魂に名を刻むこと・序文[Ver.1]




【386】前口上と構成

 私はここ数年、無意識や仮面、心脳問題や魂・霊性のこと、そして(東洋的とか日本的などと呼称される曖昧なものの実質との比較を念頭におきつつ)古代から中世、近世にかけての西欧神学思想に関心を寄せ、それぞれについて断続的かつ断片的な素材蒐集と非体系的な考察の作業を進めてきました。いずれもまだ未完ですし、今後の見通しもたってはいないのですが、そうした手仕事に従事しているうち、もしかするとこれら五つのテーマはどこか深いところで相互に密接な関係を切り結んでいるのではないかと、朧気ながらそう思うようになってきました。いったん言葉のかたちをとって心のなかに浮かぶと、どうしてこれまでそのことに気づかなかったのかと自分の迂闊さを詰りたくなるほど、この「アイデア」は自明かつ確固たるものに思えてきて、気のせいかもしれないのですが、様々な接線やイマジナリーな関係の結び目のようなものが一気に見えてくるように思えてきたのです。

 それらの手がかりを一つ一つ文献にあたって確かめたり、自分の頭を使って考え抜くより先に、初学者流の仮説とイメージがどんどん自己増殖し、どうにも収まりがつかないほどの内圧が高まってしまったので、とにかく一度、生煮えのままでいいから「外的表象」のかたちに、つまり言語的表現のうちに移し変えておくことにしました。そうでもしないと、このアイデアは自らのいたずらな重みゆえに萎み、矮小化され、ひとときの夢のように雲散霧消してしまうに違いないからです。もっとも、そうなったとしても結局のところそれはその程度のものにすぎなかったと判明するわけですし、精神衛生上もむしろ好ましいことだと思うので、別段、残念がるほどのことではないのですが、それでもやはりガス抜き程度の効用はあろうかと思うのです。

 情報量ゼロの前口上はこれくらいにして、それでは、私が夢想している架空の論考「魂に名を刻むこと」の序文、その下書き(バージョン1)の作成へ向けたアフォリズム風覚書の作成に取りかかることとします。主題は、坂口ふみ氏が『「私」の考古学』(宗教への問い3,岩波書店)に寄せた文章のタイトルを一部お借りして、「魂の祖型の探求と帰還」とでもしておきましょう。──スタニスワフ・レムの作品に『虚数』(架空の書物の序文集)があります。その向こうをはろうというわけではないのですが、以下の手控えはいってみれば「複素数」、半分本気で半分冗談といった煮え切らない逃げ道を用意した未編集の書きつけでしかありません。

 まずあらかじめ、未完・未着手の論考全体の構成を明らかにしておきます。明らかにするといっても、題名、章名などはまだ仮称で組み立ても急場しのぎにでっちあげたものでしかありませんし、これから先どうなるか知れたものではないので、あくまで現時点での道案内として。――大雑把な見取り図を示しておくと、第1章でプラトンからデカルトへという西欧形而上学の「歴史」(ステレオタイプ)をなぞり、第2章で(フーコーの『言葉と物』とドゥルーズの読解にほぼ全面的に準拠しながら)十七世紀以来の表象をめぐる思索を、第三章で二○世紀前半の生物学的な思索を若干の固有名に即してたどり、最終章では、声(第1章)と顔(第2章)と襞(第3章)をデリダとレヴィナスとドゥルーズに、そして無意識の偽名性、仮面の仮名性、魂の無名性にそれぞれ重ね合わせながら概観して、原始的=胎児的とでもいうべき未知のフィールドに魂の祖型(典型でも類型でも原型でもなく)を構想する、といった訳のわからないものになりそうです。
 

 序 文 魂の無名性をめぐって
 第1章 西欧古代・中世神学思想と心脳問題
  1 ルクレチウスの夢―光の人ゾロアスターとプラトン式受肉
  2 東方の棘―プロティノスの系譜と三一論
  3 普遍は音か―アリストテレスの埋葬と普遍論争
 第2章 スピノザの屈折率・ニーチェの無垢
  4 スピノザの屈折率
  5 世界の亀裂―ヒューム・カント・サド
  6 ニーチェの無垢―多声の人ツァラトゥストラ
 第3章 死の生物学─存在と記憶・物質と時間
  7 墓碑銘―ベルクソン・小林秀雄・ウィトゲンシュタイン
  8 西田幾多郎とデカンショ(デカルト・カント・ショーペンハウアー)
  9 フッサールのデカルト・ハイデガーのニーチェ
 第4章 無意識・仮面・魂―あるいは世界の複数性と臨床歴史学
  10 声と顔と襞―デリダ・レヴィナス・ドゥルーズ
  11 名=徴を超えて─偽名・仮名・無名
  12 原始的―魂に墓碑銘を刻むこと



【387】若干の断片(未編集)

 以下の断片群は、「序文、その下書き(バージョン1)の作成へ向けたアフォリズム風覚書」の挫折がもたらした無残な残骸以外のなにものでもありません。――ここに未練たらしく記録しておくのは、それがまだ私の中で完全に死に切ってはいないからで、なにかのきっかけがあれば再び燃え上がる埋火として、灰色の脳細胞ならぬ第二の脳のネットワークのうちに埋め込んでおこうとの魂胆。
 

●最初に断っておくべきこと。──以下の論考は哲学史の叙述やその組み換え、ましてや系譜学などといった試みではない。そこに出てくるいくつかの固有名、たとえばプラトンやスピノザやドゥルーズ、あるいはアリストテレス、パスカル、ライプニッツ、ベンヤミン等々も、それぞれ歴史上の特定の人物の存在やその思考あるいは感覚、性行や病跡などとはおそらくほとんど関係がない。それらはたまたま私が読み得た任意の書物(あるいはこれから読むことになるだろう書物たち)の断片的記憶から抽出され、ブリコラージュ的かつ恣意的に編集された諸概念──より精確に述べるならば、ほかでもない私自身の思考や感覚、性行や病跡など(魂の細片的質料とでもいうべきか)のある断面を指し示す言葉でしかないし、それらの固有名を使って叙述される以下の「物語」は私の魂の遍歴を──いや、魂とは常に複数形で語りうる単独者にほかならないのだから、端的に魂の遍歴を言語でもって記録した、つまり構文論的構造にしたがって綴った手記でしかないものだ。

●私は哲学者の生涯について書かれた文章を好んで読んできた。その病歴や家系、友人との交友関係や恋愛体験、先人の思索や時代との即物的なかかわり等々──それらの片々たる事実が、当の哲学者が言葉とともに紡ぎだした世界(内面世界ではない)との因果的なつながりをもっているとは思わないし、そういった生涯と思索の関係にとりたてて関心があったわけでもない。強いて言えば、哲学者たちの脳の来歴、いいかえれば感覚と抽象で糾われた哲学者たちの言語的表現そのものが、それらの伝記的事実群のうちにパラレリズム的に響き合う様(協和音であれ不協和音であれ)を見てとることでもって、なにかしら質料的な手触りのようなものを感じたいと希ってきたのだと思う。――脳の来歴。普遍的なものと個的なものの交響。あるいは魂の「カオス的遍歴 chaotic itineracy」(津田一郎)。

●脳は身体の、つまり生きている自然的物体(ゾーエー)の器官(オルガン)なのであって、だから脳は外界の自然とつながっている。(つながること、あるいは循環すること、すなわち魔術的思考の生理学的祖型。たとえば、呼吸。温度、湿度、気象、大気圧、薬物、等々による脳の変性。)それだけではなく、他者との人格的関係や非人格的な社会的関係をぬきにして脳は語れない。そして歴史とのかかわり。――脳と身体と環境からなる大きなシステムが「心」である(信原幸弘)とするならば、「歴史」や「世界」を含めたより大きなシステムが「魂」である。――魂の無名性。魂は無名数あるいは無記名証券のようなものなのだろうか。魂に名を刻むこと、ニーチェのハンマーで?

●魂の起源。──原始数覚から原始美術へ。踊る身体、物語の記憶媒体としての身体(色彩語、太鼓語)からホメロスの語りへ。そしてプラトンへ、ストア派やネオプラトニズムへ。そしてキリストの問題(受肉、三位一体、普遍論争)から「心脳問題」へ。

●二つの裂け目、プラトンとスピノザ。第三の裂け目、ベンヤミン?──原始−(ゾロアスター)−古代帝国−(プラトン)−ギリシャ−(スピノザ)−近代−(ベンヤミン)−未来。聴覚−視覚−触覚−魂覚。――味覚と嗅覚。レクター博士はクラリスに「この二つは人間にとって最も古く、精神の中核に最も近い感覚だ」と語っている。

●すべてはプラトンから始まった。いや、もう少し遡って、すべてはヘラクレイトスとパルメニデスから始まった。(ほんとうは有性生殖の起源、いや、真核細胞や原核細胞の誕生にまで遡行すべきなのかもしれない。)

●植民地の神学、帝国=機械の「起動力」(アリストテレス)としての神。奴隷の哲学、心身論。職人・技術者・胎児の数学?

●二つのOS。──法律学、魂をめぐる公共的な議論を編集する方法論(臨床歴史学もしくは実験神学)。経済学、魂の遍歴(循環、反復、系譜)を物語り(認識し)システム(イマジナリーなプロセス=実在)を叙述する(創造する)技法。

●二つの情報系(養老孟司)、遺伝子系と神経系。(それでは免疫系は?)──スピノザの『エチカ』第一部が神経系で、第二部から第五部までが遺伝子系。感情とは重みづけである(養老)。進化とは計算であり、微分方程式を解くことである(小泉義之)。スピノザの屈折率、ゼロと無限大。(虚数の屈折率?)

●三位一体、無意識/仮面/魂、声/顔/襞。第四項としての名。──声/顔/襞/名、無意識/仮面/脳/魂、神経哲学/情報神学/実験文学(臨床歴史学)/(普遍)経済学、聴覚/視覚/触覚/魂覚、外部と内部/表層と深層/部分と全体(局所と大域)/一と多(単独と複数、個別と普遍)。

●臨床歴史学について。──知覚系と運動系、認識論と実践論。その中間にある脳(実在感を産出する器官、無意識の製造機関、象工場)と存在論。感性と知性と構想力。物語的実在感。中世普遍論争における「見えるもの」と「見えないもの」(山内志朗)あるいは「確定されたもの」と「確定されないもの」(パース)。

●脳の学、哲学(生命、神経)と神学(情報)と数学(言語、文学、歴史)。これら三つの分野に横断的にかかわる経済学(システムと循環の学)。

●スピノザから100年、ゲーテ。スピノザから200年、マルクス・ニーチェ・フロイト・アインシュタイン。そして、スピノザから300年。

●魂の時空論。スピノザからフロイト、アインシュタインへ。(ロシアコスミズムの場所?)

●スピノザの「外部」はニーチェの「生存条件」に、スピノザの「内部」はカントの「純粋理性」に。

●デカルトのコギトがカントを介して統覚と物自体に「屈折」する。――統覚はショーペンハウアーの表象(イデアとメディア)に、物自体はショーペンハウアーの意志へ、そしてニーチェとアインシュタインへ。

●スピノザのコナトゥス(自存力)は免疫を思わせる。ES細胞としての「能産的自然」。スピノザとアレルギー(レヴィナスへ)。

●スピノザの感情論と本草学が結びつくこと。――薬理学と本草学の違い。光学と薬理学の関係。スピノザが磨いたレンズは物理学的メディアではなく、生物学的メディア(たとえばES細胞)だったのではないか。

●言語的なものがもつ生命に対する嫌悪。――心身二元論とは実は生物学と物理学の争いだったのかもしれない。ここでいう「物理」とは言語構築物(ロゴス)のこと。「物理学の基本にあるものの見方は運動に対する不変性と法則の不変性にある…。こういった物理学的世界観は人の発達過程の非常に早い時期に現れているのである。それに対して、生物学は多様性と歴史性がその基本的な見方であるように思える。」(津田一郎)

●スピノザの「属性」を感覚のモダリティ(様相)と関連づけて考えること。あるいはスピノザの「共通概念」を共感覚(共通感覚ではない)と関連づけて考えること。──アトリビュートとは作者の「名」を決定すること。

●心身二元論よりも原初的(原始的)なのは、感覚五元論だったのかもしれない。ここでなぜ五なのかが問われなければならない。あるいはなぜ『エチカ』が五部構成なのか。──科学者は遡言し、人文学者は予言する。

●スピノザの「思惟」と「延長」、メディアの二重性。――属性が実体を「表現」する(メディア)。支持体としての延長(物、身体)、情報としての思惟(観念)。

●メディア論的考察。──魂のメディア。メディアとしての魂=身体。物語る身体。プラトンと文字、聴覚的世界。スピノザと像(フェルメールとカメラ・オブスクラ)、視覚的世界。ベンヤミンと映画、触覚的世界。

●魂=伝導体。音と光と皮膚。「不可共約的なもの」の媒介。発生と由来、転身、再生、輪廻。──ゴダールは「映画だけが歴史を語れるのだとさえ言うわけです。…映画だけが、固有の技法としてのモンタージュ――ただし既存の用法をはるかに超えた高次元のモンタージュによって、同時進行する複数の系列の遭遇と分岐としての歴史を語ることができるのだ、というわけです。」(浅田彰)

●原始的、未来的。──胎児の抽象感覚。胎児が見る青。『初めにイメージありき』。

●パスカルの場所。ライプニッツの位置。ベンヤミンの射程。