仮面考・第三回「身=実を割いて」



【271】仮面考・第三回「身=実を割いて」 (1)
 
■仮面の機能論─いくつかの仮説的言明を含む序
 
 仮面(的なもの)の第一の機能。──器の虚ろ(空洞、あるいは細川俊夫の「母胎空間」)に音が懐胎し増幅し、通い響きあい、そして穴を通して外へと発する。無人称のものの声(根源語[Ursprache]、あるいは祈りの言葉)として?
 
 声は再び穴(あるいは我=割れ目)を通して侵入し、膜(鼓膜、皮膚、界面)を震わせ身に浸透する。人称をもったものの名=汝として?
 
 仮面(的なもの)の第二の機能。──変換作用そのものの媒介と境界の造形。仮面は自らを痕跡として可視化する。たとえば顔は虚ろな器=穴を原器とし、膜=界面をもって形象化される。それは細胞膜のように、異なる浸透圧によって物質と魂を変換する?
 
 顔には無数の穴がある。(無数の隙間があいたスクリーンを通って、電子は自らに干渉する、歴史の痕跡をいっさい止めずに。)また、顔は身を積分する。身は自らに折れ曲がった管=壺=椀=盤である。(マイクロ・チューブル[微小管]における量子干渉によって産出されるもの。)
 
 仮面(的なもの)の第三の機能。──自らに折り返した穴(虚ろ)は、器の表面を二層化する。そして虚ろによって型取られた(象られた)もの、すなわち虚中の実として産出されるもの。脳、内臓、胎児、言語、イメージ、観念、概念、自我、自己、霊的物質、魂、意識、等々。
 
 生殖する身、食らわれる身、死にゆく身、腐敗する身、乱舞する身、変貌する身、仮面を被る身、浮遊する身、等々。
 
■マルシュアースの神話─音響の外被から触覚的な外被へ
 
 ディディエ・アンジュー著『皮膚−自我』(福田素子訳,言叢社:原著1985/訳書1993)で紹介されているマルシュアースの神話。
 
 アテーナーはシカの骨から管が二本あるフルートを作り、神々の響宴で演奏する。神々が皆その音色にうっとりとするなかで、ヘーラーとアプロディーテーだけは手で顔を隠しこっそりと笑っている。不思議に思ったアテーナーがフルートを吹く自分の姿をプリュギアの森の川面に映してみると、頬をふくらませ顔を充血させたその様はひどくグロテスクだった。アテーナーは、拾った者に呪いあれ、と叫びフルートを投げ捨てる。
 
 やがてマルシュアースがやってきてこのフルートにけつまづく。唇にあてようとすると、フルートはひとりでに鳴り出す。こうしてマルシュアースは、アッティスを悼むキュベレをフルートの音で慰めながら、その供としてプリュギア中をめぐり歩くようになる。その音に魅せられた農民たちは、アポローンの竪琴でさえこれほどの演奏はできまいといいはやす。
 
 怒ったアポローンは、勝者が敗者に意のままの罰を与えることができる技くらべを提案し、傲慢なマルシュアースはこれに応じる。優劣のつけがたい技くらべは、アポローンが、自分のように楽器をさまさまに持ち演奏しながら歌ってみよ、と挑戦を投げかけたことで決着がつく。
 
 マルシュアースはアポローンによって生きながら全身の皮をはがれ、その皮はマツの木に吊され、歴史時代にいたってもプリュギアの城塞都市セレーネーのふもと、マルシュアース川が流れ出す洞窟の中に保存されていた。この皮は、川の流れが奏でる音楽やプリュギア人の歌声を聞き分けることができた。(82-9頁)
 
 ──ディディエ・アンジューのコメント。<…マルシュアースの神話の中で、他のギリシア神に比して注目すべきと思われるのは、まず第一に音響の外被(音楽によってもたらされる)が、触覚的な外被(皮膚によってもたらされる)へと移り変わってゆく点、第二には、不吉な運命(はがれた皮に表現されている)が幸運をもたらす運命に回帰していく(保存されたこの皮は、マルシュアースの再生と国内における生活の維持や豊穰の復活を守る)点である。>(80頁)
 
 ここで出てくる「音響の外被」をめぐるアンジューの文章の抜き書き。
 
◎心的空洞としての「自己」の形成─音響的鏡すなわち聴覚−音声的皮膚
<触覚に依託された二次元的な界面としての「自我」の境界や限界が確立されるのと平行して、音響的(および味覚的、嗅覚的)世界の投射により、前個人的な心的空洞としての「自己」が形成される。ちなみにこの空洞は統合やアイデンティティの萌芽を含んでいる。呼吸感覚は「自己」に、空となりまた満たされる容積という印象をもたらすが、音を発する際にその呼吸感覚と結びつく聴覚は、「自己」が空間の三次元(方向と距離)および時間的次元を考慮に入れつつみずからを形成するための下地をつくる。(略)…D.W.ウィニコットは、ラカンの考えたような「自我」が他者として全身の鏡像というモデルに基づいて構築される鏡像段階に立ち戻り、母親の顔と周囲の反応が子供にとって最初の鏡となるような、より早い段階について述べた(1971)。子供はこうして反射されてきたものに従って「自己」を形づくっていくというのである。だが、ラカン同様、ウィニコットは視覚的合図を強調している。私は、それよりさらに初期に音響的鏡すなわち聴覚−音声的皮膚が存在すること、心的装置が意味とのちには象徴の能力を獲得する過程においてそれがどのような機能を果たしているかを、これから明確にしていこうと思う。>(259-60頁)
 
◎最初の心的空間=音響の空間─洞窟のような形態をとるもの
<音響的空間は、最初の心的空間である。(略)これらの音響は、クセナキスがおそらく「ポリトープ」において音楽的なヴァリエーションとレーザー光線を用いて作りだそうとしたもの、すなわち原初的な心的特性を持つ諸信号の、空間や時間に縛られない交錯にも似たなにかを作り出しているのである。またあるいは哲学者ミシェル・セールが、流れや分岐、信号の明かりによってつかの間照らし出される根源的な無秩序の雲などについて述べようとする事柄とも比較できよう。こうした音響の基盤の上に、クラシックであれポピュラーであれ音楽のメロディー──豊かな響きを持つ音からなる、いわゆる音楽──や、抑揚と固有の個人的特質を持つ人の声や歌声が現れてくることができる。(略)音響の空間は──もし比喩に頼ることで視覚的に表現すべきであるとすれば──洞窟のような形態を取る。胎内や口腔−咽喉のように空洞になった空間なのである。安全に保護されてはいるが、ぴったりと閉じてはいない。その内部がざわめきと反響と共鳴とに満ちあふれている広がりである。聴覚的な共鳴という概念が、科学者にあらゆる物理学的な共鳴のモデルを、心理学者や精神分析者の集団には人間同士の無意識的な交流のモデルを提供したということは決して偶然ではない。それ以後子供がつぎつぎと住むようになる別の空間、つまり視覚的空間、視覚−接触的空間、運動的空間、そして最後に書記的空間等々は、自分に属するものとそうでないものとの相違、「自己」とまわりの環境との相違、「自己」の内部での相違、環境の中にある相違等々を子供に教えていく。>(281-3頁)
 
 付記。アンジューによると、ジェラール・クラン Ge'rard Klein のSF小説『こだまの谷』(1966)に「音響化石」というアイデアが出てくる。──火星のそそりたった岩壁に「多くの声のつぶやき」「一民族全体とも言えそうな巨大などよめき」がこだましている。そこは音響の集積が化石となった宇宙で唯一の場所なのである。一人の探検家が突き進んでいくと、声は弱まりついには死の静けさが訪れる。「なぜなら彼の体がついたてとなったからだ。それらの軽やかで希薄な音声と接触するには、彼の体はあまりにも重く物質的過ぎたのだった。」
 
◎音響化石─ぼろぼろになった聴覚−音声的な屍衣
<生きた肉体とは無縁に、むなしい反復の強制によってみずからを維持している音響に関するみごとなメタファーである。それはまた、ぼろぼろになった聴覚−音声的な屍衣の、先史的な記憶と致命的な脅威とを表してもいる。この屍衣はもはや包みこむ機能を持たず、「自己」内部に心的生活や意味を留めおくことができないのである。>(286頁)
 

【272】仮面考・第三回「身=実を割いて」 (2)
 
■思考の発生学
 
 ディディエ・アンジューは『皮膚−自我』第一章「認識論的立場に基づく序」で、<もし、思考が脳と同じほどに皮膚に関わるものであったら? そうして「皮膚−自我」と定義される「自我」が外被の構造を持つとすれば?>(21頁)と問うている。──以下、この問いに続く文章の引用。
 
◎思考の発生学─知覚表面としての脳と皮膚、外皮と内核の嵌合構造
<いわゆる論理的思考の習慣から脱却する際、大いに有用なのは発生学である。原腸胚の段階において、胚は一方の極から「陥入」することによって袋状の形態をとり、外胚葉と内胚葉の二つの胚葉に分かれる。これはほとんどすべての生物に見られる現象である。あらゆる動植物の皮膜は、例外を除き内膜と外膜の二層からなっている。胚に話を戻そう。この外胚葉から皮膚(感覚器官を含む)と脳とが同時に形成されるのである。頭蓋によって保護された知覚表面である脳は、最表層部の肥厚と硬化によって保護された知覚表面である皮膚およびその感覚器官とつねに関わりを持っている。脳と皮膚はどちらも表面なのである。内部表面(全体としての身体を考えた場合)である大脳皮質は、外部表面である皮膚の媒介により外部世界と接触を持つ。さらにこれら二つの表層は各々少なくとも二層からなっている。より外側にある保護層と、その下もしくは内部に通じる孔の中で情報を収集し、さまざまな交換を行う層とである。神経組織モデルに従えば、思考というものは、核の分離、並置および結合としてではなく、表面と表面の間の関わり合いとして現われて来る。そしてその際表面同士の間では、…一種の嵌合構造が成立している。すなわち各々が他に対してある時は外皮の、ある時は内核の立場を取るのである。>(21-2頁)
 
◎思考の基礎となるもの─皮膚、大脳皮質、性的結合
<解剖−生理学では陥入という言葉を用いるが、これは適切にもつぎのようなことを想起させる。すなわち膣は特別な器官ではなく、唇、肛門、鼻孔、瞼などと同様、刺激保護の役割を果たす硬い防護層を持たない皮膚の襞であり、そこでは粘膜が敏感で、感覚や性的興奮に刺激されやすく、それらは同じく敏感な表面である勃起したペニスの亀頭との接触によって頂点に達するという点である。愛を単なる二つの皮膚の接触──つねに期待された快楽にゆきつくとは限らない──に還元して考えるのでなければ、だれもがよく知っている事実がある。愛とは、ある一人の人間に最も深い精神的接触と最良の皮膚接触とを同時にもたらすというパラドックス的な存在なのである。このように、人間の思考の基礎となる皮膚、大脳皮質、性的結合の三者は、表面というもののとる三形態、すなわち包み込む外被、かぶさる覆い、へこんだ襞に対応する。>(22頁)
 
◎自我を包む二重の外皮─マジック・メモ
<すべての細胞は細胞膜に取り囲まれている。植物細胞はさらに交換のための小孔のあいた繊維質の膜を持っている。この膜は細胞膜といっしょになって細胞、ひいては植物の体にある程度の堅固さを与える(たとえばクルミは堅い殻と中身を包む薄い皮を持つ)。一方動物の細胞は柔らかく、他の物体に触れると容易に変形する。こうして動物には可動性が確保されるのである。生存に必要な生化学的交換が実現されるのはこの細胞膜を通じてである。
 最近の研究により、この膜が二重構造になっていることが確証された(この事実はフロイトの「不思議なメモ帳に関する覚書」[1925]における直観に通じるものがある。その中で彼は「自我」を包む二重の外皮を、一つは刺激保護、もう一つは書き込みをする表面として語っている。)。電子顕微鏡を通して見ると、二つの層ははっきりと分かれていて、その間にはおそらくすきまがありそうである。キノコには、二分するのが困難な外皮を持つものと、二重の外皮が明確なものの二種類がある。実際に観察可能な他の構造例としては、タマネギの皮における互いにはまりこんだ膜の重なり合いが挙げられる。>(22-3頁)
 
■「皮膚−自我」の九つの機能
 
 アンジューによる「皮膚−自我」のアイデアの解説。
 
<「皮膚−自我」の確立は、自己愛的な外被の必要性に答えると共に、心的装置に確実で永続する基礎的な充足感を供給する。これに伴って心的装置は、対象へのサディズム的なリビドー的備給に力を傾けることができる。心的「自我」はそれらの対象物との同一化によって自己を強化し、身体的「自我」は前性器期、そして後には性器期の歓びを味わうことができるのである。
 「皮膚−自我」という概念で私が示そうとするのは、発達の初期段階にある子供が、身体表面の経験に基づいて、自分自身を心的な内容を含む「自我」として表現するのに用いる形象である。これは、心的「自我」が作用的な面では身体的「自我」と異なるが、形象的な面ではまだそれと混同されている時期に対応する。(略)
 心的なあらゆる活動は、生物学的な機能に基礎を置いている。「皮膚−自我」もその基礎は、皮膚のさまざまな機能にある。>(69-70頁)
 
 マルシュアース神話(後半)の分析を踏まえて、アンジューが提示する「皮膚−自我」の九つの機能。──『皮膚−自我』「解説」での渡辺公三氏の要約(390-1頁)に拠る。
 
(1) (母)親の手によって掴まれ支えられ、座る、立つ姿勢を保つ媒体となる。このことが乳児がみずから垂直的な姿勢を保持する自律性の端緒となる。また親による保持に対して乳児は親を掴むことで答える。これはアンジューによれば口唇的なリビドーの備給に先立つ把握の衝動の表れである。
(2) 身体的なもの(血など)だけでなく心的なものを内部に保つ〈容器〉であること。
(3) 外部からの刺激に対する保護装置となること。
(4) 外部との境界として個別性を保つこと。さらに「その艶、色、肌目、匂いの点で人間の皮膚は個人ごとにきわめて異なっている」。
(5) 皮膚は様々な感覚が〈図〉として布置される地をなしている。その意味で皮膚は「共通感覚」の基層をなす。
(6) 乳児の皮膚は母のリビドーの受容器となる。このことを通じて人の皮膚は性的興奮を支える表面となる。
(7) 外部刺激に対する過度な興奮によってリビドーの再充当がおこなわれる。
(8) 外界からの働きかけの痕跡を記しとどめること。この痕跡はイニシエーションの際に刻まれる社会によるしるしであることもある。
(9) 皮膚は自己免疫の現象あるいはアレルギー反応に見られるような自己破壊の現象の場ともなりうること。
 

【273】仮面考・第三回「身=実を割いて」 (3)
 
■思考─真空(器の虚ろ)を包みこむもの
 
 『皮膚−自我』に付された「解説」で、渡辺公三氏はアンジューの小論「パスカルにおける真空の概念の誕生」を紹介しています。
 
 ──パスカルは一歳の頃から一年以上、水を眼にすると失神状態に陥り、また父と母が同時に近づくと激しくこれを拒むといった不可解な症状を示した。そして二歳数ヵ月の時に妹が誕生し、翌年の母の死後、パリに移るとともにその天才が開花した。
 
 これらの事実に基づいてアンジューは、乳幼児期のパスカルが二つのヒステリー的恐怖症(原光景=両親の親密な関係への不安と、幼児が自分の身体から流れ出すものに対してもつ不安)にとらわれていたこと、そして母の妊娠が二つの恐怖症を強化したこと(母の妊娠が両親の親密な関係の証となったことと、身ごもった腹がこれと対極的なパスカルの空虚化への恐怖を想起させたこと)を指摘し、さらに、早熟な自我を対置させることでパスカルはこれらの不安を克服したのだ、と述べている。──以下、渡辺氏の「解説」から、アンジューの文章の孫引き。
 
◎空虚すなわち容器のえぐりとられた部分を包みこむ思考
<その早熟な自我によってパスカルは、思考が空虚[真空]すなわち容器のえぐりとられた部分を包みこむということを経験したように思われる。そして、身体内にあるものを喪失するという原初的な不安に対して、内部の対象ではなく、水という外部の対象にこの不安を投影する恐怖症を通じて、すでに一歳の時から、自己防衛することができたのである。不安にとっての恐怖の対象は、思考にとっての恐怖に抗する対象、研究対象となり、知ることによって制御される対象となる。一六四六年から父の死ぬ五一年、すなわち二三歳から二八歳まで、ブレーズ・パスカルは、『液体』の平衡の研究に専念するのである。>(395頁)
 
 こうして乳幼児期の母子関係にまで遡行して確かめられたパスカルの知的活動の源泉は、視覚的なものであるよりは広義の触覚的なもの(「身体から流れ出るもの」すなわち液状、固体状、ガス状という物質の三状態に対応するもの)である。──以下、渡辺氏の文章。
 
◎漏出する内部の身体・容器としての身体─母の親密な呼びかけ・音の被膜の形成
<幼児期の精神構造の変容に関して、たとえばラカンによる「鏡像段階」という視覚像を強調した概念に対比すれば、アンジューの思考の特徴はいっそう明らかになろう…。すなわち、視覚に対する、触覚あるいは聴覚、「分断された身体」に対する、「流れ漏出する内部の身体」、随意的に活動する四肢としての身体に対する、容器としての身体。それは母からの分離とエディプス期の重視に対する、母との接触の界面の強調と、前エディプス期の重視ということもできる。
 また少々飛躍すれば、歯の成長そして固体を噛み砕き分断するという世界接触と、液体を吸引し飲み込むという世界接触の、ふたつの様態の対比ともいえよう。それは歯の成長と咽喉の構造の発達による、分節された言語の獲得と、それ以前の喃語と五感の感覚メディアによる、とりわけ母との交流との対比でもある。それはまた、分節化された言葉で表現された「父の名」による召喚と、分節化以前の母による固有の親密な呼びかけ、そして音の被膜の形成との対比ともいえるかも知れない。>(397頁)
 
 また渡辺氏は「現実の母体となる女性の身体と、その身体と精神の布置」をめぐって、ディディエ・アンジューの妻アニー・アンジューの著書『特性のない女』を紹介しています。
 
◎凹み、胚胎、受容性─可視化された空虚の対極にある不可視の充溢
<そこでは、著者自身の要約にしたがえば、「女性の身体は、その性と産出力を〈内部〉に隠しているのであり、この〈内部〉は今日の科学的な知識に照らして見てさえ、不可視なものの秘蹟と結びつけられている」ことが問いなおされている。「生理的、心理的な内部性がこの本の軸をなしている。〈凹み〉、胚胎、受容性という観念こそ、女性が他者ともつ関係のありかただけでなく、女性の無意識の働きをも規定するのである」。だとすれば。アンジューがパスカルに託して述べる「可視化された空虚[真空]」の対極として、母体における「不可視の充溢」が置かれることになる。新たな生命が胚胎すべき〈凹み〉という規定は、内実を失って空虚になる危険を孕む身体を包むべき「皮膚−自我」に照明を当てる、もうひとつの視点を提供するものであろう。>(399頁)
 
■転移と共食─ロマネスクな家族小説のような出会い
 
 ディディエ・アンジューとジャック・ラカンの「運命」的な関係について。新宮一成著『ラカンの精神分析』(講談社新書:1995)第一章「3──エメとラカン」からの抜き書き。
 
<ラカンにその理論的出発点を与えたのは、劇場で女優Zにナイフで切りかかり、防ごうとした女優の手に重傷を負わせた、一人のパラノイア女性である。事件のあと、彼女はパリのサン・タンヌ病院に送られ、ラカンはそこで彼女を「エメ」と名付け、彼女の病歴を一九三二年の学位論文「人格との関係からみたパラノイア性精神病」の中で公にした。>(28頁)
 
<エメが退院し、学位論文が公表されたあとも、エメとラカンの関係は終わらない。エメの息子は、母親がそのような状態であったので、伯母の手で育てられることになる。彼は、大学を出たあと精神分析家になろうとする。そして、自分の教育分析家として、ジャック・ラカンを選ぶ。彼は、ラカンの「エメ」が自分の母親だということを知らず、ラカンの方は、ディディエ・アンジューと名乗るこの若い男が、エメの息子の成長した姿だということに気が付かない。ラカンはアンジューを、教育分析の中に受け入れる。エメは結婚前の姓でラカンの治療を受けていたので、双方が気が付くのが遅れたのである。互いが誰であるかを知っていたなら、彼らはおそらく避けるか断わるかしていたであろう。/しかしこの不思議な成り行きの中に、無意識の欲望が働いていなかったであろうか。>(30頁)
 
<ラカンの母が一九四八年に亡くなった頃、父は、家政婦として、ある料理の上手な女性を雇い入れた。ある日ラカンは父を訪問して、その家政婦が、まさしくあのエメであることを知る。ラカンは間違いなく、彼女の作った料理を、父と共に食べたのである。/ここでは運命の鎖の輪が一つに閉じたような感じがしないだろうか。学位論文において表現されている以上に、エメとラカンとの転移関係は、濃密なものであった。その転移の内面的な構造が、拡大され具体化されて、今やラカンの目の前に、展開されているのではないだろうか。転移の中で、エメはラカンの母親に同一化し、ラカンはエメの息子になることによって、母との関係をそこに再現していた。そのような構造が、ラカンの父の選択の中で、現実のものになったのである。>(30-1頁)
 
<ラカンとディディエの間でもやはり、分析を動かしていたのは、他者の欲望であった。ロマネスクな家族小説のような世代間の出会いを、それが縫い合わせていた。/エメというパラノイア女性の、特権的な王子として認められるというラカンの深い欲望、それは、ラカンが精神分析家として頭角を現してゆく際に、精神分析運動の中心に立ち並んでいた女性分析家たちとの関係に、微妙な影響を及ぼさなかったであろうか。>(32頁)
 

【274】仮面考・第三回「身=実を割いて」(4)
 
■実験形而上学―あるいは抽象的思考の起源と条件
 
 ミシェル・セールは『五感 混合体の哲学』(米山親能訳,法政大学出版会:原著1985/訳書1991)の冒頭で、海上で船火事に遭遇したときの、熱と煙が渦巻く船室の小さな舷窓から頭を出し、激風と凍てつく波しぶきにさらされた経験を踏まえて、次のように叙述しています。
 
◎点的な場所に横たわる魂
<私は内におりまた外にいる。船の内部にいる《われ》が外部に、たたきつけるような凍てつく風のなかに出る。時化の大波が胸郭を数ミリずつごくわずかにずらして外に押し出したり、内に引っ込めたりする。肉体はこのわずかなズレを知覚する。というのも肉体はまわりの動きを感知する術を心得ているからだ。解放されるか、あるいは生存権を喪失するか。呼吸するか、あるいは窒息するか。内部の火に焼かれるか、あるいは激しい寒風に吹き飛ばされるか。生か、死か。消滅するか、あるいは存在するか。通り抜けという空間的な体験においては、肉体全体が告知するほとんど点的な場所がある。内と外を隔てる隔壁の近傍にあっては、その点的な場所が内側から外側にすり抜けたとき、《われ》はその点的な場所の側に全面的に飛び移り、《われ》は決定的に一方の半分から他方の半分へと移動する。/この準=難破の体験以来、私はこの点的な場所を魂(アーム)と呼ぶ習わしとしている。魂は《われ》の決定されるこの点的な場所に横たわっている。/危険な目に遭い、命を救われ、ひとたび危機を脱したときから、われわれはみな魂をもつ。>(8頁)
 
 セールは続けて、魂と肉体が点的な場所で接するとしたデカルトは誤ってはいなかったけれど、しかし彼は松果体を正しく位置づけることができなかったのであり、それは腹腔神経叢のあたりをうろついているのだ、と書いています。
 
 またセールは、鉄棒、空中回転、吊り輪、床運動、トランポリン、高飛び込みなどを魂の鍛錬と呼び、舷窓の通り抜けとともに「実験形而上学」の実践としての価値をもつものであると述べています。<そこでは肉体が自らの魂を探し求め、両者は、恋人同士のように、危険や歓喜のなかで、互いを見失い、再び見出し、時には別れ、また一緒になったりして戯れる。>(10頁)
 
 これらの叙述を踏まえたアフォリズム。<身体を動かすこと[体操]は抽象的思考[形而上学]の始まりであり、その条件づけである。>(13頁)
 
■パノプテス対ヘルメス・その他
 
 『五感』「ヴェール」からのいくつかの断片的抜き書き。
 
 まず、ギリシャ神話に託して語られる情報化社会論。一目ですべてを見る者(監視者=観察者)すなわちパノプテス(アルゴス)対メッセージの伝達者(回路網=コミュニケーションと情報の理論)すなわちヘルメス。――ゼウスは美しいニンフ、イオを愛した。嫉妬に苦しむヘラはパノプテスを呼び寄せ、ゼウスはヘルメスを遣わす。ヘルメスはパンの笛でパノプテスを眠らせて殺す。
 
◎パノプテス対ヘルメス―眼差しの集積盤に対する共鳴盤の勝利
<パノプテスは光からその明るさの面を取り、ヘルメスは光の速さをわがものとする。古典哲学は最近まで照らし出すことを旨としていたが、現代哲学は稲妻の速さを見出した。光の速さはその清澄さに優る。この勝利の新しさをよく考えていただきたい。一つの理論あるいは概念のもっとも重要な性質、そのもっとも古くからの価値としての明晰性は、その伝達回路の体制に凌駕されたのだ。パンあるいはヘルメスがパノプテスを殺す、すなわち、メッセージの伝搬の迅速さは思考の明晰さよりも価値がある。われわれは知の新しい状態について語っているのだ。(略)情報化社会は、観察された世界や、既知の諸物に取って代わる。なぜなら視覚はコードの交信に場を譲るからだ。すべては変わり、すべては眼差しの集積盤に対する共鳴盤の勝利に由来する。認識形而上学(グノセオロジー)も科学哲学(エピステモロジー)も変化する。>(56-7頁)
 
 神話は続く。――ヘラは死んだアルゴスの皮を剥ぎ、百眼の皮膚を取り去り、孔雀の羽根の上にかぶせる。<触覚はもともと聴くことができたのだが、今では少しは見ることもできるのだ。>(59頁)
 
◎皮膚はわれわれの諸感覚の混ざり合った多様体をなしている
<われわれの皮膚は、羽毛に覆われてこそいないけれども、孔雀の尾のように変化するし、まるで目をもっていると思われるほどである。皮膚はその表面全体でぼんやり知覚し、目というきわめて鋭敏な特異体を形成して、明瞭に明確に見る。他の場所ではどこでも、皮膚はいくつものぼんやりとした目玉模様をなしている。皮膚はポケットやしわを作り、そうした胚のなかで皮膚は鋭敏化されるのだが、そこが目である。他の場所ではどこでも明瞭さは溶解し、ここだけに凝縮されて明瞭な目玉模様がついている。皮膚は窪みを作り、縁どりのあるひだを作り、彫りのある扇子状の半楕円形を作るが、そこが耳であり、そこに聴覚が凝縮される。他の場所ではいたる所で、皮膚は鼓膜や太鼓をなし、広く、より不明瞭に聴いているが、しかしつねに、皮膚は耳介のように震え、振動して聴いている。われわれの皮膚は、たとえ毛皮に覆われていないとしても、豹や、ジャガーや、しま馬の皮膚に似ている。諸感覚の図がそこに広げられ、ひそやかな中心や斑紋がちりばめられて、皮膚はわれわれの諸感覚の混ざり合った多様体をなしている。>(59-60頁)
 
◎皮膚は魂であり世界である
<皮膚は、内であり外であり、不透明であり透明であり、しなやかでかつ固く、意志的であり、あるいは無感覚であり、その場に存在し、主体であり、客体であり、魂であり、世界であり、監視者であり、水先案内人であり、物や他者との基調の対話がそこにやって来てそこから輝く場であるのだが、そこには、ヘルメスのメッセージとアルゴスの遺物とが保存されている。>(61頁)
 
 以下、その他の断片。キーワードは、多様体・変化する基体・共通感覚としての皮膚、あるいは高次元の巨大な結び目=無限にしわのよった皮膚としての生体。
 
<われわれの皮膚は位相論上の正確な意味において多様体と呼ばれうる。>(75頁)
 
<皮膚によってここに明らかにされたことは、さらに一般化して言い表わすことができる。皮膚は、それぞれ隔てられた島をもつ不連続な多様体として、あるいはまた広い区域にわたる混合状態の連続的な多様体として姿を現わし、また体験される。皮膚はこの二種類の多様体を総合し累積する。皮膚は、併置されたものと混合したものとを混合し、また併置する。そこから結果するものを、人は「変化に富んだ」と形容する。/感覚は変化する。感覚するものも感覚されるものも変化するからだ。これら感覚によって得られたものを、真か偽かの基準に照らして判断することが不当であることは、見やすい道理である。まず最初に、様々に変化するものを考えなくてはならないのだ。>(77頁)
 
<感受性は、あらゆるメッセージに開かれた警戒態勢であるのだが、それは目や口や耳よりも皮膚の方をよりよく掌握している……。皮膚のある部分が、やわらかくなり、繊細になり、超感受性をもつようになったとき、その場所にもろもろの感覚器官が生まれる。このような特定の場所で、皮膚は洗練されて透明になり、自らを開き、ぴんと張って振動し、眼差しとなり、聴力となり、嗅覚となり、味覚となる……。皮膚はそれ自体様々に変化する基体であり、もろもろの感覚器官はその皮膚が特殊な形に変化したものである。すなわち皮膚は共通感覚、すべての感覚に共通の感覚である。皮膚は諸感覚間に、つながりや、橋や、通路をつくり、諸感覚にとって共同的で、集合的で、共有的な平原を形づくっている。>(91頁)
 
<生体は、考えうる限り高次元の巨大な結び目を形成している。それは胚の状態において、折り畳まれ、しわで満ち、丸められ、陥入した一枚あるいは数枚の胚葉によって始まるのだが、まるでそれは無限にしわのよった皮膚であるかのようであり、発生学[胎生学]は応用位相論であるかのように思われる。生体は局所的な交換器で満たされており、それはついには全体的な交換器、様々な小さな結び目からなる巨大な結び目を形づくる。>(108頁)
 
<世界は複雑なヴェール[薄布]で満たされている。>(111頁)
 

【275】仮面考・第三回「身=実を割いて」(5)
 
■音楽と言語―ハードとソフトの変換
 
 『五感』「ボックス」からのいくつかの断片的抜き書き。
 
◎言語音は無限の意味の容量を秘めて振動している
<パンの生地が膨れるように、つづれ織りのデッサンが繊維の肉質のなかに埋まり込むように、ある種の音楽は、響きのよい物質から直接にメロディを湧き上がらせる。しかじかの糸は余分なものとして縫われているのではないし、歌声はバックのハーモニーから区別されて響いているのではないし、哲学思想は、メタ言語や広告のタイトルボックスのように、ことばの声調を超越し、ことばの外に独立して姿を見せるのではない。そうではなく、糸は布地と混ざり合い、意味は語りのなかに溶解し、メロペ[古代ギリシアの詩の朗吟を伴った節]の節は名調子の筋立てを支えている。アフロディテーは自らの肉を海の泡から作り上げるのだが、大洋は数限りなく泡立って微笑みかける。言語音は無限の意味の容量を秘めて振動している。>(172-3頁)
 
◎音楽は言語活動にとっての先験的条件である
<われわれの言語は意味をもっている。音楽は言語活動の下にあり、あまねく諸言語の基部にあって、その物理的な媒体、条件をなしている。音楽は意味の下に、意
味の前に存在しているのだ。意味は音楽を前提とし、音楽なしには出現しない。楽の響きは言語活動にとっての先験的条件であり、意味に先立つ普遍的基底である。音楽は感覚で捉えうるもののなかに住み、可能なあらゆる意味をもっている。>(181頁)
 
◎ブラック・ボックスにおけるハードからソフトへの変換
<エウリディケーは、最初のもしくは最良の養蜂者であるアリスタイオスに追われて逃げている間に、蛇に噛まれて死ぬ。蛇の歯と蜂の針。女性の愛らしい肉体的な輪郭は消え失せ、エウリディケーは一つの影、名前、イマージュ、思い起こすべき思い出、墓の上に刻まれた墓銘、あるいは今このページで読まれている一つの固有名詞となる。われわれ近代人が心や頭のなかで描いているこれらの幻影、われわれが精神のなかにもっているこうした霊、現代人が意識下にもつと考え、図書館や文法書やデータ・バンクのなかに集められていると考えているこれらの語、そうしたもので、かつての地下の地獄は満ち満ちていた。歴史的にはこのブラック・ボックスに与えられている名称は様々に異なっているが、そこではハードなものがソフトなものに変換される。>(193頁)
 
◎招魂におけるソフトからハードへの変換
<音楽はソフトをハードに変えようと試みる。エウリディケーの名前をハード化し、墓碑銘から彼女を引き出し、大理石の上に刻み込まれた彫刻から彼女を引き出そうと試みる。書かれたり、語られたり、歌われたりする名前というもっとも小さな牢獄、平和な凝固した絵の牢獄から、音楽は彼女を解放しようと試みる。(略)
 語から出ておいで。名前から立ち現われて来たまえ。墓碑銘から自らを解放すること。表象から自らを引き出すこと。
 動きや厚みを取り戻し、分解した肉や、失われたその輝きを取り戻し、肉体の物質的な量体や、繻子のような肌の肌理、繊細な皮膚を取り戻し、澄んだ瞳の様々に変化する色鮮やかな輝きや、地面に順応して水平に歩むしなやかさを取り戻し、胸、腰、肩、うなじの重さ、固い骨を取り戻す。恋人は影から、絵から、語から徐々に抜けだしてくる。ことばは肉となるのだ。
 招魂とはすなわち、何かが、あるいは肉が、声から出てくることなのだ。
 オルフェウスは祈願し、彼の声と弦は振動する。彼は呼び、叫び、歌い、しきりに呪文を唱える。彼は音楽を作曲し、エウリディケーを組み立てる。
 亡霊となった妻はよみがえる。彼女は呼びかけに応じたのだ。
 声は名前に肉を与え、ことばを死から解放し、光はことばを闇から引き出し、音楽はそれに肉を付与し、ソフトをハードにする。>(196頁)
 
◎引き裂かれたオルフェウス―音楽の分解
<ある夜、トラキアの女たちはオルフェウスをばらばらに引き裂く。なぜだろうか。(略)音楽からなるオルフェウスの肉体を群衆が引き裂く。協和音は不協和音のなかに崩れ落ち、一つの組織体あるいは調和が崩壊する。このことを分析しなくてはならないのだろうか。しかしこのこと自体が分析と呼ばれるものである。(略)分析とはエウリディケーを辞書の地獄へと送り返すことである。トラキアの女たちは、…オルフェウスに襲いかかって分析[分解]し、音楽を理解し、知り、考え、説明しようとする。ところが音楽は作曲される[組み立てられる]ものであって、もし人がそれを分析[分解]したならば、音楽は音符、あるいはばらばらな断片となって消え去ってしまうだろう。>(200-2頁)
 
 ――以下、セールの華麗な叙述は、ボックス=肉体=頭蓋骨=家=社会をめぐって展開されていくのですが、ここでは次の一文を引用するにとどめておきます。
 
◎浮き彫りの位相論―皮膚を覆うヴェールはもろもろのボックスを形づくる
<結び目や織物は、一次元の糸を要素として、それを絡み合わせることによって、位相論的な意味で、触覚を描きだした。聴覚は、局在的であるよりも偏在的であるのだが、肉体はその聴覚を、頭や胸郭、外耳や中耳、小窩、耳管、蝸牛殻、内耳前庭、ハーバース管などによって、すなわち抽象的モデルから予想されるあらゆるボックスの嵌合によって描きだしている。浮き彫りの位相論は、あらゆる次元をそなえたもろもろの多様体を必要とし、それらに刻み目や、ひだや、縁どりをつけ、山や谷、コルやチムニー、隅迫り持ちや、葉形刳り込み模様を彫り、建築物や風景を創り出すのだ。入墨は皮膚を斑模様に織り上げ、皮膚は量塊を形成し、[皮膚を覆う]ヴェールはもろもろのボックスを形づくる。>(217頁)
 

【276】仮面考・第三回「身=実を割いて」 (6)
 
■混合体の哲学
 
 それにしても『五感』は、凝縮されたアフォリズム──たとえば「風景、顔、皮膚ほどに奥深いものは何もない」(440頁)とか「ことばが人間の肉をこね上げたのだ」(555頁)など──がいたるところにちりばめられた蠱惑的な、しかし概念的にとらえようとすると(つまり要するに、などとまとめようとすると)整序された意味の領域を軽やかにすり抜けてしまう詩的なエッセイ群からなる書物で、「ヴェール」「ボックス」「テーブル」「探訪」「歓喜」の五つのパーツのタイトルからしてどこかしら謎めいた趣を醸し出しています。
 
 以下、「テーブル」(分離しつつ結合する媒体?)と題されたパートから、心に残った文章をいくつかスクラップしておくことにします。(とはいえそれは、そこに叙述された事柄の「意味」がよくわかった上でのことでは、もとよりありません。)
 
◎分析=破壊と複合=混合、抽象概念と感覚作用
<分析するとは破壊することを意味する。(略)認識論は複合を許容することができない。ところが混合は流体的複合を増殖させる。そこでは非離散的なものが投入され、連続体的な多様体に変容する。>(259-60頁)
<われわれは再び混合と多様性の概念に戻ってくる。それは、諸感覚による豊かで複雑で生き生きとした経験のゆえに直接的であり、逆説的ではなく、分析という単純で逆方向の操作よりも抽象的である。あるいはもっと適切に言えば、われわれが抽象概念と呼ぶところのものよりも、もっと後に生まれたものである。感覚作用はここでは、伝統的な抽象よりももっと困難で複雑な抽象に訴える。あたかも感覚は、自分が理解されるために、また分析によって分離されたものを組み合わせるために、新たな抽象化の努力を要求しているかのようである。あるいはまた、より一層複合化された抽象へ向かっての進歩は、感覚的もしくは官能的な結果をもたらすかのようである。
 混合は、一つの空間とそれに隣接するいくつもの空間の連なりを前提とする。それは時間に通じるのだが、おそらく時間は人が考えているほどに空間と隔たってはいないのだ。混合物は時間を記録し、保存し、積算する。私はずっと以前から、時間というものを様々な時の結び目、交換器あるいは合流として思い描いているが、そのそれぞれの時は空間的な図式で理解される。時間というこの多重な水時計は、[分析という]逆方向の操作だけに閉じ籠っている思考にとっては、いつまでも不可解なままである。奇妙なことだが、直接的与件はこの多重な水時計を明確に理解させてくれる。>(260頁)
 
◎二つの壺、嗅覚の協和、痕跡同士の奇蹟的な相互認知、霊気
<愛はわれわれを混合させる。二つの壺がいっしょに注がれるわけだ。ある香りが、皮膚や、ヴェールや、複雑な組織の上を漂うのだが、その香りは彼女と彼に固有の臭いであり、二人にとって同定しうるものであり、合意し合う[consentir いっしょに臭いをかぐ]彼ら相互の信号となる。ありえないような嗅覚の協和なくして、人は愛し合うことはない。それは地面の上空にたなびく空気や雲のように、裸体の上を漂う目には見えない痕跡同士の奇蹟的な相互認知である。霊(エスプリ)は死ぬまでわれわれの内にとどまるのだが、書かれるにせよ発音されるにせよ、この語の化学的・神秘的意味において、つまり鼻にかかわる意味において、霊とは、自分の愛した人から発散する霊気である。それは亡霊となって、いつの日か夜明けの頃に、皮膚の上に戻ってくる。愛は生命を香りで包み、芳香は出会いとその記録をよみがえらせる。>(265頁)
<私は君固有の霊気を愛する。われわれは二つの愛を切り離さない。神秘的な愛と肉体的愛、世俗の愛と聖なる愛、神秘な愛、純粋な愛、恥ずべき愛、高貴な愛、霊[精神]的な愛、臭いを発する愛、これらの愛を分離しない。なぜなら霊気は皮膚の近傍で立ち昇るからだ。この二つは結び合わされており、私的なものであって、公的言語の卑猥さに対立している。魂は姿勢に応じて絶えずさまよい、身を隠す。親密な雰囲気のなかで。>(267頁)
 
◎風=魂=感覚のゼロ値、動物精気、分離=知識と混合=記憶
<魂。魂[a^me]はラテン語のアニマ[anima]から由来し、アニマはギリシア語のアネモス[anemos]に由来するのだが、それは「風」という意味である。さまよえる魂は風の来るところからやって来る。
 風。それは空気の動きであり、軽く、繊細で、もやのようで、乱気流をなし、リズムをもち、準定期的で、カオス的で、それ自体混合物であり、混然とした諸混合物の担い手であり、感覚にもたらされるあらゆる信号の媒体であり、肉体や鼻、口、耳、肺、喉に入り込み、皮膚を包む。それは感覚のゼロ値であり、あらゆるものに対する媒体である。
 空気から出発して、臭いの回路は空気に戻ってくる。それは発散によって上昇し、愛、死、知へと向かって降り、そして再び上昇する。風から出発し、魂から出発して、この回路は魂の方へ戻り、風の息吹のなかへと戻る。魂、それは感覚のゼロ値であり、あらゆるものの担い手である。私は君の魂を愛する、軽やかで、繊細で、もやのようで、乱気流をなし、カオス的な君の魂を。私は君の魂が君の口に、耳に入り込み、君の皮膚の上にみなぎるのが好きだ。魂と風の相違を教えていただきたい。
 
 世界のなかを、あるいは肉体の内を循環するもの、あなたはそれを情報と呼ぶのだろうか、それとも動物精気と呼ぶのだろうか。
 
 混合は結びつけ、多重化し、注ぎ込み、結び合わせ、ほどくことも、壊すことも、分離することもなく、分析されえないものを合流させる。これこそ時間である。
 区別という逆の操作は、様々な空間のなかでなされるが、混合という直接的な操作は様々な時間のなかで揺れ動く。分離という空間的な行為は知識を生じさせ、混合という空間=時間的な行為は記憶にその契機を与える。>(267-8頁)
 
◎言語は記念するのであって解説するのではない
<今やわれわれは時間のあけぼのにいる。感受性は古代に遡り、古代を定義する。感覚という賜物に恵まれている者は古代語を話し、死んだ神話を朗々と詠い、忘れられた方言を語る。古いテーブルのまわりで、古い物語の語り部である年老いたワイン商の、由緒ある酒蔵(カーヴ)から買ったワインの前で、つまり暗い基盤あるいは暗い貯蔵歴から生まれた古いワインの前で、世界でもっとも古い敵であり、時を経て白髪になった三つの舌が、神話的な古代のなかにいっしょに身を沈め、一方の舌から他方の舌へと移行することによって、ことばから肉体へ、霊的な香気から諸物の安定した、灰色の、静かな実質へと下ってゆこうと試み、そして記憶をたどって響宴から響宴へと、始原に向かって再び昇ってゆこうと試みる。知識の始まりに向かってゆくのでは決してなく、感覚をたどって、われわれの文明の誕生に向かって昇ってゆくのだ。それらの舌[言語]は、記念するのであって解説するのではない。>(288頁)
 
 ──いわゆる「哲学・思想系」の書物で、引用の愉悦をこれほどまでに堪能させてくれる文章を私は(いまのところ)他に知りません。比類ない美しさと明晰さをもった、しかしあくまで概念的な整理要約を拒み続けるエッセイの混合体である『五感』の最終パート「歓喜」から、本書のテーマらしきものを匂わせる二つの断章を抜き書きしておきます。
 
◎私の言語は世界の美を称えなくてはならない
<堅固で的確な私の古き麗しき言語は、自らの力を失って科学の利益に供され、情報や興行の巨大企業に自らの魅力と魔術的力を譲り渡し、口述するところが事実となる者たちに自らのことばを譲った。/私の言語に残されたものはもはやぼろ切れしかない。ぼろを纏ったこの幽霊は、模糊とした美的機能を保持している。あるいは美的感覚だろうか。/それゆえ、私の言語は五感について語らなくてはならず、世界の美を称えなくてはならない。>(561頁)
 
◎第三の記憶の解放によって出現するもの
<ところで、記憶は三度にわたって解放されたことになる。文字の到来のときに、印刷術の発明のときに、今やコンピューターによって。幾何学の発明が最初の記憶の解放に何を負い、実験科学の出現が二番目の解放に何を負い、われわれが第三の記憶の解放に到達した今、何が出現しようとしているのかを、誰か解明しうる者がいるだろうか。>(562頁)
 

【277】仮面考・第三回「身=実を割いて」 (7)
 
■音楽をめぐる三つの神話
 
 三つのギリシャ神話。──マルシュアースの神話に出てくるシカの骨で造られた二本の管のフルートとアポロンの(五弦の)竪琴。アポロンによって生皮を剥がれたマルシュアース。パノプテス(神の不倫の一望監視者)を眠らせたヘルメスのパンの笛。ヘラによって剥ぎ取られたパノプテスの百眼の皮膚。
 
 アポロン由来の(七弦の)竪琴を奏でエウリディケーの名を歌うオルフェウス。オルフェウスによってソフト(名=墓碑銘、影、イメージ)からハード(肉体)へと変換されるエウリディケー。(道教の「存思」=イメージすることで存在を生み出すテクニックのように?)トラキアの女たちによって引き裂かれるオルフェウスの肉体。
 
 能動的なもの、アポロンとヘルメスとヘラ。受動的なもの、マルシュアースとエウリディケー。能動的かつ受動的なもの、パノプテスとオルフェウス。
 
 仮面的なものの三つの形態(身=実篇)、骨と筋と皮膚。──管と穴、そしておそらく舌=膜をもつ笛(共鳴盤)。一次元の糸=弦(筋)を張った琴。無数の窪み(眼差しの集積盤)をもつ高次元の皮膚。(それにしても、皮を剥がれたパノプテスとはいったい何なのだろう。器官なき身体、インブンチェ、渾沌、あるいはナマコ?)
 
■ナマコの口・「べしみ」の面
 
 加藤典洋氏は『日本の無思想』(平凡社新書:1999)で、折口信夫の「神と精霊の対立」をめぐる議論を紹介しています。
 
◎口を割かれたナマコの話
<最初、優位の外来の言語、考え方、論理が圧倒的にそれに優越する力関係の中で、劣位のそれは、非言語、非思考、非論理とみなされます。(略)
 ここでの要点は、劣位の文化、言語、考え方を、優位の人間が否定するだけでなく、劣位の人が自らこれを否定するようになるということでしょう。(略)
 そう考えれば、ここ[引用者註:折口信夫「日本文学における一つの象徴」]にある「神と精霊の対立」がその[引用者註:精霊=スピリット=デモンたちの]沈黙(しゞま)の記憶の底に、こうした古代人の優位文化への絶対的な全面屈服を沈めた形象であることがわかるでしょう。(略)
 
 折口によれば、この神の力は、「磐根・木草・草のかき葉」の万物を黙らせることにあるだけではありませんでした。この黙っているものに「口を開かせ」、答えさせる力でもありました。そこでは答えは復誦でなされます。(略)復誦というのは、言葉をもたないものの同意の返答の形式なのです。折口が引いているのはこんな場面です。古事記、日本書紀の「天孫降臨のくだり」にこんな個所があります。アメノウズメノミコトがサダヒコノカミを送った後、「ハタの廣物・ハタの狭物」つまり海の生き物を集めます。そして彼女は神の使いとして、お前達は神の子に「お仕え申すか」(仕えまつらむや)と訊くのですが、すべての魚がはい「お仕え申します」(仕えまつらむ)と復誦する中で、一人ナマコだけが答えません。すると、アメノウズメはナマコに「この口や、答えせぬ口」(この口は答えない口だな)といってひもがたなを取りだすと、あっというまにその口を割くのです。古事記は、そういうわけで、ナマコにはいまも割けた口があるのだと続けています。神の言葉を奪う力は、また口を開かせる力でもありました。
 このことは、論理というものには必ず一つの原初的な権力がひそむということを教えています。>(271-3頁)
 
 「神」の論理の前に全面屈服した「精霊」たちが、その全面屈服の場所からこれを克服し、これに抵抗することを可能にする文化的蓄積を象徴するものとして、加藤氏は「べしみ」の面をあげています。──以下は、前掲書からの孫引き。
 
◎「べしみ」の面の起源
<べしみは口をぎゅっとつぐみ、眉をしかめ、断じてものは言わぬという表情をしている。べしみという字は唖に通じるので、何を言われても返事はしないという精神の表現である。責任(リスポンシビリティ)ということばがあるが、責任とはリスポンドする(返事する)ことである。問いにたいしてまともに答えることである。しかし、権威と圧力が支配している世の中で、まともに答えることは圧力に服することにつながってゆく。そこで、むかしの征服され、圧服された神々は、一切新しい神の威力にとりあわぬことにした。それがべしみの面の起源である。>(多田道太郎『遊びと日本人』[筑摩書房:1974])
 
■誘惑者の眼・捕食者の眼
 
 パノプテスの百眼の皮膚は孔雀の羽根にかぶせられ、誘惑の「しるし=記号」となりました。それはもはやこれまで見てきた仮面(的なもの)ではありません。もっとも、「内面」の一望監視者の眼差しと比較すれば、それははるかに原始的、というより生物学的な根源性をもったものなのですが、少なくともそこには(一説では「マスク」の語源に関係するとされる)邪悪な眼差し=邪視は介在していないのです。(邪悪な眼、すなわち捕食者の眼?)
 
 ──ヴァルター・ブルケルト著『人はなぜ神を創りだすのか』(松浦俊輔訳,青土社:原著1996/訳書1998)の「帯」に印刷されていたコピー。<宗教──聖なるものを巡る想像力の基底に潜む人類の生物学的記憶。進化論や精神分析の知見を駆使し、「捕食者への恐怖」が「崇高なるものへの畏怖」へと転じるプロセスに、宗教的人間(ホミネス・レリギオシ)の誕生を探り出す自然神学の最前線。>
 
 たとえば著者は、「全体のための部分(パルス・プロ・トト)」の原則において宗教と動物学はつながっている(67頁)と述べ、捕食者の注意を逸らす蜘蛛の足や蜥蜴の尻尾、ビーバー[castor]の睾丸の例とならべて、古代の宗教儀式における供犠や去勢などを例にあげています。
 
◎「悪」としての捕食者─じっと睨む眼
<神話や絵画に見られる悪魔は、捕食者の姿をしているのが普通だ。キリスト教徒は、地獄の恐怖を描写するのに、悪魔がぱっくりと口を開いて、むさぼり食う動物として描いた。>(68頁)
<不安をかき立てる特別なしるしは、じっと睨む眼だ。これに恐怖の反応を示すのは、明らかに大昔からある一般的な生物プログラムに組み込まれたものだ。自然は、食物を探すための眼を作ったが、その一方で、食料予備軍の方もわが身大事に生きており、じっと睨む眼を警戒することをおぼえた。多くの動物がじっと睨む眼を恐れるのは、鋭い目の捕食者に捕まることに対応する反応である。その代表的な形のものが、ある種の蝶に見られる。不愉快な追跡者を逃れるための、羽についた睨んでいる眼の模様である。一方、孔雀の方は尾羽についている眼の模様を、まさに注意を引くために使う。人間の文明では、邪悪な目に対する恐れは広範囲に見られる。このような概念は、古代近東から、ギリシア・ローマ時代を経て現代にいたるまで様々な記録がある。この生得の恐怖は、それに対抗する象徴を求めることになる。邪悪な目の魔力を破るものとして、別の目、もしくは特別な色、もしくは男性の攻撃性、とりわけ男根の誇示があり、さらには相手を失明させてもいい。>(69頁)
 
◎去勢(カストレーション)をめぐって
<生殖という生物プログラムは個体を、取り替えがきき、ひいては余計なものにしてしまい、この点で困惑のもとになっている。ヨーガなどの禁欲主義をはじめ、多くの知の伝統の中で性が強い疑惑の目で見られてきたのは、これが最大の理由かもしれない。生殖を捨てることで、人間が生と死の大渦巻きに巻き込まれないでいられると錯覚するのだ。個体の全体を確実に救うためには、部分的な損失は耐えられるし、賢明であるとさえ見える。これは、精神の世界が生物としての道から離れようとするための逆転の一つである。>(74-5頁)
 
◎捕食者─我々の生物としての組み立てに根ざす実際的な不安
<多くの神話は、イシュタルあるいはキュベレ、ツィポラあるいはクリタイムネストラと手を組んだエリニュエスなどの恐ろしい女性の姿を強調している。人間の心がこの種の姿や象徴表現を生み出す傾向がどの程度まであるのかはっきりさせるのは、心理学者の仕事かもしれない。ここで採られている観点が暗示しているのは、フロイト的な魂を超えた所にも背景があり、単にエディプス的なだけではない、我々の生物としての組み立てに根ざす実際的な不安があるということだ。実際の捕食者がいるのだ。儀式によって手を加えられた畏れが、個人的な体験の中にある性の葛藤とあいまって、ある恐ろしい姿をした宗教として栄えるべき肥沃な土地を見つけるのである。>(78頁)
 

【278】仮面考・第三回「身=実を割いて」 (8)
 
■言語・芸術・宗教─文化的伝統と生物学的伝統の雑種
 
 『人はなぜ神を創りだすのか』の「結論」で、著者は情報処理技術と宗教の関係をめぐる三段階説を提示しています。
 
 まず、約四万年前(?)の言語の発明は共通の精神世界と超自然的世界を生み出し、「目に見えない力とのコミュニケーション」という宗教の伝統を、つまり生物学と文化の雑種としての原始宗教をもたらし、次いで、約五千年前の文字の発明は聖典をもつ世界宗教を誕生させた。そして、現代のコンピュータ化された電子ネットワークの発明は、自然とネットワークの間をつなぐ宗教の機能停止をもたらすかもしれない。(ちなみに、ミシェル・セールは文字の到来、印刷術の到来、そして現代と、記憶は三度にわたって解放されたと書いていた。)
 
 以下、一種の「学説カタログ本」とでもいうべき同書の序文と第1章「文化の地勢──宗教の位置づけ」からの、ややだらしない抜き書き。──占い・神判・マーキング・宣誓を論じた第7章「記号の有効性──意味の宇宙」にも参考になる叙述が含まれていたのですが、これはいずれ取り組む(ことになるであろう)「仮面の記号論」のためにとっておくことにします。
 
◎自然宗教
<…宗教が自然に組み込まれた人間の世界の不可欠の部分をなすのであれば、宗教を理解することは、自然(生物学的)人類学の枠の中にある同じ理論的営みの一部となるはずだ。>(12頁)
<…人類学的な普遍概念の存在…。(略)…人間の文化の型には基本的な共通性がある。これらの過程には一般的あるいは生物学的な特徴があることを否定することはできない。(略)これらの普遍性の中には、次のような互いに異質な現象が含まれている。父と、父と息子の特別な関係が果たす顕著な役割を備えた核家族、技術──特に火──の利用、経済的交換だけでなく戦闘行為を含む相互作用、そして何にもまして言語と芸術と宗教である。(略)…[引用者註:芸術と宗教は]現生人類の出現以来、変わることなく人類と共にあったのである。>(19-20頁)
<宗教の根源を探ることは、個々の文明を超えて、もっと普遍的な視座が必要になる。(略)…宗教の歴史は、「自然」宗教の問題を含んでいる。文化の研究は、一般人類学と一体化せねばならず、人類学は最終的に生物学に統合される。>(24-5頁)
<自然宗教は、いわば超自然的なものに呼びかけるための基本的で一般的な形であり、何もないところに育つのではなく、長年の人間生活の進化によって条件づけられた具体的な「地勢」(ランドスケープ)への適応を通じて、育ってくるのである。>(40-1頁)
 
◎宗教─繁殖の戦略
<…すでに確認されている宗教的現象になぞらえることのできる宗教的営みの明らかな痕跡は、上部旧石器時代から存在する。(略)…繁殖と生存にかかわる価値という意味での宗教の適応度…。(略)布教(プロパガンダ)は、文字どおりの意味からいえば、繁殖(プロクリエーション)の一形態である。>(29-30頁)
 
◎信心する人々(ホミネス・レリギオシ)
<長い目で見れば、彼岸からの規制システムによって課される制約を感じ取れる信心深い個々の人間だけが、安定的な人間社会のなかで何とか生き延びてゆけるのだと考えるべきなのだろうか。(略)宗教によって確保される利点とは安定であり、それによって得られる文化の継続性であると考えたいところだ。文明という「ソフトウエア」が、あまりにも大がかりで複雑なものになり、その維持を個々の人間の選択や偶然に任せておくことができなくなってくるにつれて、長期間にわたる社会的結合を保証するためには、新しい制度が生まれる必要があった。(略)しかし、継続性を与えてくれるものとしての宗教は、社会生物学的見地からすると依然として逆説的である。(略)最終的な推量としては、宗教の成功は、絶望的な状況においてすら繁殖を促すなど、宗教が破局に直面したときに高い持続力を付与してくれることに帰せられるようである。(略)人間は、その長い過去において何度となく絶望的な状況を経験し、その都度、信心する人々(ホミネス・レリギオシ)としてそれを突破してきたものと思われる。>(33-4頁)
 
◎聖なる畏怖の震えの起源─捕食者の記憶?
<生物学者は、人間の自然発生的な感情は、ある種の生物学的機能の反映と規定できると考えている。ラムズデンとウィルソンは、生物学的な根拠があることを証明しようとして「真っ先に浮かぶ記憶、その記憶が呼びさますものと思われる感情」に訴えている。(略)今日我々は、宗教に特有の聖なる畏怖の震えを口にしても、その起源については忘れているのかもしれない。>(36頁)
 
◎ホモ・ロクエンス=ホモ・レリギオスス
<宗教を成り立たせるのは、象徴を通じて互いに作用を及ぼし、自らの「現実」に取り組みながら記号を交換し、それに反応する、生きた人間の継続的な活動なのである。>(21頁)
<…人間の言語は、文化と生物学の雑種なのかもしれない。(略)約四万年前、新しい種類の記号体系と表象による思考という形をとる文化の大変革が起きた。この変革は、それまでの単純な形の印をつけたり区別したりする中からの芸術の誕生だった。(略)芸術とは、特定の認知の対象を「特別なものにする」ということである。>(37-8頁)
<…生き残ったのはヒト homo sapiens sapiens だったが、彼らはそのとき以来ずっと言葉を話す人(ホモ・ロクエンス)であり物を作る人(ホモ・アルチフェックス)であったばかりでなく、宗教を信じる人(ホモ・レリギオスス)でもあった。/宗教も、言語と同様、先史時代のある段階で最も真剣な意思疎通の手段として、競争力をもった行為、つまりその宗教に加わっていない者に対して優位を占めるための方法として発生したという仮説を立てることができる。>(38頁)
<宗教の社会生物学的な由来…。(略)はるかな太古の時代に生まれ、しばしば不変の永続性の原則によって特徴づけられる宗教は、「遺伝子と文化との共進化」のモデルケースを提供してくれる可能性が大いにある。(略)…我々は宗教を、言語や芸術と同じように、そしてこの二つと密接な共生関係にあるということで、文化的伝統と生物学的伝統の雑種と見ていい。>(39-40頁)
<記号現象(セミオシス)、すなわち記号や象徴を用いる過程は、生命体のすべての領域で作用しており、人間が出現するはるか以前に作り出されたものである。(略)…動物の行動と並べたときに、構造的にも機能的にも一定の相似関係(アナロジー)、あるいは相同関係(ホモロジー)すら存在すること…。このことは、儀礼、説話、芸術作品、空想などの詳細な進み方が、生命の進化の、もっとも原初的な過程に帰着することを示唆している。>(41-2頁)
 
◎共通の精神世界の出現─超自然的存在の生成と宗教による「縮減」
<言語の発達は、行動や感情を共有するだけでなく、思考、計画、概念、価値観を共有できるようにし、共通の精神世界が出現するということに他ならない。(略)コミュニケーションのレベルで定義される宗教は、このような精神世界に属し、その重大さのゆえに何よりも高い地位を要求する。このため宗教にかかわる問題は、ある問いの形に言いなおしてもいい。なぜ、どうして、言葉という伝統によって形成されたこの共通の精神世界の中に、実際にあるかどうかもわからないものの領域、それでいてその重みによって我々のコミュニケーションと行動を支配すると言われるような領域が確立されたのか。(略)重要な点は、言語という共通世界がその特徴として、いかなる直接的証拠をも超えた概念の内容を生み出すことである。(略)言語は、遠く離れた対象にも、過去と未来という証明の手が及ばない現実の断片にも言及する。虚構、夢、想像力の働きは、人間の活動を準備したり練習したり、あるいは、いろいろな問題について、それとの直接的対峙は避けながら解決する手助けとなったりして、個人にとってそれなりの機能をもっていることは明らかである。思考や計画は、言葉を通じてまとめて表現され操作される。かくて言語によるコミュニケーションの過程から、経験を超えた世界、あるいは少なくともかなり漠然とした領域や盲点が生じてくる。(略)言葉や絵を通じて伝わる一群の超自然的存在が、我々に共通の精神世界の一定の場所を占めるようになると、それは還元と単純化という制御の作用を受ける。(略)伝統は、濃縮され体系化された情報から成り立っている。言語は、その二つの主要な機能、一般化と喩えを通じて、その動作を続ける。この機能は、表象の体系を有限に保つための戦略である。論理的機能も、否定と包摂、様式と類比の制度を通じてこの目的のために作用する。/ニクラス・ルーマンは、著書『宗教社会学』で、ある体系がその環境と相互作用する中で意味を創造する過程は、「複雑さの縮減」であると述べ、これを特に宗教の成果と考えている。(略)複雑さに根本的な還元をもたらす一つの方法は、二元論的体系を作り上げ、新たな現象や体験をすべて受け入れるための二つの容器を仮定することである。(略)他ならぬ言語という一つの意味作用をもつ体系も、「究極のシニフィアン」、つまり神という絶対者を必要としているように思われる。(略)見えざるものを持ち込むことは、事象の閉じた機能の連鎖を止める──それはまた、宗教が、いかなる社会システムにも完全に組み込まれることなく、ある種の「他者性」という性格を保持していることでもある。>(44-8頁)
 
◎共鳴現象、生得的解発機構、儀礼と言語の二つの表象システム
<宗教的世界に独特の現実的な外見を解明するのに、主に三つの手法が用いられる。宗教が受け入れられ、永続し、勢力を増やしてゆくのは、伝えられるメッセージ、それを伝える周囲の状況、または、それを受け入れる人たちの特殊な組織、いずれかの中にその理由があるのかもしれない。(略)共鳴現象を通じての増幅は、宗教的コミュニケーション手段にはつきものの儀礼に、特によくあてはまるだろう。我々は宗教を、共鳴現象、つまり、一つの文化体系の中での精神的自己再生の一形態と見なすべきなのだろうか…。(略)…宗教的メッセージへの感受性を調査すれば、容易に、おそらく極めて容易に、次のような仮説を立てられるだろう。つまり、神または神々という宗教的存在の原型となるイメージは、人間の気質の中に存在し、適切な刺激によって活性化し、消えることのない結果を生じうるということである。これは、生物学で論じられる「生得的解発機構」に相当するもの、つまり刷り込みのように前もって決められているプログラムと等価なものだろう。(略)…儀礼を欠く宗教の伝達はありえない。儀礼の基本的な機能は、若者に先人の習慣を手ほどきすること──まさに文化的学習の典型──でありその学習は記憶に依存している。(略)儀礼と言語という二つの表象システムは一緒になり、互いに補強しあい、生活のカテゴリーと規則を決定する精神構造を形成する。最も効果的な要素は踊りと歌であり、その中で反復するリズムと音が組み合わさって、大規模な集団的体験を創り出す。>(49-51頁)
 

【279】仮面考・第三回「身=実を割いて」 (9)
 
■性と宗教の自己裂開的構造―自我の起源に仕掛けられたもの
 
 真木悠介著『自我の起源』(岩波書店:1993)は、全体の遂行には少なくとも15年は要するとされる「自我の比較社会学」五部作の第一部「動物社会における個体と個体間関係」の骨組みが示されたものです。
 
 全体構想では、以下、原始共同体と文明諸社会における個我と個我間関係、次いで近代社会と現代社会における自我と自我間関係へと議論が進むことになっていて、本書での生物社会学的な水準における自我の探求は、重層的に規定された自我という現象の一つの基底的な位相を明確にしておこうとするものにすぎない、と著者は(付論1で)述べています。
 
 それでは、本書で明確にされた生物社会学的な水準における自我とはいったいどういう現象であったのか。一言で強引にくくってしまうならば、それは性において典型的に表現される「個体の自己裂開的な構造」にほかなりません。著者自身の文章でこのことを見ておきます。
 
◎エクスタシー=外に立つこと
<…個体が個体にはたらきかける仕方の究極は誘惑である.他者に歓びを与えることである.われわれの経験することのできる生の歓喜は,性であれ,子供の「かわいさ」であれ,花の彩色,森の喧噪に包囲されてあることであれ,いつも他者から〈作用されてあること〉の歓びである.つまり何ほどかは主体でなくなり,何ほどかは自己でなくなることである.
 Ecstasy は,個の「魂」が,[あるいは「自己」とよばれる経験の核の部分が,]このように個の身体の外部にさまよい出るということ,脱・個体化されてあるということである.>(145頁)
 
◎自己を超越する力を装置した個体―自由であることの形式と内容
<個体はじぶんの身体の中心部分に自己を超越する力を装置してしまっている故に,この超越する力をもまた自己自身を目的化してしまう力も,共に相対化することができる.つまり自由であることができる.
 個体を自己目的として立ててみるかぎり,その生きることの「目的」はただ歓喜を経験することにある.そしてこの歓喜のすべては,[あるいはそのほとんどの主要なものは,]同種や異種の他者たちの生や生殖の道具とし対象としメディアとして自己を放下することにしかないことを見てきた.(略)どの他者もわれわれの個としての生の目的を決定しないし,どの他者もわれわれの個としての生の目的を決定することもできる.この無根拠と非決定とテレオノミーの開放性とが,われわれが個として自由であることの形式と内容を共に決定している.>(152頁)
 
 性の欲望が身体の核に仕掛けられた解体の罠であるとすれば、宗教という欲望もまた自我の核に仕掛けられた裂開の罠にほかなりません。真木氏は「性現象と宗教現象」と題された付論2で、次のように述べています。
 
◎宗教―自我の存立構造のうちに原初的に仕掛けられたもうひとつの炸裂力
<性現象と宗教現象は,フロイトが考えたような仕方でも,賢治自身が考えていたような仕方でも,一方を他方に還元することのできないものだ.つまり一方が本来の欲望であり,他方がその挫折や変態や昇華や代償の形態だというふうにぜんぶをとらえきってしまうことのできないものだ.
 もちろん別個のものでもない.自我がじぶんの欲望を透明に追い求めてゆくと,その極限のところで必ず,自己を裂開してしまうという背理を内包しているという,おなじひとつの形式の,異なった位相をとった反復であるとわたしは仮設しておきたいと思う.
 それは個の自我という現象の存立の構造のうちに原初的に仕掛けられている,もうひとつの炸裂力だ.>(173-4頁)
 
 こうして本書は、原始共同体における個体性と共同性のダイナミズムを扱う第二部へ、そして文明諸社会における個我や反個我、脱個我をめぐる思考と啓示と経験等々を扱う第三部へとつながっていくわけです。
 
 最後に、私が本書でもっとも刺激を受けた(というより、今回本書を読み返してみて、上述の「自己裂開構造」を別にすれば唯一刺激を受けた)箇所を抜き書きしておきます。
 
◎変態生物の自己意識
<多くの生物種は蝶たちのように,二つかそれ以上のまったく異なった「自己」の形態をライフ・サイクルの内に経過する.人間がそのような生物種から進化したものでなかったことは,われわれの「自己意識」の形成とその絶対化ということを,少なくとも容易で単純なものとしている.人間が変態生物であったとしても,自己意識の形成に絶対的な不都合はなかっただろうが,「自己意識」のたしかさとその形態は,原理的にいっそう複雑な問題をはらんでいたにちがいない.それがつくりあげる文明や社会のかたちも,法的,倫理的な「責任」の帰属,友情や恋愛や結婚や親子関係の形態,記憶や好悪の連続性と「自己」という感覚や意識,「魂」と肉体に関する宗教的,哲学的な諸観念,等に関して,相当に複雑なかつもう少し開かれた想像力に導いていたかもしれない「問題」を抱くシステムを発達させていたはずである.>(126頁)
 

【280】仮面考・第三回「身=実を割いて」 (10)
 
■宗教の進化論
 
 養老孟司著『カミとヒトの解剖学』(法蔵館:1992)からの抜き書き。
 
◎遺物として残り得るもの─シンボルの発生
<ヒトすなわち現代人の特徴を、私はシンボルの存在と考えている。宗教はじつは典型的なシンボルの一つなのである。(略)/まず第一に、[引用者註:著者のいうシンボルは]具体的には、直接生存の役に立たない道具を指す。(略)/第二に、学問、芸術、宗教、科学、言語といったもの。これらは本来的なシンボルである。(略)/私はシンボルに、右の第一範疇すなわち「物」を含めた。なぜか。それは「遺物」として残り得るからである。シンボルをカッシーラーのように「物でないもの」つまり「抽象」として捕えると、自然科学的に扱いにくい。その上、なんだかむずかしいもののように思われる。だからまず「物」として捕まえようとしたのである。/さて、進化上、いつの時点でシンボルが発生したか。それはおそらく現代人の発生に伴う。現代人とはわれわれ、つまり数万年前に発生したヒト科の一種である。>(32-3頁)
 
◎二重回路をもつ脳─アナロジーという機能の発生
<さて、それでは、なぜ現代人にシンボルが発生したのか。シンボルとは、脳のある機能の帰結である。どんな機能か。それはアナロジーである。>(35頁)
<さて、それではヒトの脳になぜアナロジーが生じるか。それはヒトの脳に剰余つまり余分が生じたためである。(略)ヒトではなぜか脳に余分ができてしまったために、環境からの刺激だけではなく、ヒトの脳内活動そのものが、脳の活動を引き起こす刺激に変化したらしい。ところが脳内の回路は、ヒトも動物の場合と本質的には変わらない構築をしているはずで、量だけ多いわけだから、「類比」すなわちアナロジーなる機能が発生するのである。(略)/…ヒトの脳内には、動物に見るような「生理的」な回路と、シンボル的な「生理的回路を模した」回路がいわば二重に存在する、ということなのである。だから、ヒトの脳に余分が生じた時に、アナロジーという機能、さらにはその結果としてシンボルが発生したのである。>(36-7頁)
 
◎生物学的必然としての宗教の発生
<死というのは、じつに奇妙なものである。われわれは自分の死を経験できない。(略)ところが、他人の死ぐらい判然としたものはない。(略)べつな言い方をすれば、死とは具体的かつ抽象的である。他人の死はきわめて具体的で、自己の死はどこまでいっても抽象的である。(略)/そう考えると、ヒトの進化の過程で、もし抽象化ということが最初に起こったとすると、それは死を巡ってではないかと思われるのである。抽象化というのは、言い換えればシンボル能力である。>(38頁)
<シンボルはわれわれの脳が生み出した新しい能力、つまりアナロジーの表現である。そうしたシンボルの中で、宗教は生死に関する観念を扱う。それは具体的には自己の死と他人の死という、きわめてわかりにくい問題を扱うことで、シンボルの発生の先駆となったのであろう。ただし、宗教自身の進化の過程で、それは生死観の統制という形に変化した。/気にいろうが、気にいるまいが、私はそう考える。したがって、宗教の発生は、生物の典型的性質である個体の死と、進化過程でヒトの脳が所有するに至ったシンボル能力との結合による、生物学的必然だった。シンボルは現代人の属性であり、ヒトはそれから逃れられない。他方ヒトは、そうした脳のために、現実を限定できなくなってしまった。だから信仰とは、現実でないシンボルに、現実感を賦与する能力の発現なのである。だからこそ、信仰によってヒトは生きる。誰であれ、現実に頼って生きざるを得ないからである。逆説的だが、それをもっとも素朴かつ純粋な形で示すのが宗教である。>(42頁)
 
■オルガズム、儀式、言語、ネオテニー
 
 榎本知郎著『愛の進化』(どうぶつ社:1990)からの抜き書き。
 
◎オルガズム─性行動の社会的な機能の永続化
<しかし、オルガズムのヒトの進化における意味は何なのだろうか。/オルガズムをもつような霊長類では、性行動が、生殖という機能を果たすためだけにあるのではなく、もっと別の、いろいろな社会的な機能をも果たし始めている。たとえば、性行動は、性が雌雄の結び付きを強めたり、売春のように対価を求めるようなものであったり、同性愛のように、同性ときずなを深めるものであったりする。こういった性行動の社会的な機能は、オルガズムという生理的な自動的な反応に結び付けられることによって、より効果的で永続性のあるものになるだろう。オルガズムが、これらの行動を生み出し、発展させた役割は大きかったと思われる。>(105頁)
 
◎儀式─言語とともに現われ、発展してきたもの
<儀式は、言語でいえば、ひとつの意味をはこぶ文とか文脈に相当する、動作などによる記号のセットから構成されている。だから、言語をともなわなくても、じれも立派なコミュニケーションなのである。そして、それぞれの動作は、言葉と同じように、やはり、その場限りの映像として消え去るのではなく、なにかの属性を持ち、力を秘めた実体としてとらえられる。/(略)…こういったヒトの儀式における記号のやりとりでは、その意味を解釈するコードをもつのは、種ではなくて、それよりずっと規模の小さな集団である。集団ごとに、文化が違えば、儀式も違って来る。同じ意味を持つ儀式でも、別のやり方もできるのである。だから、こういった儀式という記号は、シンボルであり、言語と共通する性質をもっているのである。こう考えると、儀式とは、記号という意味をもつ何かの象徴が、親族集団とか、その集合体といった集団の中で機能するようになったときに、言語とともに現われ、発展してきたものなのである。>(234-5頁)
 
◎なぜ人間は恋愛するのか─ネオテニーがもたらしたもの
<愛は、決して雄と雌との間の、経済的なつながりだけからは生まれてこない。(略)とりひきは、おとなの論理であった。しかし、愛は、子供の論理から生まれてきたのである。/人間の異性間の愛は、特定の相手に対する激しい感情をともなう。熱情、恋愛、執着、嫉妬。感情は、主観的にはともかく、生理的な現象である。ところが、現生の動物では、人間を除けば、異性に対するこの種の生理的な基盤を持つ、強い個体的な選択性を見せるものはいない。性関係を押し進めるのには、性欲といった生理的な基盤がありさえすれば、それ以上の特別のきずなを必要とはしないからである。まさに、ヒトは、ただひとり、ネオテニーのおかげで、愛という素晴しい自然の贈物を手に入れることができた、幸運児なのである。>(259-60頁)
 
◎言語の誕生─子供達の遊びの中で産声をあげたもの
<…四万年前に、突如として、大きな集団による大型動物の狩り、石刃、槍弓矢、など、数多くの発明、社会儀礼、芸術、極地や海を移動する手段、決まった住居、などの 文化をともなった化石現生人類が、どこからかやってきて旧大陸全体に広がり、また、それまで無人の処女地だったオーストラリアや北アフリカなどへも分布していった。/つまり、この時期に、技術などの情報が爆発的な展開を見せており、また、その機能がいかんなく発揮されたわけである。これらを考え合わせると、このような社会的な機能を持つ言語は、その揺藍の地はわからないが、化石現生人類によって発明されたもので、それによって人類は環境へのあらたな対応の仕方を獲得し、生息域を拡大した、と考えていいのかも知れない。/言語は、ホモ・サピエンス祖先の集団で、子供達の遊びの中で産声をあげた。(略)/この頃の、まだ言語になりきらない音声伝達システムは、社会集団のなかで機能するものというより、話す人の個性をきわだたせる働きを持っていた。(略)…その言語的な意味を伝えることばかりでなく、言葉を交わすこと自体が、交わすもの同士のきずなを再確認し、維持するのに役立ったのである。/(略)/まだ幼い言語は、語の多様性にしても、文法規則にしても、随意性の宝庫ではあったが、だんだんと、概念を伝えるという、このコミュニケーションの道具としての機能が発揮され始めた。その必要性から、子供の遊びや親の教育を通じて、親しくつき合う範囲においては、意味と言葉のつながりを決める辞書、つまりコードには、共通性が認められるようになったのである。つまり、音声伝達システムを保有するものが、個人ではなく集団になり、ここで初めて、現在も見られるようなかたちの言語が、誕生したのである。>(274-5頁)
 
■苦労のない、穴に、さようなら
 
 F・パターソン/E・リンデン著『ココ、お話 しよう』(都守淳夫訳,どうぶつ社)に、「ゴリラは死ぬとどこへ行くの」とたずねられた子供のゴリラが手話で「苦労のない、穴に、さようなら」と答えた話が紹介されている。
 
■デスマスク
 
 小池寿子著『屍体狩り』(白水社:1993)からの抜き書き。
 
◎デスマスク─個人の霊、魂のありさまを映す顔
<元来、仮面を表わす言葉のひとつである mask は、死者を包む網を意味していた。死者や墓に網をはりめぐらせて、死霊がさまよい出るのを防ぐ風習は今日でも残っている地方があるという。この「死者を包む網」が、やがてこの世に帰ってくる死者の霊そのものを意味するようになったのである。また仮面を表わす別の言葉 larva は、霊や魂をさすラテン語であり、古い例では古代ローマ末期の文人ペトロニウスは、酒宴の席にもち込まれる骸骨の模型を larva と称している。仮面はこうして、おのずと死霊の意味が付与されているのだから、デスマスクはまさに、個人の霊、魂のありさまを映す顔なのである。>(85-6頁)
 

【281】仮面考・第三回「身=実を割いて」 (11)
 
■イメージ・オブジェ・シンボル
 
 木村重信著『はじめにイメージありき』(岩波新書:1971)。──ロゴスに先立ち、文化一般の先行条件となる「イメージの機能と意識の発達との関連」(210頁)をテーマとしたこの書物は、読み返すたびに新たなインスピレーションと刺激が得られる名著で、もし岩波新書から一冊を選ぶなら(私の場合は)これ。その真骨頂は「原始美術の諸相」(副題)をめぐる簡にして要を得た具体事例の紹介にあるのですが、ここでは最終章の叙述から理論的エッセンスを抽出することにします。
 
 まず、結論から。──著者は、旧石器時代人と新石器時代人の表象作用(美術)の違いを「オブジェからシンボルへの展開」(210頁)と表現し、次のように要約しています。
 
◎旧石器時代の美術─イメージの自動的投影(客観化)としてのオブジェ
<…きわめて具体的で現実主義的な呪術を信じた旧石器時代の人びとは、自然対象を知覚し、記憶のなかに保存し、それを自動的に投影した。その意味でイメージはあくまでも現実そのままに保持され、いきおいその様式はリアリスティックとなり、生命的となった。したがってそれは常に単独で孤立した形象としてあらわされ、そこにはなんの構図意識もなかった。[引用者註:このようにして客観化されたイメージが「オブジェ」である。]古い絵の上に新しい絵が無秩序に重ねられ、岩盤が平らに整えられず、情景描写がないことなどが、その端的なあらわれである。>(203頁)
 
◎新石器時代の美術─イメージの抽象化としての観念=シンボル
<ところが新石器時代になると、人びとは見たり触れたりする現実的対象のほかに、それらを支配する、見えない超越的存在を意識するようになった。そうすると人びとの関心は、当の対象自体から離れていき、現実的対象のばらばらなイメージが、何らかの意味で統一され、超越的な空間にはめこめられる。このことは逆にいえば、対象の可視的な現実性が犠牲にされて、新しい観念的空間の意識がうまれたことを意味する。[引用者註:このようにイメージから抽象されるものが「観念」である。]従ってこの空間では、現実的対象の形態や色彩は変形されざるをえず、そこに存在するものはもはや現実的対象ではなく、観念的なシェーマの中に分解された対象となるほかはない。かくして一種の抽象的な図形が作られ、またコンポジションがうまれるのである。[引用者註:このようにして形象化された観念が、というより形象とともにある観念が「シンボル」である。]>(203-4頁)
 
 ついでに、現代へとつながるシンボルの発達過程について。──著者は、新石器時代美術における象徴化によって成立した超越的存在が、単なる偶像にとどまらず具体的な空間を求めるとき、そこに「神のすまい」としての建造物がうまれ、現実的空間から遮断された別の空間=自由な空間の意識が発達し、さらにこの意識が観念性の度合を高めることによって「キリスト教のような非常に絶対主義的な宗教」を生むに至る(207-8頁)と述べています。
 
◎思想の象徴としての言語の形象化=文字の発生─あるいは美術史としての精神史
<象徴による形象化の能力の発達は、やがて知的な面における論理の発達をも促し、文字の発生へとみちびいた。(略)…人びとが現実を表象しうる象徴を確立しうる限りにおいてのみ、思想の象徴としての言語はその形をとりえたのである。イメージの働きを基礎にして、何らかの象徴的な思考が可能となり、その結果として宗教、哲学、科学などが諸々の思考形式として、後から起こったのである。その意味でドヴォルシャック(オーストリアの美術史家)の「精神史としての美術史」、すなわち精神あるいは知性の発達史としての美術史というテーゼは、「美術史としての精神史」と言い改められねばならない。>(209-10頁)
 
 ──つい先走りすぎました。話を元にもどして、旧石器時代人と新石器時代人の表象作用の違いについて、もう少し詳しく著者の議論を見ておくことにします。
 

【282】仮面考・第三回「身=実を割いて」 (12)
 
■イメージ・オブジェ・シンボル(承前)
 
 イメージとは心的操作がつくりだす想像であって、知覚作用がつくりだす表象ではない、と著者は書いています。つまり、<知覚は概念によって意識を構成するが、想像は意識の中に構成される>(185頁)というのです。
 
 こうして想像的意識を直接的知覚から分離することで、そして感覚的事物からもたらされ記憶の中に貯えられた無数のイメージを形象化したうえで現実との間に種々の対応関係を見出したのが、旧石器時代の呪術的心性をもった人々の表象作用の特質です。
 
 ここで著者が強調しているのは、呪術(科学的・論理的な因果関係ではないにせよ、場所を異にした二つの事象をめぐる素朴な因果関係に基づく意識的営為)がまずあって、その手段としてイメージの記号=芸術(たとえばラスコーの洞窟壁画に描かれた動物像)がうまれたのではないこと、むしろ逆に「形象が作りだされて初めて」旧石器時代人は「因果の関係を知りえた」(184頁)ということです。
 
 ところで、プレ論理的な心性をもった彼らの記憶力は、あたかも高速シヤッターによる写真のように、とりわけ食糧となる野獣の瞬間的なイメージをダイレクトに定着させるものでした。だからそこには抽象作用も、意味するものと意味されるものという象徴関係も成立しないのです(187頁)。
 
<記憶は普通過去に属する。しかし旧石器時代人の場合、このような記憶のイメージは常に現在の感情と結びついていた。(略)…彼等が記憶を想起する場合、記憶そのものはすでに現在的であり、旧石器時代人の記憶は彼等の現在の感情を包むということができる。(略)従ってかかる記憶が想起されて意識の用に供される場合にも、それは常に現実的な事物との関連をはなれることはなく、形象がおかれる壁面もそれ自身未限定の空間で、現実の空間から遮断された別の空間として限界づけられることはなかった。しかし一方では、かかる記憶のイメージにしばられていたからこそ、彼等は個々別々の形象をつくりだし、それに現実的な呪術的な機能を与えることができたのである。>(190-1頁)
 
 そのような旧石器時代の人々の手になる「記憶のイメージの自動的な投影」としての美術──すなわち物的素材と結合し形象化・客観化されたイメージの記号は、ある特定の感覚的事物(たとえば動物)の模造や何らかの対象を意味する記号ではなく、それ自体が一個の存在であるところの「実物像」、すなわちオブジェにほかなりません(192頁)。
 
 旧石器時代美術はやがて変貌をとげ、中石器時代の美術がうまれます。その特徴を箇条書風に列挙すれば、洞窟壁画では稀だった人物像の普遍化、人物と動物の結合による場面・構図の登場と物語的性格の具備、強い形式化(影絵のような動物像と極度に抽象化された人物像)、そしてそれら全体を通じての(初歩的な)観念的空間の実現、を指摘することができるでしょう(194-6頁)。
 
 著者によれば、中石器時代の中期以降に多く見られる「頭蓋骨埋葬」は、何らかの霊魂観念の存在をうかがわせるものであって、それは<人間が自らを観察し、自己の内部に自らの分裂を認めたということ>(199頁)にほかなりません。
 
 動物(あるいは壁面に描かれた動物のイメージ)を「見る」ことから、動物を見ている自分という場面を「視る」ことへ。あるいは「聞く」から「聴く」へ。身体の単なる延長としての投矢から、身体から分離された抽象的な力を用いる弓矢へ。そして霊魂に関する意識がもたらすこの世とあの世の区別。──ここに見られるものは、旧石器時代人にとっての呪術空間=現実的空間とは別の空間、つまり新石器時代人にとっての観念的空間(意識の深みからイメージとしてうかび出る霊魂=超越的存在の形象が所属する空間)の萌芽なのです。
 
<新石器時代美術における最も明白なコンポジションのあらわれは、シンメトリーであろう。(略)矩形の象牙または石板という空間の枠の中に、人物と動物とをひとつのコンポジションのもとに秩序づけること、ここに我々ははっきりと、新石器時代人が実在の非現実化という作用によって、現実とは別の次元の観念的空間を意識したことをよみとることができる。(略)旧石器時代人のイメージは暗黒の洞窟内をさまよい、その記憶像を一定のフレームに集める力をもたなかったが、新石器時代人は、現実的空間とは異なる抽象的な空間の枠の中に現実のイメージを集め、変形し、単一に還元して形象を作りだす。>(204-5頁)
 
 しかしここで注意しなければならないのは、新石器時代人にとっては、現実のイメージを一つの構図のうちに形象化するだけでは充分ではなく、それらの「働きとその力」(客観的現象を抽象してえられる観念)をも象徴的に表現したものでなければならなかったこと、つまりそれは現代の我々におけるような純粋に表象的なものではなかったことである、と著者は書いています。
 
<…それ[引用者註:観念]は象徴的な姿を思いうかべることによってのみ、視覚的に表現されうるのである。すなわち、形態が特殊な観念ないし感情の象徴となる。かくして、例えば旧石器時代の女性裸像が此岸の秩序の一部に属する妊婦の科学的表現としてのオブジェであったのに反して、新石器時代の女性像は彼岸の秩序に属して、豊穰を意味するシンボルとなるのである。従って意味するものと意味されるものとの関係に即していえば、旧石器時代の女性像は意味として抽象化されていないが、新石器時代の豊穰の女神には、意味するものとしての抽象化があらわれる。>(206頁)
 
 新石器時代人の心性を表現する語はアニミズムです。著者によれば、<新石器時代人のアニミズム的心性においては、霊的なものと実在的なものとの二つの次元は相補的>(207頁)であって、シンボルがもつ象徴的な意味(超越的な価値)と実用的な機能(現実的対象としての直接的価値)、つまり「内と外」はひとつなのです。
 
<従って形象と観念との関係も、形象をはなれて観念があるのではなく、観念と別に形象があるのでもない。つまり形象は観念のシンボルではなく、むしろ…イメージから観念が抽象されたという意味において、観念こそ形象のシンボルなのである。新石器時代人は、現象の背後にある超越的な観念を単に絵画的にアレゴリーしたのではなく、心霊化と形象化によってシンボルを作りだし、それによって現象の世界と霊的な世界にかかわる内容と意味との関連づけを行ったのである。>(208頁)
 
 ──さて、以上の議論を踏まえて、唐突ながらここに一つの図を示しておきます。意識作用をめぐる作りかけの仮説として。
 
         ┌──――──┬─――───┐
         │ 知  覚 │ 想  起 │
  ┌─――───┼――────┼─――───┤
  │ 観念世界 │ 言語?  │ シンボル │
  ├――────┼─ロゴス──┼─イメージ─┤
  │ 現実世界 │ 表象?  │ オブジェ │
  └──――──┴─――───┴───――─┘
 

【283】仮面考・第三回「身=実を割いて」 (13)
 
■超歴史的=原始的心性をめぐって
 
 エリアーデ著作集第四巻『イメージとシンボル』(前田耕作訳,せりか書房:1971)からの抜き書き。(三つ目の文章は、『はじめにイメージありき』の末尾で、先に引用した「美術史としての精神史」云々に続けて抄録されている箇所。)
 
◎シンボル─存在の内密な様態を剥き出しにしてみせるもの
<象徴的思考は…言語と論弁的理性に先立つものである。シンボルは他のどんな認識方法でもとらえることのできない、実在の最も奥深いいくつかの側面を明るみに出す。イメージ、シンボル、シンボリズムは…存在の内密な様態を剥き出しにしてみせるのだ。したがって、それらを研究することは、われわれが人間を、《生地のままの人間》を、つまり歴史の諸条件によってまだ組み込まれていない人間をいっそうよく理解することを可能ならしめるだろう。どの歴史的存在も自らのうちに歴史以前の人類の多くのものをもち込んでいる。>(15-6頁)
 
◎イメージ─まだ形と成らない生まのマティエールへの欲求
<男の子によって経験される母および母系に対する牽引作用、つまりオイディプース・コンプレックスは、当然そうされるべきなのだが「イメージとして」呈示されないで、「そのまま」(telsquels)分析されるかぎり《衝撃的》なものになるのにすぎないのである。なぜなら、実際に問題なのは母のイメージであって、フロイトがそう仄めかしているように、「ここに今」(hic et nunc)いるあの母、この母といったものではないからである。母のイメージこそが──そして「それだけが明かしうる唯ひとつのものなのだが」──母の実在とその宇宙論的、人類学的、心理学的機能作用を同時に明かすことができるのである。イメージを具体的な事項に《置き換える》ことは、意味のない操作である。(略)イメージの《起源》というのも的はずれの問題である。(略)
 哲学的にいっても、これらのイメージの《起源》と《真の解釈》といった問題は無意味である。己れ自身の母を所有せんとする欲求のごとき直接的、《具体的》次元で母への愛着を解釈するとしても、それは「それが示していること以上にはなにも意味しえない」ということを思い起こしてみれば充分だろう。逆に、もし問題は母のイメージなのだということを考慮に入れるとすれば、この欲求はたちまち多くの事柄を意味するだろう。というのはそれは、まだ《形と成らない》生まのマティエール[素材]、宇宙論的、人類学的等々の、可能な限りの発展方向をもったマティエールの至福を再び取り戻そうとする欲求、《マティエール》によって《精神》に作用を及ぼす魅惑、原初的統一のノスタルジャ、したがって対立物、両極性等々を取り除こうとする欲求だからである。>(18-20頁)
 
◎超・歴史的世界への入り口としてのイメージ・祖型・シンボル
<イメージ、祖型、シンボルは様々に生きられ、価値付与されるのである。これらの多様な顕在化の産物がおおかた「文化の型」を構成するのである。(略)ただ、歴史的に形成されたとみなされるこれらの文化は、それぞれ独自な様式の中に固定されてしまって、もはや相交ることがないとしても、それでもそれらをイメージとシンボルの次元で比較することならできよう。究極において文化を《救い》、様式の形態学とか様式史を越える文化哲学を可能ならしめるもの、それこそまさしくあの祖型の永続性と普遍性なのである。どんな文化も《歴史への失墜》である。つまり限定を受けているのだ。(略)西洋人にとって、古代文化の《歴史的表現》として「美」であり、「真」であるものが、オセアニア人にもそのまま価値をもつということはない。それはどんな文化も、歴史によって条件づけられた構造と様式の中で具現されるために、やはり限定を受けているからだ。それにひきかえ、文化に先立ち、それに生気を吹き込むイメージは、永遠にながらえ、そこでも、誰にでも近づきやすいものなのだ。たとえばミロのヴィーナスのような、ギリシャ芸術の傑作が有する普遍的な人間の精神的価値と深い意味が、人類の四分の三に当る人々にとってはあの彫像の形の完璧さにあるのではなくて、あの像が伝える「女性のイメージ」にあるのだ、ということをヨーロッパ人はなかなか認めようとはしない。だけれども、われわれがこの単純な事理を首尾よく会得しなければ、ヨーロッパ以外の人々と対話を始めようと望んでも虚しいであろう。
 つまるところ、文化を《開かれたまま》にしておくものはイメージとシンボルの現存である。(略)もしわれわれが様々な文化様式のこの独自な精神的土台を無視するとすれば、文化哲学は、人間状況それ自体に対していかなる妥当根拠をももち合わさない形態的、歴史的研究にとどまることを余儀なくされよう。もしイメージが同時に、超越的なるものへの《入り口》でなかったとしたら、偉大にして無類のものと思われているどんな文化の中でも、人々はついには窒息してしまうのあろう。様式的にも歴史的にも条件づけられているどんな精神創造からも、祖型に再び帰りつくことは可能である。(略)
 イメージは超・歴史的世界への《入り口》を構築する。その利点は少くない。そのおかげで、異なった《歴史》が互に伝達可能となるのだ。>(221-2頁)
 

【284】仮面考・第三回「身=実を割いて」 (14)
 
■仮面の両義性と二重表情
 
 山折哲雄著『霊と肉』(講談社学術文庫:原著1979/1998)からの抜き書き。
 
◎霊と肉─透明な無限と生々しく屈曲する傷痕
<「霊」と「肉」とに分割された二つの領域が、人間という珠のごとき実在の前では、影のごとき虚空間でしかないことは、いまさらいうまでもない。わたし自身の現実感覚からいっても、また理論上の要請という点からいっても、霊─肉の対応は珠のごとき球体に近づくために仮構された、たんなる二つの準拠枠であるにすぎない。
 美しい珠は不気味な沈黙を守って、いつでもそこにある。ただそれは、ときに閃光を発して生々しく屈曲する傷痕(肉)をみせたり、またときに、透明な無限(霊)をかいまみせたりすることがある。ただし、ひとたび一瞬の閃光が消え去ってしまえば、あとには霊と肉という、イメージの残骸が放り出されるだけである。>(12-3頁)
 
◎意識の変形─魔術を生きること
<…意識もしくは情緒は対象を変形しようとするまさにその目的のために自分を変形する…。人間は現実の閉塞状態に追いこまれたとき、情緒の発動に導かれて自己と現実世界とを変貌させる。この場合、自己と事物との関係は決定的な過程や因果によって律せられているのではなく、魔術によって規制されているのである。(略)…「生きる」ということは本質的に魔術を生きることにほかならない…。>(18-9頁)
 
◎霊の変身にまつわる可逆的な二元世界─原型と変型
<悪霊と守護霊がつねに互換関係にあるこのような二元世界こそは、人間世界における意識と無意識、狂気と正気、異常と正常の互換関係にもっとも適合的に対応する「世界」なのである。
 それは一面では恐怖と法悦とのアンビバレンツな関係を示す局面であるが、同時に、原型と変型という二項によって示される可逆的な変身の心霊現象ということができるのではないであろうか。この場合、悪霊と守護霊はわれわれ自身の内部に存在するものとしてではなく、対象化され、祭祀されているものであることを忘れてはならない。(略)
 変型によって原型を、そしてまた、その逆の関係を意識できる心性こそは、おそらく文化というものの最良の部分に根ざした機制の一つなのである。>(23-4頁)
 
◎鎮魂と芸能─能と歌舞伎のドラマトゥルギー
<亡霊は実体的に死そのものへと変身することができるように、生の世界へと仮現的に蘇生し、生者のごとくに演技することができるのである。ただその場合、表現された形式のうえで中世と近世とのあいだにみられる違い目は、護良親王霊のほうは、懐妊せしめられるということを強調する点で不透明であるのにたいし、近世の卒都婆霊は肉体を備えた透明な姿態をあらわしているということであろう。この違い目はまた、怨霊の鎮魂を主眼とした中世の宗教意識と、怨霊の視覚化によって霊の芸能化を意図した江戸町人の宗教意識との差としても理解されるのではあるまいか。
 このような対立が、最終的には能と歌舞伎のドラマトゥルギーの差としてもあらわれているということについては、すでに異論のないところであろう。>(28-9頁)
 
◎受容器と反射器─中世的宗教意識から近世的美意識への転換
<歴史的に製作された聖なる木偶としての釈迦像やマリヤ像が、時代を超えた民衆の欲望や祈願を吸収することによって犯しがたい不気味な生き物に転生したように、歌舞伎における「変化」の舞踊もまた、怨霊の働きをそのなかに封じこんで民衆の拍手喝采を博したのであった。それが釈迦像やマリヤ像のイコンと違うところは、聖なるイコンのほうが、民衆の欲望や祈願の不動の受容器であるのにたいし、「変化」の各姿態は、怨念や執念を多彩に映発する反射器であるという点に求められる。このとき怨霊は、能の演出においてわれわれが教えられているように、鎮魂させられることによって超空間に身を退いていくのではなくて、役者の肉体にのり移って己の欲望をとげようとしている。そこにはおそらく美を沈澱させた中世的宗教意識から、宗教を沈殿させた近世的美意識への転換──つまりは能から歌舞伎への転換がみられるのであろう。>(31-2頁)
 
◎超空間と有限空間─美的超越と空間化=肉体化
<…能は生体を死体に近づけることによって究極の美的超越を志向するものであるのに対し、歌舞伎は死体を生体に復元することを通して、身体の感性的極限を狙おうとするものであるということができるであろうか。こうして、生体が死体に近づくのにもっとも適合的な舞台上の主体はいうまでもなく「霊」(霊威)であり、それとは逆に死体を生体に近づけていくのにもっとも適合的な主体は形を具えた「肉体」というものであろう。(略)
 中世における降魔・除魔の祭儀の目的は、能狂言における亡霊・怨霊の鎮魂のモチーフに対応していた。そして魔と怨霊を招き寄せる恐怖の「あそび」こそは、近世芸能の遊びの中心をなし、かつ魔と怨霊の諸形式を眼前の有限空間のなかに具象化し視覚化することから成り立っていたのである。
 しかしふり返って考えてみれば、怨霊の視覚化こそは、怨霊そのものの威力の危機を意味する。(略)…白日のもとにさらされた霊は、…肉体の三次元的な機能によって解釈され限定されることになるからである。(略)
 元禄期に形成された歌舞伎世界の七変化舞踊こそは、怨霊の空間化=肉体化という危機的状況を象徴的に示す、独特の身振り行為であったということができよう。>(32-4頁)
 
◎仮面儀礼による動物的始原のかたちへの回帰─あるいは霊性や獣性への媒介
<母胎回帰願望というのは、母(大地性)の慈愛に包まれている幼児への退行心理をあらわしているが、しかしその心理のうちには胞衣によって保護された肉塊=胎児のイメージは、一見するに宿ってはいないように思われる。それはあるいは、胞衣=胎児のイメージが人間の始原の姿をあらわしてはいるにしても、しかしどこか動物的始原のかたちと似かよっているからかもしれない。
 とすれば、われわれ現代人の心の奥底にわだかまる原始回帰とか母胎回帰への願望といったものは、つねに心理的退行現象にとどまるのであって、肉体的な退行イメージを排除しているということになるのであろうか。
 われわれにとって、われわれ自身の始原の姿に近づくために系統発生を無限に遡行して進化論的原点の場面に想像の翼をのばそうとするのは、ヒトもまた社会的動物であるという言明があるにしても、たしかにけっして愉快なことではない。しかしわれわれは、われわれの身体のうちで、たとえば爪や歯やペニスのごとき突出部を肉眼や鏡でじっとみつめていると、それらが不気味な信号を送っている異物のようにみえてはこないであろうか。というのもヒトの爪や歯や性器は、マニ(ペデ)キュアを施されたり、ブラシをあてられたり、シャンプーで洗浄されたりしていても、それらはひとたび仮面的扮装によって覆われるときは、たちまち熊や狼や虎の獣性を獲得して、忍びこんできた欲望をそれによって遂げようとしているのではないか、という不安感をわれわれに与えるからである。
 仮面はもともと宗教的儀礼に欠かせない聖具であったのだが、古い時代のヒトたちは、犠牲獣の仮面をかぶることによって動物霊の世界とコミュニケイトできると信じ、かつまた非人間的で反社会的な狂(響)宴を演出することができた。もっとも仮面の現実的効用の一つは、一見あいまいで複雑にみえるヒトの感情や意識を、そのあざとくグロテスクな隈取りによって局部肥大的に強調するところにあり、したがってまた、抑圧された人間の心を霊や動物の世界に媒介することによって解放しようとするところにあった。とすればわれわれは、肉体にかんする退行願望を、すくなくとも仮面をかぶる儀礼行為によって満たそうとしてきたということだけはいえるであろう。肉体の変態・変形といった問題に対する非日常的で特異な感覚も、いわばそのようにくり返し仮面を演技し、模倣していく過程で、次第にとぎすまされることになったのである。>(34-5頁)
 

【285】仮面考・第三回「身=実を割いて」 (15)
 
■仮面の両義性と二重表情(承前)
 
◎仮面の二重性─呪具と扮装具、あるいは自己認識と世界認識
<仮面は本来、たんなる造型的表現を自己目的として制作されたものでもなく、いわんや自己韜晦の具に供されたものでもない。それは、眼にみえる現実の背後に隠された不可視の時間や空間と交信するための必須の手段であった。(略)
 動物の屍体が一定の呪術的効力を発揮するという伝承は、発達した古代文明においてだけでなく、今日の未開種族においてもみられるところであり、また世界の各地で現におこなわれている獣皮で身を飾るカーニバル的祭儀についても多くの報告がある。とすれば、各様な変身儀礼に欠かせないものであった仮面の原初形態は、そもそも呪具として用いられた動物の屍体にその起源を求めることができるであろう。(略)
 …呪術宗教的な観点からみるとき、仮面というものが、より古い時代に祭式用として屠られた犠牲獣の毛皮とまったく同じ役割を演じていたであろうことにはまず疑いがない。(略)
 仮面が呪具として、もっぱら防護除祓のために用いられるときは、その仮面の使用者は自己のアイデンティティを保持するためにそうする。この場合、仮面は鬼霊などの外敵から自己を防衛する聖なる楯としての役割をはたすのであって、かれの変装はむしろ自己のアイデンティティの「純粋」を守ることを目的としている。その意味では、仮面使用者は「仮面」を通して自己認識に到達しようとする。仮面は、使用者の「主体」を象徴するものではないのである。
 これに対して、仮面が演劇的な扮装具として用いられるときは、…仮面の使用者は自己のアイデンティティから脱出するためにそうする。この場合かれは、仮面が担う「主体」を積極的に演じようとするのであり、アイデンティティの二重性を生きようとする。自己の外化と他者の化身を同時に成立させようとする点で、まさしく「混淆種」[引用者註:ジャン=ルイ・ベドアンが『仮面の民俗学』で引用しているジョルジュ・ビューローのことばで、人間=鳥、人間=精霊、人間=猿、人間=羚羊、人間=祖先など。]の領域を瞬間的に生きようとする。そしてこのような二重性、すなわち人間の二重性を意識することを通して、かれはいわば世界認識に到達しようとするのである。>(37-41頁)
 
◎意識の二重性─動物への退行願望と精霊への超出願望
<こうして仮面儀礼機能のうちには、アイデンティティを防護するか、あるいはそれを危機に陥れるかすることによって、自己と世界を操作的に認識せしめようとする二つの局面のあることを確かめたわけであるが、このことは、人間の変身願望に含まれている両義性を理解するうえで、重要な視点である。その両義性とは、動物への退行願望と精霊への超出願望という意識の二重性といったものであるが、それはつねにわれわれの「実存」に潜在し、かつそれを蝕んでいるところのものである。>(41頁)
 
◎仮面を媒介としない変身─人間の獣化(人頭獣身)と霊化(人頭霊身)
<…仮面をかぶって変身するということと、仮面を使用せずに変身するということとでは、変身そのものの意味が違うのではないか…。仮面そのものに少々こだわったいい方になるかもしれないが、仮面をかぶる変身には、仮面の下に「原型」があるということ、換言すれば変身以前の、元の「身体」があるということを、いちおう前提にしている。(略)
 ところがこれにたいし、仮面を使用せずに変身するということは、原型としての「身体」そのものが変形するということであって、たとえば身体が獣や鳥類の身体性を獲得するということを意味する。比喩的にいえば、ギリシア神話のミノタウロス(牛頭人身)、またヒンドゥー神話のガネーシャ(象頭人身)などは仮面を媒介とした変身像であるが、同様に世界の伝説圏に広く分布する人魚や人頭蛇身の怪物は、仮面をもたない変身像を代表する。>(50頁)
<…人頭獣身に象徴される変身過程[引用者註:仮面を使用せずに変身すること]が、獣頭人身におけるそれ[引用者註:仮面をかぶって変身すること]とは性格を異にしている…。とすれば、その論理的帰結として、人頭獣身の変身形式はその理想型においては人頭霊身の変身形式を予想しているはずである。「人間」が、その身体機能の超越的な成熟もしくは生理学的体系の突然変異によって脱人間化の契機をつかむとき、かれは霊性的存在への変身を選ぶことができる。人頭獣身の水準が、身心の統合の度合がきわめて低いときの状態を示すとすれば、人頭霊身の水準は、その度合がもっとも高度にかつ純粋に結晶している状態を示しているのであって、その点では、人間の獣化と霊化は、一系列の変身ヴァリエーションのなかに位置づけられるのである。獣性を選ぶか霊性を選ぶかは、ひとえにその人間における身体の志向性いかんにかかわっているのである。
 人頭霊身というのはまだ抽象的な表現にしかすぎないが、一口にいえばそれを不老長寿の状態ということでもある。>(52頁)
 
◎人頭霊身─霊的主体と超越的世界との弁証法としての身体
<要するに、心身が物理的水準、生命的水準、精神的水準のそれぞれを示すことがあるのは、そこに心身の統合度の違いが区別されていることを意味するのであって、そのいずれの段階においても心と身体そのものは不可分のものとして把握されなければならないのである。換言すれば、心身の相対的概念というのは、交互に作用し合う化学的構成要素の塊としての身体、生物と生物学的環境との弁証法としての身体、社会的主体と集団との弁証法としての身体の一系列を意味するのであって、これらの諸段階の一つ一つは前段階のものにたいしては「心」であり、次の段階にたいしては「身体」である。いまこの概念の最高の極に、霊的主体と超越的世界との弁証法としての身体という一項をつけ加えるならば、…錬金術的永生の身体的水準を指し示すことになるであろう。
 こうして仮面的獣頭人身および脱仮面的人頭獣身の変身形式を始点として、最後に、…人頭霊身の変身形式にまで到達する諸過程は、まさに生物的生命から霊性的生命にいたるところの、相互に交換可能の弁証法的諸階梯に対応している、ということができるのである。>(57-8頁)
 
◎崇りから祭りへ─あるいは忿怒と道化の二重表情をたたえた仮面
<王朝時代の怨霊が、その目に見えざる崇り性を脱して祭りの領域へとしだいに移行していくことをさきに崇りの視覚化(=魔)と命名したのであるが、この崇りの視覚化現象が一つのピークを示すのが、古代末から中世にかけての時点である…。(略)
 だが、崇りは同時に、奈良時代においても王朝時代においても、視覚化と仮面化の志向性をもっていた。つまり仮面劇をともなう祭儀の場面では、緩和された悪、鎮撫された怨霊として演出され、その危機と禁忌の性格とともに道化性と遊戯性を付与されたのである。(略)いわば崇りの機能は、その同時代的位相においてもたえず祭りの場面と交錯しているのであり、逆に祭りの機能もまた崇りの場面を日常化したものということができる。目に見えざる霊的領域(=崇り)と目に見える仮面劇としての肉体性(=祭り)とが相互に交替する心理的コミュニオンがそこには成立している。(略)
 目に見えざる領域(怨霊)を目に見える領域(仮面)に媒介するものが突発的な魔の特異性であるとするならば、このような魔の発現が極度に抑制されているというのが、上代の特色といってよいのである。(略)「中世的」な魔の形象は、ここ[引用者註:古代社会]では空間的な存在証明を与えられないままに、危険な憑着性と安全な仮面性という二元的な極にその魔的な機能を分岐させているのである。(略)
 一般に古代社会においては、「カミ」や「タマ」は、崇りや憑き物として機能するときはもののけや御霊や怨霊としてあらわれる。そしてこれらの崇り霊は、鎮魂や除祓の対象として具象化されるときは、…伎楽面や舞楽面や行道面の形態をとって演劇化された。もののけや御霊や怨霊は仮面に憑り移って、その崇り性を解除する。そこではいわゆる魔の空間への突出は抑圧されている。崇り霊がそのまま直接に仮面へと移転しているがゆえに、これらの仮面には、忿怒の表情と道化の表情の入り混じった一種の二重表情がたたえられている。(略)受肉の過程で、それらの仮面の表情は多少ともその本来的な怪奇性をうすめてはいるけれども、しかしひとたび「仮面」という制約を取り去れば、そこにあらわれている二重表情はいつでも「魔」そのものへと復帰するのである。>(82-4頁)
 

【286】仮面考・第三回「身=実を割いて」 (16)
 
■仮面の形態論(再考)
 
 ジャン−ルイ・ベドゥアン著『仮面の民俗学』(斎藤正二訳,白水社:原著1961/1963)に「仮面形態学のごく大ざっぱな輪郭」を述べたくだりがあって、そこでは、人がすっぽり身を隠してしまう「人形」と生硬幼稚な仕掛けで顔につける「一片の樹皮、一本の細縄、一本の木の葉」とが対比させられていました(11頁)。
 
 また同書の「訳者追い書き」には、「弥生式の時代に海(天)の彼方から渡ってきたポリネシアないしは東南アジアの水稲耕作民の伝えた仮面」の最も古い形のものが「わたくしたちの常民生活の底辺」に生き続けている事例が指摘されています。
 
◎藁に宿る精霊─水稲耕作民の仮面の原形
<ここで、仮面が現在にいたるまで生きている例を一つあげますと、これはわたくしの仮説でしかないのですが、年ごとに田圃に立てられる案山子は、もとは仮面ではなかったかと想像されるのです。(略)…仮面といっても、狩猟民の作る木製ないしは籐製の仮面ではなくて、水稲耕作民の作る藁製の仮面ではなかったか、と想像します。藁製の仮面は、かならずしも、人間の顔かたちを具える必要はなかった。藁を一と束括れば、そこに祖霊がやってくる、と信ぜられた。(略)どうやら、藁というものは、地上に翳すだけで、祖霊の憑りしろとなりえたらしいのです。藁に宿る精霊は、農耕民にとっては穀霊にも相当したでしょうが、船でやってくる祖霊は、…仮面をかぶり、しかも、その仮面は、藁をかぶっただけの単純なものだった、と想像されるのです。(略)『古事記』[引用者註:上巻、大国主神神裔の条]に見えたクエビコ[引用者註:案山子のこと]は、この意味の藁仮面の起源を説明したものではないでしょうか。>(142-3頁)
 
 ──さて、仮面の形態をめぐって、これまで穴や平面といった幾何学的な次元をかわきりに盤・椀・壷から管へ、また(身=実のレベルでは)管から皮膚・筋・骨へと至る道筋を想定してきましたが、ここで、上に出てきた藁から案山子へ、あるいは樹皮・細縄・葉から人形にまで及ぶ(植物に由来した)仮面形態学の「輪郭」をヒントに、もう少しその抽象度を高めた類型化のラフスケッチを記しておくことにします。
 
 まず、樹皮や細縄や木の葉や藁は多孔体(あるいは宇宙の根源の「ひも」?)、つまり「多くの穴をもつ管」であり、とりわけ藁は「二つの穴をもつ管」という可視的な形態をもつ、身=実のレベルから見た仮面の原形にほかなりません。そして、この第一の管(皮膚、笛)から発するのは「声」です。
 
 次いで、藁=管が束になって相互に織り合わせられ、一つの空洞を囲いこむようになると、可視的には身を隠すものあるいは人形として造形化されるところの「内部世界をもった管」(あるいは「結び目」をもった管?)になります。この第二の管(弦・弓=筋、あるいは椀を逆しまに吊した半鐘=反照体?)が型取る=象るものは顔貌や身体のかたち、すなわち「情報」にほかなりません。
 
 註記。ここでいう情報は、たとえば西垣通氏が『こころの情報学』(ちくま新書:1999)で、<情報とは本来“生命情報”であり、その定義は「それによって生物がパターンをつくりだすパターン」のこと>(91頁)だとか、<情報によって生命的な〈パターン〉がつくられるわけですが、このとき、〈パターン〉を形成する物質が入れ替わってもよいということに注目してください>(92頁)と書いている、その意味での情報を念頭においています。
 
 さらに、藁=管が湾曲して自らに折り返し、その二つの穴がクラインの管=壺のように重ね合わされるようになると、それは「心的システムをもった管」になります。この第三の管が産出(≠算出)するものは「意識」ではないかと私は考えているのですが、この点については、意識をめぐる──たとえば脊髄の容器としての骨=管や関節、血流との関係なども踏まえた──「独自の定義」を含め、いまだ思考途上なので、いまはこれ以上書くことができません。
 
 註記。ここでもまた、『こころの情報学』で使用された語彙を借用しています。西垣氏は、<ヒトの心だけでなく、生物進化上あらわれた一種の意識、また意識の前段階とみられるようなものを含めて「心的システム」と呼ぶ>(89頁)とし、学習によって変化する<可塑性こそが心的システムの真骨頂であり、常に自分を作り変えていくオートポイエーシス・システムの特長と言えるでしょう>(117頁)と書いていました。
 
 以上に述べたことを「要約」しておくならば、仮面を割って、いや身を割いて取り出せる実は、虚ろな空間を象る──声や顔や身(や名?)や心的プロセスの──「かたち」すなわち情報なのであって、仮面とはまさに情報のアルシーブにして孵化器、変換器にほかならない、といったところでしょうか。もっともこのような叙述は、もはや形態をめぐる論の域を超えています。
 
 付記。動物の屍体や獣皮に由来する仮面の形態学、あるいは原核、真核、多細胞といった生物の起源と進化を「祖型」とする仮面の類型学について──時間概念も含め──考察のこと。
 
■心的システムの三段階─生体、反照、自省
 
 エリッヒ・ヤンツ著『自己組織化する宇宙』(芹沢高志・内田美恵訳,工作舎:原著1980/1986)からの抜き書き。──西垣前掲書(96頁以下)で取り上げられていた箇所。なおヤンツは、以下の引用文に出てくる「代謝段階」を原核生物と真核生物に、「生体段階」を多細胞生物に、「反照段階」を複雑な動物に、そして「自省段階」を個人に対応させている。
 
◎システムの自己組織化プロセスに内在する心─生体段階、反照段階、自省段階
<心とは固定した空間構造のなかに内在するのではなく、システムが自己組織化し自身を再新させ進化させるプロセスのなかに内在するものなのだ。(略)
 代謝段階の心と神経段階の心が出会うレベルを、わたしは〈生体段階の心〉[オーガニズミック・マインド]と呼びたい。神経段階のコミュニケーションはまず第一に、進化の結果、より複雑化しつづけていく生体内の代謝プロセスの調整に腐心するものだ。生体段階の心には反照[リフレクト]機能がない。それが示すのは純粋な自己表現[セルフ・エクスプレッション]である。──自己再提示[セルフ・リプレゼンテイション]、あるいは自己提示[セルフ・プレゼンテイション]といった方がより適切かもしれない。(略)芸術は、人間の生の表現形態としてはひじょうに高次のものと見なされる機能だが、その初源的なかたちは部分的にしろ、確かにこの生体段階の心に見出されるのである。
 一方〈反照段階の心〉[リフレクシブ・マインド]はこれと異なり、外世界を映しだして内世界に再構築する働きをもつ。ここでつくられる鏡像は外部の単純な投影ではなく、種々の感覚刺激のモザイクと、反照段階の心が試みに外部に投影するたたき台のモデルとの交換プロセスをとおして現われるものである。反照段階の心のもっとも重要な特徴は、〈統覚作用〉だろう。つまり、現実の代替モデルを形成する能力である。(略)
 〈自省段階の心〉[セルフ・リフレクシブ・マインド]は、さらに異なった働きをする。それが積極的にデザインした環境モデルには、元来のシステム、つまり自分自身が描かれているのだ。「自己」と呼ばれるシステムは、かくしてイメージの創造的な解釈と進化に取込まれることになる。環境との関係は完全に可塑的になり、創造的デザインの対象となっていく。>(321-4頁)
 

【287】仮面考・第三回「身=実を割いて」 (17)
 
■響き合う宇宙の海
 
 アーヴィン・ラズロー『創造する真空[コスモス]』(野中浩一訳,日本教文社:原著1996/1999,原題:The Whispering Pond)からの抜き書き。
 
◎量子真空、アーカーシャの記録、WWW、幽霊パターン、子宮、蜘蛛の巣
<私たちの意識は、ある意味では不滅なのかもしれない…。
 この昔からある直観を確認するのに、従来の神秘主義者のように、私たち自身の心や意識の内容をじかに詳しく吟味しようとしているわけではない。むしろ、そうした内省作業から得られた体験を科学的に妥当な説明ができるかどうかを検証しているのだ。検証の結果得られる一つの答えが、相互結合をもたらす場の存在である。私たちの心はその場を通じて宇宙とダンスを踊る──この答えは、不滅という考えを捨てる必要がないことを示している。前世の記憶と考えられるものも、結局は正当な基盤があるから起こるのかもしれない──つまりそうした記憶は、意識が共有している場から引き出された情報である可能性がある。私たちの感情、感覚は、量子真空のホログラム的なスペクトルにそのつど読み込まれて保存される。この宇宙の虚空[アーカーシャ]の記録に肉体や心の痕跡を残すことで、私たちはすでに不滅を手にしていることになる。
 しかし、さらなる可能性もある。心を持った私たちの身体が宇宙の情報プールに読み込ませた経験は、そのプール全体に散らばっているのではなく──ちょうどWWW(ワールドワイドウェブ)上にあるホームページのように──統合されて一つにまとまっている可能性はないだろうか? もしそうなら、私たちが生涯に体験することや、私たちの意識に上った思考、感覚、アイデアはすべてこのプールに入り込み、すでにそこに存在していたものと統合される。私たち自身の「ホームページ」は、一生──さらにその後も──存続する。もしこの場の情報が、それを生み出した源である身体が消滅した後も消え去ることなく「幽霊[ファントム]パターン」として保存されつづけるのなら、私たちの生涯の体験を統合した記録は、その生涯を超えて存在しつづけるからだ。この奥深い情報プールから記録を読み出すための「暗号」[コード]があれば、その記録は誰にでも取り出せる可能性がある。
 もしかすると胎児は、母親の子宮のなかで成長していくどこかの段階で、私たちが生涯において蓄積した体験の記録の鍵を開けることができる暗号をたまたま手にする(あるいは、もともと鍵を開けられるようななんらかの性質を持っている)のかもしれない。胎児は自分自身ではなく私たちの記憶を読み出しはじめる。その読み出し作業は、私たちの生涯の記録の最後に追加された情報に注がれる。つまり、私たちが死ぬ前に起きた(あるいは死に伴って起きた)体験である。さらに、私たち自身が最も強く印象づけられた事件は「ハイライト」が当てられた記録になっていて、読み出し作業の際に特に重点が置かれる。胎児が生まれ、さらに子供へと成長するとき、自分以外の体験としてアクセスし想起するのはこの情報である。こうして子供たちは、自身の短い体験の記憶に、私たちの最期の数日や数時間の記憶、とりわけ深い印象を与えたトラウマや楽しい体験の記憶を織り混ぜながら新しい世界に旅立つのだ。
 もしその場に含まれている情報が、あたかもウェブサイトのように、それ以前の情報と一貫性をもって統合されているのなら、以上のような仮説が得られよう。そしてもしこれが事実なら、これまでしばしば注目されながらも神秘的な現象として片づけられてきた因果応報[カルマ]や輪廻転生[リインカーネーション]に対して、意味のある科学的な説明を与えることができる。>(278-80頁)
 
■器官投影─皮膚・筋肉・骨
 
 パーヴェル・アレクサンドロヴィチ・フロレンスキイ[1882−1937]「器官投影 Organoprojection 」(S.G.セミョーノヴァ+A.G.ガーチェヴァ編著『ロシアの宇宙精神』西中村浩訳,せりか書房所収)からの抜き書き。
 
◎皮膚─肉体のもっとも秘められたものは、同時に肉体の最外部にある
<手は表層でもあり、指でものをつかむものであり、握りしめるものでもあるが、それは「触覚がすべての感覚の父であるように、すべての道具の母である」。感覚のなかでもっとも高貴な視覚でさえも、きわめて洗練された触覚であることを思い出してほしい。このことはアリストテレスが指摘している。彼は視覚は網膜による触覚であると言っている。ここで思い出すべきなのは、わたしたちの皮膚が発生学的には外胚葉から発達したものであり、同じ外胚葉からさらに分化して神経系が生み出され、それゆえに感覚器官の感じる部分が生み出されるということである。言い方を変えるなら、わたしたちの肉体のもっとも秘められたものは、同時に肉体の最外部にあり、感覚器官は同じ皮膚が形を変えたものにほかならず、したがって感覚そのものは触覚から派生したもの、あるいはより正確には、感覚は触覚を含めてすべて「感覚一般」という同じ土壌から生じたものである。そして、この「感覚一般」の量的に最大の部分は触覚の方向に向かっている。触覚という感覚を代表するものは、疑いもなく、手であると考えられるので、手がわたしたちの道具の大部分の原型であることも理解できる。>(223頁)
 
◎筋肉と神経系─普遍原因としての電気、あるいは「可塑性の媒介」という観念
<神経系は電気器具によって投影されている。(略)…さまざまな電気魚類では筋機能や器官が電気的な機能をもったり、電気器具に変化していることを付け加えておこう。すなわち、換言すれば、電気魚類の電気ショックは筋肉ショックと等価であり、神経感応の直接の結果であると考えなければならない。他方では、電気は他の形態のエネルギーすべてを統合し、すでに普遍的な物理的原因となっているが、この普遍的な物理的原因は、さまざまな形態のエネルギーの区別だけではなく、質料とエネルギーの区別よりも深いところにある。そして秘教の考えでは、電気は特別な状態にある第一質料、あるいはこういってよければ、世界の物理現象だけではなく、オカルト的な現象をも担う、初源的な力であると古代からみなされていた。わたしたちがこの普遍原因をオッドと呼ぼうと、アストラル astral と呼ぼうと、あるいはその他のいかなる名で呼ぼうと、この事情は変わらない。したがって、「可塑性の媒介」という観念からは、心理を結びつけている現象と電気という現象との間の緊密な関係が理解できるのである。>(228頁頁)
 
◎骨という建築物─網状の環状構造・優雅な吊り橋の構造・その他
<骨は弾力のある湾曲をもつ密な部分と多孔質の部分という、二種の組織から成り立っている。そして、もっとも抵抗の大きな線にそって平板が並び、物質の量からすると驚くほどの強度をもっている。この骨が鉄や鉄筋コンクリートの構造物の原型である。一見もつれ合ったように見える斜めの梁と平板が網のように密に編み合わされて、多孔質の骨を貫いているが、この網のような構造には、弾力のある柱と桁からなる力学的に完成された構造を認めることができる。骨によってこの構造は異なっているが、骨という建築物のなかで網状になっている環状構造の部分はつねに、わたしたちの体が正常に動き、機能した場合に、骨が受ける力の作用する方向に対応するようになっている。この互いに編み合わさり、互いに交差しあう、もつれたように見える柱のなかで、個々の平板はそれぞれ独自の静力学的な意味をもち、一定の役割を果たしている。骨の多孔質の部分の構造は非常に軽く、優雅な吊り橋の構造を思わせる。(略)骨のなかの格子状の梁の方向は、骨の形態と機能に対応する数学的な構造において得られる線を厳密に守っている。>(228-9頁)
 
◎ネモ船長の電気銃─技術的な発明はわたしたちの自己意識の試薬である
<有機体の研究が技術的な発明の鍵であるとすれば、逆に技術的な発明はわたしたちの自己意識の試薬であると考えることができる。(略)自分のなかに、そして生命体のなかに、わたしたちはまだ実現されていない技術を発見する。技術のなかに、まだ研究されていない生命の側面を発見する。技術が進んでいく方向と生命が進んでいく方向は平行線をなしている。しかし、それぞれの対応する点どうしは一方が先に進んだり、あるいは遅れたりすることがありうる。それゆえにわたしたちは、それぞれの進む方向のはるか先を、事実として与えられているよりももっと先を、予測的に与えることができる(生命の方向は意識のなかにあり、技術の方向は現実のなかにある)。だから、たとえば飛行が確実なものとなったのは鳥の飛行が研究されてからである。(略)だがはっきりと予見できるにもかかわらず、技術的な成果が得られていない分野もある。ナマズ、シビレエイ、ウナギ、そしてエジプトの聖なる魚であったオクシリンクスといった電気魚類の器官についてはわかっているので、肉体の延長となる電気を発生させる道具を作るのが可能だということは予見できたし、予見されたはずである。そのようなものは実際にはまだ現実のものとなっていない。「海底二万マイル」でネモ船長の電気銃を書いたジュール・ヴェルヌの想像力を除けば。>(235頁)
 

【288】仮面考・第三回「身=実を割いて」 (18)
 
■フロイトのマジック・メモ
 
 フロイト「マジック・メモについてのノート」(中山元訳『自我論集』所収,ちくま学芸文庫)からの抜き書き。
 
◎心的装置についての仮説─知覚−意識(W-Bw)システムの機能の不連続性
<マジック・メモでは、そのたびに記載内容が消滅するが、刺激を受け取るセルロイドと、刻印された内容を保存しているパラフィン紙の間の密な接触は残っている。これは、人間の心的な装置の機能について以前から考えている仮説と一致するのである。これまで自分の胸にしまってきたこの仮説では、備給の刺激伝達が自我の内部から、完全に透過性の知覚−意識(W-Bw)システムへと、急速で定期的なインパクトとして送り出され、撤回される。このシステムがこのような方法で備給されている限り、これは意識に伴う知覚を受け取り、無意識の記憶システムに興奮を伝達する。備給が撤回されると同時に、意識の〈灯〉が消え、このシステムの機能は停止する。無意識が、知覚−意識(W-Bw)システムを介して、外界に触手を伸ばし、外部の刺激を試食すると、急いで触手をひっ込めるかのようである。マジック・メモの場合には、外部からの接触が断たれるが、心的装置についてのこの仮説では、刺激伝達の流れの不連続性によって接触が断たれる。そしてマジック・メモでは物理的に接触が断たれるのであるが、わたしの仮説では知覚システムが定期的に励起されなくなることによって、外部との接触が断たれると考えている。さらに、知覚−意識(W-Bw)システムの機能におけるこの不連続性が、時間概念の根本ではないかと考えられる。>(311-2頁)
 
■アルトー/デリダの基底材
 
 ジャック・デリダ著『基底材を猛り狂わせる』(松浦寿輝訳,みすず書房:原著1986/1999,原題:Forcener Le Subjectile)からの抜き書き。
 
◎形態や意味や表象から区別されるすべてのもの、細孔が穿たれた一種の皮膚
<基底材というこの観念は絵画の記号体系[コード]に属しており、実体[シュプスタンス]とか主体[シュジェ]とか淫夢女精[シュキューブ]とかのように、言うならば下方に横たわっているもの(sub-jectum)を指し示している。上部と下部との間にあるもの、それは支持体であり同時に表面であり、時にはまた絵画ないし彫刻の素材であり、絵画や彫刻のうちにあって形態や意味や表象から区別されるすべてのもの、表象不可能なものなのである。推定されるその深さないし厚みとして眼に見えているもの、それは一つの表層でしかない。壁や木の表層、だがすでに紙や繊維や板の表層だ。細孔が穿たれた、一種の皮膚なのだ。二種類の基底材が区別されるのだが、そこで物差しとなる基準こそアルトーの外科医術においてすべてを決定するのである。見たところは専ら手の動きで成り立っているこのデッサンという操作の内側を、基底材は横切ってゆくのだろうか? さて、まさしく、横切ってゆく基底材(多孔質と形容されるもの、つまり石膏や漆喰や木、またボール紙や繊維や紙)と、それ以外の、横断の跡を残さない基底材(金属あるいは合金)との間に対立関係があるのである。>(7-8頁)
 
◎顔面という底知れぬ深淵、表層上の接近不可能な平面の測り知れない奈落の底
 アントナン・アルトーの『悪魔の手先と拷問』に収められたテクストから、デリダ自身が引用している文章。
<…神の真の名はアルトーというのであり、そしてそれは、深淵と虚無との間にあり、/深淵と虚無の性質を帯びていて、/呼ぶことも名づけることもできぬ、/あの命名不可能な種類の事物の名前なのである。/そして、それはまた一つの肉体でもあるようだ、/アルトーはまた一つの肉体でもあるようだ、/肉体という観念ではなくて肉体という事実なのだ、/そして、虚無であるところのものは肉体であり、/顔面という底知れぬ深淵、表層上の接近不可能な平面の測り知れない奈落の底であるという事実なのだ、そしてこの表層上の平面から、深淵の肉体、[…]肉体と化した深淵が姿を現わす。>(57頁)
 
◎基底材─男にして女、父にして母
<基底材は辛抱強い、彼はすべてを待ち受けている、すべてを覚悟している、だが不感無覚でありつづける。それは、孵化の場なのだ。彼は、あらゆる形態を自分の上に掴み取る、自分自身を想定し、ないしあらかじめ想定し、それゆえあらゆる対立関係を免れている──たとえば、男と女の対立であり、さらには父と母の対立だ。(略)一方で、基底材は雄だ、彼なのであり、彼は主体である──すなわち、彼は、みずからの想定された超越的中性性から法を作るのである。彼は父であり、教訓を与え、口を噤むことで法を口にするからだ。彼は、法のあれら二本の柱のようだ、あるいは、彼は表象しているあれら二台の大砲のようだ──それらは彼の肉体の上に彫りこまれた刺青なのである。しかし、他方──と言っても前者と分かち難いことなのだが──この同じ主体=彼は、伝統的には女性性の、さらには母性の属性として解釈されてきたすべての表徴を帯びている。まずそれは実体であり、さらに〈ヒュポケイメノン〉(下に置かれてあるもの)の素材であり、まさに属性ではない。下方に広がっている物質ないし子宮であり、その基底性は前進や突出部を、放射状や射精を、受け入れる。(略)それから、基底材というこの女性はまた、母親でもある──分娩と出産の場、横臥する者であり同時に産婦をのせている褥でもある。>(124-6頁)
 
◎層=床=褥としての基底材─あるいは一つの自我、そして私、新生児そのもの
<まず最初に、重ね合わさった複数の層、諸々の堆積作用で出来た深層系列がある。それは、つまり基底材は、絵画の諸層を支える[=分娩を耐え忍ぶ]能力があると想定されている、しかし、人はたちまち気づいたのだ、これらの層の下で、底なき底が、今度はそれが図像と化して、表面の背後にしりぞいてゆき、このようにして果てしなく続いてゆくのだということに。基底材が横たわるやいなや、つねに一つ以上の層が存在する。そして、幾つかの可能な支持体が。「新たな支持体」について、アルトーは何を語っただろう、何を語らなかっただろう? そして、綜合的な声について?
 それに続いて、基底材の床が存在する(地質学の用語体系における「床」「層」の話でもあるのだ)──眠りのためないし愛のために、躯の下に広がっている層、クビーレ cubile (寝床、ねぐら)、層、初夜床、寝室、巣、ねぐら、動物の巣穴[ジット][=鉱床]。これらの層=床は、主ないし特権的な寄食者を、つまり男女の淫夢精を持っている。
 さらにまた、新生児の褥が存在する(基底材はただ単に生誕の場ないし床、診療所、産院であるばかりではない。それはまた一つの自我、そして私、新生児そのものでもあるのだ)。そのとき層[クーシュ]は、包帯用の布類に似たぼろ切れ、繊維、紙のこうした厚みを形象化している。時としてそこを糞便が横切ってゆくことに耐えねばならぬのであり、また、液状・固形状・半=液状のそれら糞便を取り集め保持しなければならぬのだ。層=おしめ[クーシュ]は、乳呑み子の、肛門的かつ性器的な身体部分を包みこんでおり、この乳呑み子にとって芸術の幼年期とはこの基底材の浸透から成り立っているのである。立っていようと横たわっていようと、歩いていようと眠っていようと、基底材は彼の下にある──それはもっとも攻撃的あるいはもっとも貴重な委託物の集積場なのだ。
 しかし、まず最初に存在したのは産褥、つまり分娩[アクーシュマン]の褥[クーシュ]である──偽の、あるいは真の褥である。「生誕=以前のものの苦痛」と「生来のもの」の出産である。これらの層=褥のすべては、場所であり同時に日付を持った出来事である、場を持つこと=生起することなのである。そして、もし基底材がこれほど不可視のものにとどまらなければ、基底材はそのことが演じられる劇場を提供するだろう。基底材は、これら層=褥のすべてを身に帯びている、懐胎しており、次いで予定日に出産するのだ。
 いつでも、さらにもう一つの層が存在する。
 「層」という単語の持つ意味の諸層は、或る一つの土地の体系的な統一性のうちに全体化されるがままにはならないのであり、そこに混乱なく整頓されて安らうことができるような最終的な支えは持たないのである。それらは一つの意味をかたちづくらない。ここから猛り狂いが生まれる。複数の基底材に関しても同じことが言えるだろう。一であるようなものは何一つ基底材の下に抱卵されていないのである──基底材そのものさえも、だ。恐らく、抱卵=孵化の一時期があるという、ただそれだけのことなのだ。>(149-50頁)
 
■メルロ=ポンティのキアスム
 
 メルロ=ポンティ「絡み合い──キアスム」(中山元編訳『メルロ=ポンティ・コレクション』所収,ちくま学芸文庫)からの抜き書き。
 
◎観念の〈肉的な〉構造
<…光の観念や音楽の観念は、光と音をその下側から裏打ちするものであり、光や音の裏面であり、その奥行きなのである。その〈肉的な〉構造は、すべての〈肉〉に不在なものを現前させる。これは描き手がいないのに、わたしたちの目の前に魔法のように描かれる軌跡であり、ある種の窪みであり、ある種の内部であり、ある種の不在であり、要するに無ではないある否定性である。(略)
 最初の視覚とともに、最初の接触とともに、最初の喜びとともに、世界への手ほどきが行われる。それはある内容が措定されるようなものではなく、一度開かれると、もはや閉じることのない次元が開かれることであり、一度確立されると、他のすべての経験がそれに準拠するようになる水準が確立されるということである。観念とは、この水準、この次元のことである。(略)観念とは、この世界の見えざるものであり、世界に住みつき、世界を支え、世界を見えるようにする〈見えざるもの〉であり、この世界に固有の内的な可能性であり、この存在者の「存在」である。(略)音楽的な観念や感覚的な観念は、それが否定的なものであり、あるいは限定された不在であるため、わたしたちがそれを所有するのではなく、それがわたしたちを所有する。ソナタを作り出したり、再生したりするのは、もはや演奏者ではない。演奏者は、自分がソナタに奉仕していると感じるのであり、聴衆もそれを感じるのである。演奏者を通じて、シナタが歌う。ソナタが突然に叫び出すと、演奏者はそれについていくために、「すばやく弓にとびつかなくては」ならなくなる。[引用者註:訳注によれば、この『スワン家の方へ』から引かれた文章に出てくる弓とはヴァイオリンの弓のことである。]そしてこの音の響く世界に開かれたこれらの〈渦巻き〉が、ついに一つの渦巻きとなり、観念はそこで互いにふさわしいものになるのである。>(154-5頁)
 

【289】仮面考・第三回「身=実を割いて」 (19)
 
■仮面の機能論(再考)
 
 情報の変換器としての仮面の機能をめぐる、新たな考察のためのメモランダム。──生殖による情報の(再)物質化と、受肉による物質の更新(新生、創造)の違いについて。
 
 生体を死体へと脱魂する鎮魂儀礼としての能。死体(自動機械、人形)に生命的な力(獣性、霊性)を憑衣させ生体へと変貌させる芸能としての歌舞伎。──これらは、いずれも「第二の管」(内部世界をもった管)のレベルでの出来事だ。すなわち、内部世界(有限空間=知覚[実在]世界?)と外部世界(超空間=無限空間=想起[仮想]世界?)との媒介=変換、あるいは生殖による(再)物質化と死による物質の崩壊。
 
 ここでの変換は、第一のレベルの管(笛)のメカニズム(声の発生)を介して遂行される。水平的変換、あるいは三次元的「厚み」での出来事。物質から生命へ、あるいは生命から物質への変換。
 
 神の受肉(内在)と人間の神化(超越)。──これらは、いずれも「第三の管」(心的システムをもった管)のレベルでの出来事だ。すなわち、経験的世界(=現実世界?)と超越的世界(=可能世界?)との媒介=変換、あるいは受肉による物質の更新(新生、創造)と神化による物質の廃棄。
 
 ここでの変換は、第二のレベルの管(弦、弓)のメカニズム(声の共鳴・合成と沈黙[=波動関数の収縮?])を介して遂行される。垂直的変換、あるいは四次元的「深み」での出来事。物質から精神=歴史へ、あるいは精神=共同体から物質への、生命を媒介とした変換。
 
 しかし、ここでいう「物質−(生命)−精神」の変換プロセスは容易にその垂直性を喪失し、「物質−生命」の変換プロセスへと崩壊するだろう。というのも、受肉の思想は絶えざる緊張関係に支えられなければ、憑依の思想(というより憑衣感覚)や輪廻転生の思想へと推移する傾向にあるからだ。とりわけ精神が、共同体意識に呪縛された霊性(≒生命)のレベルにとどまっている場合。
 
 ここで、第三の変換を考えることができるかもしれない。──精神を生命(≒霊性)のレベルではなく「意識」のレベルへと「高める」ことによって、物質と精神を媒介する変換。すなわち、「第一の管」(二つの穴をもつ管、あるいは多孔体)のレベルでの出来事。第三のレベルの管のメカニズム(たとえば、夢?)を介して遂行される変換。(しかしここでもまた、それがいったいどのような変換なのかいまだ思考途上ゆえ、いまはこれ以上書くことができない。)
 
■仮面の神学、あるいは三島由紀夫における美から絶対へ
 
 富岡幸一郎著『仮面の神学』(構想社:1995)からの抜き書き。
 
◎折口信夫と三島由紀夫─神道の人類教化と神的天皇
<折口と三島は、神と天皇という戦後日本における不可視の領域であきらかにクロスしている。もちろん、三島の「神的天皇」の希求は、折口の「天子非即神論」と「神道」の人類教化、世界宗教化の主張と最後には対立せざるをえなかったろう。その一方で、倭建神話にすでに“神人分離”を認めた三島は、折口のいう「『神々の死』といつた年代が、千年以上続いてゐたと思はねばならぬ」という言論の正当性をも認めざるをえなかったはずである。『朱雀家の滅亡』の最後の一句[引用者註:《どうして私が滅びることができる。夙うのむかしに滅んでいる私が》]も、そこから発せられたものであった。しかしながら、折口が「天子非即神論」で転向し、天皇の人間宣言を受け入れたように、三島は人間宣言を受け入れることはできなかった。また折口の「神道」の人類教化の主張にも三島は相容れないものを感じていたに違いない。>(63頁)
 
◎一神教的な超越性─空っぽの容器に容れるもの
 富岡氏は、小島信夫の『抱擁家族』を論じた千石英世「最後の性──『抱擁家族』における神の問題」からの一文──<…神を容れる空っぽの容器だけが東京郊外の暗闇に立っている。…それ自体一つのキリスト教的建築物、キリスト教の容器なのだ。だがそのなかに容れるものがない。>──を引用したあとで、<三島は『英霊の声』を書くことによって、あの『抱擁家族』の「空っぽの容器」のなかへ自らの「神」を持ち込もうとしたのだ>と書いている。
 
<いいかえれば、三島由紀夫が垂直的な超越性を求めるために拒絶しようとしたのは、不断に「成りゆく」という日本的な自然[じねん]であった。その点では、彼はいわゆる日本主義者でもなければ、近代日本の知識人の“日本回帰”のパターンとも異質である。三島の「天皇」が、日本人の伝統的な神[カミ]観念とはちがった、キリスト教的、一神教的な「神」[ゴッド]に近いものであり、『太陽と鉄』の最後に記される同苦の共同体──「神聖が垣間見られる水位にまで」達するための「個性の液化」を可能にさせる「共同体」といった理念が、ある意味ではきわめてカトリック的であることもそれを裏側から証している。もちろん、この点にこそ、つまり西欧化にたいする最後の砦、決して西欧化されないものとして彼が考えた神的天皇の、その超越性のイメージが、三島のいうヤマトタケルよりも、実ははるかに西欧的な一神教の神概念に近かったという分裂にこそ、三島由紀夫の晩年の最大の問題点があり、謎がある。>(82-3頁)
 
◎受肉という思想─美から絶対へ
<受肉[インカネーション]とは、言うまでもなく本来はキリスト教の根本的な思想である。受肉論の後退は、近代的キリスト教の衰弱と相俟っている。神の子の受肉の思想は、ギリシャ的な「美」にたいして決定的な転換を迫る。(略)…三島にとって「美的価値」が、すなわち「ギリシア的なもの」が“必要”とされたのは、おそらく『金閣寺』までである。『金閣寺』を書く過程において、三島にとって「美」の問題は、「絶対」という問題へと置き換えられたのではなかったか。/『太陽と鉄』で語られる「肉体の思想」にかんしては、三島の「ギリシア的なもの」からの経路を考えやすいが、むしろ、反対に、そこでは三島由紀夫における“受肉”の思想が問われなければならない。(略)『太陽と鉄』のなかには、「神」という言葉はあらわれないが、キリスト教神学的な文脈と、異質で隔たりながらも呼応しているところがある。しかし、そこにはもちろんイエスという受肉者=他者の具体的で特殊な名はあり得ない。そのかわりとして語られるのは「絶対」であり、「絶対の青空」であり、「死の太陽」である。つまり、抽象的で一般的な言辞である。(略)三島由紀夫の悲喜劇は、あるいは錯誤は、このような受肉の思想とも言うべきものを、「日本人の神の観念」に求めねばならなかったところである。…三島が“回帰”しようとした日本的なるものの土壌には「言」にたいして「事」は対応するにしても、「言」にたいする「肉」という対応・互換はあり得ない。(略)しかし、そもそも受肉の思想とは、言葉(ロゴス)が肉化するという出来事によって、「絶対」を語る(批評する)ことにほかならない。(略)三島は、近代日本において「肉」という思想に、あるいは、思想というものの肉化という課題にぶつかった数少ない文学者であった。そこにおいて超越的なものが問われた。三島自身が言うように、『太陽と鉄』は「その比類ない教養史」として読める。そして、その「教養史」は、「思想を体現し、思想そのものに成り変る」試みでもあったが、同時に、それは言葉(ロゴス)が肉化するという思想をどこまでも欠いた汎神論的・相対的・自然風土の言葉の中における弧絶した試みでもあった。>(155-63頁)
 

【290】仮面考・第三回「身=実を割いて」 (20)
 
■結び、そして再び開くこと
 
 身=実に即して仮面(的なもの)を考察する際、見逃すことのできない多くの視点や論点、取り上げたかったいくつかの素材──たとえば、エロティシズム、食人、殺人、メタモルフォーゼ、多重人格、群衆、仮面劇、カーニヴァル、マラルメの祝祭論、エーテル体やアストラル体、舞踏記譜法、等々──にふれることなく、このあたりで仮の「結び目」を作っておくことにします。(もちろん、いつか解かれることになるだろう時に備えて。)
 
 付記。大阪市立大学インターネット講座(平成8、9年度)の「結び目理論」を担当した河内明夫氏は、その最終講座で「人間の精神構造も結び目を使って表現できるのではないかと思っている」と書いています。──<こころの屈折を結び目の交叉変換として表現するような結び目理論を利用した“人間精神(こころ)のモデル”は是非考えたいテーマである。このことに関連して、B.Stewart-P.G.Tait "Unseen Universe" (Macmillan and Co.,1894) では、(エーテル存在仮説は間違いではあるが)魂はエーテルの中で渦巻きリングの結び目として存在する、と主張している(R.Rucker "The Fourth Dimension" Houghton Mifflin Co.,Boston,1984 参照)。>
 
■補遺1─黒いエロス
 
 A・ピエール・マンディアルグ「黒いエロス」(澁澤龍彦訳『ボマルツォの怪物』所収,河出文庫)からの抜き書き。
 
◎万物が厳密に平等な無限の共同体─君がもはや君自身ではない別世界
<肉を痛めつける道具は、人間を破壊するための機械なのである。/というのは、エロティシズムの(この黒いエロスの)狂気のような力は、ついには人格の喪失にまで導くものだからである。すぐれた詩の働きと全く同様だ。それが行きつく果ては、漆黒の空の下の燃える砂漠であり、ノヴァーリスの大いなる夜であり、悪が善に交わり、万物が厳密に平等な無限の共同体なのだ。もしも出発点に立ち帰りたいと思うならば、あの「仮面舞踏会」なるものを多少なりとも考察してみるがよかろう。そこでは、ビロードの仮面のエロティックな色が仮装着[ドミノ]の玉虫色の輝きよりもさらに崇高なのであり、またそこでの規則は、名前と身分とを無効にすることに在るのである。仮面の下で、その人格や肩書きを主張したり、これらを失うまいとしたりするほど、愚かにも虚栄心に富んだ人間はあるまい。仮面は夜の門番なのだ。それは狭い入口から、君がもはや君自身ではない別世界に、君をもぐりこませてくれるのだ。>(84頁)
 
◎エロティシズムの効力─理性と肉欲の廃棄、あるいはO嬢の気高さ
<もっと深く掘り下げてみるならば、ただちに次のことに気づくであろう。すなわち、エロティシズムの第一の効力が君の理性を失わせることだとすれば、これまた驚くべき第二の効力は、君の感覚を失わせること、つまり、官能の世界を絶滅して肉欲を廃棄することだということである。異端事典を繰ってみれば、こうした効力によって罪と闘ったおびただしい古代の宗派の名前が、忘却から救い出されることになるだろう。その方法は、いわゆる罪の観念と等しく、あるいは彼らが闘った事実の観念と等しく、野蛮なものであった。それでもなお、エロティシズムが旋回によって肉体の重さから解き放たれる、回教舞踏僧[デルヴィッシュ]のダンスのごときものであることに変りはないのである。現代では、あの絶妙なる『O嬢の物語』より以上に良い例はあるまい。(略)ロワッシーの城が、魂の城へいたる道程の一段階でしかないことは、よほどの粗忽者ででもない限り誰にも認められるところであろう。そして女主人公が、漸進的な霊肉分離でしかなかったアヴァンチュールの終りに、仮面をつけ、梟の羽毛をまとって、夜の中にその裸身をさらしに行こうとするとき、彼女の肉体を思い出すためには、よほど猥談趣味に毒された人間でなければならない。>(85-6頁)
 
■補遺2─文学、祝祭、仮面
 
 週間朝日百科『世界の文学』001(シェイクスピア、ラシーヌほか)に収められたいくつかのエッセイの切り抜き。
 
◎文学─古い記憶を語るもの
<実をいうと、当のその本をひらく前に、すでに私たちは読み終わっているのだ。というのは、優れた文学は、誰もがもっていて、しかし、はっきりことばにできないでいる古い古い記憶を語るものであって、それをあらためてよみがえらせ、目の前にもち出してくる。文学の受容には自分のひそかな精霊があずかっている。(略)読者が文学を通して自己認識したり再生したりするように、文学作品それ自体もまた作者の手をはなれたあとは、自己認識をくり返し、またいくたびも再生するらしいのだ。(略)いつもふしぎでならないのだが、私の頭の直径は二十センチたらず、周囲ときたら、たかだか五十六センチである。そのちっぽけな頭のなかに、地球よりも大きく、宇宙のように広大な文学が、どうしてすっぽり収まるのだろう。>(池内紀「文学はたのしい」)
 
◎カーニヴァル─祝祭言語、異形の時空を現出させる演劇的仕掛け
<カーニヴァル(カルナヴァル)、それは、人間が狂熱と想像力を最大限に発揮して築き上げた破天荒な祝祭である。(略)キリスト教圏を中心として営まれるこの非キリスト教的祝祭は、その分布と規模において、さらに言えば、興奮度と蕩尽性と痴愚性においても、中世以降、間違いなく世界最大の祭りである。/女装、異装(動物・怪物仮装)、悪戯(紙つぶて[コンフェティ]投げ、スカートめくりなど)、牛飲馬食、無礼講、スカトロジー、肉体露出、笑い、悲鳴、雑音、シャリヴァリ(再婚やかかあ天下、不倫などに対する若者たちによる儀礼的制裁)、そしてパレード……。まさにカーニヴァルとは、こうした伝統的な祝祭言語を多少とも取り込んで日常的な規範を転倒させ、そこに異形の時空を現出させようとする、すぐれて演劇的な仕掛けにほかならない。>(蔵持不三也「破天荒な演劇空間」)
 
◎コンメディア・デッラルテ─仮面をつけたストック・キャラクター
<コンメディア・デッラルテの登場人物は「ストック・キャラクター」といって決まった役を演じる。主な道化役はアレルッキーノとプルチネッラであるが、作品によってその他の名で呼ばれることもある。(略)これらのキャラクターは仮面をつけているので、イタリア語で「仮面」を意味する「マスケラ」と呼ばれている。(略)作品のほとんどがこうした「ストック・キャラクター」によって演じられるため、逆に言うと世界はこの限定されたいくつかの役柄がつくりだすドラマに収められてしまう。(略)中世から近代劇へと移り変わる中で、職業俳優を生むなど重要な役割を演じ、さしもの隆盛を誇ったコンメディア・デッラルテであるが、型にはまった「紋切り型」を繰り返していたせいか、十八世紀の後半には飽きられて、活力を失った。>(田之倉稔「仮面をつけた道化役者」)