霊性・意識・魂



【18】情報神学

 私は対談、座談の記録を読むのが好きで、たとえば時折購入する『現代思想』にしても、目次と次号予告に目を通す以外はせいぜい特集のテーマに即した対談の拾い読みで満足して本棚に放置してしまう。

 文章で表現しようとするとつい全体の結構や細部の正確さにこだわり、書き初めに抱いていた見通しのいい「論」の展開や生き生きとしたイメージを見失ってしまう経験は、おそらく多くの人に共通するのではないかと思います。それは読み手の側に立った場合でも同様で、著者によってあまりに完璧に秩序づけられた書物(たとえば民法学の体系的パンデクテン教科書)は、かえって暗く深い森の中に読者を置き去りにしてしまう冷酷さを秘めています。

 優れた知性と感性の持ち主が公表されることを前提にした一種の緊張の中で相互の牽引と反発に導かれて繰り出した現場感覚溢れる言葉、そしてその余韻にくるまれつつも事後的な反省を経た書き込みを加えた上で提供される記録は、線状に綴られた文章とは異なった飛躍と切断と刺激に満ちていて、読み手による再編集のための生の素材としての豊穰さをもっています。(もちろん少なからぬ例外はあります。)

 さて、前置きはこれくらいにして、インターネット上で見つけた中沢新一・伊藤俊治・武邑光裕の各氏による「アジアにおけるテクノロジーと文化の変容」(http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic019/090/IC19-090J.html)が面白かったという話題に移りましょう。これは『InterCommunication』(No.19 1997) に掲載されたもので、いま私の記憶に残っているかぎりでのキーワードを繋ぎあわせて編集すると次のようになります。

《テクノロジーと神学》

 アジアのテクノロジーはエコロジー的な調和的な方向ではなく、怪物性や狂気とつねに新しいかたちで折り合える方法を獲得している。そこでは記憶のテクノロジーと共同体のテクノロジーが結び付いていて、ルパート・シェルドレイクのいう「形態形成場」にも重なるような一種の集合記憶の領域へのアクセスによるコミュニケーションが成立している。また、たとえばアルトーがバリのダンスを見て「世界の無意識」への参入、言語以前の状態への失墜と評したように、超越的なものと交流する身体のテクノロジーの奥深くにアジア的なものがはらまれている。
 身ぶり・直観的な動作がサイバースペース上では重要になるだろうという予測があり、ジェローム・グレンは、ポスト情報化社会では直観力に基づく神秘主義とテクノロジーの良質な融合による「意識のテクノロジー」こそが最も重要になると言った。そういう意味でも、アジアのテクノロジーを考えることはこれからもいろいろな問題を提起してゆくように思う。(伊藤)

 零戦の製作工程の原型は西陣に、西陣の工程の原型は太地の捕鯨にあった。このような職人的なメチエ──物質的世界との間のインターフェイスにかかわる身体のテクノロジー──の特徴は、見えない鯨を「戦争の技術」を使って陸上にまで出してくること、つまり位相転換、ハイデガー流にいえば転回、ターニング・ラウンドが意識的にセットされていることにある。V  アジア世界の技術がこうした垂直性の場に即した神学──神すなわち存在を不条理なままに理解しようとする神学──に即したものであるとすれば、西の技術は終末論と結び付いている特殊なもので、アジアの地で発生したキリスト教の神を合理的に理解しようとしたローマの神学──できあがった情報・価値がかたちを変えてデータ化され伝達されるというトランスフォーメーションの考え方に立ち、そのような情報場やシステム全体を神すなわち存在ととらえる神学──に即したものだ。ローマ的な神学は、鯨を海面に踊り出てこさせるための戦争技術や戦争装置を切り捨てることによってはじめて神を理解する。(中沢)

《サイバースペースと構造》

 コンピュータの原理そのものがアジアの思考方法から生まれ、中国人の思考方法のなかにデジタル・コンピュータの原型がある。サイバースペースを人類で最初に作ったのは漢字だ。(中沢)

 サイバースペースのなかで起きている無意識的・官能的な一種の共感概念のようなものは、アジアという原理、アジアの原質と向かい合う大きな手段になるかもしれない。──仮名と能と雅楽という、日本独自のリズムを取り出していく再編集のプロセス。中国に眠っている膨大な物語資源。(武邑)

 サイバースペースの中で起ころうとしているのは「イメージの技術」の問題だと思う。思考よりもイメージが見える体験の方がはるかに強い道しるべとして機能していた時代があったわけだが、たとえば漢字のようにイメージの技術を洗練させて生活に活かしてきたようなものを、サイバースペースのなかでもう一回作り直そうとしているような気がする。(伊藤)

 マックス・エルンストのいう「イメージが生成する中間の空間」とは一種のヴァーチュアル空間であり、レヴィ=ストロースの「構造」はそこにしかないものだ。つまり構造主義はシュルレアリスムから発生している。そしてイメージが成立する空間の理論化の試みから、20世紀の知性が作り出した最高の産物といわれるポスト構造主義が発生した。ドゥルーズやデリダの試みはテクノロジー社会のなかで構造主義の発想をどう変形・適用させるかというところから出てきているように思う。そういう意味では、イメージの生起する空間の問題と、ヴァーチュアル・リアリティの技術が生み出そうとしているものに直面しているわれわれの問題と、構造主義とそれが自己変容を遂げていくものの間には深いつながりがあるのではないか。(中沢)

 アジアの神学とローマの神学に関する中沢氏の発言は、三位一体論の解釈をめぐる東方教会と西方教会の対立と分裂を踏まえたもので、詳しくは『はじまりのレーニン』(岩波書店)で述べられています。

 それはともかく、中沢氏がいうように<もともと神というのは存在について語っている>のだとしたら、存在の学としての神学こそがインターフェイス上で存在と切り結ぶテクノロジーのあり方を規定しているわけであり、そうすると、私がこのところ考えをめぐらせてきた「古代的なもの」とは、実はそのような身体のテクノロジー(たとえば身ぶり)そのものなのではないか、そして<情報がプリセットされている場>(武邑)としての職人的身体、あるいはイメージ(存在の情報・象徴)の生成場にインストールされた「構造」をめぐる知(たとえば仮名と能と雅楽)は、本来「中世的なもの」に属するのではないか。

 ところで、西方教会的な三位一体論以後の「中世」ヨーロッパと律令体制崩壊後の「中世」日本の他に「中世」が語られることがあるのでしょうか。そんな教科書的な基礎知識ももちあわせないまま思いつきを書きました。

 もう一つ思いつきを書きます。ルネサンスの本質が古代の再生(反復)であるとするならば、古代的なものの究極としての帝国主義戦争や全体国家や民族浄化を経験した西欧(つまり世界史)は、再び中世的なものの方へシフトしているのではないか。(長谷川尭さんが『建築廻廊』(中公文庫)で描いたラスキン、モリス、永井荷風らの中世主義者たちは、その先駆けあるいは夢告者だったのでないか。)


【19】座談会の論理

 中井正一は「委員会の論理」で、原子論的な個人でも全体でもない委員会のようなものを考えて、そこに近代の主体を超える鍵を見出そうとしていた。たとえば、ドゥルーズがガタリと一緒に本を書いたが、あれはドゥルーズ的でもガタリ的でもない。二人だからこそできているところが明らかにあって、それは小さいけれども「委員会」なのだ。――これは、「ハイパーメディア社会における自己・視線・権力」と題された座談会での柄谷行人氏の発言です。ちなみに、他の参加者は浅田彰・大澤真幸・黒崎政男の各氏。(『InterCommunication 』No.12 1995 掲載 [http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic012/zadan/honbun_j.html])

 この座談会でおもしろいのは、自己言及的に座談会そのものがもつ現代的な意味をめぐって会話が交わされている部分です。まず柄谷氏が、こういう座談会が海外にも広がってきて、それは「連歌」のようなものとして理解されていると口火を切ります。

>外国人は座談会をやろうとしてもなかなかできない.座談会は相手に適当に言わせて,どんどん移動していくということが必要でしょう.しかし,一定の統覚は必要なんで,そういうカント的なものを持ちながら,なおヒューム的にやるという,それがなかなかできないんですよ.しかし,最近ではかなりそれに近い試みも多くなっているんです.(ちなみに、柄谷氏は<電子メールの状態というのは、ヒューム的な状態なわけだよ>とジョークを飛ばしています。)

 これを受けて浅田氏が、ものすごく形式化された現代数学の世界でも、実際に話さないとイメージが伝わらず、逆に座談会的なものが必要になるという不思議な現象があると応じます。このあと、プラトンも仏典や論語のような一種のフリー・トークで、議論の文脈を離れては体系化できない(柄谷)、声のコミュニケーションは話し手と聞き手の両方が現前しているが、グーテンベルグ・テクノロジーが切り開いた文字のコミュニケーションでは、著者と読者のどちらかが不在であって、そのずれがたとえば「著者性」のような超越論的なものを形作る(黒崎)といった応酬が続きます。以下は黒崎氏の発言。

>グーテンベルク・テクノロジーの構造だと,やはり起承転結というのがあって, 「私はこれを言いたい」という一貫した主張が根底にあるわけです.ところが,… ハイパーテクストはリニアな構造を要求しないから,起承転結を意識せず,思ったことを書く,それに反する論点も同時に書く,というふうにやれる.著者が一貫した声で語りつづける必要がないんですね.…つまり,メディアの持つ特性が, 書き方や読み方,著者や読者の姿勢を決めていた.とすれば,電子メディアにおけるノンリニアで共同的な書くこと=読むことの構造というのは,やはり,著者と読者という関係を完全に変えていかざるを得ないと思います.

 柄谷氏のいう座談会におけるカント的な統覚が、形式化の残余としてのイメージ・文脈・起承転結・著者の一貫した声・超越論的なものへ、そして<ノンリニアで共 同的な書くこと=読むことの構造>へと、その位相を断続的に変じながら<どんどん移動していく>様は、それこそ座談会の論理の生きた実例でしょう。(M.バ フチンのポリフォニー、G.ベイトソンのメタローグが想起されます。)

 また、声(中世?)から文字(近代・古代?)、電子メディア(現代・未来)へと至るコミュニケーション・メディアの推移には、古代的なものと中世的なもの、近代的なものと現代的=未来的なものとの錯綜した関係を解く鍵が秘められているように思いました。たとえば、古代日本において、漢字というメディアを 介して「フルコト」=語り継がれる古叙事と「モノガタリ」=書かれ・読まれる文学とのねじれが発生したのだとすれば、電子メディアは、古事記以前の古伝承、ホメロス以前の神話を再び<書くこと=読むことの構造>のうちに叢生させることになるのかもしれません。

 ――フルコト・モノガタリという語彙は、藤井貞和氏の『物語の起源』 (ちくま新書)から借用しました。本来読まれるものではない古叙事が書物として編纂され(古事記)、本来語られるべきモノガタリが読み物として書かれた(源氏物語等)ことを「ねじれ」と表現してみたわけですが、はたしてこのような理解が正しいのかどうかよく判りません。何か大切な事柄が書かれているように思えて、投げ出したくなるのをなんとか堪えて読み通しはしたものの、結局どこが<スリリングな論考>(カバー裏に記載されたキャッチコピー)なのか判らずじまいで終わった書物ですから。

 ところで、私は先に「座談会がもつ現代的な意味」と書きました。ここでいう現代とは、まさにハイパーメディア社会が到来した時代にほかなりませんが、それはまた近代のフィクションである理念が現実のものとなってしまった時代のことでもあります。座談会の中では、四人の参加者がそれこそ競うようにして「理念・理想が実現してしまったために生じたアイロニカルな現代の事態」を列挙しています。以下、次回へ。


【20】アイロニカルなプロセス

 座談会「ハイパーメディア社会における自己・視線・権力」から、<近代の理想がある程度実現されればその残余に裏切られる>(大澤)というアイロニカルな事態をめぐって展開された議論を、印象と記憶に残った範囲で要約・記録しておきます。

 その一。電子メディアで社会全体が超パノプティコン化し、可能性としての一望監視の視線が現実化してしまうと、それを内面化することによって形成された19世紀的な先験的=経験的な二重体としての主体は出てこなくなる。あるいは、メディアの制約がなくすべての情報を見ることができるようになると、主体的かつ推論的・理性的に考えるための時間がなくなる。(浅田、大澤、黒崎)

 その二。話すことと聞くことが一致するデリダの「声」。書くことと読むことの間に非常な距離があった中世の「写本」。その距離が縮まって成立した19世紀 の「作者」。話すと聞く・書くと読む・思うと「ある」の間の微妙な乖離から生じる「おぞましい客観性」が反省の時間と結びつき、主体の能力を保障していた。電子メディアによってこの乖離から本当に脱却してしまったとき、裏返しのアイロニカルな結果が出てくる。(大澤、柄谷)

 その三。直接民主主義は実現できないから仕方なしに代議制でやるといっているときに、民主主義はいちばんうまくいく。国民の意志をリアルタイムで確認できるようになると、「国民の意志」と呼ぶにたる統一性は分解してしまう。そもそも民主主義的な意志の総計によって何を決定しているのかも判らなくなってし まう。(大澤)  自己をもつには一定の時間が必要だ。自己とは一つの政府であり、多数の自己の間の代表だという意味では、自己というものがすでに代表制である。全国民が絶えず現在の意見で政策を決めるようになると、政策の一貫性がなくなる。(柄谷)

 その四。多チャンネル化の果てにすべての情報をリアルタイムで見ることができる「神の目」を獲得した時点で、われわれ人間は「身体的」に全く愚鈍なものになってしまう。(大澤、黒崎)
 あることが判るとはインプリシットなコンテクストが判るということ。コンピュ ータにはエクスプリシットな現象しかなく、情緒であれ他者であれ「もの自体」であれインプリシットな知識は教えられない。そういうパラドキシカルな多層性を取り込めないリアルタイムの情報は、どうしようもなく退屈である。本来的に分散型ネットワークは退屈かつ散漫なもので、それに耐えられないと全体主義になってしまう。(柄谷、黒崎、大澤、浅田)

 ──以上を集約する(と私には思われる)発言を二つ。いずれも柄谷氏のもの。

>たとえば,人格の同一性というのは理念です.それは仮象だけれども不可欠だというわけです.理念は仮象であるにもかかわらず不可欠であり統整的に働く.理念はむろん「自己」だけではない.未来社会という理念もあります.カントで言えば最高善,マルクスで言えば共産主義.それらも統整的な理念ですね.現在のポストモダニズムにおいては,こういう同一的主体や未来の理念(歴史の物語)は解体されました.その場合,右の側からでも左の側からでも,多数性とか,中心の解体とかヒューム的な主張がなされた.しかし,これはヒューム=カント的な問題の急所に届いているとは言えない.それは現在の資本主義のイデオロギーでしかない.たとえば,環境汚染の問題がある.カタストロフは確実にせまっているのですが,たぶん自分らの生きている時代には起こらないだろうと人は思っている.先ほど,過去の自分も自分であるというような同一性は統整的な理念であると言ったけれど,未来の自分に関しても同じです.現在しかない,刻々と変容する自己――などというものでは,後世にすべてのつけをまわす資本主義の運動にぴったりです.

>かつてカール・ポパーが,社会科学が科学的であるためには反証可能でなければならないと言って,マルクス主義や精神分析を批判した.その場合,ポパーの言うのは社会工学のようなことだと理解されていました.しかし,彼が言っていることはやはり統整的な理念なんですね.「開かれた社会」が理念としてある.ただし,そのような状態に到達すべく活動するというのでもなくて,それを目指すプロセスそのものに「開かれた社会」がある.僕は,これはマルクスが「共産主義」について考えていたことと全く同じだと思います.つまり,共産主義は達成さるべき理想の状態ではなくて,現実の諸矛盾を超える現実の運動においてあるとマルクスは言ったけれども,それは共産主義が統整的な理念としてあるということだと思います.ポパーもマルクスもカント的なんだと思う.

 以下、手元に文献がないので記憶に頼って書きます。ケネス・バークは(確か『動機の文法』の中で)本質あるいは純粋性のパラドクスというアイデアを提出していました。それは、何事であれその本質を純粋に実現すると別のものになってしまうという(あえていえば「A⇒¬A」と定式化できる)アイロニカルで弁証法的なプロセスを表現したものでした。このアイロニーについて、ケネス・バーク自身は(これも確か、換喩・提喩・隠喩に次ぐ)第四の比喩と名づけていたのではなかったかと思います。

 アイロニーといえば、ソクラテスのアイロニー、ロマン主義のアイロニー、キェルケゴールのアイロニーといった魅力的な事例が想起されます。──ロゴスであれパトスであれ、それらに不可避的につきまとう隈雑さを消去して純粋に自己(本質)を追及すると、おぞましい他者になってしまう。フィクショナルなもの(理念)がリアル(現実)へと至るプロセスを完成させてしまうと、それはおぞましい外部(虚構)を産出してしまう。アイロニーは、どことなくそのような事態を思わせる語彙です。

 考えてみれば、そもそも異なる身体や言語や記憶や精神が一堂に会した場において座談(議論といってもいいし、コミュニケーションといってもいい)が成り立つこと自体、パラドキシカルな事態にほかなりません。また座談が成立しているとき、その場かぎりのインプリシットなコンテクスクトが立ち上がっており、そこから一定の理解関係が生成することは、それこそアイロニーなのではないでしょうか。


【21】霊性と意識

 三人以上寄って座談すれば「インプリシットなコンテクスクト」が立ち上がり、文殊の知恵が訪れ、天使が通り、はては「神」が臨在する。ここで大事なのは「三」という数なのであって、「二」では要素間の関係が一つ、それも一つの次元でしかないのに、「三」になると二者関係が三つ、三者関係が一つと、二つの次元が出現するわけです。古典的な経営学のテキストでは、経験則からいって「七」が一人の監督者が管理する組織の最適な人員であると指摘されます。三×二+一=七。

 ついでにいえば、集合的に建設される公営住宅では、五十戸を超えるとコミュニティを維持するための仕掛け(集会室など)が用意されることになっていますし、ある専門家から直接聞いた話では、二百戸を超えると一つの団地としてのまとまりがなくなるということでした。古典的な経営学(あるい経験を通して培われた世俗的な経営術)でも、従業員が二百人を超えると一人の経営者(ワンマン)の力量では組織を統治できないとされています。

 話が脱線しました。私が「対話の論理」ならぬ「座談会の論理」で考えたかったのは、三人以上の異なる身体や言語や記憶や精神が一堂に会した場に創発するものこそ、実は「意識」なのではないかということでした。というより、そのようなものとして「意識」を定義して、創造や発見、進化といった事柄を考えることができはしまいかというアイデアなのでした。(ちなみに、公開の場で遂行される対話や記録された対談は、それぞれ聴衆と読者を想定したものであるかぎり、そこに第三の要素が介在しています。いや、対話・対談において<二人がそもそも数人であったから、それだけでもう多数になっていた>(『千のプラトー』)という根源的な事態が立ち上がっているというべきかもしれません。)

 まだラフスケッチを描くところまで思考を煮つめているわけではないので、ここではいま述べた意味での「意識」と近似している(と思われる)「霊性」との関係について考えてみます。(もしかすると私が漠然と妄想している意識は、それが「数」と独特な関係を切り結ぶ点からみても、R.シェルドレイクの形態形成場の理論の焼き直しなのかもしれませんが、この点は後の宿題にしておきましょう。)

 鈴木大拙は『日本的霊性』(岩波文庫)の中で、霊性とは精神と物質を一つにするはたらきであるといっています。概略を述べると、そもそも精神とは二元的思想を含むものであり、物質との対抗関係のうちにある。そして、精神と物質が対峙するかぎり矛盾・闘争・相克・相殺を免れないのであって、人間が生きていくためには、<なにか二つのものを包んで、二つのものがひっきょうずるに二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るもの>がなくてはならない。これが霊性である。

<精神には倫理性があるが、霊性はそれを超越している。超越は否定の義ではない。精神は分別意識を基礎としているが、霊性は無分別智である。これも分別性を没却了して、それから出てくるという意ではない。精神は、必ずしも思想や論理を媒介としないで、意志と直覚とで邁進することもあるが、そうしてこの点で霊性に似通うところもあるが、しかしながら霊性の直覚力は、精神のよりも高次元のものであると言ってよい。それから精神の意志力は、霊性に裏付けられていることによって初めて自我を超越したものになる。いわゆる精神力なるものだけでは、その中に不純なもの、即ち自我──いろいろの形態をとる自我──の残滓がある。>

 要するに、精神の奥に潜在しているはたらきこそが霊性なのです。物質との対立・桎梏に悩む精神が霊性に目覚めると、対立相克の悶えは自然に融消し去るわけですが、これこそが本当の意味での宗教である。

<…宗教意識の覚醒は霊性の覚醒であり、それはまた精神それ自体が、その根源において働き始めたということになるのだ…。霊性は、それ故に普遍性をもっていて、どこの民族に限られたというわけのものでないことがわかる。漢民族の霊性もヨーロッパ諸民族の霊性も日本民族の霊性も、霊性である限り、変ったものであってはならぬ。しかし霊性の目覚めから、それが精神活動の諸事象の上に現われる様式には、各民族に相異するものがある。即ち日本的霊性なるものが話され得るのである。>

 それでは日本的霊性とは何かというと、浄土思想と禅がその最も純粋な姿であると論じられているのですが、先哲からの引用はここまでにして、以下、私見を述べます。

 鈴木大拙のいう「精神」とはおそらく個人的・個体的なものではなく、本来、文明的な次元での人間社会の共同性の根幹をなす文化様式や思考の枠組みといったものを意味しているのだと思います。そして、精神が<不純なもの、即ち自我>の残滓によって汚染されており、したがって本質的に二元的思想を含み、それが物質対精神という図式で表現されるのであれば、ここでいう物質はもはや「生の物質」ではなくたとえば身体のようなものとなり、精神も広狭二義に、つまり物質に対立する精神とそのような対立そのものを自らのうちに含む精神に分類することができるでしょう。。そうすると、<二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つである>ところの霊性とは、実はそのような精神の(形式論理的な意味での)矛盾をメタレベルで解消する、いわば「高次元多様体」にほかならず、ここにおいて個(自我)対共同性の対立も宗教的次元で解消されることになるわけです。

 このような要約は、鈴木大拙の真意をとらえそこねているかもしれません。ですから、上述の内容は鈴木論ではなく私の勝手な展開であると了解していただきたいのですが、さらに私見を重ねれば、物質と精神を一つにするはたらき、あるいは物質と精神を媒介し通底させるもの、より端的にいって物質と精神の間にあるものには「生命」と「意識」があります。そして、霊性とは「生命」に関係するもの、たとえば生命感覚あるいは「種社会」にリアリティをもたらす内属感のようなものではないかと思うのです。私自身はそれとは異なるもう一つの回路、つまり「意識」を介した精神と物質の関係を考察していきたいと目論んでいます。

 ところで、ここでいう生命は、ハンナ・アレントが『人間の条件』(志水速雄訳、ちくま学芸文庫)の第20節で使った表現をかりれば、存在とそれが生成する過程とが分離不可能な事象のことです。(あるいは、ヘーゲルが描いたロゴスの弁証法的運動のモデル!)またここでいう意識は、先に述べたように単なる個人的・個体的なそれや自意識などではなく、かといって地球意識や宇宙意識にまでいきなり飛躍するものでもなくて、両者が合成されたもの、たとえば三人寄れば創発する「インプリシットなコンテクスクト」のように具体的なもののことです。

 物質─生命─精神と並べると、判りやすい進化論的な図式が描けます。そして、進化を促す契機となる情報をかりに「言語」と呼ぶならば、次のような議論が展開できるかもしれない。──物質から生命を創発させる言語の代表はDNAで、それを模倣するのがたとえばアルゴリズムに基づくプログラム言語。生命から精神(ここでは歴史といいかえてもいい)を創発させる言語の代表は啓示に基づく預言で、その記憶を伝えるのがたとえば福音。そして、預言に特有の韻律を駆使した詩的韻文(たとえばヘブライ的パラレリズム)の解釈作業を通して意識が析出される。つまり精神から意識を創発させる言語の代表は韻文で、そのバージョンが解釈(演奏)を前提とした譜面です。

 それでは意識の次には何がくるかといえば、再び物質だろうと私は考えています。ですからここに、精神─意識─物質というもう一つの図式が描けるわけです。ただし、ここに再び見い出された物質は、そういってよければ「生の物質」なのであって、物質─生命─精神の図式で想定されていた「観念的な物質」とは異なったものなのではないかと私は考えているのです。ついでにいえば、意識から物質を創発させる「言語」の代表は呪文、マントラのたぐいですね。

 話がだんたんニューサイエンスかオカルトめいたもの(トンデモ話)になってきました。稿を改めて、もう少し「理論」的にまとめます。


【22】生命と意識

 ヘーゲルが論理学でその生成の全過程を叙述しきった理念は、自然と歴史において二度躓いた。──確か、長谷川宏さんの『新しいヘーゲル』(講談社現代新書)にそのようなことが書かれていたと記憶しています。私がこれから「理論」的に述べようとしている事柄とは微妙に異なりますが、ここに出てくる自然と歴史、いかえれば物質の世界と精神の世界との間には、何か論理学的な思考を躓かせるものが介在しているようです。

 物質という観念には、離散性と連続性が錯綜したかたちで混在しています(粒子と波動)。この矛盾を解消する方向には二つあって、一つはなんらかの法則(論理)でもって物質界の事象を統一的に説明すること(たとえば、質料=エネルギー)、いま一つは、たとえばモノとコトといった次元の異なる観念(階層性)を導入して、一方におけるあるプロセスの無限の反復を通して他方が創発するといった説明をすること。(直線を無限に分割すれば点になる。)

 同様の矛盾とその解消法が、精神の世界にも見られます。ここでいう精神は歴史におきかえて考えてもいいし、社会といいかえてもいいでしょう。たとえば個と全体の矛盾。これを解消するカースト制度や民主政体(論理)、あるいは融即律の観念や神の観念(無限)。さらには、ホッブス的秩序の問題や見えざる手のパラドクス、民主主義の基礎をなす自律倫理の問題(神は自分でももちあげられない石を創ることができるか:民主的な意思決定手続きを経て独裁政体を構築することが可能か)や憲法の基礎づけの問題(憲法制定権力と憲法に基づく権力との矛盾)と、これらを解消する普遍的理性の観念(論理)あるいは「経験の能力」の観念(無限)。

 ここに出てくるキーワード、離散性・連続性・論理(法則)性・無限性は、それぞれ数論・幾何学(空間の学)・代数学・解析学(無限の学)に対応しています。もっとも、これらのキーワードと数学のジャンルとの対応関係については、私の拙い文章より、ルディ・ラッカーが書いた『思考の道具箱』(工作社)の序章を読んでいただく方がはるかに刺激的で深いと思います。(上述の内容は、私がこの書物に出会う以前から漠然と思い描いていたことなのですが、いまとなってはほとんど「剽窃の域」に達しているとしかいいようがありません。)

 ついでに紹介するとルディ・ラッカーは、西欧中世は「数」の時代、ルネサンス期は「空間」の時代、産業革命期は「論理」の時代、モダンは「無限」の時代であったと、歴史と数学とを関連づけて論じています。そしてモダンとくればポストモダンで、現代は「情報」の時代であると第五の数学的対象を提示するのです。

 ここに出てきた五つの数学的概念を頂点として、それぞれが等距離の位置関係にあるように空間に配置するとどのような立体が得られるか。いうまでもなくそれは三次元空間では表示不可能なものです。ペンタヘドロイドとなづけられたその形は、以後、私の脳髄に住みついてしまって、宇宙のリアリティや意識の実相(脳内の時空構造)をシンプルに象徴する「私のプラトン立体」となってしまったのです。(数学を比喩の素材にした話をはじめるとどんどんエスカレートしてしまうので、このあたりでやめます。)

 さて、私の「体系」によると、物質と精神の間にあるものは生命と意識です。そして生命と意識は、物質と精神が同型的にはらんでいる離散性と連続性の矛盾を解消するはたらきであり、その解消のプロセスの中から創発するものです。してみると、生命・意識を特徴づけるものは論理と無限であるといえそうです。それは確かにそうなのですが(少なくとも私の未完の「体系」ではそうなります)、ここで注意しなければならないのは、論理にも無限にも実は二種類あるということです。

 ヘーゲルは、無限には無際限の累進にすぎない「悪無限」と本当の意味での無限すなわち「真無限」があるといっています。大胆にいってしまえば、前者は自然数の無限(数え切れない無限)、後者は実数の無限(そもそも数えることのできない無限)だと考えてさしつかえないでしょう。そして実数の本質がその連続性にあるのだとすれば、いっそ無限には離散型無限と連続型無限の二種類があるといってしまった方が、無限をめぐる妙な神秘感につきまとわれなくていいかもしれません。

 一方、論理にも二種類あります。形式的論理と実質的論理、機械の論理と生命の論理、形式論理学と弁証法──その他ラベルは様々ですが、要するに論理的対象を明確に区別できる論理(離散型?)と、それらが相互に浸透しあって区別・剥離できない論理(連続型?)の二種類があるわけです。前回言及したアレントの表現をかりれば、目的と手段のように対象が整然と区画できるものと、存在とその生成過程が分離不可能なもの(鶏・卵論争のようにその始元が明確に特定できないもの)の二類型です。

 ここで一つの仮説をたててみます。それは、人類の思考の原型、鋳型とでもいうべきものを、いま述べた論理と無限を使って造形してみようというものです。──まず、始元にくるものは「存在=生成」です。これを存在(離散)と生成(連続)と両者の関係(区別と同一性)を表現したものと見てはいけない。あくまで「存在=生成」という一つのものとしてとらえなければならない。

 ──と、いったとたんに「存在」と「生成」と「関係」が区別されて、ここに「存在≠生成」が「存在=生成」と論理的に対等な価値をもったものとして立ち上がってきます。(ここでは存在=本質、生成=現象と置きかえてもいいでしょう。)区別できるものと区別できないものとの区別。離散性と連続性の連続。存在が先か生成が先か。こうなると、あの無際限の入れ子構造、無限累進のパラドクスが登場するのはみやすいことです。

 ──と、いったとたんに無理数(無比数)を発見したピュタゴラスの驚愕が再現されます。数え切れない反復(無限累進)の彼方に、そもそも数えるという行為(認識)が成り立たない無限のフィールドが「存在」している。そしてそれは不断のプロセスを経て「生成」し続けている。こうして再び「存在=生成」が見出され、それ以前のすべての事柄の意味が高次元において明かされる。

 後半、やや難解になってしまいましたが、これはまったくのところヘーゲルの下手な焼き直しにすぎませんね。私が掲げた仮説は、だから生命の論理(無限を取り込んだ論理・弁証法)にほかならないわけです。

 私は前回、物質と精神を一つにするはたらきとしての霊性とは「生命」に関するものであって、それとは別のはたらきとして「意識」があるのではないかと述べました。そして、次回そのことをもっと「理論」的に説明したいと書きました。ところが、私がこれまでに述べてきたのはせいぜい「生命」から「精神」へのプロセスに関する(似非ヘーゲル流の)叙述にすぎません。現在のところはここまでしか「達成」できないのであれば、いさぎよく筆をおいて、次回に委ねることとしましょう。


【23】ベル連続体理論

 霊性と意識との関係について再整理します。まず「存在=生成」という根元的な存在のリアリティがあって、これが(おそらくは「認識者」の介在によって)「存在=生成」と「存在≠生成」とに分裂します。鈴木大拙は精神のうちには必ず二元思想があるといっていますが、まさにこの二元状態――生命としての物質すなわち身体(存在=生成)と、身体からの(あるいは身体への)切断としての精神(存在≠生成)との無際限の「悪矛盾」的な対立――が精神の実相です。

 この矛盾を深く極めること、いいかえれば「真無限」を直覚すること(おそらくは「認識者」が「実践者」あるいは「存在者」へと位相変換されること)によって、始元のリアリティ(存在=生成としての原−生命感覚)がより高い次元で回復されます。これこそが霊性、すなわち本物の精神です。というより、これが(鈴木大拙のいう)霊性にほかならないと私は考えたわけです。

 いま、霊性とは根元的な生命感覚の覚醒であるといった趣旨のことを書きました。それでは「意識」はどうなのでしょう。それは、根元的な物質感覚の覚醒である。想念が物質化する不可思議な回路を意識は切り開くのだ――などといってみたくなるのですが、そのような言葉の組み合わせでもって私は結局なにを表現しようとしているのか。

 考えてみれば、霊性(宗教意識)について言語で語ることそのもののうちに、本質的な事柄が表現されずに残余として示されてしまうのではないか。その残余を直接的に表現する媒体とは、たとえば身振りや所作、要するに儀礼を構成する身体の動静、あるいは儀礼の構成や構造(システム)そのものなのかもしれません。(古代的なものの意味をギリシアに即して考えてきて、プラトン以前の密儀宗教に行き着いたところで作業が止まっています。いずれ密儀宗教にからめて霊性の表現媒体をめぐる考察を行ってみたいと計画していますが、はたしてそのときまで関心が持続しているかどうか。)

 これと似たことが、意識のはたらきを語る言語表現にも妥当するように思います。たとえば身体のような「観念としての物質」ではなくて「生の物質」を語る言語、あるいはそれ自身が物質であるところの言語――そのようなまだ見ぬ(かつて存在した?)言語を入手しないかぎり、意識を語る言語はやはり本質的・根源的なものには触れることができないのではないか。

(私がそのような言語を夢想するうえで参考にしているのは、たとえばケルトの渦巻文様であり、中国や日本の書、西欧やペルシアやヘブライのカリグラフィーなのです。このことについても、関心が持続するようであればいつか書いてみたいと思います。──今朝、目覚め前のまどろみの中で「魂のコレオグラフィーとしてのカリグラフィー」といった語彙が脳髄をかけめぐる不思議な夢をみました。そのとき同時になにかの物語が進行していたようなのですが、いかんせんイメージの伴わない「言葉の夢」は覚醒の波に洗われて消え去る砂の建造物でしかありません。惜しいことをしました。)

 ところで、意識と物質との回路を考える上で、チャールズ・フランクリンが完成させた「ベル連続体理論」は極めて示唆に富むものです。といっても、これは小説の上での話。グレッグ・ベアの『火星転移』第三部でのチャールズのレクチャーによれば、素粒子は231ビットの情報量をもつ記述子をもっており、そこには<物質、電荷、スピン、量子状態、運動エネルギーおよび位置エネルギーの成分、ほかの素粒子との関係で見た空間的位置、時間的位置といったものを含む情報>が記されている。

 そしてすべての素粒子は、関連のある性質のすべての記述子が含まれた情報マトリックスのなかに存在していて、ベル連続体を通じて自分の性質と状態に関する情報をほかの素粒子に伝える。つまりベル連続体とはこの情報マトリックスのことであり、<宇宙のある特質のバランスをとる簿記システムのようなもの>だというのです。(第四部では、<神々の使者が行き交う道>と表現されていました。)

 チャールズはこのベル連続体にアクセスする方法を発見しました。<われわれは共同作業の結果、物質とエネルギーを扱う包括的な理論を打ち立てました。データフロー理論です。素粒子の記述核内部に手をいれてそれを変える方法がわかったのです。>──その結果なにが起こったか、なにが可能となったかは、まさにこの作品のタイトルに示されています。

 昔、素人向けの素粒子物理学の本でブーツ・ストラップ理論について読んだことがあります。ベル連続体理論とどことなく似たところのあるものだったように記憶しているのですが、それはさておき、ここでちょっと脱線して、チャールズのレクチャーでもっとも感銘を受けた部分のさわりを記録しておきます。

<この宇宙は遥か昔に、存在する可能性のあるあらゆる法則の混沌のなかから生まれた……。可能性だけがひしめく、おおもとの基礎というか素地というか、そういうところから生まれたんだ。混沌のなかで何組もの法則が消えていった。なぜなら矛盾があったからだ──矛盾があるものはより厳密な、より意義のある組合せに抗して生き残ることはできなかった。…
 ぼくらが見ている宇宙は、あるひとつの進化した、自己矛盾のない法則の組合せを使っているわけだ。そして数学の法則は大なり小なりそれに合致するようにつくることができる。>

 数学という言葉が出てきたことに乗じて、もう少し脱線します。連続体といえば、アマチュア数学愛好家(数学の内容ではなく「かたち」に魅了されている好事家の意味)としては「カントールの連続体仮説」を想起せざるを得ません。現代数学の入門書にはたいがい紹介されている話題なので、得意げに語るのは気恥ずかしいかぎりなのですが、以下、簡単に「解説」します。

 無限集合において有限集合の要素(元)の個数に相当する概念を「濃度」[potency,power]と称します。たとえば、すべての自然数で構成される集合の濃度とすべての有理数で構成される集合の濃度は等しい。(ここで異なる二つの無限集合の濃度が等しいとは、それぞれの集合の要素を一対一に対応させることができるという関係によって定義されます。)しかし、すべての実数で構成される集合の濃度は、これらよりも「濃い」のです。このことは、高名な「カントールの対角線論法」によって証明されました。ゲーデルが不完全性定理の証明で使用したのも、これと同様の論法でしたね。

(ちなみに、対角線論法にはじめて接したとき、私はここに「天使」的存在の生成過程が表現されていると驚嘆したものです。散文的にいえば、オブジェクト・レベルからメタ・レベルが絶えることなく立ち上がっていく様の奇蹟的な表現がここにあるという、いわば論理の精髄に触れた思いにかられたのでした。)

 カントールの連続体仮説とは、自然数(有理数)の集合の濃度よりも濃く、実数の集合の濃度よりも薄い濃度は存在しないというものでした。(ちなみに、ヒルベルトは今世紀初頭のパリ世界数学者会議で、20世紀の数学が取り組むべき未解決の問題を23あげていますが、連続体仮説はその筆頭に掲げられています。啓蒙書のたぐいを何冊も読んだのに、いまだに私にはこの問題が本当の意味で解決されたのかどうか判然としないのです。)

 脱線続きでとりとめのない文章になってしまいました。ここ3回のメールで、私は私自身の「哲学の問題」の所在をもう一度明確に規定してみようと試みました。それは「意識」の基底にはたらいている論理のようなものを掬いあげてみたいという欲望が仕向けた試みでした。書き始める前にはうっすらと見えていたように思った道筋が、いまは跡形もなく雲散しています。まだ熟成していなかったようです。

 失敗から立ち直る時間稼ぎ(?)のため、次回から6回にわたって、数年前に書いたエッセイを掲載します。最初の2回は手記か雑感のたぐい、続く4回は読書ノートか備忘録のたぐいでしかありません。いろいろと手を加えて補修したくもなるのですが、たぶん今だに私はあの頃の自分を超えるだけの見通しを「意識」や霊魂や魂の問題に関してもっているとは思えないのです。もう一度考え直したいという(極く個人的な)思いから、掲載します。

 そして最後に、もっともっと以前に書いた雑文を付録としてつけます。いまではもう書けない夢うつつの文章ですが、詩とは何かをめぐって思索と試作を繰り返していた頃の自分の脳髄の中に、すでにして現在の私の「哲学の問題」が宿っていたのだという記録として。(最後の脱線。次回から掲載するエッセイのタイトルは「魂の行方」というものですが、当時の私はこの文章を書き終えたら、次は「数論をする天使」といったエッセイを書く予定だった。)


【24】魂の行方(私の喪失)

 「七歳までは神のうち」という言葉がある(と思う)。その神のうちから脱け出て、身体の性的変調を経験するまでの間、何歳の頃だったかははっきりしないが、ある不可思議な思いにとらわれたことを覚えている。強いて言葉にするならば、それは「私はなぜ私なのだろう」という思いだった。

 なぜ私は私であって、彼や彼女ではないのだろう。また、なぜこの時代、この場所で、この両親のもとに生まれたのだろう。別の人間として、別の時代、別の場所で、別の両親のもとに生まれること(この両親のもとであっても、私の兄弟姉妹として生まれること)も可能だったのではないだろうか。
 いまから考えると、それは知的な思いであるよりは、むしろ身体感覚に深く根ざした「感じ」であったようだ。

 ところで、この不可思議な思いは、死をめぐってさらに謎めいた相貌を帯びていった。 私が死ぬと、「私が私であること」をめぐる私のこの奇異な感じはどうなるのだろう。どこへ行くのだろう。もし消えてなくなるのだとしたら(多分そうなるのだろう)、いま「私はなぜ私なのだろう」と説明のつかない思いをいだいていることは、そもそも一体何なのか。夢のようなものにすぎないのだろうか。それはそもそもどこからやってきて、どうやってこの私のものになったのだろうか。

 また、他者もまた「私が私であること」をめぐって、この私と同じような不可思議な思いにとらわれているのだろうか。もしそうだとしたら、そのような他者の思いとこの私の思いはどういう関係を取り結ぶのだろう。私が他者の身体を内側から経験することができないように、これらの思いはまったく存在の様式を異にするものなのだろうか。それとも実は本質的に同等のものなのだろうか。

 ──やがて、私はこのような思いを不可思議なこととは感じなくなっていった。  性的身体の成熟がもたらす「疾風怒涛」の時代を迎え、俗にいう心身のアンバランスや自意識、異性との関係、社会規範との確執といった日々の問題にかまけ、「私が私であること」をめぐる問題をさほど差し迫ったものとは感じなくなったのである。

 思い返してみると、「私はなぜ私なのだろう」という哲学的と称してもいい問題意識が希薄になったのは、どうやら他者の存在をめぐる一つの了解、それもとりあえずの了解を私自身がとりつけたことによるものであったようだ。それは、他者もまた、この私がそうであるのと同じ意味合において「私」なのだという了解、つまり他者を「この私とは別の私」と認識する態度であったように思う。

 私自身の経験に即していえば、このような態度の変更をもたらす契機は二つあった。
 第一の契機は、他者が私の身体に対して行使する物理的な暴力への恐怖である。単なる自然現象によるのではなく、その背後になんらかの意志の働きを感じ取ることのできる相手から直接的に繰り出される暴力が、私に根源的な恐怖を覚えさせる。しかし、この相手が、私自身のそれとはいささか趣を異にするとはいえ、本質的に同等の心をもつものである場合、したがって「この私とは別の私」であると識別できるならば、私の恐怖から、相手を直視する気概を麻痺させる不気味さが払拭され、逃走であれ偽計であれ反撃であれ、なんらかの対抗手段を講じる意志が働くようになるだろう(たとえその相手が猛獣であったとしても)。

 ここで、他者の暴力を、他者が私の身体に向けて投げかける「まなざし」に置きかえてみてもいい。あるいは、暴力への恐怖を他者そのものに対する恐怖へと一般化して考えてみてもいい。
 他者のまなざしによって自意識がむきだしにされ、身体の動きから自在さが奪われる。まるで自分自身をロボットのように感じ、そのことがまた羞恥心となって自意識を自縄自縛の深みにおとしいれる──こういった体験は、思春期とよばれる時期に誰もが多かれ少なかれ経験することだろうと思う。

 このような自意識の過剰は、他者のまなざしのうちに私自身のまなざしが反射的に混入していること(うらからいえば、自意識の中に他者の意識が未分化のまま混在していること)からくるものに他ならない。したがって、そこから脱出するためには、他者を他者として認識すること、つまり「この私とは別の」もう一つの「私」として明確に区画することが必要だ。そうすることではじめて、自意識の中にまぎれこんでいた他者の意識をふるい落とし、「神のうち」にあった頃の名残をとどめる、肥大化し不安にうち震えていた自己意識を、社会的に通用する実質的な基盤をもった小区画のうちに定義づけることが可能となるのである。

 他者をもう一つの「私」として認識する第二の契機は、恋愛体験である。
 特定の他者に恋愛感情をいだくとき、私は「他ならぬこの人」の一挙手一投足、何気ない言葉の切れ端、感情のそよぎ、肉体性の顕現に対して、私自身のからだや心や無意識を総動員して反応する。それは「この人」でなければ駄目なのであって、代替不可能な固有の意味が、汲めども尽きない生の目的が、そして時として私の存在理由そのものが、「他ならぬこの人」を湧出点としてあふれだし、私を満たすのである。

 ここで注意しなければならないのは、俗に「恋に恋する」といわれる状態との違いである。熱病のように突然私を襲い、急激に醒めていく「擬似」恋愛体験は、他者の存在に託された私自身の生の躍動が逆流し、一種のめまいのように私の方向感覚を失わせることからくるものだ。そこで恋の対象とされているのは、実は私自身に他ならない。

 これに対して、「他ならぬこの人」との恋愛体験は、他者を「この私とは別の私」として認識する態度の変更をもたらすのであるが、皮肉なことに、恋愛の成就という至福の経験(あるいは挫折)を重ねるうち、「他ならぬこの人」をめぐる唯一性・代替不可能性の感覚が摩滅し、また、他者の前で不安にうち震えていた無力な「私」の不確実性がしだいに確固とした基盤に根ざしたものへと変化していく。つまり、「他ならぬこの人」を他者一般の特殊例として了解する態度と、「他ならぬこの私」についての意識を自己意識一般の特殊例として了解する態度が、一組のものとして獲得されるのである。

 私は、以上の経験を契機として、「私はなぜ私なのだろう」という不可思議な思いを解消させてきた。端的にいえば、自他の区分をめぐる成熟した社会的態度を身につけることで、「他ならぬこの私」(そして、同時に「他ならぬこの人」)をめぐる当初の謎めいた(そして、生き生きとした)感覚を、未熟な意識の残響として排除したのである。

 だが、問題はいささかも解決されたわけではない。「私が私であること」の謎、すなわち「私」の起源と行末、そして「他ならぬこの私」という意識の根底にあるもの、さらには生の目的や世界の意味、これら諸々の問題が一切手つかずのまま私の前に投げ出されている。


【25】魂の行方(自律倫理の問題)

 他者と自己を同質の存在とみなし、それぞれの意識のうちに少なくとも権利上同等の自己意識の働きを認めることは、確かに現代では常識的な態度だろう。これを自明の理と前提することで、現代社会は成り立っている。しかし、現代社会のすべての問題も、そこに起因する。

 現代の社会(すなわち、「私」たちの社会)は、その構成要素である個人を原理的に等質な存在とみなし、要素と要素の関係(すなわち、他者理解の関係)の錯綜体として全体の成り立ちを説明する、そのような社会観に基づいて編制されている。いわば、部分と部分の弁証法的な関係の総体として全体が創発するとみる、要素還元主義的な社会観が現代の(いや、近代のというべきか)通念なのである。

 このような社会観が生み出すのは、本来謎めいた深みや独特の陰影をもつ歴史的な生成物としての社会を、均質な時空座標上に、あたかも採集した蝶をピンで固定するように展示し、隅々まで照らしだす認識の光によって余すところなく解剖し、明晰な言葉で説明し尽くそうとする態度である。その結果、社会はもはや哲人王や賢慮による「舵取り」の対象ではなくなり、解体修復や知性的操作の対象として、その無防備な姿を私たちの前にさらけ出すことになる。

 全体を優越させたり、あるいは部分と全体の融合や相互の通低を唱える立場、さらには民族の強調であれ宗教、言語といった固有文化の強調であれ、国家への収斂を論理的帰結とする(近代的な)社会観への様々な異議申し立ては、いずれも、均質な個人を基本要素とする社会観の内部での異説にとどまるものだ。というのも、これらの「新しい」社会観は、(近代的な)社会観がもたらす「自律倫理」の問題を解決しようとする試みである点で、基本的に同一の類に属するものだからである。

 自律倫理の問題とは何か。私は、これこそ、均質な個人を基本要素とする社会観が孕む最大の問題であると考えているのだが、それは要するに、最終的な拘束力をもたない倫理命題を人はいかにして遵守しうるのか、という問題である。ここでいう倫理命題が、部分としての個人と全体としての社会の関係を律しようとするものである場合、問題はより先鋭化する。そしてその究極は、国家存続の理念と統治形態を定める最高規範たる憲法が自らの規範力の根拠を何に求めるか、という問題に行き着くだろう。先に述べた様々な異説は、実はここから生まれたものである。

 自律倫理の問題は、個人を原理的に等質な存在とみること、つまり他者と自己のそれぞれの内部に同等の自己意識の働きを認める立場に根ざしている。このような常識的な自己意識のとらえ方は、夢や精神病理現象が示す事実によってその基盤をゆすぶられ、「至高体験」や種々の「神秘体験」の報告によってその虚構性が暴かれている。私がいう現代社会の問題は、このように既に破産した自己意識の理解や、その前提もしくは帰結である他者認識が、いわば頑迷な痼疾となって社会と人々を支配していることからくるものだ。

 なるほど、人々は同じ人間として同質的な存在ではあろうが、しかしながらそれぞれに個性をもち、様々な生の軌跡を描くものだ──このような見解をもちだしても、問題は解決しない。私たちは、いや私は、あの当初の不可思議な思いにたちかえり、人々一般のうちに解消し切れない謎めいた存在の実質を、思考可能な極限まで探求すべきなのである。


【26】魂の行方(ベルクソン)

 「私が私であること」の実質、あるいは「私」の同一性と連続性を支える根拠は何か。この問題を考える上で、ベルクソンの思索を追体験することは有益な作業であると思う。

 ベルクソンは、「魂と身体」と題された講演の中で、《魂の生活をそのすべての現われたかたちにおいて研究すること》が哲学の仕事だといっている(『精神のエネルギ−』所収・宇波彰訳/第三文明社)。彼は「魂」を精神あるいは意識を表現する語として使用しており、物質すなわち身体と対比させている。そして、魂と身体、精神と物質の関係をめぐって独自の考察を加えているのである。

 一般に「私」の同一性・連続性の根拠について、記憶を中心とする心理状態、ひいては精神作用そのものにみる立場と、身体という物質的基盤、それもとりわけ脳の働きにみる立場とが対立している。自然科学の本流をなす仮説は、おそらくすべての精神作用が、脳の構造と機能に関する精緻な観察によって最終的に説明されるに違いないというものだろう(心身平行論)。これに対して、精神的なものの固有性・自律性を主張する立場、究極的には物質的なものの実在を否定し、すべてを精神作用に還元してしまう立場が対立しているわけだ。

 これは哲学の分野で「心身関係論」と呼ばれ、古くから論じられてきたものだが、ベルクソンはこの問題を取り上げるに際して、《常識の直接的で素朴な経験》が語る事実そのものに直接に向かう方法を採用する。そして、魂・精神であれ身体・物質であれ、いずれか一方に偏した議論を(とりわけ、自然科学の心身平行論を)排するのである。

《実際、経験はわれわれに何を語っているのでしょうか。経験はわれわれに、魂の生活、或いはもっとよい表現の方がいいと言われるならば、意識の生活が身体の生活と結び付いていて、両者のあいだにつながりがあるということを示していますが、それ以上は何も示していません。この点については誰も異議を唱えるひとはいませんでした。そして脳が心的なものと等価であるとか、脳のなかにそれに対応する意識において生ずるすべてを読み取れると主張するのは、この点からはるかにずれることです。服はそれがかけられている釘とつながりがあります。釘を抜けば服は落ちます。釘が動けば服も揺れます。釘の頭がとがりすぎていれば、服に穴があき、破れます。しかし、釘のそれぞれの細部が服の細部と対応しているとか、釘と服とが等しいという結論にはなりません。まして、釘と服とは同じだということにもなりません。それと同じように、意識はたしかに脳とつながってはいますが、だからといって脳が意識の細部のすべてを描くとか、意識は脳の機能だということにはならないのです。観察と実験、つまり科学によってわれわれに確認できるのは、脳と意識とのあいだの何らかの関係の存在だけです。》

 ベルクソンはこのように述べ、《あらゆるところで身体を超え、それ自体を新たに創造しつつ行為を創造する》ものとして、自我あるいは精神・魂をとらえるのである。

   《精神の活動にとっての脳の活動の関係は、交響曲にとってのオ−ケストラの指揮者のタクトの運動の関係です。交響曲は、それを区分する運動をすべての方向で超えています。それと同じように、精神の生は脳の生を超えます。しかし脳は、精神の生から、運動のかたちにして演じうるもの、物質化できるものをすべて取り出し、そしてそれによって物質のなかに精神が入り込む点を構成しますから、まさにそのことによって脳は精神が状況に適応することをつねに保証し、精神をたえず現実と接触させておくのです。したがって、正確に言うと脳は思考・感情・意識の器官ではありません。そうではなくて、脳は意識・感情・思考が現実の生活に向けられているようにし、その結果として、効果的な行動ができるようにしているのです。お望みならば、脳は生への注意の器官であると言っておきましょう。》

 それでは、脳の生を超える精神の生とは何か。記憶作用こそがその実質であるとベルクソンは指摘する。そして、見たり触れたりできない記憶内容について、メタファ−として「容器」という考え方が認められるならば、それは脳ではなく精神であると述べている。

《…私はまったく率直に、記憶内容は精神のなかにあると言いたいのです。私は仮説を作っているのではありません。また、神秘的な本質存在を持ち出すのでもありません。私はひたすら観察によって考えます。なぜなら、意識よりも直接に与えられるものはなく、意識より明らかに実在的なものはなく、そして人間の精神は意識そのものだからです。ところで、意識とは何よりも記憶作用を意味します。》

《精神にとって、生きるというのは、本質的にはなされるべき行動に集中することです。したがって、生きるということは、意識から行動に利用できるすべてを抽出するメカニズムの媒介によって事物のなかに入っていくことです。そのばあい、意識のなかで利用されない残りの最大の部分はあいまいにしておくことも辞しません。これが記憶作用の操作における脳の役割です。》

 ベルクソンの所説を徹底すれば、身体は単に精神に利用されるにすぎず、逆に精神は(そして行動に利用されなかった記憶──ベルクソンの他の著書での用語を使えば「純粋記憶」──もまた)一個人の身体死を超えて存続することになるだろう。実際、彼は次のように述べて講演をしめくくっているのである。

《われわれが示そうとしてきたように、もしも精神の生が脳の生を超え、脳が、意識のなかに生じていることのわずかな部分を運動に還元するだけの仕事をするならば、意識が死後にも残るという考え方はきわめて真実味を帯びてくるので、その立証の責任は、この考えを肯定するひとたちよりも、否定するひとたちのものになるでしょう。と言いますのは、意識が死後は消滅すると考えるただひとつの理由は、身体の解体が見られるということでありまして、この理由は、身体に対しての意識のほとんど全体の独立性が、それもまた確認されるひとつの事実であるならば、もはや有効ではないからです。》

 かくしてベルクソンは、霊魂の不滅という形而上学の問題を《経験の領域》に移す。私たちは彼の思索の跡をたどることによって、魂の行方をめぐる問題を、あたかも観察と実験を重んじる自然科学者のように論じることができる場所へと案内されたのである(もっとも、そこでなされる実験とはいわゆる思考実験に他ならない)。

 ──だが、私にはいまひとつ腑に落ちないことがある。それは、ベルクソンは結局、意識一般、精神・魂一般を問題にしているだけなのではないか。そこからは、「他ならぬこの私」という謎めいた思いを解明する手掛かりが見出だせないのではないか、というものだ。もちろん彼は意識そのものの本性についても考察をめぐらし、「持続」というよく知られた考え方を提示しているのだが、それとて私には意識一般についての議論にしか思えないのである。

 この点は、ベルクソンの全著作を詳細に読み解くことで解決するかも知れない。が、私はここでもう一人の哲学者(反哲学者というべきか)の言葉を引用することで、議論を先に進めることにしたい。論点は、魂は複数存在するのか、あるいは「私」の魂にとって他者とは何かということだ。


【27】魂の行方(ウィトゲンシュタイン)

 「私はなぜ私なのだろう」という思いをつきつめれば、「他ならぬこの私」が他者一般とは決定的にそのあり方を異にするものであることに行き着くだろう。もしそれが、哲学用語でいう独我論(唯我論)の弊に陥るものであったとしても、性急にそこからの脱出を図るべきものではない。

 「私」とは何か、そして世界とは何かをめぐって、精神の病への怖れと闘いながら徹底的な思索をめぐらせた若き日のウィトゲンシュタインは、後に『論理哲学論考』としてまとめられることとなる草稿の中で、次のようにその思索の痕跡を綴っている(ウィトゲンシュタイン全集第1巻・奥雅博訳/大修館書店)。

《世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する。そして私が他人の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握するのである。
 右の見解は、唯我論がどの程度真理であるか、ということを決定するための鍵を与える。》

 ウィトゲンシュタインは、このうち後半部分を『論考』に採用し、引き続き次のように記述している。《即ち、唯我論が考えている(言わんとする)ことは全く正しい。ただそのことは語られることができず、自らを示すのである。》(『論考』5・62)《私は私の世界である。》(『論考』5・63)

 「私が私であること」の意味は、これらの断章のうちに究極の表現を得ている。少なくとも、私にはそう思える。《世界は私の世界である。》(『論考』5・641)そして、この世界でただ一つ現実に存在する世界霊魂を、ウィトゲンシュタインは「私の魂」と称し、他人の魂を「世界霊魂」として把握する。

 ここで注意しなければならないのは、ウィトゲンシュタインが、《私が他人の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握する》というとき、彼は私の魂と他人の魂が究極において一つのものだといっているわけではない、ということだ。世界霊魂と私の魂との関係は、他人の魂と世界霊魂あるいは私の魂との関係とは決定的に異なったものである。端的にいえば、私の魂は先に述べた意味での自己意識一般とは全く異なるものなのである。

 いや、より根源的に、そもそも私の魂は「他ならぬこの私」という特殊な自己意識とも決定的に異なったものだといわなければならない。というのも、ウィトゲンシュタインが「世界=私の世界=私」という等式を示し、この世界のうちに《世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する》と記述するとき、「他ならぬこの私」をめぐる謎めいた意識の実在は、そのような認識を導く端緒あるいはそのような世界のあり方の痕跡としてのみ取り扱われているにすぎないからである。

 だが、これらのことはおそらく言葉では表現できない事柄である。なぜなら、私たちの言語の働きは、「他ならぬこの私」も私の魂も「私」一般も、したがって「他ならぬこの人」も他人の魂も他者一般も、最終的にはそれぞれの存在論的な差異を超えた意識一般のうちに分類してしまうだろうから。

 そこでウィトゲンシュタインは、《ただそのことは語られることができず、自らを示すのである》といい、《世界が私の世界であることは、唯一の言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに、示されている》というのである。

 彼は、後に言語の働きについてより立ち入った考察を加え、有名な「言語ゲ−ム」というアイデアを打ち出す。このいわゆる「後期」ウィトゲンシュタインが切り拓こうとした思索の方向には大変興味深いものがあるのだが、ここでは、「前期」ウィトゲンシュタインの思索のうちにとどまり、そこから私なりの解釈を切り拓いてみたい。

 ──ウィトゲンシュタインの所説を徹底するならば、《私の魂》にとって、他者は存在しない。少なくとも、「他ならぬこの私」にとっての「他ならぬこの人」に相当する《他人の魂》なるものは存在しない。他人の魂とは、いわば言葉の上だけで表現されるものにすぎず、この世界にただ一つ実在するのは世界霊魂としての私の魂だけである。(本来、私の魂は一つとか複数とか、表象の世界における存在のように量的に規定されるべきものではない。)

 それでは、《私が他人の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握する》という断章を通じてウィトゲンシュタインが示そうとしたことは一体何なのか。それが、私の魂と他人の魂との究極的な合一をいうものでないことは、既に指摘しておいた。最も素直な解釈は、他人の魂という、言語が生み出した観念の虚偽性を指摘したもの、したがって独我論(唯我論)の正しさを確認したものとする解釈だが、私はそれは間違っていると思う。

 先に述べたことと一見矛盾するようだが、私は、ウィトゲンシュタインは他人の魂の実在を否定しているわけではないと考えている。彼がいいたいのは(いや示したいのは)、他人の魂に言及することは、《私が理解する唯一の言語》の限界を超えているということなのである。語り得ぬことについては沈黙しなければならない──『論考』の最後に掲げられたこの有名な命題の意味は、他人の魂の実在、端的にいえば私の世界の外部の実在可能性の問題は、私の世界における言語の限界を超えているということを宣言したものと解釈すべきなのだ。

 それでは、最初の問いにもどって、《私が他人の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握する》という断章を通じて、ウィトゲンシュタインが示そうとしたことは一体何なのか。私は、二つの解釈がありうると思う。第一の解釈は、「私の世界=私の魂」の内部で考えられるものであり、第二の解釈は、その外部で考えられるものである。


【28】魂の行方(ショーペンハウアーと多重宇宙)

 第一の解釈、つまり「私の世界=私の魂」の内部で、他人の魂(と称するもの)を世界霊魂(=私の魂)として把握するとは、どのような事態をいうのか。

 ここで私は、若きウィトゲンシュタインに多大な影響を与えたショーペンハウアーの思想に言及したいと思う。というのも、主著『意志と表象としての世界』の中でショーペンハウアーが掲げた「愛は同情(共苦)である」という逆説的な命題が、ウィトゲンシュタインの断章の意味をめぐる第一の解釈に、有力な手掛かりを与えてくれると考えるからである。(以下の引用は、『世界の名著45 ショーペンハウアー』(西尾幹二訳/中央公論社)による。)

 《世界はわたしの表象である》とショーペンハウアーはいう。しかし世界は、このような認識可能な側面、すなわち主観と客観の分裂という形式の上に成り立つ表象としての世界の他に、表象の世界を自らの客観化によって現象させる《意志》としての世界の側面も有している。すなわち、《世界はわたしの意志である》。

 彼は、《意志が意欲しているものは、つねに生命であって、…端的に「意志」という代りに「生きんとする意志」というとしても、…言葉の重複にすぎない》と述べ、このような意志の盲目的な客観化にすぎない《いっさいの生は苦悩である》と断言する。そして、苦悩の世界からの「解脱」への道の一つを、同情(共苦)としての愛に求めるのである。

 ショーペンハウアーは、《愛の起源と本質とは「個体化の原理」を突き破って奥を見ること》、すなわち《あらゆる現象は多様でも意志はただ一つである》という直接的な認識に到達することだという。

《万物のうちに自分を認識し、万物のうちに自分の最内奥の真実の自我を認識しているそのような人であれば、生きとし生けるものみなすべての無限の苦悩をも自分の苦悩とみなし、こうして全世界の苦悩をわがものと化するに違いあるまい。…彼は全体を認識し、全体の本質を把握している。そしてその全体はたえまなき消滅、虚無的な努力、内部的な闘争、そして不断の苦悩にあけくれていることが彼には分かっているし、どこに目を向けようと、人間界は苦悩しているし、動物界も苦悩しているし、世界は衰退しつつあるのを彼は目撃している。エゴイストにとってわが身一身のことが大切であるように、こうした全体の世界相こそが彼には今や大切なのである。》

 ショーペンハウアーは続いて、《世界をこのように認識したからには、どうして彼はほかならぬこのような生を、つねひごろの意志行為を通じて肯定するはずがあり得ようか》と述べ、苦悩の世界からの究極的な解脱の道である「意志の否定」へと論を進める。

 意志の否定によって、世界は無に帰するだろう。それが私の魂にどのような境地をもたらすか、大いに興味をそそられるところだが、ここでは、同情(共苦)としての愛を支える認識(意志としての世界のあり方に関する直接的な認識)こそが、ウィトゲンシュタインの断章をめぐる第一の解釈を成り立たせる根拠となるものだと指摘するにとどめよう。

 詳説すれば、ウィトゲンシュタインがいう世界霊魂(私の魂)の実在を意志としての世界のあり方の異なる表現と理解した上で、「個別化の原理」に基づく多様な現象の奥深くに「生きんとする意志」を直接的に認識することが、「私の世界=私の魂」の内部において他人の魂を世界霊魂として把握することの意味なのではないか、と私はいいたいのである。

 このようにいうと、それは結局のところ、私の魂と他人の魂が究極において一つだというのと同じことではないか、と反論されるかもしれない。私はそうではないと考えているのだが、このことを言葉で示すのは極めて困難である(私の言語の限界を超えている)。

 ただ、他人の魂なるものをたとえば死者の魂に置き換えてみれば、この二つの考え方の存在論的な違いが明らかになるのではないかと思う。つまり、ベルクソンのいう意識の不死性を私の魂の不死性としてとらえ、実在するともしないとも言葉をもってしては表現できない死者の魂(他人の魂)を、私の魂(=生きんとする意志)の直接的な認識を通して把握すること──いいかえれば、同情(共苦)による「個別化の原理」からの解放を通して、私の魂の不死性を把握すること──このように説明すれば、ウィトゲンシュタインの断章をめぐる第一の解釈が含意するところを正しく伝えることができるのではないか、ということだ。

 ──ウィトゲンシュタインの断章の意味をめぐる第二の解釈は、「私の世界=私の魂」の外部において他人の魂(と称するもの)を世界霊魂(=私の魂)として把握する、というものである。

 第一の解釈が生命の本質・神秘に根ざしたものであったことと対比させていえば、第二の解釈は宇宙の本質・神秘に根ざすものであるといえようか。たとえば、最近の宇宙論に「宇宙の多重発生説」というアイデアがある。その内容を一言で要約すれば、「宇宙はわれわれの宇宙だけではなかった」(提唱者である佐藤勝彦氏の著書のタイトル)ということである。親宇宙(マザーユニバース)、子宇宙(チャイルドユニバース)といった卓抜な命名の力もあずかって、広く一般に知られたこの仮説は、「私の世界=私の魂」の外部世界の実在性をめぐる問題の解決に有益なヒントを与えてくれる。

 ここで、一つの思考実験を試みたい。  もし、私たちの宇宙(=私の世界)とあらゆる点で一致する別の宇宙が存在すると仮定しよう。そして、そこにおいてただ一つ実在する世界霊魂を、ウィトゲンシュタインにならって《他人の魂》と称し、その世界を「他者の世界」と名づけることとしよう。

 いうまでもないことだが、この二つの宇宙、つまり「私の世界」と「他者の世界」とを結ぶ通路は存在しない(あるいは、私たちには観測できない)。もし、この二つの宇宙を同時に認識している者がいるとしたら、それは神をおいて他にない。

 以上の仮定に加え、さらになんらかの事情から、たとえば神の気紛れによって、「私の世界」から「他者の世界」に迷い込んだ者があったとしよう。その者の名は、ウィトゲンシュタインという。(それは、自己意識をもったAIであってもよい。)彼はそこで、「私」とは何か、世界とは何かめぐって徹底した思索をめぐらせる。そして、その思索の痕跡を次のように綴る。──世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ他人の魂と称する。そして私が私の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握するのである。

 私は、「他者の世界」に迷い込んだウィトゲンシュタインがそのような断章を書き残すことはないと思う。彼はやはり次のように記述するに違いない。そして、そこに表現されている事態こそが、ウィトゲンシュタインの断章の第二の解釈が意味するところに他ならない。──《世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する。そして私が他人の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握するのである》。


【29】魂の行方(成仏の技法)

 さて、これまでの考察を踏まえて、仮の要約を記しておきたい。仮の、というのは、私の魂をめぐる探求はまだその緒に着いたばかりだからであり、したがって以下に書きとめる断章は、輪廻転生や成仏といった、たまたま現在私が関心を寄せている事柄に託して今後の考察の方向を示すといった類の備忘録に他ならないからである。

 ──私は、輪廻や転生という語で表現される経験は実在すると考えている。ただし、それは「私の世界」の内部における私の魂の不死性をいうものであって、「他者の世界」への輪廻転生は、もし仮にそれが可能であったとしても、神ならぬ身にとっては結局のところ「私の世界」の内部での経験へと還元されるより他ないものである。

 魂の不死性に関して、ウィトゲンシュタインは次のように記述している。《もし永遠ということで無限な時の継続ではなく無時間性が理解されているのなら、現在の中で生きる人は永遠に生きるのである。》

 彼がいわんとするのは、魂の不死性の問題と死後の生の問題とを混同してはならない、ということだ。つまり、魂が死後も存続するかどうかを問うことは、永遠を時間の無限の継続としてとらえる立場から魂の時間的な不死性を問うものであって、そのような問いに対していかなる解答が与えられようとも、魂の実在をめぐる謎(人生の目的であれ、世界の意味であれ)は一切解決しない。

 それでは、永遠の無時間性を理解したときに明らかとなる魂の不死性とは何か。この点については、ホルヘ・ルイス・ボルヘスがある講演の場で語った次の言葉が、その意味を余すところなく、しかも平易に述べていると思う。(引用は、『ボルヘス,オラル』(木村榮一訳/書肆風の薔薇)所収の「不死性」による。)

《…自我はあらゆる人間のうちになんらかの形で内在しているものであり、その意味ではわれわれの共有物であると言ってもよい。したがって、個人的なそれではなく、あのもうひとつの不死性はやはり必要なものであると言えるだろう。たとえば、ある人が自分の敵を愛したとする。その時、キリストの不死性が立ち現れてくる。つまり、その瞬間、その人はキリストになるのである。われわれがダンテ、あるいはシェイクスピアの詩を読みかえしたとする、その時われわれはなんらかの形でそれらの詩を書いた瞬間のシェイクスピア、あるいはダンテになるのである。ひと言でいえば、不死性というのは、他人の記憶のなか、あるいはわれわれの残した作品のなかに存続しつづけるのである。…言語活動というのは創造的行為であり、一種の不死性になるものである。わたしはスペイン語を使っているが、そのわたしのうちには無数のスペイン語を用いた人々が生きている。》

 私は、「成仏」とは、「私の世界」内部での輪廻転生の実在を認識することであると考えている。ショーペンハウアーの言葉でいえば、《あらゆる現象は多様でも意志はただ一つである》という直接的な認識に到達すること、私なりの表現では、魂の不死性を認識することが「成仏」の意味であると考えている。そして「成仏」の技法とは、輪廻し転生する実体である私の魂そのものに直接向かうことであり、それは幸福な人生を生きることに他ならないと考えている。

 それでは、幸福な人生を生きるとはどういうことか。いいかえれば、私たちはいかにすれば「成仏」できるのか。この点についての私の結論は、はなはだ心もとないものでしかない。それは、ショーペンハウアーが、苦悩の世界から解脱するためには「意志の否定」を成就した聖人の伝記を読むことだと勧めたのと同じ方法である。

 コリン・ウィルソンがウィトゲンシュタインを論じた文章の中で次のように述べているのは、私の考えている成仏の技法の適切な表現であるといえるだろう。(引用は、『宗教とアウトサイダー』(中村保男訳/河出書房新社)による。)
 ──《人生の「意味」という問題についてわれわれが語りうる唯一の方法は、その問題を、生きた人間という形で示すことである。》


【30】魂の行方(付録)

     [1]

 詩とは何かとは何かが解析されねばならない。詩とは何かが、自立した自給自足的経済システムにかすめとられているならば、詩とは何かとは何かは、幼児売買市場的経済システムの互換的抽象性にからまりつかれている。詩とは何かとは何かとは一体何か。いや、いっそのこと、私にとって詩とは何かとは何か──の本質が発かれねばならない、というべきだろう。

     [2]

 私にとって私とは何か。
 私とはすでに調査済みの不可触領土にほかならず、発掘されつくした神殿の残滓、あらかじめ破られた禁忌、束ねられたアリアドネの糸、見透かされた陰謀の設計図、不毛の沃土、孤独なフライパン、無喜の鳥類についばまれる世界の種子、明晰この上ない拡大地形図──その他もろもろの甲殻虫の血脈にすぎない。ならば、私にとって私とは何かは、すでに色褪せた隠喩以外のなにものでもない──と断言しても、世界が動じることはあるまい。すくなくとも手術台の上でイジドールが思索を中断する気づかいは無用であろう。(仮に、思索が一枚の株券に比肩しうる重量を有するものとして。)

     [3]

 私にとって私とは何かとは何か──とは、全権委任状を食べてしまった山羊の苦悩ほどのリアリズムすらもたない、ありあわせの語彙の重ね着である。このような論題は、その他の、蟹にとって恒星の運行とは何かとは何かの類の論題とともに「素通り」させていただきたい。

     [4]

 とはいえ、ヒストリカル・イナビリティが大手を振ってまかり通る言語市場機構の三原理についての考察の為に、不本意ながら、私にとって私たちとは何かとは何かを「素通り」するわけにはいくまいと思う。
 それは、私が「渡す」非在と実在の境界をうずめる海流への命名のための下準備にほかならないであろう。かといって、私たちへの契機として私を措定するならば、いずれ、なしくずしに自己増殖する語彙の重ね着に窒死するのがおちであろうからには、最早、手短かに次のように結語するのが賢明であると思料される。すなわち──私たちとは私の不在による言語交通渋滞を管理する、できあいの交通法規の体系である──あるいは、私たちとは私の対偶命題である。

     [5]〜[8]  欠番

     [9]

 言語自動販売機の運行原理は、従って次の三原理に要約されるであろう。
1.AはAでしかありえない。ゆえに、AはAであることを企図する。
2.Aは非Aではありえない。ゆえに、AはAであることを懐疑する。
3.反Aは非AかAのいずれでしかありえない。
  ゆえに、AはAであることから緊急避難できない。
 例示的詩片──
1.傷ついた先匹の蛾
  地を這って巡礼
  通勤電車に便乗する
2.分解された先匹の薔薇
  発かれた秘部は発条
  求婚する歯車かみくだく
3.埋められた千羽の鳥類
  ばらまかれた光の種子ついばみ
  万能調律師宙吊り

     [10]
 かくて、熱力学第二法則の彼岸に屹立すべき恩寵への侮蔑的自己愛によって屈析した意志として、詩は、なしくずしに解明されるしかないという、哀れな結語しか提示できない破目におちいった──としても、これは私の負債、私の貧困、私ひとりの担うべき原罪であろうか?


【31】ギリシア的霊性をめぐって

 先日、1時間半の行列に加わった上、最前列で首を45度傾げながら『もののけ姫』を観ました。この映画では、没落する古代と勃興する近代(近世)との、中世というマジカル・フィールドでの出会いが神話的(超歴史的)に描かれていますね。――などと賢しらな評言を繰り出す自分が、作品を観た後では嫌になる。(映画館の通路に座り込んでいた子どもたちの「やっぱり面白かった」の言葉が、すべてを語り尽くしていたと思います。)

 私がここで前振りとして述べたかったのは、映画の中に確か「もののけ」がただの「けもの」になってしまうといった趣旨の科白があった、その言葉の意味についてです。ただの「けもの」が人間に食われる肉でしかないとしたら、「もののけ」は霊性をもった生き物(供物)をいうのだと考えていいでしょう。この言葉に表現されているのは、生き物を生かす根源的な生命力の実在への生き生きとした感覚(畏敬)であり、俗ないい方をすれば、この感覚はかつて(そしていまも)霊肉二元論が世界のリアリティをいい表わしていたことの実質的な根拠だったのだろうと思います。(などど、また賢しらな言葉を並べ立ててしまいました。)

 シモーヌ・ヴェーユの『ギリシアの泉』に、ギリシア的霊性の継承者あるいは大成者としてのプラトンが描かれていました。著書のタイトルに出てくる「泉」は、ギリシア最古の「哲学者」にして伝説上の詩人、西欧の霊肉二元論の源流──そして、凄惨な狂宴(オルギア)のディオニュソス密儀と並ぶ、静謐な「霊的照明」(イリュミネイション)のオルペウス密儀の始祖──オルペウスの断片から取られています。手元にシモーヌ・ヴェーユの著書がないので、岩波書店から出ている『ソクラテス以前哲学者断片集』第1分冊から該当箇所を引用します。

 あなたは,冥界の館の左側に泉を,
 そしてその傍らに白い糸杉を見つけるであろう.
 この泉には,そばに近づくことさえしてはならない.だがあなたは,
 別の泉を見つけるだろう.その冷たい水は,ムネモシュネの沼から流れ出ている.

 ここで訳注が付いていて、<「左側の泉」は忘却の泉で、その水を飲むことにより魂は一切を忘れふたたび転生するが、右側の「記憶の泉」を飲むと、過去の神的な生についての記憶を取り戻し、魂はみずからの起源を知るとともに、ディオニュソスと同化すると考えられていた>とあります。

 ディオニュソスとオルペウスとの関係については、ジョスリン・ゴドウィン『図説古代密儀宗教』(吉村正和訳、平凡社)の第13章「オルペウスとヘラクレス」で、<オルペウス教は禁欲的・思弁的なディオニュソス信仰であり、地上的な状態からの解放という同じ目標を目指しているが、より意識的で抑制のきいた知的手段によって探究する>とされている。

 ちなみに同書の訳者付論で、吉村正和氏は次のように書いています。──<野獣をも宥めたというその竪琴に象徴されるように、オルペウス密儀を特徴づけているのは音楽であり、オルペウス信徒は音楽の魔術的な喚起力を通して神的熱狂(神憑り)へと導かれたのである。…静かで瞑想的な密儀の系譜は、ピュタゴラスからプラトン、プロティノス、さらにはアウグスティヌスを通して西洋神秘主義の本流を形成していくことになる。>

 ――ギリシアの古代密儀をめぐってあれこれと空想をたくましくしていたちょうどその時、テレビの映像で世界陸上アテネ大会のオープニング・セレモニーを観て、これぞ密儀の再現である、もしもそのクライマックスの現場に立ち合っていたならば、きっと魂を深く激しく震わせて、私が私でなくなるエクスタシーを体験したに違いないと思った。もっとも、これは公開された式典なのだから、密儀ではなく祭儀の再現というべきでしょう。

 W.F.オットーは『神話と宗教』(辻村誠三訳、筑摩書房)の中で、<本来の真正な神話は祭儀、つまり人間をより高い領域に高揚させる、荘巌な所作なしには考えられない>、あるいは<祭儀は神話の出来事の単なる写しではなく、十全な意味で、神話の出来事そのものである>と述べ、神話と祭儀が根本において一つであることを指摘しています。

 これを私なりにパラフレーズすれば、次のようになります。すなわち、そこから霊性が立ち上がるところの祭儀を成り立たせるのは「身振り」(狭義の祭儀)と「語られた言葉」(神話)なのであって、この二つの要素──肉の躍動を通して霊のかたちを造形する「舞踏」と、霊が肉を希求する身振り・律動としての「声」──とのかけあわせが音楽や天使的存在を、つまり霊性の表現媒体を生成するのだと。

 そして、ここから先は私の直観でしかないのですが、言語の肉としての文字や言語の霊としての声──音韻、あるいはパラレリズム(対句法)に代表される韻律と表現してもいい──といったいい方が認められるならば、カリグラフィー(装飾的書体)とは、まさに魂のコレオグラフィー(舞踏術・振付術)とでもいうべき技法によって造形された、霊性とは似て非なる「意識」の表現媒体(の祖型)にほかならないのではないか。

 私の「霊感」の由来は、鶴岡真弓氏が『装飾文字の世界』(三省堂)の訳者あとがきに寄せた小文にあります。そこではたとえば次のように表現されている。

<ヨーロッパの書物の芸術、すなわち装飾写本の芸術は、本来的にキリスト教という普遍宗教の「神」の奇蹟の「ことば」を、本という物質、羊皮紙の頁という物理的な地平に顕現させ、その声=霊を「文字」という肉体に変容[インカーネート]させた芸術[アート]だった。もし私たちが、キリスト教文化圏で生きたヨーロッパの人々がもったこの「文字」にたいする信仰と理屈に無頓着であるならば、なぜ彼らがその生命をかけて(一生を文字の装飾に捧げた修道士は多い)、「文字を飾った」のか、「装飾する[イリュミネイト]」という動詞/行為の語源(光を入れる)が何なのかについて、そもそも理解することはできない。
 ひとことで言えば、「ことば」が「文字」というかたちとなって私たちの前に現われるということに驚嘆する心をもつことは、「ことば」の力を信ずることであり、その「ことば」の持ち主・神という超越的な存在の現われとしての「文字」という(視覚表現上の)形式[フォーム]の力を信じることであった。…「文字の装飾」とは、人間と超越者の間に横たわる溝への深い自覚と、彼岸/天上への憧れとのエッジで生まれた、美術の一種の奇蹟である。>

 美しい文章です。すべてが簡潔に、しかも豊かに表現されている。何も付け加えるべきではない。ただ、ここで使われている超越者や神という語彙が、カリグラフィーとは(「意識」の表現媒体でなはく)むしろ霊性の表現媒体なのではないかと思わせること、そうであるにもかかわらず私の直観は、<人間と超越者の間に横たわる溝への深い自覚と、彼岸/天上への憧れとのエッジで生まれた>ものであるがゆえに、カリグラフィーの表現は霊性とは異なったものの方へ向かっているのだと告げることを述べておきます。(この直観を論証するためには、カリグラフィーと、抽象と具象のあわいに意味がかたちとなって立ち上がる瞬間をとらえようとする中国や日本の「書」との類似と差異についても考察しなければならないでしょう。)

 先に私は<「霊的照明」(イリュミネイション)のオルペウス密儀>と書きました。これにも実は出典があって、吉村氏が前掲書の訳者付論の中で、エレウシス密儀やオルペウス密儀の特性を示す語彙として「霊的照明」(イリュミネイション)を使っているのです。鶴岡氏の文章にも「装飾する[イリュミネイト]」が出てきました。そして、その語源が「光を入れる」であることが注記されていました。これらを足がかりにして、私の直観は再びギリシア的霊性の始元(ただし、ヘーゲル流の精神の歴史の上での始元)へと向かいます。それはゾロアスター教です。

 ヘーゲルは『歴史哲学講義』(長谷川宏訳、岩波文庫)で、次のように語っています。──<ペルシア人の光の直観とならんで、シリア人の欲望と快楽の生活、金もうけに長け、海の危険をもものともしないフェニキア人の勤勉と勇気、ユダヤ教の抽象的な純粋思考、エジプト人の内面的な衝動、などがならびたち、それらを理念として統一する力がもとめられていますが、それらは自由な個人の登場をまってはじめて統一される。精神が自分の内部にわけいり、その特殊性を克服して自由になることによって、これらの要素もたがいに浸透しあうことが可能であって、それをおこなう民族がギリシャ人です。>(第1部第3篇第5章「ギリシャ世界への移行」)

 冒頭に出てくる<ペルシア人の光の直観>とは、古代ギリシア人が伝説的に哲学の始祖と信じた預言者ザラスシュトラ(ギリシア=ラテン語名はゾロアストレス)、すなわち<西洋が迎え入れた最初のアジアの魂>(前田耕作『宗祖ゾロアスター』、ちくま新書)としてのゾロアスターのことをさしているのです。

 こうして、ギリシア的霊性をめぐる「研究」のプログラムが出来上がりました。忘却と記憶、儀礼と神話、舞踏と音楽と天使とカリグラフィー、そして霊と肉。それらは、<アジアとギリシアの知の融合の象徴>(前田前掲書)としてのプラトンを媒介として結びつき、ペルシアへ、東方世界へと遡行していく。

 また、とりとめもない饒舌に終始してしまいました。思索や空想や「研究」の結果ではなく、これから考えたり「研究」したり書いてみたいことをあれこれと叙述するのは、こころ楽しい試みです。これに比べると、昔書いた文章を引っぱり出して再読することには、ややリスキーなところがある。無惨の一言で廃棄する場合が断然多いものの、一頃こころを奪われていまは疎遠になっていた題材をしみじみと思い起こすのは、たとえその文章や思索の痕跡が未熟かつ惨憺たるがらくたにすぎないとしても、やや倒錯的ではあるがやはりこころ豊かな営みではあります。次回から、強引に霊性をめぐる「研究」にひっかけて、過去の覚書を紹介します。