断想(1)──実験神学について・その他



【321】現代物理学と神学

▼佐藤文隆著『物理学の世紀』(集英社新書:1999)を読んでいて、ふと、現代物理学の歴史は神の観念をめぐる思考の展開過程をなぞっているのではないか、という妄想めいた仮説が頭をよぎった。

 その趣旨は、ひとつには字義どおり、X線と放射能の偶然の発見にはじまる二十世紀「物理帝国」の興隆と成熟と退場(?)のプロセスが、文字以前から古代、中世、近現代へと至る人類の神学的思考の全プロセス──より限定すれば、神の受肉と福音によってはじまり、旧約聖書(=古典物理学)を包摂したキリスト教神学の古代、中世、近現代へと至る展開の全プロセス──を反復的に表現しているのではないか、ということだ。

(両者の歴史は、あたかも個体発生と系統発生の関係のような相同性をもっているのではないか、といいかえてもいい。もっとも、いずれが個体発生しいずれが系統発生したのかは、必ずしも自明ではないように思う。)

 あるいは、現代物理学における宇宙論と神学的思考における神話(形而上学)が、「物語」という形式において共通していることには何かしら奥深い関連性があるのではないか、といった意味において物理学と神学の関係を問題にすることもできるだろう。[*]

 さらにいえば、物理学的探究の対象と神学的思考の素材との関係──光と音響と電気、つまり雷がユダヤの神の原像であったことや「光あれ」という原初のことば、エーテルや電磁波や放射能が何かしら精霊的存在を思わせること、そしてE=mc^2 と神のエネルゲイア、超伝導と天使的コミュニケーションとの関係、等々──をめぐって、そこには何かしら不可思議な通路が介在しているのではないか、といった感覚的な次元においてこの「仮説」をとらえることができるかもしれない。

* 物語としての宇宙論をめぐって、佐藤氏は前掲書で、「森羅万象は多様で猥雑で捕らえどころがない。そういう心性が宇宙論を求めさせる」(201頁)のであり、「科学も「物語」を豊かにする一つの営みである」(203頁)と述べている。

 また、かつてのローマ帝国の支配がその版図を越えて、文化や社会制度のかたちで後の歴史に浸透していったように、二十一世紀の物理学は、すべての自然現象を普遍的に説明し尽くす法則による帝国的支配や版図の大きさを誇るのではなく、“ものの見方”という「軽快でハンディ」なかたち(最低限の法則性)での知的影響力を文化世界に及ぼしていくことになるのではないかとも述べている。(17-8頁,200-1頁)

 その際、物理学の“ものの見方”がどのような宇宙論(物語)を構築していくことになるか、いいかえると物理学の“ものの見方”が「この現実の背後に何を見るか」が肝要であり、佐藤氏によれば、それは時空の観念にかかわるブレイク・スルーを通じて完成する。

<近代化した社会で、人々があまりにも物理学に支配されているのは時間と空間に関する観念である。原子からクォーク、レプトンまでつきとめたのが二十世紀の物質の理論であったとすれば、二十一世紀には古典的な相対論と物質の量子論を統一する、時間と空間の目の覚めるような“ものの見方”が完成すると想像する。>(17頁)

▼現代物理学と神学的思考との「相同性」を考えるとき、それぞれをどのような営みとしてとらえるのかがまず問われなければならないだろう。ここではとりあえず、物理学は物質を探究し神学は精神を思考する、と定義しておく。

 ここで物質というとき、それは「離散」性と「連続」性、そしてそれらを通底もしくは媒介する「論理」性や「無限」性、さらにはこれら四項の相互関係そのものに関係する「情報」(ここに出てきた五つの語彙は、ルディ・ラッカー著『思考の道具箱』から借用)によって構造づけられたリアリティ──ヴァーチャルなものであれアクチャルなものであれ、あるいは数学的リアリティであれ観測可能という意味でのリアリティであれ──を想定している。[*]

 また精神というとき、それは個人の内面性や心理にかかわるものではなく、むしろ「身体」をめぐる観念に根ざした共同性や言語、あるいは社会の諸過程や歴史といった事柄を想定している。──たとえば野本真也氏は、キリスト教神学が長い歴史の中で検討を積み重ねてきたのは、「われわれが普通、現実と呼んでいる世界における共同体とはどのようなものか、その共同体ははたして真実の共同体なのか、真実の共同体とはいかなるものか、それは現実世界でも成立するものなのか」といった問題についてであったと述べている(「神学とコンピュータ」)。

 このような意味での精神にあっても──通常、精神との対立・矛盾関係においてとらえられる物質と相同な──離散・連続・論理・無限・情報による構造化とその表現(リアリティ)を見出すことができるのではないか。そして、こうした物質と精神との関係をメタ・レベルで「観測」するとき、そこに生命感覚としての霊性と、これとの対立・矛盾関係や相同性においてとらえられる意識(永井均氏によって〈私〉あるいは〈魂〉と表記されたもの)が、それぞれ物理学的探究と神学的思考を突き抜けたさらなるメタ・レベルの架設とともに、たち現われてくるのではないか。

* ここでいう物質は、「ものの見方」や「もののあはれ」というときの「もの」、あるいは「霊的物質」と呼ばれるものを(というときの「もの」をも)包含している。──それは、マルクスがいう「物」に匹敵するのかもしれない。たとえば小林秀雄は次のように書いている。

<脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクスの唯物史観に於ける「物」とは、飄々たる精神ではない事は勿論だが、又固定した物質でもない。>(「様々なる意匠」)


【322】「実験神学」について

▼現代物理学と神学との間に深いつながりがあるのだとすれば、その展開プロセス(歴史)や叙述形式(物語)や素材(自然)における相同性だけではなく、前者の母胎となった古典物理学における方法と言語、すなわち実験と数学に対応するものが、神学においても認められるのではないだろうか。

 神学と数学の関係については、すでに落合仁司氏が、「神の受肉」と「人間の神化」の二つの神学的問題をカントールの無限集合論を使って論理的に弁明する「数理神学」を提唱している。[*]

 私は、たとえば離散的なものの数学的構造の解明(数論、結び目理論など)やコホモロジー論、実数概念(連続性の概念)の再検討といった、おそらく次世紀の数学において深化もしくは新たに展開されるだろう分野にこそ「数理神学」のより根源的な可能性が潜んでいるのではないかと見当をつけているのだが、これは素人考えというものだろう。

 ──ところで、数理神学が成り立つのなら「実験神学」というものを考えることができるかもしれない。

* 落合仁司『〈神〉の証明』(講談社現代新書:1998)。ちなみに、落合氏は同書で、「神学、テオロギアとはまず何よりも弁明、アポロギアなのである」(136頁)と述べている。

▼実験神学における実験器具とは何なのだろう。それは脳なのだろうか。つまり、実験神学とは神や無限や超越的存在をめぐる思考実験を通じて体系化されていくものなのだろうか。──私は、実験神学における実験器具とは、身体あるいは共同体にほかならないと思う。[*]

 小原克博氏は「キリスト教信仰の根底には実に豊かなヴァーチャル思考が潜んでいるのだ」と述べている(「インターネット時代とキリスト教」)。つまり、実験神学において観測され測定され検定されるのは、身体と共同体の二つのシステムの生成プロセスなのである。あるいは、身体と共同体という二つのアクチャルなリアリティをめぐるヴァーチャルな変容プロセスなのである。

* もっと端的に、実験神学における実験器具とは、実は言語そのものなのだといっておくべきかもしれない。──私は、神学とは身体=共同体=社会=言語=歴史=システム=精神をめぐる思考のことであり、ここで等号で結ばれた諸項を総称して(広義の)精神と呼びたいと考えているのだが、しかしこのような独自の語彙の用法については、いずれそのうち明確な定義もしくを説明を加えなければならないだろう。

(まず無限と有限、内在と超越その他の矛盾・対立する二項があって、これらを通底もしくは媒介する二つの操作、たとえば受肉と神化があって、さらにこれらの四項の相互関係そのものに関係する第五項、たとえば意味とか一者などによって構造づけられたリアリティというものがあって……。)

▼コンピュータ・サイエンスの根底にはユダヤ的な思考が──いいかえれば、土着的なものから遊離した「軽快でハンディ」でコンパクトな“ものの見方”としてのユダヤ的な知の存在形態が?──潜んでいるという説がある。

 私自身はむしろ、プロティノスからプロクロス、ヨハネス・エリウゲナへと至るネオ・プラトニズムの神学思考と情報学との間の方により深い関係が潜んでいるのではないかと見当をつけているのだが、これもまた素人考えというものだろう。[*]

 それはともかく、ユダヤの「抽象」(外在=他者の思考、統語論的思考?)とネオ・プラトニズムの「感覚」(内在=自己の思考、クオリア的思考?)との融合のうちに、アルス・コンビナトリア(結合術)的なアルゴリズムが結実し、やがて意味生成のオートマティズムと、本来は交通不可能な宗教的体験をめぐるコミュニケーションの場(権力と名づけてもいい)が設営されることとなる──などということができるだろうか。

 もしそうだとすれば、実験神学とは、身体や共同体のリアリティ(ヴァーチャルなものであれアクチャルなものであれ、あるいは「かたち」にかかわるものであれ「はたらき」にかかわるものであれ)をもたらす「設計図」や「オペレーティング・システム」のようなものに作用し、これを書き換え再編集して、身体や共同体における知覚と想起の様態変化の実相を「観測」する試みである──などということができるだろうか。

 さらに言葉を重ねるならば、「この身体」や「この共同体」が属する「この世界」の時空構造を脱臼させ、虚数的(虚体的?)次元を介して「あの世界」に属する「あの身体」や「あの共同体」の存在様式の変化の可能性を「観測」する試みである──などということができるだろうか。

* ジョン・ノイバウアーは『アルス・コンビナトリア──象徴主義と記号論理学』(原研一訳,ありな書房:1999)で、ノヴァーリスの文章を引用しつつ次のように書いている。

<「言葉の運指法、拍子、音楽的精神に細やかなセンスを持つ者は、そうして言葉内部にひそむ自然の繊細な力を自分の中に聞きとり、それに応じて舌を動かし、手を振る者は、予言者となるだろう」。したがって言語の意味論的レヴェルではなく、音楽的統語論的レヴェルが言語の自律性と力の根拠となる。こう言った方がいいか、意味論を指示してくる要素はシンタックスと音楽の中に含まれているのだ、と。>(208頁)

 私はいま、ここに出てきた「音楽」と「シンタックス」と「意味」を、茂木健一郎氏のいう「クオリア」と「志向性」と「主観性」に対応させて考えている。──同氏は、心脳問題における三つのハード・プロブレムとして、クオリアと志向性と主観性(〈私〉)の問題を挙げ、これらの難問の背後に言語の問題が見え隠れしている、と指摘している(「言語の物理的基盤」,『言語』1999年12月号)。


【323】「実験神学」について(続)

▼実験神学の試みによって観測されるのは──身体と共同体における知覚と想起の様態変化や、身体や共同体そのものの存在様式の変化なのではなくて──実は観測者自身の“ものの見方”の変化なのかもしれない。[*]

 佐藤文隆氏は『物理学の世紀』に再録された文章の中で、物理学において「重要なのは[人間レベルの世界からかけ離れた]“あの世”の知識[坊主の教典]ではなく“この世”にも環流する職人的技能の発見である、という考え方がある」(192頁)と述べている。

 そして、科学界のみならず文化世界においても重要な意義をもつに至った物理学が、「この拡大した知識や世界に何を感じ、何を読み取り、何を行うかという次の段階」において発信していくべきことがあるとすれば、それは職人的な“ものの見方”なのではないかと述べ、そのような「職人的概念」として、「変数空間と状態空間」「状態関数と重ね合わせ」「繰り込み理論」「ダイナミクスの数理モデル」等々を列挙している(194-5頁)。

 ──身体と共同体における多数多様な諸過程をプロットする無限次元の「表現空間」(あるいはディスプレイ?)、集合論的な写像概念や対応関係のメタファーの軛から解放された関数概念(あるいはプログラム?)によって「重ね描き」(大森荘蔵)された身体と共同体の複数のリアリティ、無限から有限への「繰り込み」(神の受肉あるいは生誕)と有限から無限への「ダイナミクス」(人間の神化あるいは生殖あるいは死)とによって虚数的次元を指し示す原−身体と原−共同体(あるいは存在の外部=無へと覚醒する観測者=プログラマー?)、等々。

* そもそも実験神学における実験者(観測者)とは誰もしくは何なのかという問題については、ここでは素通りすることにする。──もしかするとそれもまた言語なのかもしれず、その場合、言語の変容とは名の変容、したがって(?)物質そのものの変容にほかならないのではないかといった「アイデア」についてもしばらく措くことにする。

▼実験神学者は卓越した技能者でなければならない。──それでは、実験神学において修得されるべき技術体系とは何か。私の直観は、それは身体の修行や共同体の統治に関するものであり、したがって(?)言語に関するものであること、そしてそこには「時間」が大きなかかわりをもっているに違いないことを告げる。

 たとえば使徒や預言者に託された神的言語、律法、啓示、福音、あるいは神に捧げられた言葉(供犠に供された言葉:the secret name)、神を賛える言葉、祈り。──これらはいずれも時間という観念そのもの(原−時間というべきか)をもたらし、その生成と流通と変容と消滅と再生の全プロセスやそれらが稼働する場の時制構造、さらにはこれらすべてのメタ・レベルにおける流出や輪廻や回帰や終末などの全プロセス(メタ−時間的プロセスというべきか)を指し示している。[*]

* 神的言語が物質に名を与え、とはつまり存在のフィールドを設営し、かつ時間が生成稼働する機巧を身体や共同体のうちにもたらすのだとすれば、神的言語によって「表現」された時間のリアリティ(意味というべきか)の実質を身体や共同体の外部から、とはつまり死者(他者)の側から問い、糺し、解体修理作業を施しつつ、これ(死者=他者=存在の外部)を身体や共同体の内部へと繰り込んでいくのが法的言語なのではないか。

 神的言語はリアルな場(いま・ここ)を設営しつつ存在を発明し、法的言語はフィクショナルな場(かつて・かしこ)を設営しつつ神的言語の痕跡を発見する。──ここでいう発見とは解釈にほかならないのだとしたら、ここでいう法的言語こそ実験神学を志す者がその操作に熟練すべき技術体系なのではないか。(それとも、神的言語を法的言語へと繰り込むことによって実験神学者はただの神学者になる、というべきなのだろうか。)

▼預言や祈りは、まず声である。あるいは、音楽であり存在の律動である。そして、聖典は声のディスプレイである。聖典が開かれたとき、声は収束する。あるいは、かつて・いま・やがて、ここ・かしかでこれを音読する者たちとともにポリフォニーを奏でる。──また、聖典に刻まれた文字たちは生きている。あるいは、群舞している。シンタックスを繰り出す精神の「元子」。あるいは、状態ベクトルとしての「言子」。

  私はブラウン運動の泡立つ海から生まれた
  モンテカルロ・シュミレーションによって調律された斜傾運動とともに
  パノプテスの百眼に射抜かれた私の確率微分方程式は
  いまだかつて存在しなかったものたちのための
  未来永劫存在することのないものたちのための
  失われた墓碑銘の価格のうちに繰り込まれていることだろう[*]

* いうまでもなく、その墓碑銘には死者の名が刻み込まれている。というのも、死者とは言葉(名)にほかならず、言葉とは死者の名にほかならない(?)から。あるいは、その墓碑銘には「宇宙には底がない」(ルクレチウス)という言葉が刻み込まれているのかもしれない。

 寺田寅彦は「ルクレチウスと科学」で、次のように書いている。──なお、寺田寅彦は、現代物理学の「原子」と区別するため、ルクレチウスの‘atom’を「元子」と訳している。また、ルクレチウスのいう‘animus’を心、‘anima’を精神とそれぞれ訳し、前者は「脳」に、後者は「全身に広がれる知覚ならびに運動神経」に相当するのではないかと指摘している。

<私は思う。直観と夢とは別物である。科学というものは畢竟「わかりやすい言葉に書き直した直観」であり、直観は「人間に読めない国語でしるされた科学書の最後の結論」ではないか。ルクレチウスを読みながら私はしばしばこのような妄想に襲われるのである。
 ちなみにわが国の神官の間に伝わる言い伝えに、人間の霊魂は「妙に円き」たまであるという考えがあるそうである。この事を私は幸田露伴博士から聞いて、この条[『物質の本質について』第三巻]の心や精神の元子と多少でも似た考えがわが民族の間に存した事を知り奇異の感に打たれたのである。これはギリシア語のテュモスが国語のタマシイに似ていると同じく、はたして偶然であるか、そうでないか全くわからない。>(岩波文庫『寺田寅彦随筆集第二巻』246-7頁)


【324】物質と言語・生命と言語

▼ジュリア・クリステヴァは『ポリローグ』(足立和浩他訳,白水社:1999)所収の「物質、意味、弁証法」で、「フロイトがヘーゲルに対してどんなに口を閉ざしていようと、フロイトの無意識の発見は、弁証法的論理(学)が可能にしたものを実現しているように思われる」(227頁)と書いている。

 クリステヴァによれば、ヘーゲルの論理学が可能にしたもの、そしてまたフロイトの無意識の発見が実現したものとは「主体の脱中心化」であり、「意味の発生過程の措定」である。

 まず、思考する主体という統一的な観念(意識的主体)が、観念の弁証法の絶頂において、自らを呑み込んでしまう反対物、すなわち「主体としての物質」を産出するのだが、この「顛倒」を実行するのが無意識であるとクリステヴァはいう(229頁)。

 次に、物質的矛盾は具体的な歴史(反対物間の闘争)を通じて意味関係へと「移動」するのだが、この歴史という矢印(「物質→意味」)が機械的な線条性の生成ではないことを示すために、クリステヴァはそこに斜線を引き、「この斜線の役割は、無意識という蝶番によって引き受けられる」(232頁)と書いている。[*]

 ──ラカンがいうように、無意識が一つの言語(ランカージュ)として構造化されているのだとすれば、この言語は、人間の脳髄のうちにあって論理や自然や精神に関する学を網羅したエンツュクロペディーを志向するのだろうか。いいかえれば(?)、ルクレチウスからヨハネス・エリウゲナ、ライムンドゥス・ルルスからライプニッツを経てノヴァーリスへ、そしてマラルメやヴァレリーへと至る結合術の系譜に属しているのだろうか。

 それとも、無意識を構造化する言語は、ボロメアンの結び目やメビウスの輪や内部に穴を穿たれた管でできたトーラスのようなトポロジックなモデルでもって、あるいは様々な振動モード(音色)の絡み合いによって相互作用する弦でもって示されるものなのだろうか。

* 私見を、というより私的なターミノロジーでもって「補足」しておくならば、物質における離散性と連続性の矛盾関係(=ヘーゲルによって見出された最初の概念としての「有、無、成」?」)が論理(=ヘーゲルによって見出された歴史?)によって叙述され、そのプロセスは無限(=ヘーゲルによって見出された無意識?)という蝶番によって情報(意味=ヘーゲルによって見出された概念の最高形態としての「絶対的理念」?)へと「移動」する(表現される)のだが、実はこのプロセスの全体が言語(ロゴス)なのである。すなわち、言語とは物質(過程)である。

 ちなみにヘーゲルは、論理学は絶対的理念の自己運動を「根源的な言語 das urspruengliche Wort 」として叙述するものだという。この言語は「表現されるものではあるが、しかしそれが表現されるときには、その表現は外的なものとして直ちに消滅しているといった性質のもの」なのであって、「理念はただこのような自らの言葉を聞くという自己規定の中にあるものにほかならない」(『大論理学』最終章,武市健人訳)。

 ──以下はまったくの余談だが、私は、ヘーゲルの論理学と自然哲学と精神哲学の関係を、パースの三つの記号、イコン、インデックス、シンボルの関係になぞらえて考えることができるかもしれないと夢想している。その場合、この三者はペンローズの三角形のような不可能な関係を取り結び、おのずから第四の次元(第四の記号=マスク?)を炙り出すことになるのではないかと妄想している。

▼これは三島憲一著『ベンヤミン』(講談社:1998)に紹介されていることなのだけれど、アドルノは「哲学のアクチュアリティ」(1931年の講演)で、「意図なきものを、分析的に切り離された諸要素を組み合わせることによって解釈すること、そして現実的なるものをこのような解釈によって解明すること。それこそが真の唯物論的認識のプログラムである」と述べている。[*]

 三島氏は、アドルノのこの言葉を踏まえて、事物のなかに潜んでいる意味を取り出そうというのは形而上学を前提にした精神主義的な思考であり、事物の背後に意味を見出そうというのでは宗教に遡ることになり「お話しにならない」と書いている。──<事物には意味はないのである。事物はアレゴリーと化すことでいっさいの意味の息を抜かれている。だからこそ、その断片の〈配置〉を解明して意味を読み取ることが可能となる。>(三島前掲書293頁)

 また、三島氏はベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』に即して次のように書いている。──<意味を抜かれた記号表現が浮遊する可能性をベンヤミンはすでに論じている。その場合も、物質としての記号と意味とのあいだの深淵に潜む緊張は消えることはない。意味と形態(物質)とのあいだの緊張は、唯物論的復活の条件でありながら、それを永続的に阻止するのである。世界がアレゴリーになるということは、復活の希望の源であると同時に、その希望が成就しない定めの告知でもある。メシアはいつでも到来しうるが、絶対に到来しえない。──やはり、本書はメランコリカーの絶望の書と言える。決断主義者が、決断の不可能性に生きる決断をした書。>(同245頁)

 ──物質としての言語。言語としての物質。無意識とは他者の言語であり、他者とは死者にほかならない(?)とすれば、死せるものたちが見る夢としての言語というものが考えられるのだろうか。

* ルクレチウスは『物の本質について』第一巻で次のように述べている。──<従って、多くのものには幾多共通なる物質があることは、丁度われわれの言葉に[幾多共通な]「あるはべっと[エレメンタ]」があるのをわれわれが見るのと同様であり、この点は君には、何ものも原子なくしては存在し得ないということよりも、容易に考えられるであろう。>(樋口勝彦訳,岩波文庫,19頁)

▼茂木健一郎氏は「言語の物理的基盤」で、クオリアと志向性と運動の間のダイナミックな結合が言語であると述べている。すなわち、これらの心的表象をささえる脳の中の神経機構において、言葉を構成する視覚的ないしは聴覚的(あるいは他の感覚モダリティ)のクオリアが言葉を表現し、クオリアに張り付けられる志向性がそれらの表現の意味を与え、さらには発話という運動へとシームレスに結び付いていくことこそ、私たちが「言語」と呼ぶ活動の本質にほかならない。

 そして、このような視点から見ると、数学的言語(科学的文化が依拠する言語)と自然言語(人文的文化が依拠する言語)の間の差異は解体され、そこに──物質、言語、心的表象を一つのシームレスな構造、世界観の下につなぐ「表象の精密科学」とでもいうべきアプローチの可能性とともに──、一般的で深遠な「言語的世界」が立ち現れてくると茂木氏は述べている。

 ここで注目すべきことは、茂木氏が数学的言語を「世界の発展を記述する言語」と定義し、「自然の振る舞いを予測する上で素晴しく有効であった」としていることだ。──私は、このような意味での数学的言語は「生命言語」とでもいうべき種類のものなのではないかと思う。

 それは、不断に継続する複数のプロセス(たとえば状態収縮?)そのものの記述と、そのプロセス群の完結によって示されるメタ・レベルの表現(たとえば物語としての『大論理学』?)とが共在する言語、もっと端的にいえば、運動感覚(移動感覚とか歴史感覚とか未来感覚とか生命感覚とか存在感覚といいかえてもいい)に関する言語のことである。[*]

 そうすると、茂木氏が、数学的言語や自然言語(精神言語?)より一般的で深遠な「言語的世界」の立ち現れを語り、それらの「背後にあるより深い言語構造」を語るとき、そこで想定されるべきは「物質言語」(たとえばアレゴリー?)とでもいうべき種類のものなのだろうか、それとも第四の言語類型、すなわち「神的言語」とでもいうべき種類のものなのだろうか。

* ここで述べた事柄と関連するのかどうかはよくわからないけれど、ロジャー・ペンローズは、佐藤文隆氏との対談「われわれはフィジカルな世界をもっともっと知る必要がある」(『Inter Communication』No.25[http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic025/contents_j.html])で次のように述べている。

<重要なのは観念であって,それを表現する手段,形ではないということですね.数学ではもちろんそれは真です.よく,数学は一つの言語であるというふうに言われますが,私自身はそうは思わない.確かにいくつかの記号は使うし,特定のかたちでの操作も行なう.でも,それは本質的なことではない.厳密にそれをどう書くかということは,まったく重要なことではない.重要なのは,基底にある概念です.>

<生物を考えてみてください.生物は物理学の実験の場です.生物を物理的なものとして了解する場合には,状態収縮を考慮しないわけにいきません.状態収縮を考慮に入れなければ,数学のほんの小さな断片としてのみ了解できるにすぎません.シュレーディンガーの方程式は進化してきましたが,結果,通常では考えがたい状況をわれわれに突きつけることになってしまいました.猫が生きていると同時に死んでいる,といった…….>


【325】重力と言語・その他の備忘録

▼たとえば私たちがすべての素数を知りえたとする。または、すべての素数を導出する方程式を手に入れたとする。そのとき私たちは素数の分布状況やその構造を理解しうる立場(あるいはすべてのプロセスが完了した後に成立するメタ・レベル)に立つといえるだろう。しかし、私たちによって理解された素数の分布状況や内部構造や方程式は、すべての素数そのもののうちにはない。(ところで、何事かの「全体」を理解しうる立場は何事かを「事後的」に想起しうる立場と似ている。)

 このように、個々の事物事象とそれらの相互関係のすべて(あるいは相互作用の全プロセス)が与えられたとき、そこに事物事象群全体の意味(それらのなかに潜んでいるものであれ、それらの背後にあるものであれ)を理解する立場が出現する。そして、そこで理解された意味関係がそれら事物事象群のなかに繰り込まれ、それがまた新たな相互関係や新たな事物事象となる(あるいは新たなプロセスが展開される)。

 ここで、相互に理解し理解される関係(あるいは相互に想起し想起される関係)にある二項を考えてみよう。そうすると、上と下、外と内、超越と内在、意味するものと意味されるもの、オブジェクト・レベルとメタ・レベル等々が相互に入れ子になった関係が出現することになるだろう。(あるいは互いが互いの無意識を引用しあう関係、互いが互いの無意識である関係、互いに無意識を露出しあう関係、無意識とは実は表層であるような関係、等々。)

 こうした相互理解や相互説明(や相互想起)のウロボロス的関係にある二項は、実は一つの系のうちにあるものなのではないか。[*]

* ここで述べた事柄と関連するのかどうかはよくわからないけれど、ロジャー・ペンローズは前掲対談で次のように述べている。

<ゲーデルの定理は,私にとって次のようなことを明確にしてくれたと思います.すなわち,定理は決してそれで十分であるという地点には到達しないのだから,われわれが数学を理解するかたちは所与の公理を介してではない.しかし,われわれは常に公理の体系を超越する認識のかたちをもっている.もし公理を信じるとすれば,同時に公理の帰結ではないものも信じることになる.これは基本的に,チューリング・マシンすなわちコンピュータの問題です.要するに,われわれの理解のうちにある何ものかは,計算(computation)によって達成しうる領域の外部にあるという観点です.>

▼これは赤間啓之著『分裂する現実』(日本放送出版協会:1997)に紹介されていることなのだけれど、小林秀雄はある座談会(1937年)で、ジイドの『ソビエト旅行記』が最初ソビエトの民衆は非常に活発だとしながら、後に無気力だと書いているのは描写の上で分裂しているという指摘に対して、「それは現実が分裂してるんだよ、ロシアの現実が。描写の分裂ぢやないんだよ」と発言している。

 ──私には、赤間氏がこの魅力的な書物で展開した議論をちゃんとフォローできているとは到底思えないので、ここではただ小林秀雄の言葉を孫引きし、赤間氏の次の文章を引用するだけにとどめておく。[*]

<たしかに、「現実の分裂」という言葉を発明した小林秀雄には、言葉のハイパーインフレーションに陥っている面があったことは否めない。しかし彼は、ある意味で今日的なヴァーチャル・リアリティの問題を先取りしていた。そしてそのことが、彼の言葉の価値の目減りを防いでいるのである。彼にとって、言葉は現実を現実たらしめていた地位を奪い取るほど強力であった。それは、彼の思考のなかで、言葉固有の力、言葉の象徴的機能が、遡及的に現在のヴァーチャル・リアリティと呼ぶしかない何ものかと密接に結びついていたからである。>(55頁)

* 現実の分裂という言葉でもって、小林秀雄は実は「神」の問題を考えていた(?)。あるいは、現代物理学の問題を考えていた。──山崎行太郎著『小林秀雄とベルクソン』(彩流社:1990)によれば、小林秀雄と理論物理学とのつながりはアインシュタインの来日以来のことであり、山崎氏は「小林秀雄の批評は、古典物理学の危機とその克服としての相対性理論や量子力学と同じ意味を持っている」(219頁)と書いている。

<古典物理学においては、観測者は、観測の対象を、対岸から、客観的な第三者として観測するということが前提されていた。これに対して量子論においては、観測者自身が観測対象の中にはいりこみ、観測者の行動をも観測対象に入れなければならなくなった。ある意味では、客観的な観測は不可能だということである。  小林秀雄が「観測者」としての「作家」を問題にしたということは、以上のように考えるならば、きわめて画期的なことだと言わなければならない。つまり、作家は「人間」という対象を観測する古典物理学的な観測者である。これに対して、「観測者」としての「作家」を観測する批評家の誕生は、世界観、ないしは存在観の変換を背景にしている。>(62頁)

▼神学的な視点から言語を考えるとき、ユダヤ−キリスト教的な「時間」の観念からだけではなく、インド−中国的(?)な「空間」の観念からもアプローチされなくてはならない。──たとえば「ウパニシャッド」や「バガヴァッド・ギーダー」に親しむこと。[*]

* これは上にメモしたこととはまったく関係がないけれど、神学的思考の実質を考える際、「帝国の言語(=観念)」と「植民地の言語(=抽象的概念)」の区別といった事柄を念頭におくべきなのかもしれない。

 たとえば、ウィトゲンシュタインによる哲学の問題の解消(言語批判)とフロイトの無意識の発見、そしてマッハの原理がオーストリア=ハンガリー帝国の首都においてなされたこと、すなわちロベルト・ムジールが『特性のない男』で「カカーニア Kakania 」と呼んだ二重帝国の最後の日々における出来事であったことは重要である、云々。

▼神的言語は物質を創造する。それは、意識や思考や情動が化学物質を産出するといった「精神神経内分泌免疫学」的な事実をいうだけではなく、字義通り物質世界を創造するのである。いや、神的言語が創造するのは物質ではなくて時空であり、さらには時空そのものを一つの物質として創造する(?)重力の場である。すなわち、神的言語とは重力である。それでは、自然界ならぬ現実界の四つの言語を統一する究極の「物理−神学的」な言語理論は、はたして可能か。──こうして、私は沈黙してしまった。

* これもまた上にメモしたこととはまったく関係がないけれど、寺田寅彦に「備忘録」という短い文章を集めた随想があって、そこに次のようなくだりが出てくる。

<街上を往来している人間の数についてある統計を取ってみると、その結果は、個々の人間もあたかも無生のガス分子でもあると同様な統計的分布を示す事が証明される。もし人間以外のあるものが他の世界からこれら街上の人間についてただこのような統計的分布に関係した事がらのみを観察していたならば、そのものの目には、人間は無生の微分子としか見えないであろう。そうして、その同じ微分子が、一方で有機的な国家社会的の機関を構成しているのを見てその有機体の生命の起原を疑い怪しむに相違ない。
 このアナロジーから喚起される一つの空想は、もしや生命の究極の種が一つ一つの物質分子の中にすでに備わっているのではないかという事である。物理学者はおそらくただその統計的の現われのみを観察しているのではないだろうか。そうして無生の微粒と思っているものが生物という国家を作り社会を組織しているのに会って驚き怪しんでいるのではないだろうか。
 同一元素の分子の個々のものに個性の可能性を認めようとした人は前にもあった。ついでに原子個々にそれぞれ生命を付与する事によって科学の根本に横たわる生命と物質の二元をひとまとめにする事はできないものだろうか。>(岩波文庫『寺田寅彦随筆集第二巻』143頁)