無意識をめぐる冒険・第四部



【358】不連続なプロローグ─地震のあとで(その1)

[1]魂の地学─キルケゴールの大地震体験
 工藤綏夫著『キルケゴール』(清水書院)に掲げられたセーレン・キルケゴール[1813.5.5〜1855.11.11]の年譜から、一八三五年の欄を抜粋。──《六〜八月にかけて北シェランの各地を旅行。実存的理念にめざめる。帰宅後に深刻な「大地震」体験。…(さいきんの研究では、この大地震体験は、一八三八年五月五日の誕生日に起こったことと推定されている。)》

 同書から、一八三九年のものと思われるキルケゴールの日記の一節。──《そのとき大地震が、おそるべき変革がおこって、とつぜん私は、あらゆる現象を全く新しい法則に従って解釈しなければならなくされた。》

[2]キルケゴールをおもわせる表現のまわりくどさ
 桝田啓三郎氏(『世界の名著40』)によると、この大地震体験は「キルケゴールの生涯と思想の謎を解くひとつの鍵」なのだそうだ。(ついでにふれておくと、桝田氏はレギーネ・オルセンとの婚約破棄事件について「キルケゴールの生涯と思想において占める意義のいかに大きいか」と指摘している。)

 しかし、キルケゴールの思想の謎(?)を解く「鍵」は、キルケゴールならぬ身にとってその実質を追体験しようもない伝記的出来事そのものにあるのではなく、出来事の根底にある原理への抽象感覚のようなもの、そしてそれを叙述する文章のうちにしか──岩井克人氏がマルクスの価値形態論の叙述をめぐって、「このキルケゴールをおもわせる表現のまわりくどさ」(『貨幣論』43頁,ちくま学芸文庫)と書いた、キルケゴールの表現形態のうちにしか──ないのではないか。

[3]三つの跳躍と転倒─ラディカルになること
 ハンナ・アレントは「伝統と近代」(引田隆也・斎藤純一訳『過去と未来の間』所収,みすず書房)で、十七世紀以降の近代と「第一次世界大戦によって堰を切られた一連のカタストロフから出現した二◯世紀」との断絶の出来事を予徴していたヘーゲル以後の大思想家たちの偉大さは、「われわれの思想の伝統では対処できない新たな問題と難事に自分たちの世界が侵されていると感じた点にあった」と述べている。

《一九世紀における伝統への反抗はまったく伝統の枠組みのなかにとどまっていた。しかも当時せいぜい予感とか、不安、不気味な沈黙といった本質的に否定的な経験にしか関与できない思考のレヴェルで可能だったのは、ラディカルになることだけであり、新たな始まりや過去の再検討ではなかった。/キルケゴール、マルクス、ニーチェは、断絶が到来する直前の伝統の終わりに立っていた。かれらの直接の先行者はヘーゲルであった。ヘーゲルこそは、初めて世界史全体を一つの連続的発展と見なした人物であった。(略)ともかくもキルケゴール、マルクス、ニーチェは、過去の哲学の歴史を一つの弁証法的に発展した全体と見なした点ではヘーゲリアンであった。かれらの大きな功績は、過去に対するヘーゲルの新しいアプローチを、さらに発展させうる唯一の仕方でラディカルにしたことにある。》(34頁)

 伝統を破壊する「ねじれ」をもたらした三つの跳躍。──「懐疑から信仰へのキルケゴールの跳躍」「理論から行為への、観照から労働へのマルクスの跳躍」「超感性的で超越的なイデアと尺度の領域から生の感覚性へのニーチェの跳躍」。伝統を終焉させる三つの転換の作業。──「知性に対して信仰、理論に対して実践、永遠不滅の超感性的真理に対して感性的で生成消滅する生」。

《…いわゆる哲学の抽象概念と人間を理性的動物[アニマル・ラティオナーレ]とする哲学の考え方に対して、キルケゴールは具体的で苦悩する人びとを力説し、マルクスは人の人間性はその生産的で能動的な力──最も根本的には労働力と呼ばれる──にあることを確証し、ニーチェは生の生産性、人間の意志と力への意志を主張した。かれらは相互にまったく無関係でありながら──三者とも互いに存在を識らなかった──伝統の言葉を用いた反抗の企てが成し遂げられるのは、跳躍や転倒、また概念を転倒させるというイメージや直喩で最もふさわしく示される精神のはたらきによってのみである、という結論に達している。》(43-4頁)

[4]ある系譜
 キルケゴールからドストエフスキーへ、マルクスからベンヤミンへ、ニーチェからフロイトへ。(そして、アンドレ・ジイドへ?)

[5]遺伝する無意識──あるいはヨブの家系
 キルケゴールの「大地震」体験について、たとえば木田元著『わたしの哲学入門』(新書館)では次のように記されている。

《彼はデンマークの首都コペンハーゲンの富裕な毛織物商人の子として生まれたが、生来虚弱であった上に、自分で「肉体の刺」と呼んでいる身体的障害を負っていた。おそらく北欧に多いクル病のため、背中が弯曲していたのだろうと推測されている。おまけに、二人の兄と三人の姉と、それに母を相継いで失った。キルケゴールは自分の人並はずれた存在や一家を襲ったその不幸を、父の罪に結びつけて考えていたらしい。父親はその頃はコペンハーゲンの名士になっていたが、子どもの頃デンマークのユトランド地方の荒野で貧しい羊飼いをしていたことがあり、寒さと飢えのあまり神を呪ったことがあるという。その報いでお前のような子どもが生まれたのだと、キルケゴールは幼児から父に聞かされて育ったようである。また、この父が先妻の死亡以前から下女だったキルケゴールの母を暴力的に犯して子どもを生ませ、先妻の死後後妻に入れたということを、父の死の数年前、一八三五年に父自身の口から聞かされ、彼はみずから「大地震」と呼んでいる大きな精神衝撃を味わった。》

[6]反復する罪と罰─あるいは連続性を壊すもの(死、飛躍、断絶)
 また、桝田啓三郎氏は「キルケゴールの生涯と著作活動」(『世界の名著40』所収)で、次のように書いている。

《父の犯した罪、その罪の意識と罰の予感、セーレンがそれを知ると同時に、それをまたみずからの罪として感じ、死の迫っているのを肌に感じとったこと、これがおそらく「大地震」の体験の内容であったと想像される。/この体験の残した最大の影響は、死の意識をキルケゴールの心に抜きがたく植えつけたことであった。彼はこの体験以来、いつ襲ってくるかもしれぬ死を意識して生きてゆかねばならなかった。(略)いつなんどき死ぬかもしれぬという死の可能性の意識は、人間の有限性の意識に昇華されて、そこに、神と人間との絶対的距離とか、永遠と時間との無限な質的差異とかとして知られる、キルケゴールの思想の核心が胚胎したと見られるのである。》

[7]近代の時空─大地震をもたらしたもの?
 一つの推測、というより憶測。──キルケゴールの「大地震」体験とは、パスカルの無限の空間への恐怖のようなものだったのだろうか。そしてそれは、たとえば柄谷行人氏が「交通について」(柄谷行人・中上健次『小林秀雄を超えて』所収,河出書房新社)で次のように書いていることと何か関係するのだろか。

《しかし、パスカルが「私はなぜここにいて、あそこにいないのか」と問うたとき、いいかえれば、事実としてここにいることに驚いたとき、彼は近代物理学の「均質な空間」を前提していたのである。同様に、歴史の一回性・偶然性が驚くべきものとなるのは、歴史を構造論的な組みかえにおいてみるマルクスの視点においてのみである。》

 均質な空間と均質な時間(あるいは連続する歴史)。絶対的距離や無限な質的差異が塗り込められた時空(あるいは「近代」の時空)。──「独在性の私」(永井均)と「社会」が同時に成立する時空?


【359】不連続なプロローグ─地震のあとで(その2)

[8]双面の人─憂鬱と機知
 キルケゴールの二つの顔について。──「人間の記憶に生きているなかで最も憂鬱な人間だった」と自ら称したその憂い顔と、会話の才に恵まれた「機知の鬼」としての顔。「私はふたつの顔をもつヤヌスなのだ。ひとつの顔で笑い、他の顔で泣いている」。(桝田啓三郎「キルケゴールの生涯と著作活動」から)

[9]偽名と匿名、仮面の巨匠、角笛はわたしの象徴なのだ
 キルケゴールの「偽名」とニーチェの「匿名」について。──桝田氏は、キルケゴールがさまざまな偽名の著者を駆使したこと(間接的伝達)について、それは「ひとつのゆるぎない統一的な意志が支配しているから可能なの」だと述べ、ドイツの哲学者ボイムラーのニーチェ論の引用(「…作品のひとつひとつが別の音色を、別のひびきを、別の様式をもっているのである。…ニーチェはいわば匿名で書く、ショーペンハウアー、ワーグナー、ディオニッソス、自由精神、ツァラトゥストラは彼の仮面である」)に続けて、次のように書いている。──《ニーチェは仮面の巨匠と呼ばれたが、キルケゴールもまた、ニーチェにおとらぬ仮面の巨匠であった。》(「キルケゴールの生涯と著作活動」)

 キルケゴールの偽名の著者コンスタンティン・コンスタンティウスは、次のように書いている。──《郵便馬車の角笛よ、万歳! 角笛はわたしの楽器なのだ。それにはいろいろわけがあるが、とりわけ、この楽器からはけっして二度と同じ音調を誘い出せぬからだ。つまり、角笛には無限の可能性がひそんでいる。角笛を口にあててそこへ自分の知恵を託するものは、けっして反復の責を負うことはあるまい、答えるかわりに一つの角笛を友に与えて、心のままにそれを吹かせるものは、一言も語らずしてすべてを説明する。角笛は讃むべきかな! それはわたしの象徴なのだ。》(桝田啓三郎訳『反復』96-7頁,岩波文庫)

[10]二重化された部屋─あるいは鏡なき二重化
 ベンヤミンはパサージュ論「絵画、アール・ヌーヴォー、新しさ」の項で、アドルノの『キルケゴール』を引用している。

《ヴィーゼングルント[=アドルノ]はキルケゴールの『反復』の一節を引用して注釈している。「ガス灯の点った家の二階へ上がってゆき、小さなドアを開き、小さなドアを開き、玄関の前に立つ。左手には小部屋につうじるガラス戸。まっすぐ進んで控えの間に入る。その奥には二つの部屋があるのだが、それらはまったく同じ大きさで家具も同じなので、鏡で二重になった部屋のように見える。」この箇所…をヴィーゼングルントはもう少し長く引用して、次のように注釈している。「実際はそうでないのに鏡に映ったように見えるこの部屋の二重化には、測りがたいほどの意味がある。歴史における仮象はすべて、自然に従属しつつもそれ自らが仮象のうちに留まり続けようとするかぎり、おそらくこの部屋とそっくりであるだろう。」…■鏡■室内■》(今村仁司他訳『パサージュ論V』S2a,2)

[11]キルケゴールの墓
 埴谷雄高著『欧州紀行』(中公新書)に、キルケゴールの記念物を求めてコペンハーゲン大学へ行かける話が出てくる(「キルケゴールの墓」)。そこで知り合った「実存主義者らしい」禿頭眼鏡顎髭のキルケゴール研究者の案内で──彼は小さな自動車を運転しながら「小津[安二郎]は哲学者だ」と感銘をこめて語った──古い寺院に到着したが、そこにある墓はキルケゴールのものではなかった。

《そこへ私達を案内しようと心を砕いているニールス君の気持だけで充分で、私はその見知らぬ古めかしい墓をキルケゴールの墓として「受けとって」まじまじと眺めていたのであった。あけてみたら内部になにもなかった「最大不幸者」の墓がロンドンにあるという私の好きなキルケゴールの文章を思いだしながら。》(22-3頁)

[12]ドストエフスキーという媒介
 キルケゴールとドストエフスキー、その一。木田元氏は『わたしの哲学入門』で、キルケゴールの「絶望の心理学」をドストエフスキーの作品の注釈として読むという若き日の読書体験を回顧した文章のなかで次のように書いている。

《この二人のあいだには、生存時代が幾分重なっていること、共にヨーロッパの辺境に生まれ、それぞれ一時期中央ヨーロッパに出かけはしたが、いわばプロティスタンティズムによって規制された西欧文化に失望して故国に帰り、キルケゴールは原始キリスト教を、ドストエフスキーはロシア正教を拠りどころに、西欧文化の批判と克服を企てたという共通点があるだけで、直接の関係はまったくない。それにもかかわらず、『死に至る病』をドストエフスキーの作品の注釈として読み、ドストエフスキーの作品を『死に至る病』で展開されている思想の例証として読むことができそうだと、当時の私には思われたのである。》(37頁)

 その二。カール‐バルトは『ローマ書』第二版の序文で、第一版とくらべて新たにつけ加わった要素の一つとして、《新約聖書の理解のためにキルケゴールとドストエフスキーから受けとらなければならなかったものに対する注意がますます増大したこと。それについては、とくにエドゥアルト・トゥルナイゼンの示唆が私の目を開いてくれた》と述べている(小川圭治『主体と超越』277頁,創文社)。──そのトゥルナイゼンは、ドストエフスキーの文学は「新約の光の下に見たヨブ記の注釈」であると述べている(らしい)。

[13]ゾラを経たあとのジイド、ドストエフスキーとジイド
 柄谷行人編『近代日本の批評・昭和篇[上]』(福武書店)所収の討議「昭和批評の諸問題1925─1935」から、小林秀雄の「私小説論」をめぐって。

 柄谷氏の発言。──《小林は『私小説論』で、ジッドが言った「どんなに絶対的な思想もある相対的な関係の中でしか思いつかれないし語られもしない」という言葉を引用している。しかし、マルクスもそう言いえたはずです。そのような「絶対的な思想」こそイデオロギーなのだ、と。》(59頁)

 浅田彰氏の発言。──《…「社会化した私」というのは、ある意味ではゾラを経たあとのジッドだし、ある意味ではマルクス主義と転向を潜ったあとの意識でもある。》(85頁)──《…小林には相対的他者との偶然的関係の絶対性という問題意識があった。『私小説論』でも、ジッドを論じながら、本当はドストエフスキーを考えているのかもしれず…。》(90-1頁)

[14]無意識を伝導する二つのメディア──ラヂオと活動写真(映画)
 十重田裕一氏の「作家案内」(『愛の挨拶・馬車・純粋小説論』所収,講談社学芸文庫)に引用された横光利一の文章。──《……大正十二年の大震災が私に襲つて来た。そして、私の信じた美に対する信仰は、この不幸のため忽ちにして破壊された。新感覚派と人人の私に名づけた時期がこの時から始つた。眼にする大都会が茫茫とした信ずべからざる焼野原となつて周囲に拡つてゐる中を、自動車といふ速力の変化物が初めて世の中にうろうろとし始め、直ちにラヂオといふ音声の奇形物が顕れ、飛行機といふ鳥類の模型が実用物として空中を飛び始めた。これらはすべて震災直後のわが国に初めて生じた近代科学の具象物である。焼野原にかかる近代科学の先端が陸続と形となつて顕れた青年期の人間の感覚は、何らかの意味で変らざるを得ない。》

 十重田氏の文章から。──《活動写真(映画)──この近代を代表するメディアは、震災以前にもあったが、これも「近代科学の具象物」のひとつに他ならない。震災後飛躍的に普及し、また近代的映画館が多く建設されるに及んで、以前よりもまして数多くの観客を獲得することになる。横光がもっとも関心を持ち、影響を受けた同時代の芸術は、この活動写真(映画)であった。もとよりそれは、同時代の多くの表現者たちに共通する関心事であったが、とりわけ横光の文学にはその影響が認められるのだ。横光は、活動写真(映画)の表現を自己の表現のなかに導き入れながら、新しい表現を模索していたのである。》

[15]戦後を意識させた事件
 柄谷行人氏の「近代日本の批評──昭和前期[I]」(『近代日本の批評・昭和篇[上]』所収)から。──《「明治的なもの」が実際には日露戦争とともに終わっていたように、おそらく「大正的なもの」は関東大震災で終わっていたといえる。これは、実質的に第一次大戦を傍観し且つ漁夫の利を得たにすぎなかった日本において、はじめて「戦後」を意識させた事件である。それはまた、第二次世界大戦にいたる二十年のみならず、今日に及ぶ諸問題を露出させた。》


【360】不連続なプロローグ─地震のあとで(その3)

[16]四人称の発明
 横光利一は「純粋小説論」(『愛の挨拶・馬車・純粋小説論』所収,講談社文芸文庫)で、次のように書いている。──《純粋小説はこの四人称を設定して、新しく人物を動かし進める可能の世界を実現していくことだ。まだ何人も企てぬ自由の天地にリアリティを与えることだ。(中略)いったい、われわれの眼は、理智と道徳の前まで来ると、何ぜふらつくのであろう。純粋小説の内容は、このふらつく眼の、どこを眼ざしてふらつくか、何が故にふらつくかを索ることだ。これが純粋小説の思想であり、そうして、最高の美しきものの創造である。》(270-1頁)

[17]短篇小説
 横光利一はまた「短篇小説では、純粋小説は書けぬ」(前掲書262頁)と書いている。

[18]純粋小説の系譜
 柄谷行人編『近代日本の批評・昭和篇[上]』(福武書店)所収の討議「昭和批評の諸問題1925─1935」での柄谷氏の発言。──《横光の言う「純粋小説」というのは、純文学にして通俗的な小説のことです。いまで言えば、村上春樹が純粋小説です。》(107頁)

[19]鏡と眠り(その1)─憎悪する影
 渡邉正彦氏の「村上春樹の分身小説群」(『近代文学の分身像』角川書店)で取り上げられている二つの短編から。その一、「鏡」──《煙草を三回くらいふかしたあとで、急に奇妙なことに気づいた。つまり、鏡の中の僕は僕じゃないんだ。いや、外見はすっかり僕なんだよ。それは間違いないんだ。でも、それは絶対に僕じゃないんだ。僕にはそれが本能的にわかっていたんだ。いや、違うな、正確に言えばそれはもちろん僕なんだ。でもそれは僕以外の僕なんだ、それは僕がそうあるべきではない形での僕なんだ。/うまく言えないよ。/でもその時ただひとつ僕に理解できたことは、相手が心の底から僕を憎んでいるってことだ。》(『カンガルー日和』80頁,講談社文庫)

[20]暴力の残響、同じ夢を見る一対の獣
 村上春樹著『辺境・近境』(新潮社)所収の「神戸まで歩く」から。──《その平和な風景の中には、暴力の残響のようなものが否定しがたくある。僕にはそのように感じられる。その暴力性の一部は僕らの足下に潜んでいるし、べつの一部は僕ら自身の内側に潜んでいる。ひとつは、もうひとつのメタファーでもある。あるいはそれらは互いに交換可能なものである。彼らは同じ夢を見る一対の獣のように、そこに眠っているのだ。》

[21]地震の影、物理的であると同時に心的なこと
 「神戸まで歩く」から。──《地震の影の中に歩を運びながら、「地下鉄サリン事件とはいったい何だったのだろう?」と考え続けた。あるいは地下鉄サリン事件の影を引きずりながら、「阪神大震災とはいったい何だったのだろう?」と考え続けた。それら二つの出来事は、別々のものじゃない。ひとつを解くことはおそらく、もうひとつをより明快に解くことになるはずだ。僕はそう思う。それは物理的であると同時に心的なことなのだ。というか、心的であるということはそのまま物理的なことなのだ。僕はそこに自分なりの回廊をつけなくてはならない。/そしてさらにつけ加えるなら、「僕に今、いったい何ができるのか」という、より重大な命題がそこにはある。/残念ながら、それらの命題についての明確な論理的結論を、僕はまだ持ち合わせてはいない。今の僕にできるのは、僕の思考の(あるいは視線の、あるいは両足の)たどった現実的な道のりを、このように不確かな散文として、アンチ・クライマックスな器に盛って示すことだけだ。しかしもしできることなら、理解していらだきたいと思う。結局のところ、僕という人間は、自分の両足を動かし、身体を動かし、そのような過程をいちいち物理的に不細工に経過することによってしか、前に進むことができないのだ。そしてそれには時間がかかる。惨めなほど時間がかかる。間に合えばいいのだけれど。》

[22]鏡と眠り(その2)─顔、純粋な物体・ただ純粋に同時存在するもの
 渡邉正彦氏の「村上春樹の分身小説群」で取り上げられている二つの短編から。その二、「眠り」──《何という人生だろうと時々思う。それで虚しさを感じるというのでもない。私はただ驚いてしまうだけなのだ。昨日と一昨日の見分けもつかないという事実に。そういう人生の中に自分が含まれ、飲み込まれてしまっているという事実に。自分のつけた足跡が、それを眺める暇もなく、あっというまに風に吹き払われていってしまうという事実に。そういう時、私は洗面器の鏡で自分の顔を眺める。十五分くらいじっと見ているのだ。頭をからっぽにして、何も考えないで。自分の顔を純粋な物体としてじっと見つめる。そうすると、私の顔はだんだん私自身から分離していく。ただ純粋に同時存在するものとして。そして私はこれが現在なんだと認識する。足跡なんか関係ない。私はこうして今現実と同時存在しているのだ、それがいちばん大事なことなんだと。》(『TVピープル』159-60頁.文春文庫)

[23]沈黙の響き、孤独に慣れるための連続した過程
 「神戸まで歩く」から。──《あたりはいやにしんと静まり返っていて、彼女たちの発するときおりのかけ声のほかには、物音はほとんど聞こえない。あまりにも静かなので、何かの加減で間違えた空間のレベルに入り込んでしまったみたいな気がするほどだ。どうしてこんなにも静かなのだろう?/遥か眼下に鈍色に光る神戸港を見おろしながら、遠い昔のこだまが聞こえないものかと、耳をじっと澄ませてみる。でも何も僕の耳には届かない。ポール・サイモンの古い歌の歌詞を借りれば、そこはただ沈黙の響きが聞こえるだけだ。まあ、しかたない。なにしろすべては三十年以上も前の話なのだから。/三十年以上も前の話──そう、ひとつだけ確実に言えることがある。人は年をとれば、それだけどんどん孤独になっていく。みんなそうだ。でもあるいはそれは間違ったことではないのかもしれない。というのは、ある意味では僕らの人生というのは孤独に慣れるためのひとつの連続した過程にすぎないからだ。だとしたら、なにも不満を言う筋合いはないじゃないか。だいだい不満を言うにしても、誰に向かって言えばいいんだ?》


【361】実験と反復―キルケゴールの伝導文学(その1)

[24]言葉の意味が存在する世界
 永井均氏の「哲学への懐疑」(別冊『世界』所収,2000年5月)から。――《マンガの世界に、文字はあるが音声はじつはないのと同様に、われわれの世界には、言葉は存在するが言葉の意味はじつは存在しない(言葉の意味を語ることができない)。だからわれわれは、言葉の意味するところを言葉で語ることが──究極的には──できない世界の中に閉ざされているのである。》

[25]間接的伝達としての実験
 キルケゴール『反復』の副題「実験的心理学の試み」について、訳注(枡田啓三郎氏)から。

《ここに実験と言われているのは「伝達形式」のことで、キルケゴール独特の「間接的伝達」の一つである。…著者が読者との間に実験という介在物を置いて両者を引き離し、飛び越えることのできない深淵を設けて直接に理解し合うことを不可能にする。だから伝えられる真実は実験を介して間接的に理解するよりほかに手だてがなくなる。(略)/本書をキルケゴールは「おどけた本」と称したが、それはこの書が、ことに前半が、…真の反復のパロディーともいえる実験の叙述だからである。しかし実験は人生のいわば喜劇的な面でのみ行われる訳ではない。例えば『人生行路の諸段階』第三部「責めありや?―責めなしや?」における「或る男」の不幸な恋の経路を綴った日記が、著者フラテル・タキトゥルヌスによって「心理学的実験」として詳しく分析解説されているのに見られるように、人生のいわば悲劇的な面においても行われうるのである。いな、人間のさまざまな生き方の根底にあってそういう行き方をさせている人の心の動き、そういう生き方に表現されている人間の心理の種々相すべてが材料として実験の対象たりえるのであって、それらいずれもが「心理学的実験」と呼ばれる。本書もそういう「実験的心理学の一つの試み」なのである。》(204-6頁)

 キルケゴール独特の「間接的伝達」とはソクラテスの魂の助産術(キルケゴールの表現でいえば、相手を真理の中へと瞞しこむこと)をいうのだろうが、これは学位論文『イロニーの概念』で論じられた「ソクラテス問題」とからめて考えなければならない。

[26]ソクラテス問題(その1)―イロニー
 村瀬学著『新しいキルケゴール──多者あるいは複数自己の理論を求めて──』(大和書房)によれば、ある出来事・事件・現象・生成、すなわちある生起X(たとえばソクラテスやイエス、あるいはカフカの「城」)をめぐって、「わたし」(キルケゴール)は今それを「何か」として、つまりXを「間接的」にさし示す複数の対象An(たとえばクセノポンが記録した「分別くさい現実主義者ソクラテス」やプラトンによる「イデーを求める哲学者ソクラテス」やアリストパネスの「可能性の中へ浮き上がるソクラテス」、ルカやマルコやマタイの福音書、あるいは測量士Bが手に入れる様々な城の情報A1、A2、A3、…)を介してイメージされる「何か」として感じている。

 しかし、そのような対象Aをいくらつみ重ねても、生起Xそのものには達し得ない。むしろAの総体(ことば、記号)が在ってはじめてXが在るのであって、「Xそのもの」は存在しないというべきなのである。

 ところが、私たちは歴史上のある時点からXをAに置きかえ、そのAとXを同一視するとりちがえをしてきた。この「とりちがえ」の自覚形態が「イロニー」である。それは「一つの対象[X]のように見えるものが実は常に対象[A1、A2、A3]の複合体であることを問題にする意識形態」をさしており、現代では「差異」という語でもって語られる問題意識と共通のものである。

 ソクラテスとは、「一=多」のイロニーを「生身」そのもののあり方として「直接性」において生き、他者に対して自分を一者(X)としてではなく多者(An)として現わした「生きられるイロニー」(無知の知)なのである。

 そのような一が多であるような現象を「理解」しようとすると、それは「意識される一と多の関係」を問う弁証法、すなわち「技術としてのイロニー」を発生させる。――以上の議論を踏まえて、村瀬氏は《『イロニーの概念』は、この弁証法なるものの発生源をしっかりと把握している点においてもすこぶる重要な作品なのである。》と書いている。

[27]ソクラテス問題(その2)―媒介、超越、反復
 「X(ソクラテス)−An(プラトン他)−B(わたし)」あるいは「イエス−聖書−信者」と定式化される「ソクラテス問題」を「現代の思想界の様々な問題意識」と対比させた村瀬前掲書の表から、任意にいくつかの組み合わせを抜き書きしておく。

◎「イデア−像− 」(村瀬氏は第三項を空白にしているが、キルケゴールが自らを「イデーに仕えるスパイ」と称したことを踏まえるならば、ここに「スパイ=観察者=実験者」をあてはめることができるのではないかと思う。)
◎「事実−マスメディア−受信者」
◎「現物−記号−受け手」
◎「ゴジラ−物語−読み手」
◎「品物−商品−消費者」
◎「物−広告・売り手−買い手」
◎「実像−伝達−知り手」
◎「真実−媒介−知り手」
◎「真理−解釈−知り手」
◎「世界−教師・ことば−弟子・生徒・聞き手」

 これらを抽象化すれば「生成−媒介(超越)−存在(被造物)」あるいは「直接性−媒介−間接性」となるのかもしれない。──もしこの定式が正しいとすれば、キルケゴール自身の定義によって、ここに出てくる中間項「媒介(超越)」こそが「反復」である。

[28]反復―媒介と超越
 キルケゴール『反復』から、若干の定義めいた文章の抜き書き。

◎反復─前方へ向かう追憶
《反復と追憶は同一の運動である。ただ方向が反対だというだけの違いである。つまり、追憶されるものはかつてあったものであり、それが後方に向かって反復されるのだが、それとは反対に、ほんとうの反復は前方に向かって追憶されるのである。だから反復は、それができるなら、ひとを幸福にするが、追憶はひとを不幸にする。》(8頁)

◎反復─存在と生成を「媒介」するもの
《反復は発見されなくてはならぬ新しい範疇である。近世の哲学に多少とも通じており、かつ、ギリシアの哲学にもまったく無知でない人なら、この範疇こそエレア派の学徒たちとヘラクレイトスとの関係を説明するものであり、誤って媒介と呼ばれているものが、実は反復のことであるのをわけなく理解するであろう。》(44頁)

《エレア学派は「存在」Sein を、ヘラクレイトスは「生成」Werden を主張するのであるから、この両者の関係を、ヘーゲルのように「媒介」でなく「反復」によって説明するということは、「反復」ということが、哲学史におけるもっとも重要でもっとも困難な「存在と生成」の関係を解く鍵であるとキルケゴールが見て、これを解こうと試みていることを示している。》(223-4頁,訳注)

◎反復は超越である
《近世哲学は少しも運動をしない、一般に空騒ぎをするばかりだ、そしてもしそれが運動をするとしても、その運動はつねに内在に終始する、ところが、反復は超越であり、またどこまでもそうである。》(116頁)

《「反復」の語は用いられていないけれども、反復の問題は、キリスト教における「贖罪」の問題としてすでに早くからキルケゴールの思索の対象となっていたのであった。》(319頁,訳者解説)


【362】実験と反復―キルケゴールの伝導文学(その2)

[29]ソクラテス問題(その3)―価値形態
 上記の定式――「生成−媒介(超越)−存在(被造物)」――の第三項に「被造物」と書き入れたのは、たとえば消費者の頭の中に品物の価値(村瀬氏がいう「何か」)が意識されるといった事態を想定したからだ。

 この価値とは「商品」に媒介されたもの、つまり交換価値=貨幣価値にほかならないのだから、「X−An−B」とは実は「価値形態」のことだったのかもしれない。――今日では、商品とは大量生産物=複製物すなわちコピーにほかならないのだから、消費者(B)は商品化されたコピー(An)の購入という具体的かつ反復的な交換行為を通じて何かしら普遍的かつオリジナルな価値(X)の存在を(貨幣による媒介作用によって、いわば無意識的に)推論している、などということができるのかもしれない。

[30]ソクラテス問題(その4)―伝導
 「価値」を「意味」におきかえれば、上に述べたことは言語表現に、というより「文字」を媒介とするコミュニケーション過程(伝導)にそのままあてはまるだろう。――「かつて音声によって語られたイエスの言葉−使徒たちによって文字化されたイエスの言葉−信者の魂のうちに反復(伝導)されるイエスの言葉」。

 ここでいう「文字」は単なる「記号」ではない。だから、コミュニケーション過程はシャノン流の情報伝達過程ではない。イエスの言葉が担う「意味」はこの世界に属してはいないのであって、イエスの言葉を解読する「コード」というようなものはコミュニケーション過程に組み込まれてはいない。

 ソクラテスの「無知の知」のように、私を私たらしめる根拠や商品の価値や文字の意味などはどこにも存在しない。それらは無意識のうちに、あるいはマルクスが「価値形態」と名づけたものと相同なプロセスを通じて、ただ伝達(伝導)されるものなのであって、これが「間接的伝達」の実質にほかならない。

[31]伝導される出来事
 村瀬氏は、反復されるのは「聖書の出来事」だと書いている。――過去のもの(旧約)であると同時に未来(新約)でもあるといった二重の性格を負わされている「聖書」は、預言(旧約)であり預言の成就(新約)なのであって、このように物語(聖書)が地上(現世)にそのままくり返される事態が「反復」だという。そして「聖書」こそが「媒介=反復」だったというのである。

 そうだとすると、実験とは、それも「実験的心理学」とは、聖書の出来事を心的組織(無数の「自己=コピー」のフラクタルな複合体──プラトンが「国家」と呼んだもの?)のうちに反復させる文学的な試み(作中人物の創造)のことである、などということができるのだろうか。──まず表徴としてコピーし、その後にオリジナルなものの「受肉」をうながすこと。

[32]表徴とイデア、オリジナルとコピー
 塩川徹也氏の「虹と秘蹟」(現代哲学の冒険6『コピー』所収,岩波書店)から。――《旧約聖書によって伝えられる人物、事件、制度などが、やがてキリストの来臨において開示されるより高い「実在」を、あらかじめ象徴としておぼろげに表現していると考えられる場合、それらは表徴[figura,figure]と呼ばれる。(略)表徴は来るべきものを予告する点において、預言と相通じているが、預言は言語による予告なのに対して、表徴は像ないし徴の役割を担う事実による予告である。(略)…表徴論は、イデア論の系列に連なる思想であると言ってよい。しかし祖型的に考えられたイデア論において、オリジナルとコピーの関係は、時空を超えた・非物体的な・永遠の実在であるイデアと、感覚的世界の個物の関係であるが、表徴が写し取りつつ指示するオリジナルは、キリストの来臨によって実現するはずの事態である。オリジナルは論理的観点からすればコピーに先行するが、表徴においては、コピーがオリジナルに時間的に先行する。しかもここでオリジナルとなるのは、時空を超えたイデアではなく、イエス・キリストの受肉によって時のただ中に出来する出来事、その限りにおいて個別的な事柄なのである。》

[33]実験文学論・序説―伝導体
 キルケゴールのいう「実験」とは「伝導」である。あるいはコピーへの「受肉」である。――ここで受肉されるものは、いうまでもなくオリジナルなのだが、それはあくまで「オリジナル−伝導−コピー」という形態のうちにしかないものだ。「オリジナル」と名づけうる精神的実質は、この世界のうちには実在しない。在るものは常に物質的な実質(形式、形態)だけだ。そして、伝導とは反復である。反復、すなわち媒介と超越。

 それでは、キルケゴールのいう「心理学」とは何か。――それは「経済学」(実験的経済学?)といいかえてもいいものだ。あるいは、これら二つの演算を合成する物質的基盤の造形、端的に「文学」といってもいい営みのことだ。文学、すなわち媒介形式(伝導体)の造形。ここで媒介とは、たとえば鏡、仮面、文字、貨幣、魂をいう。

[34]実験文学論・補遺―神の訪れの状態
 アンドレ・ジイド『贋金つくり』(川口篤訳,岩波文庫)から。――ドゥーヴィエ(ローラの夫、叙情味[リリスム]がない男、つまり神に打ち負かされることを承知しない男、自分の感じるものの中に決して自我を没入しない男、したがって決して偉大なものを感じることがない男、霊感を持つことのできない男)をめぐるエドゥワールとベルナールの会話。

《「僕も、抒情的状態を克服しなければ、芸術家たり得ないと思うね。しかし、それを克服するには、まずそれを経験しなければだめだ。」/「そういう神の訪れの状態は、生理学的に説明されるとはお考えになりませんか? つまり……」/「愚論だな!」と、エドゥワールは遮った。「そういう考え方は、いかに正確であっても、愚民を惑わすだけのことだね。たしかに、どんな神秘的運動にも、物質的な裏打ちのないものはないさ。だからどうだというのだ? 精神が顕現するには、物質がなくてはすまされない。キリスト降生の神秘も、そこにあるのだ。」/「逆に、物質は立派に精神がなくてもすみますね。」/「そいつは、われわれにはわからない。」》(127頁,下巻)


【363】実験と反復―伝導過程と夢の構造(その1)

[35]伝導の三層構造―実験の場としての夢?
 『反復』は、偽名の著者コンスタンティン・コンスタンティウス――村瀬氏は、『反復』はポーの『ウィリアム・ウィルソン』と同じ主題を作品化したもので、その主題とは「二重人格」、それも病理現象としてのそれではなく「自分を反復=複製[コピー]する自分」としての二重性の主題(自己複製論)であると指摘している――の手記からなる前半部と「青年」――村瀬氏はまた、作中人物「青年」は『反復』の匿名の著者コンスタンティン・コンスタンティウスの分身[コピー]あるいは創作として描かれていると指摘している――の手紙を中心とする後半部、そして再び偽名の著者による「わたしの親愛なる読者よ!」の呼びかけではじまる後書の三つの部分からできている。そして、後半部の初めには作品名と同じ「反復」という見出しが、その終わりには「この書のほんとうの読者/NNさま/侍史」(訳注によると、NNとは Nomen Nescio [その名をわたしは知らない]もしくは Nomen Nominandum [いつか呼ばれるべき名]の略)と記されている。

 この入り組んだ構成をもつ『反復』をはさんでキルケゴールと読者(「ほんとうの読者」でも「親愛なる読者」でも、ましてやレギーネでもない読者?)が対峙している。「キルケゴール−コンスタンティン・コンスタンティウス−青年」あるいは「キルケゴール−『反復』−読者」。

 ――ところで、この実験=伝導のための三層構造は、どこかしら反復し循環する夢のメカニズムを思わせる。あるいは、書物がもたらす読書体験は夢に似ている。(夢のメカニズムは覚醒をもたらすためにあるのだろうか、それとも覚醒をもたらさないためにあるのだろうか。そもそも、夢の終わりはどのようにしてもたらされるのだろうか。)

[36]フィクショナルな自己―夢の中の自己?
 『反復』の前半部、再びベルリンへ到着したコンスタンティン・コンスタンティウスが長々と繰り出す芝居談義から。――これは村瀬前掲書でも引用されている箇所なのだが、たとえば次の、ほとんど多重人格=解離性同一性障害を連想させる文章。

《多少とも想像力をもった青年なら、一度は芝居の魔力にとらえられたことがあるにちがいない。あの人工的な現実のなかへ自分もともにまき込まれて、まるで二重人みたいに、そこでもうひとりの自分自身が動くのを見、語るのを聞き、自分自身を自分自身に可能なだけのあらゆる種類の人物に扮装させ、しかもそのどれもがまた一個の自己であるというふうであってみたいという願いをいだいたことがあるにちがいない。》(54-5頁)

 ――夢の中でなら、それは可能なのではないだろうか。もうひとりの自分が動くのを見、語るのを聞くことが。

[37]伝導体としての夢
 実験=伝導=反復の過程とは夢の過程である。あるいは、夢は伝導体である。──実験的心理学(伝導文学)とは、夢の編集作業の異称である。夢の素材、言語と現実。夢と夢の外部をつなぐ通路、たとえば手紙、電話。

[38]夢の話から始まる会話、火挟みで焔をつかもうとする人
 『贋金つくり』(川口篤訳,岩波文庫)から。――ボリスの治療を担当する精神科医ソフロニスカ夫人とエドゥワールの対話。

《「それでは、あなたに告白しなければならないことが、あの子にあるというお見込みですか? 失礼ですが、御自身があの子に告白させたいと思っていることを、暗示したりしないという確信がおありですか?」(略)「早い話が、私たちの会話が、どんな風に始まるとお思いになりまして? ボリスが、前の晩に見た夢の話をすることから始まるのです。」/「作り話をしているのではないということが、どうしておわかりです?」/「かりに作り話をするとしても……病的な想像力から生まれる作り話は、すべて、何かを明らかにしてくれるものなのです。」/彼女は、しばらく口をつぐんだが、やがて、/「作り話、病的な想像力……いいえ、そうではありませんわ。言葉というものは、私たちの真意を裏切るものですからね。ボリスは、私の前で、声を出して夢を見ますの。毎朝、一時間のあいだ、そういう半睡状態でいることを承知してくれたのですが、そういう状態で私たちに浮かんで来る幻影は、理性では制御できません。それは普通の論理によってではなく、思いがけない関連性で集まったり、結びついたりするのです。(略)理性で捉えられないものは、たくさんあります。人生を理解するために理性を用いようとする人は、火挟みで焔をつかもうとする人に似ています。(略)/彼女は、再び口をつぐんで、私[エドゥワール]の著書の頁を繰りはじめた。/「あなたは、人間の心を深くえぐることをなさいませんのね。」と、彼女は叫んだ。それから、急いで笑いながら、付け加えた。――「いえ、特にあなたの事を申しているのではありませんわ。《あなた》と申しますのは、小説家という意味ですの。あなた方のお書きになる人物は、大方、杭の上に建てられているように思われますの。土台もなければ、地階もありません。」》(236-7頁,上巻)

[39]精神機構を分解する人、ガス・電話・十万ルーブル
 ソフロニスカによってすっかり告白させられたボリスの秘密。それはボリス自身は「魔法」(無限の能力を与えてくれるもの)と信じていた悪癖、すなわち自慰であった。──以下、以下、エドゥワールの日記から。

《可哀そうに、少年はもはや心の中に、女医さんの目から隠れる小さな林も茂みも持たないことになる。すっかり狩り出されてしまったわけだ。ソフロニスカは、ちょうど時計屋が振子時計の掃除をするために部品を分解するように、少年の精神機構の最も内密な歯車まで分解して、明るみに出してしまったのだ。そのあげく、少年が時を打たないとしたら、むだ骨を折ったことになるわけだ。(略)彼らは、現実の空虚を空想の実在によって慰める秘密を発見したと、本気で信じていた。そして、好んで幻想を抱き、想像力を駆使して、空虚を驚異で満たすことに恍惚となり、無情の快楽を味わうのだった。無論、ソフロニスカは、こんな言葉は使わなかった。私は、ボリスの言葉をそのまま伝えてもらいたかったのだが、彼女の言うところによると、ごまかしたり、わざと言い落としたり、曖昧な表現をしたりする中から、やっと以上のこと(しかし、これだけは正確であることを保証した)を嗅ぎ分けたのだそうである。》(272-3頁,上巻)

 ボリスが肌身離さず持っていた羊皮紙の紙片(ボリス自身は「護符」と呼んでいた)には、“ GAZ. TE'LE'PHONE. CENT MILLE ROUBLES. ”と書いてあった。ソフロニスカによると、この五つの言葉は、子供たちが快楽にふけっていた恥ずべき楽園への呪文、「胡麻よ開け」だったのだという。


【364】実験と反復―伝導過程と夢の構造(その2)

[40]夢の累層構造(その1)─夢の力、無意識、言語
 新宮一成著『夢分析』(岩波新書)最終章「夢の語らい」から。──新宮氏がいう「夢」(=言語=無意識)を「思考」や「文学」に置き換え、夢の「累層構造」を思想や作品世界の「間接的伝達」過程に置き換えて読むことは可能だ。もちろん「夢の演算」を実験的心理学(伝導文学)における「実験」に置き換えることも。しかし、夢はまず夢として語られるべきなのだと思う。

◎夢の機能と構造変化─現実の作りかえ、夢の中に閉じ込められた現実
《夢は、現実を自らの中に取り込み、自らのそのときどきの筋書にしたがって、夢の中だけで通用する意味を現実に与えるという術を心得ているのである。現実を夢にとっての材料とすること、それは、現実から現実の固有性を奪い、もう一度夢の理屈にしたがって、それを表現しなおすということである。現実という、本来は否応なく与えられてしまうものに対して、それを作りかえる権能を手に入れるということである。すなわちこれは、言語そのものの機能に他ならない。言語のこの機能が、夢の中でまったき姿で発揮されたとき、夢は、覚醒生活の言語へと切れ目なく移行するのだと言えるだろう。/とりあえずこのことは、我々が目覚めを経験する際に起こっている、基本的な構造変化であると結論づけることができるであろう。しかしこのことを認めたがために、我々はさらに深い原理的な問題に直面させられることになる。それは、夢が現実を自分の力で作りかえることができると自認しているのならば、我々は覚醒生活の中にいてさえも、夢のこの機能を手放さないでいることがありうるのではないか、という問題である。さらに言えば、我々自身の知らないうちに、夢が勝手に続いており、我々は夢の中に閉じこめられたまま、そうとは知らずに過ごしているのではないか、という問題である。》(220頁)

◎力としての夢(無意識)─現実を「あの世」に置き換える
《…言葉を話すという能動性が夢の意識の中に実現したとき、目覚めの可能性が与えられるのである。(略)夢は、現実を「あの世」に変えてしまい、自分自身をさらに延長してゆく。…現実をあらかじめ取りこんでそれを廃棄して別の意味に置き換えるのが夢であり、また、あらかじめそのことに成功しなかった場合は、たとえ睡眠が終わった後でも、なおも現実を廃棄し、たとえば「あの世」に置き換えようとするのが夢なのである。それは例外的に起こるのではない。現実は夢の力によってたえずおびやかされていると言ってよいだろう。こういう力としての「夢」は、我々が覚醒生活を営んでいる間にも、フロイトの言う「無意識」として存在している。》(225-6頁)

◎ニーチェとフロイト─夢の中の思考、神への変身の拠点、現実の根拠
《フロイトがニーチェのあとを思想史的に継いでいるのはなぜかといえば、それは彼が、ニーチェ的世界の発生源をつきとめたからに他ならない。それは言うまでもなく、夢の中の思考の中にある。たとえ比喩的にでも、「夢は人間に与えられた神との通路である」などと司祭ぶって言える状況ではもはやなく、夢はとっくの昔に、「人間が自らを神に変身させる拠点」へと変質しているのである。追い払われた神は、夢の中へとそのすみかを変え、待ちかまえていた夢見る人間はその力を簒奪し、神になりかわったのである。/無意識とは、フロイトがこのような夢の力に認めた別名である。しかしフロイトは、ニーチェの洞察を越えて、現実を消去し自己を永遠化するあの語らいの力以外のところに、何か別の現実の根拠を人間が見出し得るかどうかを問いかけたのである。》(240頁)

[41]備忘録─最初に反復(夢)があった、あるいは自らの由来を問う文学
 そもそも現実とは夢の分泌(文筆)物だったのではないか。夢の作業、反復=伝導=実験。──湯浅博雄氏は『反復論序説』(未来社)「あとがき」で、次のように書いている。

《だがしかし「反復」ということは、「リプリゼンテーションの世界」がいつのまにか私たちに課している構図や枠組のなかで「起こる」のではない。むしろ「通常の時間概念」や「表象=再現前化の作用」を破る出来事であり、その「裂け目」で起こるのではないか。「反復」は二次的、副次的、派生的ではなく、むしろ一次的ではないか。「そもそも最初から」反復するのではないか。ということはつまり「最初」はない、「本来の同一性」はないということだ。伝統的な「同一性の概念」は、根底から問い直される。これまでの「哲学」は、「同一性」とはすなわち「自己へと現前する同一性」としてしか考えられなかった。だがそうではなく、ただ「反復する」ということが「同じである」だけではないか。いわゆる記号ではない「シーニュ的なものの次元」、「シンボル性の次元」は、そういうものとして開かれているのではないか。「文学という言述(ディスクール)」は、自分が言葉として書かれることをいつも自覚し、自らの由来への問いとなることによって、こうした「変容する反復」あるいは「反復する変容」の次元を絶えず喚起しうるのではないか。》(236-7頁)

[42]夢の累層構造(その2)─反復、フラクタル、装置

◎夢の累層構造─意味構造の反復による夢の存続
《こうして夢が自己を存続させるのに、…累層構造はまことに適している。累層構造は基本的に反復の構造だからである。しかもそれは、終わりの可能性を巧みに回避しながら自己増殖できる構造なのである。…一つには累層構造は完全な円環ではないので、自己完結してしまうことがない。また、振り返ってみれば分かるように、それは単純な反復ではなく、ある意味構造が空間的構造において反復されていたかと思うと、時間的進行の中でも反復されたり、自己相似のモデルにそってフラクタル的に反復されたり、さらに、反復を見ている絶対的視点というものは用意されず、見ている主体が次の層では対象の立場に立ってしまうような視点の変換が起こるなど、さまざまな展開を含みながらなされてゆく反復であった。》(226頁)

◎夢を語ること、入れ子構造、夢の中の言語的装置─夢の外部へつながる電話
《語る相手が存在しなければ、夢はそもそも存在できない。(略)振り返ってみれば、我々の言語活動においては入れ子構造が重要な位置を占めており、他者の語らいを自己が取り入れて語り、それが再びどこかで他者の語らいに取り入れられているという形で、言語活動が動いている。夢を見たということを語るという我々の行為は、まさに世界の言語活動の本質を集約しているといって差し支えないだろう。(略)夢が、夢見る人の思考を含めたさまざまな他者の語らいから成立している以上、夢の中の言語的装置は、それらの語らいの間をつなぐ役目を果たすものに違いない。フロイトはすでに、「夢での会話」という場面設定に着目し、これは生活の中で実際に行われた会話に由来するのだと述べている。我々はここで「電話」という装置を取り上げておこう。夢で「電話」が出てくることは多い。これは、夢の外部へつながろうとする、夢自身の意向を表現している。すなわち夢は、夢の中で何が起こっているのかを、夢から醒めたあとの夢主体に、前もって知らせておこうとしているのである。》(228-9頁)

[43]備忘録─電話をかける・電話がかかる
 村上春樹の『ノルウェイの森』と『スプートニクの恋人』の終わりに出てくる対照的な電話のシーン。──《ぼくは夢を見る。ときどきぼくにはそれがただひとつの正しい行為であるように思える。夢を見ること、夢の世界に生きること──すみれが書いていたように。でもそれは長くはつづかない。いつか覚醒がぼくをとらえる。/ぼくは夜中の三時に目を覚まし、明かりをつけ、身を起こし、枕もとの電話機を眺める。電話ボックスの中で煙草に火をつけ、プッシュ・ボタンでぼくの電話番号を押しているすみれの姿を想像する。(略)でもそれが鳴ることはない。ぼくは横になったまま、沈黙をつづける電話機をいつまでも眺めている。/でもあるとき電話のベルが鳴りだす。ぼくの目の前で本当に鳴りだしたのだ。それは現実の世界の空気を震わせている。ぼくはすぐに受話器を取った。》(『スプートニクの恋人』305-6頁,講談社)

 これは当面のテーマと直接の関係はないのだが、引用文に続く会話に出てくるいくつかの語彙(たとえば、交換可能で記号的な電話ボックス、中国の門、供犠、血、象徴と記号など──それぞれ『スプートニクの恋人』でのすみれとぼくの会話を反復している)は、いずれも貨幣を思わせる。


【365】実験と反復―伝導過程と夢の構造(その3)

[44]夢の累層構造(その3)─無限に反復される夢の演算

◎夢と夢の語らいの接続、無限演算(表象体系への写像)─永遠が生まれるとき
《このような夢の本質が我々に印象づけるのは、再び夢の「終わりのなさ」である。たとえ夢を語ることが目覚めることであるとしても、語っていることをさらに夢見ることによって、我々はまだ目覚めないでいることができるかもしれないのである。(略)これはある種の無限の循環である。しかし、仔細に見れば、循環ではなく、果てしなく繰り返される演算なのである。先になされた話はなかったのと同じで、すべてが振りだしに戻るというのが本来の循環だとすれば、話している自分も、聞いている誰かも、話のたびに別のものになっている可能性をもつこのような夢の進行は、それには当てはまらない。たとえ表に現われている人物が前回と同じでも、もとの人物を表象体系の中に取りこんだ新しい人物がそこにいると考えるべきであり、その両者は厳密には同じとは言えない。両者の間には、話している自分と聞いている誰かの両方を新しい自分の中に取りこむという写像の演算が介入したはずである。/だがいずれにしても、ここで夢と、夢の語らいとを織りなして作られた言語空間が提示しているのは、言語の永遠性である。(略)/我々はここで、先に述べたように、循環と無限演算とをしっかりと区別しておこう。循環によって自立した永遠が我々の外部にあるのではない。むしろ、無限に演算が可能であるという設定が、その演算を行う主体の永遠性を、内側から支えているのである。》(230-2頁)

[45]備忘録─構造と過程
 夢の累層構造をコミュニケーションや認識、そして生成(存在)のプロセスへと接続すること。──たとえば、金沢創氏が『他者の心は存在するか』(金子書房)で叙述しているコミュニケーションの「コード・モデル」批判と「推論モデル」の提唱、デネットによる心的状態に関する階層モデル(コミュニケーションのレベル)とこれを踏まえた金沢氏自身のモデル(他者と自己の情報処理をめぐる進化論的モデル)。──あるいはベイトソンのメタローグや学習をめぐる階層モデル。

[46]夢の累層構造(その4)─この世とあの世、初めての夢

◎意識と基体、夢:覚醒=この世:あの世、あの世の実在性
《「自分は夢を見ていた」という認識が幼児期にはっきりとできあがるということは驚くべきことである。それは自分の生命的連続に自ら切断を入れることであるからだ。夢を見ていた間の自分の意識は、今こうして夢を語っている意識とは別の意識であったということを認める。その夢の意識は終わり、別のものとして自分はある。何らかの同じ基体に担われていながら、意識は別のものへと生まれ変わった。/夢の意識は、明らかに、消えてしまった。しかし、自分は確かにまだこうして意識として存在している。このようにして、夢を見ていたという自覚は、死んでもまだ意識があるのだという希望へと、すでに幼いうちに変換されるのであろう。すなわち、/夢から醒める=この世に別れを告げる/という等式、あるいは、/夢:覚醒=この世:あの世/という比例式が、我々の精神の中に書き込まれるのである。(略)夢からの覚醒という論理を間にはさんで、我々は、あの世はこの世以上にまぎれもなく現実であり、我々はそのような、もっと本当の現実、のようなものを求めるべきだと論じることができるようになったのである。》(233-6頁)

◎初めての夢─累層構造によって「伝導」される夢
《夢を人に語り、その語らいを再び夢に取りこむという演算の発見は、我々人間に、人間の言語活動を、時を越えて果てしなく続かせるという誇らかな営みを、植えつけてしまった。言語を語るということは、現実を夢に変えようとする情熱や、あるいは、何度夢から醒めてもそこはまだ夢の中だったというあの迷路の眩暈と、隣り合わせで地続きの活動である。/しかしこれらの危機を冒してでも夢を語ろうとすることによってのみ、初めの夢に到達できる。そもそも夢の出発点は、眠りから覚めたらこの睡眠中の経験を人に語ろうという、話の欲望なのである。語ろうという意志と語るための言語がなければ人間の夢はないということを再確認しよう。夢とその語らいは同時に発生したものと見なされるべきである。(略)この構造[累層構造]は我々が夢に入ったときに突然始まることではなく、初めての夢から、夢を語る言語の中にまで、我々の無意識として続いている。そのものとしての昔の夢ではなく、累層構造を通じてそれをフラクタル的に書きなおした今朝の夢、そのなかに、我々にとっての初めの現実が運びこまれてきているのである。(略)初めての夢という名に値する夢があるとしたら、それは、自己が自己の現実を言葉によって初めてとらえたときの驚きを含む夢のことである。この驚きを再現しようとすることが、我々が夢を語り合うことの最も深い動機である以上、その夢がたとえ今朝見られたものであっても、それはやはり初めての夢と呼ばれるのにふさわしいのである。》(243-4頁)

[47]備忘録─キルケゴールを思わせる表現のまわりくどさ、目覚めの文体?
 柄谷行人編『可能なるコミュニズム』(太田出版)から。その一、夢の思想と夢の作業、あるいは価値実体と価値形態について。──共同討議「貨幣主体と国家主権者を超えて」で、柄谷氏は、フロイトが『夢判断』で夢の思想と夢の作業を分けていることを踏まえて、夢の思想として語られている事柄(尖ったものはペニスの変形だなど)には疑問を感じるけれど、とにかく一定の「思想」を想定しないと、それがどのように変形されるのかという仕組みやプロセス(ラカンのいう圧縮と置換、メタファーとメトニミーなど)が分析できないのであって、価値形態とはいわばそのような仕組み(dream work)のことであると述べている。

 これに対する山城むつみ氏の「懐疑」。──《価値実体[労働時間:引用者註]は価値形態の結果であって原因ではない、それをあたかも実体が最初からあるかのように思うのは遠近法的倒錯である。ただ実体がまずあるものとして、叙述しないと分析できないからマルクスは叙述の必要上、価値実体論を最初においたのだというようなアクロバティックな読み方はそれはそれで見事だとは思いますが、僕は懐疑的です。僕はもっと素朴な読み方がないかと思います。(略)そうスパッと切ってしまうと、マルクスがそして宇野[弘蔵]もそうですが、ああネチネチと書かねばならなかった事情にある非常に大事なものまで切り落としてしまうことになると思います。》

(203頁) [48]備忘録─意識的抽象と無意識的抽象、夢の抽象力?
 その二、二つの抽象力と無意識。──山城氏の論文「生産協同組合と価値形態」に「思考抽象」(意識のレベルで思考が行う抽象)と「実在抽象」(社会的存在のレベルで、すなわち当事者の意識の外部で無意識的に、たとえば商品交換という行為そのものが行う抽象)という言葉が出てくる。これはゾーン=レーテル(『精神労働と肉体労働』合同出版)が提起した概念で、スラヴォイ・ジジェクはこの「実在抽象」という概念からラカン的な無意識の概念を引き出しているのだそうだ。

《マルクスは、価値に交換価値という印を押し、労働に抽象的人間労働という印を押しているものがどこにあるのか、その場所を特定している。交換行為である。交換行為のなかにこそ、価値を使用価値から抽象して交換価値たらしめ、労働を具体的有用労働から抽象して抽象的人間労働たらしめる抽象力が働いている。/それは、当事者が頭の中で意識的に行う抽象ではない。交換するという行為そのものが、いわば手で無意識的に行なう抽象である。》(263頁)

[49]夢の累層構造(その5)─書物

◎本の世界、一つの夢の内部
《まもなく語り終えられるであろう夢の世界にとって、私がいま読者ととともに見出そうとしているのは「あの世」である。なぜなら私が夢を聞き、それらを書きながら作ったこの本の世界が、一つの夢の内部であるとすると、私がもうじき読者とともに生きようとしているうつせみの世界は、一つの「あの世」だからである。/そしてそれもやがて、夢の語らいの内部にとりこまれ、そこでもう一つの「この世」を作った後、さらに向こう側の「あの世」へと、開かれてゆくだろう。そなわち、読者がこれらの夢を、これから自分の睡眠の中に送り、自らの夢による返信を、やがてまた誰かに送り届けてくださるだろうと私は思うのである。》(245頁)

[50]備忘録─「目覚め」の歴史哲学
 今村仁司著『ベンヤミンの〈問い〉』(講談社)から。──《歴史とは夢の世界であり、それは大抵は催眠状態にある。そこからどのようにして「目覚め」るのか。この「目覚め」の時間論と歴史哲学がベンヤミンの理論的努力の対象になる。》(16頁)


【366】伝導体について─若干の序説的考察と断片的素材(その1)

[51]伝道師の信仰告白のような地点
 村上春樹は、吉行淳之介ほか五名の作家の短編を取り上げた『若い読者のための短編小説案内』(文藝春秋)の「あとがき」で、次のように書いている。──《テキストとしてここに選ばれた作品は、どれも僕が以前から愛好してきた短編小説であって、だから毎回「僕はこの小説のどんなところが、どのように好きなのか。またそれはどうしてか?」という、いわば伝道師の信仰告白のような地点から話は始まることになった。(略)僕はいつも思うのだけれど、本の読み方というのは、人の生き方と同じである。》(240-1頁)

[52]「蜂蜜パイ」─要約
 村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』(新潮社)所収の最後の短編「蜂蜜パイ」に出てくる淳平──兵庫県の西宮市に生まれ育ち時計宝飾店を経営する父をもち、早稲田大学の商学部と文学部の両方に合格したけれど「経済の仕組みを勉強して、4年間を無駄にするつもりはなかった」ので両親には商学部に入ったと嘘の報告をして文学を学び、関西で家業を継ぐことを求める両親とは義絶状態になっている。「生まれながらの短編作家」で、36歳の現在までに『雨の中の馬』『葡萄』『沈黙する月』など四冊の短編集のほか音楽の評論集数冊と庭園論の本、ジョン・アップダイクの短編集の翻訳などを上梓。《彼は自分の文体を持っていたし、音の深い響きや光の微妙な色合いを、簡潔で説得力のある文章に置き換えることができた。》

 学生の頃、淳平は高槻と小夜子の三人で「親密なグループ」を形成していた。高槻と小夜子が「深い仲」になった後、クラスに出なくなった淳平のアパートの部屋に小夜子がやってきて、高槻とは違う意味で淳平のことを必要としているのだと言った。《「何かをわかっているということと、それを目に見えるかたちに変えていけるということは、また別の話なのよね。そのふたつがどちらも同じようにうまくできたら、生きていくのはもっと簡単なんだろうけど」》

 卒業して半年後に高槻と小夜子は結婚した。小夜子が30歳を過ぎてまもなく女の子を出産し、淳平が名付け親になった。《「今だから言うけど、小夜子はもともとは、俺よりはお前に惹かれていたんだと思うな」と高槻は言った。(略)「何はともあれ、これで俺たちは四人になった」、高槻は軽い溜息のようなものをついた。「でもどうだろう。四人というのは、はたして正しい数字なのだろうか?」》──娘の沙羅が二歳になった頃、高槻と小夜子は離婚する。

 神戸の地震のニュースを見て以来、地震男に小さな箱に押し込められると真夜中にヒステリーを起こすようになった沙羅に、淳平は熊のまさきちと親友とんきちの蜂蜜と鮭の交換の物語を語ってきかせる。鮭が川から消えてしまい、とんきちはまさきちから蜂蜜をただでわけてもらうようになったのだが、どちらかだけが与えられるのは本当の友だちのあり方ではないと、山を下りたとんきちは猟師の罠にかかって動物園に送られる。《「かわいそうなとんきち」/「もっとうまいやり方はなかったの? みんなが幸福に暮らしましたというような」と小夜子があとで尋ねた。/「まだ思いつかないんだ」と淳平は言った。》

 離婚後に高槻は淳平に「小夜子と一緒になるのはいやか?」と言う。《「僕がひっかかるのは、そんな風に取引か何かみたいにやりとりしていいもんだろうかということだ。これはディセンシーの問題なんだよ」/「これは取引なんかじゃない」と高槻は言った。「ディセンシーとも関係ない。お前は小夜子のことが好きなんだろう。それから沙羅のことだって好きなんだろう。違うのか? それがいちばん大事なことじゃないか。たぶんお前にはお前のややこしい流儀みたいなものがあるだろう。それはわかるよ。俺の目には、ズボンをはいたままパンツを脱ごうとしているようにしか見えないけどね」》

 沙羅にせがまれて淳平の前で「ブラはずし」(服を着たままブラジャーをはずしてそれをまたつける)をやった夜、小夜子は淳平と初めてセックスをした。《「実を言うと、私はずるをしたの」/「ずるをした?」/「ブラはつけなかったの。つけるふりをして、セーターの裾から床に落としたの」(略)長い時間をかけてお互いを確かめてから、淳平はやっと小夜子の中に入った。彼女は誘い込むように彼を受け入れた。でも淳平にはそれが現実の出来事だとは思えなかった。薄明りの中で、どこまでも続く長い無人の橋を渡っているみたいだった。…》──そのとき寝室のドアがそっと開けられ、そこに沙羅が立っていた。《「地震のおじさんがやってきて、さらを起こして、ママに言いなさいって言ったの。みんなのために箱のふたを開けて待っているからって。そう言えばわかるって」》

 淳平は、夜が明けて小夜子が目を覚ましたらすぐに結婚を申し込もうと思う。そのとき淳平の頭の中では、とんきちとまさきちが離ればなれになることなく山の中で幸福に親友として暮らすことができる物語のもう一つの結末がかたちをとっていった。《とんきちは、まさきちの集めた蜂蜜をつかって、蜂蜜パイを焼くことを思いついた。少し練習してみたあとで、とんきちはかりっとしたおいしい蜂蜜パイを作る才能があることがわかった。まさきちはその蜂蜜パイを町に持っていって、人々に売った。人々は蜂蜜パイを気に入り、それは飛ぶように売れた。…》

《沙羅はきっとその新しい結末を喜ぶだろう。おそらくは小夜子も。/これまでとは違う小説を書こう、と淳平は思う。夜が明けてあたりが明るくなり、その光の中で愛する人々をしっかりと抱きしめることを、誰かが夢見て待ちわびているような、そんな小説を。でも今はとりあえずここにいて、二人の女を護らなくてはならない。相手が誰であろうと、わけのわからない箱に入れさせたりはしない。たとえ空が落ちてきても、大地が音を立てて裂けても。》

[53]文体とはとりもなおさず「意識のあり方」である─翻訳について・その他
 村上春樹は『若い読者のための短編小説案内』で、次のように書いている。

《ひとつの言語で書かれた文書を他の言語=母国語に移し替えるという行為(翻訳作業)は、言うまでもなく一定の文体を必要とします。翻訳をしようという人は、他言語を正確に理解する能力とともに、彼/彼女固有の文体を前もって身につけていなくてはなりません。それによって初めて翻訳は翻訳としての意味を有することになります。しかしそれと同時に、テキストの文体は逆向きに翻訳者の文体をも規定します。他言語のリズムなり生理なり、あるいは思考システムなりは、月の引力が地球の海の干満をもたらすように、その翻訳者の固有の文体に否応なく影響を及ぼします。言語システムを転換するという行為を通じて、僕らの「こっち側」の文体=言語認識は多少の差こそあれひとつの洗いなおしを受けることになります。そのような洗いなおしは、多くの局面において有意義、有益なものであると僕は信じています。文体とはとりもなおさず「意識のあり方」であり、僕らはそのような意識の交流の中から、多くの価値を学ぶことができるからです。僕らは翻訳作業を通じて、複合的な意識の視点を、自然に身につけていくことができます。/しかしプラスばかりではありません。同時にそこには危険性もあります。それはつまり「入超」になるということですね。外部からの「意識」流入が強く大きくなりすぎて、そちらに力が吸い取られてしまって、内部的な要素がうまく吸い上げられなくなる。そうなると、たしかに立派な文章スタイルはできたし、小説的ヴィジョンも立派だけれど、地面に根っこがうまく張れていないということにもなりかねません。これは小説家としては命取りになりかねません。》(203-5頁)

 ──村上春樹にとって、人工衛星(スプートニク=旅の連れ)とは文体(意識のあり方)のシンボルである。だから「(鏡の)向こう側」とは、宇宙空間=言語世界なのである。しかしそこには地球の引力(絆)が及んでいて、その意味で「超越論的」な領域である。絆が切れたとき、人工衛星は無限の彼方へ「超越」していくしかない。──翻訳作業(=言語システム・思考システムの転換=意識のあり方の洗いなおし=意識の交流=複合的な意識の視点をもたらすこと)とは伝導である。──外部からの意識流入。「入超」に陥ること(憑衣と解離)を避けるためには、地球と人工衛星の関係と相同な媒介と超越の契機を、つまり「反復」のための装置(伝導体)を造形しなければならない。──村上春樹にとって、蜂蜜パイとはそのような伝導体のシンボルである。そして「蜂蜜パイ」は、「親密なグループ」あるいは「家族」という伝導体をめぐる「翻訳」の物語であった。

[54]「蜂蜜パイ」─若干の考察
 公表された村上春樹の作品としては最も新しいこの短編小説には、文学的営みそのものをテーマとする叙述のうちに経済行為や精神分析との関係を連想させる仕掛けがこれまで以上に見やすいかたちで織り込まれている。たとえば女性(小夜子)をめぐる取引(交換)、猟師の罠と小夜子の「ずる」、子(沙羅)の命名を端緒とする家族(非−エディプス的なもう一つの親密なグループ?)の形成、地震男と箱、フロイトがファルスの象徴であるといった「三」や新宮一成氏が結婚に結びつけた「四」(『夢分析』第四章)、等々。

 蜂蜜パイを焼くこと(子を産み育てること?)は家族を形成することであり、長編小説を仕上げることでもある。そうすると「これまでとは違う小説」とは、たとえば新しい家族小説とでもいうべきもの──家族というオーガニズムやシステムを叙述するのではなくて、いま仮に家族と名づけた媒介形式(伝導体)そのものを純粋に造形する小説──のことなのだろうか。それともそれは──修正された物語の結末で、とんきちとまさきちが山の中にとどまったように──媒介(蜂蜜パイ)の導入を通じて結びついた家族による、もう一つのデタッチメントの物語への移行(退行)でしかないのだろうか。

 村上春樹は『スプートニクの恋人』(講談社)で、単独者の鏡(媒介)なき二重化の世界とでもいうべき透明な寂寥感と陰影に満ちたムラカミ・ワールドのうちに、なにか血なまぐさいものとしての象徴(媒介)性を招き入れようと試みた。それは、今村仁司氏が『貨幣とは何だろうか』(ちくま新書)でいう「貨幣小説」に、すなわち《人間関係を媒介し、関係の安住と秩序あるいは道徳と掟の世界をつくりだす媒介形式を主題とする》(80頁)小説に関連づけて考えることができる試みだったのかもしれない。

 今村氏は、貨幣は供犠と墓に通じると書いている。──《…貨幣は人間関係のなかの暴力性を一身に体現し、いわば関係のなかの犠牲者になり、そうすることで貨幣形式、つまりは関係の媒介者になる…。/だから貨幣形式そのもの、つまりは貨幣のなかの形而上学的観念性自身が死の観念を内に抱えているのだ。死の観念が抽象的であるように、それは貨幣の形式という抽象的表現をもつが、それは必ず自分の身体(素材)を求める。この抽象的なものはいわば「受肉」する。死の観念が受肉することで、貨幣対象は貨幣形式になり、社会関係の媒介者になる。》(25頁)──《墓が「この世」と「あの世」との媒介者であるのと同じ位置に貨幣は立っている。死者は中間存在であるがゆえに媒介者となり、その死者たちの共同体である墓場は、生ける人間たちの影の絆になる。死者の呼び声が「内的に」感じられるとき、生ける人間の共同体はより一層結束することができる。これは儀礼の形をとった媒介者の例であるが、それは貨幣の論理と同じである。》(27頁)

 そうだとすると、村上春樹は「蜂蜜パイ」を書くことで、『スプートニクの恋人』の最後で示唆した世界の造形を、つまり供犠(媒介)としての沙羅(=さら=更・新、また双樹の「二」につながる?)の消去(地震男の箱=墓に閉じ込められること、『スプートニクの恋人』のすみれのように?)なき「媒介形式」(伝導体)の造形を、より「現実」的な場面設定のもとで試みたなどといえるのだろうか。

 あるいは、もしかすると淳平と小夜子と沙羅は「どこまでも続く長い無人の橋」を渡って地震男がふたを開けた箱の中の世界へ、つまり「山の中」へ入っていったのかもしれない。(山=あの世=超越論的世界・小説的世界、町=この世=経験的世界、蜂蜜パイ=死者=貨幣。)そして村上春樹は「蜂蜜パイ」を書くことで、ただ一度しか起きなかった単独の出来事の普遍性を、つまり唯一のものの複数性(反復可能性)という不可能な出来事を叙述する小説(伝導体)の可能性を示唆しようとしたのかもしれない。

[55]「蜂蜜パイ」─若干の考察・補遺
 今村氏はまた、貨幣は文字に通じると書いている。──《文字と貨幣は、人間文化のなかで、類似した、いやむしろ構造的に同一の位置を占める。どちらも広義の「書くこと」(エクリチュール)を共通に内包している。文字は音声を記号化し、記号として書くように、貨幣は交換行為を記号化し、記号として書きとどめる。貨幣は、物と物との交換だけでなく、人と人との交通関係を記号化して表現する。貨幣は、人と物との両面で、関係の複雑さを凝縮し、圧縮し、縮減する。それは関係の文字化である。》(167-8頁)

 『スプートニクの恋人』のすみれは文字を使って小説を書き、そしておそらくはフロッピー・ディスクにコピーされた文字のように、血も流さず小説世界から消去されてしまった。淳平もまた文字を使って小説を、ただし短編小説を書いている。文字が貨幣に通じ供犠に通じるとしたら、血も流さず消去もされないで長い小説(物語=伝導体)を書き終えることは、もしかするととてつもなく孤独で奇蹟的な出来事だったのかもしれない。


【367】伝導体について─若干の序説的考察と断片的素材(その2)

[56]from soup to nuts
 今村仁司著『貨幣とは何だろうか』を読んでいて頭に浮かんだ言葉。その一、「 from soup to nuts 」。──まず、茂木健一郎氏との対談『意識は科学で解き明かせるか』(講談社ブルーバックス)で、天外伺朗氏が《素粒子というのは、…粒子と波動の両方の性質を持っている。これは豆を煮て作ったスープのようなものだと考えるとわかりやすい。豆を煮てスープを作ると、もう豆は見えなくてドロドロのスープの状態になる。素粒子は普段はスープの状態なわけですが、それを観察すると煮る前の豆に戻ってしまう。…つまり、観測をすると豆になる。観測をしないときにはスープの状態です。これが素粒子の非常に不可解な現象です。》(26-7頁)と語っているの読んで、この言葉を手がかりにすれば中世普遍論争の意味を解き明かすことができはしまいかと突然閃いた。

 そして、ジンメルの『貨幣の哲学』に準拠しつつ今村氏が展開している「関係の結晶化」の定式(「無媒介なもの=渾沌」〜「媒介形式=境界」〜「差異関係=社会関係」)にふれて、これはまさに‘ from soup to nuts ’でもって表現できるものなのではないかと考えた。──実験文学=伝導体の造形とは、パースのスコラ的実在論に関して坂部恵氏が『ヨーロッパ精神史入門』(岩波書店)で述べたように、《個的なものを、元来非確定で、…汲み尽くしえない豊かさをもち普遍者や存在をいわば分有するものと見》る、そのような意味での実在論に立脚した営みなのではないか。

[57]金属的想像力
 その二、「金属的想像力」。──これは雑誌『サイアス』(2000年4月号)に《ここでは金属を、金属結合という様式で原子が結合している物質である、と定義する。金属結合は、イオン化した原子が「自由電子の海」の中に浸っているような状態である。理想的な金属結合は方向性がなく、電子は自由に物質の中を移動できる。》(増子昇・千葉工大教授)と書かれてあったのを読んで、バシュラールの物質的想像力が扱ったテトラ・ソミアに「金属」を加えるならば、何かしらまことしやかな議論を展開することができはしまいかとふと思いついたもの。

 今村氏が論じているのは素材としての貨幣ではなく、形式(媒介形式)としての貨幣(=墓=供犠=文字)なのだが、ここでいう素材の典型はいうまでもなく、十九世紀の金本位制から二十世紀の管理通貨制度へ、というときの「金」属のことだ。──実験文学=伝導体の造形とは、まさに金属結合状の文字機械の造形なのではないか。(伝導体≠生命体。)

[58]『スプートニクの恋人』から─若干の断片(その1)

◎旅の連れ─気の毒な金属のかたまり
《ねえ、あなたはスプートニクというのがロシア語で何を意味するか知っている? それは英語で traveling companion という意味なのよ。『旅の連れ』。(略)でもどうしてロシア人は、人工衛星にそんな奇妙な名前をつけたのかしら。ひとりぼっちでぐるぐると地球のまわりをまわっている、気の毒な金属のかたまりに過ぎないのにね》(144-5頁)

◎媒介なき世界─孤独な金属の塊
《どうしてみんなこれほどまで孤独にならなくてはならないのだろう。ぼくはそう思った。どうしてみんな孤独になる必要があるのだ。これだけ多くの人々がこの世界に生きていて、それぞれに他者の中になにかを求めあっていて、なのになぜ我々はここまで弧絶しなくてはならないのだ。何のために? この惑星は人々の寂寥を滋養として回転をつづけているのだ。(略)ぼくは眼を閉じ、耳を澄ませ、地球の引力を唯ひとつの絆として天空を通過しつづけているスプートニクの末裔たちのことを思った。彼らは孤独な金属の塊として、さえぎるものもない宇宙の暗黒の中でふとめぐり会い、すれ違い、そして永遠に別れていくのだ。かわす言葉もなく。結ぶ約束もなく。》(264-5頁)

[59]鉄─脂肪も重苦しさもない筋肉空間、本質的な力
 ガストン・バシュラール「鉄の宇宙」(渋沢孝輔訳『夢見る権利』所収,ちくま学芸文庫)から。──《鑿は、石については当りまえの征服者ではないか。鉄のほうが花崗岩よりもいっそう硬いのだ。硬い夢想の窮極に、鉄が君臨する。/そのうえさらに、硬い物質とのこの偉大な格闘者は、彫像の内部のマッスが、攻撃の手のとどかない一種の抵抗力を保っていることに気付く。彼は、物質をその内奥まで挑発するような彫刻を夢みる。石の彫刻は、チリーダにとっては、一部の鈍重な空間、それを創った人間が働かせもせずに放置してしまっている空間を内に残している。われわれが物質的空間に接し、それを享受することで本質的な力を蘇生させる、その援けとなるようなことにかけて、石はもうそれ以上なにもできない。石は物塊であって、決して筋肉ではない。エドゥアルド・チリーダが知りたいのは、脂肪も重苦しさもない筋肉空間である。鉄存在こそは、すべてこれ筋肉だ。鉄は凛乎たる力、確然たる力、本質的な力である。》

[60]肉と血─供犠がさし出すもの
 スープ状の金属結合。あるいはスープとは血である。──新宮一成氏は『夢分析』で、夢に出てくる肉片や死体は失われた幼年期の自己(言語活動への参入以前の「もの言わぬ存在」あるいは「肉として生まれた自分の起源の存在」)の価値の社会的等価物であるといった趣旨のことを書いている。──肉としての自己が言語習得以前の自己の価値の社会的等価物であるとしたら、それは端的にいって生命そのものをいうのだろう。あるいは食糧としての肉(パン、パイ生地)、供犠が流す血(葡萄酒、蜂蜜)。蜂蜜パイ。貨幣が経済の血液であるという譬え。

[61]伝導体─単独的な事件が単独のまま複数回起こること、糸巻き遊びと人工衛星
 東浩紀氏は三浦雅士氏との対談「反・現代思想の時代」(『大航海』No.34[2000.6]所収)で、次のように語っている。

《超越論的なものなどない、すべては経験的で相対的だ、という相対主義は分かりやすいのですが、彼はむろんそうではなく、むしろ、「いろいろなところに超越論性が発生する」と考えているように思います。ここらへんがデリダの最も分かりにくいところで、単独的な事件が単独のまま複数回起こる、これが彼の哲学の核心なんですね。/前にも話したことがあるのですが、キルケゴールは「おそれとおののき」でつぎのように書いています。アブラハムがモリヤ山でイサクを捧げようとする。その直前に神が止めに来る。経験的な対象(イサク)に超越論的な命法(神の声)を優先させたこの出来事によって、アブラハムには、ある種の超越論性というか、神の概念がインストールされたわけです。しかしデリダはある論文で、このキルケゴールに言及し、彼の主張を世俗化・複数化していくんですね。なるほど、アブラハムのイサク奉献は重要だった。しかしモリヤ山はひとつではない、それは単独だが世界中いたるところにある。そして世界中でアブラハムがイサクを捧げている。/そして超越論性については、デリダはひとつの魅力的なイメージを提出しています。『郵便葉書』のなかで彼は、フロイトが『快感原則の彼岸』のなかで持ち出してくる糸巻き遊び(「遠い−近い」遊び)に触れているんですね。糸巻きを投げて、戻して、投げて、戻すという子供の遊びです。デリダはこの遊びに思弁の構造を見ています。遠くについて考えて、つぎに近くについて考える、近くについて考え、また遠くについて考える、こういう往復運動が「思弁する」ことだ、というわけです。そしてそこで面白いのは、糸が切れることがあることですね。糸が切れて、考えが遠くに行って戻って来れなくなる。おそらくデリダは、その戻って来れなくなった(配達ミスがあってデッドストックになった)思考を超越論性の原基だと考えているんですね。》(76頁)


【368】伝導体について─若干の序説的考察と断片的素材(その3)

[62]『スプートニクの恋人』から─若干の断片(その2)

◎中国の門、街の魂が宿るところ、供犠の血、物語はこの世のものではない
《門は重要な意味を持つものとして考えられていた。人が出たり入ったりする扉というだけではなく、そこには街の魂のようなものが宿っていると信じられていたんだ。あるいは宿るべきだと。ちょうど中世ヨーロッパの人々が、教会と広場を街の心臓として捉えたのと同じようにね。だから中国には今でも見事な門がいくつも残っている。昔の中国の人たちがどうやって街の門を作ったか知ってる?(略)人々は荷車を引いて古戦場に行き、そこに散らばったり埋もれたりしている白骨を集められるだけ集めてきた。歴史のある国だから古戦場には不自由しない。そして町の入り口に、それらの骨を塗り込んだとても大きな門を作った。慰霊をすることによって、死んだ戦士たちが自分たちの町をまもってくれるように望んだからだ。でもね、それだけじゃ足りないんだ。門が出来上がると、彼らは生きている犬を何匹か連れてきて、その喉を短剣で切った。そしてそのまだ温かい血を門にかけた。ひからびた骨と新しい血が混じりあり、そこではじめて古い魂は呪術的な力を身につけることになる。そう考えたんだ。(略)小説を書くのも、それに似ている。骨をいっぱい集めてきてどんな立派な門を作っても、それだけでは生きた小説にはならない。物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる。》(23-4頁)

◎象徴と記号、一方通行と相互通行の違い、等価形態としての記号
《いいかい、つまり矢印は一方通行なんだ。天皇は日本国の象徴であるけれど、日本国は天皇の象徴ではない。(略)しかし、たとえばこれが、〈天皇は日本国の記号である〉と書いてあったとすれば、その二つは等価であるということになる。つまり我々が日本国というとき、それはすなわち天皇を意味し、我々が天皇というとき、それはすなわち日本国を意味するんだ。さらに言えば、両者は交換可能ということになる。a=bであるというのは、b=aであるというのと同じなんだ。簡単に言えば、それが記号の意味だ。》(42頁)

◎フィクション=トランスミッション説
《世界のたいていの人は、自分の身をフィクションの中に置いている。もちろんぼくだって同じだ。車のトランスミッションを考えればいい。それは現実の荒々しい世界とのあいだに置かれたトランスミッションのようなものなんだよ。外からやってくる力の作用を、歯車を使ってうまく調整し、受け入れやすく変換していく。そうすることによって傷つきやすい生身の身体をまもっている。(略)いちばんの問題は、それがどういうフィクションなのかを君自身まだ知らないことだ。文体も定まっていない。わかっているのは主人公の名前だけ。にもかかわらず、それは君という人間を現実的に作りかえようとしている。もう少し時間がたてば、その新しいフィクションは君をまもるためにうまく働き始めるだろうし、君は新しい世界の姿を見るようになるかもしれない。でも今はまだそうじゃない。当然ながら、そこには危険がある》(92-3頁)

[63]外界−自己(セルフ)−自我(エゴ)
 村上春樹は『若い読者のための短編小説案内』「まずはじめに」で、次のように書いている。──《…僕はこれらの作家が小説を作り上げる上で、自分の自我(エゴ)と自己(セルフ)の関係をどのように位置づけてやってきたか、ということを中心的な論題に据えて、それを縦糸に作品を読んでいくことにしました。それはある意味では僕自身の創作上の大きな命題でもあったからですし、またその「自我表現」の問題こそが、僕を日本文学から長い間遠ざけていたいちばんの要因ではあるまいかと、薄々ではあるけれど以前から感じていたからです。》(19頁)

 また、「僕らの人間的存在」を簡単に説明する基本的なかたちとして──そして、作家が小説を書こうとするとき、それをどのように「小説的に」解決していくか、相対化していくかという決定を多かれ少なかれ迫られる構図として──「外界−自己−自我」という同心円の図を示している。──《自己(セルフ)は外界と自我(エゴ)に挟み込まれて、その両方からの力を常に等圧的に受けている。それが等圧であることによって、僕らはある意味では正気を保っている。》(47頁)

(ところで「蜂蜜パイ」に出てくる地震男の箱は、『神の子どもたちはみな踊る』の最初の短編「UFOが釧路に降りる」で、地震の五日後に妻がいなくなったあと一週間の有給休暇をとった小村が同僚に頼まれて釧路まで運ぶことになった小さな骨箱みたいな箱を思わせる。──その箱の中に入っていたのは、作品の最後でシマオさんが言ったように小村の「中身」すなわち「自己」=魂なのだろうか、それとも「自我」だったのだろうか。)

[64]『スプートニクの恋人』から─若干の断片(その3)

◎媒介なき世界─夢、夢の中には境界線がない、現実は噛みつく
《…純粋に論理的にいえば、それは簡単だ。C'est simple. 夢を見ることだ。夢を見続けること。夢の世界に入っていって、そのまま出てこないこと。そこで永遠に生きていくこと。/夢の中ではあなたはものを見分ける必要がない。ぜんぜん、ない。そもそもの最初からそこには境界線というものが存在しないからだ。だから夢の中では衝突はほとんど起こらないし、もし仮に起こってもそこには痛みはない。でも現実は違う。現実は噛みつく。現実、現実。》(198-9頁)

◎媒介なき世界─鏡のあちら側、何かの取り引き、媒介機能を失った鏡?
《わたしはこちら側に残っている。でももう一人のわたしは、あるいは半分のわたしは、あちら側に移って行ってしまった。(略)あるいはそれは何かの取り引きのようなものだったのかもしれないわね。でもね、何かが奪い去られたというのではないのよ。それはまだ向こう側にきちんと存在しているはずなの。わたしにはそれがわかる。わたしたちは一枚の鏡によって隔てられているだけのことなの。(略)わたしたちはいつかどこかで再会して、またひとつに融合することがあるかもしれない。しかしそこにはとても大きな問題がひとつ残っている。それは、鏡のどちらの側のイメージが、わたしという人間の本当の姿なのか、わたしにはもうそれが判断できなくなってしまっているということなの。》(230-1頁)

◎媒介なき世界─鏡のあちら側、虚像の世界に同時的に密接に含まれた存在、ヨブの物語?
《わたしはミュウを愛している。いうまでもなくこちら側のミュウを愛している。でもそれと同じくらい、あちら側にいるはずのミュウのことも愛している。わたしは強くそう感じる。それについて考えだすと、わたしはわたし自身が分割されていくような軋みを身の内に感じることになる。ミュウの分割が、わたしの分割として投影され、降りかかってくるみたいだ。とても切実に、選びようもなく。/それから、疑問がひとつある。もし今ミュウがいるこちら側が、本来の実像の世界ではないのだとしたなら(つまりこちら側が向こう側だったとしたら)、そこにこうして同時的に密接に含まれ、存在しているこのわたしとは、いったいなにものなのだろう?》(236頁)

[65]解離と反復─幻想の機能に依存する現象、反復のリアリティ
 斎藤環氏は「解離の技法と歴史的外傷」(『ユリイカ』2000年3月臨時増刊「総特集=村上春樹を読む」所収)の冒頭で、次のように書いている。──《九◯年代の村上春樹の諸作品には、反復して描かれる特異なモチーフがある。「トラウマと解離」がそれだ。村上の描くトラウマ─解離現象のカップリングは、そのリアリティにおいて、私の知る限り小説に描かれた最高水準のものだ。(略)精神科医としての私は、解離現象のひとつの本質を臨床家のケースレポートによってではなく、村上の小説を精読することから学んだと言っても過言ではない。この奇妙な事態は、しかし臨床家としての敗北宣言ではいささかもない。解離が幻想の機能に依存する現象である以上、ある種の虚構作品が臨床事例以上にリアルであるような事態も、十分に起こりうるからだ。ともあれその世界では、何かが解離され、何かが反復される。そのことがある種の読み手にはマンネリズムとして受け取られ、また別の読者には、反復のリアリティとして受容される。》

[66]『スプートニクの恋人』から─若干の断片(その4)

◎真夜中のギリシャ音楽、遠く乖離した感触、くらげのように浮遊する魂、実体のない痛み
《よくわからないところで、誰かがぼくの細胞を並べ替え、誰かがぼくの意識の糸をほどいていた。考えている余裕はなかった。ぼくにできるのは、いつもの避難場所に急いで逃げこむことだった。ぼくは息を思いきり吸いこみ、そのまま意識の海の底に沈んだ。(略)時間が前後し、絡み合い、崩壊し、並べなおされた。世界は無限に拡がり、同時に限定されていた。いくつかの鮮明なイメージが──イメージだけが──彼ら自身の暗い回廊を音もなく通りすぎていった。くらげのように、浮遊する魂のように。しかしぼくはそれらには目をやらないようにしていた。ぼくが少しでもその姿を認めたそぶりを見せれば、彼らはすぐになにかの意味を帯び始めるに違いない。意味はそのまま時間性に付着し、時間性はぼくをいやおうなく水面に押しあげていくだろう。ぼくはかたく心を閉ざし、彼らの行列をやり過ごした。/どれくらい長いあいだそうしていたのか、ぼくにはわからない。でも水面に浮かびあがり、目を開けて静かに息をついたとき、音楽はすでに止んでいた。》(249-50頁)

《そして真夜中に山の上から聞こえてきたギリシャ音楽。ぼくはそこにあった魔術的な月の光と、音楽の不思議な響き方を鮮やかに思い出す。その遠い楽音に眠りを覚まされたときに感じていた、遠く乖離した感触を。鋭く尖った何かが無感覚な身体を静かに長く刺し貫いているような、実体のない真夜中の痛みを。》(301頁)

◎言葉というかたちをとるべきではないなにか、沈黙の中の交換
《その手のひらを通じて、ミュウはぼくになにかを伝えようとしていた。ぼくはそれを感じることができた。ぼくは目を閉じてその言葉に耳を澄ませた。でもそれは言葉というかたちをとらない何かだった。おそらくは言葉というかたちをとるべきではないなにかだった。ぼくとミュウは沈黙の中でいくつかのものごとを交換した。》(255-6頁)

◎岩に封じ込められた長い歴史、どこかで血が流されている、ストア派の火?
《でもその世界への行き方がわからなかった。ぼくはアクロポリスのつるつるとした硬い岩肌を手で撫で、そこに染み込み、封じ込められた長い歴史のことを思った。ぼくという人間は否応なく、その時間性の継続の中に閉じ込められている。そこから出ていくことができない。いや、違う──そうじゃない。結局のところ、そこから出ていくことをぼくはほんとうは求めなかったのだ。(略)…ぼくの中では何かが焼き尽くされ、消滅してしまっている。どこかで血が流されている。誰かが、何かが、ぼくの中から立ち去っていく。顔を伏せ、言葉もなく。ドアが開けられ、ドアが閉められる。明かりが消される。今日がこのぼくにとっての最後の日なのだ。これが最後の夕暮れなのだ。夜が明けたら、今のぼくはもうここにはいない。この身体にはべつの人間が入っている。》(263-4頁)

◎記号的な電話ボックスとマクルーハン的な(?)電話、どこかにすでに静かにしみこんでしまった血
《「わたしが今どこにいるか? 昔なつかしい古典的な電話ボックスの中よ。(略)交換可能で、あくまで記号的な電話ボックス。さて、場所はどこだろう? 今はちょっとわからない。(略)あなたと会わなくなってから、すごくよくわかったの。惑星が気をきかせてずらっと一列に並んでくれたみたいに明確にすらすらと理解できたの。わたしにはあなたが本当に必要なんだって。あなたは私自身であり、わたしはあなた自身なんだって。ねえ、わたしはどこかで──どこかわけのわからないところで──何かの喉を切ったんだと思う。包丁を研いで、石の心をもって。中国の門をつくるときのように、象徴的に。わたしの言うこと理解できてる?」(略)そして唐突に電話が切れた。ぼくは受話器を手にしたまま、長いあいだ眺めている。受話器という物体そのものがひとつの重要なメッセージであるみたいに。(略)これでいい。ぼくらは同じ世界の同じ月を見ている。ぼくらはたしかにひとつの線で現実につながっている。ぼくはそれを静かにたぐり寄せていけばいいのだ。/それからぼくは指をひろげ、両方の手をひらをじっと眺める。ぼくはそこに血のあとを探す。でも血のあとはない。血の匂いもなく、こわばりもない。それはもうたぶんどこかにすでに、静かにしみこんでしまったのだ。」》(306-8頁)


【369】媒介と超越─貨幣小説と純粋小説(その1)

[67]経済小説と貨幣小説
 今村仁司氏は『貨幣とは何だろうか』で経済小説と貨幣小説を区別している。経済小説とは──たとえばバルザックやゾラの作品にしばしば商人や産業家や銀行家が登場するように──経済的現象そのものを扱う小説をいう。これに対して貨幣小説とは──ゲーテの『親和力』からボードレールやマラルメの贋金論、ポーの『黄金虫』までの作品系列、そしてジイドの『贋金つくり』に見られるように──「媒介形式」としての貨幣の問題を、経済だけではなく広く人間の根源的経験にかかわる問題として、つまり「文学的認識」の問題として扱った小説のことである。

[68]『親和力』─神話的出来事と結晶体
 今村氏によると、たとえば『親和力』は──結婚という制度的媒介形式が無視されるとどのような渾沌(カオス)が生まれ、そこでどのようなデモーニッシュな力が活躍するかを描いた──「貨幣(形式)の小説」であり、より限定していえば「貨幣形式がどう発生してくるのか、そして一般に人間の安定的秩序がその媒介形式によってどう発生するか」を主題とした小説である。

◎出来事のバックワード・エフェクト
《一般に、物語であるかぎりでの小説は、その発端を後戻りできない出来事の出現に設定する。ゲーテの小説のように神話的性格を濃厚にもつ物語ではとくに回帰不能な出来事は、物語装置を始動させるために不可欠である。/その種の出来事は、必ず外部からの到来という形をとる。(略)『親和力』第一部は、この異人[エドワルトの親友オットー大尉とシャルロッテの姪オッティリエ]の到来の理由が詳細に語られる。そして彼ら四人のあいだに生じる情熱と欲望の対角線が語られる。簡単にいうと、エドワルトは徐々にオッティリエに魅惑されていくし、シャルロッテはオットー大尉を愛するようになる。/ここで婚姻の掟と日常倫理は侵犯される。外部の人間が到来し、その出現という後戻りできない事件が、バックワード・エフェクト(遡及効果)を発揮して、過去の関係を全面的に解体し、新たなる関係を生み出していく。何でもいい事件ではなくて、後戻りできない事件とは、必ずバックワード・エフェクトを引き起こすのである。(略)エドワルトとシャルロッテは、水いらずの状態、つまり外部のものが到来しないときには二人の愛が真実だと心から信じていたのだ。/ところが、大尉とオッティリエの外部からの到来によって、かつての彼らの確信は簡単に揺らいでしまう。自分の魂から発していたと思っていたものがそうではないとわかり、錯覚でしかない「本来の愛」を求めて再び欲望はうごめきだす。最初の真実と思われていたものを解体するのが、外部の人間の出現という出来事のバックワード・エフェクトなのである。/磁気性の親和力的欲望は、無媒介的に自分の親和する相手に向かってストレートに突き進んでいく。(略)こうして、かつての楽園のようなエドワルトとシャルロッテの夫婦関係は解体し、それとともに市民的掟と倫理も崩壊する。》(100-3頁)

◎結晶体─時間の縮減と空間の拡大
《ジンメルがみごとな言葉を残しているから、それをここで援用すると、貨幣は「関係の結晶化」であった。それを私なりに改作して新しい意味を付与するならば、この関係の結晶体は、その関係を構成する時間と空間の動き(の表象)を結晶化しているのだといえる。/媒介形式としての貨幣は、一方では、過去の一切の時間(たとえそれが人間の想像を超えるほどに莫大であるとしても)を現在の経験世界の一個の物体に圧縮し縮減するという不可思議なはたらきをする(これが前に私が指摘し命名した「バックワード・エフェクト」の時間論的側面である。)他方では、よく知られているように、貨幣形式は、人間関係を解体し悲惨な結果を生みだしながらも、関係を分化させ多様にし、ひいては全地球の産物を思いもよらぬ仕方で再結合する。/こうした作用は、貨幣の素材面のどこを探しても、見あたらない。素材貨幣にはそんな力はまったくない。貨幣論が素材貨幣論であってはならない理由が、そこにある。素材にも物体にもそんなデモーニッシュな力がないとすれば、それは媒介形式としての存在あるいは場所のなかにしかない。時間の縮減も空間の拡大も、素材貨幣のしわざではなくて、媒介形式である貨幣のしわざである。》(119-20頁)

[69]『贋金つくり』─家族の物語
 今村氏による『贋金つくり』の二つの主題圏、その一。三つの家族の解体の物語、あるいは「本物が同時に不可分に贋物でもあるという事態」。

《近年では、しきりにシミュラークルの時代であるとか、シニフィエなきシニフィアンの時代であるとか、さかんに議論されたが、完全に指示対象がない、あるいはリアルなものが完璧に消滅する、などということはできない。もしそうなら人は現実性なるものについて語りえないのだから、まさにかげろうのごとき世界になるのだが、そうしたことは十九世紀リアリズムの対極にある贋物中心主義になる。たしかに、そうしたことが事実なら、それは幽霊の世界であろう。しかしそうした幽霊はこわくない。それは張り子の幽霊である。本当にこわい幽霊は、本物であり贋物であるという存在である。すべての存在が本物にして贋物であるという両義的なものになることこそ、恐怖の理由なのである。/アンドレ・ジッドはこの問題をじつに正確に把握している。それは十九世紀の歴史的現実と人間の自己理解とはちがうものが出現したことへの驚きが、彼の小説のなかにはあるのだ。本書の主題に引きこんでいえば、人間が両義的存在になることは、人間がついに完全に貨幣形式に包摂されたことを指している。そしてそのときのみ、厳密に、文学においても、人間を描くときに貨幣の言葉を使うことが正当な語り方になる。ジッドが小説の題名を『贋金つくり』としたのは、偶然ではなく、考えぬかれた結果であるといわなくてはならない。》(140-1頁)

[70]『贋金つくり』─文学論争
 今村氏による『贋金つくり』の二つの主題圏、その二。エドゥワールとストゥルーヴィルーの文学論争。

◎エドゥワールの純粋小説論
《小説から、特に小説本来のものでないあらゆる要素を除き去ること。先ごろ、写真が、ある種の正確な描写に対する苦労から絵画を解放したように、近い将来、おそらく蓄音機が、写実作家のしばしば自慢する写実的会話を一掃することになろう。外部の出来事、偶発的事件、外傷的疾患は、映画の領分で、小説はこれらのものを映画に任せて置けばいい。人物の描写でさえ、本来小説に属するものとは私には思えない。然り、純粋小説は、(そして芸術においては、他の何事においても同様だが、純粋性だけが私には大切なのだが、)そんなものに意を用いるべきではないように思われる。その点、劇の場合と同様だ。劇作家がその人物を描写しないのは、観客が舞台の上に彼らの生きた姿を見られるからだなどと思ってもらっては困る。なぜなら、われわれは幾度舞台で俳優に邪魔されたことだろう。そして、俳優さえいなければ実に正確に人物のイメージをつかんでいるのに、その人物に俳優が似ても似つかぬことに、幾度苦しめられたことだろう。──小説家は、通常、読者の想像力に十分の信頼を置いていない。》(『贋金つくり(上)』101頁,岩波文庫)

◎ストゥルーヴィルーのダダイズム?
《文学は、少なくとも、過去を一掃しない限り、生まれ代ることはできないんじゃないかとさえ思えてくるんだ。われわれは、既成の感情の上に生きている。読者もそれを実感しているような気になる。読者なんて、印刷されたものは何でも信用するからな。そこが作者のつけめさ。自己の芸術の基礎と信じている約束事に頼ると同じようにね。こうした感情は、数取り札同様、怪しい響きを立てるが、結構通用するんだ。そして、《悪貨は良貨を駆逐する》ことをみんな知っているから、本物の貨幣を大衆に払おうとすると、ごまかされるように思うんだ。みんながいかさまをやっている社会では、本物の人間がペテン師に見えるのさ。ことわって置くが、もし僕が雑誌を引受けるとしたら、革袋を引き裂いて、あらゆる美しい感情とか、言葉という約束手形の流通をとめちまうためだ。(略)今日、目のきく若者たちは、とにかく詩のインフレーションにはあきたらず思っているんだぜ。巧妙な韻律、響きのいい抒情的なきまり文句の裏に、どんな臭いものが隠れているか、ちゃんと知っているんだ。ぶち壊そう、と言い出せば、手を借す[ママ]奴はいつ何時でも見つかるさ。一切合財ぶち壊すことだけを目的とした一派を、二人で興さないか?》(『贋金つくり(下)』149頁,岩波文庫)

◎終わりなき反復と二つの実験、金本位制の崩壊と宙吊り
《さて、こうして二人の代弁者をもって闘わせられる文学論争は、結局は、同じ土俵の上での論争であることがわかる。エドゥワールは、現実から遠く離れた純粋言語を追求して、それを現実理解の媒介者に仕立てたいと願う。しかし彼の試みは、今度は逆にイデア的なもののインフレーションを引きおこす恐れがある。(略)インフレは、定義によって、価値の低下を引きおこす。本物であるべきイデア(純粋理念)の減価であり、すなわち贋金である。他方、ストゥルーヴィルーは、現実の通貨の贋金性(非兌換の通貨)を批判する一種の「経済学批判」をやるのだが、実際にできることは、クリスタルガラスを本物と思いこませる手品にすぎない。(略)エドゥワールのように、純粋の本物をめざして出発しても、贋金に帰着するし、ストゥルーヴィルーのように贋金のなかに本物をまぶして流通させようとしても、やはり贋金しか流通させることはできない。こうして小説は終わりなき反復を見せはじめる。(略)これはどういうことか。おそらくジッドは、この文学論争のどちらも可能であると思いながら、同時にどちらにも賛成できない、という宙吊り状態のなかにいるかに見える。(略)この宙吊り状態は、二つの選択肢(純粋小説路線か、言語の破壊か)が決着のつかないままに睨みあっている現実を反映している。それはジッドの宙吊りであるばかりでなく、その後の歴史の経験全体の宙吊り状態、つまりわれわれの宙吊り状態なのである。エドゥワール的実験もすでに行なわれてきた。ストゥルーヴィルー的実験も数多くなされてきた。しかしそれで何かが前進したのか。家族的価値、経済的価値、政治的価値、芸術的価値その他の面で、そうした実験の結果として画期的展望が開かれたとは思えない。依然として世界は、ジッドが描く状態にとどまっている。/ジッドの小説には、金本位制が崩れて通貨と金との兌換が不可能になる事態の先どりがある。非兌換制下の通貨は、十九世紀の金本位制の立場から見れば、贋物の貨幣でしかない。そうした事態は、一九三◯年代以降に世界経済の常態になるだろう。文学のリアリズムが崩壊しただけではない。社会関係のあらゆる領域で、秩序の原点になる「一般等価形態」の崩壊現象、あるいは文化価値としての「金本位制」の崩壊現象が滔々と進展していた。文学における言葉と物との照応の信念が崩れることと、経済、政治、家族などにおける価値中心(金銀という素材貨幣、自由主義国家、父権など)への信念の解体とは、本質的に連動している。/したがって、ジッドの小説は、関係の媒介者としての一般等価、すなわち貨幣形式の崩壊を先どりし、新たな媒介形式がまだ見あたらない事態の過渡期を忠実に映しだしているとも読めるだろう。それは過去のことではない。ある意味では、ジッドの小説は、いま再びアクチュアリティーを帯びはじめているのだ。贋金と本物が区別できない状態は、ジッドの時代にもまして全世界的になっているからだ。》(『貨幣とは何だろうか』160-3頁)


【370】媒介と超越─貨幣小説と純粋小説(その2)

[71]プラトニズムの転倒
 小泉義之氏は『ドゥルーズの哲学』(講談社現代新書)で、『差異と反復』からの引用──超越的なオリジナルを立てて、万物をそのコピーと見做し、その写実度を比較して優劣を判定するプラトンの分割法の「問題は、一定の類をいくつかの種に明確に分けることではなくて、混合した種を、いくつもの純粋な系統に分割すること、すなわち、純粋ではない素材から、純粋な系統を選別することである」──を踏まえて、次のように書いている。

《プラトン主義を徹底すれば、プラトン主義は転倒する。ここにこそ、分割法の最も有意義で最もスリリングな点がある。当初は、オリジナルを模範として、コピーたちを類似度の多寡によって順序付けた。ところが系統は錯綜して、コピーと、コピーのコピーの区別が曖昧になり、コピーと贋物の区別が曖昧になる。真と偽の区別、本物と贋物の区別は消失するのだ。》(92-3頁)

 ──プラトンの分割法が想定する「超越的なオリジナル」の現代版としての遺伝子(純粋言語?)。染色体やDNAは実在するが遺伝子は実在しない。(素材貨幣は実在するが貨幣形式は実在しないように?)それはあくまで理念的でありヴァーチャルである。しかし遺伝子はリアルであり、実在的なものはそこから発生する。《ダウン症候群の遺伝子がリアルであるのは、その実体が染色体やDNAであるからではないし、それが染色体やDNAと同一だからでもない、そうではなくて、ダウン症候群の人間が現に生きているからである。》(104頁)

[72]純粋小説の可能性
 今村氏がいう「贋金と本物が区別できない状態」(宙吊り状態)は、貨幣形式にかわる新たな媒介形式(境界)の導入によって解決されるべき(再び秩序づけられるべき)問題なのだろうか。そのような問題設定にはどこか倒錯したところがあるように思えてならない。──それは小泉氏がいう(ドゥルーズがいう?)「自己」(オリジナルなもの?)の同一性への固執がもたらす思考停止(宙吊り状態)にすぎないのではないか。それよりも、たとえばエドゥワールの「文学におけるフーガの技法」(観念のポリフォニー小説?)が示唆するような普遍的観念の複数性(反復可能性)の方向こそが、つまり「自然に近づく」こと(発生の論理を見出すこと?)こそが『贋金つくり』における文学論争の解だったのではないか。

◎いまや「自己」は思考停止語である
《現代思想は、生命の理論においても、自己という概念に固執している。生命体とは、自己が自己を複製するものであり、自己が自己を組織するものであり、自己と他者の境界や内部と外部の境界を自己自身で設定するものである。こんな具合に、自己概念に執着し、自己概念を迫り上げ、自己概念をめぐるパラドックスを定式化して、それでもって生命の神秘に触れた気持ちになっている。こんな状況は、理論的な閉塞を招き、生命の力の認識を阻害している。たとえ、開かれた自己であるとか、閉じているからこそ開かれる自己であると言ったとしても、同じことである。(略)いまや「自己」は思考停止語である。》(『ドゥルーズの哲学』108頁)

◎自然に近づくこと─文学におけるフーガの技法
《小説が将来に期する唯一の進歩と言えば、より一そう自然に近づくことです。(略)なるほど、心理的真実は個々の真実しかないでしょう。しかし、芸術は普遍的な芸術しかないのです。問題は、かかってそこにあるのです。個々によって普遍を表現すること。個々によって普遍を表現させること、です。(略)…真実であると同時に現実から遠く、個人的であると同時に普遍的で、人間的であると同時に架空的な小説が書いてみたいのです。(略)一方において、現実を提示するとともに、他方、…その現実を消化する努力を見せたいのです。(略)…現実が提供する事実と、観念的な現実との闘争…。(略)『感情教育』や『カラマゾフ兄弟』の日記、つまり、作品の歴史、その受胎の歴史といったようなものがあったら!(略)観念は、人間のように生きています。戦います。死の苦しみを味わいます。無論、観念は人間を通してはじめて認識されるのだとは言えましょう。風にそよぐ葦によって、はじめて風を認識するのと同様です。しかし、やはり風の方が葦よりは大事なんです。(略)僕が狙っているのは、フーガの技法といったものなんです。それで、音楽で可能なことが、なぜ文学で不可能なのか、合点がいかないのだが……》(『贋金つくり(上)』244-51頁)

◎発生の論理─潜在的なものの現実化
《先に、理念的な遺伝子が生物に内在することを示したが、いまやこう結論することができる。理念的で微分的で潜在的な構造から、生物は生い立つのである。こうしてドゥルーズの構造主義だけが、自然に生物が発生する次第を理論化できることになる。/「…発生とは、潜在的なものからその現実化へと進むこと、すなわち、構造からその受肉へと、問題の条件から解の場合へと、微分された要素とそれらの理念的な連結から、さまざまなリアルな関係へと進むことである」(『差異と反復』)。》(『ドゥルーズの哲学』110頁)

[73]実験小説論とポリフォニー小説論
 『贋金つくり』にはいま一つの、いや、本当はもっとたくさんの問題圏が設定されているように思う。たとえば第二部最終章「作者、作中人物を批判す」──《エドゥワールの法則は、彼を駆り立てて絶えず実験をさせる。》──の意味やベルナールが出会う天使の意味、そして精神医学対文学、というより科学と文学の問題。──あるいは「貨幣小説」ではなく「サイエンス・フィクション」。二十一世紀の「アインシュタイン的世界」が「脳髄の現象」の物質的プロセスに関するものであるとしたら、ゾラの実験小説論はがぜん「アクチュアリティー」を帯びるものになっていくのかもしれない。

◎エミール・ゾラの実験小説
《…私はクロード・ベルナールのつぎの言葉を承認できない。「芸術と文学では個性がすべてを支配している。そこでは精神の自発的創造が問題であり、自然現象の確認と共通する何物もない。自然現象ではわれわれの精神は何物も創造してはならないのである」私はここにもっとも著名な科学者の一人が文学に科学の領域への入場を拒絶しようとしているのをまぎれもなく感ずる。彼が文学作品を、「自然現象の確認と共通する何物もない精神の自発的創造」と定義するとき、彼がいかなる文学について語るつもりであるのか私は知らない。実験小説すなわちバルザックやスタンダールの作品を考えてこの文句をかいたのではなかろうから、おそらくは抒情詩を考えていたのであろう。そこで私はすでに述べたことを繰りかえすほかはない。すなわち、形式、文体を別にすれば、実験小説家はもはや特殊な一人の科学者にほかならず、他の科学者たちの道具、すなわち観察と分析とを使用する。われわれの領域はいっそう広大であるという点を除けば、生理学者のそれと同じである。われわれは生理学者とおなじように人間に働きかける。なぜなら、クロード・ベルナールみずからも認めているように、脳髄の現象も他の諸現象とおなじように決定されうることがあらゆる点から信じられるからだ。(略)文学は、ひとびとが何といおうと、その全部が作者にあるのではなく、文学が描く自然にもまた文学が研究する人間にもある。そこでもしも科学者が自然の概念を変えるか、または生命の真の機構を見出したならば、彼らはわれわれを追従させ、新しい仮説のなかでその役割を演ずるために彼らの先駆さえさせるのである。今や形而上学的な人間は死滅した。われわれの地盤はすべて生理学的な人間とともに形を変えるのである。(略)要するにいっさいはつぎの偉大な事実のうちに要約される。すなわち、いまや実験的方法は科学はいうにおよばず文学でも、形而上学が今日まで不合理な超自然な説明しかあたえてこなかった自然的、個人的、社会的現象を決定しつつあるということだ。》(河内清訳「実験小説論」458-60頁,筑摩書房『世界文学体系41 ゾラ』所収)

◎ミハイル・バフチンのポリフォニー小説論
《それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。…ここではまさに、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆくのである。》(15頁)

《現代人の科学的な意識は、《蓋然的な宇宙》の複雑な諸条件に慣れ親しむことを学んだおかげで、いかなる《不確定性》にも狼狽することなく、そうした不確定性を考慮に入れ、算定することができるようになっている。こうした意識にとって、複雑多岐にわたる計算体系等々を内包したアインシュタイン的世界は、すでに久しく見慣れたものとなっているのだ。しかし、芸術的な認識の領域では、いまだに時として、明らかに真実ではあり得ない、粗雑きわまりない、あまりにも原始的な確定性が要求され続けているのである。/ドストエフスキーによって発見された新しい芸術圏に同化し、彼の創造したはるかに複雑な芸術的な世界モデルに習熟するためには、モノローグ的慣習とは決別しなければならないのである。》(望月哲男・鈴木淳一訳『ドストエフスキーの詩学』568-9頁,ちくま学芸文庫)


【371】媒介と超越─純粋小説と私小説(その1)

[74]大地震と宗教戦争、現実の分裂
 赤間啓之著『分裂する現実』(NHKブックス)「あとがき」から。──《わたしは本書において、「現実の分裂」という、一見刺激的なテーマを取り上げ、それを言語存在論の観点からとらえ、言葉=貨幣のアナロジーを通し、「現実の分裂」を「言葉のハイパーインフレーション」の問題として相対化しようとした。それはある意味で、「現実はそれ自身が言葉だ」というラディカルな観念の危うさを、積極的に引き受けることであった。(略)この「何でもあり」の世界に対する処方を求めようとして、わたしはストア派的な立場から、あらゆる可能性を尽くすべきだと考えているのである。本書でも大々的に取り上げた横光利一は、「太平の時代に思想家は哲学者になり、戦乱の時代に思想家は倫理家になる」と語ったが、わたしは、戦乱期の思想としての倫理を、ここに提示しようとしたのだった。ちなみに横光にとっても、思想家=倫理家の代表がセネカであったのは、たんなる偶然ではないだろう。横光は、「日本では人の命は地震によって失われ、ヨーロッパでは宗教戦争によって失われる」とし、多くの地震論を書いたが、そこには、ベスビオス火山の大爆発を体験したセネカの影響がことのほか深い。しかし、阪神淡路大震災からストア的自然論に思いを馳せる間もなく、われわれは、横光の「日本においては宗教がほとんど人間生命を傷つけた大事件はなかった」という言葉までが、オウム真理教事件によって否定し去られる現実を、目の当たりにした。》

 ちなみに「現実の分裂」とは、小林秀雄の言葉である。──《そもそも、小林秀雄の言う「現実の分裂」とは、つぎのような事態を指す。たとえば、われわれが非日常的な、異常な現実を体験し、それを後で言葉に置き換えたとする。言語を絶した体験であればあるほど、そのような言葉には、辻褄の合わない部分が多く見いだされるだろう。しかし小林にとって、それが文学の言葉であるならば、分裂しているのは、「言葉」ではなく、あくまで「現実」の方なのである。彼において、「言葉」は、強いバイアスをかけられ、「現実」の整合性、一貫性よりも確かな、絶対的な存在性を与えられている。》(「まえがき」)

[75]横光利一「純粋小説論」─便宜的な要約
 純粋小説は、物語文学(可能世界の創造)に発する通俗小説を高めたものである。そのためには、感動の根源をなす偶然と感傷(通俗小説の武器)に高度の必然性を与えなければならないのであって、短編小説では純粋小説は書けない。

 純粋文学には三つの困難がある。その一、複数の人間の意識をいかに表現するか。これは日記文学の延長上にある純文学の「日本的記述リアリズム」ではかなわぬことで、要はスタイルの問題である。その二、行為(外部)と思想(内部)の中間に介在して両者を引き裂いている自意識という不安な精神をいかに表現するか。人としての眼、個人としての自分の眼、その自分を見る眼(自意識=媒介的・反省的意識)に次ぐ四人称(虚数的意識?)を設定して、新しい可能世界のリアリティを与えなければならない。その三、偶然に支配された日常生活のうちにある人間をどこまで「小説的人物」として表現するか。通俗的な日常生活のうちにいかに「超越」を見出すか。これは哲学的認識の問題であると同時に、分裂した意識を連結する技術の問題である。

[76]「私小説論」─自意識という実験室、変換式、鏡のある装置
 山崎行太郎氏は『小林秀雄とベルクソン』(彩流社)で、小林秀雄の批評にわかりにくい点があるのは、批評家小林秀雄の誕生という「文学的事件」が二◯世紀の物理学革命(相対論と量子論へのパラダイム転換)の中で生じたものであること、それはむしろ「文学の外部でおこった事件」であったことを見ないためだと書いている。

 もしそうだとするならば、そしてそれは正しいと思うのだが、小林秀雄が「私小説論」で展開している横光利一の純粋小説論批判は、マッハの原理(相対性原理)と観測問題(量子論)とで解き明かすことができるのだろうか。──それは現実が分裂してるんだよ、ロシア(=物理学的世界)の現実が。描写(=言語=意識)の分裂ぢやないんだよ。

◎マッハの原理?
《…ジイドはすべてを忘れてただ「私」を信じようとした。自意識というものがどれほどの懐疑に、複雑に、豊富に堪えられるものかを試みる実験室を、自分の資質のうちに設けようとした。(略)ジイドにとって「私」を信じるとは、私のうちの実験室だけを信じて他は一切信じないという事であった。(略)過去にルッソオを持ち、ゾラを持った彼には、誇張された告白によって社会と対決する仕事にも、「私」を度外視して社会を描く仕事にも不満だったからである。彼の自意識の実験室はそういう処に設けられたのであって、彼は「私」の姿に憑かれたというより「私」の問題に憑かれたのだ。個人の位置、個性の問題が彼の仕事の土台であった。言わば個人性と社会性との各々に相対的な量を規定する変換式の如きものの新しい発見が、彼の実験室内の仕事となったのである。》

◎観測問題?
《ここでジイドはある装置を発明した。先ず「贋金造り」という全く同じ小説を書いている小説家エドゥアルを小説のなかに中心人物として登場させ、これに本人の鏡を持たせる。彼にはジイドという作者を彼の鏡に映す権利がある。そこでジイドは手ぶらで立っていては自分の姿がはっきりと映されてしまうから「贋金造りの日記」というものを書き、この小説制作についての作者の日々の感懐を述べてそこに自分の鏡を置いて、エドゥアルの鏡に対する。作者の姿は消え小説自体がのこるという仕掛けである。こういう装置によって、読者は、創造的な現実の最も純粋な姿に接する。ここにジイドの純粋小説の思想がある。》


【372】媒介と超越─純粋小説と私小説(その2)

[77]私小説について
 柄谷行人著『倫理21』(平凡社)から。──《厳密に定義すれば、私小説とは、作品外の文脈に依存しなければ成立しない小説を指します。》(25頁)

 村上春樹著『若い読者のための短編小説入門』から。──《私小説というのは、自己を外界あるいは社会に対峙させることで、小説=反物語を成立させている…。》

(170頁) [78]連作小説─純粋小説の形態?
 連作という仕掛けがもつ意味について。──作品(短編小説)外の文脈を作品(短編小説集)の内部につくること。反=反物語。

[79]反復的に創作すること─小林秀雄の反復=実験(「創作」=「批評」)
 山城むつみ氏は「小林批評のクリティカル・ポイント」(『文学のプログラム』所収,太田出版)で、小林秀雄がドストエフスキイの原作第三編の最終部分をそのまま、ただし引用せず反復的に再構成している「『罪と罰』についてII」の奇怪で異様な書きざまをめぐって、《小林は『罪と罰』を書こうとしているのではないだろうか。しかも、『罪と罰』の小林ヴァージョンをではなく、妙な言い方になるが、小林はあのドストエフスキイ作の、あの『罪と罰』を書こうとしているのではないだろうか》(29頁)と指摘している。

《「『罪と罰』についてII」の発表から四年後、「『白痴』についてII」の連載が始まる。このエセーにおいて小林は先の「『罪と罰』についてII」を踏まえながら、より大胆に「創作」=「批評」を試みている。作者の「生活」と「作品」のはざまに開いた空隙、つまり創作の現場に自身を保持しようとする試みがこのエセーにおけるほど赤裸々であったことはない。/ドストエフスキイはどんな創作動機から、またどんな創作方法により『白痴』を書いたか。これが小林が渾身の知力を振り絞って明察しようとしている問題である。だが、その関心は創作の動機と方法を分析してその秘密を解明してみせることにはなかった。そんな関心ならドストエフスキイ研究者の誰もが共通して持っている。小林の関心は、そのような独創的な余りに凡庸なことにではなく、自らドストエフスキイの創作の動機と方法を会得し、その会得されたところを実験してみること、つまり、自分自身が『白痴』を書くことにあった。》(37-9頁)

[80]体験文学としての哲学
 小林秀雄「感想(二)」から。──《様々な普遍的観念(idees generales)の起源や価値をめぐる問題に関する論争で、哲学史は一杯になつてゐるのだが、もし、さういふ所謂哲学上の大問題が、言葉の亡霊に過ぎぬ事が判明したなら、哲学は「経験そのもの」になる筈だ、とベルグソンは考へた。実際、彼は、自分の哲学をさういふものにした。哲学といふ仕事は、外観がどんなに複雑に見えようとも、一つの単独な行為でなければならぬ。彼はさういふ風に行為して、沈黙した。彼の著作は、比類のない体験文学である。体験の純化が、そのまま新しい哲学の方法を保障している。さういふものだ。》(山崎前掲書228-9頁)

[81]思考のかたちとしての小説─純粋小説のもう一つの形態?
 保坂平志著『〈私〉という演算』(新書館)から。(同書の帯には「思考のかたちとしての九つの小説」と記してある。)──《〈私〉についてこうして書いている〈私〉という存在は、いつか〈私〉がいなくなったあとにかつていた〈私〉を想起する何者かによって〈私〉の考えをなぞるようにして書かれた産物である、といったような言い方でもいい。あるいは、〈私〉が〈私〉でない何者かによって想起された〈私〉であったとしても想起の主体がそれを〈私〉といい想起された側もまた〈私〉なのだと思っているのならそれがまさに〈私〉というものなのだ、という言い方でもいい。〈私〉という意識が〈私〉に生まれたときから〈私〉とは動物が自分を感じるようなものではなくて〈私〉という意識を作り出すシステムによってもたらされた〈私〉とならざるをえないのだから〈私〉とは絶えず生物学的な自分とズレたところに見つけるしかないということなのかもしれない。/こういう〈私〉にまつわる操作とか畳み込みのようなものを仮りに〈〈私〉という演算〉と呼ぶなら、〈〈私〉という演算〉が複雑になればなるほど、リアリティが生まれてくるような気がする。》(「〈私〉という演算」)

[82]ただ精神(伝導体)によってのみ聞かれうるもの
 伝導体の主要機能は、いうまでもなく「間接的伝達」(キルケゴール)なのだが、このことに関して保坂平志氏が「二つの命題」(前掲書所収)で抜き書きしているアウグスティヌスの文章が興味深い。

《その際、神は、なんらかの物体的被造物をとおして、つまり、身体的な耳に聞きとれるような音色を発する音とそれを聞く者との間に介在する空気の拡がりを震動させるようにして、人間と語られるわけではないのである。また、物体に似たようなものによって表象される仕方、たとえば夢におけるように、あるいは何かそれに類するものにおけるような仕方によって語られるわけでもないのである(じっさい、このばあいもいわば身体の耳に語られることになるのであって、それというのは、それは物体をとおして物体的な場所と場所とのあいだに介在する隔たりのなかで語られるからである。この種の幻覚は、物体とひじょうに類似性をもっている)。そうでなく、神が語られるのはまさに真理そのものによるのであって、それは身体によらずただ精神によってのみ聞かれうるものである》(服部英次郎訳『神の国』第十一巻第二章,岩波文庫)

[83]「文字について」─伝導体のメカニズムと機能
 横光利一は「文字について」(『定本横光利一全集 第十三巻』所収,河出書房新社)で、文学作品という「われわれに幻想生活をなさしめる一個の物体」(伝導体)のメカニズムと機能を叙述している。

 まず文学作品は、文字という物体を第一要素とする(文字の羅列なる文学作品)。読者はその知覚と感覚とに従って文字の形式からエネルギーを感じとり、このエネルギーが文字の内容(幻想、意味)となる。エネルギーの量は読者の頭脳によって変化するのであって、この意味で文学作品は読者から(そして作者からも)独立している。──発声音響そのものを楽譜代わりに文字をもって記録した戯曲は、音響に含まれたエネルギー(文字の意味)に重心を置く場合を除き、「純粋文学」ではなく音楽の部に属する。

 次に文学作品は、文字−言葉−句−部節−構成という全体的形式からできている。この形式の増大が内容の増大をもたらすためには、文字の羅列としての外面形式の裏に潜む内面形式(材料、骨、原型、思想)──エネルギーを発する形式のうちエネルギーを強めた形式の頂点のみの連鎖によって生じてくる新しい形式、作品中における幻想生活の中心をなす部分のみの集合──の形成が必要である。

《しかし、内面形式となる強烈なエネルギーの頂点といえども、薄弱なエネルギーの群成から生じているのであるが故に、薄弱なエネルギーを発する形式がなければ、強烈なるエネルギーは発生しない。即ち、薄弱なエネルギーがどこまで連続して強度のエネルギーを形成したかと云う、時間の問題が生じて来る。此の時間を速度(テンポ)と云う。此のテンポと内面形式がいかに調整せられてあるかと云うことによって、その作品の構成から湧き上る全体的なエネルギーが生じて来る。作品に於ける幻想生活の満足とは、そのテンポと内面形式との完全な調和を意味する。》


【373】解離と結合─若干の素材と補遺(その1)

[84]キャラクターとしての文字、透明な「私」
 文字は「キャラクター」である。──今村氏によると、文字は墓の比喩を介して貨幣へ、つまり媒介形式へとつながっていく。

《なぜ人は文字[ここで今村氏が論じているのは広い意味での文字、つまりレターやキャラクターとしての文字ではなくエクリチュールやライティングとしての、つまり書くことと書かれたものの両方に通じていく文字である:引用者註]を恐怖するのか。あるいはもう少し限定していうと、なぜ思想家たちは文字を恐れてきたのか。デリダが指摘しているように、自己が自己に現前するというアンティーム(親密)な生、自分と自分が分裂しないで「ただいま現在、私はまさに私である」という感情を、文字は逆なでし、自己の固有性/自己性/本来性を解体するからである。(略)障害物、媒介者、中間者がいない状態を透明という。再び「私」の例を使うと、私と私との間に中間者が存在するならば、私の自己性は分裂する。およそ「私」の「分身」ほど恐ろしいものはないが、私の内部に亀裂が走るとはそういう分身状態なのである。》(今村仁司『貨幣とは何だろうか』175-6頁)

[85]伝導体の不透明性─キルケゴールを思わせる表現のまわりくどさ
 唐突だが、ヘーゲルの叙述の「くどさ」はヘブライ的パラレリズム(対句法)を連想させる。──ヴィンフリート・メニングハウスは『無限の二重化』(伊藤秀一訳,法政大学出版局)で、二重化構造としてのパラレリズムが芸術・呪術において一般的に認められるものであることを、初期ロマン主義者の反省理論を起点とし、ベンヤミンの「ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念」の批判的受容とジャック・デリダの理論への接続を通じて論じている。

《パラレリズム的自己増殖の理論とは事実上、詩的自己鏡像化もしくは詩的自己反省(反射)の理論にほかならない…。ここでパラレリズムが果たす役割は、単に数ある反省的自己二重化の中で特に人目を引く範例としてのものではない。むしろパラレリズムとの理論的な取り組みは…、はじめは部分的な概念だったものを包括的で普遍的な概念へと強化し、それによってこれを詩的反省の普遍理論と共通の外延を持つものにしていこうとする傾向をもつものなのである。》

[86]解離型社会─キャラ立ちの国、複数の一人称
 「表象精神病理学」を標榜する斎藤環氏は『ユリイカ』(2000年4月号「特集=多重人格と文学」)誌上の対談で、大澤真幸氏の発言──コンテクスチュアルな関係の中で「ペルソナ」を使い分け、コンテクストを貫通する自我が希薄であると指摘されてきた日本よりも、ヨーロッパ近代の上澄みだけを移植してできあがったアメリカにおいて、個我の核があっさりと雲散霧消してしまっているかに見える多重人格(解離性同一性障害)が頻繁に観察されるのはとても奇妙に見える──を受けて、次のように語っている。

《一ついえるのは、私は多重人格の交代人格は、ペルソナではなくて「キャラ」だと考えているんです。要するに隠喩的ではなくて換喩的であるということでもあります。岡野健一郎さんというアメリカで臨床されている方もいっていますが、日本人は日常の中で一人称を複数持っていて、「僕」や「俺」「わたし」などですね、それこそ素朴なレベルでキャラを使い分けている。雑誌などを見ても、言葉として「キャラが立つ」や「キャラがかぶる」ということが日常レベルである。既にそれが日常化していることが先行的にあるので、病理として今さら出てこないのではないか、というのが私なりの考えです。》(101頁)

[87]複製技術時代のオーラ─コピーをコピーのままでオリジナルにすること
 東浩紀氏は「存在論的、広告的、キャラクター的」(『広告』2000年3・4月号所収)で、「キャラ立ち」とは「複製技術時代のオーラ」であり、キャラクターとは「オーラがあるコピー」のことだと述べている。

《目の前の人間には、独特のオーラがある。人間は複製不可能なものだから。それに対して、イラストのキャラクターはいくらでも複製可能だから、これはオーラがない。ところが、「キャラが立って」くると、ひとはその複製からオーラを感じるようになってしまう。(中略)複製可能なものを複製不可能にすること、コピーをコピーのままでオリジナルにすること。これがキャラクター文化の核にある欲望だと思います。》

[88]世界の不連続性と連続性─超越(ジャンプ)と結合(リンク)?
 斎藤氏は「Characterized Psychoanalytic Matrix 論序説」(『広告』2000年3・4月号所収)で、隠喩が対象の抽象的な特徴に注目するのに対して、換喩は対象に隣接する事物に注目することを指摘し、この関係は「シンボル」と「イコン」の関係に平行すると述べている。

《精神分析でシンボルと言えば、ほぼ言語とイコールになりますね。言語、すなわちシニフィアンは、隠喩的な連鎖をなしてつながっています。この連鎖は最終的に、ファルスという究極のシンボルに行き着くわけです。いっぽうイコンは、対象物の写しのことです。つまり部分的にせよ対象に似ている必要があるわけです。したがって相互に関連はありませんし、対象とは類似という関係だけでつながっています。こちらはむしろ、換喩的な連鎖という言い方が適切でしょう。(略)さらに言えば、隠喩というのは、世界の不連続性を前提としています。異なった世界を、抽象的な特徴、さらに言えば一つのシニフィアンを媒介にしてジャンプすることが、隠喩の効果です。隠喩の機能というのは、対象物のある特徴を抽出して、その特徴を別の文脈、別のカテゴリーに展開してみせることでしょう。たとえば「血」と「薔薇」を隠喩で結ぶには、「赤」という特徴(=シニフィアン)を抽出し、それを媒介にして、血と薔薇という異なった対象を結びつけなければならない。いっぽう換喩は、類似性、隣接性などが重視されることからもわかるとおり、世界の連続性を前提にしている。》

 斎藤氏が規定する隠喩と換喩、シンボルやイコンとの平行関係、シンボルと言語の等置関係については、いま少し吟味が必要だと思う。──たとえば茂木健一郎氏がいう「神経現象学」の三つの「難しい問題」、すなわちクオリア−志向性−「私」という三つの「心的表象」の問題は、換喩的連続性(解離・結合性)−提喩的不連続性(抑圧・超越性)−隠喩的接続性(移動・類似性)などと規定できそうだし、それらはインデックス−シンボル−イコンと平行しているのではないかと思う。さらに仮説を加えると、イコンがもつ媒介性あるいは二重性(鏡にして仮面?)が分裂すると、そこに第四の心的表象・比喩形象・記号形態・メディア(オリジナルに対するコピーあるいは内部観測者?)が見出されるのではないかと思うのだが、これもまた相当な吟味が必要だ。

[89]永遠に連鎖する切り方─宇宙の根源的な在り方を示す四辺形
 唐突だが、ここで横光利一の「旅愁」を思い出す。──以下は、大熊昭信著『文学人類学への招待』(NHKブックス)第6章「透明な三角形──汎記号過程論にむけて」から。

《作中、主人公の八代が、日本の神社の御弊を数学と関連づけているところがある…。あの白い四辺形の切り方は永遠に連鎖するような切り方をされているのであるが、その形に宇宙の根源的な在り方が示されているというのである。「一枚の白紙を無限にずるずると切り下げて垂らしていく弊帛を、宇宙の形と信じた太古の日本人」のことを語っているのだが、だとすれば、日本人にはそのはじめから根本的な世界認識において四辺形に思いを馳せるような幾何学的な想像力があったということになる。》(157-8頁)


【374】解離と結合─若干の素材と補遺(その2)

[90]キャラ化された精神分析的基体─仮面(ペルソナ)と鏡像(キャラ)
 斎藤氏は「キャラクター」に基づく日本人の主体イメージを──トーマス・オグデンの“The Matrix of the Mind”(1986)の向こうをはって──「キャラ化された精神分析的基体(Characterized Psychoanalytic Matrix)」と命名し、「欧米型主体−ペルソナモデル」と対比させている。

 斎藤氏によれば、キャラとは対人関係のためのインターフェイスのことであり、関係性を前提として生成するものなのだが、これだけならペルソナや仮面となんら違わない。──キャラは換喩的な記号であり、それゆえ主体の完全な記号ではなく主体を欠損した形で代表する記号であるがゆえに、それは常に主体の全体性もしくは複数性を背景にした互換性をもつ記号として表象される。対人関係の文脈において、主体がいつでもそれに「なる」ことが出来る生成的な記号が「キャラ」なのであり、したがって主体とキャラの関係はしばしば「多対多」の関係であり得る。(斎藤氏は「日本型CPMモデル」の図解で、西欧型の単一の主体の位置に「鏡像」を対応させている。)

 これに対してペルソナの背後には、唯一にして真実の「単一の(欠如した)主体」が析出される。それは「欠如の痕跡」としてイメージされる。それは空虚であるがゆえに隠喩的な複数のペルソナを「持つ」ことができる。ここでペルソナの複数性と主体の単一性が同時に必然的に確保され、したがって主体とペルソナの関係は「一対多」の関係になる。(斎藤氏は「欧米型主体−ペルソナモデル」の図解で、日本型の「キャラとしてまなざし、キャラとしてまなざされる関係性のマトリクス」を介して「鏡像」と対応する複数の主体の位置に複数の「ペルソナ」を対応させている。)

《もちろん僕は「ラカン萌え」ですから、主体は常に単一で、本質的な欠如を抱えていることを普遍的な前提として考えてはいます。つまり、否定神学の頑迷な信奉者です。この点はおそらく日本人でも変わりがない。ただ、想像的な主体のイメージとして「キャラ」があると。もっと言えば、象徴界と想像界の結び目的な位置に「キャラ」があると考えてみるわけです。これだとちょうど「対象a」の位置ということで、理論的一貫性が維持できますね…。これによって、たとえば心的外傷が象徴界を経て想像界に作用するとき、その作動経路がかなり異なってくるのではないか。欧米型の主体は、シニフィアンがそのままイメージ化ないし幻想化されるようなルートが優位であるとすれば、日本型の主体は、このルートのどこかに「キャラ化」の過程が介入しているように思えるのです。ここですぐ連想されるのは、やはり「かな漢字二重表記」などの問題系ですが…。》

[91]雑録─日本語について・その他
 その一。石川九楊氏は『二重言語国家・日本』(NHKブックス)で、日本語が西欧語やイスラム語や中国語のように「天」を恢復するためには、縦書きを復活することが必要不可欠だと書いている。──《日本語は、唯一、縦(垂直)に書くことによって、天から地へのベクトル、つまり重力を意識し、重力を意識することによって、わずかながらも「天」を意識し、世界と共同につながろうとする、自省の契機をもつことになる。》(220頁)

 その二。養老孟司氏は、漫画(絵)とふきだし(科白)の関係は漢字とルビに対応すると述べている。(『脳+心+遺伝子 VS. サムシンググレート』ほか)

 その三。山城むつみ氏は「文学のプログラム」で、ラカン『エクリ』日本語版の序文──《どこの国にしても、…自分の国語のなかで支那語を話すなどという幸運はもちませんし、なによりも…、それが絶え間なく思考から、つまり無意識から言葉[パロール]への距離を触知可能にするほど未知の国語から文字を借用したなどということはないのです。》(宮本忠雄ほか訳)──を踏まえて、次のように書いている。

《ところで「無意識から話し言葉への距離」──ヘーゲル的なもの言いをするなら、私念と言語との距離、つまり〈言わんとしたこと〉と〈言われたこと〉との間の距離──は、それ自体が「無意識」であり、精神分析の最終的な対象である。精神分析の任務は、通俗に理解されているように、潜在意識を顕在化してみせることにあるのではない。究極的には、無意識と話し言葉との間の距離としてある「無意識」のメカニズムを解明することにある。してみれば、そのメカニズムを言語的な装置、すなわち文字通りメカ、あるいはマシンとして持っているような言語──ラカンは日本語がそうだと言うのだが──においては、精神分析はそのような言語装置を、文字通り機械的に記述すること以上のものではなくなる。日本語を占有する人のだれひとりとして精神分析されることを必要としていないのは、日本語の構造そのものが、すでに精神分析的だからである。》(164)

[92]原抑圧と原解離─言語と記号
 斎藤環氏は『文脈病』(青土社)で、次のように書いている。

《われわれの心的組織が「原抑圧」ではなく「原解離(それがどんなものかは想像もつかない!)」によって発生していた可能世界を想像してみるとする。そこでは、われわれは言語ではなく純粋な記号によってコミュニケーとしていたであろう。/記号によって「語る」ことは言語によって語ることとはとうぜん異質のものになる。それがもしも記号であるのなら「虚構」の機能は排除される。なぜなら完全に「記号」のみに基づくコミュニケーションには否定作用がないからだ(いうまでもなく「×」や「斜線」が否定を意味するのは言語を媒介とした約束事に過ぎない)。「虚構」の虚構性が、ベイトソンのいうように「コレハ虚構デアル」というメタ・メッセージによって成立するのなら、こちらは完全に言語機能に依存する。そして言語の否定機能の発生は、心の起源としての Fort-Da あるいは「原抑圧」に全面的に負うものなのである。/だが、たまたま原解離は起こらなかった。しかし、われわれの心は、それでも解離を欲している。そして、その根拠はわれわれ自身の語りのなかに、いつのまにか発生している。われわれはしばしば「自分に自信がない」とか、「自分の中でそう思った」などといった言い回しを用いていないだろうか。これらの語りの構造は、ごく自然な手つきで主体を分裂してみせる。そこには解離への欲望が潜んでおり、その意味でこれらは、すぐれて現代的な「ヒステリー者の語らい」とみなされるべきであろう。》(222頁)

[93]言語と記号、二つの恣意性
 赤間啓之氏は『分裂する現実』で、十九世紀初頭シャンポリオンの解読によってロゼッタストーンの象形文字は「何者かある特異な個体のために何かを表すもの」であることをやめた、と書いている。古代人にとってのみ何かを表していたヒエログリフは、われわれにとっても理解可能、コミュニケート可能なものになった。そのとき、「記号としての言語」が言語そのものとなったのだ。

《言語が言語になるとは、「記号としての言語」の場に自分が他者として入っていって、そこで言語を解するひととなる、ということだ。つまり記号を支えていた「ある特異な個体」との間で理解関係を結べたということであり、それはそれまでは無知無学の学者パブロフが、実験によって「パブロフ」(カッコ付きのパブロフ、犬の記号を理解するパブロフ)に化したということを意味する。つまり言語が記号でなくなり、「言語になる」というのは、記号の担い手に成り代わる「主体」となったということなのである。》(85頁)

 赤間氏はまた「同じ言葉の中に、意味が二つ以上の幻想を含んでゐるから、戦争は起り易い」という横光利一の言葉を引用し、言葉は自分が作り出した意味の膨脹に抗しきれなくなったとき「戦争というカタストロフィ、生の現実の露呈」(=言葉のたがを失った現実の分裂)をもたらすのだと書いている。

《さて、ここに至ってふたつの恣意性の観念がようやく判然としてきた。いわゆる言語学的恣意性は、音声的側面に対象を限局し、言語的世界の自律性を強調するあまり、アナグラムに見られる言葉遊びのような、表層の戯れに陥ることがある。しかし一方で、言語における視覚的側面に着目すると、現実自体が言語として象徴化されているという、現実(学)的恣意性の観念が現れてくる。そこにはもはや遊戯はなく、戦争とその原因をめぐる深刻な、しかし答えのない問いかけが為されるのみだ。》(123頁)──《現実的恣意性に則って、言葉は概念ばかりか物まで生み出すことができるのである。》(158頁)

[94]疑似全体知と解離─映画体験?
 斎藤環氏は『文脈病』で、《物語が虚構として十全に機能するためには、逆説的なようであるがリアリティによる媒介が欠かせない。》(156頁)と書いている。ここでいうリアリティは、ラカンの「対象a」の機能である。

《共同体と外部、その境界の侵犯と回復、そうしたモチーフが「リアル」たりえないのは、もはやわれわれがそうしたものの実在性を信じることができないためだ。/かつてわれわれは鏡像段階において、鏡に映る自分の姿に歓喜しつつ、みずからの全体性を視覚的に先取りしたのだった…。それと同じようにして、われわれはこの世界の全体性を、TVとさまざまな電子メディアによって(半ば強制的に)視覚的に先取りさせられてしまっているのである。この疑似全体知は、たとえまったく見たこともない異国の風景や風俗に出会ったとしても、こゆるぎもしないほど想像的に確立されている。これがおそらく「共同体と外部」から物語性が剥奪された原因のひとつに数えられるだろう。いまや物語を析出させるような落差や辺境はどこにもない。そしてこのことは冷戦構造の終結によってさらに決定的になった。なにしろわれわれはそれが終結する瞬間を、ある意味では「目撃」しているのだ。その瞬間についての表象はひとそれぞれであるにせよ。/それでは、現代のリアルな物語はどこに形成されているのだろう。/現代の物語は、例えば「人格」の周囲に形成されている。》(158-9頁)

[95]クオリアと志向性─映画体験?
 茂木健一郎氏は『脳+心+遺伝子 VS. サムシンググレート』(徳間書房)で、次のように語っている。

◎クオリアは世の中にあふれている─マッハの原理?
《…ニューロンがあるパターンで発火すると、このようなクオリアが生じるという対応関係が、自然法則で決まっているのではないかと考えるのです。しかも、本当のことを言うとクオリアを持つのは生物である必要もないかもしれない。本当はニューロンの活動じゃなくてもいいかもしれないのです。最近出てきているたいへん面白い考え方というのは、実はクオリアは世の中にあふれているということなんです。つまり、ニューロンが他のニューロンとどういうふうに関係し合うかということでクオリアが決まってくる。でも、実はそういう関係性は世の中にほかにもいっぱいあるんです。つまりニューロンの活動じゃなくても、水の分子の関係性とか。》(193頁)

◎志向性は私の中の無意識にも向かっている─観測問題?
《…言葉の発話というのは一種の運動だから、脳の領野でいうと運動野の近くの補足運動野とか運動前野というところで司っているんですけど、そこで起きている無意識のプロセスに私の意識の志向性が向かっている。言葉を出すプロセスというのは、だいたいこんな感じのことを出そうかなというところを志向性がコントロールしていて、実際言葉を出すプロセスは無意識なわけです。…言葉の発話の場合には志向性は無意識の発話のプロセスに向かうわけです。このように考えた時に、どうもクオリアというのは私の中心にあるのではなくて、「私」と外の世界との境界にあるっていう感じだと思うんです。むしろ私の中心の方にあるのは、志向性の方であり、その志向性は私の中の無意識にも向かっている。》(201-2頁)


【375】解離と結合─若干の素材と補遺(その3)

[96]順不同の補遺(その1)

◎埴谷雄高の『死霊II』に出てくる「死者の電話箱」「存在の電話箱」。──電話箱とは映画館のことなのだろうか。(あるいは複数世界=可能世界=平行世界が電話線でつながる?)

◎アソシエーションとディソシエーション。──斎藤環氏のホームページ[http://www.bekkoame.ne.jp/~penta2/]に掲載されていた「解離現象からみた「おたくとオウム」」に、「解離型社会」における「倫理」についての記述がある。

《筆者がここで「倫理」としてよりはむしろ「おたくのためのスキル」として強調しておきたいのは、以下の三点である。「現世利益」を含む多数の虚構コンテクストを等価ならしめる、唯物論的な基盤を忘れないこと。コンテクスト・レヴェルの的確な判断力と、いつでもメタ・コンテクストへとジャンプしうる柔軟性を鍛えておくこと。解離したコンテクストに自閉せず、諸コンテクスト間の交通を回避しないこと。》

◎物質と生命。──郡司ペギオ幸夫氏のホームページ[http://shidahara1.planet.sci.kobe-u.ac.jp/nonlinear/gunji.html]に掲載された「これまでの研究概要」は、実に示唆に富んでいる。たとえば次の文章。

《…筆者の目的は、生命という問題を如何に解読すべきなのか、の理論にあるが、それは現在、観測志向型理論の整備という形式でまとまりつつある。すなわちタンパク質であれ、生物個体であれ、シリコンの計算素子であれ、観測の効果を無視し、状態志向型理論の中で記述する限り、それは物質と呼ばれ、観測志向型理論で記述される限り、生命と呼ばれることになる。状態志向型理論に留まって生物系を記述する限り、複雑な機械、複雑な積木細工以上の描像は決して得られないのである。この点に関しては汎世界的にかなりのコンセンサスが得られつつあるものの、観測志向形理論をどのように整備するかに関しては、…大きく二つのアプローチに大別される。(略) 観測以前・以後の非対象性に関する二つのアプローチは、階層構造に関して全く異なる描像を提示する。ここでは共に、観測速度の有限性を考慮するから、一点の局所記述は可能でも、異なる複数の局所記述には不定さを伴うこととなる。しかし、内在物理学の立場では、この不定さは特定の記号として確定される。ひとたび「?」としての確定を許容するなら、大域的記述は、記号化された不定さを含む局所記述の完全な和によって記述可能である。この完全なコレクションに対し、特定の粗視化と呼ばれる変換を施す限りで、局所記述の総和から情報が失われ、局所記述の総和ではない大域的記述が構成される。この時、階層とは特定の粗視化操作に完全に起因する。これに対し、筆者のアプローチでは、不定さは不定さを除去しようとする過程によって定義されるから、不定さを除去した結果に対して得られる大域的記述は、不定さを含む局所記述と相補的な階層構造を持たざるを得ない。かつ不定さを除去する操作が、如何に恣意的なものであれ、必要不可欠である。つまり、階層性は、恣意的な記述者側の(粗視化)操作に起因するのか、システムの特性なのか決定できない。以上の違いから、拡張された内在物理学は、静的な階層性を、筆者のアプローチは不断の(非論理的)階層間相互作用を帰結する。》

◎郡司氏の上記の文章と、小泉義之氏が『ドゥルーズの哲学』で「ドゥルーズの解釈」として示した文章──《自然物と生物は、解けない微分方程式を、自ら条件を設定して、自ら解いている。》(54頁)──とを比較せよ。

◎斎藤環著『社会的ひきこもり』(PHP新書)の「個人−家族−社会」をめぐる「ひきこもりシステム模式図」(101頁)と村上春樹著『若い読者のための短編小説案内』の「自我−自己−外界」の関係図(49頁ほか)を比較せよ。──村上春樹がいう「自己」とは、たとえばキルケゴール『死にいたる病』第一編冒頭で叙述される精神=自己、つまり「それ自身に関係する関係」のことだと思う。

[97]順不同の補遺(その2)

◎「抑圧−回帰」型の反復と「解離−(再)結合」型の反復(というより「解離−消失」型の反復?)などという区別をたてることができるだろうか。そのような区別に意味があるだろうか。たとえば、否定の否定が肯定を導くような反復とそのような排中律が成り立たない反復。──このことについては、養老孟司編『脳と生命と心』(哲学書房)に出てくる養老氏と郡司ペギオ幸夫氏のやりとり(140-1頁)を参照せよ。

◎「抑圧−回帰」型のリアリティや無意識や虚構、「解離−消失」型のリアリティや虚構や無意識などという区別を立てることができるだろうか。そのような区別に意味があるだろうか。──このことを考えるため、たとえば「現−空」(「知覚−想起」あるいは「顕在−潜在」)と「実−虚」(「対象−概念」あるいは「実在−可能」)の掛け合わせでもって世界の四つの相を表現するマトリクスを作製してみてはどうか。(虚にして現は「物自体」、虚にして空は「過去自体」。現を空と取り違えることが「抑圧−回帰」型の「追憶」、空を現と取り違えることが「解離−消失」型の「反復」。)

[98]やり残したこと(その1)─実験文学と映画、あるいは映画という伝導体
 キルケゴールの『反復』は映画体験の先取りではなかったか。あるいは横光利一の「四人称」とはカメラ・アイのことではなかったか。──「現−空」×「実−虚」=「映画」?

[99]やり残したこと(その2)─連作的世界のリアリティ
 村上春樹が『若い読者のための短編小説案内』で取り上げた六つの短編小説は、その順番どおり『神の子どもたちはみな踊る』の六つの短編小説と対応させることが可能である。──連作という仕掛けによる「伝導体」の造形を通じて、デタッチメント(解離)からコミットメントへ、そして複数の生が共在する可能世界=平行世界=虚構世界=小説的世界(虚にして空の複数世界?)へといたる経路(累層構造?)を描くこと。

 以下、備忘録として。──吉行淳之介「水の畔り」と「UFOが釧路に降りる」。そこでは空虚が移動する。水の畔り=圧倒的な暴力の瀬戸際。デタッチメント。──小島信夫「馬」と「アイロンのある風景」。家を建てる話と家(?)を燃やす話。家(ハウス、ホーム)と馬(ホース)との関係、絵と絵の中のアイロンとの関係。妄想的外部装置と焚き火。現世的コミットメントと遊離的デタッチメント。──安岡章太郎「ガラスの靴」と「神の子どもたちはみな踊る」。ガラスの靴と踊る神の子。肉的なものと単性生殖。父の不在。──庄野潤三「静物」と「タイランド」。記号化された世界。生きることと死ぬることは等価である。静物と石。──丸谷才一「樹影譚」と「かえるくん、東京を救う」。嘘と本当、夢と現実。「樹の影」の世界と「ぼく」自身の中の「非ぼく」の世界。変身、転生、変貌。呪術的世界とミミズ(肉)。妊娠と虫。──長谷川四郎「阿久正の話」と「蜂蜜パイ」。翻訳論と伝達論。日常と非日常。──そして、遠藤周作と吉田健一?