キルケゴールの伝導体・草稿



【376】キルケゴールの伝導体(1)

 伝導という語彙に魅了されている。演繹[deduction]や帰納[induction]や洞察[abduction]や生産[production]ではなくまったく新しい、いや、原理的には最も古いものかもしれない推論のもうひとつの導管(あるいは四つの推論のすべてを包摂するテンプレート?)を指し示していると思われる伝導[conduction]。

 ここで推論というとき、私はそれを創造や表現、伝達や情報処理にかかわる諸々の演算の合成とほぼ同義で使っているのだが、報道・伝道・交通・感染、布教・教宣・広告ではなく伝導という語彙を用いることでもって、たとえばフロイトが、知覚ニューロン系が量を質(意識的に知覚される差異の感覚)に変換するプロセスについて論じた『科学的心理学草稿』のある箇所で「ニューロンの運動の〈周期〉は障害に出会うことなしに、伝導の現象と同じような仕方で至るところに伝播していく」(小此木啓吾訳)と記述した事柄への接続が果たせるのではないかと思うし、さらには夢や言語や無意識、脳や魂や文学(作品)等々を伝導体ととらえることで――推論にかかわる諸々の演算の規則が定義された体[field]、あるいはそれらが遂行され行為[conduct]が産出(算出)される階層構造(新宮一成氏に倣って累層構造というべきかもしれない)をもったマトリクスと見ることで――「伝導の現象」といった表現に伴う物質的イメージを――私の語感に即していえばむしろ金属(結合)的イメージ、あるいは from soup to nuts という句に出てくる二つの名詞の重ね合わせで表現される物質の相(可能態と現実態が重生起[supervenience]する?)を――切断することなく保持できるように思うのだ。

 一言注釈を加えておくと、というよりあらかじめ予防線を張っておくならば、私がその形状・形態や構造、作用・働きや意味の解明を夢想している伝導(体)はたかだか高層大気の圏構造(イオン解離=電離圏すなわち電気伝導層やプラズマ圏など)や地層構造からの連想にすぎない。あるいはいずれも極く初等的な物性論、数学、脳科学、経済学、精神医学などからの諸概念の表面的な借り物かそれらの恣意的なアナロジーの重ね着でしかない。

 伝導体とはさしあたり言語(的)構造物類似の何ものかであり、オリジナル(一回性)とコピー(複数性)、無限の論理と有限の論理、大域の法則と局所の法則、連続性と離散性、潜在性と顕在性等々の相互引用(パラレリズム的な?)にかかわるそれ自体としては空虚な触媒的メディア──私の語感に即していえば媒質的メディア――として作用しつつ、リアリティ(すなわち時空構造そのもの?)の製造や貯蔵、変換や消失=消費にかかわる演算の集合体として──あるいはヴォイスやテンスやアスペクトやモダリティといった文法学的諸概念の錯綜体として、もしくはアレクサンドリアからコンスタンティノーブルへと継承されていった文献学(魂の文献学?)的精神や写本と祈りの修道院的精神を保存し伝達する機構、というより図書館や文書庫といった物質的な場所そのものとして──自らを形成する働きであるなどと定義めいた規定を与えておきたいと思うのだけれど、それにしてもそれは概念というには曖昧にすぎる。たとえば伝導体と生命体との異同といった根本的な事柄についてさえ私には結論が出せない。ただ生物個体あるいは自己増殖・複製体もしくは自己体(そういう言葉があるとして)は伝導体とはまったく異なる種類の実在で、だから身体は半ば伝導体であるが半ばそうではないと考えているのだが、これもまたずいぶん要領を得ない朦朧とした物言いだ。

 小泉義之氏は『ドゥルーズの哲学』で『差異と反復』からの引用──《現実化する、分化する、積分する、解く、これらの言葉は同義である。潜在的なものは自然に現実化し分化する。分化は、局所的積分、局所的解であり、これは別の解と合わせて、解の集合ないしは大域的積分の中に統合される。》──を踏まえて、生物や自然物の発生過程が解けない問題(微分方程式)を解く過程であることをドゥルーズの哲学は解き明かしたと指摘している。このドゥルーズの「生命論」を時間や記号の発生、生命や意識の起源に関する郡司ペギオ幸夫氏の「観測志向型理論」へと接続し、加えてこれらに──よくは知らない、というよりほとんど何も知らない──コホモロジーやらゼータ統一といった現代数学の話題をからめていくならば、伝導体のメカニズムはことごとく暴かれるのではないか(その概念としての無効性も含めて?)と私は推測しているのだが、これもまたアナロジーならぬ皮相なホモロジーがいわせる妄言にすぎない。


【377】キルケゴールの伝導体(2)

 ところで私が伝導(体)について思いをめぐらせるようになったのは富岡幸一郎氏のカール・バルト論『使徒的人間』を読んでいて、バルトが、そしてキルケゴールが叙述する使徒の行い(報道)をベンヤミンの「翻訳者の使命」と関連づけて考えることができはしまいかとふと気づいてからのことだ。

 富岡氏によれば使徒とは「空洞を露呈する人間」(バルト『ローマ書』)であり、新約聖書ではその奉仕の行い――天才のように自分の内にあるオリジナルな思想や感情を語るのではなくて、《イエスの中で啓示された神の意志についての知識を、それら全てを最初に受け止めた人間の手から、忠実に、変えたり、減少させたりすることなく、次の人間の手へと、後代の者たちの手へと、順を追って伝えてゆくこと》――の特徴を示す言葉として「引き渡し」という用語を使っている。

 それでは翻訳者の使命は何かというと、ベンヤミンによればそれは多くの言語をひとつの真の言語すなわち純粋言語に積分すること――《愛をこめて、細部に至るまで原作の言いかたを自身の言語の言いかたのなかに形成してゆき、その結果として両者が、ひとつの容器の二つの破片、ひとつのより大きい言語の二つの破片と見られるようにする》(野村修訳)こと――にほかならないのだけれど、翻訳はひとつの形式であり媒介以上のものであるとか、翻訳の領域においても「初めに言葉ありき」が妥当するのであって意味の再現をめざすのではない逐語性こそが翻訳の根源的な要素であるといった規定はどことなく使徒の行い(引き渡し)を思わせるし、純粋言語はもはや何ものをも意味せず表現せず、そのなかにあってあらゆる伝達や意味や志向はついにはそれらの消失が定められている層へ到達するのだといったベンヤミンの語り口は──欠けた破片から復元される壷がまさに空洞を蔵していることとあわせて──使徒的人間の形態を連想させる。

 こうした使徒の行いと翻訳者の使命が等号で結ばれるフィールドにおいて、媒介ならざる媒介として超越と内在の相互繰り込みの作用を営むもののことを私は伝導体(あたかも虚数と無限大の屈折率をあわせもち、光を全反射すると同時に閉じ込めてしまう固体プラズマのような?)と名づけ、キルケゴールの思索に、そして文学の営みに一瞥をあたえながらその実質を粗描してみたいと考えている。

 ここで使徒と翻訳者をつなぐ補助線を、つまり伝導体の作用や意味や形状・形態を考えるヒント(導管)になると思われるいくつかの素材をあらかじめ抽出しておくならば、およそ次の三点になるだろう。

 その一、追思考と遡及効。──富岡氏は神学の思索とは後から[Nach]考えること[denken]であり、使徒的人間の思考は「追思考」のかたちをとると書いている。《ところで、二十世紀において、この神学的な追思考の概念を、哲学のなかへと導入しようとした哲学者がいた。マルティン・ハイデガーである。……ハイデガーの追思考が追いかけるものは何か。いうまでもなく、それは彼の語る「存在」そのものである。……だが、この「存在」をめぐる思考は、神学における追思考とは似て非なるものではないか。……なぜなら、神学が対象とし、その思考が「追考する」ものは、決して隠され沈黙している「存在」ではない。それは、イエス・キリストにおいて地上の出来事として啓示された(啓示の語源は、隠されてあるものの覆いを取るという意味である)、人間にたいする神の具体的な語りかけであるからだ。》

 今村仁司氏は『ベンヤミンの〈問い〉』で翻訳的変換とは伝達不可能な神の言葉(純粋言語)を伝達できる(表現される)ようにするチャネルであり、無数の翻訳と異文を通して原テクストは「事後的に」表現されるのであって、こうした「バックワード効果」(遡及効果)をもつ表現論こそが原テクスト(根源)とその翻訳(表現)を捉えるものだと書いている。《ここでいう遡及とは、たんに過去や細部に下りていくことではない。そうではなくて、すでにある無数の現象を出発点にして、それらの現象を細部に分解しつつ、諸現象の相互変換を辿りつつ、それら全体がひとつの表出として存在するようにせしめる根源へと遡及することである。》

 その二、原歴史と根源。――バルトの「原歴史[Urgeschichte]」をめぐって富岡氏は次のように書いている。《聖書は…空虚な「神性」については何も知らない。聖書が語るのはナザレのイエスとして受肉した神であり、イエス・キリスト自身であるからだ。自ら被造物となった神、人間に身を向けている神である。この神と人間の間で生じた出来事、この神とイスラエルの民との間で起こった歴史──この特別なものの故に、この「原歴史」の故に、あの一般的なるもの、すなわち世界と人間とがある。この特別なもののなかで、一般的なものは、その意味をもつ。聖書はこの特別なものへとわれわれの視線を集中させる。決して一般的に「神」について語ったり、「人類」一般について語ったりはしない。特殊から一般へ、これが聖書的思考の本質である。》

 ベンヤミンは根源という歴史的カテゴリーを論じた「認識批判的序説」のある箇所で次のように述べている。《根源は、生成の流れのなかに渦巻として存在し、生まれ出るものの素材を自身の律動のなかへ捲きこんでいる。……根源的なものの律動を見てとるには、二重の洞察によらねばならぬ。その律動は、一方では復活、再生として、他方ではまさにそのなかにおける未完成のもの、未完結のものとして、認識されることをもとめている。……根源は、事実と見えるものの前史と後史にかかわっている。哲学的考察は、根源に内在するこの弁証法の指示を、読みとってなされねばならぬ。そうすれば、すべての本質的なもののなかで一回性と反復性とが、互いに互いの前提となっていることが分かってくる。》(野村修訳)

 その三、物語と神話、情報と物語。──バルトの「非史実的な記述=歴史物語[Sage]」をめぐる富岡氏の記述。《有史以前の歴史の領域で起こっていることを記録するのは、ただ創造者たる神の霊感を受けた人間である。この聖書の著者たちは、決して天使あるいは神々として語っているのではなく、人間として、人間的な被制約性のなかで語る。天から落ちてきた真理そのものの発言ではなく、むしろ、真理の啓示についての人間的な証言である。したがって、それは語る個人の表現能力、想像力による物語の形式をとる。歴史物語は史実に先立つ場面にこそ、人間存在の最も根源的な出来事があることを指し示す。重要なのは、しかし、それが決して「神話」ではないし、神話的にも語られてはいないということである。》

  「物語作者」でのベンヤミンの叙述。《情報はこの瞬間にのみ生きているのであり、みずからのすべてを完全にこの瞬間に引き渡し、時を失うことなくこの瞬間にみずからを説明し尽くさなければならない。物語のほうはこれとはまったく異なる。物語は、みずからを出し尽くしてしまうということがない。物語は自分の力を集めて蓄えており、長い時間を経た後にもなお展開していく能力があるのだ。……それは、何千年ものあいだピラミッドのなかの小部屋に密封されていて、今日に至るまでその発芽力を保持していた穀物の種に似ている。》(三宅晶子訳)


【378】キルケゴールの伝導体(3)

 キルケゴールの『反復』には「実験的心理学への試み」という副題が付されていて、私は「実験的心理学」とは実験文学であり「実験」とは伝導であり、したがって実験文学とは伝導体であり、そしてキルケゴールがいう「反復=前方へ向かう追憶」とは──オリジナルな一回性をもった単独的もしくは例外的な出来事(あるいは事実としての超越=起源の出来事?)の翻訳的変換(あるいはコピーへの受肉による複数のオリジナルの事後的な創造、それも未来的なものへと向かう出来事の物語的再生?)とは──私がいう伝導体の中枢的な作用にほかならないと考えている。

 桝田啓三郎氏は「実験的心理学」の重点は実験にありそれは伝達形式のこと、それもソクラテスの助産術に準えられたキルケゴール独特の「間接的伝達」のひとつだとして、これを初期の著書に見られる「偽名」の問題と関連づけている。要するに「キルケゴール−読者」の直接的な二項関係ではなく、『反復』の場合でいえば「キルケゴール−コンスタンティン・コンスタンティウス−読者」という文字通り反復する名の仮の作者を中間項(媒介)とする間接的な三項関係──作品の構成に即してより精確に記しておくならば「キルケゴール−(コンスタンティン・コンスタンティウス−作中人物である青年−親愛なる読者)−読者」という複合化された間接的関係──を通じてこそ真実(オリジナルな著者の思想?)は伝達される(読者にコピーもしくは受肉される?)ということなのだろうと私は理解しているのだが、このことはキルケゴール自身の言葉──《偽名の著者たちはそれぞれ人間としての然るべき生き方の原典を、できるだけ内面的に、単独で、読みとろうとしている。》(桝田訳『哲学的断片の後書』付録)──と照らし合わせて考えるならば、たとえば無限集合としてのキルケゴールの部分集合をなす、あるいはキルケゴールの解離した人格のひとつとしてのコンスタンティン・コンスタンティウスといったとらえ方ができるのではないかと思うし、そうだとすれば桝田氏のどことなく法華七喩や方便を思わせる偽名による間接的伝達説は──先行する真実(あるいは起源としての作者の思想?)の被媒介的伝達といった観念を素通りさえすれば──虚構世界=可能世界の造形によるリアリティ(内面的・単独的真実?)の創造という伝達=推論のもうひとつの導管、すなわち実験文学の形態をさし示しているといえるのかもしれない。

 ところで間接的伝達についてはこれとは異なる解釈がある。小川圭治氏の『主体と超越』によると、カール・バルトは直接的な神認識の可能性を否定し人間が「無限の質的差異」によって隔てられた神について語りその語りかけを聞くことができるのはただ間接的伝達によってのみであるとしたのだが、それはキルケゴール後期の『キリスト教の修練』からの引用──《精神は、直接的無媒介性の否定である。キリストが真の神であるならば、かれは不可知の中にいなければならない。直接的可知性は、まさに偶像のもつ特徴である。》──に基づくものであって『哲学的断片の後書』第一部に用いられた人間と人間との間の間接的伝達、すなわちヤスパースが後に「実存伝達」の概念として用いた側面が引用されているのではない。バルトの『ローマ書』第二版における間接的伝達はあくまで神と人間との間の伝達にのみ用いられているのである。《それは、『キリスト教の修練』の用語法には忠実であるが、キルケゴールの全概念世界から見れば、一種の偏向ということになるであろう。……たとえば、「神が真実によってあらわすものは、〈信仰〉に対してあらわされる。すなわち、直接的伝達を断念した人たちに伝達される」。さらに終末論的希望も、間接的伝達によって伝えられる。「〈目に見える希望は希望ではない〉。神の直接的伝達は、伝達ではない」。したがって「新しい日を見ることは間接的であり、イエスにおける啓示はあくまでも逆説的な事実でありつづけるのである」。さらに「このような神への間接的な、断絶した関係の中に神を愛する者の正当性と権威とがあるのである」。このようにして、キルケゴールの概念は、超越的な神認識の一側面を示すのに用いられているのである。》

 付言すると、ノルベルト・ボルツは『グーテンベルク銀河系の終焉』で、キルケゴールは自らを「新しいメディア世界のオデュッセウス」に見立てたと指摘している。《キルケゴールにとって、内面と内面との間には直接的なコミュニケーションは存在しない。だからこそコミュニケーションは芸術作品になる。コミュニケーション不可能なものを伝達するという逆説が解消されるのである。……ペンネームを用い匿名性に身を隠す反省の芸術家としてのキルケゴールは、公共性=知名度というゲームのなかでは「不在者」としてのみ存在する。人格としての存在ではなく、「ゼロ・無の人間」として。こうしてのみキルケゴールは二重の反省のバランスをとる力の支点に到達する。二重の反省は日常のコミュニケーションがもたらす眩惑連関を断ち切ってくれるのだ。彼の唱える「間接的伝達」とは、秘密が公のものとなりうる形式、コミュニケーション不可能なことがらが表現されうる形式なのである。新しいメディア世界のオデュッセウスは「スパイ」のような存在なのである。/スパイと敵対するのはジャーナリストだ。匿名性の名手、間接的伝達の職人キルケゴールにとって、マス・コミュニケーションはその存在自体が悪魔だった。》(識名章喜ほか訳)──ボルツの叙述は以下「近代を生きた二番手の反時代的人間ニーチェ」へと及んでいくのだが、ところでここで語られている事態は間接的伝達の第一の範疇に属するものなのだろうか、それとも第三の類型(神なき時代の神話=スキャンダルに抗する?)の提示だったのだろうか。

 さらに付言しておくならば、ベルクソンは『思想と動くもの』に収められた「クロード・ベルナールの哲学」で『実験医学序論』は十九世紀の『方法叙説』であると評していて、ベルナールの変わらぬ考えは実験的研究における事実と観念の協力関係を示すことであり、そのもっとも明白な結果のひとつは観察と普遍化(法則化)とのあいだには違いがないとわれわれに教えたことだと述べている。《われわれはとかく実験は生のままの事実をもたらすことを目的とするものと考え、悟性はそれらの事実を捉え、たがいに比較していってだんだん高い法則にのぼるのだとしています。そう見れば、普遍化は一つの操作であり、観察は別の操作になります。しかし、綜合の仕事をこう考えるよりも間違っていることはなく、科学にとっても哲学にとってもこれより危険なことはありません。……普遍化とは、なんだかわからない凝集の仕事のために、前に集めておいた、前に記載しておいた事実を利用することではありません。綜合というのはまったく別のことです。綜合は特殊な操作というよりもある思考力であり、意味がありそうだと推測してそこに無際限に多い事実の説明を見いだすと思われる一つの事実の内部に進み入る能力であります。》(河野与一訳)──ベルクソンは人間と人間との間でも神と人間との間でもない「精神と自然とのあいだの対話」における間接的伝達のことをいっているのだろうか。

 ちなみにゾラの「実験小説論」は全編がクロード・ベルナールへの賛歌といっていいものなのだけれど、その最後に至ってようやく「芸術と文学では個性がすべてを支配している。そこでは精神の自発的創造が問題であり、自然現象の確認と共通する何物もない。自然現象ではわれわれの精神は何物も創造してはならないのである」というベルナールの言葉への批判が述べられている。《形式、文体を別にすれば、実験小説家はもはや特殊な一人の科学者にほかならず、他の科学者たちの道具、すなわち観察と分析とを使用する。われわれの領域はいっそう広大であるという点を除けば、生理学者のそれと同じである。われわれは生理学者とおなじように人間に働きかける。なぜなら、クロード・ベルナールみずからも認めているように、脳髄の現象も他の諸現象とおなじように決定されうることがあらゆる点から信じられるからだ。……文学は、ひとびとが何といおうと、その全部が作者にあるのではなく、文学が描く自然にもまた文学が研究する人間にもある。そこでもしも科学者が自然の概念を変えるか、または生命の真の機構を見出したならば、彼らはわれわれを追従させ、新しい仮説のなかでその役割を演ずるために彼らの先駆さえさせるのである。今や形而上学的な人間は死滅した。われわれの地盤はすべて生理学的な人間とともに形を変えるのである。》(河内清訳)──ここでゾラが語っているのは実験形而上学ならぬ実験文学論、すなわち「脳髄の現象」(心理学的現象もしくは小林秀雄がいう社会化した「私」?)をめぐる間接的伝達のことだったのだろうか。


【379】キルケゴールの伝導体(4)

 それではキルケゴールの反復とは何かというと、実は先に述べた間接的伝達をめぐる二つの見方のうちに解を導くキーワードが仕込まれていたのであって、その第一は媒介(アイロニカルなプロセスとしての?)であり、その第二は超越(ヒューモラスなプロセスとしての?)である。このことをキルケゴール自身の言葉で確認しておこう。──《反復は発見されなくてはならぬ新しい範疇である。近世の哲学に多少とも通じており、かつ、ギリシアの哲学にもまったく無知でない人なら、この範疇こそエレア派の学徒たちとヘラクレイトスとの関係を説明するものであり、誤って媒介と呼ばれているものが、実は反復のことであるのをわけなく理解するであろう。》《近世哲学は少しも運動をしない、一般に空騒ぎをするばかりだ、そしてもしそれが運動をするとしても、その運動はつねに内在に終始する、ところが、反復は超越であり、またどこまでもそうである。》(桝田訳)

 ここで「エレア派の学徒たちとヘラクレイトスとの関係」といわれているのは存在と生成との関係、あるいは養老孟司氏(『脳と生命と心』)の言葉を借りるならば「それ自体は変化しないという性質を持つ情報」(たとえばDNAや言語)と「たえず変化していくものとしての生物というシステム」(たとえば細胞や脳)との関係、すなわち「生命、時間、記号、伝達、そうしたものの基礎にある同一性と差異」の関係のことだ。

 デンマークの生化学者ジェスパー・ホフマイヤーは『生命記号論』(松野孝一郎ほか訳)でパースの記号論の枠組では妥当な推論は常に三つのものの間の関係を前提としており、それはたとえば原因と結果の二項関係(分岐をもたない一次元の線形の連鎖)に新たに観測者を加えた形で示すことができると述べている。すなわち一般的な記号の三項関係は「記号そのものを担い表す物体−翻訳者(記号とその対象の関係を解釈し解読するもの)−記号が示す対象」と定式化され、この三つの要素からなる記号過程は「赤い発疹−医者−麻疹」「DNA−受精卵−個体発生の軌道」「生態学的地位(ニッチ)−系統(進化の単位としての種)−DNA」等々として具体化されるというのだが、ホフマイヤーはここで使われた「翻訳という比喩」をめぐってあらかじめ想定される批判に応じた上で──《もし翻訳という作業は真に知性を持つ存在のみが行い得る、知的な作業であることにこだわるならば、当然卵や系統は翻訳を行うことはできない。けれどもこの件に関して次のことを指摘したい。卵が一次元のDNA情報を時間と空間を占める肉体へと変換していく発生の過程でしばしば誤りを生じる。それが、いいですか、誤翻訳という用語で呼ばれている。このことにこだわりたい。》──次のように結論づけている。《全ての生物は現在を未来へと引き渡す驚くべき能力を例外なく持っており、その能力は生物が過去を忘れるという才能、言い換えれば死ぬということに依存している。生物は物理的な存在、肉体としては永続して生き延びることができない。そのため、生物は記号論的な意味で生き残ることを余儀なくされる。つまり、記号化された翻訳書、すなわち記号を次の世代に引き渡すことによって系統を存続させる。遺伝とは記号論的な存続である。》

 たとえばヘーゲルによって「誤って媒介と呼ばれているもの」とキルケゴールが述べたのは、そうすると観測者(=観察者=実験者)=翻訳者=使徒の働きのことなのだろうか。私はそれはその通りだと思うし、事柄は歴史の問題にかかわってくると思う。

 キルケゴールは『哲学的断片』(杉山好訳)でアリストテレスの『自然学』に準拠しながら、生成とは「そこにない」ことから「そこにある」ことへの存在の変化であり、したがって可能性(生成してくるものの母胎となる非存在が「非存在」としてそこにある存在)から現実性(「存在」としてそこにある存在)への移行にほかならないのだが、しかし必然的なるもの(常に同一不変の仕方でおのれ自体にかかわるもの)はこうした生成の対象にはなりえないと述べている。《すべての生成は一種の「受け身の苦しみ」であるが、必然的なるものは受け身になって現実の苦しみをこうむることはありえない。現実の苦しみとは、可能なるものが、現実に移されるその瞬間に、無としての正体を現わすところにこそあるからだ。というのも、可能性としてのばらの蕾は、現実性というむごい手によってむしり取られて、無のなかに投げ込まれてしまうのである。こうして生成してくるすべてのものは、ほかならぬその生成によって、おのれが必然のものではないことを立証するのである。生成の対象となりえない唯一のものこそ、ほんとうに必然なるものなのだ。なぜなら必然なるものは、「存在していること」がすなわちそのその本質なのだから。》

 キルケゴールはまた一切の生成は自由によるものであり必然から出てくるものではないのであって、生成するものはすべて形而上学的根源からでなく具体的原因から生成してくるのであるとし、さらにすべて生成してきたものは歴史的であり、厳密な意味での歴史は相対的自由を動機とする原因によって生成してきたものなのだが、この原因はそこからさらにさかのぼった決定的原因としての絶対的自由を動機とするものがあったことを示しているのだと述べ、これらの議論を経て「過去となったものは、まさしく生成してきたのであるがゆえに必然性をおびていない」と結論づけ、ライプニッツが『弁神論』で論じた可能世界論に準拠しつつ「過去も可能性のなかから生み出されたものである以上、いかにしても必然性をおびられるわけはないのだ」とする。《必然性は「本質」にかかわる問題であり、しかも「本質」の規定とは、まさに生成を締め出すところにこそ成り立つ。可能なるものが現実のものに転化してゆく際の母胎である可能性の世界は、生成してきたものにたえずつきまとい、たとえそれが何千年を隔てる過去の出来事であっても、過ぎ去った出来事における不可避の背景を成している。後代の人間がその出来事の生成するにいたった消息を、あらためて受け取るやいなや、彼はその生成の背後にあった可能性をも、あらためて受け取る、もしくは引き受けるのだ。》

 キルケゴールの文章を読みながら私が想起していたのは、自らもプルーストの翻訳者であったベンヤミンの『ベルリン年代記』に出てくる文章の断片的記憶──想起(記憶)とは過去への果てしない書き込みである──だったのだが、いずれにせよキルケゴールが叙述する歴史=過去論は夢の構造にも似た、というより夢と現実との関係そのものを産出する伝導体の作用にほかならず、それはまた──作者とは実は翻訳者=実験者すなわち引き渡す者であり、作品とは実は読者すなわち受け取り引き受ける者だったのだという実験文学(端的に歴史といっておいていいだろう)のからくりとともに──生物個体にかかわる記号過程「DNA−受精卵−個体発生の軌道」と生物集団にかかわる記号過程「生態学的地位−系統−DNA」とによって示される二つの無意識が邂逅する虚数的次元において(第四の項あるいは横光利一がいう四人称の世界で?)同一性と差異が反復的に連結される眩暈的な出来事を、すなわち超越としての運動を告知しているのだと思う。(可能性から現実性へ、あるいは潜在性から顕在性への──私の語感に即していえば虚もしくは無から実へ、あるいは空もしくは夢から現への──果てしない反復的・累層的移行!)


【380】キルケゴールの伝導体(5)

 話は唐突に個人的な事柄へとずれていくけれども、私は一度見ただけの映画は必ず忘れる質で、それはもう呆れるくらいストーリーや俳優や映像の細部があたかもそれらは夢の中の出来事であったかのようにほぼ完璧に頭の中から消失してしまう。だから極端にいうと何度でも同じ映画を初めて観ることができるわけで、それこそ反復(一回性をもったものの複数化)だと思う。何がいいたいのかというと、キルケゴールの反復(超越としての運動)とはもしかすると映画体験の先取りだったのでないかと私は考えているのだ。

 それはあながち根拠のない妄想ではなくて、たとえば『反復』に次の記述が出てくる。《多少とも想像力をもった青年なら、一度は芝居の魔力にとらえられたことがあるにちがいない。あの人工的な現実のなかへ自分もともにまき込まれて、まるで二重人みたいに、そこでもうひとりの自分自身が動くのを見、語るのを聞き、自分自身を自分自身に可能なだけのあらゆる種類の人物に扮装させ、しかもそのどれもがまた一個の自己であるというふうであってみたいという願いをいだいたことがあるにちがいない。》──もっとも『反復』には「角笛はわたしの楽器なのだ、それにはいろいろわけがあるが、とりわけ、この楽器からはけっして二度と同じ音調を誘い出せぬからだ。つまり、角笛には無限の可能性がひそんでいる、……角笛は讃むべきかな! それはわたしの象徴なのだ」といった表現も出てくるのだけれど。

 知覚体験を想起体験と取り違えることが追憶であるとするならば、白々しいスクリーン(虚実皮膜の?)上の光の散乱や反響する音が充満する暗闇の中であたかもプラトンの洞窟の中の人間のように(あるいは脳の中のホムンクルスのように?)一人でいながら集団的に体験する映画とは──そのような空間の形態や上映の前史と後史を形成する諸過程や諸現象をも含めて──まさに想起体験を知覚体験と取り違えさせる反復の装置(伝導体)なのであって、それは新宮一成氏が『夢分析』で「我々の夢は、そもそも語られるべきものとして存在しはじめる」と述べ、「夢の語らいというのは、夢と夢を語り合っている言語の空間とが、「夢と現実」というような単に経験的な対比によって区切られることなく、一つの統一的な原理によって続いている連続体である」と述べた夢の累層構造(終わりの可能性を巧みに回避しながら増殖できる反復の構造)につながっていくものだろうし、さらには虚と実、空と現とが果てしない相互書き込みを繰り返す入れ子構造そのものの造形なのだと私は考えている。

 埴谷雄高の『欧州紀行』にキルケゴールの記念物を求めてコペンハーゲン大学へでかけた話が収められている。そこで知り合った実存主義者らしい禿頭眼鏡顎髭のキルケゴール研究者の案内で埴谷氏は古い寺院に到着したのだが、そこにある墓はキルケゴールのものではなかった。《そこへ私達を案内しようと心を砕いているニールス君の気持だけで充分で、私はその見知らぬ古めかしい墓をキルケゴールの墓として「受けとって」まじまじと眺めていたのであった。あけてみたら内部になにもなかった「最大不幸者」の墓がロンドンにあるという私の好きなキルケゴールの文章を思いだしながら。》

 キルケゴール[Kierkegaard]の名は教会[Kirke]の庭[Gaard]すなわち墓地に通じるという。埴谷氏はおそらくこのことを踏まえていると思うし、内部になにもない墓というイメージも含めてこれは私の好きな文章のひとつだ。──「キルケゴールの墓」ならぬ「キルケゴールの伝導体」をめぐる私の夢はこうして上映終了後の映画館の虚空の中で醒める。