続・不完全な真空─魂学篇



【334】続・不完全な真空(第1回)

★魂学雑録

 最近、私は「魂の学」あるいは「魂の時空論」とでもいうべきものを構想、いや妄想しています。──その昔、工作舎から出ていた雑誌『遊』は、哲学から鉄学へ、人間から人形へ、芸術から超技術へ、科学から気配学へ、宗教から聖自然へ、といった編集コンセプトのそれぞれを分節して、精神幾何学だとか模型存在学、言語物質、観念技術、等々の面妖な術語を列記したその最後を「魂理学」なる蠱惑的な語彙でもって締めくくっていましたが、この「魂理学」と「魂の時空論」との関係(前者は後者の先駆けなのか、それとも後者は前者の焼き直しにすぎないのか)については、いずれ別の機会に検証しておかなければばならないでしょう。

 私が夢想している「魂学」を簡単に要約してしまうと、およそ次のようなものになります。(要約のもとになる本体が現在建設中のものでしかないので、正しく述べれば、要約ではなくて目論見。)──物質から精神へ(神経哲学)、そして、精神から生命=霊性への回路を経由して霊性から意識=魂へ(情報神学)、さらに、精神から意識=魂への回路を繰り込んで魂から物質へ(言語数学)、最後に、物質・生命・精神・意識をめぐるこれらのプロセスを反復する高次元循環システムのエコノミーへ(魂の経済学)。

 ここに出てきた四つの学(魂の四学)の実質については、それぞれがまだこの世のものではないので、十分な言語的表現を与えることは今の私にはできません。以下、その関係をおおざっぱに図示しておきます。(下図は、最低でも四次元の世界に属する事柄を二次元に圧縮したもので、精神から生命へ、精神から意識への媒介作用はここには書き込めませんし、どだい「魂の経済学」が対象とする領域は表現できません。ですから、これもまた無理を承知の補助図を添付しておきます。)

           ┌───────┬───────┐
           │  物 質  │  精 神  │
     ┌─────┼───────┼───────┤
     │     │       │       │
     │ 生 命 │【神経哲学】 → 【情報神学】│
     │     │       │       │
     ├─────┼───↑───┼───↓───┤
     │     │       │       │
     │ 意 識 │《魂の経済学》← 【言語数学】│
     │     │       │       │
     └─────┴───────┴───────┘

       生 命                 消費?
     /  │  \             /  │  \
    /   │   \           /   │   \
 物 質────┼────精 神  ⇔  流通?────┼────貯蔵? 
    \   │   /           \   │   /
     \  │  /   【魂の経済学】   \  │  /
       意 識                 生産?

 さて、今回ご紹介する『魂学雑録』は、魂の四学をめぐる──さらには魂の文法だとか魂の修辞学、魂の弁証法をめぐる、ついでにいえば魂の四書五経をも射程に入れた(?)──数篇のエッセイを収めたものです。といっても、いずれも私の脳髄のうちに登録されたばかりでいまだこの世のものではないので、以下、タイトルのみ、その一部を掲げておくことにします。

 1.「石化する精神、あるいはルクレチウスの夢」
 2.「幽霊的、あるいは夏目漱石の夢見る脳」
 3.「壁と鏡と仮面と孔と、あるいは永遠回帰に捧げるレクイエム」
 4.「届かなかった遺書、あるいは小林秀雄の墓」
 5.「プロティノスの系譜、あるいはエリウゲナの夢」
 6.「大聖堂の存在論、あるいは物語としてのヘーゲル論理学」
 7.「時空制作法、あるいは色即是空の心脳論」
 8.「骰子一擲、あるいは神は自らを積分する」
 9.「脳と能、あるいはイェイツと井戸」
 10.「走れナルシス、あるいは『生きた貨幣』から『死せる魂』へ」
 11.「魂の調律法、あるいはゼータ関数と私」
 12.「数論をする天使、あるいは魂のコレグラフィ」


【335】続・不完全な真空(第2回)

★魂学雑録・後記と続刊予告

 雑誌「来るべき書物」に掲載された『魂学雑録』の書評で、Y氏が的確に指摘されたように、魂学とは「新しい総合学」──森羅万象を構成する物質、エネルギー、情報の三つの実在について、第四の虚数的概念としての魂を導入することでもって、それらの相互変換と自己創出の場の実在を、とはすなわち生死点滅する魂の実在を厳密に措定しようとする《学》であります。

 養老孟司氏は「オウム事件と日本思想史」(『中央公論』2000年3月号所収)で、「わが国の専門家たちは、方法論が専門を規定するのではなく、対象が専門を規定すると信じているに違いない」と苦々しい口調で述べています。これだけでは養老氏の主張の真意が解りにくいかもしれないので、これに続く文章をまるごと書き写しておきます。

<ヒトの死体を分析すれば解剖学だが、解剖学の方法で別な対象を分析すれば、それは解剖学ではないと思うらしいのである。それは学問分野の切り取り方の「形式」であって、学問という「機能」の反映ではない。だから日本の学問はしばしば機能的ではない。つまり、「役に立たない」のである。>

 たとえば考古学者が考古学の方法論を用いて、すなわち資料の分析を通じてオウム事件を論じることは「学問の機能」なのであって、「素人がブツブツいう、文句とはまったく違う」。これと同様に、解剖学者が「与えられた形つまり形式をどう解釈するかという解剖学の方法論」を使って、解剖学という《科》学の対象以外の事象を論じたとすれば、それこそが《学》問の機能なのであって、「先生は博学ですナ」などと揶揄する輩には、このことがまったく解っていないのである。

 魂学が総合《学》であることの意味と意義の一端は、まさにここにあるわけです。たとえば神経哲学は、物理学や大脳生理学その他の諸《科》学と人文系の諸《科》学の相互リンクを、「脳」というブツの構造を基体として張りめぐらせる総合《学》ですし、情報神学は、生命学や情報学といった比較的新しい《学》と太古(原始)的、古代的、中世的な比較的古い《学》との相互リンクを、表現された世界のリアリティのうちに張りめぐらせるより高次の総合《学》です。

 こうした方法の方法、形式の形式によって規定される対象が「魂」という虚数的概念なのであって、以下、言語数学による文学と数学の総合、つまり一回性と反復性、物語性と法則性、シンボルとアレゴリー、単異性と関係性、その他諸々の関係の関係(あるいは純粋の純粋)をめぐるポイエーシス的探究と、魂の経済学による心理学や精神分析学や医学等々と政治経済学や組織論やコミュニケーション論等々との総合、つまりプロセスのプロセス(あるいは抽象の抽象)をめぐるフロネ−シス的・工学的探究によって、生々流転する魂の実在の相が解明されるわけです。

 その結果、Y氏の書評でも示唆されていたように、たとえば「魂の治療術」ともいうべきものが──神秘主義的装いを脱したロシア・コスミズムの再生とともに(?)──限りない有効性をもった「役に立つ」《学》として誕生することにもなろうと思うのですが、しかしまあ、くだくだしいゴタクはこれくらいにしておきましょう。

 さて、『魂学雑録』に続けて、魂の四学のうち最初の二つを主題とする「神経哲学と情報神学」シリーズが開始されます。(残る二学はその抽象度が数段高くて、複数の性や異なる生を生きるとか、もう一つの世界や歴史に遭遇するといったアノマリーな体験がなければ、とてもおいそれと手が出せません。)

 第一弾が『物質と時間』。いうまでもないことでしょうが、ベルクソンの『物質と記憶』、ハイデガーの『存在と時間』からそれぞれ半分ずつ借用したタイトルですが、もとより深い洞察や鋭い見通しや鮮やかな戦略を秘めてのことではありません。(端的にいえば、思いつきですね。)第二弾『大森神学と八木哲学』はその別バージョンで、大森荘蔵氏の(神学的)哲学と八木誠一氏の(哲学的)神学を「追思考」します。

 シリーズ第三弾は『存在と記憶』。これまたタイトルのみ(語るもはばかられる安易きわまりない語彙の組み合わせで)決まっていて、中味はまったく空虚です。いまいえることは一つだけ。ハイデガー『存在と時間』の第一部第三篇(未刊)のタイトル「時間と存在」が、シリーズ第一弾と第三弾をつなぐ鍵である。(言葉の数珠つなぎ、ですね。)

 そして『神学的、伝導的』。東浩紀氏の書名の下手なパロディみたいで、いや‘パクリ’そのもので、気恥ずかしいタイトルではありますが、魂の四学のうち第三の学への橋渡しを企図する、「神経哲学と情報神学」シリーズ第四弾にしてその完結篇にあたります。といっても、以上の四篇でもって神経哲学、情報神学のそれぞれの実質が解明できるとは到底思えませんので、たとえば『千都物語─神経哲学と情報神学・旅情篇』その他の姉妹篇がこれをとりまくことになるでしょう。


【336】続・不完全な真空(第3回)

★物質と時間

 ここでいう「物質」について、私には一つのイメージがあります。それは「時間の原石」とでも名づけられるものです。──邦訳があるのかどうか知りませんが、ジェラール・クランのSF小説に『こだまの谷』(1966)があって、この作品に「音響化石」というアイデアが出てくるのだそうです。

 火星のそそりたった岩壁に「多くの声のつぶやき」「一民族全体とも言えそうな巨大などよめき」がこだましている。そこは音響の集積が化石となった宇宙で唯一の場所なのである。一人の探検家が突き進んでいくと、声は弱まりついには死の静けさが訪れる。「なぜなら彼の体がついたてとなったからだ。それらの軽やかで希薄な音声と接触するには、彼の体はあまりにも重く物質的過ぎたのだった。」

 この世のものと思えない軽さと薄さをもった音響の皮膜が、途方もない時間の経過とともに幾層にも積み重なって石と化す。この「音響化石」の縞模様を剥いでいくと、そこから微細な時の結晶が微塵となって無数にこぼれ落ち、瞬時に消滅してしまう。そのひとかけらが一つの〈今〉なのであって、無数の〈今〉がひととき閃いて無に帰還していく。夢見る物質。時を育む石。

 ──『物質と時間』では、そのような「物質の物語」を紡ぎ出す言葉を探究してみたい。それはたとえば、音楽という言語なのかもしれません。ホルヘ・ルイス・ボルヘスは『ボルヘス、オラル』(木村榮一訳,水声社)に収められた講演「時間」で、「われわれには五感のうちのひとつ、聴覚しか備わっていないと仮定してみよう」と語りかけています。

<残されているのは聴覚だけだが、この考えられうる世界は、かならずしも空間を必要とはしない。そこには数多くの個人、何千人、何百万人もの人々がいて、たがいに意志を疎通し合っているが、彼らが用いているのはわれわれのそれに劣らず、いやそれ以上に複雑な言語であると考えられる──彼らは音楽を通して意志を伝え合っているのである。その世界には、意識と音楽だけが存在している。[略]われわれのそれに劣らず複雑なその世界は、個人の意識と音楽だけで出来上がっている。ショーペンハウアーが言っているように、音楽というのはこの世界に付け加えられるなにものかではなく、それ自体が一個の世界なのである。そこに欠くことのできないもの、それが時間、すなわち連続である。>(124-5頁)

★大森神学と八木哲学

 八木誠一氏に「統合体」という概念があります。『キリスト教は信じうるか』(講談社現代新書:1970)では、個々の音(要素)と音楽(全体)との関係に準えながら、次の定義が与えられていました。──「互いに異なり、それゆえ相互否定的な一面を有する複数の個が、同時に相互否定媒介的にのみ成り立ち、しかも全体としてひとつのまとまりであるようなもの」(120-1頁)

 このように一般的・抽象的にとらえられた「統合体」は、重力場や電磁場、生体場など物質や生命のレベルにも見られるものなのですが、これに体して精神の本質は「統一」にあると八木氏は述べています。ここでいう統一とは「複数の相異なる要素が、ある点では同一であるとき」(127頁)に成り立つ働きのことで、たとえば「ある系の要素がみな特定の目的のための手段として役割づけられている場合、その系はその目的のために系列化されているが、その目的はその系を統一する」といえるわけです。

 そして最後に、八木氏が「人格」と呼ぶ宗教的実存において、精神は恵としての統合を与えられます。この精神と肉体との統合体としての人格において成り立つものを八木氏は「心」と名づけています。<心は肉体からも他者からも切り離された精神のことではなく、何か純粋思惟のようなものでもない。心は対象との関係なしには成り立たない。[略]精神の本質は統一である。それに対して心の本質は統合[精神と肉体の統合、他の人格との統合:引用者註]なのである。だから厳密にいえば、心と精神は区別すべきなのである。統一を本質とする精神の働きは、本来統合を求める心の働きの一部、一面なのである。>(148-9頁)

 引用を始めたら切りがないのでこれくらいで止めておきます。かつてむさぼるように読み耽った「八木神学」を神経哲学的思考の一典型として批判的に再読しつつ、比較的最近になってようやく解る(?)ようになった「大森哲学」を情報神学的感覚表現の一典型としてこれに関連づけ、両者あわせて論じてみることで、『物質と時間』に別のかたちを与えてみたいと目論んでいるのですが、そのためにも西田幾太郎をしっかりと読み噛っておかなければならないと、私の直観は告げます。


【337】続・不完全な真空(第4回)

★存在と記憶

 いま、木田元著『ハイデガー『存在と時間』の構築』(岩波現代文庫:2000)を読んでいて、『存在と時間』第二部の再構築作業を経て「ハイデガーの念頭には、〈存在=現前性=被投性〉と〈存在=生成=自然〉という、少なくとも二つの存在概念があった」(195頁)云々という同第一部第三篇「時間と存在」の再構築をめぐる議論へと至る、本書の佳境ではないかと思われる箇所にさしかかっているところです。

<存在という視点の設定は、ある範囲内で自由にゆだねられている。その視点の設定の仕方によって、その視点のもとに見られる存在者全体のあり方が変わってくる。〈存在=現前性=被投性〉という視点のものとに見られれば、存在者の全体が作られたもの、あるいは作られうるものとして見えてくるであろうし、自然も死せる物質として見えてくる。〈存在=生成=自然〉という視点のもとに見られれば、存在者のすべてが生きて生成するものとして見えてくる、というわけであろう。同じことだが、世界の世界としての組織のされ方も変わり、つまりは文化形成の仕方も変わってくることになろう。むろん一人や二人の人間が本来性に立ちかえり、その存在了解を変えたからといって、どうなるものでもない。だが、なにかの加減で一つの〈民族〉全体がそうするとなると話は変わってくるにちがいない。『存在と時間』の第一部第二篇第五章「時間性と歴史性」で、ハイデガーが「共同体つまり民族の出来事[ゲシエーエン]」としての「共同的運命[ゲシック]」といったことを言い出すとき、彼はそんなことを考えていたのかもしれないし、数年後彼がナチスに加担したのも、ナチスの文化理念に自分の考えていた文化革命の夢を托してみるという気持ちがあったからのような気がする。>(197-8頁)

 たとえばこのあたりを究めていくことで、『存在と記憶』の探究を開始することができるでしょう。あるいは、「精神上の問題に実験的推論方法を導き入れる試み」という副題をもつ『人間本性論』を噛ってみることで、何かしら有益な手がかりが得られるかもしれません。──以下は、ジル・ドゥルーズ/アンドレ・クレソン『ヒューム』(合田正人訳,ちくま学芸文庫:2000)の「ヒューム抜粋集」に収められた「同一性と自我」(『人間本性論』第一書第四部第六節)からの抜き書き。

<もしわれわれが記憶をもたないなら、われわれは決して因果関係の観念を有することはないだろうし、ひいては、われわれの自我と人格を構成するこの原因と結果の連鎖を有することもないだろう。しかし、われわれが記憶によってひとたび因果関係の観念を獲得すると、われわれは原因のこの同じ連鎖、ひいてはわれわれの人格の同一性を記憶を超えて拡大することができるし、完全に忘れてしまったが実在したものと一般的に承認されている時間や状況や行動をもそこに含ませることができる。>(105-6頁)

★神学的、伝導的

 物質が三次元で記述され、時間に三つの様相があるように、『物質と時間』では「三」の世界に属する事象をめぐる思考が展開されました。これに対して、物質と時間のそれぞれに「深み」とでもいうべき第四の次元を導入する『存在と記憶』では、「四」の世界をめぐる思考が(「実験」的に)遂行されました。となると、『神学的、伝導的』は「五」の世界を対象とするなどといってみたくなるのですが、もうここまでくると議論の抽象度が高くなりすぎて、今の私にはちょっと手が着けられません。

 ですから、ここでは素材の候補を挙げておくにとどめます。「使徒=翻訳者」論を糸口にカール・バルトとベンヤミンを取り上げ、そして、ナチズムをめぐる経験について次のように語ったレヴィナスの「反時代的な「隣人愛」の思想」(合田正人『レヴィナスを読む』15頁,日本放送出版協会:1999)を組み合わせることで「三」人、これにウィトゲンシュタインの物理=工学的神学思考やハーデガーの生物学的神学思考を付加することで「五」人。

<どの世代にも、それを成熟へと導くような例外的事件が存在する。この事件は人々の生活の基礎たる数々の価値を問いただす。借り物の諸観念の幼稚さをそれまで維持してきたこれらの価値が、ひとつの事件によって揺るがされるのである。この事件は、歴史的な出来事がわれわれの生を蝕んでいるという確信を抱かせるような厚みと嵩をもって介入する。それは別の世代には伝達しえない味わいを有している。>(「すべては空しいか」,合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』206頁,ちくま学芸文庫:1999)


【338】続・不完全な真空(第5回)

★千都物語

 <時の隔たりを架橋するもの、それは空間である。>──これは、野町啓著『謎の古代都市アレクサンドリア』(講談社現代新書:2000)の冒頭の文章ですが、なかなかどうして「深い」示唆に富んだ断言ではないかと私は思いました。それからいま一つ、本村凌二著『ローマ人の愛と性』(講談社現代新書:1999)からの引用。──可視的な都市国家から不可視的な世界帝国への拡大と空前の平和が、ローマ帝国の市民に自己の「内なる世界へのまなざし」を芽生えさせ、「人間における心、魂、精神の発見」をもたらし、「道徳の内面化・普遍化」を結実させ、やがてキリスト教の受容をもたらすに至った経緯を述べたくだりから。

<そもそも小さな部落として成立したローマは、都市国家の形態を整え地中海世界の制覇をめざした。都市国家規模の共同体は、まだ目に映り想像しうるものである。この可視的な共同体が守られ安全であれば、そこに生きる人々は心安らかに暮らすことができる。それゆえ人々の意識は、共同体の安全という、目にしうる外在の世界にとどまっていればよかったのである。しかし、ローマは地中海世界を支配下におさめ、都市国家を超えて世界帝国となった。しかも、はてしなく広大な地域に空前絶後ともいえる数世紀にわたる長年の平和をもたらしたのである。もはやそこに生きる人々にとって世界は目にしうるものではなく、想像しえないほどの彼方にあった。この不可視的な世界には、それを危険にさらす外敵の脅威すら感じられないのである。このような不可視的な世界の平穏な拡がりを感じるとき、人々の心はさまようことになる。もはや、意識はよりどころのない外界に向かうよりも、生きることの支えを求めて内なる世界を目指すのである。>(186-7頁)

 さて、「神経哲学と情報神学」シリーズ四部作がどちらかというと時間論をベースにしたものであったとすれば、魂学のさらなる探究のためには、生物や人類や文明や精神の進化のプロセスから見て、あるいは原理的に考えても、時間より次元や抽象度が数段高い(?)と思われる空間論を究めなければならないでしょう。そういうわけで、「神経哲学と情報神学」シリーズの疲れを癒しがてら、しばらく、身体とともに記憶のトポスの典型として論じられる都市ではなく、空間の経験を私たちにもたらすメディアとしての都市を散策してみたいと思います。

 たとえば、「哲学都市」とか「シンクレティズム都市」とも形容される古代アレクサンドリアは、コンスタンティノーブルや古代ローマとともに私の空想力を刺激してやまない特別な場所(西欧における「魂」発祥の場所?)なのですが、これら古代地中海世界の三都を舞台として、ストア派やルクレチウス、オリゲネスやプロティノス、ギリシャ教父やグノーシス主義者たちが登場する思想紀行のようなものをふりだしに、さらにウィーン・プラハ・ブダペストのハプスブルグ三都や、北京・ベルリン・ダブリンのどう形容すればいいかわからない三都等々、千の都市をめぐる物語を仕上げてみたいということ。(要するに、ベンヤミンの都市エッセイやロレンスの紀行文など、至福の読書の時を確保するためこれまで「積ん読」のまま大切に読まずにおいてきた書物の一気読みをやってみたいということです。)

★実験理性批判─序説・思考実験論

 強いて魂学との関係を求めるならば、「魂の四学・方法論篇」とでも分類することができるでしょうか。たとえば、意識と脳の関係を探究する場合、脳を切除しても意識が生じるかどうか(外から観察できる意識現象ではなくて、自らの意識を内から意識できる無頭的存在がありうるかどうか)を、ブツを使った実験で(外から)確かめることはできません。ですから、こういった原理的な問題を考える場合、その「考える」こと自体を使った実験、つまり思考実験という「方法」が採用されるわけです。

 デレク・パーフィットが『理由と人格』で示した「SF的」思考実験──ある最新の遠隔輸送機によって、スキャナーされた「私」の情報をもとに異なる場所(あまり実証性はないけれど、一般に「火星」が愛用される傾向があるように思う)で物質化された「私」は、オリジナルなこの「私」と同一の「私」なのか──などは、神経哲学的思考、さらには情報神学的思考を貫徹するための、つまり単一性と多数性、同一性と多様性、等々が複雑に絡まった問題群を相手に明晰で強靭な思索を展開するための典型的な「方法」の一例でしょう。(これに対して、言語数学や魂の経済学をめぐる思考実験を遂行するためには、複数の脳が必要なのではないかと思う。)

 もちろん自然科学の方法としての実験やシミュレーション、ソビエトとかブータンなどに冠せられる実験国家という語彙にもうかがわれる実践的な局面での実験など、思考実験に限らず、より広範な人間の諸活動を「実験」というキーワードで考察してみよう、その上で、たとえば古代的「制作」に対する近代的「実験」などといった対比が可能なのかどうかを見定めてみようということですから、何も「魂の四学」との関係でのみ「実験理性批判」の試みをとらえる必要はありません。

 余談ですが、小柳公代著『パスカルの隠し絵』(中公新書:1999)によると、『真空に関する新実験』その他の論文において記述されたパスカルの「厳密な科学実験」は、いずれも文学的作品であり思考実験であったとのこと。このあたりの経緯を究めていくと、もしかすると中世的「思考実験」などといったテーマをしつらえることができるかもしれません。(近代はあらあかじめ夢見られていた、いやカロリング・ルネサンス以来の西欧中世の知的伝統のなかで思考実験されていた?)

 これもまた余談ですが、柄谷行人氏との対談(「可能世界/固有名」,『現代思想』1995.4所収)で、赤間啓之氏は十九世紀末のフランスにあらわれた三つの可能世界論を提示しています。上に述べた「私」や「人格」の(そして「魂」の?)同一性をめぐる問題とともに、思考実験という「方法」について考える際のヒントになると思うので、以下にメモしておきます。

 ──「SF的な可能世界論」(例:非ユークリッド幾何学的な世界の住人の知覚世界を論じたアンリ・ポアンカレ)と「ヒステリー的な可能世界論」(例:芸術作品を一つの可能世界と考え、それがもつ集団ヒステリー的な力を美学の対象としたギヨー)、そして社会主義運動の挫折のなかで夢想された「ユートピアとしての可能世界論」(例:オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』)。


【339】続・不完全な真空(第6回)

★実験理性批判─実験文学論

 メディアとの関係ぬきで文学を語ることなどできません。そもそも文学とは、言語というメディア(あるいはメディウム)を使ってフィクショナルなものをリアルなものへとリンクする媒介作用にほかなりませんから。そしてそれは、リアルなものをフィクショナルなものへとリンクする法的実践の積み重ねによるメディア生成の作用とは正反対の試みなのですから。(自註:ずいぶんと乱暴な議論を展開しています。ここに述べた事柄は、以下に述べる事柄とともに、いずれ私自身の手で棄却されることになるでしょう。)

 序説と思考実験論の次に取り組まれるべき「実験文学論」では、日本近代文学の読み直し作業を通じて、文学の営みにおける実験の契機を抽出してみようと思います。その際、明治、大正、戦前・戦中の昭和という時代を特徴づけるメディアとして、たとえば「手紙」(告白のメディアといってもいい)と「身体」(罪のメディアといってもいい)を取り上げて、いま一つのメディアである書物=文学の特質を暴いてみたいと考えています。(自註:このあたり、オリジナルな「実験文学論」のテーマに、それとは出自を異にする「メディアと身体」というテーマをだぶらせて、いわば自動筆記風に書いています。)

 たとえば私は最近、漱石の『こころ』を数十年ぶりに再読したのですが、この作品の構成はかなりいびつですね。こんな初歩的な問題はその筋の人々の手でもって論じつくされているに違いないとは思うのですが、「上 先生と私」「中 両親と私」「下 先生と遺書」の三部構成はどう考えてみても一つにはまとまらない。もともと漱石は『心』という総題のもと短編をいくつか書くつもりだったらしくて、確かに「上」「中」「下」はそれぞれ独立の作品として読んだ方がむしろ味わいがあります。

 しかし、私が考えてみたいのは、それらがまとまって一つの作品世界をかたちづくっているとした場合に見えてくるものです。その際、注目すべきは、一つは手紙=遺書というフィクショナルなものとリアルなものを架橋する文学的装置の機能ですし、いま一つは『こころ』全篇に出てくる複数の死──Kと先生の自殺や「私」の父の死、明治天皇の死(「明治の精神」の死)や乃木大将の殉死、等々(あるいは身体の死と精神の死?)──がもつ機能です。これらの装置や道具建てを使って、そして『こころ』というタイトルのもと、漱石はいかなる種類の「実験」を試みたのか。

 そのほか、いくつかの詩作品や新感覚派の作品などを素材として、ゾラの「実験小説論」の熟読とその近代日本文学への影響のリサーチ作業なども交えながら、内面の物語とは異なる文学の「ほんとう」の姿を見定めてみたい。文学の一ジャンルとしての実験小説をではなくて、そもそも文学という営みは、ホメロスの語りや言辞、いや源氏の物語も含めて、実験だったのだということを論じてみたい。(さらには、千年ほど昔の平安朝の実験文学を題材とした『雅の人─ミチナガ』だとか、十九世紀フランスの実験文学を扱う『非情の人─ボードレール』とかいった続編をものにしたい。)

 そして、それらの別バージョンとして、「心理経済学」ならぬ「文学経済学」なるアイデアを提唱し、文学作品の生産と流通と消費と貯蔵のプロセスを、信用や貨幣、金融システムや市場システムといった経済学のタームを駆使して分析したり、オリジナルと複製の関係、オリジナルなき大量生産のメカニズム、感情や思考、感覚や抽象をめぐる精神の「エコノミー」とその伝達(感染)の機序、等々を解明してみたい。(さらに、ベンヤミンや谷崎潤一郎その他の文人たちの作品群を題材とした『幼年時代』なる応用篇をものにしたい。)

 とまあ、妄想をたくましくするのはこれくらいにしておいて、以下、『実験理性批判─実験文学論』の書き出し部分の「サンプル」を二種類、紹介します。(いずれも草稿にすぎませんし、もとより夢うつつの域を超えるものではありません。)

(その一)
 心と脳の関係について書かれた文章を読んでいて、私はしばしば眩暈におそわれる。いま私が読んでいるこの文章の著者は、別の誰かの心的世界と脳内物質過程との関係を(ほとんどの場合、一般的かつ客観的に)論じているに違いないのだが、そのときその問題について考え執筆していたのは当の著者の脳であり、その結果、言語的に表現されたものは当の著者の心的世界でありイメージにほかならないわけだ。そうするとここには少なくとも二つのレベルの「心と脳」が出てくる。

 さらにいえば、第三のレベルとしての読者の「心と脳」が、正確にいえば読者一般ではなく、今ここでこの文章を読みつつある私の「心と脳」がある。さらにさらにいえば、この文章が書かれていたある時と私がそれを読んでいる今とでは、あるいはこの文章が書かれていたある場所と私がそれを読んでいるこことでは、そのあり方がまったく異なっている。だからここに第四のレベルの「心と脳」が、すなわち著者が観察あるいは実験し、一般的かつ客観的な関係として思考し記述した心的世界と脳内物質過程との関係が、読者としての私の今ここでの「心と脳」を介して出現していることになる。(以下、略)

(その二)
 私たちは、いや私は、何かとんでもない勘違いをしてきたのではないか。最近、日本近代文学について、そんなことを考えるようになった。文学という営みをめぐって、読者もしくは文学愛好者の立場から、より端的にいえば消費者として、時々の感興のおもむくまま、好みの作品のいくつかを味わい、鑑賞する態度を通じて、私は何か途方もない読み違えを重ねてきたのではないか、少なくとも作者が「ほんとう」に書きたかったこと、試みたかったことを読み落としてきたのではないかと思うようになったのだ。

 それは、思い切って単純化して書いてしまえば、キリスト教とマルクス主義という、内面と社会、感覚と抽象をめぐる二つの「エコノミー」、あるいは「エコノミー」批判の体系的な言説を相手どって、さてこれらといかなる関係を切り結ぶべきか、いや、そもそもこれらとの関係を切り結ぶための足場をいかにしてしつらえるのかといった「問題」を抜きにして、日本近代文学を論じることなど無意味なのではないかということである。

 たとえば、次のような構造の変換プロセスを考えてみよう。──まず、成功した文学作品において、フィクショナルな「作品世界」の内部=内面にリアルな(たとえば、伝達=感染による文学的感動をもたらす)「現実世界」が創造=再現される。(このような効果をもたらす手法の一つが作中作、すなわち自乗されたフィクションの創作である。メタフフィクション、書簡体小説、『こころ』や『緋色の研究』に見られる作中の手紙や手記、等々。)

 この「作品世界」(形)と「現実世界」(構造)との二重性のうちに仮構された「内面世界=現実世界」の等式が作者自身に投影され、作家というリアルな(身体をもった)作品とその内面世界を表現=伝達するものとしてのフィクショナルな(書物=メディアとしての)作品とが分岐する。こうした帰結をもたらす媒介が読者であることはいうまでもないだろう。読者もまた、文学作品への感情移入(あるいは感染)を介して作家とは正反対の投影を被り、フィクショナルな自己とリアルな自己とに、つまり身体=外面と心=内面、あるいは対他的(社会的)・意識的な自己と対自的・無意識的な自己とに分岐する。(以下、略)


【340】続・不完全な真空(第7回)

★ご隠居

 「魂の四学・フィクション篇」その一。ユーモア小説です。埴谷雄高と大森荘蔵がモデルのご隠居たちが、存在や自己や時間などをめぐって壮大な形而上学的「ほら」談義を展開するという趣向。そういえば、このお二人、池田晶子さんの『魂を考える』(法藏館:1999)に収められた論文のタイトルにそのまま使われていました。ついでに池田氏をモデルにした若い女性を登場させて、ご隠居たちの間をとりもたせてみても面白い。

 ところで、隠居については、講演「現代思想について」(新潮カセット)で、小林秀雄が次のように語っています。──以下は、伊藤茂樹という人のHP「私の自分史習作」[http://www.siq.co.jp/media/itou/index.html]の「老人力」のコーナーに掲載されていたテープ起こしから。

<現代思想について 私の今までやってきたこと、考えてきたことを振り返るとだいたい僕の発想は20歳代にできている。私だけじゃなく、いろんな仕事を見ても20歳代は、発想のもとである。それをあとになってから発展させたり、進化させたりしている。自分の素質を自覚し始めて、それが形成される頃はだいたい20歳代だと思う。だから今になってあの頃は大事だったんだなあと痛感します。その頃は分からないから難しいですが私もだんだん年齢を考えるようになった。だからこのごろ「隠居」という言葉を考えています。もう一回よく考え直すとおもしろいことがあるんじゃないかと思う。いろいろやってきたけど、どうしようもなく逃げることではなく、逃げるにしかずという積極的な意味があると思う。「陸沈」という言葉がある。海に沈むことは誰だってできる。だけど陸に沈むのは難しい。「隠居」もそういう意味があると思う。隠れた人が本当のことを考えて、本当のことをしてたにちがいない。隠居が東洋の文化を支えてきたと思う。だから外国の社会からの孤立とは違うと思う。つまり社会から逃げずに沈んでしまう。街の中に沈んでしまう。馬鹿な世の中と充分親しくつきあう。これが「隠居」の意味だ。だから隠居は馬鹿にされながら、尊敬されている。意味あいもそこにある。

 私は隠居の話をしようと思ってきたわけじゃない。だが、諸君にも共通な問題があると思う。それは、年をとることと思想の関係である。隠居のことを考えるようになったのは私が年をとったことだ。年をとることとものを考えることの間に関係があるのかないのか。現代の思想はそれを考えてない。最近、老人のくせに青年にこびてものを考える人は非常に多い。そういうふうに考えてる大人をぼくは見過ぎてます。どうして年をとったならば、年をとらなければ分からないようなことを考えないか。年をとることと人間の思想に密接な関係があるなら、その密接な関係のあるところでもって思想問題を扱ったらどうだろうと思う。こういうふうな考えが今日、軽蔑されている。これを合理的思想という。現代にはこういう根本的な考えの流れがある。>

 ご隠居の数は二人ではなく三人にしよう。

★世の初めの太鼓

 「魂の四学・フィクション篇」その二。ファンタジーです。まだ題名だけが決まっていて、いささかのアイデアもなければストーリーもまったく考えていません。『移動する聖地 テレプレザンス・ワールド』(NTT出版:1999)所収の「大いなる移動の予感」で、港千尋氏が「シャーマンは,太鼓を叩きながらエクスタシーに至る」と書いた、その直前の文章が私のインスピレーションの源泉です。

<ブレークの記録[今世紀初頭にドイツの言語学者ブレークによって書かれた「ブッシュマン・フォークロア」]のなかでもう一つ興味深いのは,「予感」する際にブッシュマンたちが,「身体の内側からコツコツと叩く音を感じる」という点である.彼らはある出来事が起こりそうだというときに,それを身体内部から感じる.カネッティはそれを「身体の内側にある文字が語り,動き,身体を動かす」と表現している.狩猟文化における,このような予知の能力は,特にシャーマニズムの一つの特徴として知られてきた.それは旅であり,ここにいながらにしてあらゆる場所へと至る能力をもつものこそがシャーマンと呼ばれ,彼または彼女の能力は,狩猟や移動牧畜を営む共同体を維持するために欠かせないものだった.>(23頁)

 ついでにメモしておくと、いまひとつのインスピレーションの源泉は、土取利行著『縄文の音』(青土社:1999)。

★マダム・ヒヤシンスの部屋

 「魂の四学・フィクション篇」その三。バタイユやクロソウスキーばりの(?)官能小説。おおよその人物の造形と構成はできています。あとは体力と気力の問題。まあ私一人が愉しめればいいのだから、あえて文章化することはないのかもしれません。断片(未推敲)を一つ、紹介します。(それほど「官能的」ではありません。)

<翳りのなかに投げ出された下肢にびっしりと見えない菌類がはりついている。息をつめ、湿気を帯びた胎内で展開されている極微の闘争を凝視する寡黙な自省が、高まる内圧との間に一瞬の均衡を保っている。危うさと完璧さとが奇妙に入りまじった静けさのうちに、これらの菌類は繁殖したに違いない。
 陽光にさらされた下腹部から双つの小丘へとむかう陵線の上で、微細な皮膚呼吸に感応して繊毛がキラキラと輝きながらたち騒いでいる。──ぼくの視線はいつもこの肥沃なロンバルディアの平原地にはりついてしまう。何か名状しがたい機構を宿した啓示的な曲線。ゲル化した膠質[コロイド]のしなやかな強情さを秘めたマチエール。ぼく自身の情欲が封印され滾りつつ蒸留されるレトルト。──ぼくは「魂の流動学[レオロジー]」を専攻する学徒の謹厳さで、顔のない塑像の量感をむさぼるのだ。>

★カタリ村

 「魂の四学・フィクション篇」その四。哲学ファンタジーならぬ哲学ホラーです。これもまた梗概はほぼできているし、十代の天才数学者(男性)と三十代の精神分析医(女性)との尋常ならざる恋だとか、四十代の西欧中世哲学研究者(男性)の謎めいた言動や、精神分析医の友人で説話文学の研究家(女性)の「現代の遠野村」での失踪など、主要人物の造形もかなりできてはいるのですが、これまたこの世のものとする動機が欠けています。以下は、書き出し部分のサンプル。

<特急の通過待ちで列車は二十分近く停車したままだった。人気のないホームを眺めているうち、◯◯はすっかり寝入ってしまった。△△の言葉がどこか遠い所で響いて、◯◯の脳髄の中にぼんやりとした像を結んだところで目が醒めた。
「何か言った?」
「オッカムの剃刀」
「え?」
「プラトンの髭」
「何、それ」
「オッカムの剃刀でプラトンの髭を剃る」>