夏休みのハード・プロブレム



【291】夏休みのハード・プロブレム(1)

   炎天下 森羅万象 翳一つ (帰一)

 真夏の正午、遮るものとてない太陽光を一身に浴びながら、苦行僧の面容でアスファルトの坂道をうつむき加減に歩いているうち、錆ついて絡まった針金に視線が釘づけになり、それが陸に上がって金属に進化したヒトデかなにかのように思えてきて、折しも、脳髄の中から滲み出てきたもののようにぎんぎんと鳴きわたる蝉の声に、ふと、離魂、脱魂、遊魂、といった語彙を思い浮かべ、あ、また、夏休みが廻ってきたのだと、その時、実感しました。

   蝉声止んで 意志なきものの 気配する (帰一)

 夏休み。懐かしい言葉です。──最近、雑誌『アエラ』(1999.7.12)で中条省平氏が、村上春樹が描く「僕」の世界は「夏休みの出来事」なのであって、多くの読者が「僕」に惹かれるのはそこに「夏休み的なものへの郷愁」があるからだ、と述べているのを読んで、なるほど、そういえば『風の歌を聴け』は「僕」が夏休み(お盆)に「鼠」の霊と再会する幽霊譚だったな、と得心させられました。

 それにしても、夏休み的なものへの郷愁、とはインスピレーションに充ちた素敵な言葉です。(子供の身体と大人のそれの違いといった、ふだんは忘れている生物学的事実に気づかせる力をもっている。)──たとえば、春は自我論、秋は時間論、冬は他者論、などと書いたところで、どこか空々しい思いが残るのに比べて、夏は心身論、と書いてみると、なぜか身体感覚の奥深いところで共感し実感できるものがあります。

   人界へ さまよい出たる 蛍かな (帰一)

 いま、ためしに幼年期、少年期の過ぎ去った夏の日々の記憶をあらためて検分してみると、蝉の抜け殻や骸、旺盛で猥雑な虫たちの生と死の営みの臭いがたちこめていた草ッ原、溺死人のあがった河原を舞う蛍の光跡のからまり、等々、確かにそれと自覚していたわけではないにせよ、性的なものや消滅(死)へと向かうくっきりとした感覚で充ちていたことが想起されます。(子供の身体をもっていたかつての自分自身とそれをとりまく世界が、あたかも体外離脱者の見る風景のように、眼前に出現してくる……とでもいえようか。)

 そして、大人の身体を獲得したいまもなお、暑気にあたって常日頃の確固とした実在感を失った身体と脳髄のゆらめきに乗じて、心や精神や魂や霊といった事柄について漠然と、しかし自在に思いをめぐらせることが、つねに変わらぬ「夏休みの出来事」だったのだと、ひりひりと甦ってくる感覚の余韻(郷愁)とともに思い当たりました。

 ──そういうわけでこれからしばらく、夏休みの自由課題よろしく、まえまえから気になっていた問題をめぐって、気持ちの赴くままに書物の拾い読みや抜き書き、思いつきの素描を(要するに、提出先も期限もないレポート作成に向けた下準備の作業を)試みることにします。テーマは、心と脳をめぐるハード・プロブレムについて。

 先月出版された『季刊インターコミュニケーション 』(No.29)に茂木健一郎氏が「脳と心,意識」と題した短い文章を書いていて、そこで「心脳問題の現代的展開を理解するうえで必要不可欠だと考えられる計算主義,物理主義,そして心理学に関する本」を三冊紹介していました。

 そのうちの一冊(下倏信輔『〈意識〉とは何だろうか』)はすでに読んでいたし、他の一冊(ロジャー・ペンローズ『心は量子で語れるか』)はちょうどいま読んでいるところだし、残る一冊(ジョン・L・キャスティ『ケンブリッジ・クインテット』)は書店のブック・カバーを装着したまま本箱で順番待ちの状態。周辺にはここ数年、放置されたままになっている関連本が数冊。そして『脳とクオリア』をはじめとする茂木氏自身の著書が三冊。これらを素材として、それでは、久しぶりの夏休みの宿題にとりかかることにしよう。


【292】夏休みのハード・プロブレム(2)

★ 茂木健一郎著『脳とクオリア』(日経サイエンス社:1997)

 茂木氏のホームページ[http://www.qualia-manifesto.com/kenmogi/index.html]に「私の本」のコーナーがあって、そこに『脳とクオリア』の自己紹介文が掲載されています。(ちなみに、このHPには著者自身による『脳とクオリア』の「要約」まで載っている。)

<心脳問題の中核としてのクオリアについて本格的に論じた本です。「認識におけるマッハの原理」、「相互作用同時性」という二つの概念を提出しています。養老孟司さん、米沢富美子さんなどが好意的な書評を書いて下さいました。私が3ー4年間思い悩んで来たことを吐き出した、「青春の書」です。>

 ここに出てくる「青春の書」とは、若書きであることの謙遜の辞というよりも、以後の展開のすべてを(少なくとも「原理的」に)胚胎させた「可能性の書」の意に解するべきだと、私は思います。──最近、計見一雄氏が『脳と人間』(三五館:1999)で、『脳とクオリア』は「脳─こころ(Brain-Mind)問題の今後の戦略図のようなものである」と賞賛しているのを読んで、いたく共感を覚えたものです。

 私がこの本を読んだのは、ちょうどヘーゲルの『大論理学』に集中的に取り組んでいた最中のことで、その時、印象に残った事柄をめぐって書き残しておいた文章を二つ、以下に「引用」しておきます。(次回取り上げる茂木氏の新作『心が脳を感じるとき』が達成した水準に接したいまの時点からふりかえってみると、『脳とクオリア』が孕んでいた「可能性」の、少なくともその一端には触れているように思ったので。)

◇茂木健一郎氏の『脳とクオリア』を読んでいる。前半部分を読み終えたばかりで、まだ全体を見通せてはいないが、ヘーゲル論理学の叙述がもつ特質──論理的「必然性」に導かれたロゴスの弁証法的自己展開プロセスの「内的」叙述──の「解明」に役立つのではないかと思える記述があったので、その概略を記しておく。

 第4章で論じられている「相互作用同時性の原理」を一言でいえば、心(認識)という一つのシステムをつくりあげている要素は「ある心理的瞬間において、相互作用連結なニューロンの発火のクラスター」なのだが、「ある二つのニューロンの発火が相互作用連結な時、相互作用の伝播の間、固有時は経過しない」というものだ。ここで「固有時は経過しない」とは、システムの要素であるAとBが相互作用を通して結びついているとき、AからBへ、あるいはBからAへと作用が及ぶ際に必要な物理的時間(座標時)はゼロであるという意味だ。

 なぜそのような原理を導入するのかといえば、それはシステムの時空構造が「因果性の要請」を充足するようにするためである。茂木氏の詳細な説明を簡略化して例をあげるならば、因果関係「≪A⇒B≫⇒C」において≪A⇒B≫とCとの間の因果性を確定するためには、相互作用≪A⇒B≫に必要な時間はゼロと見なさなければならない。

 なぜそのような仮構をするのか。ニューラル・ネットワークを因果的に記述するためには、物理的時間で十分ではないか。この問いに対して、茂木氏は二つの回答を用意している。(私はそこに、ヘーゲル論理学の叙述の特質を「解明」するヒントが潜んでいると直感したわけだ。)

 その一。もし物理的時間を使って上記の関係を確定しようとしても、ニューロンAの発火がニューロンBへ伝播した時点で世界(脳内時空)に存在しているのはBの発火という現象だけで、過去の事象(Aの発火)は世界の中に保存されていない。したがって、物理的時間による記述では、因果性の一方の項である≪A⇒B≫という相互作用連結なシステム要素が確定できない。コンピュータによるシュミレーションの場合であれば外部メモリーに「記憶」を蓄えておくことができるが、「世界には、外部記憶装置はない」のである。

 その二。確かに、脳内のニューロンの様子を脳の外から、時々刻々と分子レベルで詳細に観察することができるならば、ニューラル・ネットワークの固有時などを構成する必要はない。しかし、「私は、私の脳を外部からは観察できない」のである。というのも、「認識は私の一部である」からであって、いいかえれば「私たちの認識の特性は、脳の中のニューロンの発火の特性によって、そしてそれによってのみ説明されなければならない」からである。(このことを茂木氏は「認識のニューロン原理」と名づけ、心と脳の問題を考える際の第一原理として扱っている。)

◇再び『脳とクオリア』から。──茂木氏は、心(意識)と脳の関係を考える際の最大の鍵はクオリア(質感)の問題であるとして、その解明の前提となる基礎的な仮説として次の二原理を掲げている。

《認識のニューロン原理=私たちの認識は、脳の中のニューロンの発火によって直接生じる。認識に関する限り、発火していないニューロンは、存在していないのと同じである。私たちの認識の特性は、脳のニューロンの発火の特性によって、そしてそれによってのみ説明されなければならない。》(神経生理学者ホラス・バーローが1972年に提唱した仮説)

《認識におけるマッハの原理=認識において、あるニューロンの発火が果たす役割は、そのニューロンと同じ瞬間に発火している他のすべてのニューロンとの関係によって、またそれによってのみ決定される。ニューロンは、他のニューロンとの関係においてのみある役割を持つのであって、単独で存在するニューロンには意味がない。》(「あるシステム内の要素の属性[例:物体の質量]は他の要素との間の関係によって決定される」というマッハの原理を踏まえて茂木氏が提唱した仮説)

 したがって、クオリアは、相互作用によって連結されたニューロンの発火のパターンによって対応づけられることになるのだが、ここで成り立つ仮説が次の原理である。

《クオリアの先験的決定の原理=認識の要素に対応する相互作用連結なニューロンの発火のパターンと、クオリアの間の対応関係は、先験的(ア・プリオリ)に決定している。同じパターンを持つ相互作用連結なニューロンの発火には、同じクオリアが対応する。》

 茂木氏は、「クオリアの先験的決定の原理が主張していることは、クオリアの起源がどのようなものであれ、それは自然法則の一部と見なされなければならないということである」とし、「この結論は衝撃的である」と述べている。というのも、「もし、クオリアが一定の条件の下に神経回路網という物質の振る舞いに随伴して生じるものであるとすれば、そのような可能性は、従来の物理学では考慮されて来なかったまったく新しい自然法則の領域の存在を示唆する」からである。

 従来考えられてきた自然法則とは、「脳の中のニューロンが、物質としてどのように振る舞うか[どのような時間的・空間的なパターンで発火するか]を記述するに過ぎない」ものである。「一方、クオリアの先験的決定の原理が示唆する自然法則は、脳の中のすべてのニューロンの発火パターンが完全に与えられた時点、そこから始まる。つまり、従来の自然法則が終わった時点から始まるのだ。」(第5章)

 茂木氏は最後に、クオリアの問題は、古来「プラトン的世界」と呼ばれてきた理念や概念の世界の実在と深い関係をもつのではないかという「信念」を表明している。


【293】夏休みのハード・プロブレム(3)

★ 茂木健一郎著『心が脳を感じるとき』(講談社:1999)

 この著書で茂木氏は、従来の「クオリア一元論」ともいうべき立場から、生々しく鮮明な質感を伴う「クオリア」と抽象的な感覚(ここに◯◯がある、私が◯◯へ向かう等々)を伴う「ポインタ=志向性」の二つの基本概念によって、つまり私たちの心の中の表象の二大要素の関係を問うことによって、心脳問題のハード・プロブレムに挑む立場へと態度を変更しています。以下、茂木氏のHPに掲載された自著紹介。

<「脳とクオリア」の原稿を書き終えてから約2年、この間の最大の進歩は「主観性」の問題に気がついたことでした。ある意味では「クオリア」の問題以上に難しい「主観性」の問題をあわせて論じます。クオリアに加え、「志向性」を脳と心の関係を考える上で中核となる概念として位置付けます。「志向性」は、感覚情報と運動情報の融合に深く関わっています。また、ミラーニューロンなどの、最近の認知科学の成果を取り入れます。>

 ここに出てくる「主観性」の問題について、茂木氏のアレンジによる‘Qualia Movement’の公式ホームページ[http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html]に掲載された「クオリア・マニフェスト」(1999/6/27付けテスト・ヴァージョン)から。

<私たちの心の中のクオリアを「私」が見るという構造は、「私」という「主観性」(subjectivity)の構造に支えられている。「私が赤を見る」という心的体験のうち、「赤」の「赤い感じ」がクオリアであり、一方、「私が○○を見る」という構造が主観性である。このように、クオリアと主観性は、表裏一体の関係にある。これが、私たちがクオリアと主観性を同一のフレームワークの中で理解しなければならない理由である。>

 ──それにしてもこの書物はよくできた作品で、初学者、門外漢にもとりつきやすく、親切かつスリリングな叙述でもって読者を心脳問題の深みへと案内してくれる、まさに理系的センスと文系的センスが融合した好著だと思います。

 たとえば、相互作用同時性の原理によって物理的時間の経過が心理的時間の中では「一瞬に潰れて」いるように、「属性の結び付け」というハード・プロブレムの解決のためにはその空間版、すなわち<相互作用が空間的に離れた点の間で伝わる時に、その空間的距離が「一点に潰れて」ゼロになるようなプロセス>(182頁)を支える数学的な理論が必要だ(茂木氏は、その参考となるモデルとしてペンローズの「ツイスター」を挙げている)といった議論など、とてつもない起爆力をもった思考実験のまさに現場に立ち合っているような興奮を覚えさせられたものです。

 もっともこれはほんの一例にすぎず、興味を惹かれた箇所を拾いはじめたら最後、全編まるごと引用しなければなりません。ここでは、一気に読了してしばらく経ったいまもなおとりわけ印象に残っている事柄を二つ、取り上げておくことにします。

◇神経生理学における「反応選択性のドグマ」をめぐって。──巻末の「用語解説」によると、反応選択性(response selectivity)とは「あるニューロンの活動、ないしはあるニューロン群の活動パターンが、ある特定の特徴に対してのみ選択的に生じるという考え方」のことで、茂木氏によれば、それ自体は事実関係を主張するものであるにすぎない。

 しかし、ある特定の特徴(たとえば「薔薇の花」の光学的刺激)に反応選択性をもつニューロン(群)が発火することこそが、その結果として私たちの心に特定の表象(「薔薇の花」の表象)を生じさせるのだという主張は、単なる事実関係以上の主張を含んでいる。茂木氏は、このような考え方を「反応選択性のドグマ」と名づけ、次のように批判している。

<ある特定のニューロン(群)の発火パターンの反応選択性を確保するためには、それが、様々な外界の事物を提示した時に、どのような範囲の事物に対して発火するかということを明らかにしなければならない。このような対応関係を確定できるのは、心が宿っている脳と、外界の事物を同時に観察できる「第三者」の立場からのみである。……肝心な、観察の対象になっている脳に宿る「心」にとっては、そのような対応関係はあずかり知らぬことなのである。別の言い方をすると、ある人の脳の中で、ある特定のニューロン(群)があるパターンで発火していたとして、その発火パターンがどのような刺激の特徴に対して反応選択性を持つかということは、その時の脳の中のニューロンの発火だけを見ていても、決めることができない。
 ところが、私たちの心の中の表象は、まさに一瞬にして脳の中のニューロン(群)の発火パターンによって、それだけに基づいて生じている。[この考え方を茂木氏は「認識におけるマッハの原理」と名づけている。]だとすれば、脳の中のニューロン(群)の発火パターンに対して、心の中にどのような表象が生じるかという対応関係を、「第三者」を介した反応選択性の概念からは導くことができないということになる。>(68-9頁)

 茂木氏がいっていることは、反応選択性は「外界」と「脳内過程」(ニューロンの発火の世界)との対応関係を記述する概念であるにすぎず、「脳内過程」とこれに随伴する脳内現象である「心の中に生ずる表象」との対応関係を決定する法則(認識におけるマッハの原理)とは全く関係がないということだ。

 それでは、ニューロンの発火パターンと私たちの心の中の表象(クオリアや志向性)との間に成り立つ対応関係とは何か。ここで茂木氏が注意を促しているのは、この「対応関係」というメタファーを超えない限り、心脳問題のハード・プロブレムは解けないということである。

<本来、[認識における]マッハの原理が想定しているのは、物質的過程としてのニューロンの発火と、私たちの心の中のクオリアが「ぴったりと寄り添っている」という関係性の構築である。あらかじめ、物理的空間と心の空間を用意しておいて、その間の対応を考えていたのでは、とらえきれないのである。物理的状態と心的状態を用意して、その間の対応を考えるのでは、構図としては素朴な二元論、あるいは反応選択性のドグマとあまり変わらないのである。/[認識における]マッハの原理を本当に生かすためには、対応関係のメタファーを超える必要があるのだ。>(82-3頁)

 茂木氏はここで、哲学者ダヴィッドソンの「重生起」(supervenience)の概念 [*] に注目している。そこには、対応関係ではとらえられないいくつかのニュアンスがあるからだ。──第一に、重生起は二つの属性を独立した集合として措定するのではなく、それらが「ぴったりと寄り添った」ものとしてあること示す。第二に、重生起には時間が明示的に含まれている。そして第三に、重生起には「因果性」の概念が本質的に取り込まれている。

<おそらく、真の革命は、物質という概念と心的表象という概念が対立的なものではなく、一つの何らかの概念に融合された時に起こるのだろう。私は、そのような革命の際に本質的な役割を果たすのが「因果性」の概念だと思っている。だから、[認識における]マッハの原理や相互作用同時性といったアプローチの先に、何とかブレイクスルーを起こそうと努力している。
 現時点でおそらく言えるのは、マッハの原理に基づいて、シナプス相互作用によって結ばれたニューロンの発火のクラスターからクオリアが生まれてくるだろうということ、私たちの心理的時間を生み出している原理は相互作用同時性だろうということ、また、ニューロンの発火のクラスター内部の相互関係とクオリアの対応を考える時には、様々な変換に対する不変性を考えるのが有効だろうということ [**] 、これくらいである。>(102頁)

* 「クオリア・マニフェスト」に引用されたダヴィッドソン(Davidson)の文章。──"Mental characteristics are in some sense dependent, or supervenient, on physical characteristics. Such supervenience might be taken to mean that there cannot be two events alike in all physical respects but differing in some mental respect, or that an object cannot alter in some mental respect without altering in some physical respect."

** 茂木氏によると、認識におけるマッハの原理では、ニューロンの発火に対して時間並進や空間並進、回転、鏡像などの変換を加えても、ニューロンの発火の間の相互関係が変化しないかぎり、これに対応(重生起)する私たちの心の中のクオリアや表象は不変のままに保たれる。


【294】夏休みのハード・プロブレム(4)

◇クオリアと志向性の関係をめぐって。──茂木氏は、私たちが言語を理解するということは、音声や視覚のクオリアに「これは◯◯という言葉だ」という抽象的知覚=志向性が貼り付けられるプロセスであると述べている。そして、志向性と言語の関係に関して考えられる二つのモデルを提示している。(223-5頁)

 その一。様々な質感が存在しているクオリアの世界と、言葉が依拠する志向性の世界が独立して存在し、クオリアに対する言葉のラベルは、志向性の世界からクオリアの世界へ志向性が貼られることに対応する。

 その二。志向性はクオリアに向かうだけでなく、無意識のプロセスに向かうこともあるのであって、このことは、私たちが、無意識のものを心の中に表象できないにもかかわらず、ある程度「メタ」なレベルで扱う能力を持っていることに対応する。

 これらの考察を通じて、茂木氏は、脳の中の物質的過程になぜクオリアが生じるのかという、心脳問題最大のハード・プロブレムの性質をめぐる「新たな洞察」をもたらす視点の可能性を示唆している。

<それは、心と脳の関係を問題にする時、私たちは実は自然法則を記述する際に用いる自然言語、数学的言語が依拠している心の中の表象としての志向性と、それとは独立した、自立した存在として表象されるクオリアとの間の関係を問題にしているのではないかという視点である。>(226頁)

<私たちが自然法則を記述する上で用いるのは、自然言語や数学的言語である。これらの言語体系は、私たちの心の中の志向性が生み出す豊かなコンテキストの世界から生まれる。私たちの周りに広大な客観的世界が広がっていることは事実である。それは、私たちの心の中に表象として意識されてはじめて私たちが掴めるものになる。このような視点から見れば、私たちの周囲の客観的世界とは、あるいは、その客観的世界の中の物質の振る舞いを支配している自然法則とは、その記述に私たちが用いている自然言語を支える心の中の志向性の世界そのもの、あるいは、このような志向性の集合が指し示しているものであると言い換えても良い。すなわち、客観的物質世界、その部分集合としての脳と心の関係性を付けるということ、とりわけ、心脳問題のハード・プロブレムとされるクオリアとの関係性を付けるということは、志向性の世界とクオリアの世界の間の関係性を付けることに他ならないと言うこともできるのである。>(227頁)

 このような、心と脳(志向性とクオリア)の関係をめぐる「見方の変更」をつきつめていくならば、第二のコペルニクス的転換が、すなわち「宇宙とは自然法則に従って時間発展する物質からなるシステムであり、私たち人間の脳を含む身体も、そのような宇宙の一部である」とするニュートン以来の世界観の根本的な転換がもたらされることとなるだろう。

<確かに、ニュートン的世界観の中には、心の存在を受容することができない。それは、事実だ。だから、心を、ニュートン以来発達してきた自然科学の対象にすることはできないという考え方がある。このような立場には、もっともなところもある。
 だが、否定されるべきなのはニュートン的世界観の方であって、心の存在の方ではないのである。ニュートン以来の世界観は、私たちの心の表象を自然な形で含むように、変更されなければならないのである。私たちの心の存在を自然に受容できるような世界観が獲得された時、私たちは自分自身のこと、宇宙のことを、もっと良く理解できるようになるだろう。心と脳の関係を考えることは、広大な宇宙というマクロコスモスと、私たちの心というミクロコスモスの間の関係を考えることでもあるのである。>(236-7頁)

 補遺の一。宇宙というマクロコスモスと地球というミクロコスモスの関係をめぐるコペルニクス的転換との比較で考えるならば、茂木氏がいうニュートン的世界観の更新がもたらすものは、新しい物活論、あるいは霊的物質やアニマ・ムンディが息づく自然観、あるいはヘーゲルが構想したロゴスの世界、あるいはペンローズがいうプラトン的世界、のようなものなのだろうか。

 それとも、<「赤のクオリア」の質感自体、つまり、赤の色の、あの言葉では表し切れない質感>(229頁)だとか<「私」と外界とのインターフェイスには、様々な鮮明な質感、クオリアがある>(232頁)、<志向性に基づいてクオリアの上に貼り付けられる能動的な認識は、一種の行為である>(233頁)といった表現から汲み取るべきなのは、クオリア(として私たちの心の中に表象されるもの)が充満した宇宙の部分集合としての人間、つまり志向性(言語)を通じてマクロコスモスとしての宇宙にかかわりつつ、「未来感覚」にうち震えるミクロコスモスとしての心をその内に重生起(重ね描き)させる存在の実質なのだろうか。

 補遺の二。クオリアをめぐる茂木氏の議論に接するとき、いつも必ず想起される事柄がある。それは、D.H.ロレンスが古代ギリシャ人のいうテオス(神)について述べた文章だ。

 ロレンスは、<ある瞬間、なにかがこころを打ってきたとする、そうすればそれがなんでも神となるのだ>と書いている。たとえば咽の渇きそれ自身が神であり、<水に咽をうるおし、甘美な、なんともいえぬ快感に渇きが医されたならば、今度はそれが神となる>。そして<水に触れてそのつめたい感触にめざめたとするなら、その時こそまた別の神が、《つめたいもの》としてそこに現象する>というのだ。

<だが、これは決して単なる質ではない、厳存する実体であり、殆ど生きものと言ってもいい。それこそたしかに一箇のテオス、つめたいものなのである。が、つぎの瞬間、乾いた唇のうえにふとたゆたうものがある。それは《しめり》だ、それもまた神である。初期の科学者や哲学者にとっては、この《つめたいもの》《しめったもの》《あたたかいもの》《かわいたもの》などはすべてそれ自身充分な実在物であり、したがって神々であり、テオイ[神々]であった。>(『現代人は愛しうるか』福田恆存訳,中公文庫)


【295】夏休みのハード・プロブレム(5)

★茂木健一郎著『生きて死ぬ私』(徳間書房:1998)

 これまでに刊行された茂木氏単独の著書の中で、私はこのエッセイ集がいちばん「深い」と思いました。──副題は「脳科学者が見つめた《人間存在》のミステリー」。養老孟司氏の推薦のことばに、<ここに書かれているような世界像が、来世紀には一般の常識となるに違いない。…そこにはもはや理科も文科もない。茂木氏の描く世界の姿は、いってみれば未来の世界像といってよいであろう>とある。

 この書物は、シュレーデインガーの“mein Leben, meine Weltansicht”を思わせる一種の自叙伝の試みなのではないか、と私はにらんでいます。茂木氏自身の回想や生活体験が記されているからだけではありません。プルーストが「心情の間歇」で叙述した「復帰する自我」のように、あるいはかの高名なマドレーヌが「重生起」(?)させた記憶の大伽藍のように、不可逆的な連続量としての物理的時間を超えて一点に「潰れた」複数の「今」(複素数の世界を介して「連続」する離散的な数としての心的時間?)もしくは「驚く我=感じる我」がそこに息づいているからです。

 たとえば「まえがき」で紹介されている、人生の大きな転機となった一連の体験。──ガタンゴトンという電車の音が突然生々しい質感を伴って心の中に迫ってきたこと(この体験は『脳とクオリア』でも述べられていた)。イギリス郊外の牧場の広大な風景を眺めていて、突然、それは私の頭蓋骨の中の出来事にすぎないのだという思いが沸き上がってきたこと(この体験は『心が脳を感じるとき』でも述べられている)。

 これらの体験を通じて、人生の豊かさそのものであるクオリアを含め、人間の心の中に生じるあらゆる表象はニューロンの発火によって引き起こされる現象に過ぎないこと、つまり「人間の心は、脳内現象に過ぎない」という命題が、自分の中で大きな意味をもつようになった、と茂木氏は述べています。そして、ここで大切なのは「知る」ことよりも「感じる」ことである──<本当に大切なことは、…[上の]命題がいかに驚くべきものか、そして、それが、私たちの生き方、ものの見方に、いかに深い影響を与えるものであるかということを、「感じる」ことだ>(6頁)──と続けているのです。

 ちなみに、『心が脳を感じるとき』にも、<「知る」ことと「感じる」こととは違うのだ>(11頁)とか、<知識として知っているということと、自らそれを体験するということは、別の問題である>(109頁)といった文章が出てきます。(それにしても、これらはいったい誰を念頭において強調された言葉なのでしょうか。)

 そのような驚きや感覚や体験がそこにあるかぎり、茂木氏が本書で叙述しているすべての事柄(たとえば、死生観や時間論、科学や芸術のこと、人間の魂や神の沈黙の問題、そして究極の哲学や存在革命のこと、等々)は、心の中に問題として立ち上がるたびにその都度、何度でも最初から再び考え始められるべき問題、つまり紛れもない「哲学の問題」の提示であり、それに対する茂木氏自身の思索のプロセスの記録(自叙伝)にほかならない、と私は了解しています。

◇茂木氏は、<脳を含めて、人間は機械に過ぎないのに、私たちが心を持つということ、これこそが最大の驚異なのである>(4頁)と書いている。茂木氏が本当に語りたかったことは、ニューロンの発火(物質的現象)からいかにして心的表象がもたらされるかというプロセスをめぐる「驚き」ではなく、機械に過ぎない身体をもつ私がいて、その私が同時に心を持っているという事実そのものへの「驚き」だったのではないか。

 ──ここで私が想起しているのは、いうまでもなくウィトゲンシュタインの次の文章だ。<世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、その事実が神秘なのだ。>(『論理哲学論考』[6.44],坂井秀寿訳)

◇本書で最も印象に残った話題の一つ、「思考の対位法」をめぐって。──茂木氏は、臨死体験や体外離脱体験を取り上げた第三章「オルタード・ステイツ」で、ベルクソンの示唆を踏まえた哲学者C.D.ブロードの「制限バルブ説」(茂木氏の命名)を紹介している。<ブロードの主張を要約すれば、本来の知覚作用は、時間的、空間的に無限定であり、脳の機能は、生存にとって有益な情報だけを認識するように制限することにあるということになる。>(117頁)

 ブロードによれば、人間は本来、世界の全体を同時に認識できる──「人間は誰でもまたどの瞬間においても自分の身に生じたことをすべて記憶することができるし、宇宙のすべてのところで生ずることすべてを知覚することができる」(オルダス=ハックスレーの『知覚の扉』に引用されたブロードの文章)──のだが、生存のために、脳および神経系を使ってその大半を除去しているというのだ。

<ブロードの考え方のような「極論」は、思考における対位法のようなものである。音楽における対位法が、あるメロディーに対してそれと「反対」のメロディーを対置して音楽に幅と深みをもたらすように、思考においても、「普通の考え方」が陥りやすいパターンに対してあえて「反対」を考えて、思考に幅と深みを持たせることが大切なのだ。ブロードの「制限バルブ」説は、心と脳の関係を考える上での、そのような対位法的な視点を提供する。>(125-6頁)

 ──ある種の読者層からの論難を回避するための窮余の策として考案されたに相違ない「思考の対位法」という(認知心理学の「多重知性理論」や、澤口俊之氏の「多重フレームモデル」でとらえられた「なまもの」としての脳の構造にもつながっていく?)秀逸なアイデアもさることながら、私がより興味を覚えるのは、そのような「カモフラージュ」をかいくぐってほの見えてくる(かのように思える)茂木氏の関心の所在である。

 それは、たとえば「クオリア・マニフェスト」に出てくる次の文章とも呼応しあっているもの──形而上学(哲学の問題)と自然科学(の問題)との「重生起」な関係──なのではないか。

<人間の脳の中のニューロンのコンフィギュレーションから、人間の心の中で感じることのできるクオリアのカテゴリーには限りがある。人間の心が感じることのできるクオリアは、本来のクオリアの空間の膨大な可能性のごく一部であることが認識される。つまり、人間には、本来無限に存在するクオリアのレパートリーの一部しかアクセス可能ではないのだ。このような認識は、従来形而上学と言われていた分野の実在性についての見直しにつながるだろう。その結果、形而上学が復活するだろう。>


【296】夏休みのハード・プロブレム(6)

 補遺の一。『生きて死ぬ私』の第五章「救済と癒し」を読んでいて、町田宗鳳著『〈狂い〉と信仰』(PHP新書:1999)を想起した。──まず、茂木氏が展開した宗教論の一端は、「クオリア・マニフェスト」の次の一節(先に引用した、形而上学の復活云々の直前に出てくる文章)に示されている。

<今日においては、宗教的な体系性(キリスト教、仏教、イスラム教)などは、形而上的な意味は持たないだろう。しかし、社会学的には、依然としてこのような体系性が一定の力を持っていることも確かである。このような宗教的価値の体系性(キリスト教、仏教、イスラム教)は解体されなければならない。宗教的感情もまたクオリアであり、それは、脳の中のニューロンの活動パターンと相関を持つ。トマス・マンは、全ての芸術の究極のあこがれは、宗教的儀式であると述べた。芸術と宗教に共通の要素は、それらがクオリアに直接訴えかけるということである。クオリアの起源が明らかにされることによって、宗教的価値と芸術との共通の基盤が示されるだろう。

 宗教的感情と、宗教的体系を区別するべきである。たとえば、キリスト教の教会へ行って、パイプオルガンを聞くと、ある種の感情が芽生える。この感情のクオリアは、原理的にはキリスト教とは無関係なものである。人々のキリスト教のイメージの中に、パイプオルガンの音は非常に強く根付いている。だが、パイプオルガンを聞いた時に心の中に引き起こされるクオリアが、仏教と結びついても良かったはずだ、ここには歴史的偶然が大きく関与している。キリストの生涯といった歴史的装置は、単にキリスト教という宗教の体系性を偽装するために存在しているだけで、さまざまな宗教的感情を、この体系性の中に埋め込まなければならない必然性は本来ない。宗教を構成するさまざまな感情や概念(これらもクオリアに他ならない)を一度諸宗教の体系性の圧政から解放して、一つ一つの起源と、その真実性を検証する必要がある。>

 次に、『〈狂い〉と信仰』の「はじめに」から。──町田氏は、あらゆる宗教の(そして人間存在の)共通基盤は〈狂い〉である述べている。〈狂い〉とは、無意識の領域から突き上げてくる統制しがたい情動であり、精神医学でいう〈生命感情〉に近いものである。あらゆる宗教体験の中で能動的に想像されるイメージは、そのほとんどが〈狂い〉の産物であるといっても過言ではない。

 また、町田氏によれば、宗教の原点は苦悩にある。苦悩が救いへと転換する瞬間を宗教体験と呼ぶことにすれば、これにまず伴うのが言語以前の強烈なイメージである。このイメージ構築力こそが、すなわち、無機物のように静止した知識に魂を吹き込み、アニメに登場する人間や動物のように生き生きと歌ったり踊ったりさせる想像力の働きこそが、たとえば法然のような宗教的天才の原動力であった。

 ──と、ここまできて、この二人の議論がなぜ私の中で結びついたのか、よく判らなくなった。おそらく直接的なきっかけは、町田氏が<次世代の宗教は、人間の依存心を煽りたてる教団組織から徐々に離れ、豊かな知識と体験に裏打ちされた個人的洞察力が、その主流になるだろう>(はじめに)とか、<歩行を学ぶ前の幼児が歩行器を必要とするように、いまだに霊的な意味で独り歩きを達成していない人類は、現在のところ宗教という歩行器具を欠かすことができない>(あとがき)と書いていることからの連想だったのだろう。

 もっと奥深いところで両者の議論はつながっているように思うのだけれど、いまのところいえるのは、宗教体験に伴う強烈なイメージとはクオリアのことだ、といった程度のことでしかない。町田氏がいう〈狂い〉や創造力は、心と脳をめぐるハード・プロブレムといったいどのような関係にあるのだろうか。

 補遺の二。「心情の間歇 Les Intermittence de coeur」について。──二度目に訪れたバルベックのホテルで『失われた時を求めて』の話者が、「無意志的で完全な回想」のなかに亡き祖母の「生きた実在」を見出したときの叙述から。(井上究一郎訳,ちくま文庫第6巻「第四篇 ソドムとゴモラI」)

<私の全人間の転倒。夜がくるのを待ちかねて、疲労のために心臓の動悸がはげしく打って苦しいのをやっとおさえながら、私はかがんで、ゆっくり、用心深く、靴をぬごうとした。ところが半長靴の最初のボタンに手をふれたとたんに、何か知らない神聖なもののあらわれに満たされて私の胸はふくらみ、嗚咽に身をゆすられ、どっと目から涙が流れた。いま私をたすけにやってきて魂の凋落を救ってくれたものは、数年前、おなじような悲しみと孤独のひとときに、自我を何ももっていなかったひとときに、私のなかにはいってきて、私を私自身に返してくれたのとおなじものであった、自我であるととともに、自我以上のもの(内容をふくみながら、内容よりも大きな容器、そしてその内容を私につたえてくれる容器)だったのだ。私はいま、記憶のなかに、あの最初の到着の夕べのままの祖母の、疲れた私をのぞきこんだ、やさしい、気づかわしげな、落胆した顔を、ありありと認めたのだ、…。>(266-7頁)

<…記憶の混濁には心情の間歇がつながっている…。われわれの内的な機能の所産のすべて、すなわち過去のよろこびとか苦痛とかのすべてが、いつまでも長くわれわれのなかに所有されているかのように思われるとすれば、それはおそらくわれわれの肉体の存在のためであろう、肉体はわれわれの霊性が封じこまれている瓶のように思われているからだ。同様に、そんなよろこびや苦痛が、姿を消したり、舞いもどってきたりすると思うのも、おそらく正しくないであろう。とにかく、そうしたものがわれわれにとってなんの役にも立たないものになって残っているだけであって、そのなかでもっとも役に立つものさえ、ちがったさまざまな種類の回想の逆流を受けるわけであり、それとてもまた、元の感情との同時性は、意識のなかでは全然望まれないのである。ところが、よろこびや苦痛のはいっている感覚の枠ぶちがふたたびとらえられるならば、こんどはそのよろこびや苦痛は、相容れない他人をすべて排斥して、ただ一つ生みの親である自我をわれわれのなかに定着する力をもつものである。ところが先ほど、たちまち私に復帰した自我は、祖母がバルベックに着いたときに、上着と靴とのボタンをとってくれたあの遠い晩以来あらわれたことがなかったので、祖母が私のほうに身をかがめたあの瞬間にいま私がぴったり一致したのは、あの自我のかかわり知らぬきょうのひるの一日のあとにではなく──時のなかにはいくつものちがった系列が平行して存在するかのように──時間の連続を中断することなしに、ごく自然に、かつてのバルベック到着第一夜のあとに、じかにつづいてであった。>(268-9)


【297】夏休みのハード・プロブレム(7)

★大森荘蔵著『時間と存在』(青土社:1994)

 茂木氏の著書を読み返しているうち、大森荘蔵氏の議論がそこに見え隠れしているように思えてなりませんでした。というより、私がそこに大森氏の「無脳論」を重ね描きながら茂木氏の文章を読み進めていったという方が正確でしょう。

 以下、『時間と存在』に収められた三つの論文、「無脳論の可能性」「脳と意識の無関係」「意識の虚構から「脳」の虚構へ」をもとに、大森氏の議論の骨格(と思われるもの)を抽出しておくことにします。

 ──と、書いてからちょうど二週間、何も手につかない悶々とした日々を過ごしていました。その理由は、一つには極度の夏バテゆえの億劫、いま一つは「大森哲学」がもつ特異な「わかりにくさ」のため、たとえ他人の書いた文章の圧縮や丸写しにすぎない作業であっても、まとまった事柄を記述することがなぜかしら虚しい悪あがきに思えてならなかったからです。

 『時間と存在』とその前後に出版された『時間と自我』(青土社:1992)『時は流れず』(青土社:1996)の「三部作」に収められた大森氏の論文は、いずれも平易でわかりやすく、時として、論理の飛躍とまではいえない説明の省略に躓きながらも、尋常ならざる説得力をもって展開される論述には、何度も接してきたはずなのに、ついつい引き込まれてしまいます。

 しかし、感嘆とともに読み終えてふと気づくと、これまで拠って立ってきた地盤がすっかり取り払われていて、支えもなくただ一人無重力空間に放り出されたかのような名状し難い不安にとらわれる。それと同時に、たったいま読み終えたばかりの議論はなにかしら悪い夢あるいはよくできた哲学的冗談だったのではないか、との疑念がふつふつと込み上げてきて、また一から読み直してみるといった無限地獄さながらの様相を呈してしまうのです。(著者もまた同様の反復を延々と繰り返している。)

 要するに大森は、などと整理しかけたとたんに、あたかも砂で固めた概念が波に洗われ跡形もなく消滅する様が目に浮かんできて、たちどころに言葉を繰り出していく力が抜けてしまうのです。

 たとえば『時は流れず』に収められた「「意識」からの解放」には、「心的体験は世界でもあり自我でもある」といった文章とともに、次のような叙述が出てきます。(ここでいわれる「意識」は「脳」と読み替えてもいい。)

<意識という意味は自分で裁縫した自閉拘束服ではあるまいか。そのなかに自分を閉じこめて世界への直通通路を遮断し、世界の写像ですべてをバーチャル化するという呪縛のシンボル概念のように思われる。現代の脳生理学はこの呪縛をいわば電子化して増幅し増強しているように思われる。>(『時は流れず』205頁)

 言語化への力が萎えるのは、まさにこのような文章に接した時です。私は何度読んでも大森氏の議論を論破する緒を見つけられず、それどころか読み返すたびに心底説得されてしまうのですが、それではいったい大森氏の論文でいわれていることはそもそもどういう事態なのか、それがさっぱり要領を得ない(あるいは、身につかない=言語化できない)のです。

 なるほど、ニューロンの発火のパターンからいかにして心的現象がもたらされるのかを問うこと自体のうちに、一つの「哲学的」呪縛が、あるいは「哲学的」誤謬が──そのような「科学的」問題の解明に携わる脳科学者の主観的な意図や願望とはかかわりなく、そして一元論か二元論かといった粗雑な(?)哲学談義とはいっさい関係なく──介在していることは、大森氏が繰り返し批判する通りだろうと思います。(「神経哲学」者としての脳科学者と「情報神学」者としての哲学者?)

 しかし、大森氏が批判する脳科学者の「概念枠」はもちろんのこと、たとえば「意味制作のシュミレーション」をはじめとする大森氏自身の議論に対しても、「一般に自然科学者は、考えているのは自分の頭だということを、なぜか無視したがる」という養老孟司氏が『唯脳論』で述べた警告が、ある屈折した回路を経て妥当してしまうのではないかと思えてならないのです。

 ──と、くだくだしく無駄口を重ねたのは、「大森哲学」がもたらす「言秘」状態からの脱出を試みてのことでした。あるいは、大森氏の議論に否応なく説得されながらも、これを「論破」するか別の言葉に「翻訳」して(別の脳に)取り込まないかぎり、茂木氏が切り拓きつつある心脳問題解明への魅力的かつ刺激的な道筋が見失われてしまうのではないか、と直感したからにほかなりません。

 実際、「知覚」と「想起」をめぐる大森氏の議論は「クオリア」と「志向性」をめぐる茂木氏の議論に重ね合せて考えるべきだと思うし、あるいはまた「私に◯◯が見える」という言語表現のなかの意味的・論理的な(したがって、数学的存在と同様、独立した知覚対象として直接的に指示することのできない)「語り存在」としての「私=自我」をめぐる大森氏の議論は、主観性の構造をめぐる茂木氏の議論と深いつながりをもっているに違いないと思います。

 そしてなによりも、<私は脳の場合には因果概念が杜撰に使われているのではないかと思うので、因果概念に代わる「重ね描き」という概念を提案してきている>とか、<この方法[自我や時間といった抽象的概念を人類がどのようにして制作してきたかを、それらの概念の日常における現実的使用に即して模擬的に叙述する「意味制作のシュミレーション」]を数学の「集合」と「確率」の概念に適用すると効果があると思う>(『時間と存在』「はじめに」)といった大森氏の示唆は、第二のコペルニクスあるいはアインシュタインをめざして(?)茂木氏が進もうとしている方向と、ある屈折した回路を経て一致しているように思えるのです。


【298】夏休みのハード・プロブレム(8)

 さて、蛮勇を奮って(?)大森氏の「無脳論」の骨格を抽出する前に、無駄口ついでの補遺を一つ付け加えておきます。

 富岡幸一郎氏は『使徒的人間──カール・バルト』(講談社:1999)で、十九世紀のロマン主義的観念哲学のなかで形成されたシュライエルマッハー由来の「宗教概念」あるいはトマス・アクィナスにその典型を見ることができる「自然神学」と、キェルケゴール、ルター、カルヴァン、パウロ、エレミヤの系譜につながるカール・バルトの「神の言葉の神学」とを対比させて論じています。

 それはもちろん、前二者との対決を通じてバルトがその思索を展開していったからにほかならないのですが、私はそこに、すなわち、無限の神と有限の人間との連続(前二者)と切断(バルト)のうちに、心脳問題をめぐる二つの立場が形を変えてあらかじめ表現されているのではないかと感じたのです。(情報=神をめぐって、人間が内蔵する神経システムの相互作用からこれを説明しようとする「神経哲学」的アプローチと、あらかじめ生じていた、あるいは「啓示」された出来事としてこれを「追思考」する「情報神学」的アプローチ?)

 以下、富岡氏の著書から(といっても、現在までに読んだその前半部分から)要点のみメモしておきます。

◇まず「宗教概念」について。──シュライエルマッハーは「人間の精神に内在する永遠なるもの」としての宗教的心情について語り、そこから「人間中心の文化神学」をつくりあげた。フォイエルバッハが神学の秘密は人間学であると指摘したように、<十九世紀から二十世紀への神学の潮流は、人間精神の分析と個人の宗教意識の探究となり、近代ヒューマニズムの次元で中世的な神人同形論がくりかえされることになった。神は人間学の対象とされ、天は地の反映となった。/カール・バルトは、このような流れのなかで彼の『ローマ書』を書くことで、今ふたたび天と地とを分離し、境界[Grenze]を示したのである。>(48頁)

 また、キェルケゴールは<神を人間が自己意識のうちに内在化することで、自己を神のごときものに絶対化する、それこそが「宗教」であり、「絶望」であり、「死に至る病」に他ならないこと>(40頁)を語り、近代市民社会のなかで「宗教」と化したキリスト教を批判したのだが、キェルケゴールによる「神と人間の無限の質的差異」の強調はバルトの神学にも見ることができる。

<聖書が証する神は、あらゆる敬虔主義的な努力や人間的能力をもってしてもとらえることはできない。それどころか、そのようなすべての可能性、そしてその最高たる宗教的可能性こそ、神を、似て非なる「神的な存在」に変えてしまう最もはなはだしい罪であり、倒錯であり、不逞に他ならない。/こうして、バルトの『ローマ書』は、ニーチェ以上に苛烈な「キリスト教的」「宗教的」なるものへの批判と告発を孕んだ書として、神学界に衝撃を与えた。>(43頁)

◇次に「自然神学」について。──自然神学とは「人間が生まれつきもっている理性によって神の存在を捉えることができるという考え方」をいい、その典型であるトマス・アクィナスの神学は、啓示と並んで人間存在にあらかじめ備えられていた理性(自然)を信仰の根拠として立てるものであった。

 バルトの『教会教義学』はしばしばプロテスタントの『神学大全』と呼ばれるが、<それは人間理性によって捉えられる「神の知識」という教義[ドグマ]を打ち破るものであり、人間から神に至る道をつくりあげようとする、あらゆる「体系」的思考への批判なのである。(略)彼[バルト]はカトリックとプロテスタント、そしてもちろんその他の教派にも共通する、人間の側から「神」を捉え弁証しようとする思考の習慣それ自体を打ち破ろうとした。>(139-40頁)

◇それではバルトの神学とはどのようなものだったのか。──バルトが行ったのは<神学の哲学化・人間学化にたいする批判>(149頁)であり、その<神学は、「信じるために知解する」哲学的人間によってではなく、この信仰[クレドー]の本質によって呼び出され、召喚された者、すなわち使徒的人間による思考である。/それはいいかえれば、自分が探究されていることを知って、探究することへと呼び出された者たちの思考である。自分自身が思考の対象となっていることを知ることで、思考へと呼びさまされることである。そこでは、つねに大いなる対象から問いかけられることで、はじめて問うことが可能となる。>(155頁)

<個の「信仰」は、個人の内面の言葉によっては決してあきらかにならない。それはイエス・キリストによって「呼び出し」を受けた、あの初代の使徒たちの証言の言葉と、その言葉を、公同の教会の言葉として形成していったクレドーに照らし合わせるなかで、はじめて正しく知解され認識される。
《知解 intelligere は、前もって語られており、前もって肯定された Credo を後から考えることを通して生じる》[カール・バルト「知解を求める信仰──アンセルムスの神の存在の証明」から]
 神学の思考とは、まさにこの後から(Nach)考えること(denken)である。クレドーにおいて語られていることの後について考える作業である。使徒的人間の思考は、かくして追思考のかたちをとる。神学という学問の特色はここにある。>(157頁)

 富岡氏によれば、このような追思考(Nachdenken)としての神学的思考の概念を二十世紀の哲学のなかへ導入しようとしたのがハイデガーであった。つまり、バルトが二千年に及ぶ西洋神学を全面的に再検討し批判したように、ハイデガーは、ジョージ・スタイナーがいう「神学的遺産」に満ちたその哲学において、プラトン、アリストテレス以来の西洋形而上学批判を展開したのである。しかし、形而上学の歴史のなかで失われた「存在」の追想を思索のテーマとした彼の思考は、神学における追思考とは似て非なるものだったのではないか、と富岡氏はいう。

<彼[ハイデガー]の問題にする「存在」とは、神学の思考が対象とするものとは全く違っている。なぜなら、神学が対象とし、その思考が「追及する」ものは、決して隠され沈黙している「存在」ではない。それはイエス・キリストにおいて地上の出来事として啓示された(啓示の語源は、隠されてあるものの覆いを取るという意味である)、人間にたいする神の具体的な語りかけであるからだ。(略)このとき神学の思考はおのずから「モノロギオン」から「プロスロギオン」へ、独語から対話へと移行する。アンセルムスにおいて、この対話は、弁証論によってではなく、むしろ神への直接的な語りかけとしての第二人称、すなわち祈りとしてなされた。>(159-61頁)


【299】夏休みのハード・プロブレム(9)

◇無脳論(の可能性)をめぐって。要するに、大森氏がいっていることは次の三点に尽きると思う。(ちなみに大森氏は、知覚や想起からなる意識の問題を、知覚、それも視覚経験を代表事例として取り上げて論じている。)

 その一、「心脳因果」批判。──たとえば「風景(外的対象)→脳→意識(視覚風景)」という視覚経験に関する図式について、大森氏は、ここに出てくる二つの矢印のうち後者が因果関係を示すものととらえる考え方を「脳産教理」と呼び、この「脳の働きによって心の働きが生まれる」とする脳生理学のセントラル・ドグマに対して次のような批判を投げかけている。

 いわく、「風景(外的対象)」から眼球を通って「脳」に至る因果系列は文句なしに認められるが、その「逆路」、すなわち「脳」から「意識(視覚風景)」に至る因果系列は不可能である。なぜなら、因果性とは、ある事件(原因)から別のある事件(結果)に至る時空連続的な過程が存在することにほかならないのだが、脳から発して視覚風景に至る時空連続過程などはそもそも想像すらできないし、ましてや、風景の中の事物ではなく視覚経験そのものに至る時空過程など意味不明だからである。

 いやそれはおかしい、脳の特定箇所の障害が視覚風景の異常な変化を引き起こしている事実は「脳→意識(視覚風景)」の因果系列を証明しているではないか。──これに対する大森氏の再反論。そのような「障害因果」は、原因から結果までの時空連続過程を欠いた「因果跳躍」であるし、そもそも「脳→意識」因果を云々せずとも(後述の「重ね描き」の構図によっても)説明可能である。

 その二、「面体分岐」から「主客対置」(世界−自我分岐)への意味制作のシュミレーション。──上述の「心脳因果」批判がもたらす結論は、そもそも「風景(外的対象)→脳→意識(視覚風景)」という図式そのものが成り立たないこと、つまり、視覚風景は脳の中にではなく、それがあるその場所で直接に把握される(見られるものである)ということだ。

 外部対象をその場で見るということは、「風景(外的対象)→脳→意識(視覚風景)」の図式が示す二つの因果系列(→)なしで外部対象を見ることにほかならないのだから、その中核となる脳がなくても物を見ることができるということ、つまり「無脳人間にも視覚があるということは可能である」。

 このことを図式的に表現すれば、見る人の位置や状態や気分に応じて異なる「視覚風景」と、無数の視覚風景の合成によって公共的に制作される「風景(外的対象)」との「要素−無限集合」関係、あるいは、視覚対象である「知覚正面[ファサード]」と、視覚対象とならない側面背面や内面を含めた「立体的事物」との「面−体分岐」となる。

(大森氏は、視覚風景=知覚正面が「知覚(perceive)される」ものであるのに対して、外的対象=立体的事物は「考えられる(conceive)」ものであり、視覚という事態においてこの両者は時間的空間的に「重なる」と述べている。)

<…立体的事物としての机は、それを見る複数の人間の間で共通の指示が可能な、それ故に公共的な対象である。それに対してその机の私に見えている知覚正面は、ただ私だけが見ることのできる「見え姿」である。この面−体分岐の事実が不当に誇張されるとき、客観的事物とその主観的意識という不幸な対比が生まれた。立体的事物とその知覚正面という一般的ではあるが単純無垢な関係が、一転して客観的事物とその主観的映像という怪物的関係に変容させられたのである。「私が机を見ている」という視覚コギトに固有の三極構造が、この主観−客観の奇怪な関係を強化したという事情もある。いずれにせよ、知覚正面を見る視覚コギトの経験が客観的対象(立体事物)を私が意識する経験であるという歪曲がここで生れ、その結果、知覚正面の風景は「私に帰属するもの」とされるに至る。つまり「私の意識」に帰属することになる。机のような個別的対象に生じたこの異常な歪曲の総和として、客観的世界とその主観的意識という罪深い対比が生れてくるのは自然であった。>(『時間と存在』256-7頁)

 こうして「世界風景の(「私の意識」への)強制的内在化」を通じて「客観と主観という暴力的分極」が生じ、その際誘起されたのが「感覚の排除」と大森氏が呼ぶ症状である。

<この「感覚の排除」によって事物の色、形状、温かみ、匂い等々の感覚的性質は客観世界から剥ぎとられて主観の意識に配属されるという、現在なお科学の骨格を冒している病毒を発生させたのである。感覚的性質を剥ぎとられた客観世界には各段階の原子論に明白に示されているように、ただ幾何学的性質と運動とが残されることになる…。
 いずれにせよ、自我概念の制作が大過なく順調に制作されて動作主体兼コギト主体の段階に至った時に、「私の意識」という鬼子的な意味が突然に発生して、それが転移する癌細胞のように現代科学にまで遺伝的に伝えられてきたのである。現代科学においてこの遺伝病の形跡がありありと見られるのが、皮肉にも現代科学の目玉商品としてもてはやされている脳生理学なのである。「脳」の概念こそ「私の意識」という腫瘍概念が一段と悪性化した意味に他ならない。>(同258-9頁)

 以上の議論から、そもそも脳と視覚風景(意識)とを結ぶいかなるルートの探索も原理的に不可能であること、いいかえれば、視覚風景を脳によって説明しようとすることは誤りなのではくて「場違い」であることが明らかになった。というのも、立体的事物と知覚正面との関係は、始めから「意味論的」に決着がついている(顔の向きを変えれば視覚風景=知覚正面はそれにつれて変わるし、身体の移動につれても変わる)からである。

(脳の機能が知覚や想起といった意識とはかかわりのないものであるとしたら、それでは脳はいったい何の役割を果たしているのか。──大森氏は、「それに答えるのは私のような素人ではなくて生理学者でなければならない」と述べながらも、その新しい脳の機能は、身体を外界に対応させる自動制御装置の働きか、ベルクソンが考えたように、外界からの刺激と身体運動の中間に介入してある変容を加えるといったものなのではないか、と指摘している。)

 その三、「重ね描き」の構図。──かくして「脳産教理」という脳生理学のセントラル・ドグマは棄却された。しかし、因果とは別の構図をもってすれば、脳生理学がいまなお蓄積しつつある貴重な成果をそのまま保持することができる。

<視覚の全体的状況を語り描写するには平凡な日常語で十分でありまた最適である。私は今山の方を向いて立っており二つの鋭い峰が見えている、といった具合である。このとき、峰から或る波長の光波が私の網膜に達しており、そこから例の脳内の因果過程が生起している。それらを描写するには生理学者の専門用語が必要だが、私は素人なのでその描写を簡約してΨ[プサイ]としよう。この専門的描写Ψは先程の全体的状況の日常描写(これをDとする)の一部として書き加えられたものと考えることができる。そしてΨとDに喰い違いがない限り、この二つの描写は時間的空間的に喰い違いなく重なっているはずである。したがって、ΨとDとは「重ね描き」になっている、と言って差支えあるまい。この意味での重ね描きは珍しいものではなく、一般に物理学の中でのマクロ描写とミクロ描写が重ね描きになっており、このことは統計力学の気体運動論とか幾何光学と波動光学の関係にその好例を見てとれるはずである。
 視覚の事態をこのようにΨとDとの重ね描きと考えるならば、脳産教理の誘惑から解放されることができるだろう。更に、今まで「無脳論」と呼んできたものとは単にΨが欠落したDだけの描写のことであり、脳のことなど露知らなかった古代人にとっての描写である。>(222-3頁)


【300】夏休みのハード・プロブレム(10)

★澤口俊之著『「私」は脳のどこにいるのか』(筑摩書房:1997)

 澤口俊之氏の『「私」は脳のどこにいるのか』は、<人類の悲願ともいえる「自我の謎」>(206頁)の科学的な解明をテーマとして、著者自身の研究成果も含めた脳科学の最新の知見をもとに「自我の脳内メカニズム」をめぐる<推測>(204頁)を提示した書物です。

 澤口氏によると、大脳新皮質は「コラム」と呼ばれる基本的な構造・機能のまとまり(一個のコラムは数万個のニューロンを含む。「皮質円柱構造」とも)を単位とする階層システム=多重フレーム構造をもち、この多重フレームのダイナミクスによって多重な心・意識が生起する。自己意識と自己制御という二つのはたらきからなる自我にしても、「自我フレーム」ともいうべきもののダイナミクスによってつくられるはずで、その中心的かつ基本的な構造は前頭連合野の「自我コラム」群である。

<自我はもちろん、ほかの心や意識と同様に、単一の「分割不能の心・意識」ではない。「自分自身」そのものがさまざまな側面を持つように、自我も多数の要素的自我(小さな自我)から成っている。そして、たとえば視覚物体の認知が視覚物体の「アルファベット」を処理する機能コラムの協調的なはたらきによって形成されるように、自我の「アルファベット」を再現する多数の「自我コラム」のダイナミクス(内部での情報処理・動作や相互作用、自己組織的な変容)によって、まとまったはたらきとしての自我がつくられるはずだ。こうした「自我コラム」は、前頭連合野の46野を中心にしつつ、9野や10野、あるいは47野などにおいて、「自我マップ・システム」ともいうべき特殊な階層的システム=「自我フレーム」を形成していると考えられる。そして、自我の脳内メカニズムとは、こうした自我フレームのダイナミクスにほかならないのである。>(200-1頁)

 さわりの部分だけを引用しても、澤口氏の「スペキュレーション」がもつ迫真性を伝えることはできませんし、もとよりそれは私の任でもありません。いずれにせよ、近著『幼児教育と脳』(文春新書:1999)も含めて、澤口氏が提示する議論には、「心は脳内現象である」という茂木氏の「驚き」あるいは「実感」(『心が脳を感じるとき』)に、科学の言葉で肉薄する現時点での極限が、きわめてわかりやすくかつ説得力をもって示されているように思います。

 しかし、それでもやはり「So what ? 」という問いは残るでしょう。茂木氏の次の指摘が、そっくりそのまま澤口氏の「自我の脳内メカニズム」に対してあてはまってしまうからです。──<実際、現時点では予想もつかないような画期的なパラダイムの変化がない限り、脳科学に期待できることは、/ある脳の活動状態 ⇔ ある心の状態/という対応関係をつけることだけなのである。>(『心が脳を感じるとき』23頁)

 その意味で、私が本書で最も心を惹かれたのは、実はエピローグに記された次の言葉だったのです。それは、心の問題を説きながら「心は脳の活動である」という観点を欠いた哲学者や思想家への苛立ちと、「自我は前頭連合野のコラム群のダイナミックな動作・プロセスである」という自説の正しさを述べたあとに続く文章です。

<しかし……。/「これを言ったらおしまい」かもしれないが、「So what ?(だからなんなの?)」という言葉が頭から離れない。「自分自身を知りたい」という問いに、これで答えられたという気持ちにはとうていなれないのだ。/「自我の謎」というのは、こうした「明確」な話ではすまないのではないか。あの若き日に私をとらえた「自分とはなんなのか?」という問いは、何か深い底に吸い込まれるような気持ちとともにあったはずだ。(略)
「自我の謎」とは、私にとって、まさに「暗い朝」とか「屠場の昼下がり」のような心象風景とともにあった。あるいは、「自分自身を考えている自分を考えている自分を考えている自分を……」といった螺旋状の眩暈のような感覚とともに──。(略)
「世界は深い、昼が考えたよりも深い」という言葉がまったくそのとおりであることは十分にわかっているが、なお、自我の脳科学的探究の未来が明るいことを私は信じている。なぜならばそれは、私の「夢」であるのだし、あえていえば「使命」だとも思っているからだ(略)。>(212-5頁)

(こういう「告白」をするためにこそ、人は神経哲学を、いや脳科学を生業とするのかもしれない。そして、情報神学者は、たとえば自我の過剰な哲学化や「私の意識」という概念の虚構性を批判する科学哲学者は「告白」の前に「祈る」?)

 補遺。どうでもいいことかもしれないけれど、養老孟司氏は、V.S.ラマチャンドラ/サンドラ・ブレイクスリー著『脳のなかの幽霊』(山下篤子訳,角川書店:1998/1999)の「解説」で、「スペキュレーション」をめぐって次のように書いている。(実験形而上学としての神経哲学?)

<オリヴァー・サックスもそうだが、神経科学者はしばしば推論の価値を重んじる。それは東洋的だというだけではなく、仕事の上の必然なのである。それは当り前で、ヒトの脳を使って実験をすることは、なかなかできないからである。それならギリギリまで推論を詰めてみようとするわけで、とくに臨床の患者さんを扱えば、そうなるに決まっている。推論とは、べつにいい加減なことをいうという意味ではない。論理的可能性の列挙なのである。じつはそれは、ある種の才能がないとできない。もっと明瞭に表現すれば、頭の堅い科学者にはできない芸当なのである。ラマチャンドラは、東洋風の背景と、神経学という仕事の要請が、幸福にも一致した成功例かもしれない。>(331-2頁)


【301】夏休みのハード・プロブレム(11)

★養老孟司著『唯脳論』(青土社:1989)

 澤口氏は前掲書で、現代では脳科学が急速に発達してきたのだから、心脳論をめぐる一元論と二元論の数千年にわたる不毛な哲学的議論は終わりにしたいと思うと、意識・心は脳の特殊なプロセス・活動であるとする「一元論」の立場から書いていました。

<もちろん、哲学者の中にも一元論にたつ方は多いが、中には、とんでもない(と、私には思える)一元論もある。観念論からの一元論である。……カント哲学に代表されるドイツ観念論の全盛時代ならともあれ、現代にそんな一元論など存在するはずもないと私は思っていたのだが、ある時「無脳論」という考え方を知って(またまた)面喰らってしまった。著名な心身論哲学者である大森荘蔵氏が提起したものだが、『無脳論の可能性』(一九八八年)で「脳が無くても心はあり得る」という主旨の論を展開した。これには本当に驚いたが、おそらく養老孟司氏の「唯脳論」への反発のせいかと自分なりに納得しておいた(私の誤解かもしれないが)。>(『「私」は脳のどこにいるのか』50頁)

 それはもちろん誤解に決まっている。──というのも、「無脳論」を、より正確には「私の意識」という概念の虚構性をめぐる大森氏の原理的な論考を読み直し、勢い余って養老氏の『唯脳論』を再読してみて、両者が試みていることは、心や意識や進化といった事柄をめぐる<等身大以上の思想>(『唯脳論』247頁ほか)への根源的な批判、より正確にいえば<哲学的抽象の迷路>(『時間と存在』7頁)の回避という一点で共通していると確信したからです。

 たとえば、いま『唯脳論』の任意に開いた頁に出てくる次の文章などを読むと、これはほとんどそのまま「無脳論」に接ぎ木していくことが可能なのではないかと私には思えるのです。

<脳は脳のことを知る。知るとすればそれ以外にはない。つまり、「私が何かを知っている」という言語表現は、「私が」があるためにややこしいことになっている。日本語では、この「私が」は不要である。私にはその方が論理的に思われる。「私が知っている」と言うときの「私」は、日本語では他人と区別して言うのであって、「他ならぬ私が」という文脈で使われる。他人が介在しなければ、ただ「知っている」で十分であり、「知っている」こそ、しつこいようだが、脳の機能である。[養老氏は、脳が脳を知る機能をアナロジーと名付けている。[116頁]]これを昔から「意識」と言う。(略)
 脳という器官があって、それになにか機能がある。その機能とはなにか。いくつかあるが、その一つが意識である。そんなことはわかり切ったことで、だから公理だと言う。言語が「私」という言葉を介在させるから面倒になるだけのことである。
 生き物が外界の条件に反応だけしていればいいうちは、すなわち下等動物の脳なら、意識はなくてもいい。脳には剰余がなく、自分の中で何が起こっているか、「知る」だけの容量がない。しかし、ヒトの脳ほど大きくなれば、中味のことがある程度わかっても不思議はない。つまり、ヒトの脳は、外界だけではなく、自分の脳に気がついてしまった。
 進化の過程を考えてみよう。動物の脳は外界の刺激を取り入れ、それに応じて自分の体を適当に動かすものだったはずである。[養老氏によれば、脳は世界像を創る臓器である。[240頁]]そこには、明らかに二つの知識が含まれている。一つは外界つまり環境に関するもの、もう一つは自分の体に関するものである。極端な言い方をすれば、両者それぞれが唯物論と唯心論の起源と言ってもいい。自分の体に関する知識は、たとえば身体地図の作成に至って完成に近くなったが、同時に少なくともヒトの段階では、脳自身に関する知識を含むことになった。それが「意識」に他ならない。脳もまた身体の一部だからである。>(117-20頁)

 要するに、脳の機能を「等身大」のものとしてとらえること、つまり、意識という概念をめぐって(何万年もかけて)展開されてきた途方もない「哲学的抽象」の愚を粉砕することで、唯脳論と無脳論は同じ土俵に立つのではないか。そして、問題は、どちらがより「大きい脳」か、いいかえれば、どちらがどちらを「包含」し、どちらがどちらに「理解」される関係にあるか、ではないのか。

 無脳論が、心的現象は脳内現象である(正確には、「私の意識」の中の出来事である)とする現代の科学者の世界像を批判して、心的現象とは世界であり自我であるとする古代人の世界像(正確には、「私の意識」=脳概念の虚構性)をシュミレートするものであったのに対して、唯脳論が、ここ数万年ほどヒトの身体(脳)は解剖学的には変化していないという事実に基づいて、自然科学者のそれであれ数学者あるいは哲学者(さらには神学者?)のそれであれ、およそヒトの活動全般を脳の法則性(ヒトが考える形式)という観点から眺めようとするものである点で、後者が前者を「包含」しうるといえるのではないかと私は睨んでいるのですが、だからどうなのか(So what ? )はよくわかりません。

 しかし、それにしても「無脳論」対「唯脳論」の関係は一筋縄ではいきません。相互の「誤解」が抜き難くからまっているからです。たとえば、養老氏の次の文章。

<唯脳論は、世界を脳の産物だとするものではない。…意識的活動が脳の産物だという、当たり前のことを述べているだけである。科学哲学者の大森荘蔵氏は、私の唯脳論に対して、「無脳論」を述べられた。世界は脳の産物である。唯脳論は、そこに導く危険がある。そう大森氏は思われるのであろう。しかし、世界が脳の産物などとは、哲学者以外には、誰も思っていないのではないか。そういうことを考えるのが、ほとんど哲学者の定義ではないかと思うほどである。どう考えたって、素直に言えば、脳は世界の産物であり、哲学は脳の産物である。脳は哲学よりも広く、世界は脳より広い。
 哲学者は論理整合性を重視するので、われわれの心が脳の産物であるなら、世界が脳の産物になるということを、どうしても指摘したいらしい。その議論の際の世界とは、まさに脳の産物としての世界であろう。唯脳論は、そんなことはどうでもいいと言う。唯脳論からすれば、世界の解釈は一つではない。「脳」だけをとってみても、物質になったり、心になったりする。それが、われわれの脳が持つ性質なのである。>(42頁)

 大森氏もまた、同様の「誤解」を唯脳論に対して示していたように記憶しています。──などと書きながら、私自身がとんでもない「誤解」に陥っているのではないかと、ふと思い至って、ここで擱筆。

 補遺。池田晶子氏は『メタフィジカル・パンチ』(文藝春秋:1996)に収められた「養老孟司さん」という短文で、養老氏のいう脳は物でも心でもあるのであって、唯脳論とは、天才だけが知る「存在」への驚きの書なのだといった趣旨のことを述べている。

<唯脳論は、唯心論を唯物論的に語るための方法である。心が先なのでも物質が先なのでもない。「脳」ということでお話しを始めれば、それはどちらの側からも語られ得るということを示す方法である。あれは唯脳法である。どうも皆そのへんをよくわかってない。あれは、脳という物[ブツ]を唯一であるとする唯物論か、あるいは科学になりそこねた唯心論だと思っている。>(『メタフィジカル・パンチ』50頁)


【302】夏休みのハード・プロブレム(12)

◇『唯脳論』からのいくつかの抜き書き。その一、構造と機能をめぐって。──養老氏は、<脳と心の関係の問題、すなわち心身論とは、じつは構造と機能の関係の問題に帰着する>(30頁)と述べている。そして、徹頭徹尾物質である脳からなぜ心が発生するのかという問いは、心臓血管系のどこから循環という機能が出てくるのかという問いと同様、そもそも問題の立て方が誤っているという。

<…なぜヒトは、脳つまり「構造」と、心つまり「機能」とを、わざわざ分けて考えるのか。それは、われわれの脳が、そうした見方をとらざるを得ないように、構築されているからである。>(32頁)

 その二、対応関係と因果関係をめぐって。──<心という機能について、解剖学が貢献できるのは、心という機能と、脳という構造の「関係」を指摘することである>(40頁)と、養老氏は書いている。その方法は、形態学で常用される「対応関係」の追及であって(多くの人が自然科学が追及するものと誤解しているような)因果関係の追及ではない。因果関係も原因と結果のある種の対応関係だが、そこには時間が含まれている。形態学が対象とする「形」には、時間は含まれていない。

<したがって唯脳論は、「心の原因としての脳」を扱うのではない。心の示す機能に「対応するもの」としての脳、あるいは脳という構造に対応するものとしての「心という機能」を扱う。これは対応関係であるから、論理的にも因果的にも、前後はない。その意味では、ここで言う唯脳論とは、基本的には形態学である。>(41頁)

 その三、同時的理解と文脈的理解をめぐって。──養老氏は、デカルトを「我流に」翻訳して、<「私が考えている」と言語で表現される状態(cogito)があって、それはつまり「私が存在する」と言語では表現される状態(sum)なのである。それがつまり脳の機能であり、だからこういうこと全体が言語で表現される。なぜなら言語こそ典型的な脳の「意識的機能」、つまり「脳が脳を知っている状態」だからなのだ>(123頁)と述べている。

<こう考えると、私はデカルトがよく理解できるような気がする。人間に対する理解には、同時的な理解と文脈的な理解があって、訓詁の学は本来その両者を含むべきなのであろう。同時的な理解はしばしばとんでもない誤解であり得るし、文脈的な理解は、とり扱われている本人が思いもしなかった理解であり得るが、ここでの理解は同時的な理解の意味である。(略)…デカルトの脳も私の脳も、ホモ・サピエンスの脳である以上、ゴリラの気持を理解するよりも、デカルトを理解する方が、おそらく私にとっては容易であろう。それを保証するのは、脳の解剖学である。>(123-4頁)

 その四、視覚系と聴覚−運動系をめぐって。──養老氏は、構造と機能の対比を、視覚と聴覚のそれになぞらえている。<構造では時間が量子化され、機能では流れる。構造と機能という、この二つの観念がそもそもヒトの頭の中に生じるのは、いわば脳の視覚的要素と聴覚的要素の分離ではないのか。構造と機能とは、どう考えても、同じ要素の異なる面だと思われるからである。同じ要素を、ヒトの脳の都合で二つに割っている。>(155頁)

<シェルドレイクのような純粋視覚型の議論[たとえば、形態共振]がそうだが、視覚はもともと論証には向いていない。だから視覚は直観的に「見てとる」のである。順次論証を「重ねる」のは、まさしく聴覚−運動系の持つ性質に近い。たとえば、幾何学における証明とは、視覚が当然とすることを、聴覚−運動系に対して対応させることであろう。それがきちんと対応すれば、証明は「正しい」ことになる。異質なものが脳の中ではじめて「連合」するとき、われわれは「わかった」と叫ぶ。>(198頁)

<元来形には証明はない。自明があるだけである。(略)ヒトはその視覚の結論を、苦労して聴覚−運動系に翻訳する。おそらくそこに、時間の問題が発生する。視覚が関与しさえしなければ、時間は「自然に」流れたであろう。(略)
 霊長類は、哺乳類としては例外的に視覚系を重視した。ヒトの論理的な苦労のかなりの部分が、ここに発するのであろう。哺乳類はもともと薄暮に住んだ動物であって、それは昼間を恐龍に占拠されていたからである。霊長類の祖先に至って、視覚系の重視が始まったが、これは進化で言えば最近の話である。それをヒトは、新皮質でまたあらためて「連合」しようとする。できたばかりのものが使いにくいのは当然であろう。>(200頁)

 また、養老氏は、今西進化論や丸山真男の『歴史意識の古層』に言及しながら、視覚と聴覚−運動系の結合が「永遠と時間の交わり」にほかならないこと、そして、「永遠としての視覚系」と「時間の継起の知覚としての聴覚−運動系」との結合としての歴史意識、すなわち<ある文化に置かれた脳の典型的な時間意識>(225頁)について論じている。

 その五、知覚系の哲学と運動系の哲学をめぐって。──

<もしショーペンハウエルが、「意志」ということばによって、われわれがふつうに意志として理解しているものに、いくらかでも類似の観念を用いているとしたら、かれはおそらく運動系について語っていたに違いない。「盲目的な生きんがための意志」が「世界に」前提されているのか、かれの「脳の中に」前提されているのか。脳は世界像を創る臓器であることを忘れるべきではない。意志は大脳皮質の地図でいわば視覚と対極に位置するものである。一方はおそらく前頭前野、他方は後頭葉のもっとも後部。『意志と表象としての世界』とは、もし表象が視覚像を意味するとすれば、いちばん前からいちばん後ろまで、ずいぶんきちんと脳全体を包含しているわけである。ショーペンハウエルは、少なくとも自身の脳については、全体を渉猟して世界像を構成しようとしたらしい。>(240頁)

<知覚系は本来認識に関わるものである以上、語の本来の意味としての「認識論」とは、まさしく「知覚系の哲学」である。それに対して、実践哲学やら倫理やらが発生してくるのは、運動系が関与するからである。好むと好まざるとに関わらず、構造主義は視覚系とは縁が切れない。構造主義者なら、「意志」についてはほとんど語ろうとはしないであろう。こんなものを持ち出すと、構造主義者はたちまち、脳のいちばん後から、いちばん前に移動しなければならないからである。構造主義なるものが、「実践」とあまり縁がないのは、脳の地図からは当然のことである。両者はまさに「対極」にある。>(252-3頁)

<…視覚主義の長所は明快さにあり、聴覚主義の長所は関連性の広さにあると言ってよいであろう。だから、後者の方が長くなり、プラトンよりはアリストテレスの方が長くなる。運動系の哲学は、ゆえに機能主義と親近性を持つはずである。それが自然の連絡だからである。他方、構造主義がもっとも親近性を持つのは、実存主義であろう。これは行動における瞬間の思想だからである。両者が相反するように「見える」のは、行動の有無に過ぎない。構造主義者が行動に移れば、実存主義者であることが判明するであろう。それしか成りようがないからである。>(253-4頁)


【303】夏休みのハード・プロブレム(13)

★J・ヒルマン著『世界に宿る魂──思考する心臓[こころ]』(濱野清志訳,人文書院:1993/1999)

 「訳者あとがき」によれば、著者ヒルマンは、ユングとアンリ・コルバンを思想的源流として、個人の分析にとどまらず、この世界そのものを視野に入れたこころの問題を考えていこうとする自らの方向性を「元型的心理学」の名称で呼んでいるとのこと。エラノス会議ほかでおこなわれた講演をもとに、「心臓の意識」(the Thought of the Heart)と「世界のたましい[アニマ・ムンディ]──世界へのたましいの回帰」(the Soul of the World)の二論文が収められています。──以下、若干の抜き書き。

◇「心臓の意識」第一章から──「告白」と「祈り」を中心に
<想像的(imaginal)なるものを回復しようとするなら、私たちはまずその器官である心臓すなわちこころと、それに見合った哲学を復活させなければなりません。>(13頁)
<…西洋近代意識にはそれ自体のこころを適切に瞑想しうる哲学が欠けています…。>(14頁)
<この世界は生きたイメージの場であり、私たちの心臓[こころ]はそのことを私たちに告げ知らせる器官なのです。>(24頁)
<歴史は心理学だともいえます。といいますのも、伝統はつねにたましいの中でずっと続いているからです。。>(30頁)
<イマジネーションが閉め出されるとき、残されたものはただ主観性のみ、すなわちアウグスティヌスのこころのみとなるのです。/そして、この主観的感情としてのこころがイマジネーションを監禁しているわけです。>(38頁)
<[アウグスティヌスが切り開いた]この様式[ジャンル]こそ、主観の開陳、告白であり、一人称単数という自我のレトリックが必要となる様式です。>(39頁)
<〈fassus〉に由来する「告白(confession)」という単語は、「見せる」「光」「輝く」といった意味をもつギリシア語の〈pha〉、サンスクリット語の〈bha〉を語根にもっています。アウグスティヌスやルソーという個人がではなく、見せるという告白の文芸様式こそが、こころの深淵、測りがたいものとして経験し、深い内奥の闇を収納する押し入れとして人の人格を経験するスタイルを作り出したのす。>(40頁)
<告白と[コルバン由来の]物語ることとの違いは「経験」についての新しい認識に到達するという点にはっきりと見出されます。告白は経験を「私の」経験に閉じこめます。(略)/ところが物語ることというのは経験した出来事の説明であって、私の経験そのものの説明ではないのです。>(42-3頁)
<…一人称単数というのは単一の感情を暗黙のうちに前提としている…。報告者は一人で単数ですが、一方、感情は複数あるものです。>(44頁)
<…経験を把握するためとはいえ、それを所有する必要はないのです。(略)/経験主体が世界をまとめて保持するというこの問題は、単に一人称単数の文法が存在論を生み出すという言語ゲームであるだけではありません。これはより深刻な告白的存在論の問題であり…私たちの文法を支配する個別人格主義(personalism)的なこころの問題なのです。>(45頁)
<宗教の慣例では告白は祈りのあとに続く一連の行為としておこなわれます。(略)告白は個人的な経験を訂正しはしますが、その経験から私たちを引き離すことはないのです。告白することはこころの中の神的なるものへの献身でもあることを理解していなければ、それは単なる自伝にすぎないことをアウグスティヌスは知っていました。>(45-6頁)
<転移は世俗化された告白の究極の結末であり、ユングが述べたように転移の解消は非個人的なもの、想像的(imaginal)な領域の人格への宗教的な配慮にあります。私たちが経験の告白的スタイルからこころを解放し、そのイメージに対する祈りに満ちた反応、証言、コルバンの物語ることへと向かうときはじめて転移は心理療法の秘儀として動き始めるのです。>(47-8頁)

◇「心臓の意識」第二章から
<私たちはすでに、プシュケーの本性を表現できる完全な深層心理学が美的感覚的なものについての深層美学でもなければならないことを理解すべき地点にまでやってきています。>(53頁)
<美は表面に現れたものを超越しているわけでもなく、またその内部に内在して隠れているわけでもないのです。むしろ美は外に現れた外観、創造されたそのまま、与えられたかたちそのもの、感覚データ、むきだしの事実、裸のヴィーナスなのです。>(55頁)
<…美はまさにコスモスすなわち宇宙の感覚能であり、手触りや肌理、音調[トーン]、味わいをもっています。(略)/ギリシア語のコスモス(kosmos)は、元来美的感覚的な観念であったこと、多神教的な観念であったことをここで思い出してください。>(56頁)
<出来事そのものがイメージなのです。出来事はイメージとして自己提示(Selbstdarstellung)し、そこにおいてそれ自身を内省し、反映(reflect)します。美的感覚的内省は感覚とともに直接的にもたらされ、美的感覚的反応は内省を反射(reflex)に縮約します。>(63頁)
<こころの思考は相貌的な思考だといえます。>(59頁)
<私はこの小著で、ハーヴィ以前、アウグスティヌス以前の心臓[こころ]の中の獅子を思い出し、そうすることで想像することに動物的感覚を回復させようと試みてきました。この心臓[こころ]は美的感覚的反応に目覚めます。それは事物の表情に気づく動物的意識ともいえます。(略)/この心臓[こころ]の思考は私たちを動物の思考へ、すなわち告白のとらわれから解放されて直接的に触れることのできる内奥の感情へと連れ戻します。>(90頁)
<存在することは彼女[アフロディーテー]に、あるいはそれらに知覚され認められることです。それは単に私たちの美的感覚的反応であるだけでなく、私たちにたいするそれらの反応でもあります。あらゆる事物が一つの主体を中心に回っている科学的宇宙、ユニヴァースにおけるような観察者としての主体ではなく、事物の眼差しにひれ伏し、私たち自身が陳列の対象となる、私たち自身という主体なのです。>(91頁)

◇「世界のたましい」から
<心理学にたましいをとりもどすには、つまりその深層にルネサンスをもたらすには、この世界にこころの深層をとりもどすことが必要となる…。>(96頁)
<こころの現実という場合、経験する主体という私的領域と死んだ客体という公共領域の区分けにそれは基づくのですが、この慣れ親しんだ考え方のかわりに、多くの文化(西洋の文化人類学者に言わせると原始的アニミズム段階の文化ですが)に広まっているある一つの観点を提起したいと思います。この観点はフィレンツェとマルシリオ・フィチーノを通して私たちの文化にもほんのしばらく輝いていたことがありました。プラトン主義における世界のたましい(world soul)のことをいっているのですが、これはまさにたましい(soul)のこもった世界のことなのです。
 世界のたましい[アニマ・ムンディ]とは何でしょうか。この世界の上にあってこの世界を取り囲み、遠くから神のごとく霊を流出する世界、事物を超越した諸原理、諸勢力、諸元型の世界とは思わないでください。また、物質界の内にあってそれを統一する汎心的な生の原理だろうとも思わないでください。そうではなく個々の事物を通して目に見える形をもって現れるあの独特なたましいの閃光、その種子的イメージとして、世界のたましい[アニマ・ムンディ]を想像してみましょう。そうすると世界のたましい[アニマ・ムンディ]とは、個々の出来事に現れる生気をおびた可能性をそのまま示し、表に出た顔がその内にあるイメージを語るような感覚的提示を表すことになります。簡潔にいえば、個々の出来事がイマジネーションに開かれていること、こころの現実(psychic reality)として存在することです。動物や植物にだけたましい(soul)があるというロマン主義的考えではありません。すべての個々の事物にたましい(soul)があります。神が与えたもうた自然の事物にも、人の手になる街なかの事物にもです。
 世界は輪郭、色、雰囲気、質感をともなって現れます。自己表現するさまざまな形相[かたち]をあらわにするのです。あらゆる事物は顔をもっています。世界には意味を読み解くためのコード化された署名が書き込まれているだけではありません。世界は面と向かうべき表情をもっているのです。>(105-6頁)
<…個人と世界は分けることのできないものであり、一方はつねに他方に織り込まれている…。人間のこころに生じるいかなる変化も世界のこころにおける変容と共鳴します。>(110頁)
<…美的感覚的反応の意味するところは、この世界にたいする動物的感覚というものにより近いのです。この感覚とは、表面に現れた事物の手がかり、すなわちその音、におい、輪郭などを嗅ぎ分けること、自分の心臓[こころ]の反応に語りかけ、また心臓[こころ]の反応を通して語ること、私たちの身の回りにひしめく事物の外観、ことば、音調[トーン]、しぐさに反応することなのです。/事物意識(thing-consciousness)は自己意識(self-consciousness)の概念を主観主義の拘束を乗り越えて展開させる可能性をもっています。>(119頁)
<…「経験」の中に収まってしまう言語様式ではなく、事物に生命力を吹き込み、活性化した表情を取り戻させる言語様式…。>(124頁)
<私たちは、主体・客体、主観・客観、左・右、内的・外的、男性性・女性性、内在・超越、精神・身体といった対立するもののゲームを完全に終息させなければならないのです。私たちがいま大切に抱え込んでいることの多くが崩壊すると、この大切にされている過去の遺物に溜まっていた情動がその入れ物を壊し、溢れ出て、世界に戻っていきます。
 入れ物を壊すことは世界に戻っていくこと、もう一度世界に向かうことであり、私たちが世界のたましいを自分自身の内側にしまい込むことで世界から取り上げてきたものを世界に帰すことになるのです。この帰還によって私たちは世界を新しい目で眺めるようになります。そして私たちが世界に関心を向けることはまた、世界が私たちの方に振り向き、私たちに関心の目を向ける表情をもつようになることとつながります。私たちは世界を見つめ直すという単純な作業を通じて、見つめ直すことすなわち re-specting し、敬意を払います。これは心臓[こころ]の目によるもうひとつの見つめ方なのです。
 この見つめ直し、敬意を払うという作業には、私たちの言葉がもう一度そこにある何かに名づけることのできる、質を語ることのできる言葉となるように言語そのものを再構成していくことが必要となります。それは、そこにある何かについて私たちが何を感じるかや、そこにある何かから離れて抽象化していくこととは異なります。単に私たちの感情の客観的記述でもない指示対象をもった言語です。それどころか、世界と反響しあう具体的なイメージ、私たちの語り、動物の語りがその言葉の空虚感を満たすことになるのです。>(136-7頁)


【304】夏休みのハード・プロブレム(14)

 ようやく心脳問題探索への入り口に立ったばかりではありますが、思うように作業がはかどらないので、このあたりで中間的な総括をしておいて、というより気になる点をいくつか列記したうえで撤収し、問題解明(あるいは解消)への「見取図」の制作は他日を期すことにします。──論点は、心脳問題というときの「心」とはそもそも何か、心と脳の「関係」とは何か、そして「情報」とは何か、の三つに整理できるのではないか(と思う)。

 第一の論点。意識[consciousness,awareness]、こころ[heart]、自己=自我[self]、私[I]、精神[mind]、魂[soul]、霊[spirit]、表象[representation]、情動[affection]、意志=意図[intention]、等々。(確か、藤原新也著『全東洋街道』に出てきたトルコの娼婦の言葉、「人間は肉でしょ、気持ちいっぱいあるでしょ」、というときの「気持ち」も含めて。)──これらのうち、どの「心」を対象とするのか、しかもどのような定義=限定のもとでとり扱うのかによって、問題の様相はまったく異なってくること。

 あるいは、心と脳、心と身体、心と物、霊と肉、精神と物質、文化と自然、等々。──これらは、それぞれが異なった「心」を問題としているのではないかということ。そしてまた、「心」とは何か、という問題は、養老氏が典型的な脳の学と規定した(『唯脳論』110頁)意味での「哲学」の問題にほかならないのではないかということ。

 第二の論点。因果関係や対応関係のメタファーを超えた心と脳の関係、というときの「関係」とはそもそも何か。あるいは、粒子と波動、離散と連続、生と死、有限と無限、内と外、面と体、主観と客観、世界と自我、超越と内在、神化と受肉、等々。──これらの事柄をめぐる「関係」とは何か、仮にそれが意味的・論理的関係にほかならないのだとしても、では「意味的・論理的関係」とはいったい何かということ。(それはパースの記号学やケネス・バークのロゴロジーでもって解明できるものなのかどうか。あるいは「推論関係」などと呼びうる関係を構想することは可能か。)

 そしてまた、この問題は、養老氏が哲学とともに典型的な脳の学と規定した「数学」の問題にほかならないのではないかということ。たとえば、ペンローズが注目する「コホモロジー」の概念(『心は量子で語れるか』214頁)。

 第三の論点。茂木氏は、脳内の物質的過程と心的現象との関係を考える際、シャノン的な「情報」という観点からのアプローチには限界があると書いていた。

<シャノンが使っているような意味での「情報」の概念は、そのままでは心の問題の本質に迫ることはできないのである。心の中の表象を扱うためには、シャノンが捨象してしまった、情報の持つ「意味」、「質感」を直接対象にしなければならない。ニューロンの発火との関連で言えば、心の問題を考える時には、シャノンの情報論的には等価な「ニューロンが発火する状態」と「ニューロンが発火しない状態」を、異なる意味を持つものとして区別する必要がある。>(『心が脳を感じるとき』52頁)

 「情報」とは何か。それは、たとえていえば生者と死者、機械と幽霊、動物と人間、神と人間、等々の「関係」を問う言語そのもの、あるいはシステムそのものの起源と構造と機能と変容(進化)をめぐる学、第三の脳の学ともいうべき「神学」の問題に帰着するのではないか。(啓示と預言。一人称単数の「告白」と二人称単数の「祈り」。旧約=古い脳を包含する新約=新しい脳。)──もしかすると、心脳問題とは「北の精神」(ヒルマン『世界に宿る魂』132頁)が生み出した虚構ではないのか。

 補遺の一。遊佐毅氏(姫路工業大学理学部)は「21世紀の新技術と現代数学」[http://proxy.cnts.himeji-tech.ac.jp/material/math/sangakul.html]で、次のように書いている。

<今世紀後半、純粋数学において最も中心を占めてきた話題を標語的に述べるなら「局所から大局へ」となります。すなわち、「局所的に見たのでは判別できないような構造物の大局的な状況の違いをどうやって取り扱い、研究していくか?」ということです。/それに関連して、幾何学を発祥の地として、「多様体」および「コホモロジー論」と呼ばれる理論と技術が開発され、現在ではそれらに解析や代数、そして物理までもが大きな影響を受けつつあります。>

 遊佐氏はまた、かなりおおざっぱな言葉使いであることを断わりながら、多様体を<比較的単純な局所的対象を、有機的に組み合わせることで出来上がった構造物>と、コホモロジー論を<そういった有機的な構造をもつ「多様体」の局所的な研究だけでは捕らえきれない、「多様体」全体として初めて意味をなすような情報を捕らえるべく開発された数学的な技術>とそれぞれ説明し、これらの理論と技術の応用が期待される分野について、次のように書いている。

<若干の暗示的な言い方では「バラバラにしてしまうと意味がなく、組織体にして初めて意味が生じるような(非常に困難な)問題」を扱う分野となるでしょう。こう述べると大概のものが該当しそうですが、少なくとも数学においては実際にそのとおりだったのです。もう少しくわしく具体例を挙げてみれば、情報科学─特に新世代のコンピュータの設計、生命科学─特に大脳の高度な機能の解明、化学─とりわけ巨大な高分子の相互作用に特有の現象を扱う分野、などがそれに該当すると思われます。>

 補遺の二。死んでいるということは、死者にとってどのようなことか。──死者と生者の「関係」について、柳田邦男著『犠牲[サクリファイス]』(文春文庫)に収められた文章からの抜き書き。

◇「百年の孤独」から。
<彼が抱いていた究極の恐怖とは、人間の実存の根源にかかわることで、一人の人間が死ぬと、その人がこの世に生き苦しんだということすら、人々から忘れられ、歴史から抹消されてしまうという、絶対的な孤独のことだった。>(21頁)

◇「脳死・「二人称の死」の視点を」」から。(ここでいわれている「死」を「脳」に置き換えてみよ。)
<われわれは人の死というものを考えるとき、自分の死も他人の死もいっしょくたにしていることが多い。しかし、死というものには、「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」があり、それぞれにまったく異質である。>(222頁)

◇「文庫版へのあとがき」から。
<…そうした切々たる[読者の]手紙から伝わってくる深いものがある。それは、人は悲しみの海のなかから真実の生を掬い取るのだということだ。私自身、息子を喪った悲しみは、むしろ時がたつにつれて深まるばかりだし、ひとりでいるとき、何かのきっかけで涙があふれてきて止まらなくなることが、しばしばある。そして、不思議なことに、悲しみの深まりと比例するかのように、洋二郎の魂の実在、洋二郎の魂が私の心の中にしっかりと生きているということを、ますます実感するようになっている。その実感は、「生きてゆく自分」を日常のなかで自己確認する感覚に直結しているように思える。>(278頁)

 補遺の三。情報神学的「原システム」論と神経哲学的「抽象システム」論のための序説的覚書。──ある特殊なシステム(たとえば脳)があって、これに対応してある特殊な観測者(脳)がいる。この二つの要素からなる全体を「原システム」と名づけよう。そして、この原システムから観測者を除去して考えられたシステムを「抽象(あるいは一般)システム」と名づけることにしよう。

 抽象システムは、その「内部」に「測りがたい」深淵や超越や分裂や矛盾等々をかかえている。なぜなら、そこには観測者がいないから。──この抽象システムにおける不在の観測者は、時として「神」とか「意志」などと呼ばれることがあるが、実はそれは「外部」に仮構されたインターフェイスないしは「外部」へのパスウエイのこと、「鏡」とでも名づけるべきもののことをいっている。(たとえば、「鏡」と「自己」の二つの要素からなる擬似「原システム=情報システム」としての「精神」。)

 ──以上の議論に関連して、富岡幸一郎著『使徒的人間』の次の記述を参照のこと。

<神とあのひとりの人間(すなわちナザレのイエス)およびその民(すなわちイスラエル=ユダヤ人)との間で起こる原歴史(Urgeschichte)>(186頁)の故に、<あの一般的なるもの、すなわち世界と人間とがある。この特別なもののなかで、一般的なものは、その意味をもつ。聖書はこの特別なものへとわれわれの視線を集中させる。決して一般的に「神」について語ったり、「人類」について語ったりはしない。特殊から一般へ、これが聖書的思考の本質である。>(188-9頁)


【305】夏休みのハード・プロブレム(15)

 さて、今後の作業のためのラフ・スケッチはこれくらいにしておいて、以下、未完のまま終わりつつある「夏休みの宿題」をこなすために目を通した書物のリスト(と一部の抜き書き)を掲げておくことにします。

 ロジャー・ペンローズ著『心は量子で語れるか』(中村和幸訳,講談社ブルーバックス:1997/1999)と、竹内薫著『ペンローズのねじれた四次元』(講談社ブルーバックス:1999)の二冊は、読むことは読んだし、それなりに面白かったのだけれど、数式の出てこない数学書は、楽譜で音楽を味わうようなもどかしさがあって、鮮明な記憶が残っていない。(もっとも、数式の出てくる数学書はそもそも読了できないのだけれど。)

★計見一雄著『脳と人間』(三五館:1999)

 養老孟司氏が「この国で初めて、輸入品でない精神病理学が出た」と、澤口俊之氏が「精神医学と脳科学をこれほどうまく融合している書は本邦初ではないだろうか」と、それぞれ絶賛している。

 確かに、「意図のセンター」(前頭連合野のワーキング・メモリー)と「リンビックシステム」(記憶と情動を司る辺縁系:ギリシャ語のリンボ=辺境に由来する名)にかかわる「精神病理学的な記録」から「精神の生理学」へ、そして井筒俊彦をはじめ「東洋思想から見た意識の構造」にまで及ぶ叙述は、臨床家的現実感覚(?)に裏うちされて、読ませる。──以下、実践的知見と理論的勉強ノートが混在した本書からの若干の抜き書き。

<こころは、内臓だ…。感情は内臓感覚である。>(188頁)
<過去・現在・未来に関する意識が現在を構成するのだが、そのうち過去と過去に由来する現在は聴覚的意識が、未来と未来におよぶ現在は視覚的意識が優位に働いて構成している模様である。>(229頁)
<精神の病、魂の病、心の病気という捉え方の全部とは言えぬまでも、少なからず間違ってたのではないか? ヒトが時間の中で生きていくための、機能のどこが具合悪くなってるのかと問題設定すると、運動という答えが出てくるのだ。脳は認識のセンター、思考の源でもあるけれど、主には運動器官であると私は思っている。思考も運動、認識も運動的契機を含んだ活動の産物ではないだろうか。>(319頁)
<言語アラヤ識は豊穰である。絢爛たる意味のエネルギー・フィールドでもある。/そういう豊穰さやエネルギーは、結局のところリンビックシステムまたは言語アラヤ識が肉体とつながっていることによる。それと切り離されたワーキング・メモリー[予測・計画・実行を司る「戦争用」の脳]は生物としては無意味である。(略)/[前頭連合野が壊れると]その結果、バラバラの意味表象、無秩序なエネルギーの奔流にさらわれてしまう。その時、我々精神科医がなんとか回復させようとしてまず手をつけるのが、肉体の自律性である…。寝ること、食べること、排泄すること、それから適正に動くことである。肉体が先、脳の回復は後からついてくる。当てになるのは、からだである。/私は東洋に回帰なんかしないが、臨床には回帰せざるを得ない。西と東のパラダイム変換にも、似たような肉体性が共通の基盤として必要になるだろうという気がする。具体的にはどういうことなのか、まだ分からない。>(381頁)

★ダニエル・デネット著『心はどこにあるのか』(土屋俊訳,草思社:1996/1997)

 ポール・ヴァレリーはかつて「心の仕事は未来を築くことである」といった(そうだ)が、デネットはこれを受けて、<心とは、基本的には、予感するものであり、期待を生成するものである>(109頁)と書いている。──以下、第4章「心の進化論」に出てくる生物の三つの型について、それぞれの遺伝子と環境との関係を示した図に付された解説文を転記。

◎「ダーウィン型生物」(150頁):「生化学的構造が異なる」表現型がある→一つの表現型が選択される→選択された遺伝子型が増殖する。
◎ダーウィン型生物の一部「スキナー型生物」(153頁):いろいろな反応を「盲目的に」試行する→「強化」によって一つに選択される→次の場合には、その生物の最初の行動は強化された反応になる。
◎「ポパー型生物」(157頁):ポパー型生物は、行為の選択肢を事前に検討する内部的選択環境を持つ→最初から、ポパー型生物は洞察的に(偶然に頼るよりは安全に)行動する。[ポパー型生物は「脳の内部環境で事前選択をする能力」をもつ。]
◎「グレゴリー型生物」(175頁):グレゴリー型生物は(文化的)環境から[他者が考案し、改良し、変形させた]心的道具を持ち込む。これらの道具は、生成とテストを改良する。

★ジョン・L・キャスティ著『ケンブリッジ・クインテット』(藤原正彦・美子訳,新潮社:1998/1998)

 C.P.スノウとアラン・チューリングとJ.B.S.ホールデインとエルヴィン・シュレーデインガーとルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの架空の座談会。刺激と魅力と趣向に富んだ書物。とりわけ印象に残ったのは、シュレーデインガーのいくつかの「発言」と後日談の締めくくりに出てくる(究極の?)文章。

<機械に人間のように考えさせるというのは、ロボットにサッカーをさせることに似ている、と多くの人が感じている。それは可能かもしれない。でも何のために。馬にダンスをさせるようなものだ。この半世紀の研究によって明らかになってきたのは、機械には機械の、人間には人間の知性があるということ、そしてそれらは当面、仲良く共存するということである。この二つは袂を分かちながら、それぞれの進歩をとげていくであろう。もし今日チューリングが生きていたら、このような形で彼の夢が実現されたのを見て、苦い勝利と思うのではないだろうか。>(208-9頁)

 シュレーデインガーの「発言」を一つだけ記録しておく。

<「あなた[チューリング]はさきほどゲーデルの定理、すなわち数に関する命題で、論理的には正しいとも誤りとも決定できないものがある、とおっしゃいました。でもわれわれ人間には、その命題が正しいとわかるのです。それらが正しいと証明できないだけのことなのです。このことは、人間の精神は知ることができるが、機械には知ることのできない事柄が存在するということではないですか」>(94頁)

 付記。本書でのヴィトゲンシュタインの役回りにやや不満が残ったので、ミハイル・バフチーンの兄ニコライと銃殺刑を免れたジェイムズ・コノリーと『ユリシーズ』の主人公レオポルド・ブルームとヴィトゲンシュタインの「想像上の会話」を描いたテリー・イーグルトン著『聖人と学者の国』(鈴木聡訳,平凡社:1987/1989)を「口直し」に再読してみよう。

★高橋昌一郎著『ゲーデルの哲学』(講談社現代新書:1999)

 「不完全性定理と神の証明」という副題に興味を覚えて読んでみた。著者によると、ゲーデルの「神の存在論的証明」(1970年)は次のように単純化できるという。──しかし、それが無矛盾であったとしても「So what?」。むしろ面白かったのは、第3章「不完全性定理の哲学的帰結」で述べられているゲーデルの「数学的実在論」の方だった。

<神性Gは、肯定的性質である。ゲーデルの様相論理体系においては、任意の肯定的性質Pに対して、Pを持つ対象が少なくとも一つ存在する可能性が導かれる。したがって、神性Gを所有する対象xが少なくとも一つ存在する可能性がある。この結果に定理2[略]を適用すると、Gを所有する対象xが、少なくとも一つ必然的に存在する。さらに、定理1[略]と定義2[略]により、その対象xは、Gを唯一持つ対象である。ゆえに、唯一の神が存在する。>(217-8頁)

 付記。高橋氏が本書第3章で紹介しているゲーデルのギブス講演(1951年)やカルナップ記念論文集に投稿する予定だった哲学的論文は、ロドリゲス−コンスエグラ編『ゲーデル未刊哲学論稿』(好田順治訳,青土社:1995/1997)に掲載されている。(本箱で眠ったまま。いつか読むべし。)

★西垣通著『こころの情報学』(ちくま新書:1999)

 文系の知が拓いた沃野に理系の新たな知がそそがれたとき何が生まれるか。著者はここに情報学の魅力の一つがあると書いている(150頁)。──再読するつもりが果たせなかった。ここでは、本書で扱われている問題の一つ「機械で心はつくれるのか」をめぐる文章を抜き書きしておく。

<〈情報〉とは決して機械的・非生命的なものではなく、逆に生命現象特有の存在です。「ヒトの心」とは、社会的な情報が織りなすダイナミックなプロセスそのものですから、非生命物質である機械で容易につくることなど不可能なわけです。>(88頁)
<「ヒトの心」を端的にあらわせば、「機械の心をつくろうとする動物の心」と言えるかもしれません。つまりそれは紛れもなく動物の心的システムの一種なのですが、みずからの心的システムの類似物を製作しようと懸命に努力し続けるという特徴をもつのです。/機械とはヒトが自由に統御できるものです。少なくとも統御可能性が目ざされる存在です。(略)/とすれば、みずからの心を情報処理機械とみなすヒトという存在は、みずからを統御し管理しようという強い欲望をもっているとも考えられます。>(179-80頁)

★下倏信輔著『〈意識〉とは何だろうか』(講談社現代新書:1999)

 これも再読を果たせなかった書物。──心の無意識的・無自覚的な過程を調べることには長けてきた科学が、なぜ自由意思に代表される志向性や能動性といった側面での意識の研究を苦手としてきたのか。その理由の一つは、科学の方法論がその本質として脳や認知過程を状況から切り離し孤立させるからだ、と著者は書いている。

<…脳科学の本筋の中に「脳の来歴」、脳と身体と環境世界との相互作用の「来歴」をもう一つの軸として入れたなら、事態が変わってみえてくるのではないか。外堀(無意識)を埋めることによって、内堀(意識)の正体が見えてくるのではないか。従来の脳科学のめざましい成果の延長線上で、これまでの研究の弱点を乗り越えることができるのではないか。これがこの本全体の一つのメッセージでもあるのです。>(223頁)

 ここに出てくる「脳の来歴」について。<そもそも、無意識が意識の基盤でありえる理由は、無意識的過程こそが「脳の来歴」の貯蔵庫であるからだと思います。また「来歴」がその影響力を行使する場所でもあるのです。>(206頁)

★下倏信輔著『サブリミナル・マインド』(中公新書:1996)

 個人にとっては自立と自由意思に基づく行動であっても、集団的な種としての人間を巨視的に見ると、決定論的解釈が可能であること。このような「自己認識の多重構造」の中で、「近代的な自我」や自由は根拠を失い、崩壊していくのではないかと下倏氏は書いている。

<その後に何がくるのか、私たちの時代の究極的な価値である「自由」と「意志」が、どのようなかたちで救い出され得るのか、私にははっきりした見通しはありません。ただひとついえるとすれば、このような自己認識の多重構造は、個人の精神においては、潜在的過程(=他人の客観的視点)と顕在的過程(=自分の主観的視点)との多重性というかたちで先鋭化しています。しかもこの両者は、(繰り返し強調してきたように)互いに孤立しているわけではなくて、その境界は絶えず揺れ動き、また絶えず相互作用を繰り返している。つまりその意味では、乖離してはいないということです。>(292-3頁)

★半田智久著『知能のスーパーストリーム』(新曜社:1989)

 半田氏は、「精神の重層構造」の考え方を提示している。すなわち、脳そのものの活動から生じる「内側の精神作用」(ポパーのいう「実在する物理的対象の世界1」と「意識・無意識を含む主観的経験の世界2」との相互作用過程に相当)と、この内側の精神作用から生じる二次的な「外側の精神作用」(ポパーのいう「世界2」と「芸術や科学といった人間の心の所産としての世界3」との相互作用過程に相当)。

<精神の重層構造論では意識体験と脳の働きの関係について、意識体験は二元論の主張するように脳とは別に存在すると考える。だが、意識は脳の働きと無関係ではなく、脳の活動が停止すれば意識も消失するのである。したがって、意識は脳と別に存在しうるといっても、たとえば大方の二元論が示唆するような死後の魂に類する存在は否定される。一方、これが一元論でないというのは、正統の一元論が主張するように意識体験とは脳内の神経回路の活動の写であるとする考え方を受け入れていないからである。
 意識が脳と別に存在するにもかかわらず、脳と独立に存在することができないということは、意識体験の成り立ちが脳の活動と脳の外に存在する精神的媒体との相互作用の過程の中に支えられているからである。>(165頁)

<今この本を読んでいる読者の精神活動についても読者自身の脳内で生じていると思われるであろうが、実際のところ、その活動はこの紙面を通じて私やこの本の中に埋め込まれた多数の人々の精神活動との相互作用の中で生じているのである。今ここで目を閉じて、じっと沈思したとしても、その意識体験はすでに読者の脳活動の領域を離れ、人類共通の精神領域に参画しているのである。>(166頁)