神学的、伝導的



【306】神学的、伝導的(素材と概要−1)

 平凡社から出ている叢書「ヒストリー・オブ・アイディアズ」第12巻に『神の観念史』があって、その冒頭に<神について考える人間の能力は、自分の考えを書くという仕方で記録する能力よりも以前からあるという点は重要である>(S.G.F.ブラントン「神の観念──先史から中世まで」)と述べられています。

 また、岩波書店の「21世紀問題群ブックス」第23巻『聖なるヴァーチャル・リアリティ』(1995)の「はじめに」で、著者の西垣通氏は「最も根源的な問い」として、<ヴァーチャル技術が跳梁発展する二一世紀において、聖性はいかにして、どこに宿るのか?>と書いていました。

 神の観念が文字というヴァーチャルなメディアに宿るもの(聖性)に先んじているのだとすれば、つまり数万年このかたその構造に変化のない人類のニューロン・ネットワークのうちにあらかじめ神の観念が宿っていたのだとしたら、神について人はどのような言語でもって語ることができるのか。あるいは、預言者たちのうちに、とりわけイエスのうちに宿った「神の言葉」を人はどのようにして伝達することができるのだろうか。

 ──このように、精確に問題を設定することそれ自体が困難な事柄をめぐって、これからしばらく、素材の蒐集と概要の作成を試みることにします。本体もできていないのに「エクスポゼ」もなにもあったものではありませんが、いま漠然と思い描いている「構想」は、おおよそ次のようなものです。

 まず、聖書学やら情報学やらをざっと眺めた後で、富岡幸一郎氏が『使徒的人間──カール・バルト』(講談社:1999)で叙述した「使徒」をベンヤミンの「翻訳者」に重ね合わせて考察し、そしてそこにレヴィナスの思考を組み合わせたトリアーデをこしらえて、さらにウィトゲンシュタインやハーデガーの(神学的な?)思考をこれに付加することで、合同な五つの正四面体からなる四次元的な「ペンタヘドロイド」を造形してみたい。

 ラカンとかホワイトヘッドも気になっているのですが、私の力ではせいぜい「使徒=翻訳者」論の入り口あたりにたどりつくのが限界。あれこれ妄想をたくましくする前に、同志社大学神学部の二人の教官のホームページで見つけた文章の抜き書きならぬペーストから、作業を初めてみることにします。

 タイトルの後段について一言。テーマからいえば「伝達的」、ジャンルからいえば「伝道的」でもよかったのですが、何気なく『広辞苑』第四版を開いてみて「伝導的」に決めました。以下に転記。

<【伝導】(1) つたえみちびくこと。 (2) (conduction) (イ) 【理】熱または電荷が物質の中を移動する現象。→熱伝導・電気伝導 (ロ) 【生】神経や筋肉などの一細胞内を、生物電気により興奮が伝わる現象。→伝達>

●ヴァーチャル思考と神学──野本真也氏の「聖書と聖書学」[http://theology.doshisha.ac.jp/users/staff/snomoto/]に掲載された「神学とコンピュータ」(1996年6月) から。

<キリスト教会は聖書を正典としてみずからの共同体を形成してきました。すでに旧約聖書はそもそもの初めから人間の共同体性について問題にしており、とくにイスラエルの共同体の問題をとおして人類の共同体性について深い洞察をしています(創世記2−3章)。新約聖書ではさらにイエス・キリストの語った神の国(神の愛による共同体)をはじめ、キリスト教会の始まりについていろいろなことが書かれています。このような聖書との密接なかかわりの中で、キリスト教会が展開してきた思想が「神学」なのです。そして神学は、われわれが普通、現実と呼んでいる世界における共同体とはどのようなものか、その共同体ははたして真実の共同体なのか、真実の共同体とはいかなるものか、それは現実世界でも成立するものなのか、といった問題について長い歴史の中で検討を積み重ねてきたのです。「この世と神の国」、「見える教会と見えない教会」はどのように関わりあっているのか、今、ここという時間と空間に限定されない共同体や関係世界といったものが成立し得るのか、といった問題です。このような問題は、コンピュータに関係していえば、「ヴァーチャル」な領域についての考え方とパラレルなところがあると言うことができると思います。(略)…過去の神学論争は決して議論のための議論であったのではなく、人間にとって基本的に大切な問題をいつの時代にも、その時代に対応した仕方で考え、議論を交わしてきているのです。それだけに、現在の神学にとっては、コンピュータのかかわる領域は、じつに魅力的であり、刺激的なのです。>


【307】神学的、伝導的(素材と概要−2)

●イエスの教えのヴァーチャルな側面──小原克博氏の「小原克博 On-Line」[http://kohara.theo.doshisha.ac.jp/]に掲載された「インターネット時代とキリスト教」(1996年11月、『キリスト教年鑑1997』、キリスト新聞社)から。

<…キリスト教信仰の根底には実に豊かなヴァーチャル思考が潜んでいるのだ。イエスは神の国の到来を告知し、神の国を多くのたとえで語った(マルコ4:34「たとえを用いずに語ることはなかった」)。たとえは〈誰にでも理解できる日常的な素材〉で構成されている。イエスはたとえで語ることによって、日常世界のただ中に神の国のリアリティをもたらし、聞く人々の間にそれを〈共有〉させようとした。
 その際、イエスの創出する神の国のリアリティは、熱心党やクムラン教団など、当時の諸集団の主義主張と異なり、何が現実で、何がヴァーチャルなのか、という二者択一的な問いを拒絶する。イエスの教えは聞き手の日常を異化することによって、聞き手を日常と非日常の間にできた空所へと引き込む。そして、まさにそこにおいて、ヴァーチャルなものをリアルに感じさせようとするのである。
 イエスが示した、このダイナミズムを、わたしたちは現代において活用するよう求められているのではなかろうか。>

●インターネットの神学的意味──小原克博「教会とインターネット」(1996年11月、『福音と世界』、新教出版社)から。

<インターネットでは、これまで関心によって住み分けられていた様々な領域が平準化され、横一列に置かれる。いかに宗教的なメッセージであっても、それがセキュラー(世俗的)な土台の上にあることを意識しなければならない。それは、とりもなおさず、自分たちが伝統的に使ってきた当たり前の言葉を再検討することにつながっていく。仲間内でしか理解されない「暗号」で記されたメッセージは、インターネット時代にふさわしくないのだ。「受肉」、「あがないの死」、「復活」などの言葉が、いかにキリスト教信仰に重要であるとしても、それらをそのままホームページ上に書き移すだけなら、一般の人々に意味のあるメッセージとはならない。まったくセキュラーな舞台の上で、信仰内容について自然な言葉で対話することが求められているのである。
 しかし、それは信仰形態を時代に適応させることではない。そのような早急さは信仰を貧困にしかねない。むしろ、わたしたちの課題は、歴史的に継承している豊穣な神学的遺産を現代の光のもとで活性化することである。ヴァーチャルという概念は、すでに中世の神学者ドゥンス・スコトゥスによって導入されていた。また、「見える教会」と「見えない教会」という区別は、リアルとヴァーチャルの間で展開されるダイナミズムを前提にしている。聖餐論争においても、パンとぶどう酒の中にキリストの体と血がどの程度リアルに存在しているかを論じて思索が重ねられていったのである。時代を先取りするような思考過程がキリスト教信仰の中には無数に存在しているのだ。インターネットは、そういった遺産を歴史の夾雑物の間から解放し、新たに活性化するための「触媒」となり得る。そのように、自らの信仰に内蔵されている多様な素材を活用してこそ、わたしたちは借り物ではない自分自身の言葉で、神の国のリアリティを語り始めることができるのである。
 イエスが宣べ伝えた神の国のリアリティに通じる者は、どのような時代の先進性より、なお先を洞察することができるという、ごく当たり前の信仰的事実を、インターネットは新鮮な形で思い起こさせてくれるのだ。>

●グノーシス的誘惑への洞察──小原克博「バーチャル・リアリティの神学的考察とその実際」(1998年3月、日本基督教学会近畿支部会公開講演)から。

<この事件[ヘブンズ・ゲイト事件:1997年3月、サンディエゴ郊外で39人(女性21人、男性18人)が集団自殺をした]は、古代の黙示文学的終末論やグノーシス主義を強く連想させる。彼らはヘール・ボップすい星という天体を「時のしるし」として終末の予測をした。そして、グノーシス思想のように、肉体という束縛から解放され、天へと上ることを期待した。彼らが宇宙船と考えたものこそ、天上の知識グノーシスに対応している。
 現代社会においては、身体感覚が希薄になりつつある。
 しかし、リアルとバーチャルの両世界を結びつける結節点として、教会は「身体」へのまなざしを忘れなかった。身体感覚が希薄化する時代には、いつもグノーシス主義的誘惑が待ちかまえている。教会がかつて、それとどのように戦ってきたのかを聖書から学ぶことは、現代にも多くの示唆を与えてくれるはずである。>

●携帯電話の役割は、天使が果たしていた──小原克博「携帯電話と神の啓示」(1998年11月、『月刊チャペル・アワー』No.220、同志社大学キリスト教文化センター)から。

<私たちは便利な電子機器によって、遠くにいる者同士が、あたかもテレパシーで結ばれているような感覚で一体感を得ることができます。しかし、聖書の中においても、同じことが行われていました。遠くで起こっていることを知らされるのです。もちろん聖書の時代には、携帯電話はありません。携帯電話のような役割をしばしば、天使が果たしていました。
 例えば、マタイによる福音書の二章一三節に、ヘロデがこれからどのようなことをしようとしているかを天使がヨセフに伝えるという場面があります。これはまったく離れたヘロデの宮殿のことを天使がキャッチして、その情報をヨセフに伝えます。このように遠隔地を結ぶ役割を、昔は天使が果たしていたわけです。現在は天使がいなくとも、携帯電話さえあればお互いに連絡できます。>


【308】神学的、伝導的(素材と概要−3)

●野本真也著「神学とコンピュータ」 から。──<しかし神学の側からコンピュータの領域に深くかかわる議論はまだほとんど展開されていません。むしろ反対に、コンピュータにかかわる分野の方々から神学にかかわる場合のほうが積極的です。たとえば、情報工学・情報文化論の専門家である西垣通氏の『聖なるヴァーチャル・リアリティ』(情報システム社会論 21世紀問題群ブックス23 岩波書店 1995年12月)は、まさに神学の問題領域を取り扱っています。>

●小原克博著「教会とインターネット」から。──<インターネットはおもしろい。そして、いくつもの可能性を秘めている。しかし、同時にインターネットは決してユートピアでないことにも注意を喚起しておきたい。そこでは、わたしたちの社会にあふれている様々な幻想や欲望が同様に渦巻き、いや、むしろ巧みに増幅されてわたしたちの感性を魅了する。悪魔的な力の出現はこれまで以上に巧妙なものとなるだろう(この問題に関しては西垣通、『聖なるヴァーチャル・リアリティ』、岩波書店、一六二頁以下の叙述がすぐれている)。ここでも教会の信仰的洞察力が試されているのだ。>

●西垣通著『聖なるヴァーチャル・リアリティ』(岩波書店:1995)第3章2「ヴァーチャル・リアリティの双極構造」から。──著者は、情報科学者フィリップ・ケオーが『ル・ヴィルチュエル Le Virtuel 』(1993)で展開した議論を紹介している。

<まず、ケオーが着目するのは「ヴァーチャル(ヴィルチュエル)」という言葉の原義である。これはラテン語の「力」「エネルギー」などを表す「virtus」から来ている。あるものをそうあらしめる潜在能力ということだ。だから樫の木はドングリの中に「ヴァーチャル」に存在している。それは決して幻でも虚構でもない。ヴァーチャルなものは対象の内にひそかに「実在」しているのだ。
 だからここでは「ヴァーチャル」は「潜在」と訳した方がいいだろう。これはケオーの独断ではない。中世の神学者ドゥンス・スコトゥスは「物質は常に、単一の統一体の中にも多様な性質を「ヴァーチャル」に含んでいる」と述べたといわれる。通常、日本語では「ヴァーチャル」は「仮想」と訳されるが、これは「事実上同じような機能・効果をもつ」という意味である。この「事実上」は、「隠れていて分からないが、実は」という脈絡で使われることもあるから、原義とつながっている。とはいえ、そこには「本物ではないが」というニュアンスが認められることも否定しがたい。このニュアンスを敢えてしりぞけるところに、ケオーの主張がある。
 つまり、ケオーは表層にあらわれた「リアル」を含む、いっそう根源的な存在概念として「ヴァーチャル」をとらえているのである。「リアル」とは「ヴァーチャル」から派生してきたものなのだ。そこではもはや、「リアル」を「ヴァーチャル」から峻別することはできなくなってしまう。「リアル/ヴァーチャルという二分法の重大な危険は、われわれの人格において魂を肉体から離脱させやすくし、感情的ならびに精神的孤独をひきおこすことだ」とケオーは述べる。>(118-9頁)

●西垣前掲書(120頁)によると、フィリップ・ケオーは「リアル」の本質をとらえるための方策をめぐって次のように述べている。「仮想現実は実現されねばならない。つまりヴァーチャルに存在するもの、すなわち仮想世界を構成する知的なモデル、仮想世界を動かす観念を、白日のもとにさらすよう努力しなければならない。」──西垣氏は、ここに出てくる「知的なモデル」や「観念」とは実はコンピュータ・プログラムのことなのだと書いている。

<ヴァーチャル・リアリティとは、端的に言えば、コンピュータ・プログラムという「知的モデル」によって三次元グラフィックスなどの「感覚的イメージ」をつくる技術である。この「双極性・二重性(dualisme)」こそ、ケオーによればヴァーチャル・リアリティの本質をなすのだ。
 写真とちがって、ヴァーチャル・リアリティのイメージは、あくまでコンピュータ・プログラムによって、すなわち数理的な言語によってもたらされるものである。つまりそれは、一種の「表象・再現(repre'sentation)系」なのである。このようにヴァーチャル・リアリティを「エクリチュール(文字で書き表されたもの)」としてとらえるのが、ケオー理論の特色なのだ。[略]われわれはヴァーチャル・リアリティのおかげで、これまでに無いような「概念(conception)的領域と知覚(perception)的領域をむすぶ、新鮮で繊細微妙な織物」を見いだすことができるのだ。
 こういう「知的モデル」と「感覚的イメージ」との融合は、いわば文学的な言葉、すなわち詩において見られるものに等しい。イメージによって、われわれは知的なモデルを「感じる」ことが可能になる。「それは一つのネオ・エクリチュールであって、その文字はかつてカバリストや詩人が願ったように自由に往還できる」。これまで分離されていた言語(プログラム)と感覚イメージとが、新しい回路で収斂していくのだ。>(121-2頁)

●フィリップ・ケオーの議論を総括して、西垣氏は、<それは西欧の伝統的な思考、とりわけユダヤ=キリスト教の思考の枠から抜け出していないように思われる>と指摘している。

<どうやらケオーは、「この世の根底に創造神の言葉(ロゴス)がある」という西欧的な世界観を、「イメージの根底にプログラム(モデル)がある」というヴァーチャル・リアリティの構造に重ねているのではないか、と推察されるのだ。
 この連想は決して無理な飛躍ではない。プログラムとは論理的な言語で書かれたもの、すなわち「ロゴス」であり、聖なる「理性」の産物なのである。[略]
 とはいえ、ここでよく考えてみる必要がある。そもそも、「理性をもつ創造神」とは、近代科学がその端緒において暗に想定してきたものではなかったか?
 「宇宙の基本的なロジックをとらえる」という近代科学の営為は、心を肉体から峻別する心身二元論から出発した。理性をもつ「心」を至上のものとする思考がそこにはあった。だが近年の科学技術信仰の衰退は、まさに、そういう古典的な近代思考が限界に突き当たったことにも一因があるのである。身体に発する〈情報〉から〈聖性〉を語る本書の目論見は、こういう状況を克服することにあるはずだ。
 それゆえ、ここではケオーの議論だけで満足することはできない。たしかにケオーは、西欧精神からみて正統的な聖性・真なる宗教的感情が、ヴァーチャル・リアリティを通じて発露する可能性を見事に示した。たとえ限られた人々のあいだではあっても、サイバースペースのなかで〈神〉は出現しうるだろう。だが出現するのは、そういうユダヤ=キリスト教的な創造神だけではないのである。>(131-3頁)


【309】神学的、伝導的(素材と概要−4)

●舘*(表示不能:日+章)氏の『ロボットから人間を読み解く』(NHK人間講座テキスト:1999.10〜12)によると、ヴァーチャル(virtual)とは「みかけや形は原物そのものではないが、本質的あるいは効果としては現実であり原物であること」(existing in essence or effect though not in actual fact or form:‘The American Heritage Dictionary’)であり、虚構や仮想とは似ても似つかない概念である。

<バーチャルの反義語はノミナル(nominal)すなわち「名目上の」という意味の言葉であって、バーチャルは決してリアル(real)の反義語ではありません。「虚」は、imaginary に対応し、虚数(imaginary number)などの訳に適しています。[略]また、「擬似」は pseudo であり、外見は似ていても本質は異なる偽物です。「仮想」はあくまでも supposed で、「仮に想定した」という意味を表しており、これもバーチャルとは全く異なる概念です。>(70-1頁)

 たとえば日本語の「仮想敵国」とは「サポーズドエニミー」であって、これを「バーチャルエニミー」と訳すと「友好国のように振る舞っているがほんとうは敵」という意味になってしまう。

<従って、バーチャルリアリティは、そのままカタカナで表記するのがよいと思います。もしどうしても日本語に訳したければ、「人工現実感」という言葉のほうが、誤訳するよりはよいと思います。[略]
 明治以来このかた、バーチャルという言葉を嘘や仮想と誤って訳し続けてきたのは、実はバーチャルという概念がわが国にはまったく存在しなかったためです。我が国だけではなく中国にもありません。そのことは、それを著わす一文字の漢字あるいは二文字の熟語が存在しないことからも明らかです。つまりバーチャルという見方は、東洋にはない極めて欧米的な概念であるといえましょう。>(72-3頁)

●補遺。次の二つの図を比較せよ。──下図は、ガタリ『分裂分析的地図作成法』(訳書50頁)から。

          ┌──―──┬─―─―─┐
          │nominal │virtual  │
   ┌─――───┼――───┼──――─┤
   │imaginary │     │     │
   ├――────┼───―─┼─―─―─┤
   │real    │     │     │
   └──――──┴─―─―─┴─────┘

          ┌───―─┬──――─┐
          │actuel  │virtuel  │
   ┌─――───┼―─―──┼─―─―─┤
   │possible  │     │     │
   ├――────┼───―─┼──――─┤
   │re'el    │     │     │
   └──――──┴──――─┴─────┘

●野本真也氏は「聖書とコンピュータ」(『同志社時報』No.106/1998)で、古代・中世以来の伝統的な聖書読解や研究の方法と現代の「コンピュータ思考」との共通性をめぐって、次のように書いている。

<コンピュータには、メモリやデータを整理したり、プログラムやネットワークを組むときなど、「アドレス」を付けるという考え方があるが、聖書には「章節区分」というアドレスが付けられている。これは聖書に対してデジタル的な処理をほどこしたと考えられる。[略]
 また聖書のある箇所に出てくる語句や並行記事などが他のどの箇所に出てくるかを欄外に簡潔に注記した「引照付」の聖書がある。すでに中世ユダヤ教の聖書学者たちのヘブライ語聖書の写本には欄外注がびっしりと書き込まれており、現在の学問的脚注付きの原典聖書もこの慣わしの延長上にある。このような欄外注は、現在のコンピュータ処理で言えば、ハイパーリンクを張る「ハイパーテキスト処理」や「キーワード検索」に当たる。
 さらに、聖書研究には古くからコンコルダンスが作成・利用されてきた。聖書の周辺世界の作品のコンコルダンスも重要で、ある語句がどこに出てくるか、ある語と他の語が関連して出てくる箇所はどこかなどを細かく調べることで、当該箇所の意味の理解を深めたり、伝承の存在やその流れ、編集の特徴、思想的連関などを探ったり、テキストの構造を分析したり、隠喩的な意味を読みとるためなどに、なくてはならないツールである。これはリレーショナル・データベースの考え方に相通じるものがある。>

●西垣通著『ペシミスティック・サイボーグ』(青土社:1994)第八章「カバラと現代普遍言語機械」から。

<土地を追われる離散の民にゆるされるのは、ただ言葉と記憶のみである。そこにこめられた伝承と救済の希望だけである。古代のエジプト脱出、五百年前のスペイン追放、今世紀の米国亡命などの記憶は、わたしたちには想像できないほど、ユダヤ人の心のなかに鮮明に残っているはずなのだ。
 再三くりかえすが、追放された人々はどこの土地でも通用する普遍的なロジックで身を守ろうとする。これはひとつの“外化”のプロセスである。自分の身体の奥にうごめく渾沌を批判的に分析し、抽象化し、ロジックとして構成すること。この外化のプロセスを極端におしすすめると論理的な〈言語機械〉というものが出来上がるわけだ。
 機械は正確で中立で客観的なものとされているから、そこから出力される言葉はつよい説得力をもつことができる。機械を通じて、言葉には不可思議な権力が与えられるのである。十三世紀、ルルスはまさにこの方法で、精緻なイスラム哲学をもつムーア人にキリスト教を布教しようとした。
 こう考えれば、軍事用計算機械としてうまれたコンピュータが、やがて言語機械への道をたどったのは当然のなりゆきだったかもしれない。コンピュータの黎明期である一九五◯年代から人工知能の研究は始められていたが、言語的知識をあつかう、いわば〈知識工学〉パラダイムが一九七◯年代後半にあらわれると、それは一挙にビジネスマンの注目をあつめ、コンピュータ応用の主流におどりでた。
 もちろんその研究者はユダヤ人だけではない。けれども、言葉であらわされた知識をメカニカルに組み合わせて宇宙を覆うという思考そのものがユダヤ的なのである。>(224-5頁)

<…メタリコン、ゲマトリア、テムラーといったカバラの文字操作は数理的なルールにもとづいて記号をあつかう。それゆえ現代コンピュータの文字操作とやや類似しているが、いっそう大切なのは、数理的モデルによって内的な統合宇宙を捉えようとする眼差しなのだ。〈文字操作〉じたいはひとつの表現形式にすぎないのであって、その深奥にある歴史的基盤、わたしたちとはまったく異なる思考の様式に気づかなくてはならない。
 土着の無意識的な生活感を剥ぎとられた人々は、日常生活の水路に普遍的なロジックをみちびきいれ、そこに救済の願いを付与することによって、かろうじて日々の暮しを支えようとはかる。こうして、戒律を守ること自体が、カバラの「内密な秘儀的行為」と化すのである。>(226頁)

<…知識工学とは、アメリカ流実利主義とユダヤ教神秘主義的宇宙観とがコンピュータ上で邂逅することから誕生したのである。/五百年前にスペインから追われたカバラの夢想は、約束の地アメリカで、知識処理コンピュータという形でひとつの結実をみたといえるだろう。>(228頁)

●西垣通著『こころの情報学』(ちくま新書:1999)第2章「機械の心」から。

<意味のない情報から意味のある情報を創りだすという、この矛盾はいったいどこに起因するのでしょうか。
 これはやはり、記号の普遍的な〈意味〉というものが天下りで(たとえば神によって)キチンと定められ、秩序づけられているという暗黙の前提があるのだと考えざるをえません。そういう前提があれば、個々のヒトは記号の意味内容について悩む必要はなく、ただ記号を形式的に操作する方がかえって「正確な思考」ができるということになるでしょう。こうして、意味のない〈機械情報〉から意味のある〈社会情報〉が生成できるという発想が出てくるわけです。
 もちろん、ユダヤ=キリスト教的な神的秩序の概念が現代の人工知能研究に直接つながるわけではありません。しかし、最先端コンピュータ科学である人工知能研究は、そういう西洋の知の伝統を踏まえているのです。>(84-5頁)


【310】神学的、伝導的(素材と概要−5)

 信号(聖痕)、情報(啓示・預言)、記号(イコン)、コミュニケーション(見神・コミュニオン・受肉)、メディア(キリスト・聖書・サクラメント・天使・使徒)、身体と記憶、言語と意味、共同体と他者、世界と現実、等々。──「情報学」と「神学」に、そして「経済学」や「数学」にも共通すると思われるこれらの語彙をめぐって、その意義を探究するための非体系的な素材の蒐集、というより端切・断片のパッチワーク。

●西垣氏は「情報=信号+記憶」と定式化している。<自然/人工の区別を問わず、感覚器官を通じて入ってくる外界のあらゆる信号は、体内の記憶と結びついて何らかの〈情報〉を形づくるはずだ。二◯世紀に登場した〈情報〉という概念には、…「人工的信号」といった狭い常識的定義ではなく、物質やエネルギーと対置される、より広い定義を与える努力がなされてきた。すなわち宇宙を構成する万象の中で、どうしても物質やエネルギーに還元できない「何か」が〈情報〉なのである。>(『聖なるヴァーチャル・リアリティ』3頁)。

●「私」もまた感覚と記憶の統一体である。<そもそも、「私」というのは何なのだろうか? それはあいまいで頼りにならぬ記憶と、偏った感覚によってかろうじて支えられている、一種の「不確かな統一体」にすぎない。[中略]もし、われわれが部分情報系にすぎないならば、いかに真剣に、全力をつくして思考しても、宇宙の深遠な哲理を理解しつくすことはできないだろう。われわれが他の生物種に無いと信じて誇っている「言語」にしても、真理を究めるためというより、むしろヒトどうしの社会的コミュニケーションを円滑におこなうために、語彙も文法もいわば「適当に」定められたものではないか。それで宇宙の全体を論理的に分析することなど、およそ不可能な難事というものだ。[中略]そういう自分の限界性についての直覚が、「全てを知る根源的な存在」つまり〈神〉への渇望に変わっていっても不思議はない。内的動機を与えられたとき、ヴァーチャル・リアリティの眩暈の深淵は神秘的な啓示の場となりうるのである。>(同138-40頁)

●また、情報は「生きること」と深くかかわっている。<物質やエネルギーとは別に、宇宙に〈情報〉という存在があることは、いまでは一般に認められている。[中略]…肝心なのは移動した物質[郵送の場合の紙片、ファックスの場合の電気信号]ではなく、物質を媒介[メディア]として伝えられた「何か」である。/この「何か」が〈情報〉と言われるものだが、大切なのは、物質やエネルギーと違って、情報が「生きること」と深く関わっている点なのである。/たとえば、いま一切の生物が死滅してしまったとしよう。[中略]このとき、果たして〈情報〉は存続するだろうか?──答えはもちろんノーである。物質やエネルギーは存続するだろうが、情報は生物とともに消滅するのだ。>(同10頁)

●情報とは本来、身体にベースを置く生物学的な概念であった。しかし、近代的な日常生活で情報は身体性を隠蔽され抽象化され、人工的・客観的・数量的な概念として扱われている。

<土俗共同体の「首長の身体」から〈意味〉が生まれ、その有効圏を王国に広げるために「王の身体」が発生し、さらには「神(抽象身体)」によって宇宙全体に通用する普遍的な〈意味〉が確立されていく。大澤理論[大澤真幸『身体の比較社会学I・II 』]が明確に示すように、このプロセスとは、身体から具象性をはぎとる抽象化・形式化のプロセスなのである。/これは、文字や図像による記号コミュニケーションにおける意味解釈のズレやゆらぎを、超越的第三者の権威によって排除していくプロセスでもある。[中略]もともと西洋のコミュニケーション・モデルの原型とは「私の祈りが全能の神(キリスト)を介して相手に伝わる」というもので、「誤りない意味の伝達」は神によって保証されていた。シャノンのモデルは、超越的第三者(神)の身体を完全に隠蔽したものにすぎない。>(同29-30頁)

●<…二◯世紀に成立した〈情報〉という概念とは、本来は生物的な身体性に依拠するにもかかわらず、それを隠蔽し、個々の身体の上に超越的な規範・権力をもたらす社会的メカニズムから生まれたものなのである。[中略]身体に発した〈権力〉は抽象化・形式化されることによって長い射程を得ることができる。有効な時空圏はひろがるわけだ。そしてこれは同時に、〈情報〉が何らかの手段・装置によって外部の媒体に「記号」として刻印されていくことでもある。文字言語はもちろんその代表的なもので、法律ばかりでなく、辞書や正史といった書物はこのプロセスで誕生する。こういう記号装置は全て、権力者が社会を〈秩序〉立てるのに役立つ。つまりそれらは、社会における人々の行動規範を定めるだけでなく、人々が環境世界を「正しく解釈する」ことを可能にするのである。[中略]もし抽象化・形式化のレベルが十分高ければ、キチンと定められた規則にしたがって自動的に記号を操作する“情報処理機械”が登場しても不思議はない。そして言うまでもなく、コンピュータはまさにそういう情報処理機械であり、「権力を外部化した装置」なのである。/フランス語ではコンピュータ(計算機械)のことを「秩序づけるもの(ordinateur)」と呼ぶが、この言葉のほうが本質をよくついている。>(同32-3頁)


【311】神学的、伝導的(素材と概要−6)

●<「ヴァーチャルな身体」とは奇妙な身体である。それはいわば、人間の体内の神経系の一部だけを電子機械的に増幅拡張したようなものだ。神経系というのは本来、呼吸、消化、生殖など、広義の代謝系(物質系)と結びついてそのはたらきを助け、個体維持、種族保存を支える機能のはずだ。だがここでは代謝系は置き去りにされ、神経系だけが部分的に機能拡張されている。/このことはヴァーチャル・リアリティのセンサーやディスプレイをながめれば一目瞭然だろう。嗅覚や味覚といった、化学物質を媒体とし、代謝系に関連のふかい感覚器官は捨象される。そして視覚や聴覚、とりわけ進化史上もっとも後に発達した視覚の機能が一挙に増幅されているのだ。>(西垣前掲書73-4頁)

●<およそ身体というのは固定した静的なものではない。生物は常に環境のなかで自己を組織化し、自己を創出しつづけるダイナミックな存在だ。実際、この営みこそが〈情報〉の生成そのものなのは言うまでもない。/仮想世界に「没入」している人間は、まさに仮想世界との「インタラクション」によって、絶えず自分の身体をつくりかえ、ヴァーチャルな身体を形成していく。[中略]仮想世界は基本的に「恣意的なモデル」にもとづいて製作される。モデルはけっして中立的ではない。製作者が環境世界をながめる視座につよく依存するのだ。いいかえると、「ヴァーチャルな身体」は仮想世界モデルという平面に閉じ込められてしまうのである。>(同74-5頁)

●<…断わっておくが、ヴァーチャル・リアリティだけがこういう身体の「ズレ」を引き起こすわけではない。文字も、テレビも、およそあらゆるメディアは、多かれ少なかれズレをはらむ身体をもたらす可能性を秘めている。メディアによってコミュニケーションをおこなう人間にとって、もともと「自然で無垢な身体」など山の彼方の幻にすぎない。/だが、ヴァーチャル・リアリティによる身体形成は他のメディアよりはるかに直接的で、その形成能力は桁はずれに強力なのだ。もちろんその原因は「没入感」と「対話性」にある。…ヴァーチャル・リアリティでは、みずからの身体内に生じつつあるズレを批判的にとらえることがきわめて難しいのである。>(同76頁)

●コミュニケーション・メディアとしてのヴァーチャル・リアリティ。<…ヴァーチャル・リアリティの応用は操作型、体験型、評価型などに分類できるが、「身体の変容」という観点に立つと、体験型と評価型、とりわけ体験型が焦点となる。一般の人々が仮想世界のなかで積む体験がポイントとなるからだ。ところで、この体験は、単に個人が架空の物体にふれて非日常的な体験を得る、といったことだけから得られるわけではない。さらに大切なのは、仮想世界のなかで他の人々とコミュニケートするという点なのだ。>(同80頁)

●サイバースペース=ヴァーチャル共同体。<社会秩序というものは、抽象化・形式化によって有効圏を広げるが、いわばその代償として「聖なる身体」を頼らなくてはうまく機能することができない。社会秩序のベースは本来、身体コミュニケーションだからだ。「聖なる身体」を基軸・範型とし、それを経由することで、人々のコミュニケーションは円滑となり、大小さまざまな権力が確立されていくのである。/同じことがサイバースペースにおいて生じるのだ。[中略]人々の分身である疑似身体群は、「聖なるヴァーチャル身体」を介してサイバースペースにおける行動の意義をみとめられ、その権威によって揺るぎないリアリティを保証されるようになる。また一方、「聖なるヴァーチャル身体」は、疑似身体の欲望・行動を制御することで、すみやかに利潤をあげるシステムの枢要な一部となるわけだ。>(同96頁)

●<〈サイバースペース〉はきわめて不思議な、神秘的空間である。深海にもぐったり、宙を飛んだり、魔物と出会ったりもできる。自分の統制できない未知の現象が生じる、ということだけでも、モール[アブラアム・モール『生きものの迷路』/訳書:法政大学出版局]のいう〈聖性〉の条件を満たしているかもしれない。だが、人々の求める聖性はもっと高次のところにある。自分の有限性の自覚や、死の不安につながる生存の苦悩から発して、「大いなる無限の存在」への渇望につながっていくはずだ。サイバースペースは「加入儀礼」の場となることによって、人々の新たな神殿となり、そこに「聖なるもの」を顕現させるのである。/二一世紀は宗教的情熱がふたたび高まる時代になるだろう。>(同150頁)

●<…ここで肝心なことを指摘しておく必要がある。それは聖性と社会的権力との関わりである。たしかに宗教的体験は個人的なものだが、それは同時に社会的な側面をもっている。すなわち、個々のうちに胚胎した〈聖性〉は、所属する組織や共同体によって容認され、制度的に権威づけられることによって、はじめて社会的な〈意味〉と「リアリティ」を獲得できるのだ。言い換えれば、人々の「個人的な聖性」の追及が、共同体でみとめられる「社会的な聖性」の確立につながっていくのである。[中略]もちろん、宗教的体験は他人には本来コミュニケート不可能なのだから、これは矛盾を含んでいる。にもかかわらず、この矛盾に敢えて目をつぶり、聖性を社会的な制度に組み込むことで、権力は強大な支配を人々の上におよぼすことができるのだ。[中略]この構図は太古から変わっていない。加入儀礼は個人の魂の救済という面だけでなく、昔から原始的な政治権力と密接にかかわっていた。ヴァーチャル・リアリティのもたらすような〈眩暈〉や興奮は、太古の土俗共同体では仮面をかぶった祭りでもたらされる。>(同152頁)

●<太古から狩猟採集生活をしてきたヒトの身体のなかには、もともと攻撃性や暴力性が巣くっている。われわれがそれを抑圧しているのは、近代国家制度のもとでの規範だけでなく、自分の肉体の物質的有限性のために他ならない。[中略]だがヴァーチャル・リアリティで多様な身体感覚を疑似体験することによって、この「自分の物質的有限性」という感覚は奇妙に希薄化していくのである。あたかも自分の「魂」は不壊のものであり、それが仮に今の肉体に宿っているような感じがしてくるのだ。…ヴァーチャル・リアリティで得られるさまざまな身体感覚は、現実の身体感覚から相当にズレている。[中略]…この多様なズレと、日常の身体感覚がもたらす一貫した意識的思考とのあいだの落差が、「肉体から自由な魂」という古来の観念へのノスタルジーを呼び起こすのだ。/もちろん、これは迷妄である。けれどもその迷妄に「リアリティ」を与えのが「偽王」の「聖なるヴァーチャル身体」なのである。[中略]要するに、もともとヒトのうちにあった権力欲や攻撃性が、コンピュータによって増幅されていくのが問題なのである。コンピュータは本質的に、ヒトの権力への希求、つまり環境世界を秩序化し、支配したいという欲望を外部化した装置である。それは抽象化・形式化・非身体化というヴェクトルばかりでなく、人々のミクロな権力欲を身体的にみたす、というヴェクトルを含んでいる。ヴァーチャル・リアリティはまさにそのための装置となりうるのだ。/二一世紀サイバースペースの実相を予見するとき、〈市民〉とよばれる人々のひそかな怨念[ルサンチマン]にもとづく権力欲を引き受ける奇怪な教団の姿がほの見えてくる。そして、その〈聖性〉を利用して安定した利潤をあげ、教団を経済的に支える〈資本〉の脂ぎった相貌もまた浮かんでくる。両者のグロテスクな共存関係こそ、われわれがもっとも警戒しなくてはならぬものではないか。>(同175-7頁)


【312】神学的、伝導的(素材と概要−7)

●松野孝一郎氏は、ジェスパー・ホフマイヤー著『生命記号論』(松野孝一郎・高原美規訳,青土社:1993/1999)の「訳者あとがき」(「記号の限界とそれへの開き直り」)で、著者ホフマイヤーはパースの記号論が単に形而上学や哲学だけでなく物質世界にも通用することを新たに発見したと述べている。

<物質世界、あるいは経験世界に目を向けたとき、特に不都合がない限り、われわれは原因と結果でものごとを説明しようとする。ことを荒だてなければならない事態は何もないかに見える。そうではあるが、パースは原因−結果をそれとして見定めたのは一体誰なのかを問い質すという、思いもよらぬ破天荒なことをし始めた。これは言われてみれば、まことにもっともな問いかけであることがよく判る。原因−結果をそれとして見定めるのがわれわれ人間だけであるとすると、われわれが居なければ、物質、経験世界は動かないことになる。しかし、われわれがこの地球上に現れて来たのは極く最近の数十万年のことでしかない。だがわれわれの祖先の人類が出現するに至るまでの気の遠くなる程の間でも、やはり同じように原因−結果の連鎖を介してものごとが進化して来たとするならば、この原因−結果をそれとして受けとめてきたのはわれわれではない。われわれ以外の誰かである。その誰、とは一体誰なのか?>(『生命記号論』244頁)

●原因−結果をそれとして見定めることが出来るものとは、経験世界の内部に住み観測を行うことが出来るもの、すなわち「内部観測者」である。

<経験世界を動かしてきたのは原因−結果の二項関係による連鎖ではなく、原因−結果−内部観測者という三項関係から成るネットワークである、とするのがホフマイヤーの言い分の核心にある。/ここで少し注釈が要る。ホフマイヤーは記号と記号過程を峻別する。記号は「誰かに何かを表すもの」であり、記号過程は「何かが誰かに何かを表すこと」である。そうでありながら、記号は記号過程から離れて自存し得ないことを強調する。記号は記号過程から分節されてくるものではなく、記号過程があって初めて可能となる。これを端的に示すのが経験世界の内に現れて来る観測と呼ばれる現象である。記号過程とは観測のことになる。しかもこの観測は経験世界の外にいる観測者を想定していない。観測者はあくまでも経験世界の内部にいる観測者、すなわち内部観測者であって、そこで行われる観測が内部観測である。記号は「誰かに何かを表すもの」と言ったが、この「誰」が内部観測者である。しかもこの内部観測者を含む三項関係を一口で言い表すのが内部観測である。内部観測を参照するならば、それは記号過程が決して記号とそれから成る過程に分離、分節されるのではないことへの駄目を押すことになる。/内部観測を経験世界の成り立ちの根底に据えると、それまでとは違った世界がわれわれの前に開けてくる。内部観測を行うものは経験世界の中に現れて来た質料、あるいは物質をおいて他にはないが、観測にとって基本的な事態とは対象を識別すること、あるいは区分けすることにある。経験世界での物質進化と共に識別され、区別される差異が新たに発生して来るのはそこでの内部観測のため、とする事態が浮上してくる。>(同244-5頁)

●<物質はそれに固有な内部観測をたずさえることにより、何もないと思われる所に、絶えず新たに識別、区分けされる差異を作り出していく。>──だが、このような記述はそもそも可能なのだろうか。というより、作用(提示)−被験−変換−提示(反作用)という物体間の相互作用のうちにあって絶えず変化、進化し、逐次更新されていく「内部表現」(内部観測に由来する表現)に着目した「内部記述」は、結局のところ主客分離に立脚し対象の不変/普遍性を確保する「外部記述」へと回収されるしかないのではないか。

<内部表現はもともと局所的であるため、経験世界の内にはそれこそ数え切れない内部表現が出現する。しかも全ての内部表現を互いに事前に整合させる仕組みは何もない。周りから互いに矛盾し、相克する内部表現を被験する物体はそれが何であるにしろ、被験した結果を変換して、つかの間の内部表現を作り上げる。そのつかの間の内部表現では、被験した内部表現間の矛盾を、一時的にではあるが、解消させ、変換させた結果として現しているはずである。しばしの間、現在進行形と現在完了形を一致させているのが内部表現である。そうでなければ、変換がまだ終了していないことになる。内部記述といえども記述である。記述である以上、それがつかの間であっても何らかの不変/普遍性を必要とする。何であれ、言い終わらぬ内に訂正を求められるならば、ものを言うことすら適わなくなる。この意味において内部記述は終わりのない変化、進化の中に居続けることになる。まさにその故に、内部記述は変化、進化を記述可能な対象と化す。/ホフマイヤーは内部記述に関わる三つの過程、被験、変換、提示の内、提示を担う内部表現のことをデジタル記号と呼び、それ以外の部分をアナログ記号と総称した。パースの記号論に接続させるため、敢えてこの様な呼び方を採用した。ここでの記述は外部記述ではなくあくまでも内部記述である。内部表現、デジタル記号の代表例は生物の遺伝子を構成するDNAである。>(248-9頁)

<対象が果たして外部記述可能な対象であるか否かを、外部記述によって判定することが出来ない。対象を外部記述によって記述してしまうと、好むと好まざるとに拘らず、対象は外部記述を受け入れてしまう。であるから、外部記述を批判し、内部記述を採用すべきだとするホフマイヤーの主張は妥当である。普遍一般を対象とする外部記述に較べて、具体個別を扱う内部記述は、変化、進化の記述に適している、なぜなら、変化、進化は少なくともその発生現場では具体個別の現象だからである。ここまでなら外部記述に比べて内部記述の優位を力説することができる。しかしこの後に、とてつもない難題が控えているのが直ぐに判る。本書の著者であるホフマイヤー、それにこの「あとがき」を書いている訳者のいずれも内部記述を主張、弁護しながら、やっていることは外部記述なのではないか、とする自問である。[中略]この事態に及んで、ホフマイヤーは「記号論的自由」なる用語を新たに持ち出して来た。難業苦業の末に編み出した、とのことである。これは外部記述にその意味内容が不定となる名辞を含めることも潔しとしよう、とする態度表明である。もちろん、デカルト以来の主客分離と明瞭な対象表現、認識を死守し、意味の規定されていない非規定名辞を参入させるのを厳禁することは出来る。しかし、この非規定名辞の外部表現への参入を厳禁する絶対者はどこにもいないのである。>(250-1頁)

<非規定外部記述[非規定名辞を含む外部記述]とは内部表現の別名でしかない。[中略]弁証法が変化、進化を担い得るならば、それが外部記述で参照されている限り、当然のことながら、内容を規定することが出来ない非規定名辞となっているはずである。この非規定名辞の非規定さ加減は外部記述だけからでは判らない。何でもあり、から何でもなしまで間口はそれこそ大きく開き過ぎてしまう。内部記述にとって肝腎なのは否定の否定を繰り返すことによって積極的な肯定を跡に残して行く運動は一体どれ程持続可能なのか、との具体的な問いかけである。少なくともこの地球上に出現した生命は現在に至るまでの約三八億年の間、一連の内部記述によって記述され続けて来た対象であった。ホフマイヤーが本書で明かしたのはこの内部記述の正体である。>(254-5頁)


【313】神学的、伝導的(素材と概要−8)

●松野孝一郎氏は雑誌『談』No.58(1998年春号)に掲載されたインタビュー「記憶と内部観測」で、識別行為としての内部観測は現在進行形で表現されるものであるにもかかわらず、それを言語によって記録する過程で現在完了形に変換せざるをえない事態が発生すると述べている。というのも、現在進行形(たとえば「Aは非Aに変化しつつある」という記述)にあっては同一律、矛盾律、排中律のいずれもが崩れてしまうのに対して、現在完了形あるいは非時間的な現在形にあっては古典論理学の三大原理が成立するからである。

 松野氏はまた、経験の存在論的な面を強調したいのであれば現在進行形が適しており、経験の完結性に留意するならば現在完了形が適しているはずなのに、日常の会話や論文においてこの両者を混在させた現在形をもっぱら使用することで、つまりいつの現在にでも成り立つような体裁をつけることによって、われわれは経験を超えてしまっている(たとえば、もともと経験科学にそぐわないものであるにもかかわらず、経験科学の予測可能性を云々するなど)と指摘している。

<記録というのは現在完了形で表現されたものだと先程言いました。だとすれば記憶[内部観測の対象]の方は、この文脈でいえば現在進行形ということになります。作用/反作用を直接体現する行為者としてあるのがいわば記憶です。受け身であると同時に作用主体でもあり、それゆえ記憶は単一の能動支配者のもとに置かれるようなものではありません。ここが記録と異なる点です。記憶は複数の話者による対話が同時に進行するような現在進行形として存在するのです。[中略]ある意味で言語をもつ人間に特権的なものが現在形だと言い直すこともできるでしょう。であるとすれば、現在形とは何かということを考える時に、実は記憶の問題は重要な位置を担っているといえるのです。現在進行形として存在しつつ、われわれが記憶を語る場合には当然現在形として語ることになります。記憶は現在完了形を現在形で言い表す記録とは著しい対比を示します。そうでありながら、なぜ今日、現在形が現在進行形と現在完了形の両者を混在させてしまっているのか、その根幹部分に記憶の意味が隠されているように思われます。経験世界を超えるような形で存在しようとする記憶は、何を意味しているのでしょうか。>(40-1頁)

●ジェスパー・ホフマイヤーは『生命記号論』の「序文」で、「記号圏」という概念を導入している。(ちなみに著者は、記号圏の始まりをビッグバン後七◯万年の頃と推定している。)

<記号圏とは、大気圏、水圏、生物圏と同様に地球上のある領域を指す。記号圏は他のどの圏内にも入り込み、その隅々まで広がっており、音、匂い、身振り、色、形、電界、熱放射、全ての波動、化学信号、接触その他のありとあらゆる種類のコミュニケーションを統合して出来上がった一大圏である。一言で言えば、生命に関わる記号全てのことである。>(『生命記号論』11頁)

●ホフマイヤーは、本書の全てを貫く最も基本的な問いは、自然の歴史がいかにして文明の歴史となったのかであると述べている。<もしくは他の言い方をすれば、自然はどうして誰かにとって何か意味を持つようになるのか、という問いである。実際、本著の核心にある問いは、この「誰か」とは誰であるのか、と言い表される。すなわち、元来心を持たないものであった「何か」から、どのようにして意志を持つ「誰か」が生じてきたのだろうか。>(同13頁)

●またホフマイヤーは、本書の主題にかかわるのは<もともと何の意味もないところからどのようにして意味のあるものが生じてくるのか……言い換えるならば、虚空から一体どのようにして、意味が生じてくるのか>(同18頁)であると述べ、<虚空は本書の中心となるテーマ、意味の発生とまさに対をなす概念である>(同21頁)と書いている。

●池田晶子氏は『魂を考える』(法蔵館:1999)に収められた「埴谷雄高と大森荘蔵」で、論理と論理の隙間を埋める「質」もしくは「気配」、つまり論理に先行する(「存在」の)「質」に、論理性と感受性を全面的に駆使して迫ろうとする埴谷雄高の「新しい精神のかたち」を、「思索的想像力」(埴谷自身の言葉)あるいは「神技的思考」の名で呼んでいる。しかし、そのような思考をもってしても絶対になし得ないことがある。それは、考えられるが認識できない「存在」をではなく、認識どころかそもそも考えることすらできない、そして神でさえ創造することのできない「無」を考えることである。

<埴谷雄高という作家が、小説の作者として非常に特異だと思うのは、自ら書きつつある作品について、「在るのか無いのかわからない」、と語っているところである。自分の作品が在るのか無いのかわからないと作者が語るとき、すると、その作品を創るのはいったい「誰」ということになるのか。[中略]在るか無いかわからないものを創るのだと作者が表明するとき、作者はつまり、「作者」ではない。それは、ある宇宙が在るか無いかは骰子の一擲だと、神が語るとしたら、そうであるのと同じ事態である。神でさえ、神である限りは、無を創造し得なかったからである。/埴谷雄高の認識論は、敢えて言うなら、無の側から認識する、正確には認識しようとする、存在のかたちだ。だからこそ『死霊』という一冊の書物は、可能な全存在を全的密度で凝縮し得たかのようにして、無の前面へと投げ出され得る。>(81-2頁)

●「実在」と「不在」と「非在=無」の関係、そして不在の可能性を含む「存在」の可能性と「無」の可能性をめぐって池田氏が図示する「『死霊』の位置」から。──在る⊂在り得る⊂在り得ない⊂無い得る(在り得る無)⊂無い得ない(在り得ない無)⊂無。また、大森荘蔵をめぐる「認識=存在」の図から。──知覚存在⊂思い存在⊂語り存在(イデア)。

<存在を語るということは、物語を語ることであると、存在論と認識論とが、奇しくも両者[埴谷雄高と大森荘蔵]で一致する。語り得ない存在を語るための物語、この人類の壮大なる努力すなわち徒労は、しかし、このような徒労に全人生を賭け得た人たちが居たというこのことにおいて贖われているのだと、私には感じられる。>(93頁)

●『魂を考える』からの断片蒐集。──<〈魂〉は、「考える」よりも「感じる」ものだ>、<「感じる」とは…「思考感覚」とでも言いましょうか>(52頁)。

<精神は魂を思考しようとして、思考できない。>(59頁)<肉体とは個別だが物体であり、精神とは物体ではないが非人称であるなら、その人を他の人ではなくその人たらしめている当のものは、他でもない、〈魂〉ということになる。>(59頁)<作家もしくは作品とは、とりも直さず、〈魂〉である。そうでしかあり得ないその人の必然である。小林[秀雄]は常にそれを見ている。>(61頁)<〈魂の体質〉という言葉が、ある時、私にやってきた。性格、気質というものを、生理学的体質の側から説明しようとする姿勢を拒否したとき、「その人」を言い当てる最も生なもの。あるいは、「人物」の初期条件。言い得て妙である。>(62頁)<私は氏[養老孟司]が「脳」と言うとき、常に半分は〈魂〉の意で、聞いている。>(67頁)<定義により、「前世」「来世」とは、現在を規定し、また現在が規定する事実である。ということは、「前世」「来世」とは現在という事実である。>(71頁)

<あれ[埴谷雄高]は、「難解」なのではない。たんに、別種の〈魂〉なのである。>(100頁)<正確に考えれば、我々がそれぞれ別種の〈魂〉である限り、じつは我々は皆、互いに別々の世界に生きていると言っていい。たまたま共通する部分が多い同士で、「この世界」すなわち「社会」を作っているだけであって、共通する部分が全くない〈魂〉がいても、少しもおかしくない。逆に、それぞれ別々の〈魂〉たちを全包括するような性質の〈魂〉がいるのだろうことも、予想に難くない。もっともこれは、かなり〈神〉の概念に近くなる。>(101頁)


【314】神学的、伝導的(素材と概要−9)

●熊野純彦氏は『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』(岩波書店:1999)の第I部第4章で、自他の非対称性・不可逆性をめぐるレヴィナスの主張(『全体性と無限』)の哲学的裏づけとして、次の三つの論点を提示している。第一、〈他者〉にたいする関係の一項がほかならぬ〈私〉であるということ。第二、他者にたいして語りかける〈私〉の〈ことば〉のありかた。第三、他者によって〈私〉に語りかけられる〈ことば〉のかたち、ひいては他者の〈顔〉のありよう。──以下、熊野氏の叙述の要点筆記。

 第一の論点。一般に、ふたつのもの(例:本のかたわらに置かれた万年筆)の関係は空間的な位置関係(隣接)である。それは二つの項(本と万年筆)にとっては「外的」な関係であり、それゆえ外部から認識され等分に確認されるものである。しかし、他者とのかかわりは、とりわけその関係の一方の項が「この、ほかならない私、つまり〈私〉」であるかぎり、これと同等なものではありえない。他者との関係にあるかぎり、〈私〉はその関係を超越し外部から関係の項を等分に比較することはできないからである。

 レヴィナスは、このような他者との関係そのものを「倫理」と呼び、この倫理の関係のなかで私は無限の〈責め〉を負うとした。<関係の絶対的な出発点がこの私であり、私が逃れようもなくほかならない私でしかない以上、〈呼応〉しないこと、応答(re'ponse)をこばむこと自体が、関係の内部での一箇の反応になってしまい、関係から逃れ出ようとすることそのものが関係への回答となってしまうからである。つまり「呼応可能性」(responsabilite')としての〈責め〉(responsabilite')からは逃れようがなく、〈責め〉は終わることもなく、完結することもない。>(74頁)

 第二の論点。一般に、ことばは語り手と聞き手のあいだの関係の対称性を前提しているかにみえる。だが、そうではないと熊野氏はいう。いっさいの言語行為は〈祈り〉なのではないか。命令とは未来としての他者への祈りであるほかなく、指示もまた参与の要請であり、やがては祈りとなるであろう。レヴィナスもまた述べている、「〈ことば〉は他者へとむけられ、他者を召還し他者に祈念する」「〈ことば〉の関係は、召還、呼格(le vocatif)をその本質とする」と。

 第三の論点。レヴィナスは「意味づけられた世界とは、〈他者〉が存在する世界」であり、「意味とは他者の顔のことである」と述べている。また、「〈私〉が問いただされること、おなじことだが、顔における〈他者〉の〈あらわれ〉を、われわれはことばと呼ぶ」とも。

<顔が、かくして、ことばの始原であり、それ自体ことばであることになる。──世界が破壊しつくされ、その裸形を、つまりその端的な無意味さをあらわにするときがありえよう。それはたぶん、レヴィナスが説く〈ある〉の体験と、なにほどかはかよいあうものである。その瞬間にあってもなおしかし、他者の顔だけは意味しつづける。顔は、それ自体としては意味を欠き、光を欠いた世界のかなたから到来して、世界に意味をもたらしつづける光源なのだ。世界はたんにある。このあること、存在のずれと余剰、そのいみでの〈かなた〉こそが顔であり、顔が意味することなのである。>(87頁)

●永井均氏は「火星に行った私は私か」(『春秋』1999.10)で、この地球にいる私と、遠隔輸送装置を使って火星で作り出された物理的にも心理的にもそっくりな私とのどちらが私であるかは、まったくの偶然による無根拠な選択に基づくものであると述べている。そして、<こんな空想的な場面ではなく、この現実において、特定の人物が私であるという事実が存在しているのは、いわば〈神〉によるこの種の原初の選択がすでになされていることを示している>のだが、しかしそのような「選択」において<いったい何がなされたのであろうか>と問うている。

 この問いをめぐって永井氏は、分裂した二人の人物のどちらが私であるか、あるいは<自分と同じ精神状態にある他者への関心と、端的に自分である者への関心の違い>は、人物を構成する素材や心理的事実の問題とは何の関係がないと述べ、さらに<私であるこの人物が、物理的同一性と心理的継続性を維持したまま、私でなくなってしまう、ということが考えられる>と述べている。──以下、この第二の点をめぐる永井氏の叙述。

<それがもう起こったのではないかと恐れることには何の意味もない。いや、それは起こらなかったのである。いま、私は存在しているからである。いま私が存在しており、過去のある人物との物理的同一性と心理的継続性があるならば、私はそれだけでじゅうぶん継続して存在していたことになる。つまり、過去向きには、物理的同一性と心理的継続性だけで、私を作り出すことができるのである。
 なぜだろうか。ひとつの理由は、記憶という概念の性格によるものであろう。記憶や想起には──予測や予期とことなり──実在を構成する機能がそなわっている。他の阻却要因がなければ、記憶していることはそうであったことであり、記憶されている内容におけるその主体は、いまを[ママ]それを思い出している記憶主体と同一であるのでなければならない。
 しかし、今晩これからそれが起こることを恐れることには意味がある、と私は感じる。私であるこの人物が現在の私と物理的に同一で心理的に継続しただけの他人になってしまう(だから永井均は存在するが私は存在しなくなる)という状況が矛盾なく成り立つように思われるのである。それが起こった後、起こったことを知る主体はもはや存在しないにもかかわらず、いや存在しないからこそ、である。だから、これこそが純化された死の恐怖というものではないだろうか。
 私が存在するとは、いま存在することである。私が数十年間、永井均として存在しつづけたという事実は、いまなぜか私が永井均であるという事実に基づいて、いま作り出されている。私の存在は単なる奇跡であるから、それはいつでも消滅しうる。だが、消滅しても、それは誰にも知られない。だから、ある意味で、それは決して消滅しない。またある意味で、消滅したときすべてが終わる。(独我論)。>


【315】神学的、伝導的(素材と概要−10)

●深谷賢治『これからの幾何学』(日本評論社:1998)から。──その一、デルタ関数をめぐって。深谷氏は、ブルバキの『数学原論』がもたらした「集合論的世界像」あるいは集合論的な方法論の問題点は、関数を写像の特別な場合として理解し「関数=機能」という見地を脱落させたその関数概念の中にもっとも先鋭的に現れると指摘し、そのことはディラックのデルタ関数を考えると明白になると述べている。[デルタ関数δは、x≠0のときδ(x)=0、x=0のときδ(x)=∞と定義される。]

<デルタ関数の例は,関数という概念が,写像という集合論的な概念よりも,より射程距離が長いかもしれない,ということを示唆する。実数の集合が先にあって,次に,そこからの写像がある,そして関数とはその特別な場合である,と考えれば,実数の集合を抜きにしては関数を考えることは不可能なはずである.しかし,デルタ関数は,「実数の集合」の彼方にあり,未だ姿を見せないなにかを感じさせる.カントル−デデキントを越えた,「21世紀の実数概念」が見いだされうるものならば,デルタ関数はその発見のための,架け橋であるはずなのである.>(33頁)

 その二、ホモロジー論をめぐって。深谷氏は、集合論的世界像を越えた数学の建設が試みられるときしばしば「ホモロジー」が現れると指摘し、場の理論におけるその経緯を次のように述べている。

<集合論的世界像の中核には,点という概念がある.この点という概念こそ,素粒子は点であるのか,という,素粒子論の基本的問題に通じる./場の概念の定式化を,現在の数学の枠組みの中で行えば,場は関数であるしかない.その場の理論の中に,点としての粒子を入れれば,それは,デルタ関数で表されるしかない.デルタ関数に関する現在の数学の理解は,線形偏微分方程式に対してのみ有効なものであり,デルタ関数の2乗は現在の数学では理解されていない.デルタ関数の2乗が存在しないことこそ,場の量子論の発散の困難の第一歩の現れである./[中略]
 20世紀後半に現れた,空間から点を捨て去るさまざまな試みが,場の理論の基本問題への挑戦と深くかかわるべきなのは当然である./ホモロジー(代数)のその中での位置を次のように考えることはできないだろうか.世界がどうなっているのか,そのからくりを理解するという(おそらく幾何学的な)問題意識からは一歩後退し,よりプラグマティックな目標を設定しよう.すなわち,実験・観測の結果を予言する,あるいはその結果を体系立てる理論を構成する,ことを目標とする./[中略]
 観測の諸結果の背後に幾何学を予見するならば,ある幾何学的な圏(たとえば位相空間の圏)があって,そこからなにか函手があり,得られるのがある秩序を持った数の体系すなわち観測結果から導かれた理論とみなされるべきであろうか.背後にある幾何学の発見を21世紀にゆずるならば,我々の現在の課題は,観測結果に体系を与えることのできる秩序の発見である.
 ここで,「ホモロジー」の出発点を思い起こそう.ホモロジー論とは位相空間を群で置き換えることであった.すなわち,代数的な数の体系で,幾何学的な対象を近似することである.この近似をより精密にすれば,何らかの発展した「ホモロジー論」が,幾何学的な情報をすべて含み,そして,そのようなホモロジー論によって,観測結果を体系づけることができるかもしれない.
 さらに,幾何学⇒ホモロジーという矢印の向きを逆さにして,21世紀のホモロジー論が21世紀の幾何学を生むことを期待できないであろうか.//これが,ホモロジーにかけた,一数学者の夢なのである.>(49-51頁)

●金子勝著『セーフティーネットの政治経済学』(ちくま新書:1999)から。──その一、三つの本源的生産要素をめぐって。金子氏は、資本主義市場経済(商品による商品の生産)というメカニズムが成り立つためには、あらゆる財が商品化されていかなければならず、とくに労働・土地・貨幣的資本といった本源的生産要素に所有権が設定されることが不可欠な条件となると指摘している。

<しかし、これらの本源的生産要素こそは、実は本来的に市場化になじまない性質をもっている。つまり、市場化になじまない性質を持つ財を市場化しなければ成り立たないとすれば、資本主義市場経済というのは、その成立と同時に市場化の限界を抱えているのである。>(93頁)

 その二、ルールをめぐる市場の争いをめぐって。金子氏は、金融・情報・通信・コンピュータ関連産業といった現代サービス産業において、OS(オペレーティング・システム)というルールを握った者が決定的な勝利を納めると指摘している。

<「範囲の経済」を追及するこれらの現代サービス産業では、OS(オペレーティング・システム)とネットワークの広さが決定的な役割を果たす…。たとえばマイクロソフト社のウィンドウズを思い浮かべてみよう。[中略]もし、そのOSがデファクト・スタンダード(事実上の国際標準)になると、顧客もそのOSを選択せざるをえなくなり、しかもその顧客がそのOSをいったん選択すると、そのネットワークから抜け出られなくなる。このようにして、こうした産業では一人勝ち(独占)ないし寡占が生じることになるのである。>(128-9頁)

●最古のサービス産業としての宗教における本源的「生産」要素とは何か。(たとえば、父と子と精霊? 剣と玉と鏡?)──古代地中海世界における宗教間競争において一人勝ちを納めた世界宗教のOS(オペレーティング・システム)とは何か。(人類の共同体性をめぐるヴァーチャルな思考様式?)


【316】神学的、伝導的(素材と概要−11)

●伊藤俊治+武邑光裕+藤幡正樹「フロンティア・オブ・コミュニケーション」(『Inter Communication』No.0,1992)から。

◎見えないものが見える瞬間─共同体と感覚
<伊藤――さっきの共同体や集合としての感覚や知覚ということで言うと,東京にいると全然見えなかったものでも,他の場所では見えてしまうことがありますよね.バリなんか行くと,その土地の人たちはしょっちゅうレアクという夜霊を見ると言うんですよね.僕らには絶対見えないわけ,そんなもの.でも,ある程度環境に自分を適応させていくと,フッとそういうものが見えてくる瞬間がある.もしかしたら幻視かもしれないけれど,ある共同体にいる人たちがみんな同じように見ているのに,僕にはその場にいてもある時期は全然見えなかったのが,見えてくるという瞬間があって,すごく面白いなと思うんですね.僕らが見るということは,向こうにあった情報が缶詰かなんかに入ってきて僕らに伝わって,それを受けとめるというような,そういうコミュニケーションの単純なメタファーで僕らは考えていると思うのですが,それとは全然違ったモデルが必要とされるのではないか.>

◎外部感覚と内部感覚─情報と身体の関係体系
<武邑――僕らがとりあえず外部感覚といっているものは,外化された社会の環境系と非常にパラレルに変容していく.つまり,外界と適応可能な状況へと,どんどん変容していってしまう.これを定常的に定位することは難しい.だから,内部的に合成され,エディットされるわけです.それはどういう範囲でエディットされるかというと,例えば,人間の感覚基盤は体表面だけではなくて,実は人間の内部にまで影響を与えている.触覚というひとつの単位を,足の裏とか,手のひらとか,そういう単位で考えるのではなくて,もっと複合的な地図として,内部的な感覚の合成地図のようなものを考える必要があるのではないか.それが本来的に情報と身体との大きな関係体系ではないかと思うんです.>

◎感動を与える情報・感情を変える情報─インターフェイスと聖域
<伊藤――感動を与える情報とか,感情を変える情報とか言うんですけど,それはある人間がどういう価値体系,意味体系に取り込まれて,その中で自分を動かしているのかということによって,大きく違ってくる.そうすると,前に言ったヒューマン・ソシアル・インターフェイスとかヒューマン・カルチュラル・インターフェイスという関係が大事になってくる.人間が,ある価値体系とか,文化とか,社会の中にどういう形で参入しているかを精密に測定して,それを情緒とか,情動とかいう視点を設定して,そこに変化をもたらしていく特別な情報はいったい何なのかということを考えてゆく.何をその人が一番崇高なものとしているかわからないけれども,愛なら愛という体系をくずしていくものは何なのかとか,意識のレヴェルを変化させていく大きな要素というのは,人間に常にあるわけですが,それを制御していくことができるものは何なのかというふうに考えてゆく.それはまさに聖域ですが,実際にそういうことは昔からみんなやってきて,意識のレヴェルが一定の人は狂気にいたるでしょう.振れがないと人間は生きられない.近代社会は意識のレヴェルの変化をすごく抑えて,そういう場をないものにしようと進んできた世界だと思う.でもそれが行き詰まった.それがないと人間はだめなんだとみんなが感じ始めている.ある人は宗教とか精神医学にいくかもしれないけれども,人間の意識をラディカルに変えていくシステムが,これからそういうパーセプションとかセンサーへのアプローチの中で生み出されてゆくような気がする.>

◎言葉とカオス─超越的な神と「中間領域」を司る神
<藤幡――この間フィリップ・ケオが来て,ずっと話をしたんですが,結局行き着いてしまった最後の場所が,旧約聖書だと「最初に言葉ありき」で,日本の古事記だとカオスで始まるでしょう,もう全然これは話にならないんです.言葉で会話している限り,これはもう全然かみ合わない.ケオの立場は根本的に,言葉にならないものはないという立場ですね.その超越的な存在としては神のような立場になってしまって.日本の神は,もっと中間領域というか,むしろカオスを司っているような存在でしょう.わからない,絶対言葉にならない領域を司っている.>

◎『声の文化と文字の文化』―平面上の言葉、内部を作り出す言葉
<伊藤――オングというのは,マクルーハンにもすごく影響を与えた人で,もともとは宗教学者なんですよ.それからメディア論に移った特異な人なんですが,声・文字・印刷・電子というのがようやく見えてきたのは,電子が浸透してはじめてであり,そのことによって差異が見えてきていると言うんです.言葉というのは口から話されるもので,音として響いて,それゆえ,ある力やパルスによって発せられる.文字文化に深く侵されている人間は,言葉はまず第一に声であり,出来事であり,力やパルスによって生み出されているということを忘れてしまっているわけです.われわれも含めて,こうした文字文化によって意識を構造化されてきた人間というのは,どうしても,言葉をある平面上に投げだされたもののように考えてしまう.オングはこうした言葉を「翼をもがれた言葉」というふうに呼んでいます.言葉が活動や行為ではなくて,死んでしまっているというわけです.さらに視覚に基づいた文字文化は「分離」するのに対して,声の文化は「合体」させるという.見ている者は,見ている対象の外側に,その対象からある距離をもって位置づけられているのに対し,音は聞く者のまわりをとりまき,聞く者は音のなかに浸りきってしまう.文字文化は切り離すのに,声の文化は統合し,中心化し,内部を作りだしてしまうわけです.我々はもはや想像できないわけですが,無文字文化における聴覚情報環境というのはすごいわけですよ.よくマジカル・パルスとか言いますけれど,まさに多義的な音の粒子がマッスになって押し寄せてくるような圧倒的な経験が彼らにはたくさんあったと思いますね.>

◎情報生態系─イルカの海(=即時性の原理によって動いている世界)
<伊藤――だから僕がイルカや鯨をモデルにしたいのはそういう点なんです.彼らはいつも周り,流体と同義なわけですよね.いつも音で状態把握をし,遠くで起こったことをいつも自分の身体でじかにパルスとして感知する.物質を対象として知覚するということがまったく意味をなさないわけ.かたちを認識するとか対象を感知するのは彼らにとって意味をなさないので,感覚そのものとかコミュニケーションがまったく別の次元にある.視覚や言葉ではなくて,強力なパルスでコミュニケーションを行ない,耳で見ることさえやってのける.それがいつも水中だから,海という全体系との直接的なつながりを失うことはなくて,世界を即時性の原理によって動いているものとしてとらえている.深遠広大な情報生態系を持っているということができるかもしれない.それは時空を形骸化してしまう.そのことが今の状況とすごく近いと思う.>


【317】神学的、伝導的(素材と概要−12)

●第一人称のメディア、第三人称のメディア。――港千尋氏との対談「ヴァーチュアル・リアリティ,そしてテレプレゼンスの行方」(『Inter Communication』No.25,1998)での廣瀬通孝氏の発言。

<自分がメディアの中に入るということは,周りから映像が襲ってくるわけで,第一人称の体験をすることができます.普通のテレビが第三人称のメディアだとするとVRは第一人称のメディアです.立体で見えるという点も,リアリティを生成する上で重要です.映像に奥行きがあって,ものが飛び出して見える.つまり目の前に三次元的な奥行きのある世界があると良いのです.また,精細度もポイントです.普通のテレビよりハイビジョンのほうがリアリティがあるように見えるでしょう.インタラクティヴな意味でのリアリティもあります.頭を左右に平行に振ってみると,近くのものは大きく動きますが,遠くの風景はあまり動きません.CABIN[Computer Augmented Booth for Image Navigation]ではこれも再現しているんです.そうすると,ただ単に立体視で奥行き感を感じるというだけでなく,いっそうリアリティが倍加されて感じられるようになるわけです.みなさんにCABINをお褒めいただいているのは,そのあたりをいまのコンピュータ技術でうまく実現しているからだと思います.ヘッド・マウンテッド・ディスプレイ(HMD)によるVRでも原理的には同じことができるんですが,HMDの場合にはすぐ気分が悪くなるんです.頭の動きに応じて映像のデータ処理がついてこれないからなんですね.>

●天国が見える部屋。──上記対談での港氏の発言。
<VRを歴史的にさかのぼっていくと,おそらく360度絵で覆ってしまう19世紀のパノラマに行き着くように思います.バロックの教会の天井画や,ドイツ南部やイタリア北部にある大聖堂の天井画も360度のパノラマです.信仰心があるかないかにかかわらず,それを見上げると天国が見えるのでしょう.そういう意味でも,一つの部屋の中に入るということは,すごく重要だと思います.イメージと身体感覚のシンクロの中に,現実が生成してくる一つのカギがあると思います.>

●粉川哲夫氏は『カフカと情報化社会』(未来社:1990)に収められた「ディジタル・ネットワークとしての『城』」(初出『現代思想』1987年12月)で、土地測量士Kが訪れた村の「電話システム」に注目し、<『城』は、ネットワーク化されたシステム(「UNIX」はその格好の名称だ)における支配と被支配の場そのもの>(347頁)であると述べている。

 粉川氏が引用している村長の言葉(五章)。──<城では明らかに電話は役にたっています。人の話では、城ではたえまなく電話が使われており、当然それは仕事を非常にはかどらせています。このたえまない電話が、この村の電話にはざわめきや歌声に聞こえるのですが、それはあなたがお聞きになったはずです。>(粉川氏は、この「歌声」を「ディジタル音」になぞらえている。)

●大阪市立大学インターネット講座(1998年)から。山口裕之氏の「メディア・情報・身体――メディア論の射程」[http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/~yamaguci/inet_lec/inhalt.htm/]第11回に出てくるカフカをめぐる断片。

<彼の作品において描き出されている世界の異様さ、世界がある歪みを帯びて現出するさまは、世界を捉えようとする素朴な言葉がもはや保たれえず、そこから離れて言葉自体がいわば異形のものとなっていることにも由来しているように思われます。カフカの作品としては一般的にはそれほど知られていないものかもしれませんが、カフカがどのような言語の危機意識にとらわれていたかが如実に示されている作品として、「祈る人との対話」と「酔っぱらいとの対話」(ともに1909年に初めて出版)から少し引用してみたいと思います。

 実際、なにを言っているのだ。あんたがどんな状態なのか、分かってきたぞ、いや、あんたを初めて見たときから、分かっていたのだ。ぼくには経験がある。だから冗談に言うのじゃない、それは陸の船酔いなのだ。あんたは物の真の名を忘れて、いま大急ぎで仮の名を物の上にばら撒いている、それがこの船酔いの実体なのだ。早く、早く! とあんたは苛立つ。しかし物から離れるやいなや、あんたはまたその名を忘れてしまう。野原のポプラをあんたは『バベルの塔』と名付けた、それがポプラだということをあんたは知らなかった、あるいは知ろうとしなかったからだ、あのポプラはまたしても名をもたずに揺れている、こんどは『酔っぱらったノア』とでも名づける気だろう。
(「祈る人との対話」『カフカ全集1』新潮社、p.9-10)

家の玄関から小股に歩いて外へ出ると、月と星星と巨大な穹窿をそなえた天が、そしてリング広場から市庁舎とマリア様の柱像と教会が、ぼくの上に襲いかかってきた。(...)
 「いったいどういうことなのだ、おまえたちが現実であるかのようなふりをしているというのは。おまえたちはぼくが非現実で、緑色の舗石の上に滑稽な姿で立っているのだと、ぼくに信じさせたいのか? だがな、おまえ、天よ、おまえが現実だったのはずっとむかしのことなのだ、そしてリング広場よ、おまえはかつて現実だったことはないのだ。」(...)
 「ありがたいことに、月よ、おまえはもう月ではない、だが、むかしから月と命名されているおまえを依然として月と呼ぶのは、たぶんぼくの怠慢なのだろう。ぼくがおまえを『ふしぎな色の、忘れられた堤燈』と名づければ、おまえが急に意気阻喪してしまうのはなぜだ。そして、『マリア様の柱像』と名づければ、ほとんど後退りするのはなぜだ、それからマリア様の柱像よ、ぼくがあんたを『黄色い光を放つ月』と名づければ、あんたの威嚇的な態度はもうぼくの目から消えてしまうのだ。」
(「酔っぱらいとの対話」『カフカ全集1』新潮社、p.13)

カフカはこれを書く時点ですでにホーフマンスタールの「手紙」を呼んでいたと言われていますが、ここでもまさに同じ状況が語れています。しかも、カフカにとっては、抽象的な言葉だけでなく、きわめて具体的な、世界の中のある特定の物を指し示す「名」でさえ、もはや自明のものではなく、自分の手のあいだから滑り落ちていくのです。>

●D/G『カフカ』(宇波彰・岩田行一訳,法政大学出版局)から。──<カフカの作品は一本の根茎であり、ひとつの巣穴である。「城」には《さまざまな入口》があり、それらの入口をどのように使うか、それらの入口がどのように配置されているかという法則はわからない。>(1頁)──<そして「城」においては、すべてのひとが城とかかわりを持たなければならない。>(109頁)


【318】神学的、伝導的(素材と概要−13)

●桂紹隆著『インドの論理学』(中公新書:1998)の第四章「帰謬法──ナーガールジュナの反論理学」に、古代インドの文法学者たちが二種類の否定概念をもっていたことが紹介されている。すなわち、排中律を前提とする「相対否定」(パリウダーサ)と排中律を前提としない「絶対否定」(プラサジュヤ・プラティシェーダ)。

 前者(たとえば「ここにバラモンでない人がいる」)ではAの否定が非Aの肯定を含意しているが、後者(たとえば「ここにはバラモンがいない」)ではAの否定が非Aの肯定を含意しない。──ここで「a=存在」「b=非存在」とすると、あるものの存在と非存在に関する次の四つの場合を示すことができる。(164頁)
  {a,−b}=存在し、非存在ではないもの。
  {−a,b}=存在ではなくて、非存在のもの。
  {a,b}=存在かつ非存在のもの。
  {−a,−b}=存在でも、非存在でもないもの。

●赤間啓之著『分裂する現実』(日本放送出版協会:1997)から、いくつかの断片の蒐集。──その一、「世界」と「現実」。赤間氏は、十八世紀末に art の対義語が nature から science に変わったことを「世紀末的展開(転回)」と呼んでいる。この転回を経て、それまで「Art(技芸)+Nature(自然)」で表現されていた「世界」(=人間の思考と活動が及ぶ範囲)は「Art(芸術)+Science(科学)」に変転した。

 すなわち「世界」は観念の直接的な産物をも含む人工物によって覆われることとなった。(あるいは、「世界」は言葉で覆いつくされた。)赤間氏は転回後の<「世界」の向こうに、ars ではなく、自然でもなく、さらに神ですらない、別の領域…を垣間見る>(16頁)のだが、この「別の領域」も含めて、「世界」を内包するさらに上位の領域を示すタームとして「現実」を提案している。

 その二、「言語」と「記号」。十九世紀初頭、シャンポリオンの解読によってロゼッタストーンの象形文字は「何者かある特異な個体のために何かを表すもの」であることをやめた、と赤間氏は書いている。古代人にとってのみ何かを表していたヒエログリフは、われわれにとっても理解可能、コミュニケート可能なものになった。そのとき、「記号としての言語」が言語そのものとなったのだ。

<言語が言語になるとは、「記号としての言語」の場に自分が他者として入っていって、そこで言語を解するひととなる、ということだ。つまり記号を支えていた「ある特異な個体」との間で理解関係を結べたということであり、それはそれまでは無知無学の学者パブロフが、実験によって「パブロフ」(カッコ付きのパブロフ、犬の記号を理解するパブロフ)に化したということを意味する。つまり言語が記号でなくなり、「言語になる」というのは、記号の担い手に成り代わる「主体」となったということなのである。>(85頁)

 その三、「言語学的恣意性」と「現実学的恣意性」。赤間氏は、「同じ言葉の中に、意味が二つ以上の幻想を含んでゐるから、戦争は起り易い」という横光利一の言葉を引用し、言葉は自分が作り出した意味の膨脹に抗しきれなくなったとき「戦争というカタストロフィ、生の現実の露呈」(=言葉のたがを失った現実の分裂)をもたらすのだと書いている。

<さて、ここに至ってふたつの恣意性の観念がようやく判然としてきた。いわゆる言語学的恣意性は、音声的側面に対象を限局し、言語的世界の自律性を強調するあまり、アナグラムに見られる言葉遊びのような、表層の戯れに陥ることがある。しかし一方で、言語における視覚的側面に着目すると、現実自体が言語として象徴化されているという、現実(学)的恣意性の観念が現れてくる。そこにはもはや遊戯はなく、戦争とその原因をめぐる深刻な、しかし答えのない問いかけが為されるのみだ。>(123頁)

 補遺。<現実的恣意性に則って、言葉は概念ばかりか物まで生み出すことができるのである。>(158頁)

 その四、「可能世界」と「平行宇宙」。<一言で言って、(実際はまったく同じ)違う者が、(実際は違うところなのに──並列して考えられた場[トポス]に想定されるのだから)同じところにいる。これが約定された可能世界の定義である。実際には違うところに見えて、ほんとうは同じ──これは一種の鏡像体験である。そして鏡像とは一種の可能世界なのである。可能世界が言語のなかという「同じところ」にあるのも、鏡が本質的に「言葉」だからだ。鏡は象徴的機能を有する。言葉の領域の全一性がそこにあるわけである。/さて、このような可能世界が平行宇宙と化すには、鏡をどうすればよいか。ふつうはロートレアモンにおけるように、鏡を叩き割ることしか考えられていない。しかし、ストア派のように、鏡を「燃える鏡」にしたらどうだろうか。言葉に火がつくと、その火によって分かたれて、鏡の手前と鏡の向こうに現実は分裂しはじめる。/同じ者が、違うところにいる、ストア派的な平行宇宙。違う者が、同じところにいる、クリプキ的な可能世界。このふたつは、じつは似て非なるものである。だがその紙一重の差に、じつは「現実の分裂」に対するわれわれの処方箋が隠されているのではないか。>(202-3頁)

●山城むつみ氏は『転形期と思考』(講談社:1999)に収められた「詩の「場所」をめぐって」で、吉本隆明氏が『蕪村詩のイデオロギイ』(1955)で述べた言葉──<日本のコトバが漢語からはなれて、仮名をつくり出していったとき、言葉は社会化され、風俗に同化し、日本的な社会秩序に照応する日本的な感性の秩序を反映しえたのであるが、それによって、日本のコトバは論理的な側面を中和され、うしなったのである。>──をめぐって、次のように指摘している。

<…吉本が「日本のコトバが漢語からはなれて、仮名をつくり出していったとき」「日本のコトバは論理的な側面を中和され、うしなった」と言うときのその「論理的な側面」とは、文字というものの外来性あるいは物質性ということにほかならない。/ただし、注意すべきことに、これは、古代中国から輸入された漢字が、それを日本的風土に同化していく過程で生まれた国風のかなよりも外来性があるということを意味しない。むしろ、アルファベットであろうが、漢字であろうか、またかなであろうが、文字とは本質的に外来のものだということを意味する。>(200頁)

●『サイアス』(1999.12)の特集1「脳と心の物理学」と特集2「金融工学・基礎の基礎」から。

 その一、ブラウン運動について。鈴木クニエ氏の「伊藤の公式ってなんだ?」によると、二十世紀において確率論が現代数学の一分野として確立されるに際して、その中心にあったものは(アインシュタインもそれをテーマとして論文を書いた)ブラウン運動である。「確率解析とはブラウン運動に基づく解析といっていい」(伊藤清氏の弟子、楠岡成雄・東京大学教授の言葉)。

 治部眞里氏の「意識とはニューロンの膜にひそむ「悪魔」」によると、細胞膜の分子組成はリン脂質と膜分子(タンパク質分子その他の分子)から成り、圧倒的に多いリン脂質が二重に並んだシャボン玉のような膜の海に大小の氷山のように膜分子が浮遊しているイメージで細胞膜を捉えることができる(流動モザイクモデル)。

<細胞膜の海を様々な膜分子が一見でたらめなブラウン運動(拡散)をしているのですが、単なるでたらめな熱運動だけをしているわけではなく、さまざまな機能を持つ膜分子が集合して機能構造を示すように動いています。これによってシナプスなどの機能が変わってくることが理解できます。つまり、膜分子が細胞膜の海の中で制御されたブラウン運動をしているために、シナプスに神経伝達物質が放出されたときの細胞膜の反応が一義的でなく多様なものとなるわけです。>(80頁)

 その二、超伝導と熱運動について。保江邦夫氏の「国家のありようが国民にくり込まれる」から。──以下の引用文中に出てくる「擬粒子」については、故梅沢博臣氏の次の言葉を参照。「でも、観測にかかる粒子というのは、すべてもとの粒子とは違って、いってみればみな(くり込まれた)擬粒子なのです。」(『科学朝日』1991.8)

<…秩序の度合いの高い凝集状態に無限個の量子があるマクロの物質では、構成要素の擬粒子に秩序の存在が強くくり込まれ、超伝導や超流動などの摩擦のない流れ現象が実現されることになる。[中略]秩序の度合の低い凝集状態に無限個の量子が存在するマクロの物質では、擬粒子に秩序の存在がくり込まれず、そのために混沌としたでたらめな運動、つまり熱運動が支配的となるのだ。>(78頁)


【319】神学的、伝導的(素材と概要−14)

●野本真也氏の「比喩としての旧約テキスト」(『基督教研究』第43巻第1号,1980.3)から、若干の抜き書き。

◎「私」から再び「私」に向かうコミュニケーションの回路
<ソヴィエトの文化記号論者Yu.M.Lotmann(ロトマン『文学と文化記号論』岩波書店 1979)によれば、詩的な言語やテキストを生み出すのは、日常の「私」から「他者」の方向ヘコード化(符号化)されたメッセージの伝達がおこなわれる回路(チャンネル)のほかに、もう一つ別の回路、第二のチャンネルがあって、「私」から再び「私」に向かうコミュニケーションの回路を形づくっていると考えると、文化の体系を説明しやすいのではないかと、興味ぶかい仮説を立てています。
 この第二チャンネルでは、最初に導入されたメッセージに第二のコードとして形式的構造が付加されるのです。I.R.Galperinはこれを「詩的コード」と呼んでいますが、これは、古典レトリックの諸形式であれ、「文学類型」であれ、感覚から受けるリズムや形の刺戟であれ、それ自体に意味内容がないか、直接的な意味伝達の働きとして受けとめることができないような純形式的な組織であれば何でも、その機能をはたすのです。この第二コードによって文体は韻文的になり、メッセージも変化して、最初の意味がわかりにくくなりますが、それは第二コードとの緊張から意味の増加や付加が生じるからです。しかし、さらに第二コードの働きが非常に強い場合には、詩的な度合いがたかまり、テキストはさまざまな連想を呼びおこし、独自の意味や現実性を表現するものとなります。Lotmannは、この自己伝達回路の働きが、その人の人格の構造変化をひきおこす過程であり、文化というものの構造体系と相関関係にあるとみているのですが、そうであるとすれば、われわれが従来、経験とか回心とか呼んできたような各種の自己理解や世界認識の働きや、それを芸術や文化の次元の表現に変換する過程も、脳のこの回路に関係しているはずです。現実のレベルの第一次情報が第二の回路に入って、第二のコードが付加され、経験として意識化・記憶化され、それが「想像的なもの」の表現へと変換されて、ふたたび第一の回路を経て、他者へ向けて送り出される---これが詩的なテキスト、すなわち宗教や芸術など、あらゆる文化的なテキストの生産過程であり、さらにこのようなテキストが、受け手の現実との間に比倫的連想をひきおこし、緊張を生じさせる仕方で働くことになるのです。>

◎テキストの虚構性
<このように、広い意味での詩的テキストはすべて生産の過程で第二の回路を通るので、報道的・散文的な言葉のコミュニケーションの場合とは異なった性格をもっています。S.J.Schmidtも、詩的テキストのもつ状況抽象性、多義性、多機能性を指摘していますが、なによりも大切なのは、テキストが状況コンテキストの何かを直接指示するような関係から切り離され、形式の付加によって、経験が典型的な表現をとってモデル化され、いわゆる虚構性が生じることです。この虚構性のゆえに、テキストは独自の「テキスト世界」(P.Ricoeur)という現実性のコンテキストを創り出し、それを隠喩を媒介として伝達することができるのです。そして、このテキスト世界が読み手の現実とのあいだに緊張を生じさせ、読み手に比喩的連想をひきおこし、現実のコンテキストを組みかえたり、テキスト世界の現実化へと向かわせることになるのです。
 もし、テキストの虚構性が見失われると、テキスト世界が現実のコンテキストとみなされてしまいますから、現実と虚構との転倒が起こり、現実への回路が閉ざされ、孤立した観念に閉じ込もることになり、テキストの隠喩機能も作動しなくなります。>

◎神の現実性を表現する記号としての物語
<物語形式をとると、神が物語のなかに登場しますから、何か観念的な偶像のような神を直接指すことをやめて物語全体が神の現実性を表現する「記号」になります。つまり現実のなかに働いてはいるが、通常は見失われているような神の現実性そのものを比喩的なモデルを使って認識させ、伝達しようとするのが物語なのです。>

◎知者=伝承者
<ところで、旧約の世界で、数多くの物語や詩のテキストを形成したり編集したりして、比喩的機能をもたせたのはどういう人びとだったのでしょうか。それは「知者」たちでした。しかし知者というと知恵文学の領域に限定して、せまい意味で理解されることが多いのですが、わたしはここでは知者を世界や自然や歴史や神や人間などに関する認識や洞察や経験を伝承する担い手という広い意味でとらえたいと思います。>

◎知者の比喩感覚
<知者たちの認識や認識作用を「知恵」(ホクマ)と呼びますが、それは古く広く古代オリエントの精神世界を背景としたものです。自然、歴史、世界、人生などに関する根本的な洞察、現実の深層の認識ですから、ロゴスとパトスの総合的な認識です。ドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリスが「見えるものは見えないものにさわっている。聞こえるものは聞こえないものにさわっている。それならば、考えられるものは考えられないものにさわっているはずだ」という言葉をのこしていますが、知者はまさに感覚的現実に接して働いている超感覚の現実性を感じとり表現し得る比喩的感性に目ざめていた人びとで、「詩人」だったのだと思います。たとえば、旧約には「見よ〜」という言葉がよく出てきますが、多くの場合字義通りのレベルで「見よ」と言っているのではありません。眼で見ても見えないものを見る、つまり現実の裂け目に感動をもって悟った新しい現実性との出会いを、比喩感覚に訴えてうながす言葉なのだと思います。>

◎歴史的に経験された現実性の「現在化」
<具体的な歴史の経験を物語にする場合には、状況コンテキストを典型化して、文脈コンテキストとしたり、人物や出来事をモデル化して、たとえとしての比喩的機能をもたせていくことはすでに見ましたが、R.Smendはイスラエルの歴史思考や歴史記述の仕方には二つのタイプがみられると指摘したことがありました。一つはパラディグマ(範例物語)で、もう一つはエチオロギー(原因物語)だというのです。この指摘もまた、伝説や歴史物語などがマーシャール[たとえ、物語]性をもち、隠喩的に機能するパラディグマや、換喩的に機能するエチオロギーといったタイプを用いて、歴史的に経験された現実性を「現在化」(Aktualisierung)しようとしていることを裏づけるのではないでしょうか。もちろん、二つのタイプを明確に分離することは実際の場合はむずかしいですが、たとえば、創造物語のうち、創世記1章の祭司資料の部分はパラディグマ的(隠喩的)であり、2〜3章のヤハウィストの部分は因果論的(換喩的)な性格が強いと見ることもできます。絵画と音楽のちがいのようなものです。>

◎ルーアッハ─神と人間とのコミュニケーションの記号
<「ルーアッハ」は辞書をひくと、「息、空虚な気配、風、方角、神風、人間の霊、精神、神の霊、聖霊」といった意味がならんでいます。われわれはこの分類のなかから、ためらいながらも、どれか一つの意味を一個所にあてはめて、いわば1対1の変換をして理解しようとします。しかしこれらの意味を一語で総合的に担っているのですから、そのような精神構造のコンテキストを再構成してみる必要があります。そのコンテキストに依存していたときの隠喩的意味が辞書の分類として定着しているからです。
 たとえば、こんな場面を想像してみてはどうでしょうか。暑い日の午後、一人の女性占い師が大きなカシの木の下で瞑想しています。そこには静かな気だるい気配が漂っています。そこへ一人、悩める若者がやってきて、なにごとか訴えはじめます。しばらくすると沈黙の時がやってきて、かすかにその若者の吐く息がきこえるだけです。そこへ涼しい風がひと吹きサーッと吹いてきて、木の葉が急にざわめきます。その瞬間、占い師はこの空虚な状況に、眼にみえない何かが息づき、働きかけているのを感じるのです。と同時に、彼女には相手の訴える悩みの現実のただなかに、彼の気づいていない現実性が見え隠れするのを発見するのです。
 全く勝手な想像ですが、まさにこれを比喩として、ルーアッハとはこのような状況での風、息、空虚さ、霊感などを、一つなる現実性のさまざまなアスペクトとして総合的にとらえて表現したものであることを理解していただければと思います。ここから、旧約聖書では神が現われることとルーアッハ(風)が吹くこととが結びついているか、同じこととみなされていることがわかります(例外は列王紀上119,11)。ルーアッハは、神と人間とのコミュニケーションの記号なのです。風が吹くことで神のいのちの働きかけを感じることができたのは、記号によって現実を多面的に見ることができ、逆にまた現実の多様性を記号化したからではないでしょうか。旧約の人びとは、だからこそ、現実に隠された形で神の現実性が共存、共働していることを感じとり、そのことを現実の何かを記号として隠喩的に表現できたのだと思います。単語の多義性は、そのようなコンテキストのなかで果たした隠喩機能の記録なのですから、それらのさまざまな意味を想像力で活性化させて理解するように、辞書を用いるとよいと思います。>

◎構造化されたコンテキスト
<すでに見たように、個々のテキスト---とくに物語テキスト---は、構造化によって状況コンテキストが文脈コンテキストになっています。そこで、テキストのさまざまな構成要素がテキスト内部で隠喩機能を生じ、独自の「テキスト世界」を現出させます。
 旧約聖書は多くのテキストを複合化したものですから、テキストの表層はバラバラであっても、「テキスト世界」が重なり合って比較的明瞭に姿をあらわします。しかも「テキスト世界」の共通理解をうながす「教会」の共同性が、テキスト世界に呼応した状況コンテキストをふたたび創り出して、隠喩機能の枠となっているのです。>


【320】神学的、伝導的(素材と概要−15)

●富岡幸一郎著『使徒的人間』(講談社:1999)から。──カール・バルトは『ローマ書』で「使徒」を次のように定義している。《使徒というものはプラスの人間ではなく、マイナスの人間であり、そのような空洞を露呈する人間である。この空洞でもって彼はほかの人々を益する。》

<イエスについての知らせ、イエスの言動と奇跡、その十字架と死からのよみがえり、教会の存在と秩序についてのイエスの中で啓示された神の意志についての知識を、それら全てを最初に受け止めた人間の手から、忠実に、変えたり、減少させたりすることなく、次の人間の手へと、後代の者たちの手へと、順を追って伝えてゆくこと──自分のオリジナルな思想や自分の感情を語るのではなく、イエス・キリストにあって生起した出来事の本質だけを、後の者たちに宣べ伝えること──この使徒の奉仕の特徴を示す言葉として、新約聖書は「引き渡し」という用語を使う。使徒とは、まさにこの「引き渡し」を行なうために「空洞を露呈する人間」として、そこに立つ。この一点の活動において、歴史に関わる。>(214頁)

 富岡氏によると、バルトは『教会教義学』の「神論」で、これまで「裏切る」と訳されてきたギリシャ語はもともと「引き渡す」という程の意味であることを指摘し、《……ユダは、イエスをまさに、「ただ」引き渡しただけである》と書いている。

<キェルケゴール[『現代の批判』]が「天才」と「使徒」の質的な相違について、天才は自分自身によって、自分の内にあるものによってその存在があるが、使徒は神からの権能によって存在するといった言葉を改めて想起してもいいだろう。(略)カール・バルトが呈示するのは、ルネッサンス、啓蒙主義以来ながらく続いた、そのような思想家[「新しい何か、特別な何か」という独創性をもった新たな思想を語る「天才」]の時代の終焉である。そして、そこに登場するのは、「自分の内にあるもの」を語る、「新しい何か」を語ろうとする「天才」ではなく、自らは空洞であり、そのことによって手渡された真理の言葉を「引き渡し」ていく、イスカリオテのユダを嚆矢とする「使徒」的な人間の姿であり活動である。>(218-9頁)

 富岡氏は「使徒」的な人間をめぐって、<預言者や使徒たちに始まる、この人間像こそ、むしろ、これからの時代の新しい人間像となり得るのではないか、と思われる>(330頁)と書いている。

●今村仁司著『ベンヤミンの〈問い〉』(講談社:1995)から。──ゲーテの「原現象」もベンヤミンの「根源史」も知性による概念的構築物なのであって、原型的実体(例:植物のすべてがそこから流出的に出現する植物の胚芽)ではないと今村氏は述べている。実体主義が原因と結果の関係から現象界を理解するのに対して、ゲーテとベンヤミンは現象界を表現関係から理解する。──ここでいう「表現関係」とは、「原文」と「翻訳」の関係である(229頁)。

<ベンヤミンの「翻訳者の使命」は根源史の表現を読み取る方法である。種々のモナド文の「表情」の解読方法といってもよい。この論文でベンヤミンは原テクストを「純粋言語」と呼んでいる。普通の言語は複数の国語であり、伝達のための、伝達可能な言語である。純粋言語は伝達不可能な言語つまり「神の言葉」である。  この特徴づけはそのまま根源史にもあてはまる。根源史としての原文は純粋言語で書かれていて、伝達できない。伝達できない純粋言語/根源史を伝達可能にするのが翻訳である。翻訳的変換は、伝達できないものを伝達できる(表現される)ようにするチャネルである。>(260頁)

●表現の関係=翻訳の関係。<無数の翻訳と異文を通して、「事後的に」原テクストは表現される。>(259頁)──ベンヤミンのいう根源とはじつは結果である。<バックワード効果をもつ表現論こそが、根源とその翻訳/表現を捉えるのである。>(同)──根源をめぐるベンヤミンの「遡及的思考」。

<ここでいう遡及とは、たんに過去や細部に下りていくことではない。そうではなくて、すでにある無数の現象を出発点にして、それらの現象を細部に分解しつつ、諸現象の相互変換を辿りつつ、それら全体がひとつの表出として存在するようにせしめる根源へと遡及することである。部分も部分の集合も、それぞれ何らかの形での根源史のモナド的表現である。それを認識の中で言語的/概念的に定着させるには、分解的遡及が不可欠である。>(今村前掲書239頁)

●富岡氏は、神学の思索とは後から(Nach)考えること(denken)であり、使徒的人間の思考は「追思考」のかたちをとると述べている(富岡前掲書156頁)。

<ところで、二十世紀において、この神学的な追思考の概念を、哲学のなかへと導入しようとした哲学者がいた。マルティン・ハイデガーである。[中略]しかし、ハイデガーの追思考[ナッハ・デンケン]が追いかけるものは何か。いうまでもなく、それは彼の語る「存在」そのものである。[中略]だが、この「存在」をめぐる思考は、神学における追思考とは似て非なるものではないか。[中略]なぜなら、神学が対象とし、その思考が「追考する」ものは、決して隠され沈黙している「存在」ではない。それは、イエス・キリストにおいて地上の出来事として啓示された(啓示の語源は、隠されてあるものの覆いを取るという意味である)、人間にたいする神の具体的な語りかけであるからだ。>(158-9頁)

●バルトの「原歴史」(Urgeschichte)について。
<聖書は…空虚な「神性」については何も知らない。聖書が語るのはナザレのイエスとして受肉した神であり、イエス・キリスト自身であるからだ。自ら被造物となった神、人間に身を向けている神である。この神と人間の間で生じた出来事、この神とイスラエルの民との間で起こった歴史──この特別なものの故に、この「原歴史」の故に、あの一般的なるもの、すなわち世界と人間とがある。この特別なもののなかで、一般的なものは、その意味をもつ。聖書はこの特別なものへとわれわれの視線を集中させる。決して一般的に「神」について語ったり、「人類」一般について語ったりはしない。特殊から一般へ、これが聖書的思考の本質である。
 これにたいして古典的な予定論は、一般概念から出発することで「神」と「人間」とを考察しようとした。それは聖書本来の、使徒たちの思惟の運動とは反対のものであり、そこに誤謬が生じた。>(富岡前掲書188-9頁)

●<『和解論』の冒頭で、バルトは「神われらと共に」ということが、何らかの状態を示すのではなく、ひとつの出来事であることを強調する。それは理論や概念ではなく、神の行為を表わす言葉であり、したがってそれはひとつの報道(Botschaft)である。使徒的人間はこの報道を行なうところの大使(Botschaftr)でもある。>(富岡前掲書305頁)

●使徒としての物語作者。
<情報は、それがまだ新しい瞬間に、その報酬を受け取ってしまっている。情報はこの瞬間にのみ生きているのであり、みずからのすべてを完全にこの瞬間に引き渡し、時を失うことなくこの瞬間にみずからを説明し尽くさなければならない。物語のほうはこれとはまったく異なる。物語は、みずからを出し尽くしてしまうということがない。物語は自分の力を集めて蓄えており、長い時間を経た後にもなお展開していく能力があるのだ。[中略]ヘロドトスは何も説明しない。彼の報告はきわめてそっけない。だからこそ古代エジプトのこの話[『歴史』第三巻第十四章に出てくるエジプト王プサンメニトスの話]は、何千年を経た後にもなお、驚きと思索を呼び起こすことができるのだ。それは、何千年ものあいだピラミッドのなかの小部屋に密封されていて、今日に至るまでその発芽力を保持していた穀物の種に似ている。>(三宅晶子訳「物語作者」,ちくま学芸文庫『ベンヤミン・コレクション2』所収,297-8頁)

●バルトの「非史実的な記述=歴史物語(Sage)」について。
<有史以前の歴史の領域で起こっていることを記録するのは、ただ創造者たる神の霊感を受けた人間である。この聖書の著者たちは、決して天使あるいは神々として語っているのではなく、人間として、人間的な被制約性のなかで語る。天から落ちてきた真理そのものの発言ではなく、むしろ、真理の啓示についての人間的な証言である。したがって、それは語る個人の表現能力、想像力による物語の形式をとる。歴史物語は史実に先立つ場面にこそ、人間存在の最も根源的な出来事があることを指し示す。重要なのは、しかし、それが決して「神話」ではないし、神話的にも語られてはいないということである。>(富岡前掲書261-2頁)

<「初めに、神は天地を創造された」にはじまる、創世記の歴史物語が証しする「人間存在の最初の場面」と、ヨハネ黙示録が啓示する「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た」という「最後の場面」──近代の史観はこのふたつの場所を見ようとはしないし、見ることができない。しかし、イスラエルの想像力はこのふたつの場面を、すなわち神と人との間に生起する救済史の歴史[ゲシヒテ]を、その出来事の秘義を見る。[中略]歴史家が世界史の「はじまり(アルケー)」を神話のうちにさぐり当てようとするとき、使徒的人間は、「はじまり」を、聖書の天地創造の業のうちに見る。来るべき世紀が、問いかけ、求めるのは、この歴史にたいする古く、そして新しい想像力であり、創造の時にむけての使徒的人間のアルケオロジーである。>(269-70頁)