たとえばデカルト的な心と物の二元論的理解で生じるような身心問題は発生しない。》(205頁)

* ここで私が想起したのは、ルクレティウスの『物の本質について』第三巻の内容紹介に付された寺田寅彦の文章である。

《ちなみにわが国の神官の間に伝わる言い伝えに、人間の霊魂は「妙に円き」たまであるという考えがあるそうである。この事を私は幸田露伴博士から聞いて、この条の心や精神の元子と多少でも似た考えがわが民族の間に存した事を知り奇異の念に打たれたのである。これはギリシア語のテュモスが国語のタマシイに似ていると同じく、はたして偶然であるか、そうでないか全くわからない。》(「ルクレチウスと科学」,岩波文庫『寺田寅彦随筆集 第二巻』247頁)

 付言すると、河野與一(『続 学問の曲がり角』)は、ギリシャ語には日本語の「もの」に相当する語がなく、ローマ人がそれを「レス res」と呼んだ。──と、渡辺義雄編『河野與一 哲学講話』(岩波書店)の「編集後記」で紹介されていた。編者は続けて、「そうしてレスを英語で表わそうとする時、先生はリアリティという言葉を使い、それを「ものの集積」と言われたのである」と書いている。編者が紹介する河野の言葉が面白いので、引用しておこう。

《「私はリアリティというものへ近づけていく一種の基本として、もう少し論理というものをやわらげて──厳密性に結晶する前のまだどろどろしたところで……何とかつかまえることができないか、と考えています」。(中略)「哲学は結局は、世界全体とか自然全体とかいうことを言っているのではなく、もう少し人間の世界に立脚しているのではないか。抽象的な言葉で言っていることが、下世話で言うとこうだ、と言えるような問題ばかりではないか」。》(383頁)



【390】能動知性と大きなシステム

▼心(プシューケー)は生物の原理(アルケー)である。──アリストテレスのプシューケー論は、『心とは何か』の冒頭に出てくるこの言葉に尽きているのではないか。(ここで私は、津田一郎著『カオス的脳観』の、たとえば「人工知能の研究で得られるのは生物的な知能ではなく全く別物の知能である」といった文章を想起している。)

 つまり、アリストテレスにとって心とは生きている身体(ソーマ)がもつ能力なのであって、心と身体とが一つであるかどうかという問題を立てて探求すべきでないことは、蜜蝋と印形とが一つであるかどうか、一般的には質料=可能態(デュナミス)と形相=実現態(エネルゲイア)とが一つであるかどうかを探求すべきでないのと同じなのである。

 しかし、本書第三巻第五章でアリストテレスは、直観的理性(ヌース)あるいは「作用する理性」(nous poietikos:ラテン語訳は intellectus agens で、「能動知性」とも)について、「この理性は、本質において実現態であって、分離されうるもの」である、そしてそれは「分離されているときに、ただまさにそれであるところのものであり、それだけが不死で永遠である」と書いている。分離不可能な心身が、作用する理性において分離可能なものとされる矛盾。──桑子氏によると、これらのことが古来「作用する理性」の問題として議論されてきた。[*]

* 『「私」の考古学』(坂口ふみ責任編集/岩波書店「宗教への問い3」)に収められた「〈個〉のアルケオロジー―自我の祖型をたどる」で、坂口ふみ氏は、形而上学的・自然学的な「個」ではなく、おきかえのきかない「ひとりしかいない自分」という意味での〈個〉の体験の祖型を西欧思想の古層にたずねている。

 私の内なる深みの探求と大宇宙を統べる共通なる原理の探求の両者が、実は車の両輪の関係にあるという「ヘラクレイトスのモチーフ」のその後の「変奏」を、プラトン、アリストテレス、プロティノス、アウグスティヌスの思索のうちにたどり、ロゴスという概念の「おどろくべき多義性と柔軟性」に東西思想の対話と歩み寄りのための大きな示唆を見出すその叙述はスリリング極まりないものなのだが、ここでは、プラトンとは全く反対にプシューケーとソーマの不可離の関係を説いた「生物学者アリストテレス」が、プシューケーのある部分(純粋能動理性)を身体から切り離しうるものとする「シャーマニズム的」な見方を示した「矛盾」──《これは何ともひどい矛盾ではないか。「身体の形相」と言われた古代ギリシア的な、生命原理的な魂のみでは、アリストテレスもまた満足できなかったのだ。》(42頁)──をめぐる文章を抜き書きしておく。

《この個別的な生きた身体が真に人間であり、しかも身体とは「切り離しうる」「外からの神的なもの」が真の個我の核、この生きた身体の思惟と行動の核だというのは、大きな逆説である。ここには古代ギリシア的な自然[ピュシス]の見方と、「異郷的」でシャーマン的な、つまりドッズに言わせれば身体を蔑視する「ピューリタン的」な魂の見方の混合があるのだろうか? しかしここでも、魂の核が「身体から切り離しうる」とされる根拠は、人間の中の純粋な思惟の活動の純粋さのうちにある。ロゴス的なものの尊貴性と、魂にとってそれが中核であるという考え方のうちにある。このロゴス性がすぐれて「ギリシア的」であるならば、アリストテレスの一見矛盾した考え方もきわめて「ギリシア的」なのであろう。このアリストテレスの逆説は、ヘラクレイトスがすべてを対立・変転と見ながら、その変転・対立を統べる一なる法をその対立・変転と別のものとは考えず、かつ、しかもその法・ロゴスを自己の限りない深みに見た直観と、どこか似かよってはいないだろうか? 万物を超えるものである神的な能動理性は、超えられる万物−感覚−受動理性と、ある仕方で一つであり、肉体的自己の最奥のものでもある。しかしこれは、はたして「私」なのだろうか? それとも私を超えて、万人に共通の一つの神的・超越的理性なのだろうか? アリストテレスの自然学的な叙述からおのずと生じてくるこの疑問は、西欧中世に受けつがれ、一三世紀にヨーロッパとアラブとの熱い論争の火種を提供した。》(44頁)

▼アリストテレスがいう作用するヌース、つまり本質においてエネルゲイアである能動知性を、たとえば文字によって表現されたもの、端的に「書物」類似のものと考えてみることができるかもしれない。[*]

 エネルゲイア(energeia)のラテン語訳は「actualitas」で、これらの語は一般に「エルゴン ergon」=「働き」のうちにあるものを意味するとされているのだが、ハイデガーは「エルゴン」を「作品」(制作されたもの)と解した。このハイデガーの説を強引に「参照」することで、プラトンが『パイドン』でその不死性を論じた「魂」ともども、思考能力としてのプシューケーの不死性の意味を考えることができはしまいか。

 それともこのような捉え方は問題を矮小化することになるのだろうか。――ここで私が想起しているのは、講演録『ボルヘス、オラル』(木村榮一訳,水声社)に収められた「不死性」でのボルヘスの次の言葉だ。

《たとえば、ある人が自分の敵を愛したとする。その時、キリストの不死性が立ち現れてくる。つまり、その瞬間、その人はキリストになるのである。われわれがダンテ、あるいはシェイクスピアの詩を読みかえしたとする、その時われわれはなんらかの形でそれらの詩を書いた瞬間のシェイクスピア、あるいはダンテになるのである。ひと言でいえば、不死性というのは、他人の記憶のなか、あるいはわれわれの残した作品のなかに存続しつづけるのである。》

* ここで私は、信原幸弘著『考える脳・考えない脳』(講談社現代新書)の、たとえば「構文論的構造をもつ表象の操作としての思考は、この[脳と身体と環境からなる]大きなシステム全体によって産み出される」といった文章を想起している。(あるいは、「心」にではなく「環境」に備わる意味や価値としてのアフォーダンス。)

 信原氏は本書で、まず心の働きと脳の働きは同じだとする心身一元論の妥当性を短い文章でもって明らかにし(はじめに)、それでは「心の働きがいかにして脳の働きと同じでありうるか」という「心のモデル」をめぐる二つの学説、古典的計算主義(第1章)とコネクショニズム(第2章)のそれぞれの主張と相互の異同をきわめて要領よく紹介する。

 次いで、直観・無意識のメカニズム(第3章)とフレーム問題(第4章)を題材として、知覚や直観、スキーマの形成といった心の働きを説明する学説としてはコネクショニズムの方がふさわしいことを説得力ある叙述でもって示唆し、しかし最終章で、心は「脳と身体と環境からなるひとつの大きなシステム」なのであって、「そのサブシステムである脳はコネクショニストシステムであり、また古典的計算主義システムのほうは主として環境に足場をおくシステムだという見方」を提示している。

 思考をめぐる緻密かつスリリングな議論を経て、脳は「構文論的構造を欠くニューロン群の興奮パターンの変形装置」なのだが、それだけではなく、脳は「そのような変形をつうじて、外部の環境のなかに外的表象を作り出し、それを操作することもできる」、つまり「構文論的構造をもつ表象の操作としての思考は、この[脳と身体と環境からなる]大きなシステム全体によって産み出される」と結論づける最終章が本書のハイライトで、実は私は本章をまず最初に読んで興奮した。



【391】ファンタシアとモナドロジー

▼彌永信美氏の「魂と自己―ギリシア思想およびグノーシス主義において」(『「私」の考古学』所収)を読んで、存在と生成の二元論からストア派的あるいはネオプラトニズム的三元論(プネウマ・ダイモーン・パンタシア、あるいはヌース・プシューケー・ソーマ)へといたる「ギリシアの魂の物語」の叙述を経て、グノーシス主義のシュジュギアー(合一)体験や『トマスによる福音書』の記述から「シジジイ」(細胞核の移動と融合と再分裂)による単性生殖へと向かうその筆の運びに私はすっかり魅了されてしまった。

 そこでとりわけ興味深いのは、「ファンタシア」をめぐる議論だった。[*]──以下は、プロティノスの弟子ポルピュリオスの『省察』に出てくる「気息に刻印される想像[phantasia]」の概念をめぐって書かれた文章。

《ストアー学派においては、感覚されたものはプネウマを通して霊的プネウマに達し、そこに心像を「刻印」する。心像とは、魂に刻印された痕跡である。ストアー学派の宇宙論では、物質世界と魂とは、本質的に同じ物質=プネウマの形態だから、物質世界と魂は究極的には同質であり、両者は互いに反応/感応しあう。これにたいして、ネオプラトニズムのコンテクストでは、あらゆる物質=感覚の対象に先立ってイデアーが存在し、物質はむしろイデアーの似像として立ち現れるにすぎない。その意味では、心像、あるいは想像はそれ自体がイデアー的な魂から発するイデアー的なものの似像であるとも言える。しかし心像はまた、魂(とくに情念をつかさどる劣等な魂)の物質にたいするある種の欲望の似像でもありうる。劣等な魂、すなわちプネウマ的な「魂の衣」は、それ自体がそうした意味での想像の座である。ネオプラトニズムの範疇では、想像は気息に刻印され、さらにその(半物質的な)気息を通して物質そのものに刻印されることすらありうる。(中略)こうして、魂、あるいは気息が想い描く像=想像が、そのまま現実世界の「形」となって現われうる、という、一種の「万能の魔術理論=エーテル/情念的世界観」の基礎が、古代哲学・宗教の壮大な遺産の上に築き上げられるのである。》(99-100頁)

* アリストテレスは『心とは何か』第三巻第三章で、ファンタシア(桑子訳で「心的表象」)を「エネルゲイアにある感覚から生じる運動」であると定義し、「ところで、視覚はすぐれた意味で感覚であるから、「心的表象」をあらわすギリシア語の「ファンタシアー」という名も光(ファオス)からとられたのである」(156頁)と書いている。また、欲求能力を論じた同巻第十章で、感覚的なファンタシアとともに推理にもとづくファンタシア、さらには「複数の心的表象像から一つの像をつくりだす能力」について論じている。

《…一般に動物は、欲求能力をもつかぎりで、自分自身を動かすことのできるものである。しかし、欲求するものは心的表象なしにはありえない。すべての心的表象は、推理的な心的表象であるか、感覚的な心的表象である。後者のほうには、人間以外の他の動物もあずかっている。》(185頁)

▼神崎繁氏は『プラトンと反遠近法』の第三章「ミーメーシスからファンタシアーへ」で、紀元二・三世紀(オリゲネスやプロティノスの時代)における「ファンタシア」の力が、もはや感覚的な事物や神の作品の模倣ではなく神的活動そのものの模倣にまで、すなわち「卑小な人間中心的模倣ではなく、それによってすべてを見ることができるような、自然の象徴的把握が可能となる」(165頁)までに大きくなったことを論証している。[*]

 たとえばプロティノスの場合。──プラトン(『国家』382e)が批判的に導入し、アリストテレスが積極的な役割を与え、ストア派が認識論の根底に据えた「表象[phantasia]」は、それまで例外なく「感覚的経験の側から知性へと架橋する役割」を担っていたのだが、プロティノスにおいてはむしろ上位の認識能力である「知性」からもたらされるものと位置づけられた。そして、「イデアは神の思惟内容」という中期プラトン主義の考えを経て、「想像力として「ファンタシアー」が、認識能力として自立していく変容の過程」が続く(180頁)、と神崎氏は示唆しているのだが、ここでは、ライプニッツとの関係を示唆しつつ神崎氏が引用している「英知的な美について」(『エンネアデス』V-8-9)の一文を孫引きしておく。

《われわれはこの世界を、その各部分が現にあるがままの姿で留まりながら、相互に混交しないようにして、可能な限り「全体を同じところに」[アナクサゴラス断片1]一つのものとして凝縮させてみようではないか。すると、いずれの部分、例えば最外部の天球の表象(ファンタシアー)が前面に現われるならば、太陽やその他のすべての星座の表象もそれに伴って現われるし、大地、海、一切の生命あるものも、そこに見られるわけである。それは喩えて言えば、透明な一個の球があって、その内部の一切のものが(思考上だけでなく)現実に透視されるようなものである。こうして、魂のうちに一個の球状の光り輝くある表象があって、その内部には一切のものが含まれているとしよう。その際、一切のものが動いていようと、静止していようと、あるいは部分的に動き、部分的に静止していようと、かまわない。》

* 『プラトンと反遠近法』の「書評」。──序章「遠近法の神話」で粗描される系譜が実に面白い。私の関心に引き寄せて固有名を列記すると、まず、遠近法成立以前からの遠近法批判者にして古代エジプト風没遠近法的絵画の愛好者、そしてイデア論という無視点的世界描写を目指し、対話法というある意味で遠近法的な表現形式を採ったプラトン。

 次いで、モナド論において、無視点的というよりあらゆる視点というべき神の絶対的な視点とさまざまな生命体における個別的視点とを対比させ、「一方では、万人に共通な理性による客観的世界の理解という啓蒙主義的普遍主義を満足させながら、他方では、個々人やその独自の発達段階に応じた世界の見方の個別性を強調するロマン主義をも許容しうる」きわめて有用な認識論的比喩として遠近法を使用する嚆矢となったライプニッツ。

 そのような「バロック的(あるいはアレクサンドレイア的)共存」の不徹底さを破壊し、光の遠近法からいわば力の遠近法へと転調させた反遠近法主義者ニーチェ。そして、ニーチェの圧倒的な影響にもかかわらず、遠近法をニーチェ的な相対主義の陥穽から免れる歯止めとして導入しようとした、パノフスキーやゴンブリッジ、オルテガやベンヤミンなどの「ハプスブルク体制の崩壊を経験した世代」。さらに、マクダウェルやクリプキ、ギブソンの「自己と環境との共知覚や知覚と行為の相互作用といった一連の着想」への言及。

 以下、第一章「ミーメーシス」、第二章「測定術」へと、汲み尽くせぬ世界の広がりと射程の深さを湛えた華麗かつ豊穣な叙述が続く。そのすべてを読み解き得たとは到底思えないし、実をいうと第一章から第二章にかけてそこでいったい何が論じられているのかといった方向感覚を失っていたのだが、第三章「ミーメーシスからファンタシアーへ」と終章「隠喩としての遠近法」で再び(私の)視界が開けてきた。

 ヘレニズム期アレクサンドレイア(ロレンス・ダレルがいう「五つをこえる性」を内包する都市)のオリゲネスやプロティノスから、シェイクスピアを経由してライプニッツへと到る「世界劇場」の比喩をめぐる系譜、そしてプルースト(おそらくはベルクソンも)へと到る「時間の遠近法」をめぐる系譜、さらにはパスカルの『円錐曲線試論』への言及。

《われわれが懐疑論者やプロティノス、そしてまたプルーストに到るまでの系譜を辿ってきた理由は、…人間はどうして世界を常に何かを通して、見ようとするのかということである。実物を見ているのに、しかし、これも「何かを通して」だと考えるのは何故かということである。》(第三章3「もう一つの世界劇場論」)

 再読、三読、熟読玩味されるべき書物だ。著者愛用の「既読感(デジャ・リュ)」に似たものにつきまとわれながら、私は本書を読み終えた。いや、この世には読み終えることなどできない書物がある。窓を穿つべきモナドたち、多世界へと向かう接線群に満ちた豊穣な書物。──『談』(NO.64)に掲載されたインタビューで、著者は次のように述べている。(次作の刊行が待たれる。)

《われわれがものを見るときには、むしろアリストテレスの共通感覚のように、じつは触覚でも聴覚でも視覚でも共通して捉えられるもの、たとえば、ものの動きや形の変化などをベースにしているんじゃないでしょうか。(中略)ヨーロッパ思想の視覚優位の伝統をつくったのは、結果的にはプラトンであり、それで視覚中心主義だと断罪されるわけです。しかしプラトンから言わせれば、自分は視覚に囚われているものを解放しようとしたんだと言うでしょう。(中略)今の西洋思想に起こっている問題の元凶はプラトンだと、そう言ってしまえば簡単ですが、それは非常に複雑なプロセスでできたものです。それを私は遠近法を例に探ってみたわけです。次は少し視覚からは解放されたいので、感情論をやりたいと思っています。視覚優位ではなく、触覚とか体感とか、人間がもっているもっとベーシックな生命感覚をたどり直してみたい。》



【392】若干の落穂拾い

 アリストテレスのプシューケー論は面白い。退屈だけれど面白い。繰り返し読み込んでいくと、何かしらいまだ誰によっても考えられたことのない思考世界が開けてくるように思える。巨大なデュナミス。でもそれを言葉で表わすことができない。そうこうしているうちに、新鮮な驚きが拡散していってしまう。読んでいる時にだけエネルゲイア(プシューケーの活動としての)が出現し、読んでいないときにはキーネーシス(ソーマの運動原理としての)が稼動する。とりとめもない漂流が始まる。──以下、未編集で雑多な落穂をいくつか。

▼古東哲明氏は『現代思想としてのギリシア哲学』で、ストア派にとってピュシスとはデュナミス(古東訳で「根源力」)であって、人間の自然な傾向性としての「ホルメー」(善悪無記の森羅万象に善悪模様を投射する人間の願望・欲求システム)とは「自己の存在(esse)に固執しようとする人間各自の根源力[生存保持の努力(conatus essesdi)=自己愛構造]」にほかならないと述べている。

 この人間の生の基本構造(ホルメー構造)が、スピノザの『エチカ』やニーチェの「力への意志」、ショーペンハウアーの「盲目の意志」やハイデガーの「ゾルゲ」の先駆となったことは「現代哲学の常識」であるとも。[*]──私には「常識」が欠けていた。

* このことと関係があるのかどうかよく分からないが、西田幾多郎の『善の研究』第三篇第九章に次の文章が出てくる。

《さて善とは理想の実現、要求の満足であるとすれば、この要求といい理想というものは何から起こってくるので、善とはいかなる性質のものであるか。意志は意識の最深なる統一作用であってすなわち自己そのものの活動であるから、意志の原因となる本来の要求あるいは理想は要するに自己そのものの性質より起こるのである。すなわち自己の力であるといってもよいのである。われわれの意識は思惟、想像においても意志においてもまたいわゆる知覚、感情、衝動においてもみなその根柢には内面的統一なるものが働いているので、意識現象はすべてこの一なるものの発展完成である。しかしてこの全体を統一する最深なる統一力がわれわれのいわゆる自己であって、意志はもっともよくこの力を発展したものである。かく考えてみれば意志の発展完成は直ちに自己の発展完成となるので、善とは自己の発展完成 self-realization であるということができる。すなわちわれわれの精神が種々の能力を発展し円満なる発達を遂げるのが最上の善である(アリストテレースのいわゆる entelechie が善である。)竹は竹、松は松と各自その天賦を充分に発揮するように、人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。スピノーザも「徳とは自己固有の性質に従うて働くの謂にほかならず」といった。》

▼人間の存在について、あるいは人間存在の時間的構造について、別の考え方を提出すること。──『ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』(岩波現代文庫)の「歴史の天使」をめぐる解釈の中で示された今村氏のこの指摘が、ベンヤミンの仕事の本質を衝いている。

 本書で今村氏は「仮説的解釈」をまじえながらベンヤミンの「難解なテクスト」への接近を試みたという。それはたとえば小林秀雄の中断されたドストエフスキイ論やベルクソン論に見られる「祖述」(『文学のプログラム』での山城むつみ氏の言葉でいえば「原作を反復的に創作する」こと、もしくは「創作」=「批評」)とはまったく異なる態度なのだが、今村氏のベンヤミン読解には圧倒的な透明感がある。別の言葉でいえばそれはそう解するしかないのではないかと思わせる説得力があって、これはある意味でとても危険な書物だと思う。

 本書から汲みとることができる豊穣な含意から、ここでは一つの切り口を素描しておこう。──今村氏によると、ベンヤミン独自の「歴史的唯物論」の要点はプラトンのイデア論をライプニッツのモナドロジーとつなぐところにあるという。ここに出てくるモナドとは「集団的想像力の歴史的構成力」の産物たる「像」または「形象」あるいは「出来事」(レヴィ=ストロースが『野生の思考』で「純粋歴史」と呼んだもの)のことである。そしてベンヤミンの歴史哲学(「イデオ=モナドロジー」としての、いいかえると「神学的=唯物論」による概念的把握としての歴史哲学)とはメシア的役割を果たすもの、つまり「過去の救済の哲学」である。

《かりに歴史の完成すなわち終わりに達したとしよう。そのとき、人類が経験してきたすべてのこと、すべての事件・生活・経験は何ひとつ失われない。すべてが救済され、すべてが意味をもつ(あるいは「与えられる」)。ベンヤミンの言い回しでいうなら、すべてが「引用される」のである。(中略)この意味で、ベンヤミンはオリゲネスのアポカータスターシスという言葉を借用する。オリゲネス神学にお けるこの用語の意味は、森羅万象(特殊には万人)は善悪の差別なしに神の国に回帰することである。この文章[「歴史の概念について」第三テーゼ]を書いたとき、ベンヤミンがストア派の倫理学を想起したかどうか明らかでないが、ストアの倫理のなかにも、歴史の回帰がある。(以下、略)》(102-104頁)

《人間たちの一歩一歩の歩みごとに、生きるそのつどに、廃墟が産出される。(中略)この廃墟のなかで歴史の天使または歴史哲学者は、破壊された断片を「寄せ集める」(これをギリシア語におきかえると、レゲイン/ロゴスになることに注意すべきである)、あるいは「断片を組み立てる」(構成であり構築であるが、これは概念的思考である)などのふるまいをする。そうすることで、過去の「ありえたかもしれない可能な生」、「可能態にある生」を現実的なものに変えるのである。ありえたかもしれない可能性とは、それがまだ生命を失っていないことを意味するのであって、実現を期待する可能態である。これを現在のなかへと取り戻し、呼び戻し、甦らせるのが、歴史の天使の仕事である(論理の仕組みからいえば、ここではプラトンのイデア論ではなくて、アリストテレスの可能態/現実態に近い)。》(123-124頁)

 こうして、今村氏自身が「かつていちども思想の歴史のなかに登場したことはない…ベンヤミンのすぐれた思想的遺産」のアポカータスターシス、あるいはその概念的把握を試みているのである。(「救済」=「批評」?)[*]

* 古東哲明氏は『現代思想としてのギリシア思想』で、ニーチェの「永劫回帰思想は、万物世界は同じように繰り返すという「アポカタスタシス思想」の焼直しだ」(195頁)と書いている。──あるいは「歴史の天使の仕事」と「夢の仕事」(フロイト)、「神話の仕事」(レヴィ=ストロース)との対比。

《…レヴィ=ストロースは、フロイトが『夢判断』のなかで、夢の顕在的内容と潜在的な夢思想とを区別しながらも、夢の本質は、その潜在的内容にあるのではなく、変形を行う夢の作業にあると述べていたように、無意識の本質を変換の構造的規則に求めている。その無意識の変換の規則は、神話や夢の作業といったブリコラージュの作業がブリコラージュによって明らかになるのと同様、自己を空虚な無意識とすることによって可能となるのである。》(小田亮『レヴィ=ストロース入門』234頁)

▼『心とは何か』に、ヒトのもつ触覚はもっとも精確なものであり、人類に賢愚のあることはこの器官によるという叙述(118頁)が出てくる。また、多木浩二著『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(岩波現代文庫)の「触覚の人ベンヤミン」の章に、次の文章が出てくる。

《触覚的知覚は、あえていうなら現象学的な経験の根源をなしている。現象学も含め、これまでの思想のほとんどが、視覚の比喩で成り立っていたことを思うと、触覚を根源に据えることは、思考そのものの大幅な組み替えである。しかも触覚は再現できないのである。》(124-5頁)

 何が言いたいのかというと、田口ランディ氏の『アンテナ』(幻冬舎)は触覚の物語、つまり皮膚と肉の物語であるということ。また、『アンテナ』は知と血の物語でもあるという、ただそれだけのこと。[*]

* 「血」については、『心とは何か』の訳者、桑子敏雄氏が『「私」の考古学』に寄せた「同一性の宗教空間──宇宙へと分散する「わたし」」のなかで、次のように書いているのが参考になる。

《朱子学では、世界全体は「気」という物質的な要素によって構成されると考える。「物質的」といったが、生命をまったくもたない物質を意味しているわけではなく、気の集散が生命を生み出すのであり、人間の精神のはたらきもまた気の作用にほかならない。》(156-7頁)

《なぜ死んだものに対して儀礼を行うのかという疑問に対しては、朱熹はそこに「感格の理」ないし「感通の理」があるという。死んで気が発散してしまうといっても、完全に散じ尽くしてしまうわけではない。死者の子孫は、死者に対して感応する。つまり死者の思い出を想起し、その思い出を語る。死者がそのような力をもっているかぎり、死者の気は散じ尽きてしまっているわけではない、と朱熹は理解するのである。(略)生前の気のはたらきがわたしたちの記憶のなかに残っているということは、その気のはたらきが完全に消滅していないということを意味している。》(162頁)

▼ジル・ドゥルーズが「ルクレティウスと模像」で展開した、アトムの結合体に由来する「流出」「摸像(シュミラークル)」「幻像(ファンタスム)」の三種の二次的な結合体をめぐる議論が、接木する先がないまま宙に浮いている。