コミュニティに根ざした経済・覚書



【341】労働の美学化と地域化

 トランスパーソナル心理学やら精神分析学、「正統派の」経済学はもちろんバタイユやクロソウスキー、ジンメルやレヴィナスなどの経済と貨幣をめぐる思索等々をも見据えながら、「魂の経済学」への道を手探りしていきたいと考えています。で、まずその手始めに、というかもっと基礎的な経済学への入門を兼ねて、いくつかの書物を概観した手控えのノートのようなものを作成してみました。

 今村仁司氏は鷲田清一著『皮膚へ』の書評(『エコノミスト』2000.3.21)で「社会科学であれ哲学であれ、構えて何かを書いていこうとすると、余儀なく抽象的な言葉を使用する」と(『皮膚へ』の文章を賞賛するために)書いていましたが、私の場合、構えて書くための素材すらもちあわせてはいないのですから、抽象的だたあ、解っちゃいないってこと、です。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 新しい働き方を考える際、参照すべき二つの系譜があると思う。第一は「労働の美学化」とでも総称することができるもので、たとえばシャルル・フーリエやジョン・ラスキンの思想、ウィリアム・モリスの実践やエベネザー・ハワードのガーデン・シティにもつながりうる系譜である。(日本では「農民芸術概論」の宮澤賢治の名を挙げることができるだろう。)

 第二は「労働の地域化」あるいは「コミュニティ化」と仮に名づけることができるもので、シルビオ・ゲゼルの「自由貨幣」の理論やこれを応用した地域貨幣の実践(大恐慌時、ケインズ主義的な有効需要政策とは異なるもう一つの経済・雇用政策としてオーストリアのヴェルグルその他で実施されたもの)、さらには現代の地域通貨(LETSや交換リング)やボランタリー・エコノミーをめぐる実践と思想にもつながりうる系譜である。(たとえば三浦梅園『価原』の経済思想との関係をこの系譜の中で考えることができるかも知れない。)

 以下の覚書はこの第二の系譜を念頭においているのだが、両者は本来切り離して考えることのできない密接な関係を取り結んでいる。それは、マルクスがいう「可能なるコミュニズム」としての「生産−消費協同組合のグローバルなアソシエーション」(柄谷行人)へとつながりうる「経験」と「システム」との関係に準えることができるものなのかも知れない。


【342】新しい労働・オルタナティブな労働

 現象としての「新しい働き方」は種々ありうる。在宅勤務やフレックスタイムなどオフィスでの新しい勤務形態からワークシェアリング、ワーカーズコレクティブ、SOHOや定年帰農、ボランタリー活動やNPOへの「就職」等々。創作活動や学術研究活動、純粋な思索や宗教活動、賃金労働を否定し国家と資本主義的経済体制そのものを乗り越えようとする実践活動まで、狭義の経済活動の範疇に属さない働き方も考えられる。

 たとえばハンナ・アレントは人間の基本的な活動力として労働(labor)・仕事(work)・活動(action)を掲げた。この三つの活動力はそれぞれ、生存のために必要な消費財の生産(労働)、有用性と耐久性をもつもの、つまり消費に抗する道具や器具、美的永続性をもつ芸術作品などの人工物の製作(仕事)、談話すなわち言語によるコミュニケーションや英雄的個人の偉業(活動)を典型とするものだ。

 アレントのいう活動まで視野に入れるならば、新しい働き方への問いとはおよそすべての人間活動、一般にライフスタイルや価値観などと呼ばれるものも含めた人間と社会との関係のあり方そのものへの問いにほかならない。しかし、ここで取り上げたいのは広範な社会的活動の諸類型のうち、人間が生きていく上で必要な「労働」の新しい形態である。それは現象としては殊更にいうほどの新奇性はなく、その意識面においても決して新しいものではない。

 一定の現実性をもち、かつ自らの原理に基づいて自らのかたちを造りあげていくその過程の不断の継続を通じて、従来にない人的結合の形態やそれを支える思想をもたらし得たとき、それは新しい働き方、正確にいえば新しい社会的関係へと結実する経験であったといえるだろう。新しさそのものに意義があるわけではないのだから、オルタナティブな働き方あるいはオルタナティブな社会的関係への経験の可能性というべきかも知れない。


【343】コミュニティに根ざしたエコノミー

 コミュニティに根ざした持続的労働の可能性を考えてみたい。コミュニティを創り維持し発展させ、他のコミュニティとの関係を結んでいく労働(Community-Based Work)。たとえば、介護や育児などの対人サービスをはじめゴミ処理や生活環境・景観形成といった従来から行政サービスとして供給されてきた役務はもちろん、生活道路その他の公共財の形成・供給、日常的な利便サービスから文化的な活動まで含めた労働。(たとえばアイルランドでは、詩人は「ランゲージ・アクティヴィスト」と呼ばれ、コミュニティ・センターで教えたり文化アドバイザーとして地域社会にかかわっているという。)

 そのような営為が「労働」として機能するためには、つまり個人の生計を成り立たせ、かつ社会的な価値として流通するためには、それを支えるシステム――コミュニティに根ざしたエコノミー(Community-Based Economy)――の構築が必要だ。

 それは、共同体の規範(ムラの掟)や自由な主体による契約と競争の原理に基づいて経済活動を規整しようとするものではなく、強いていえば倫理に、「歓待(ホスピタリティ)の倫理」(今村仁司)とか「共生の作法」(井上達夫)とも言い換えることができる来たるべき倫理──善悪にかかわる共同体的規範としての他律的な道徳と区別され、「自由であれ」「他者を手段としてのみならず、同時に目的(自由)として扱え」というカント的義務にかかわるものとしての倫理(柄谷行人)──に基づくシステムでなければならない。

 正確にいえば、そのような可能性としての倫理が現実に生まれ出る母胎、あるいは経験の能力を培う場としてのコミュニティを創り維持し発展させ、他のコミュニティとの関係を結ばせる信頼もしくは共生の経済システム。


【344】中間領域としてのコミュニティ

 それでは「コミュニティ」とは何か。ムラに対してマチ、抽象的な市場に対して具体的な生活世界、結や講や連や座といった伝統的な人的結合の仕組みの現代版、その他イメージは様々ありうるが、ここでは原理的に、時間や空間の限定を受けない理論的な地平にコミュニティを位置づけておく。

 まずグローバリズムとローカリズムの対立に典型的な「一般−特殊」の水平軸を引き、次いでこれに「普遍−個別」の軸を直交させる。そうすると、一般と特殊の間にある中間領域──「グローカル」な場(西部忠)といってもいいし、一般的な「契約」(contract)と特殊的な「制度」(institution)がクロスする場、あるいはヒューム的な「黙契」(convention)が創発する場といってもいい──から垂直方向に普遍と個別へ向かう二つのベクトルが生まれる。コミュニティが孵化する場はそこだ。

 ヴァーチャルなものであれアクチュアルなものであれ、現象としてのコミュニティは、血も凍るパターナリズムや掟に支配された村落共同体(制度に規律された「互酬経済システム」)と非人格的結合体として設計された大規模企業組織もしくは私利私欲に立脚した冷酷無比な市場(自由契約に基づく資本主義的「市場経済システム」)との間・中間領域に位置している。

 もちろんここでいう村落や企業組織・市場は頭で考えられた抽象的な観念にすぎない。現実社会がもたらす経験はもう少し厚みもしくは深さをもっている。この深さの次元を表現するものが実は「普遍−個別」の軸なのであって、通常それは理念や理想、虚偽意識ではなくものの見方としてのイデオロギーの世界、揶揄的なニュアンスでは神学的世界などと時に呼ばれる領域を示している。

 コミュニティに根ざした諸活動が「労働」として機能するためには、この深さの次元へコミットしそこから生計維持の原資・根拠となる価値を、それも抽象的かつ一般的な価値や互換性をもった特殊な価値をではなく、普遍的もしくはパブリックで個別的もしくは「人間的」な価値を獲得することが必要だ。

 コミュニティに根ざしたエコノミーとは、したがって、互酬経済システムと市場経済システムとの間・中間領域にあって両者を媒介しつつ、普遍的かつ個別的な価値の生産・流通・消費・貯蔵のプロセスを統治するオルタナティブな社会的・文化的な経済システムである。


【345】五つのエコノミー

 来たるべき倫理。それはもちろん日々の「労働」を典型とする経験のうちに根ざしたものなのだが、しかしそれと同時に、そうした経験(関係性の経験)それ自体を可能なものとする場(コミュニティ)とこれを現実のものとするエコノミー(Community-Based Economy:CBE)をともども設営する超越論的な原理でもある。

 もちろん場とエコノミーのうちにも同様の循環関係が見られるのであって、これらの関係(経験と倫理、場とエコノミーの循環)を抽象的かつ外在的に観測すれば、そこに形式論理的な矛盾が見えてくるだろう。これこそが「一般―特殊」の軸に沿った思考──農村と都市、制度と契約、共同体と機能体、ローカルとグローバル等々の二分法が生み出す思考──なのである。そこでは人間とその経験はいずれも抽象的なもの、たとえばシステムを構成する項や集合の要素としてしか扱われないし、価値もまた非人格化され客観的に数量化されるほかはない。

 制度(互酬経済的道徳)でも契約(市場経済的ルール)でもない「黙契」、あるいは「暗黙知」や「共同知」と呼ばれるものに支えられた記憶可能な(地域的限定と世代を超えた相互引用や伝達が可能な)経験の個別性と普遍性を複眼的に見通す「普遍−個別」の軸に沿いつつ、個別具体的な相における人間の経験あるいは一回性をもった出来事を内在的に観測するときに見えてくるもの、そしてそれを記述する際に求められるものは形式論理的な整合性ではなく、ロナルド・ドゥオーキンがいう「物語的整合性」であろう。

 ドゥオーキンは、法体系には物理的事実や人々の行動に関する「ハ−ドな事実」によっては証明されない「物語的整合性 narative consistency」という事実が備わっており、「我々の法という継ぎ目のない織物のうちでは、いつでもすべての実践的な目的にとって、正しい解答は存在する」と主張している。すなわち法体系は法的実践の痕跡が記録された物語であって、何が正しいかを自律的に決定する目に見えない原理、そこに内在するものにとって自明なしかしそれとして示すことのできない感覚がその内部に存在するというのである。

 ここでいわれる不可視の原理や感覚こそが来たるべき倫理の一つの存在様式であり、そうした原理や感覚を培う経験の能力をもたらす場がコミュニティである。このように定義されたコミュニティは、金子郁容氏らのいう「ボランタリー・コモンズ」(自発する公共圏)に近しいものだろう。ボランタリー・コモンズの上に成り立つ経済・文化活動としての「ボランタリー・エコノミー」(自発的経済文化)やボランタリー・コモンズが様々に結びついたオルタナティブな市場(相互編集市場)、さらにはコミュニティで生産される価値としての「ソーシャル・キャピタル」(関係性に関する財)など、金子氏らが提示する概念は示唆的である。

            【ボランタリー経済】
                個別
                │
                │
                │
                │
                │
【互酬経済】特殊 ─────【CBE】───── 一般【市場経済】
                │
                │
                │
                │
                │
                普遍
          【パブリック経済(普遍経済)】


【346】信頼の経済を支える文化メディア

 コミュニティはまた自立性と共同性へと分裂した人間の欲求(金子勝)を媒介するもの、すなわち一般性と特殊性ではなく個別性と普遍性の間・中間領域に位置し、これらを創発しつつ媒介する場である。そこではホモ・エコノミカスに典型を見る「強い」人間像ではなく、傷つきやすく(ヴァルネラブル)壊れやすい(フラジャイル)「弱い」人間像が基本でなければならない。そしてそこでの社会関係は、強い人間を前提とした「信用」ではなく弱い人間を結びつける「信頼」(あるいはルドルフ・シュタイナーのいう「友愛」)に基づく具体的な絆(メディア)によって媒介されたものでなければならない。

 西部忠氏は市場(貨幣経済)における信用(クレジット)が純粋に経済的なものであるのに対して、LETS(the Local Exchange Trading System)における信頼(トラスト)が非経済的な要素を含む全人格的なものであることを踏まえ、単一主体による集中的発行・利子生み・一般流通といった純粋な経済メディアとしての特徴をもつ一般貨幣と比べて、個人発行・無利子・地域限定流通といった特徴をもつLETSは価値や文化をアピールしこれを守る「文化メディア」として発達していく可能性をもつと指摘している。

 また電子マネーとLETSの違いについて、前者が貨幣の貨幣性(観念)を純粋化したものであるにもかかわらず最終的な決済の段階で古い貨幣(物質性)の裏付けが必要であるのに対して、後者はいささかの物質性にも基づかない純粋な観念であること、それはグローバルな観念ではなくある地域に対するローカルな観念=信念に基づくものであって、そうであるからこそLETSは「文化メディア」になりうるのだと述べている。

 西部氏がいう「地域」は物理空間的・地理的近さの基準を超えた「文化位相空間的」な近傍、意味や主題に穏やかに連結しながら自己組織的に形成されていく分散的で自生的な経済社会ネットワークのことである。LETSはこのような意味での地域に限定された「内部貨幣」であって、介護サービス、教育サービスなどの「ローカル商品」の流通手段・支払手段としてのみ使用される貨幣である。


【347】ワークフェア原理と開かれたコミュニティ

 西部氏がいう「ローカル商品」あるいはカリン・エリクセンが「ある一人が他の人のために役立とうとして仕事をするときにいつでも成立しているサービス領域」と定義した「ヒューマンサービス」(健康・教育・精神衛生・福祉・家庭援助・児童擁護・職業的リハビリテーション・地域社会のサービス・法律サービスなどで、金子郁容氏らはその日本経済に占める規模を年間100兆円から200兆円と推計している)の多くは、都市化や核家族化に伴なって現代では地方自治体が供給する社会サービスに委ねられている。

 金子勝氏は神野直彦氏とともに、こうしたヒューマンサービスの典型である高齢者への現物給付(対人社会サービス)を「近未来社会における地方自治体の重要な課題」ととらえる考え方に立って、高齢化社会、分権時代における新たな地方税原理(課税根拠)としての「ワークフェア原理」を提唱している。

 その基本となるアイデアは、第一に「地域社会は、社会を維持するために、介護を含む高齢者扶養や育児・子どもの教育などを共同で行わなければならない」こと、第二に「労働をたんなる私的利益の追求だけではなく一部社会的貢献を含むものとみなす」(家族や地域社会の相互扶助によって供給される介護、育児の「労働」と通常の職業に従事する労働を本質的に代替可能なものとみなす)ことにある。

 こうした見方に立って金子氏らが提言しているのが所得比例税の地方への移譲であって、家庭内や地域の相互扶助・共同作業によって地域社会を維持する労務(対人社会サービス)を提供できず、地方自治体の供給に任せなければならなかった者は、その時間を使い従事した労働によって得た成果の一部を所得比例税で納税すればよいと考えるものである。それは「介護を含む高齢者扶養や育児などの「労働」を供給しない代わりに、所得比例税で代価を支払うという論理」に基づいており、その反面として、たとえば介護労働にたずさわるボランティアについてその社会的貢献に応じた減税や補助の措置をとることを可能とする。

 金子氏によれば、ワークフェア原理に基づく所得比例税の提案は高齢化や核家族化といった「誰でもどこでも普遍的に起こりうるリスク」を共同でシェアするという考え方に立ち、「開かれたコミュニティ」における自主的選択を可能にする枠組み(自立性と共同性、自己決定権と社会的共同性の相補関係)をつくりだそうとするものである。この枠組みを通じて人々の将来的不安の解消や女性・高齢者の社会進出の促進が期待できるし、さらには所得比例税の納税者(都市部に住む子供)と対人社会サービスの受益者(農村部に住む老親)との乖離を調整する根拠ともなる。


【348】一つのモデル(粗描)

 コミュニティに根ざした持続可能な「労働」を支える経済システム。その一つのモデルを粗描しておく。

 霊長類の大脳新皮質の大きさ(大脳に占める割合)とそれぞれの種がつくる社会集団の大きさとの関係を調べたダンバーは、両者に正の相関が成り立つことを見出し、ヒトの大脳新皮質の大きさから逆算して得たその社会集団の平均的大きさを150人程度とした。また金子郁容氏は江戸期から昭和10年頃まで存在した結・講・座・連(たとえば若衆宿)、あるいは地域住民グループや小規模クリニックを核とした会員制ネットワークを中心に形成されたボランタリー・コモンズの事例を踏まえて、概ね200人から300人程度の規模で「コミュニティ・ソリューション」を起こせる結社の方法を考案することを提唱している。これらのうちにコミュニティの規模をめぐる(生物学的もしくは大脳生理学的な)ヒントがある。

 こうしたモナドとしてのコミュニティを基礎単位として、より「広域」のコミュニティ経済圏を──たとえば太陽光発電によって得られる「普遍経済」的エネルギー(地域通貨としてのグリーンエネルギー)をベースに──構想し、これにヒューマンサービスとしての「コミュニティ・ワーク」を組み入れること(たとえば金子郁容氏らが注目する文化通貨・経済文化マネー・ネットワークマネー・ボランタリーマネー・教育通貨としての「教育クーポン」の導入など)。

 さらにワークフェア原理に基づく新しい「コミュニティ・タックス」の考え方を踏まえつつ、「生産−消費協同組合のグローバルなアソシエーション」としての自治体(というより協働体、社交体)機構を設計主義的発想からではなく構想し、個々人が仕事をするための場=インフラとしての企業組織(太田肇)であれソーシャル・バンクとしての金融機関であれ寄付者あるいはボランタリーな活動者としての個人であれ、意味や主題を共有する「外部」者へとリンクしていくこと。

《参考資料1》
[1]ハンナ・アレント『人間の条件』(志水速雄訳,ちくま学芸文庫,1994)
[2]今村仁司『交易する人間(ホモ・コムニカンス)』(講談社,2000)
[3]太田肇『「個力」を活かせる組織』(日本経済新聞社,1999)
[4]金子郁容・松岡正剛・下河辺淳他『ボランタリー経済の誕生』(実業之日本社,1998)/金子郁容「ボランタリー・エコノミーとシェアウェア」[http://www.hotwired.co.jp/matrix/9709/main.html]/金子郁容「ボランタリー経済の誕生」[http://www.smn.co.jp/2010/complex/rec05.html]
[5]金子勝『市場』(岩波書店,1999)/金子勝「どのような地方税が必要か」(神野直彦・金子勝『地方に税源を』第三章,東洋経済新報社,1998)
[6]柄谷行人『倫理21』(平凡社,2000)/柄谷行人「『トランスクリティーク』結論部」(柄谷行人編著『可能なるコミュニズム』第一章,太田出版,2000)
[7]ロナルド・ドゥオーキン「正しい解答はないのか」(石前禎幸訳,『現代思想』vol.14-6,1986)
[8]西部忠「〈地域〉通貨LETS 貨幣・信用を超えるメディア」(『可能なるコミュニズム』第三章)/西部忠「LETSの可能性、グローバリゼーションへのカウンター・メディア」(『談』No.63,2000)

《参考文献2》
[1]河邑厚徳+グループ現代『エンデの遺言』(NHK出版,2000)
[2]小松和彦・栗本慎一郎『経済の誕生』(工作舎,1982)
[3]ピエール・クロソウスキー『生きた貨幣』(兼子正勝訳,青土社,2000)
[4]ゲーテ『ファウスト』第二部(池内紀訳,集英社,2000)
[5]ジョルジュ・バタイユ『呪われた部分』(生田耕作訳,二見書房,1973)
[6]妙木浩之『心理経済学のすすめ』(新書館,1999)
[7]『自由経済研究』第十四号・特集「エンデの遺産」(ゲゼル研究会編,ぱる出版,1999)
[8]『大航海』No.27・特集「金融とは何か」(新書館,1999)


【349】素材─シルビオ・ゲゼルに始まるもう一つの経済雇用政策

●シルビオ・ゲゼルについて

☆ 『ネットで百科』[http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/index.html]

《ゲゼル Silvio Gesell 1862‐1930/ベルギー生れのドイツの経済学者。ブエノス・アイレスで商人として成功したが,1880年代のアルゼンチンにおける激しいインフレーションをみて,貨幣の価値の安定を求めて貨幣制度の改革を唱えた。その代表作は『自由な土地と自由な貨幣とによる自然的経済制度』(1916)であるが,金・銀などに依存しない国家貨幣の創造を通じて経済の安定化を指向する考え方は世界中に多くの信奉者をもち,予言者的な存在となっていった。貨幣の純粋理論や景気循環のメカニズムについても先駆的な業績を残したが,理論的な完成度という点からアカデミックな世界では無視された。ケインズは『一般理論』のなかでゲゼルの業績にくわしく言及し,いくつかの重要な点で『一般理論』の考え方を先取りするものであることを強調した。/宇沢弘文》

☆ Miguel Yasuyuki Hirota(広田裕之)「エンデの遺言」(NHK衛星第1放送、1999年5月放映)/『哲学者としてのミヒャエル・エンデ』[http://www.geocities.com/Athens/Academy/2432/jp.will.html]

《まずエンデの、「私が知る限り、それはシルビオ・ゲゼル(Silvio Gesell、1862〜1930)から始まりました。そのこと(金融システムのこと:編者注)を真剣に考えた、最初の人です。ゲゼルは、『お金は老化しなければならない』とういうテーゼを立てました。さらに、『お金は経済活動の最後のところでは、再び消え去るようにしなければならない』とも言っています。つまり、例えていうならば、血液は骨髄で作られて循環し、役目を終えれば排泄されます。循環することで肉体が機能し、健康が保たれているのです。お金も、経済という有機組織を循環する血液のようなものだと主張したのです」ということばが紹介され、番組ではゲゼルが取り上げられる。24歳でアルゼンチンに移住して実業家として成功したゲゼルは、そこで通貨政策の混乱により経済がインフレとデフレを繰り返し、国民生活が破綻に貧している様子を目の当たりにし、彼は貨幣制度と社会秩序に深い相関関係があると考え、1916年に刊行された「自然的経済秩序」(Die natuerliche Wirkschaftsordnung)で、「自由貨幣」という新たな貨幣制度を提案し、それはケインズの「一般理論」の中でも高く評価されている。》

《番組では大恐慌時の米国でも、ゲゼル理論が紹介され、さまざまな地域通貨が発行されたことが紹介される。これについて解説するのが、米国の未来学者ヘイゼル・ヘンダーソン(Hazel Henderson)[http://www.hazelhenderson.com/]である。彼女は「(30年代に)何千もの地域通貨が、あらゆる小さな村や町で発行されました。企業は、これら緊急通貨と呼ばれた通貨で、社員に給与を支払いました。失業保険組合も独自の通貨を発行していました。当時、このような通貨が地域に出回っていたのです。これこそが、地域のなかに、地域が生み出す富や財産をとどめておく最良の方法だったのです。ですから、政府によい経済政策がなければ、いつでも地域通貨は復活すると思います。大恐慌で資本主義は転機を迎えました。ドイツはファシズムが台頭し、各地で共産主義が広がり、アメリカでニュー・ディール政策が取られたのです。ニュー・ディール政策によって、政府が地域にお金を注ぐようになりました。そうすることによって、地域の人たちが環境を整備したり、アート・プロジェクトを起こしたり、地域の公共施設や博物館を建てたりという、国家事業が全国的に展開しました。また、ルーズベルトは、地域社会の雇用促進にも予算を注ぎました。実にすばらしい博物館が、実はこの30年代に建てられたのです。この政策で地域通貨は姿を消しました。国家資本の公共投資が地域の経済を活性化したからです」と語る。》

☆ 森野栄一「ゲゼル研究会月報 自由経済 発刊にあたり」(1994年6月)から/『ゲゼル研究会アーカイブ』[http://www.alles.or.jp/~morino/INDEX.HTML]

《ベルリンの壁崩壊からソ連邦解体にいたる過程に接して、我々は、一方では自由と人間性を抑圧する共産主義の全体主義的本質に一貫して反対してきた者としてその確信を強くすると同時に、他方では、ゲゼルに言及したケインズの予言はやはり正しかったとの思いを深くした。/その予言とはケインズが『一般理論』で述べている次のような文言である。/「シルビオ・ゲゼルは不当にも誤解されている。彼の著作には深く鋭い洞察力のもつ明晰さが含まれており・・・我々は将来の人間がマルクスの思想よりはゲゼルの思想からいっそう多くのものを学ぶであろうと考えている。『自然的経済秩序』の序文を読む読者は、ゲゼルのもつ道徳的価値を評価できるであろう。我々の見解では、この序文の中にこそ、マルクス主義に対する回答が見いだされるべきである。」》

《私はシルビオ・ゲゼルの光輝く文体に熱中した。・・・ため込むことができない貨幣の創出は、所有の別の本質的形態における形成へと導くであろう》(ゲゼルの親しい友人であったアルバート・アインシュタインの言葉)

☆ 『Gesell』[http://ourworld.compuserve.com/homepages/ruetten/Gesell.htm]
☆ 『Silvio Gesell Die Natrliche Wirtschaftsordnung』[http://userpage.fu-berlin.de/~roehrigw/gesell/nwo/]


【350】素材─シルビオ・ゲゼルに始まるもう一つの経済雇用政策(続)

●シルビオ・ゲゼルの理論に基づいたオーストリア・ヴェルグルの例

☆ Miguel Yasuyuki Hirota「エンデの遺言」(NHK、1999年)/『哲学者としてのミ ヒャエル・エンデ』[http://www.geocities.com/Athens/Academy/2432/jp.will.html]

《その理論を世界で最初に応用したのが、オーストリア・チロル地方のヴェルグル(Woergl)である。当時5000人しかいなかった町の400人が失業していた。通貨が貯め込まれ、循環が滞っていることが不景気の最大の問題だと考えた当時の町長、ミヒャエル・ウンターグッゲンベルガー(Michael Unterguggenberger)は、1932年7月、町議会に地域通貨を発行することを決議する。町が事業を起こし、失業者に職を与え、「労働証明書」という紙幣を与えた。「諸君、貯め込まれて循環しない貨幣は、世界を大きな危機、そして人類を貧困に陥れた。労働すれば、それに見合う価値が与えられなければならない。お金を、一部の者の独占物にしてはならない。この目的のために、ヴェルグルの『労働証明書』は作られた。貧困を救い、仕事とパンを与えよ」と裏面に書かれたこの紙幣は、非常に速い勢いで町の取引で使われるようになり、町の税収も増えたが、ここのナレーションで重要な指摘がされている。「回転することで、お金は何倍もの経済活動を行えるのです」というものだ。だが、なぜそんなにお金が回ったかといえば、このお金は月初めにその額面の1%のスタンプを貼らないと使えないからである。言い換えれば月初めごとにその額面の価値の1%を失ってゆくこの紙幣は、手元にずっと持っていてもそれだけ損するため、誰もができるだけ早くこのお金を使おうとしたため、この「老化するお金」が消費を促進することになり、経済が活性化したのである。公務員の給与や銀行の支払いにも使われ、この奇跡を目の当たりにした周辺の町でもこの制度が取り入れられようとしていたが、オーストリア政府の禁止通達によりこの通貨制度も1933年9月に終わってしまったのだ。エンデは「三つの鏡」で「大抵の資本家たちはそんな考えが世間に広まるのを妨げる方向に強く動いたんです」と語っているが、非資本主義的なこの通貨制度を現代社会の頂点に立っている人=資本主義の甘い汁を吸っている人が直視しないことが、問題であるといえる。》

☆ 『Spiegel Special 5-96 Geldwunder von Wrgl』[http://userpage.fu-berlin.de/~roehrigw/spiegel/]
☆ ヴェルグル町のHP[http://www.cityline.at/woergl/gemeinde/]

●「増えるお金」の経済(ケインズ)と「土に還るお金」の経済(ゲゼル)

☆ 京都市崇仁隣保館蓮田氏の講演[*]記録「まちにおかねができること−Local Exchange Trading SystemによるCommunity-Based Economyの再生」『柳原フォーラム−LETSとまちづくり』[http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7109/]

《世界の多くの国で、深刻な貨幣の枯渇をもたらした大恐慌は、「やむにやまれず」多くの地域通貨を生み出しました。それらの地域通貨が、「つなぐ」機能、流通を媒介する機能のみに特化したものであったことは注目に値します。1930年代に、オーストラリアのある町でつかわれたスクリップ・スタンプという地域通貨は、使わないで持っているとどんどん価値がなくなっていく通貨でした。貨幣のもつ蓄財という機能を殺ぎ落とし、ババ抜きのジョーカーよろしく、次へ渡していく(流通させる)ことへのインセンティブを高めたスクリップ・スタンプは、貨幣の枯渇にさらされた人々が本当に求めていた通貨がどういったものであるかを教えてくれます。》

《貨幣は、経済の血液である。しかし、体内の血液が際限なく増え続けたらどうでしょうか?血液は作られる一方で、古くなると壊れていきます。しかし、普通のお金は、こういう形で死ぬことがない。紙幣は古くなると改修されますが、新しい紙幣に置き換わるだけです。まるで土の中で腐らないプラスチックのようです。ゲゼルのお金は、落ち葉や有機物のような、土に還るお金です。/例えば、GNPの伸び率が5%というのは、大きさや修復力が有限な自然環境からすれば異常な速度です。たとえば、その本質からして自己増殖的な生物たちにも、こんな速度で数を増やしたり拡大したりするものはいません。債権・債務などの信用創造を含めた「広い意味での貨幣」の増殖速度は、実物経済の規模拡大よりも速い訳ですから(その差がインフレ率に反映されます)、こりゃもうすごいです。みんなが稼いで稼いで稼いで、世界がお金で埋め尽くされる日もそう遠くはない。お金だけが勝手に自己増殖してればいいんですが、お金が増えるためには一度製品なり土地なりに投資されて、それが売れてまたお金になる。/当然、自然や生活を変えていく。しかしお金の速度で、生活を変える必要はないんじゃないか、そんなスピードじゃ自然資源だって枯渇するぞ、という考え方もある訳です。/ところが立ち止まる訳にはいかない。大恐慌が生み出したのは地域通貨だけではありませんでした。そしてむしろ、大恐慌を実際に克服するグランドデザインとなったのは、ケインズ主義的な有効需要政策と、国が貨幣をマネジメントする管理通貨制度を中心とする「大きな政府」---言い換えれば「増えるお金の経済」の方でした。この二つは両輪となって第二次対戦後の世界経済を支え、そしてJ.ジェイコブスのいうように現代の経済とは要するに都市の経済のことだった訳ですから、この二つは都市形成プロセスを駆動する推進力ともなりました。》 [*]現代都市政策研究会(京都市職員中心の自主的研究会[http://www4.justnet.ne.jp/~u2takahashi/index.htm])第51回例会(1999根12月1日)