仮面考・第二回「顔=貌に面して」



【251】仮面考・第二回「顔=貌に面して」 (1)
 
■顔なき貌─序説の1
 
 作業を始めるまえに、タイトルの由来について一言。──事の発端は昨年六月、東京都立美術館で開催されていた『ケルト美術展』で観た「仮面」にあります。「本体が失われた木製水差しの装飾部品」(紀元前三世紀,モラヴィア博物館蔵)六点のうちの前面の青銅製人面がそれで、一九九一年春、ヴェネツィアで開催された『ケルト人──始源のヨーロッパ』展のポスターにも使われたもの。
 
 この奇怪な立体装飾を前にして、いま自分は何か根源的なものに面しているのだという身震いするような時空感覚の痙攣に襲われました。それは、抽象的かつ感覚的な情動性そのもの、あるいは内面性や深層的次元を欠いた(いまそこにある)無意識の「表現」に面しているのだ、といった戦慄をともなう経験だったのです。
 
 この獣めいた人面は、人格的同一性や内面的一貫性などに拘束された「顔」であるはずもなく、強いていえば生物的・精神的な圏域を超越した「貌」なのではないか。こうして「顔=貌に面して」というテーマが私のうちに浮上してきたわけです。──以下、鶴岡真弓著『ケルト美術への招待』(ちくま新書:1995)からの引用。
 
◎名をもたない「かたち」・「獣面または仮面」・顔なき貌
<グリフォンなりスフィンクスなりのオリエントに生まれた動物文様は、ケルトの工人の手によって渦状・蛇状のフォルムに変えられ、翼や顔や体は、極度にデフォルメされている。おそらく多くの人々の眼に、それはグリフォンともスフィンクスとも映るまい。それは竜か蛇、いや「何か動物様のもの」として現われ出ている。奇怪でデモーニッシュな名をもたない「かたち」である。
 
 単一の意味に包摂しえないそうしたモチーフとして際立っているのが、奇怪な「貌」ないし「人頭」である。
 器物や武器、ワイン壷の取っ手や、刀剣の柄、戦車の付け金や装身のピン、まったく唐突に現れ出る人面は、初期ラ・テーヌ美術[引用者註:紀元前五〜四世紀初頭。ヤコブスタール『ケルト美術』[1994] での様式区分]の中心地ラインラント地方とチェコ・スロヴァキア地方に数多く分布する。ヤコブスタールはこれらを「獣面または仮面」と呼んだ。
 その代表作は、ケルト展のポスターにも使われた作品だろう。チェコのブルノ=マロメリツェの墓から出た、ワイン壷の覆い飾りと推定される青銅の装飾(前三世紀)の中心部には、いわゆる「世にも恐ろしい動物の仮面」(テリファイイング・アニマル・マスク)がかたどられている。この装飾は一見すると網状の線の交差になっていて、上方には、鳥のトサカのようなものが付き、先端には、動物の蹄のようなかたちも現われている。私たちはこの装飾品を、統一的に「何々を表わしたかたち」と呼ぶことができない。人面らしくもあり獣面らしくもあり、面貌でありながら躯[引用者註:原語は「身」+「區」]の部位をもっている。それは人や動物の「顔」として特定できない、名無しの両義的な「貌」なのだ。>(81-2頁)
 

【252】仮面考・第二回「顔=貌に面して」 (2)
 
■内面なき顔─序説の2
 
 名もなき「かたち」としての貌。──このような意味での「貌」とは「表情」のことなのではないか。それも自己の内面を存在根拠として(あるいはその偽装として)これを外的・物的に表出するものとしての表情ではなく、また他者の内面の認識根拠として(あるいはその偽装として)これを了解可能なものとする記号としての表情でもない、いってみればそのような(常識的な)コミュニケーションの場の設営に先んじた、あるいはそのような(日常的な)対面状況そのものを可能とする根源的な「表現」としての表情。
 
 古代ケルトの工人の手になる「顔=貌」に面して、漠然とそんなことを考えていました。そして、まだ読んだことはないけれど確か廣松渉さんに「表情」をテーマとした著書があったはずで、この哲人ならばその面妖な(しかし視覚的律動ともいうべき力強さをもった文字群を喰い破って思索の息づかいが、つまり肉声が響いてくるような)文体でもって、私のおぼつかない直観にこれ以上はない表現を与えているのではないか、と思い至ったのです。
 
 あれからほぼ一年、ようやく廣松渉著『表情』(弘文堂:1989)を概観しました。途方もなく広大で深甚で豊かな水量を誇る大河の可憐な(?)支流を思わせるこの小著は──<現実[ほんとう]に、内なる心的現象が、まるでマグマのように流動・移動して体表へと迫り出し、外なる物的現象となって発現するのであるか?>との問いを皮切りに──「内奥的心態の体表的表出」という表情観をめぐる理論的パラダイムの大転換を企図し、さらには表情論を機軸とした「他我認識問題」や「身心関係問題」の解決へのラフ・スケッチ(廣松語では「構図的論述」)にまで及ぶという、刺激的な内容をもつ書物でした。
 
 ここではそのうち(私の脳髄に記銘されたかぎりでの)結論部分や気になる箇所を整理要約のうえ箇条書風に抽出して、以下の作業の「予件」として掲げておくことにします。
 
◎直截的に経験される現相世界においては森羅万象が“表情性を帯びて”いること。(54頁)──著者の世界観にあっては、フェノメナルな現相世界は、本源的には非人称帰属的=人称帰属以前的であり、この世界は主客協働の結果として現相在を呈するのである。表情性現相なるものは、それがここでいう世界現相の直接態である以上、本源的には特定人称帰属以前的であり、森羅万象がその相にある。したがって、著者の立場では、表情性を呈する当体を以ってそのまま意識主体なりとするが如き見解は採るべくもない。著者の構制に即するとき、意識主体を人間だけに限局すべき謂われはない。(238-9頁)
 
◎表情性知覚こそが原基的な体験であること。(54頁)──表情性知覚こそが如実の体験相であり、“感覚的成分”と“情意的成分”との“分出”のごときは、二次的・反省的な区別たるにすぎない。(58頁)
 
◎嬰児の原体験相における母親の顔面表情の覚知というのは、顔を物体相で知覚し、その物体に生ずる形状的変化を見て取ることの謂いではない。原初的な体験の場面にあっては、まさに表情が端的に感得されるのである。(64頁)
 
◎生体は振動系であり、多種多様な物理的・化学的振動機構に支えられた、多種多様な振動の重合系である。(154頁)──しかも生体は内部的機構において振動系・共振系であるだけでなく、対外的な刺激受容・反応の場面にあってもやはり共振系である。(157頁)
 
◎狭義の表情(俗に「主体によって表出された所産」とみなされている顔貌・身振などの「表情現象」)は、徴標記号[シンプトム]として機能する。(183頁)──ここでいうシンプトムとは徴標機能、すなわち覚識情態・情動価を表出する機能を担う記号で、熊野純彦氏が提示した記号の三次元的区分(シグナル・シンプトム・シンボル)に基づく。なお同氏によれば、言語はその表現機能に徴して、象徴機能・徴標機能・信号機能の三機能を総合的に実現するものである。(178-9頁)
*熊野純彦「言語論と物象化論」(季刊『クリティーク』所載,青弓社:1987.7)
 
◎著者は、“顔貌・身振”言語から象徴言語記号へと転成するとは考えない。(192頁)──ただし、象形文字については一考を要する。標音文字文化圏の学者たちは、文字とは言語音声の代理物だとしか考えない傾向がある。しかし、象形文字は決して音声の代理記号ではなく、むしろ、音声言語記号と並ぶ図象言語記号と言うべきであろう。そして、この図象文字たるや、或る意味では、身振言語とも共通するところがある。象形文字の表現性は身振言語と共通する。(261頁)
 
◎著者は、狭く「自己意識」(自分が今意識しているということについての自覚的意識)の主体というレヴェルに限定することなく、「自己」意識(自己を他身から個体的に区別する意識)の主体をも自我主体として認めうるような広義の「自我」概念を立てたいと念う。更には、単なる「対象意識」(知覚・情動・記憶などのいわゆる“意識態”)を“有つ”にすぎない個体でも、端的に没意識的な存在体とは区別して、意識の主体=“自我”として認める配慮があってもよいと思う。われわれとしては、動物や嬰児に関しても他我認識を云々しうることになる。(229頁)
 

【253】仮面考・第二回「顔=貌に面して」 (3)
 
■断想集の1
 
 顔=貌=仮面をめぐる思索の不連続な断層、いや未編集の断想と断片のコレクション。
 
◎声から名へ、名から顔へ、顔から身へ。人格(あるいは主体?)の造形。──たとえば、ホーソーンの‘ The Great Stone Face ’[1850]に出てくる二つの顔。その一、大いなる岩の顔。<…崇高性とか威風とか、神性の共鳴する、ある壮大な表現とか、あの山の顔を照らしているもの、さらにその重厚な大理石の実質をエーテル化して霊魂として昇華させたもの…>。その二、アーネストの顔。<…年は彼の額に恭しい皺をつくり、頬には溝をつくった。彼は老人になっていた。だが、無駄に老人になったのではない。頭の白髪よりも多くの聡明な考えが彼の精神にはあった。皺も溝も「時」が刻んだ碑文だったのだ。その碑文のなかに、人生の恐怖で試練を受けた知恵の伝承を彼は書きしるしていたのだ。>(坂下昇訳,岩波文庫)
 
◎顔と身について。──ピエール・ルイスは、官能性は知性が発達する上での不可欠で創造的な条件だと書いている。<それを愛するにせよ呪うにせよ、肉体の要求をその限界点まで感じたことのない人は、そのこと自体によって、精神の要求するところの全幅をとらえることはできない。魂の美しさが顔全体を照らし出すように、肉体の持つ生殖力のみが脳髄を豊かにするのである。>(沓掛良彦訳『アフロディテ 古代風俗』序,平凡社ライブラリー:原著1896)
 
◎獣の顔─楕円形の人間の顔とそっくり
<獣はいつも動いていて、尻尾をたえず打ち振っている。からだはカンガルーのようだが、顔は平板な、楕円形の人間の顔とそっくり。無表情だが、牙を隠したり剥き出すときに表情があらわれる。ときおりそんな気がするのだが、この獣は私を襲いたいのではなかろうか。>(カフカ「獣」,池内紀訳,岩波文庫)
 
◎仮面的なもの(=虚ろな器、穴)の三態。──盤[ban!]、碗[wan!]、壷[ko!]。
 
◎銅鐸は割られるものだという。──割られるもの、実と身。実は割れて散種する。身は割れて胎児を産出する。(顔は割れて表情を、魂を放電する?)
 
◎凹面鏡─銅鐸と一緒に発掘されたもの
<銅鐸はね、中国ではもともと馬がひく車についていた鈴なんだ。漢時代の交通運搬具につけた車鐸、これが本質なんだよ。それが朝鮮ではまだ車鐸なんだけど、日本に入って来ると、石器時代人がね夢にも思わなかった金属である、メタルである、これは大きな発見というより驚異だな。偉大な音がするってビックリして、神を呼ぶ声になる。中国では日常用具であったものが呪物になるんですね。なにしろ最初に耳にした金属音だからな。それは銅鐸に限らず、例えば中国の古墳を解剖すると漆のコンパクトがあった。開くと、一番上に鏡が乗っかってた。その下に頬紅、口紅、ひげ抜き、カミソリなど化粧道具が全部入ってる。これはね、死者が夜見の国に行って困らぬようもたせたもんだ。鏡の縁に漢字で銘文が入っている。この鏡に映る顔は明朗で、美しくて、清純でしかも永世に輝くであろう、とね。神がおるとも何とも書いてない。死者の、人間の顔が美しければいい。
 つまり顔を見るための錫の含有量の多い白銅鏡、それも凸面鏡なんだ。それが面白いことに、シベリアの沿海州や朝鮮に入ると紬線銅歯文鏡という凹面鏡になる。凹面鏡ってのは、顔をみてもこんなにひん曲ってだめなんだ。じゃ、どうするかと言うと光を一カ所に集めて反射するもんだ。文様のある側にひもを通す穴が二つ以上あるから首にかけて、鏡の面を外に向けて、キラッキラッとすると、みんなアアッとね。つまり中国で顔を見る道具であったものが、朝鮮や沿海州をうろうろしてる間に、光を反射する神器に変わってしまう。これと同じ凹面鏡が奈良盆地の名柄では銅鐸と一緒に発掘された。>(藤森栄一「銅鐸水脈国家論」,『遊』No.5[1973]所収)
 
◎胎児の顔貌─動物のおもかげ、「類」の原形体得
<胎児の顔貌にただようもの──それはまぎれもない動物のおもかげであった。あの軟骨魚類のおもかげが、アッという間に爬虫類のそれに変わり、やがてそれが哺乳類に向かっていく。(略)フカのおもかげといい、上陸のおもかげといい、これまで用いてきたこの「おもかげ」とは、いったいどういうものか。ふつう、ある特定の人間のおもかげといえば、それはすぐ目に浮かぶだろう。それも身近な者ほど鮮やかに……。たとえば母親のおもかげは、瞼の裏に貼りついて、一生剥がしとることはできまい。(略)こうして、いつとはなしに肌身にしみ込んだその顔を、人びとは「おもかげ」とよぶ。古くは「まぼろし」といったが、今日では「イメージ」のことばが使われ、形態学の世界では「根原の形象」、略して「原形」とよばれる。わたしたちはこうした原形を、身近な者から、しだいに遠くの者へ、深浅さまざまに瞼に焼き付けながら、それぞれを間違いなく識別していく。それは知覚の基盤をなすものでなければならない。このおもかげの体得は、もちろん「個」の段階にとどまらない。「個」から「類」に及ぶ。たとえば、街角で、どんな奇怪な容貌に出くわそうとも、ただちにこれを“仲間”として認めるだろう。いかなる人間の顔貌・容姿にも、そこにはサルとは峻別されるおもかげが存在する。わたしどもは、この人類の顔のもつ根源の形象を母親のそれと同じくらい、あるいはそれ以上に体得しているものだ。そして、この「類」のおもかげもまた、近くから遠くへ、月日とともに深浅さまざまに瞼に焼き付けられていくのであろう。(略)さきに胎児の顔の移り変わりに動物のおもかげを見てとったその奥には、こうした「類」の原形体得があったからであろう。>(三木成夫『胎児の世界』中公新書:1983,118-9頁)
 

【254】仮面考・第二回「顔=貌に面して」 (4)
 
■断想集の1(承前)
 
◎顔とは積分された時間ではないか。時間の積分、あるいは記憶の造形。──吉田健一は、認識が有効であるためには「懐かしさ、親み」がこの行為に伴わなければならないと書いている。<それでこれに親めるというのは再び時間の問題であると考えられて世界の微小な部分に亘っても経過する時間は我々をその世界と同じ状況に置き、そこまでを我々と地続きにすることは自分に対する親みを世界にも覚えさせるということなので対象とともに流動すること、そこまで対象の性質に熟してこれに親みを覚えることなのである。>(『時間』講談社文芸文庫:原著1976,117頁)
 
◎そうすると表情とは微分された時間のことなのだろうか。時間の微分、あるいは変身。──ここで変化するものは何なのだろう。変貌、変声、変名、変性、変色、変心、変形、変態、変容、変質、等々。(本人認証情報としての身体特徴=バイオメトリクス。指紋、網膜、虹彩、顔貌、声紋、筆跡、等々。)
 
◎ニーチェの無限変身─空間へのルサンチマンの克服
<…「永遠回帰」は時間という桎梏を克服する思想である。それに対して、「無限変身」は空間という桎梏を克服する思想である。ニーチェは後者について書かなかった代わりに、自分自身を「歴史上のすべての名前」にしてしまうという過激な変身を一気に実践してしまった。それは精神崩壊に通じる危険な賭けだったのだが、そうした代償を払いながらも彼は、少なくともある瞬間、人間にとってどうにもならない空間という桎梏を克服することに成功したのだ。>(宮原浩二郎『変身願望』ちくま新書:1999,169-70頁)
 
<──私は無限に変身する。誰にでも、何にでも変身する。私という不変の場所、不変の領土などありえない。それは悦ばしいことである。「私は私でなければならない」という忌々しい空間的限定も、「私は他の誰でもある」という認識に包まれることによって肯定される。つまり、「私はたまたま私である」という認識をとることによって肯定される。この肯定ができれば、空間へのルサンチマンは克服される。>(同,172-3頁)
 
◎人格の四つの相(あるいは層)について。――まず無規定的な自己があって、それが三つの相(層)に分裂する。分裂(人格のビッグバン!)に先立つ自己とは論理的存在であって、分裂の前後は時間的関係ではない。分裂後の自己の三相、顔(あるいは身)と名と声。
 
◎仮面は「ヒュポスタシス」(液体と固体の中間のようなどろどろしたもの=沈澱物=粘弾性体)で、顔は「プラズマ」(電子とイオンに電離した気体=四大のうち「火」に相当するもの=物質の第四態)で、それぞれできている。――顔は魂の素材である。つまり人は顔を媒[なかだち]として他者と結びついていく。
 
◎顔とは「虚ろな器」(=仮面的なもの)である。あるいは顔は「穴」を穿たれた「壁」である。――そして穴(=仮面的なもの)を「縁」どるものとして表情(魂の「襞」)が宿る。あるいは穴を通路として声が出入りする。デスマスクの無情(=無声=無性=無名)性。
 
◎顔は壁で表情は襞である。──壁は平面である。そして穴、裂け目のある平面が仮面の原器である。襞は立体的なもの(人格的なもの?)を平面へと折り畳む線である。あるいは聴覚的無限を、すなわち時間を平面へと折り畳む線である。襞はやがて穴を穿つだろう。壁に穿たれた穴。扉と門。
 
◎村上春樹『スプートニクの恋人』(講談社:1999)で「ぼく」が「すみれ」に、昔の中国の都市には高い城壁がはりめぐされていて、城壁にはいくつかの大きな立派な門があったと語る場面がある。物語にとって大事なもの、あるいは小説家の資質をめぐる会話の中での話だ。
 
<門は重要な意味を持つものとして考えられていた。人が出たり入ったりする扉というだけではなく、そこには街の魂のようなものが宿っていると信じられていたんだ。あるいは宿るべきだと。ちょうど中世ヨーロッパの人々が、教会と広場を街の心臓として捉えたのと同じようにね。だから中国には今でも見事な門がいくつも残っている。昔の中国の人たちがどうやって街の門を作ったか知ってる?(略)人々は荷車を引いて古戦場に行き、そこに散らばったり埋もれたりしている白骨を集められるだけ集めてきた。歴史のある国だから古戦場には不自由しない。そして町の入り口に、それらの骨を塗り込んだとても大きな門を作った。慰霊をすることによって、死んだ戦士たちが自分たちの町をまもってくれるように望んだからだ。でもね、それだけじゃ足りないんだ。門が出来上がると、彼らは生きている犬を何匹か連れてきて、その喉を短剣で切った。そしてそのまだ温かい血を門にかけた。ひからびた骨と新しい血が混じりあり、そこではじめて古い魂は呪術的な力を身につけることになる。そう考えたんだ。(略)小説を書くのも、それに似ている。骨をいっぱい集めてきてどんな立派な門を作っても、それだけでは生きた小説にはならない。物語というのはある意味では、この世のものではないんだ。本当の物語にはこっち側とあっち側を結びつけるための、呪術的な洗礼が必要とされる。>(23-4頁)
 

【255】仮面考・第二回「顔=貌に面して」 (5)
 
■断想集の2─ジンメルに導かれて
 
 北川東子編訳/鈴木直訳『ジンメル・コレクション』(ちくま学芸文庫)に収められたいくつかの文章に導かれて。──ジンメルの、幾度読み返しても飽きないエッセイ、物質の言語(あるいは形態の言語)が息づき、読まれるたびにスリリングな世界を開示する文章群から、「取っ手」「橋と扉」「額縁──ひとつの美学的試み」「肖像画の美学」の四篇。
 
◎容器について。ジンメルは「容器は同時に二つの世界を生きることになる」と書いている。──たとえば水差しは、実用的な目的をもつ道具として物質的な現実空間(事物の秩序)に属し、同時に芸術作品としての形態・美的価値において現実のかなたにある理念的空間(理念的秩序)に属している。
 
◎取っ手について。──<さてここで、水差しが占めるこの二重の地位がもっとも顕著に現れるのは、その取っ手の部分においてだ。…水差しはこの取っ手によって目に見える形で現実世界に、すなわち芸術作品それ自体にとっては本来存在していないはずのあらゆる外部との関係の世界に身を乗り出している。>(73頁)──仮面的なものの原形(=虚ろな器)がその「穴」を通して「声」を発出し、外部世界へと「身」を乗り出しているように?
 
◎ジンメルは、魂にとって手がひとつの道具であるように、道具もまたひとつの手なのだという。そして、魂と手が互いに排除しつつ混入しあっていることこそが「生命のもつ分解不能な神秘」を作り上げているのだという。──<しかしこの生命の神秘は、身体そのものの容積を超えて外界に働きかけ、「道具」を自分自身のなかに組みこむ。あるいはむしろ、こう言ったほうがいいかもしれない。魂が、異物を自分の生命のなかに、自分の衝動に満たされた環境世界のなかに取りこんだとき、その実体は道具と化すのだ、と。>(76-7頁)
 
◎ジンメルがいう「魂」とは何なのだろう。それは「生命」のことなのだろうか。あるいはショーペンハウアーがいう「盲目的な意志」「生きんとする意志」のことなのだろうか。(だとすると仮面はイデア?)
 
◎「橋」としての取っ手。──<水盤は、創造し、運搬する手の延長ないし拡大以外のなにものでもない。しかし水盤がただたんに手に取られるのではなく、取っての部分で捉まれると、そこに両者をつなぐ橋がかけられる。それは水盤への柔軟な結合であり、それをつうじて、魂の衝動は視覚的な連続性をもって水盤ないしは、水盤の操作へと伝えられ、またこの力の逆流にのって水盤が、魂の生の領域へとふたたび組み込まれる。>(77頁)
 
◎取っ手の原理について。──<みずから芸術形式のなかに完全に組みこまれながら、同時に芸術作品を世界へとつなげる仲介役を果たす、これが取っ手の原理にほかならない。それを確認するための論拠をもうひとつ挙げるならば、それは取っ手の相棒ともいうべき容器の開口部や注ぎ口が、やはり同じ原理の管轄下にあるということだ。>(81頁)
 
◎ジンメルは「取っ手の原理」を求心的と遠心的の二つの役割で説明し、取っ手によって媒介される容器の「内部」世界と実用的世界との関係を魂と身体との関係になぞらえている。──<感覚器官による感受を通じて身体性は魂へと求心的に接近し、意志にもとづく刺激伝達をつうじて魂は身体世界へと遠心的に出ていく──しかし両者とも魂およびその意識の一体性に属しており、また意識は身体性にとっての他者でありながら、にもかかわらず両者をつうじて身体性のなかに編みこまれている──。>(82頁)
 
◎ジンメルは取っ手には二つの象徴的な意義があるという。すなわち、水差しがもつ完結した一体性(美)に属すると同時に、この形態にとっては外的なものにすぎない目的論(実用性)の手がかりになるという二重の意義。そして、この二つの帰属性が均衡状態に到達したとき、より高次の美が両者(美と実用性)の上に立つ。<狭い意味での美は、いわばこの超美学的な美によって、理念と生のすべての要素とともに新しい総合的形式へと統合される。>(83頁)
 
◎ジンメルは続けて、水差しの美を社会集団(サークル)の有機的な完結性に、取っ手を個人に、そして高次の美を社会のより大きな統一体になぞらえている。また、狭義の美と実用性と高次の美の三項関係(ベンヤミン的な弁証法?)を人間の認識や倫理に適用したあとで、「人間と事物の相互共属性の多様性」あるいは「内部と外部の同時存在性」にこそ生の豊かさの本質があるのだ、と書いている。
 
◎取っ手のシンボリズム─取っ手が外形的な形で象徴するカテゴリー
<ひとつの要素が、ある有機的連関のなかに完全にとけこむようにして、その連関の自己充足性を分かち合い、かつ同時に、まったく別の生がその要素に入り込んでくるための架け橋となりうること、そして一方の全体性が他方の全体性を、どちらか一方が他方によって引き裂かれることなしに、捉えるための手がかりとなること──これこそ、人間の世界観、世界構成におけるもっともすばらしいことだ。
 水差しの取っ手は、おそらくもっとも外形的な形で、そしてそれゆえにまたその射程がもっともよく分かる形で、このカテゴリーを象徴している。このカテゴリーが私たちの生に、これほどまでに多様な生と共生を贈りとどけてくれるということは、おそらく二つの世界に故郷をもつ私たちの魂の運命の反映なのだ。なぜなら魂もまた、ひとつの世界の調和に自らを必要不可欠な部分として帰属させ、同時に、この帰属性を魂に課している形式にもかかわらず、否、その形式のゆえにこそ、もう一方の世界の網の目と意味のなかへ入りこんでいくからだ。魂の自己完成は、この二つの課題をどこまでなしとげられるかにかかっている。そのとき魂は、さながらひとつの世界──現実の世界であれ、理念の世界であれ──がもうひとつ別の世界にさしのべた腕となる。それはもうひとつの世界をつかみ、それを自分につなぎとめる腕であると同時に、その世界からつかまれ、その世界につなぎとめられる腕となるのだ。>(86-7頁)
 
◎補遺。腕について。──ジンメルは、蛇やトカゲや竜の形をした取っ手が、まるで動物が外から水差しにはい寄ってきてあとから追加的に全体の形式のなかへ取りこまれたように見えることに関して、<水差しと取っ手の美的・直観的一体性の背後に、まったく別な秩序への取っ手の帰属性が透けて見える>(75頁)と書いている。
 そして、これとはまったく正反対に取っ手との一体化傾向が最高度に強調された水差しに関して、次のように書いている。<こうなると美的統一性への統合は、むしろ生き物に近い形で強調されることになる──ちょうど人間の腕が、胴体と同じ統一的な組織化の過程を経て生育したものでありながら、同時に身体全体とその外部世界との関係を仲介しているように。>(75-6頁)
 
◎補遺。ジンメルにおける「身体」(「魂・物質」的統一)と「肢体」(「腕・肢体」的統一)との差異に注目のこと。
 

【256】仮面考・第二回「顔=貌に面して」 (6)
 
■断想集の2─ジンメルに導かれて(承前)
 
◎取っ手が、理念的秩序(美)と事物の秩序(実用性)を「結合」することによって全体(高次の美)を立ち上げる架け橋=腕であったのに対して、額縁は、芸術作品(自分のつむぎ出した糸をすべて自分の中心に向かってふたたび巻き戻すもの=個々のものからなるひとつの統一体)と自然(物質とエネルギーの流れ)とを「分離」する境界である。
 
◎ジンメルは、額縁が芸術作品に対して果たしている役割は、境界のもつ二重機能(外に向かっては無関心と自己防衛を、内に向かっては統一的結束を同時に実行する)を象徴化し強化することだ、と書いている。つまり、芸術作品は額縁によって隔離されることで、水に囲まれた島のような位置を世界(自然)に対してもつことになる。──<だから額縁には一カ所でも、世界からの侵入口、あるいは世界への脱出口となりうるような隙間や架け橋が構成上存在してはならない。>(117-8頁)
 
◎絵画が神への奉仕という目的や宗教的体験のなかに取り込まれていた時代には、額縁は固有の有機的生命と重量をもつ建造物だった。ところがやがて芸術が、芸術以外の領域からの支配を脱出するようになると、額縁はたんなる枠としての機能に特化していく。つまり、機械的で図式的な「様式」へ。──<文化発展はけっして、個々の要素が機械的、外面的な形式から有機的生命力と固有の意味をもつ形式へと発展していくとはかぎらない。むしろ逆なのだ。精神が存在の素材をより大規模な、より高度な形態へと組織化していけばいくほど、それまでは固有のまとまりをもち自分自身の理念を体現する生命力を保っていた無数の建築物が個別要素へと格下げされ、より大きな関連のなかで機械的な作用を及ぼすだけのものとなる。そうなるとこの関連だけが理念の担い手となり、個々の要素はたんなる手段と化し、固有の存在としての意味を失っていく。>(124-5頁)
 
◎中世騎士から近代軍の兵士へ、自営職人から工場労働者へ、自治都市から国家のなかの都市へ、自家生産から貨幣経済下の労働へ。そして──それ自身ひとつの全体である芸術作品が、同時に自分をとりまく環境とのあいだで統一的全体を作り上げなければならないという矛盾した要求を課せられている「現代」にあっては──額縁もまたひとつの有機的構造をもつ建造物から、それ自身では意味をもたない形態(様式化された枠)へと「進歩」していかざるを得ない。
 
◎芸術作品と環境のあいだを分離しつつ相互に媒介していくという課題を担った「現代の額縁」のシンボリズム。──<たがいに並立し、相互に独立し、自己充足した存在からひとつの包括的な機構が生み出されると、個々の存在は、いわば自らの魂と独立性をこの機構に差し出し、かろうじてこの機構のなかで機械的に機能する手足として、自らの存在の意味をとりもどす。>(125頁)
 
◎取っ手は理念世界と現実世界、内部と外部の結合を視覚化(造形)しつつ、これを高次の連関、つまり部分と全体の連関のなかに位置づける。これが「取っ手のシンボリズム」だ。(念のために記しておくと、ここにはいわゆる「弁証法的止揚」などはでてこない。むしろベンヤミン的な「静止の弁証法」や「理念の星座」が想起されるべきだろう。)──額縁は高次の連関による様式化(機械化)の圧力をうけつつ、芸術作品(理念世界)と自然(現実世界)の分離を視覚化(造形)する。これが「(現代の)額縁のシンボリズム」だ。
 
◎ジンメルはさらに「扉」と「肖像画」のシンボリズムを論じている。有限と無限の媒介(扉)。表層と深層の媒介(肖像画)。これらはいずれも「結合」と「分離」の双方向を含んでいる。──まずジンメルは表層的な「結合」関係を表現するものとして、道と橋をとりあげる。そして道に対して家を、橋に対して扉を対応させる。以下、いくつかの断片の引用。
 
◎道の奇蹟=形態の造形(固定化と凝固)、橋が象徴するもの
<道の敷設はいわば特別に人間的な事業なのだ。……道の奇蹟、すなわち運動から固定した形態ができあがり、いったんできあがると今度は運動がその固定した形態へと流れこんでいき、ついには固定した形態へと凝固していくというあの道の奇蹟を、動物は作り出すことがない。
 
 この事業は橋の建設においてその頂点に達する。そこでは空間的な距離という消極的抵抗だけではなく、特殊な地形による積極的抵抗が、人間の結合意識に刃向かっているように見える。この障害を克服することによって、橋は私たちの意志の領分が空間を超えて拡大していく姿の象徴となる。>(92頁)
 
◎橋と肖像画、空間の克服と時間の停止
<橋の「目的」は、たんなる運動力学のそのときどきの現実のなかに汲みつくされている。しかし、そのたんなる力学にすぎないものが視覚的=恒常的ななにものかになったのだ。それはちょうど肖像画が、人間の現実を作り上げていく身体的=心的な生のプロセスをいわば停止させ、時間のなかに流れ去るこの現実の移ろいやすさを、現実がけっして提示しない、また提示できない唯一無二の無時間的な安定した具象性のなかへと凝集するのと似ている。>(93頁)
 
◎扉の開閉と人間の深層─壁は沈黙しているが、扉は語っている
<最初に道を作った人と同様に、最初に小屋を建てた人もまた、自然にたいする独特に人間的な能力を発揮したと言える。すなわち彼は連続する無限の空間のなかから位一区画を切りとり、この区画をひとつの意味にしたがって特殊な統一体へと構成したのだ。こうして、ひとつの空間部分が内的なまとまりを得ると同時に、他のすべての世界から切り離された。扉は、人間の空間とその外部にあるいっさいのもののあいだに、いわば関節をとりつけることによって、この内部と外部の分断を廃棄する。
 扉はまさに開かれうるものであるがゆえに、それがいったん閉じられると、この空間のかなたにあるものすべてにたいして、たんなるのっぺりとした壁よりもいっそう強い遮断感を与える。壁は沈黙しているが、扉は語っている。人間が自分で自分に境界を設定しているということ、しかしあくまで、その境界をふたたび廃棄し、その外側に立つことができるという自由を確保しながらこれを行っているということ、これこそ人間の深層にとって本質的なことなのだ。>(94-5頁)
 
◎橋=有限と有限の結合、扉=有限と無限の結合
<私たちが住みついている有限の世界は、つねにどこかで形而下的、あるいは形而上的な存在の無限性と境を接している。それによって扉は、人間が本来いつでも立っている、あるいは立つことのできる境界点の象徴となる。
 無限の空間のうちで私たちに割り当てられた部分を、私たちは有限の統一体へと結びつける。そしてこの統一体を、扉はあらためて無限の空間へと結びつける。こうして限定されたものと無限定なものが扉を介してたがいに踵を接することになる。しかし両者は、たんなる隔壁のような死んだ幾何学的形式によって結ばれているのではなく、たえざる相互交換の可能性として結ばれている──そこが有限なものを有限なものと結びつけている橋との違いなのだ。
 そのかわり扉は、そこから踏み出るとき、橋が与えてくれるような安定感を私たちから奪う。日常の慣れによって感覚が鈍磨する以前には、扉を出ていく人は一瞬、地上と天上とのあいだに浮遊するような奇妙な感覚を覚えたにちがいない。橋が二点間を結ぶ線として、無条件の確実性や方向性を保証しているとすれば、扉は、隔離された即自存在の限定性からあらゆる方向に開かれた無限定性へと、生が流出していく注ぎ口なのだ。>(95-6頁)
 
◎扉と窓
<…窓もまた同じように内部空間と外部空間を結ぶものとして扉と似ている。違う点はただ、窓にたいする目的論的感情が、ほとんど例外なく、内部から外部へと向かっている点だ。窓は内から外を見やるためのものであり、外から内を覗きこむためのものではない。窓はたしかに、その透明性のゆえに、いわば持続的、連続的に内部と外部のあいだを結んではいる。しかし、この結合がつねに一方向にしか向かわないこと、しかも窓を通過するのが視線に限定されていることで、窓には、扉のもつ深い原理的意義のほんの一部分しか与えられていない。>(97頁)
 
◎橋と扉─形而上的なものの具象化
<…私たちの生のダイナミズムを支配している諸形式は、橋と扉をつうじて、目に見える形態となり、確固とした持続性を獲得する。橋や扉はたんに道具として、私たちの運動の機能や目的にすぎないものを支えているというだけではない。橋や扉の形には、そうした機能や目的が、いわば直接私たちを説得する造形性として凝固しているのだ。
 両者の印象を支配しているのは、その対照的なアクセントだ。橋は、人間がたんなる自然的存在の分離状態をいかに一体化するかを、また扉は自然的存在の画一的で連続的な一体性をいかに分離するかを示している。形而上的なもののこの具象化、たんなる機能的なものの固定化、これによって両者が獲得した一般的な美学的意義のなかに、両者が造形芸術にたいしてもっている特殊な価値の根拠がひそんでいる。>(99頁)
 
◎人間─事物を結合し分離する存在
<人間は、事物を結合する存在であり、同時にまた、つねに分離しないではいられない存在であり、かつまた分離することなしには結合することのできない存在だ。だからこそ私たちは、二つの岸という相互に無関係なたんなる存在を、精神的にいったん分離されたものとして把握したうえで、それをふたたび橋で結ぼうとする。
 そして、同じように人間は境界を知らない境界的存在だ。扉を閉ざして家に引きこもるということは、たしかに自然的存在のとぎれることのない一体性のなかから、ある部分を切り取ることを意味している。たしかに、扉によって形のない境界はひとつの形態となったが、しかし同時にこの境界は、扉の可動性が象徴しているもの、すなわちこの境界を超えて、いつでも好きなときに自由な世界へとはばたいていけるという可能性によってはじめて、その意味と尊厳を得るのだ。>(100頁)
 

【257】仮面考・第二回「顔=貌に面して」 (7)
 
■断想集の2─ジンメルに導かれて(承前)
 
◎芸術は感覚的形象(色や形)しか提供できない、とジンメルはいう。<深層的、精神的なものは、感覚によって媒介されることはあっても、感覚によって与えられることはないのだ。>(130頁)──したがって肖像画は、外見と魂がわかちがたく包みこまれている人間の全体像から可視的なものだけを切り離し、外見そのものの意味を純粋に描写することが、その第一の任務なのである。表層の下で作用し、現象の多様性を統一的に結びつけている運動とエネルギーをではなく、ひとつの顔のなかにある表層的要素間の厳格な連関と相互作用を描くこと。
 
◎表層の因果律と深層の因果律
<…自然の因果律、すなわちひとつの形式を前提としてたえまなく他の形式を生み出していく表層下で作用する因果律は、表層間で作用する因果律とはまったく種類を異にする。表層間の因果律の意味を強調するために、芸術作品のなかでは表層下の因果律はしばしば変形され、いわば屈折率のまったく異なる媒体のなかへと取りこまれねばならない。
 見ることのこうした自己完結性、芸術の唯一の素材である直観的なもののもつ意味と魅力と法則性の構築。しかしそれはまだ、この可視性がなにか不可視なもの、ひとつの魂を表現するということとは独立した何かだ。芸術だけが表現できる人間の外見の意義といっても、そのかぎりではまだアラベスクの意義と同じ水準にある。>(134頁)
 
◎肖像画は身体を介して魂を表現すべきだ、あるいは人間の外見は活字のようなものにすぎず、意味があるのはそれが伝達する精神的内容だけだ、といった通俗的な見解がある。しかし、<最初から魂の存在や出来事を、絵画が外見を扱うような仕方で直接扱う文芸>(135頁)と違って、芸術の最終目標は人間の外見に一体感と造形性と明確さを与えることにある。あるいはまた、人生の実践とは正反対に、<芸術は人間の内面をつうじて外面を解釈する>(137頁)。
 
◎顔の統一感と魂の統一性を結ぶ謎のきずな
<ある顔に統一感があるということは、顔の各部分の形があらゆる他の部分の形によって必然的に規定されているということだ──とすれば、市民の政治的結束が政府の統一を作り上げ、信者の団結が宗教の統一を作り出しているのとほぼ同じように、たがいに並置された顔の要素は、魂の統一性のなかに凝縮される。人間の具象性を最高度に内的調和のとれた、力強い、必然的な表現にまでもたらすことができたかどうかは、その人間の魂について私たちを説得する能力が、その肖像画にそなわっているかどうかで推しはかることができる。
 しかし、本質においてこれほどまでに独立している二つの秩序の対応関係はいったいどこから生じるのだろうか。人間の外見の純粋な具象性としての完成と、同じ具象性の非具象的なものの開示としての完成。この二つはいかなる秘密のきずなで結ばれているのだろうか。これは芸術家にとっても、その享受者にとっても謎のままであってよいし、また謎のままであるべきだ。>(137-8頁)
 
◎しかし学問はこの魅力の暗闇に光をあてるべく努力しなければならない。ジンメルは、この謎のきずなとは観察する魂のなかにひそむ統一化能力、すなわち<多様な段階と秩序のなかにある対象の内容を、統一性をもった自我と自己意識のなかでたがいに結びつける能力>(139頁)にほかならない、と書いている。──<私たちの魂がある素材のなかに自らの活動を感じる度合に応じて、魂はこの素材自身に魂を吹きこみ、この素材が魂のなかに呼び覚ましたのと同じ内的な統一性と生命力を、この素材に付与するのだ。>(140頁)
 
◎ジンメルの註記。<ここで言おうとしていることは、人間の外見の背後に、何か私たちの目には見えない内面といったものが想定される、ということではない。なぜといって、内面と外見のこの結びつきを私たちに教えてきたのは、芸術ではなく生の実践だからだ。>(140頁)
 
◎ここでジンメルがいう「観察者」とは、肖像画家であり、肖像画の鑑賞者のことだろう。<それ[引用者註:魂による身体的なものの統一]を認識し、媒介するのは、統一化や活性化を完遂する観察者だが、観察者がそれを行うのは、とりもなおさず芸術作品の形式が観察者自身の魂を、具象的要素の集中的な活性化と統一化へと駆り立てるからだ。>(141頁)
 
◎魂の可視化─可視的要素の必然的連関からの結晶の析出
<画家に与えられているのは外見だけであり、モデルとなる人間の魂の状態について何かを知る可能性は往々にして与えられていない。にもかかわらず画家は、あくまでこの魂の像から出発して容貌を構築し、最後にはこの容貌がその像を完全かつ明瞭に表現するところまでいかねばならない。外見は魂を生み出さねばならないが、その魂はまた外見を生み出さねばならない。そしていまや、この循環がときほぐされる。容貌が魂のシンボルとなりうるかぎり、魂とは容貌の統一的連関以外のなにものでもない。目でさえも、それが周囲の環境から切り取られてしまえば、何の表現力ももちえないだろう。そして同じことは顔のあらゆる要素について当てはまる。
 したがって、たんなる可視的対象のなかにこうした連関を作り出すことは、実際には身体を媒介にした魂の表現とも、また魂を媒介にした身体の表現とも呼ぶことのできる完全に一体的行為なのだ。……可視的なものの芸術的完成、すなわち必然的連関の確立、感受可能な統一性の確立とは、結局のところ魂の可視化ということにほかならず、そして芸術家にとっての魂とは、外見を照らすすべての光が集まる焦点のことにほかならない。>(141-2頁)
 
◎ジンメルは、外見の統一化と精神化という芸術独特の要求を、人間の形姿ほどあますことなく説得力をもって満たす素材はなかった、と書いている。そして、人間の具象性についての具象的な像としての肖像画と抒情詩の関係について、次のように論じている。──両者とも「心理学的リアリズム」とは無縁であり、それぞれが描いている魂は同じ領域に属している。すなわち、作品の背後や創作する個性の実在の魂としてではなく、ひとつの架空の魂としてその作品のただなかに生きている魂。
 
◎作品の内部に住む魂
<芸術作品の内部にやどる魂とは、実のところ芸術的なカテゴリーと要求にのみ由来し、かつ呼応する特殊な理念的構築物であること、そして芸術作品の背後にある実在の魂との呼応関係とは独立したものであること、このことが認識されたときはじめて、自然主義は、いわば潜伏先の最後の隠れ家から追放されるように私には思える。作品の内部に住む魂と芸術作品の背後にある実在の魂とは、もちろんほとんどの場合呼応しあってはいるが、その結びつきはけっして必然的なものではない。芸術における魂の存在意義は、現実における魂の存在意義とは別物なのだ。外見の意味は、外見の意味として自らの姿を現すときに、はじめて絵画芸術作品にふさわしいものとなる。>(149頁)
 

【258】仮面考・第二回「顔=貌に面して」 (8)
 
■断想集の3─ジンメルに倣って
 
 仮面の形態をめぐる原理的な考察のための、とりとめもない思考細片と引用の羅列。──汲めども尽きぬインスピレーションの源泉であるジンメルのエッセイ群に倣って?
 
《仮面のジオグラフィー・序説》
 
◎仮面とは境界を設営しつつ境界にあるもの。(来世と現世との境界に建てられた梵鐘のように?)──あるいは、仮面とは媒介する媒質である。まず「穴」としての仮面的なものから顔面が、そして「虚ろな器」としての仮面的なものから肢体(身体)が、それぞれ析出される。
 
◎境界と媒介について。──道は右と左を連結し、橋は右岸と左岸、有限と有限を媒介する。額縁は部分と全体、現実世界と理念世界を区画し、取っ手は部分と全体、下位次元と高次元を媒介する。
 
◎水盤(=仮面的なものの原初形態)と取っ手の関係は、仮面と「目」の関係に等しいのではないだろうか。といっても「仮面の目」とは、要するに「穴」にほかならないのだが。──「目」のジオグラフィー。割れ目、裂け目、繋ぎ目、結び目、網の目、等々。そして「穴」のジオグラフィー。空[うつろ]、洞、等々。(たとえば『宇津保物語』とラスコーの洞窟。)
 
◎一説によると、マスクという言葉は「他人からの邪視を防ぐ」「他人に呪いをあびせる」といった語義をもつギリシャ語と語源的に関連をもつらしい。(坂部恵『仮面の解釈学』東京大学出版会:1976,81頁)──たとえばメドゥーサの目。
 
◎補遺─メソポタミアやエジプトの墓の守護神「眼の女神」
<彼女は生と死の交代劇をそっくり抱き取るグレート・マザーであると同時に,啓示を与える存在であった。彼女を囲繞するシンボリズムの光視的な性格から,どうもそのように思われてくる。同心円,螺旋,雷文,山形,菱形,椀形,そしてもちろん眼で,彼女の周りはいっぱいだ。
 ところで,これらの眼は優しいものばかりとは限らない。女神の憤怒の凝集したようなあのメドゥーサの首と,見る者を石に変えるその眼のことを思い出してみるだけで足りよう。この害意に満ちた顔の表現はまず紀元前7世紀のギリシアで始まった。それらを見ると,エジプトや中東から入ってきた要素が,たとえばスパルタのアルテミス・オルティア女神の神事で用いられていた怖ろしい仮面を少し変形させたのだということがわかる。そうした神事のひとつを描いた墓がエトルリアにあって,〈死〉の神の仮面を着けた男が二匹の猟犬に殺戮をかしかけ,犠牲者は棍棒で身を守ろうとしているが,頭に袋を被せられていては死は時間の問題である。彼が古代の伝統に則った殉死の供犠[いけにえ]であることは間違いがない。仮面を着けた男の上の方にペルス(Phersu)の名が見えるからである。その名が当の仮面の意を体しているこの人物は,ゴルゴン殺しのペルセウスの初期の姿にほかならない。
 ゴルゴンの首も要するに一個の仮面[マスク]であった。…かつての美女が恐怖によって醜と化した面[おもて]。…冥界への通路とも言うべき墓の中,温泉の上,あるいは楯の表面にも[引用者註:ゴルゴンの顔貌は]配されるが,敵の気を挫くためのまじないだったのであり,したがってそれは,自分自身にそっくりなものに対する破魔辟邪の護符となったのである。>(フランシス・ハクスリー『眼の世界劇場』高山宏訳,平凡社,72頁)
 
◎仮面の目=穴と顔の眼=眼玉(=鏡?)。この違いは決定的だ。──ジンメルは窓は内から外を見るためのものだといっている。仮面には内も外もない。だから「目=穴」は窓ではない。
 
◎器が「虚ろ」であることの実用的な(?)目的はおそらく「型取り=象り」のためだろうし、また形態上の美的(?)価値は宇宙の、つまり空間と時間の、あるいは人格・主体の(端的にいえば統合された「理念的秩序」の?)境界=分岐点=屈折点=特異点=ターミナル=マーケット(沈黙交易が行われる場所?)=裂け目を表示することにあるのだろう。
 
◎補遺。水差しの取っ手は「潜在的な運動」を表現している(ジンメル,79頁)。だとすると、取っ手の型取りとしての仮面(=穴のあいた壁)が表現しているものは「実在的な運動」(しかも取っ手とは違って、時間的な運動?)なのだろうか。
 
◎知覚世界と想起世界の(端的にいえば物と言葉=観念の?)境界的存在・媒介としての「虚ろな器=仮面」。──念のために書いておくと、ここでいう「想起」は過去の再現=再生産を意味する作用ではない。知覚と同じく、想起もまた「いま・ここ」において生起するものだ。
 
◎仮面は知覚世界と想起世界の境界を設営し、かつ視覚化する。(自らを媒質として?)──そして顔は、それぞれ知覚世界と想起世界の双方にまたがる現実世界と理念世界(=論理世界=可能世界?)の境界を設営し、かつ視覚化する。(自らを媒質として?)
 
◎ガタリ『分裂分析的地図作成法』の四つの機能体によって与えられる区域。──実在的(actuel)で可能的(possible)なものの抽象機械状の「門」(Φ:Phylum)。実在的で現実的(re'el)なものの物質的で信号的な「流れ」(F:Flux)。潜在的(virtualite')で現実的なものの実存的「テリトリー」(T:Territoires)。潜在的で可能的なものの非物体的(意識的)「世界」(U:Univers)。
 
◎ここでたとえば、知覚世界:actuel、想起世界:virtualite'、現実世界:re'el、理念世界:possible、と対応させることはできるだろうか。そして、知覚世界と想起世界を媒介する仮面は時間に関係し、現実世界と理念世界を媒介する顔は空間に関係する、などということはできるだろうか。さらに、前者からは心身問題の、後者からは他者問題の「解明」の手がかりが得られる、などといえるのだろうか。
 
◎いまひとつの(謎めいた)思いつき。その一、顔の解析学。──力の「流れ」を堰き止めつつ解放(微分)する「門」。そして「テリトリー」(土地)を高次元で造形(積分)すると「世界」が得られる。──その二、仮面のトポロジー。「世界」と「門」をめぐるカフカ的寓意性。そして「流れ」と「テリトリー」(土地の名?)をめぐるプルースト的単数性。(あるいはジョイス的複数性やバタイユ的過剰性、等々。)
 
◎ところで‘Univers’すなわち宇宙とは、自らに折り返したもの(universe=unus[one]+vertere[turn])である。それこそ「虚ろな器」の造形原理ではないか!──盤にせよ碗にせよ壷にせよ、そして管にせよ、いずれも「自らに折り返したもの」なのだから。(かくして仮面的なものは「時間問題」「心身問題」に加えて「自己(意識)問題」にまでかかわっている?)
 
◎あるいは(ジンメルが準拠している?)ショーペンハウアーの世界の四区分に対応させること。──たとえば、表象としての世界とは知覚世界であり、意志としての世界とは想起世界である、そしてイデアとは現実世界を積分する(すなわち possible な)表象であり、物自体とは理念世界を微分する(すなわち re'el な)意志である、などということができるのだろうか。
 

【259】仮面考・第二回「顔=貌に面して」 (9)
 
■断想集の3─ジンメルに倣って(承前)
 
《仮面のマセマティクス・序説》
 
◎存在の自乗性について。――仮面は「存在の自乗性」をかたどり造形化したものなのだ。自乗の前でも後でもなく、自乗作用そのものの可視化(現実化)としての仮面。
 
◎スペンサ−‐ブラウンの議論をめぐって。――方程式x^2+1=0を考えると、x^2=−1からx=−1 /xが得られる。ここでx=1とすると上式からx=−1となり、これはパラドキシカルである(x=−1としても同様)。
 この場合のパラドクスは「虚数」の導入によって解決される。すなわち方程式x^2+1=0の解はx=±iである。このように自己言及のパラドックスは命題を真(正数)・偽(負数)・無意味(0)のいずれかの範疇に分類するだけでなく、イマジナリ−な命題を導入することで解決される。
 
◎仮面は「イマジナリ−な」存在なのだろうか。──イマジナリーな数(i)が自らを自らに掛け合わせること(i×i=i^2)でリアルな数(−1)を得る。ここで仮面は「i」(自乗の前)でも「−1」(自乗の後)でもない。
 たとえば「1」を自己同一的な主体(自乗作用によって自らを算出=産出する)を表現するものだとすると、「−1」はその否定体=変身体としての(もしくはその深層を表現するものとしての)仮面だと考えたくなる。つまり自乗作用(否定の否定)によって主体を算出=再生産する仮面。そして「i」は仮面と主体(素顔)とを結ぶイマジナリーな「橋」であると考えたくなる。
 あるいは「i」こそが仮面であって、それは「1」と「−1」(たとえばジギルとハイド)を結ぶ「橋」を──理念的(可能)世界と物質的(現実)世界とを結ぶ「取っ手」を?──表現しているのだと考えたくなるかもしれない。
 しかしそうではない。仮面(精確にいえば仮面的なもの)は「橋」ではない。それはあくまで「存在の自乗性」そのもの、境界を造形しつつこれを無効化する作用そのものなのだ。
 
◎ラカンの黄金数について。新宮一成『ラカンの精神分析』(講談社現代新書:1995)から。――まず、αにとってβが「どう見えるか」を「割合」=「理性」[ラシオー]で表わすならば、β/αとなる。
 私=xと他者たち=yに共通な視線をx+yと表記する。すると、私と他者たちを加えた全体の目から見た私はx/(x+y) と書き表わすことができる。これこそがラカンのいう「対象a」の本質であり、私自身には本来入手不可能な私の像である。
 ここで、私が他者を見ているその見え方(y/x)の中にその私の像(a)が現れるとしたら、つまり私を含めた全体にとっての私がどのようなものであるのかということが、私が他者をどのように見ているかということの中に浮かび上がってくるとしたら、この時の状況は y/x=x/(x+y) =a と書き表わすことができるだろう。
 これを解いて得られる値が黄金数(黄金分割比)である。a=(√5−1)/2。──<対象aは、私が私自身を超越的な視点から見るようになるとき、必要とされる支えである。>(99頁)
 
◎個別と普遍の無理数な関係
<私が自分を自己同一性を持ったものと感じているとき、私はいわば「1」である。そのとき他者の中にあの「(√5−1)/2」と書かれるべき対象aが現れているだろう。そして、私とその他者を合わせた全体的な超越者はというと、私の「1」と対象aの「(√5−1)/2」を足して、「「(√5+1)/2」」として現れているだろう。
 このとき、よく見れば、対象aと、この超越者の値は互いに逆数である。(√5−1)/2×(√5+1)/2=1となる。このようにして私は、二つの互いに逆数をなす無理数の間にはさまれて、辛うじて自己同一性を、つまり「1」であることを、保持し得ているのだ。そして、私がこのようにして「1」であるとき、その「1」は、全体的な超越者「(√5+1)/2」から見れば1/(√5+1)/2つまり (√5−1)/2となる。すなわち、自己同一性を保った私というものは、超越者にとっての黄金数なのである。
 私の自己同一性の支え、これが私に対する他者の比率としての、対象aである。比率である対象aは当然目には見えないはずであるが、何でも物事がうまくゆかないときに問題があらわになってくるように、この比率がわずかに崩れたとき、対象aは比率でなく、まなざしや糞便等々として、具体的に現れる。他者を黄金数において見るような、私と他者との関係は、元来不安定なものである。それは黄金数が無理数だからである。愛は、いわば「無理数な関係」として、絶えざる割り切れなさの中を揺れ動いている。
 そういえば先ほど私にとっての他者を、y/xという分数(割合[ラシオー])の形でひとまず書いたが、実際に出てきた答はこのように無理数であった。無理数は本当は分数では書けない。だから、私と他者との関係は、分数(割合[ラシオー])を超えたもの、すなわち理性[ラシオー]を超えたものなのである。
 我々が方程式を利用して考えてきたことは、私が他者を見る視点が、我々が私を見る視点に等しくなるということであったから、これは、個別と普遍の一致であるとも言える。>(新宮前掲書,100-1頁)
 
◎仮面は「無比数」なのだろうか。つまり(?)理性を超えたものなのだろうか。あるいは、仮面は個別と普遍の媒介なのだろうか。──そうではないだろう。仮面は、より精確にいえば仮面的なものとは、あくまでも作用そのもの、変換それ自体の形態化なのだ。存在の自乗性の造形化。あるいは、仮想的な存在を無限(級数)に展開しつつ、リアルな存在(有限)へと収束させるもの。
 
◎仮面的変換の一例。──複素指数関数(e^iθ)を級数展開すると、e^iθ=(1−θ^2/2!+θ^4/4!+θ^6/6!+.... )+i(θ−θ^3/3!+θ^5/5!+θ^7/7!+.... )=cosθ+isinθ(オイラーの公式)を得る。ここでθ=πを代入すると、e^iπ=−1。
 
◎仮面のマテマティカのために。──リーマン(高次元の曲がった空間の幾何学とリーマン予想)と積分変換と結び目理論を探究せよ。あるいは自然界の四つの力とゼータ関数の関係。
 
◎補遺─積分される音
<こんなふうにイメージすることは可能だろうか。イメージと仮りに呼んでいささか懸念されるのは承知のうえだ。ひとつの音のなかにそこからたちあらわれてくる音楽の全体が含みこまれている状態と、或るひとつの音楽全体がただひとつの音から発して積分されてゆく状態を。或るひとつの音から発生するのだが、それが最終的にたどりつく──言葉としては不適切かもしれないが──音楽全体としてのひびきは、じつははじめにあったひとつの音でもあるというクラインの壷のような音楽。>(小沼純一『武満徹 音・ことば・イメージ』岩波書店:1999,74頁)
 
◎補遺─積分的世界
<微分と積分はここ[引用者註:ルベーグ積分]にきて,互いにまったく別の道を歩み出してきたようにみえる.20世紀前半は、積分的見方が急速に浸透し,この見方に立つ数学が,抽象数学とよばれる数学の流れに乗りながら発展していくことになった.この流れの中では“ほとんどいたるところ等しい”というような関数概念[引用者註:ルベーグ積分が導入したもの]は,関数本来のもつ具体的な対応という考えを薄め,むしろ関数を抽象的な枠組みの中でみるような見方を強めることになったのである.
 しかし,1950年代になって,状況はまた大きく変わり,積分的な世界の中に,微分がごく自然な形で取りこまれることになったのである.それはシュワルツによる超関数の理論が登場してきたからであり,積分のもつ包容力は,この理論の中では微分まで包みこんでしまったようにみえる.
 この超関数の理論が生まれるには,積分的世界を別の方向から見る新しい明確な視点が必要であった.その視点は“線形性”とよばれるある普遍的な性質で与えられた.>(志賀浩二『積分の世界』岩波書店:1994,166頁)
 

【260】仮面考・第二回「顔=貌に面して」 (10)
 
■断想集の3─ジンメルに倣って(承前)
 
《仮面のモルフォロジー・序説》
 
◎穴について。──窓は内から外へ、門は外から内への通路であり、扉は内と外、無限と有限を媒介する穴である。
 
◎補遺。鍵穴は窓とは反対に、外から内を「窃視」する視線の通路である。(家の中の家、つまり鍵のかかった部屋を覗き見るための「近代的」な視線の通路?)
 
◎補遺。レンブラントの「ダナエ」で、裸婦の背後に立つ侍女は鍵束をもっている。デューラーの「メランコリアI」で、有翼の天使の膝には鍵束が垂れている。アングルの「トルコ風呂」は鍵穴から覗かれた場面を描いている。
 
◎眼は光の窓であり、耳は音の門であり、鼻と口は気(と言葉)の物質交換(と観念変換)の扉である。──肢体の穴についても考察のこと。たとえば動物の「貌」、植物の生殖「器」。
 
◎器の変態。盤、碗、壷、そして管。──人間の身体は穴のあいた筒、すなわち管である。意識もまた(クラインの?)管である。あるいは「洞」や「割れ目」(すなわち「穴=器」)の造形によって、自然もまた仮面的なものを造形する?
 
◎自らに折り返ったものとしての「虚ろな器」。その形態は管において完成する。しかし、穴を二つもつ管、というよりつながった穴をもつ管は、自らに寄り添ったものというべきではないのだろうか。(あるいは自らを裏返したものという類型を考えることはできるのだろうか。)
 
◎考察しなければならないこと。──顔面の表層性と深層性について。深層の因果律と表層の因果律について。仮面の身体性と肢体性(あるいは死体性?)について。
 
《いくつかの補遺─文学、写真、建築など》
 
◎文学と美術。──ジンメルは、芸術が身体的なもの(外見)の造形、様式化、統一化を扱うのに対して、文芸は最初から精神的なもの(魂)の存在や出来事を直接扱うと書いていた。ヴォリンガーは『抽象と感情移入』で、文学的感動と美的効果の違いについて次のように書いている。<文学的感動は専ら素材によって燃え上る。従って恣意や個人的秩序や変化などの性格を荷負っている。従ってまたそれは、常に《興味のある》実相の純粋な模倣によって達成せられうる。ところがこれに反して、美的効果は吾々が形式と呼び、その内的本質が合法則性であるところの素材のあの一層高い状態からのみ出発することができる。>(草薙正夫訳,岩波文庫,54頁)
 
◎絵画と写真。──<肖像画は、個人についての多様で不安定な、しかも目に見えない要素に貫かれたイメージのなかから、私たちが本当に見ているもの──ということは、私たちの目が十分に自立していれば見ることのできるものという意味だが──を抽出する。それはたしかに写真にもできることだろう。しかしすでに示唆してきたように、重要なのは外見ではなく、その意味なのだ。すなわち、あらゆる外面の特徴が──見た目の背後にある魂の特徴にたいしてではなく──他のすべての外面の特徴にたいして、どのような権利と意味をもっているかが問題なのだ。>(132頁)
 
◎ベンヤミンの写真論「写真小史」からの断片。──<カメラに語りかける自然は、肉眼に語りかける自然とは当然異なる。異なるのはとりわけ次の点においてである。人間によって意識を織りこまれた空間の代わりに、無意識が織りこまれた空間が立ち現れるのである。>(久保哲司編訳『写真小史』ちくま学芸文庫,17頁)
 
◎ガタリのポートレート論「田原桂一の顔貌機械」からの断片。──<特別な美的資格を抜きにして考えれば、人間の顔は、動物の面という地の上にひとつのゲシュタルトを浮き上がらせることによってすでに生じている。したがって文化的に受け入れることができる顔は、許容された意味的な動きの標準偏差の範囲内に納まっていなければならない(たとえばある広がりの限度を越えた微笑は、自閉症患者あるいは知的障害者のしかめ面を思わせるだろう)。しかし田原桂一は、フレーミングと照明効果の領域において顔貌性の諸特徴に働きかけようとするのだが、その領域は、顔貌性の諸特徴を既存の意味作用的な組み立てから引き離し、そのまったく新しいポテンシャル性を明らかにするだろう。こうして彼が取り組んでいる顔は、未来に向かう無意識の諸次元と呼びうるものを構成する、非人間的、動物的、植物的、鉱物的、宇宙的、抽象的機械の……生成条件に達するだろう。>(宇波彰他訳『分裂分析的地図作成法』紀伊國屋書房,390頁)
 
◎造形美術と写真の関係を文学と映画の関係に対応させてみる。そして造形美術:actuel、文学:virtualite'、写真:re'el、映画:possible、と対応させてみる。──すると、造形美術と文学の関係が仮面的なものに関係し、写真と映画の関係が顔面的なものに関係する、などといえるのだろうか。
 
◎ウィトゲンシュタインの建築。──田中純氏のホームページ[TANAKA Jun's Site:http://ziggy.c.u-tokyo.ac.jp/Default.html]に収められた「ウィトゲンシュタインの扉」によると、姉マルガレーテの私邸の設計に携わったウィトゲンシュタインがとりわけ執着したのが朝食室の二つの放熱器、すなわち〈扉と窓〉だった。
 このことを踏まえて田中氏は、ウィトゲンシュタインの建築の基礎を規定する扉・窓のシステムを〈接続詞の建築〉と名づけ、それは一種の精密機械をめざすものだったのではないかと示唆している。(つねに何ものかと何ものかの間にありながら、同時にそれ自体が空間的対象の一つであるという曖昧な存在性格をもつ扉の多様な配置によって、空間相互の関係の可変性を試行し空間的配置という命題を明晰化すること、ひいては扉の〈曖昧さ〉そのものを〈明晰化〉すること。)
 
◎補遺。田中氏が引用しているウィトゲンシュタインのメモ。マルガレーテにかかわる不可思議な〈機械〉の夢。──「夢。昨夜こんな夢を見た。私の姉グレーテルがルイーゼ・ポリツァーに贈り物をする。鞄を一つ。夢の中ではその鞄、というよりむしろその鉄製の錠を見た。その錠は非常に大きく、四角形をしており、とても精巧にできていた。それは博物館でときおり目にするような、複雑で古い錠に見えた。この錠の内部には何より一種の機械仕掛けがあって、それによって、錠が開く時に、〈お前のグレーテルより〉とか、それに似た言葉を発するのだった。私はあとでそのことをあれこれ考えた。この装置の仕掛けはどれほど精巧でなければならないことだろうとか、それは一種の蓄音器だろうかとか、音盤はどんな材質からできているのだろう、おそらく鉄製だろうかなどと。」(1941年のメモ)
 

【261】仮面考・第二回「顔=貌に面して」 (11)
 
■翻訳としての仮面―ベンヤミンに拠って
 
 ジンメルのエッセイを読み進めながら、ショーペンハウアーとベンヤミンの「顔」──そしてもしかするとニーチェのものだったかもしれない「顔」のおもかげ──を思い浮かべていました。これらのうち、今回はベンヤミンについてほんの少しだけふれてみることにします。(ショーペンハウアーがいう「表象」と「意志」、あるいは「イデア」と「物自体」に即して顔=貌=仮面を考えてみるのもおもしろいと思うのですが、これはまた別の機会に。)
 
 たとえば、今村仁司著『ベンヤミンの〈問い〉』(講談社:1995)には、「ヒポクラテスの顔=死相」「多孔体(的関係)」「廃物の表情」「表情/表現/表出(Ausdruck)」といった──さらには「ベンヤミンの特異体質」や「ベンヤミンの精神の襞」などの──仮面的なものを考えるうえで欠かすことのできない語彙群が頻繁に出てきます。
 
 実際、ベンヤミンの文章を読んでいると、剥き出しにされ形象化された「魂」(ジンメルが使用していた意味での?)の猛々しい貌、あるいは器官的統合の軛を脱して蠢く生きた臓物に対面させられているような、身体感覚(内臓感覚)に根ざした、生理的といってもいい戦慄に襲われます。──彼自身は女友達から「肉体がない」と評されていたにもかかわらず。
 
 ベンヤミンの謎めいたテキスト群から、ここでは「翻訳者の課題」(野村修編訳『暴力批判論』岩波文庫所収)をとりあげて、その任意の断片(器のかけら)に準拠しつつ、顔=仮面の変換(翻訳)過程を粗描しておくことにします。
 
◎翻訳─原作の「死後の生」から出現するもの
<生の表出が、生者にはいささかの意味もなくても、生者と密接きわまる関連をもっているように、翻訳は原作から出現してくる。たしかに原作の生から、というよりはむしろ、その〈死後の生〉からだけれども。(略)芸術作品の生、および死後の生という考えは、比喩とはまったく無縁に、即物的に把握されるのでなければならない。(略)…歴史を生じさせるとともにたんなる歴史の舞台にはとどまらぬすべてのものに、生が認められるときにのみ、生の概念は正当なものとなる。なぜなら自然によってではなく、まして感覚や魂のような不安定なものによってではなく、歴史によってこそ畢竟、生の範囲は規定されうるのだから。>(72-3頁)
 
◎果実と表皮、襞の多いマント
 ベンヤミンは、原作と翻訳とでは「内容と言語との関係」がまったく違っていると書いている。<すなわち、この関係は、原作にあっては果実と表皮との関係のような、ある種の一体性だとすれば、翻訳にあっては言語は、王のゆったりとした、ひだの多いマントのように、その内容を包んでいる。なぜなら翻訳は、それ自体よりも高次の言語を予示していることによって、それ自体の内容にぴたりと合うことがなく、暴力的で異質的なところを残すからである。>(80頁)
 
◎「こだま」と「積分」
<翻訳者の課題は、翻訳言語のなかに原作のこだまを呼びさまそうとする志向を、その言語への志向と重ねるところにある。(略)…翻訳の志向は、原作の志向が向かうのとは別ものに、つまり他言語の個別的な芸術から出発しつつ総体としての言語に、向かうわけだが、それだけではない。志向そのものもまた、翻訳と原作とでは違う。創作者の志向は素朴で初原的で具象的であり、翻訳者の志向は派生的・究極的・理念的なのだ。というのも、多くの言語をひとつの真の言語に積分するという壮大なモティーフが、翻訳者の仕事を満たしているのだから。(略)…この言語は、そのなかで諸言語自体が互いに、その言いかたにおいて補完されて親和してゆき、一致してゆくような、そういう言語である。>(82-3頁)
 
◎逐語性─ルリアの「器の破壊」理論、あるいはバベルの塔
 ベンヤミンが「翻訳形式の原像」と称揚するヘルダーリンのソポクレス翻訳は「逐語性」に徹したもので、それは意味の再現ではなく形式(シンタクス)の再現に忠実なものだった。<…逐語性の要求──その正当性が目に見えているのに、その根拠が深く秘められているあの要求──は、もっと説得力のある関連から理解されなくてはならない。すなわち、ある容器の二つの破片をぴたりと組み合わせて繋ぐためには、両者の破片が似た形である必要はないが、しかし細かな細部に至るまで互いに噛み合わなければならぬように、翻訳は、原作の意味に自身を似せてゆくのではなくて、むしろ愛をこめて、細部に至るまで原作の言いかたを自身の言語の言いかたのなかに形成してゆき、その結果として両者が、ひとつの容器の二つの破片、ひとつのより大きい言語の二つの破片と見られるようにするのでなくてはならない。だからこそ翻訳は、何かを伝達するという意図を、意味を、極度に度外視せねばならぬ。>(85頁)
 
◎文と語、壁とアーチ
<真の翻訳は純粋言語を、翻訳の固有の媒体である翻訳言語によって補強され増幅された分だけ、原作の上へ投げかける。そのことは何よりも、シンタクスを逐語的に訳出することから、可能になる。逐語性こそが、文ではなくて語が翻訳者の根源的な要素であることを、明証する。というのも、文は原作の言語の前に立つ壁であり、逐語性はアーチだからである。>
 
 ──ベンヤミンがいう原作と翻訳、意味と形式、諸言語と高次の言語(純粋言語)、文と語等々の関係を、顔と仮面の関係に置きかえてみるとどうなるのでしょうか。こんなことを書くと、そもそもベンヤミンが論じているのは「言語構築物」(想起対象)であり、顔や仮面は「造形物」(知覚対象)にほかならないのだから、そのような試みはカテゴリー違反だといわれそうです。
 
 しかし、顔にせよ仮面にせよそれらを記号や想起対象として、つまり言語類似のものとして考察することもできるのだし、むしろそう考えるべきだとする立論もありうるわけですから、ここでは細部(?)にこだわらず強引に作業を進めてみます。
 
 まず、顔と仮面は「容器の二つの破片」のように、細かな細部に至るまで互いに噛み合わなければならない。というのも、ここで想定している仮面は顔を象った(型取った)ものだからです。要するに、顔が身体(果実)を被う皮膚(果皮)であるとすれば、仮面は顔を包む「襞の多いマント」のようなものだということです。(デスマスクがこの範疇に属するのかどうか。)
 
 いま一つの顔と仮面の関係は映し取ること、つまり写真や映画に現われた顔を仮面としてとらえることから得られます。この場合、生身の顔は果実としての「魂」(ジンメルが使用していた意味での?)や「歴史」と密接不離の関係にある果皮のようなもので、これに対して仮面は、魂やら歴史の無意識(?)やらを露出させる「穴の多い膜」(インターフェイス)あるいは「アーチ」のようなものに相当するといえるでしょうか。
 
 ここで、仮面による顔の変換(翻訳)をめぐる公式を提示しておきましょう。──第一のケースでは、仮面(顔面に装着する仮面)は知覚対象としての顔を想起対象へと変換し、第二のケースでは、仮面(写真や映画)は想起対象としての顔を知覚対象へと変換する。
 
 註釈。第一のケースでの仮面は、顔を隠すこと、つまり知覚不能にすることで顔を想起対象にするわけですが、それ以上に、顔はもともと想起対象だったのだということ(顔は本来見ることも触れることもできない対象であったこと!)を知覚可能にする機能を果たします。また第二のケースでの仮面は、想起対象としての顔、たとえば固有名によって喚起される不在の顔や死者の顔を「いま・ここ」で知覚可能にする機能を果たします。
 
 なお、写真は本人不在のとき、つまり他者の顔を知覚することができないときにこれを想起する媒体となるものなのだから、「想起対象→知覚対象」という変換は逆ではないかと思われるかもしれません。しかし、この場合でも写真に現われた顔は想起対象そのものではなく、またこれを再現するものでもなくて、あくまで物理的な知覚対象にほかならないのです。
 
 さて、これら二つの場合において仮面が志向する「高次の顔」(純粋言語ならぬ純粋顔?)とはどういうものなのでしょう。──この点については、現実世界の顔から可能世界の顔への積分、写真から映画へ、といった事柄を考えぬいていけば、その解が得られるのではないかとあたりをつけてはいるのですが、実はまだ考えがまとまっていません。今後の課題として残しておくことにします。
 
(いま少しだけほのめかしておくと、ここでいう積分はファインマンの経路積分を念頭においたものです。そして「歴史の干渉」やら「観測による歴史の痕跡」といった量子力学の解釈問題をめぐる議論、とりわけ「多世界解釈」のそれを参考にすれば、さらにそれらを「人称世界」の問題とからませていけば、「高次の顔」の意味が解明できるのかもしれません。──もしかすると「高次の顔」とは、神の名ならぬ「神の顔」のことなのかもしれない。)
 

【262】仮面考・第二回「顔=貌に面して」 (12)
 
■翻訳としての仮面―ベンヤミンに拠って(補遺)
 
 ベンヤミンの翻訳論(というより言語哲学)には、その凝縮された文章の「行間」から汲みとるべきアイデアがまだまだぎっしりと詰まっているのですが、これを論じはじめたら収拾がつかなくなってしまいます。(というのは、まだ頭の中で充分な整理がついていないからであり、それゆえ仮面的なものの考察という「テーマ」から遊離してしまいそうになるから。)
 
 最後に(後日の議論のため?)二つの文章を引用しておきます。一つはベンヤミン自身の短いエッセイの末尾から。いま一つはデリダの日本での講演記録から、先に引用しておいた「ひとつの容器の二つの破片」をめぐるベンヤミンの文章に続けて述べられた箇所。
 
◎内臓から読む・星座から読む・舞踏から読む
<「まったく書かれなかったものを読む」[ホーフマンスタール『痴人と死』一八九三年]。この読み方が最古の読み方である。つまりそれは、すべての言語以前の読み方であり、内臓から、星座から、舞踏から読みとることにほかならない。そののちに、ひとつの新しい読み方の媒介要素、すなわちルーネ文字と象形文字が使われることとなった。これらこそ、かつて神秘[オカルト]的な生活慣習の基礎をなしていた模倣の能力が、文字と言語に入りこんでいくためのその入口となった、という推定は充分成り立つ。このように言語は、模倣的な振舞い方の最高の段階であり、非感性的な類似の最も完璧な記録保存庫であるといえるだろう。つまり、言語とはひとつの媒体[引用者註:メーディウム=媒質]であり、模倣[メーディウム]によって[類似を]生み出し理解する古き時代の力がこの媒体へと残りなく流れこみ、ついには、それらの力はそこで魔術の力を清算するに至るのだ。>(「模倣の能力について」,浅井健二郎編訳『ベンヤミン・コレクション2』ちくま学芸文庫所収,81頁)
 
◎壷[amphore]は外に向けて開かれていながらもおのれ自身と一つである
<翻訳のなかで作業をするこの愛の動作、この愛する者(liebend)の身ぶりに随行しよう。その動作は再生も、復原も、再現もしない。本質的に言えば、それは原作の意味を返す[rend(翻訳する)]のではない──接触ないし愛撫のあの一点、無限に小さな〈意味の点〉において以外には。愛の動作は二つの言語[ラング]の身体を伸ばし、言語を象徴的膨張のうちに置き入れる。そして、ここで象徴的とは次のことを意味する。すなわち、なるほどそこには達成されるべき復原はほとんど存在しないとはいえ、くだんのより大きな言語[ランガージュ]、より広大な新しいまとまり[ensemble]はそれでもやはり何ものかを復原しなければならない、と。それはおそらく一つの全体[un tout]ではないだろうが、しかしそれは次のようなまとまり、すなわちそれが開いているということがそれの統一性に反してはならないといった、そういうまとまりなのである。ヘルダーからリルケ、ハイデッガーにいたるまで、物と言語に関する多数の省察に詩的トポスを提供している水差し形の壷[cruche]と同様に、くだんの壷[amphore]は外に向けて開かれていながらもおのれ自身と一つである──そしてこの開けがそれの統一性を開き、壷を可能ならしめ、壷に全体であることを禁じる。この開けのおかげで壷は受容と贈与をなしうるのである。言語の成長もまた、再現はしないものの、復原はしなければならないものとすれば、つまりそれが象徴ということであるとすれば、翻訳は真理を切望しうるであろうか。真理、これはまだいぜんとして、翻訳にとって掟をなすものの名称であるだろうか。
 われわれはここで──疑いもなく無限に小さな一点において──翻訳の極限に触れる。そこでは純粋な翻訳不可能体[l'intraduisible pur]と純粋な訳出可能体[le traductible pur]とが互いに他のなかへおもむく──そしてこれが真理なのである。「実質的に真理そのもの」なのである。>(「バベルの塔」,高橋允昭編訳『他者の言語──デリダの日本講演』法政大学出版局所収,36-7頁)
 

【263】仮面考・第二回「顔=貌に面して」 (13)
 
■ニーチェの顔─ディオニュソスの仮面
 
 氷上英廣氏は「ニーチェの顔」(『ニーチェの顔』[岩波新書:1976]所収)で、はじめてニーチェと会ったときの印象を記したルー・サロメの文章──<…まるで砂漠や高山からやってきた者が並の人間の上衣を着たように、あまりに不器用に仮面をつけたこの孤独な人物…>──を引用したあとで、次のように書いています。
 
<[引用者註:サロメは]ニーチェの外面的ないっさいが仮面で、偽装であることを見、同時にその背後にあるものを、畏れをもって掬い取っている。しかも仮面のよろこびをも察知している。/ここまでくれば、大きな口ひげをもったニーチェの顔もまた仮面であり、しかも下手なかぶり方をした仮面であるといえないだろうか。彼の顔は本質を隠すことに骨折り、ついに隠しきれない顔であり、隠しきれないという不整合、もしくは不協和音によって逆に深淵の深さを暗示している顔なのである。>(19頁)
 
 氷上氏は続けて『この人を見よ』からの文章──<私は二重存在者だ。私は第一の顔のほかに『第二の』顔も持っている。ひょっとするとそのうえ第三の顔も。>──に触れたあとで、徹底的な自己観察者・自己批判者であったニーチェのような精神にふさわしい顔は「仮面としての実存」というべきではないかと書いています。
 
<…あえて逆説的に言うなら、通常の自己をまったく喪失した人ではなかろうか。この境地[引用者註:『この人を見よ』の強烈な自己演出をさしている]までくると、人間ニーチェはもぬけの殻で、その代りにひかえているものは──仮面の神ディオニュソスということになるだろう。『この人を見よ』の最後が「十字架に掛けられた者対ディオニュソス」で結ばれているのは周知のことである。/ニーチェは仮面の問題について、いくつものすぐれた断想を書いた。>(22-3頁)
 
 ここに出てくる「仮面の神ディオニュソス」について、氷上氏はエッセイの末尾で次のように書いています。
 
<古代ギリシアにあっては、新しく醸された葡萄酒は、掻きまわされ、汲みだされ、ディオニュソスの神にささげられた。その祭りの場の正面の柱には、ディオニュソスの仮面がかかっていた。W.F.オットーの説くところによれば、そのあるものはきわめて巨大であって、通念としての、人間がかぶる仮面とはまったく類を異にしていた。むしろこの場合、ディオニュソスそのものが仮面の神と見られるべきである、と彼は言う。(略)仮面そのものがディオニュソスの神なのだ。なぜなら、ディオニュソスはまさしく存在の実相であって、混沌であり深淵であり、、いっさいを生み出し、かつ呑みこんでしまう創造と破壊の現実、弱い人間の立場からは恐怖と不安の神であり、狂気と陶酔によるしか、これに近づく道のない端睨しがたい変貌の神であるから。ニーチェはこの神への道を歩いていったのであった。「ディオニュソスの最後の弟子、その秘儀への参加を許された者」[引用者註:『善悪の彼岸』295]として……。>(24-5頁)
 
 また、仮面をめぐるニーチェの断想の例として氷上氏が挙げているのは『善悪の彼岸』の二つの節(40と289)です。──以下、理想社版全集第10巻(信太正三訳)からの抜き書き。
 
◎すべての深い精神は仮面を必要とする
<すべて深いものは仮面を愛する。もっとも深いものは、形象や比喩にたいする憎しみをさえもっている。(略)…隠された人、語ることをば本能的に沈黙し秘密にするためにもちい、打ち明けることから絶えず身をさけてやまない人は、自分の仮面が自分の身代わりになって友人らの心と頭のなかをさすらいあるくことを願いもし、求めもする。たとえ願わないとしても、いつの日か彼は、やはりそこに自分の仮面があったことを──またそれでよかったのだということを、悟るであろう。すべての深い精神は仮面を必要とする。いな、それどころか、すべての深い精神のまわりには絶えず仮面が生長する。彼の発する一語一語、彼の足取りの一歩一歩、彼の生のしるしの一つ一つが、絶えず、間違った解釈に、すなわち浅薄な解釈にさらされるためなのである。──>(『善悪の彼岸』40)
 
◎すべての言葉は一つの仮面である
<隠遁者の著作のなかからは、いつも何かしら荒野のこだまのようなものが、孤独に脅えてあたりを見まわす気配と囁きのようなものが聞きとられる。彼のこよなく力強い言葉から、彼の叫びからすらも、或る種の新しい危険な沈黙が、秘密を守る沈黙が伝わってくる。年々歳々、そしてまた夜も昼も、ただ独りおのれの魂と対坐し秘かに争い語らってきた者、おのれの洞窟──これはまた迷宮[ラビリンス]でもあれば金坑でもありうる──のなかで穴熊か宝掘り人か宝守りの竜かになってしまった者。こうした者の想念そのものはついにある独特な薄明の色をおび、奈落の臭いと黴の臭いを放ち、かたわらを行きすぎるすべての人に冷たい気息を吹きつける何やら名状しがたく嫌悪すべきものとなる。こういう隠遁者は、かつて哲学者が──哲学者というものはいつもまず隠遁者であったとして──自己の本来の究極の考えを著書に表現した、とは信じない。人はおのれの内に秘めたものを隠すためにこそ本を書くのではないか?──きっと彼はこう疑うのであろう、およそ哲学者は〈ぎりぎり究極の〉考えをもちうるであろうか、彼が身をひそめるあらゆる洞窟の裏にさらに一層深い洞窟があるのではないか、あらねばならないのではないか、──表面のものを超えた彼方により広大で未知の豊かな世界があるのではないか、あらゆる根底の奥に・あらゆる〈根拠〉の底に一つの深淵があるのではないか、と。すべての哲学は一つの前景の哲学である、──これが隠遁者の下す判断である。すなわち、「哲学者がここで立ちどまり、うしろを振りかえり、あたりを身まわしたということには、彼がここでさらに深く掘りさげることをせずに鋤を投げ捨てたということには、何やら恣意的なものがある、──それには何やら疑わしいものもある」と。すべての哲学は、なお一つの哲学を隠している。すべての見解はまた一つの隠れ場であり、すべての言葉はまた一つの仮面である。>(『善悪の彼岸』289)
 
 補遺。上述したこととあまり関係はないと思うのですが、ニーチェの文章に出てきた「洞窟」(仮面的なものをめぐるキーワードの一つ)から連想された事柄について、一つ引用を加えておきます。
 
◎子宮、洞窟、穴、割れ目、臍
<デルフォイのアポロンの神託所は依然として古代人の未解決の謎の一つである。アレクサンダー・ワイルダーは、デルフォイという名がデルフォス(子宮)に由来するとしている。この名は洞窟の形と地下深くへ通じる穴とからしてギリシア人により選ばれたと。神託所の元来の名はピュトーであって、そう呼ばれた訳は、そこの部屋が大蛇ピュトンの棲家だったからで、ピュトンはデウカリオンとピュルラ以外の全人類を破滅させた洪水が引いて残った泥からはい出した恐ろしい生物だった。アポロンはパルナッススの山腹へ登り、長い戦いの後に毒蛇を殺し、死体を神託所の割れ目から投げ降した。そのときから「太陽神」はピュトン殺しのアポロンとあだ名され、穴のなかから神託を下した。彼はディオニュソスとともにデルフォイの守護神という名誉を分かち合った。
 アポロンに退治されたピュトンの霊は依然として征服者の代理としてデルフォイに残り、他ならぬその毒気の助けを得て巫女は神と和合できた。神託所の割れ目から生じるガスはピュトンの腐敗していく死体から発生するのだろうと想像された。神託所の女官に与えられた牝ピュトン、つまりピュティアという名は、文字ど通りの意味では解体していく物体から発生するガスを吸うことにより神がかりの状態になっている女のことである。ギリシア人がデルフォイの神託所を地球の臍だと信じていたことに注目し、それによって彼らが地球を巨大な人間と考えていたと立証することはさらに興味深いところである。神託所の啓示の原理と臍の秘教的意義との関係は、古代の「密儀」の重要な秘密なのである。>(マンリー・P・ホール『古代の密儀』大沼忠弘他訳,人文書院,298-9頁)
 

【264】仮面考・第二回「顔=貌に面して」 (14)
 
■顔のトポグラフィー―レヴィナスに面して
 
 ジンメルの「形態」とベンヤミンの「根源」、デリダの「声」とレヴィナスの「顔」。──仮面をめぐる原理的な考察をめざすからには、それぞれ欠かすことのできない固有名と「概念」だと思う(その他にも、ニーチェの「変身」、ヴォリンガーの「抽象」、等々)のですが、残念ながら後の二人についてはまだその主著を読み通したことがないので、ここでとりあげるべき事柄をもちあわせてはいません。
 
 ところがレヴィナスに関しては今年の五月、偶然(?)同じ出版社から二冊の本が刊行されました。合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』(ちくま学芸文庫)と熊野純彦著『レヴィナス入門』(ちくま新書)。今回はこれらを参考に、レヴィナスの顔、ならぬ香りをかいでおくことにします。
 
 付記。これもまた偶然(というよりシンクロニシティ?)のなせるわざなのか、合田、熊野というほぼ同年齢の二人によるレヴィナス関連本が近々出版されるそうです。合田正人著『レヴィナスを読む』(仮題、NHKブックス)と熊野純彦著『レヴィナス 移ろいゆくものへの視線』(岩波書店)。
 
《レヴィナス・コレクション》
 
◎アレルギーと免疫─管の穴としての「顔」
 合田氏によると、レヴィナスの生年、一九◯六年は、アレルギー(ギリシャ語で「他なる・奇妙な」の意味をもつアロスと「働き」を意味するエルゴンの合成)という語が造られた年でもある。
<「免疫」(immunit'e)という語が「免責」を意味していることを勘案してもよいが、レヴィナスは、…アレルギーなき他者との関係を、それゆえ、究極的には「免疫」が機能しないような絶対的他者との関係を求めつづけた思想家なのである。
 一方では「同と他の分離」を語って両者の接触を絶ち、他方では「同のなかの他」という、拒絶ならぬ寛容と迎接としての「免疫」のかたちを説き、さらには、他者には絶対的な拒絶を認めることで、レヴィナスは、「私」からアレルギーを一掃しようとしたと言ってよい。「私」はその剥き出しの皮膚を外部に向けて曝露しながらも、外傷のごとき衝突を蒙りながらも、アレルギー反応を起こすことはないのだ。ちなみに生物学的には、管の穴としての「顔」の原型の成立は、免疫系の成立と同時であると言われている。>(合田正人「解説──ラグタイム」,『レヴィナス・コレクション』531-2頁)
 
◎その他、合田氏の「解説」に出てくるキーワード(括弧書はレヴィナスの言葉)の羅列。──エレクトロン(琥珀)、「私には哲学のすべてがシェイクスピアについて考えることにほかならないように思える」、「セム的な祈り」、レヴィナスが生涯にわたって考えつづけた問題のひとつ=貨幣、「語りえないものの漏洩」、「緊縛」「逃走」「吐き気」「不眠」「疲労」「眠気」「責任」(合田氏はこれらを心身症的な身体感覚の諸相という)、身体は先験的なものの運搬者[メッセンジャー]であり経験の条件である(レヴィナスが「ヒトラー主義」で身体は過去と血の運搬者とみなしたことに関して)、クセナキスの確率音楽へのレヴィナスの言及、任意の隣人との偶然的遭遇という超越論的経験、「扉も窓もなきモナド」、孤独が時間の不在であり時間が他者との関係であること、仮面、顔、皺という重要な主題をレヴィナスに抱かせたきっかけのひとつ=サルトル『嘔吐』は顔と肖像画の小説である、レヴィナスはモナド=鏡という語を使用しつつもほとんど鏡を語ることがない、「存在の襞として主体性が生起するとき…」、鏡の背面=内奥の外部=表なき裏、分身の思想家としてのレヴィナス、「分身は他者ではない」、レヴィナスは像の禁止の哲学者である、「裂け目」「隙間」「余白」「縫い合わせ」といったトポロジカルな措辞、『失われた時を求めて』には不眠や疲労や嫉妬や逃走や時空の遠近法や仮面やイメージの音楽性等々レヴィナスの言葉と詳細に対比すべき箇所が随所にちりばめられている、レヴィナスはおそらく現代の位相幾何学、特に結び目理論の展開をも意識しながら「襞」「解けと結ぼれ」「ねじれ」「ほとんど透明なずれ」「螺旋」といった語で自己と非自己、超越論的と経験的、先験的と偶然的等々の境界地帯の曖昧さを語るとともに、それを「隔時性」[ディアクロニー]として捉えようと努めた…。
 
◎顔の公現は言語なのだ─『全体性と無限』から
<〈他者〉は高さの次元から到来する。意識はいかに冒険しようとも、自己に囚われている自分を見いだすのだが、意識のこのような独我論的不安にここで終止符が打たれるのだ。〈自我〉に対する〈他者〉の特権──道徳意識──は外部性への突破口であり、この突破口はまた〈高さ〉への突破口でもある。
 かくも直接的に、かくも外的なものとして、かくも卓越せる仕方で現前しうるものの公現──、それが顔である。顔において、表出するものは表出に臨在し、「自分自身を加護し」、意味し、発語する。顔の公現は言語なのだ。〈他者〉とは最初の知解可能なものである。けれども、顔における無限は表象として現れるものではない。顔における無限は、不羈の力(force qui va)としての私の輝かしい自発性を問いただす。私の自由は、自分が殺人者であり略奪者であることを発見する。とはいえ、この発見は自己についての知識の派生物ではない。それは隅から隅まで他律なのだ。顔を前にして、私は自分自身に、より多くの要求をつきつける。私が顔に答えれば答えるほど、この要求は増大していく。かかる運動は、自己表象の自由よりも根底的なものだ。事実、倫理的意識は、特に推奨すべき意識ではなく、意識そのものの凝縮、自己のうちへの退却、収縮なのである。(略)
 顔によって顕現する〈他者〉は、文化ならびに文化の堆積[アリュヴィオン]とこの堆積ゆえに生じた言外の意味[アリュジオン]に先立つ、最初の知解可能なものである──、こう述べること、それはまた、歴史に対する倫理の独立性を肯定することでもある。最初の意味は、道徳性のうちで──、一切の性質を欠いた赤裸な顔、文化から切り離されて絶対者と化した顔のほとんど抽象的とも言える公現のうちで生じるという点を示すこと、それは歴史による現実了解に限界を画し、プラトン主義をふたたび見いだすことなのである。>(レヴィナス「『全体性と無限』要約」,『レヴィナス・コレクション』447-9頁)
 

【265】仮面考・第二回「顔=貌に面して」 (15)
 
■顔のトポグラフィー―レヴィナスに面して(承前)
 
《レヴィナス入門》
 
◎「レヴィナスの第一の主著がこころみるのは、ひとことでいえば〈具体的なもの〉の思考である」と、熊野氏は書いている。『全体性と無限──外部性についての試論』は「生の具体的な細部において、〈他なるもの〉が到来するさまをえがきだす」ものであるというのだ。(『レヴィナス入門』92頁)
 
◎ここでいわれる「生の具体的な細部」について、熊野氏は、「目から手へ」(フッサールからハイデガーへ)を「手から口へ」(あるいは「道具」から「糧」へ)と突きぬけさせ、さらに「口から手へ」「手から目へ」と、世界における生を「始原的なもの」「身体であること」から説き明かしていくレヴィナスの叙述を紹介している。
 
<ひとは身体であることで飢え渇き、享受がその飢えと渇きを充足するのであった。享受にあって、世界と私とのあいだには隔たりがない。…享受はしかし世界の恣意によっても挫折する。享受のその挫折が労働の必要を生み、〈口〉から〈手〉への移行を促す。…労働することは、とはいえたんに手にかかわるできごとではない。労働する〈手〉は、〈もの〉を掴むことで同時にまた世界そのものをつくりだす。つまり、私とはもはやぴったりとは一致せず、〈目〉で隔たりが測られる世界を創設することになる。>(108頁)
 
<手によって与えられた〈もの〉のかたちは、やがて〈目〉によってもかたどられることになる。目がものの輪郭をたどり、〈もの〉を背後から区別して浮き立たせて、その〈もの〉になまえを与える。>(110頁)
 
◎手によって触れられ目によってかたどられるもの、それが他者の顔である。というより、顔においてこそ他者が、無限に超越的な他者が世界の内部にあらわれる。『全体性と無限』のレヴィナスにとって、顔は他者の「顕現」(エピファニー:「公現」とも)である。
 
 しかし第二の主著『存在するとは別の仕方で あるいは存在することの彼方へ』で、レヴィナスはある「転回」を遂げる。熊野氏はこのことを「現前から痕跡へ」と定式化している。ここで、現前するのはいうまでもなく他者の顔であり、痕跡として語られるのもまた他者の顔である。
 
◎第一の主著で「享受する身体」を論じたレヴィナスは、第二の主著では「ひび割れる」身体──いくつもの孔を穿たれ、その開口部で外部性へと曝されている身体、あるいは可傷性(ヴルネラビリテ)の契機をもった傷つきやすい身体、老いる身体──を論じている。ここで強調されているのは「感受性」の(享受=消費とは異なった)別の側面なのだ、と熊野氏はいう。
 
 まず、感受性が意識の志向性に先だつものとして規定されていること。そして、感受性の次元に「他者たち」との「むすび目」が見さだめられていること。
 
<他者が他者であることは志向性から逃れ、私の現在から逃れつづける。にもかかわらずなお他者が私にかかわってくるとするならば、志向性に先だち、私の現在に先だつ次元で、他者との関係が胚胎してしまっているはずである。その次元こそが、(志向性という)意味とロゴスの水準に先だつレヴェル、感受性の次元なのではないだろうか。>(178頁)
 
◎感受性とは「近さ」である。近さは生きられるものであって、認識されるものではない。このような「近さ」は他者において典型的である。──以下、第二の主著におけるレヴィナス自身の文章の引用から。
 
<その「近さ」とは、接近した顔であり、皮膚の接触である。つまり、皮膚によって重みを課せられた顔であり、変質した顔が、そこで淫らなまでに息づいている皮膚なのである。そうした顔と皮膚は、すでにじぶん自身にとって不在であって、過去の回収不能な経過のうちに陥っている。>(189頁)
 
◎皮膚はつねに顔の変容であり、顔はいつでも皮膚の重みを課せられている。顔も皮膚もともに現在であって現在にない。すなわちそれは痕跡、しかも自分自身の痕跡である。いま現前しているものが同時にみずからの痕跡であるとは、しかしどのようなことがらでありうるのか。──熊野氏はこのような問いをたて、そこに「老いゆく顔」「死にゆく顔」を導入することでレヴィナスの解を要約している。
 
<皮膚にはつねに数えつくすことのできない襞が刻みこまれ、それぞれの皺が他者の生きてきた時間の経過を、もはや取りもどすことのできない、いまやけっして現前せず過ぎ去った時間をあかしている。他者はつまり、顔と皮膚とにおいてすでに老いているのだ。
 どのような他者もあらかじめ老いている。私のまえに現前する顔は、いつでも・つねに過ぎ去った時をあとにのこしている。いま現前しているということは、すでに時が過ぎ去っていることのあかしであり、すでに現前していない時の痕跡である。>(197頁)
 
<他者はつねに・すでに老い、死は不可測である。他者はそれゆえ、いかなるときにおいてであれ「回帰−しないこと」がありうる。可視的な横顔、顔だちはたしかに現前する。だが、目にみえ現前する顔だちの背後で他者は老い、「死の窪み」へと、つまり世界の内部では場所をもたない窪み、世界のかなたの窪み、「非−場所」の窪みへと退引している。「すでに不在となりつつある」他者の、この不在こそがその「他性」なのである。>(199頁)
 
<無数の皺を刻みこまれた〈顔〉に、私は直面する。顔はそのとき、消えようとする弱さそのものにおいて、無限の、あるいは絶対的な強さをもって私にうったえかけてくる。そのときつまり、顔は〈声〉を獲得している。しかも無限のまま声を獲得している。
 他者の顔にこの強さをあたえているのは、世界の内部にぞくするもろもろのことがらではない。他者がほどなく、とつぜん世界の外部へと退引すること、この、世界の〈かなた〉こそが、顔の力の源泉である。その意味で「殺すなかれ」という戒律は、世界の外部から到来する。無力な顔のうちで、「無限」の力とともに到来する。>(201頁)
 
◎顔と声、召喚する声
<声とは、とりあえず〈音〉である。物理的には空気の疎密波であり、聴覚を刺激する音響である。とはいえ、声が音であることは、それが音響であることによっては尽くされない。(略)
 声はまた、それが言語的な音声であることによっても尽くされない。ことばとしては意味をもたない声やため息、叫び声もまた声である。それらはたんに声の一例であるだけではなく、むしろすぐれて声そのものであろう。私が理解しえない言語の音韻もまた〈声〉でありうる。とくにそれが叫びであるとき、とりわけて声でありうる。(略)
 そうであるなら、声が声であるとき、それは音声にたいする余剰を有している。その余剰は(たんに音響を聴き取る)聴覚を逃れる。おなじように、顔が顔であることは、たんなる視覚を逃れている。顔は、それがしめすかたちにたいする絶対的な余剰を有している。静寂がなおなにかを意味するとき、静寂じたいが無音にたいして余剰を有しているように、無言の顔は余剰を、みずからとのずれを有している。>(204-5頁)
 
<顔のまえで、私はすでに召喚されてしまっている。(略)呼びかけられていることに、私が気づく。ということは、他者はすでに私にたいして呼びかけてしまっている、ということだ。他者の呼びかけは、意識がそれをとらえ、私の現在のうちに捉えなおすまえに、すでに呼びかけとして響いている。どういうことか。
 私はつねにあとから、その呼びかけを受けとめるということだ。呼びかけを受容する私の現在は、他者による呼びかけの現在に遅れている。この遅れは、原理的にいえばつねに・すでに生じてしまっており、他者にとっての(呼びかけの現在であった)過去は、私にとってはいつでも取りもどしようのない過去になっている。他者の(私にとっての)現在であるものは、じつはすでに・つねに現在じしんの過去であり、「私の反応は、すでに現在じしんの過去である現前を逸してしまって」いる。だから、他者の現在の現前は、いつでもその痕跡であり、それ自身の痕跡なのである。>(206頁)
 

【266】仮面考・第二回「顔=貌に面して」 (16)
 
■『顔の現象学』『顔面考』─顔のエンサイクロペディア
 
 顔=貌に面して仮面の考察を開始するに際して、というより仮面をめぐる原理的(かつ形態学的?)な思索をめぐらせるための雛型や原材料のコレクションに着手する準備として、二冊の「参考書」を購入しました。──春日武彦著『顔面考』(紀伊國屋書店:1998)と鷲田清一著『顔の現象学』(講談社学術文庫:原著1995)。
 
 ところが、たまたま手にしていたジンメルのエッセイ集に強烈な刺激を受け、予定外の「妄想」をたくましくしたあげく、つい調子にのって、まだちゃんと読んでもいないレヴィナスにまで触手をのばすといった無謀な試みを敢行してしまいました。(そしてその結果は、よくできた「解説」と「啓蒙書」の引き写しでしかなかったわけです。)
 
 さて、ようやく当初の計画にもどって上記の書物をひもといてみたところ、これがまたよくできたカタログ、いや、顔あるいは顔面をめぐる論点と着眼点が網羅されたエンサイクロペディアで、かたや精神医学、かたや現象学という「持ち味」が存分に生かされた、楽しめて「役に立つ」すぐれた読みものでありました。
 
(とりわけ『顔の現象学』の第 VIII 章「魂のパスゲーム」で紹介されていたミシェル・セールの議論は、次回に予定している「身=実を割いて」へのつなぎとして私が考えていたアイデアとほぼ完璧に合致していて、ちょっと複雑な気持ちになってしまったし、また第 IX 章「負の仮面」で取りあげられていたジャン=ルイ・ベドゥアンの議論は、まさに次回に引用しようと予定していたものそのものだった。)
 
 この二冊をきちんと押さえておけば、顔と仮面に関しておよそ人間が思考可能な領域はほぼカバーされているのではないかと思います。(強いていうと、たとえば中国人の顔面観やインド人の仮面観といった「東洋思想」的な側面からのアプローチ、あるいは古代人の顔面観・仮面観、さらには「原始的な心性」や「精神の古層」──いずれも春日氏の著書[111頁]に出てくる言葉──からみた顔や仮面の実相といったあたりが、これらにつけ加えられるべき論点だといえるでしょうか。)
 
 そういうわけですから──つまりこれらの書物はそれ自体で完結していて、下手な要約を許さない毅然たる姿勢を示していますから、ここでは最低限、私が印象深く読み、個人的な関心をそそられた箇所についてのみ記録しておくことにします。
 
《顔面考》
 
◎狂気の顔の記録不可能性─あるいは表情とは積分である
<「精神分裂病の表情がはっきり出ていると思われる患者の写真をとると、何でもないものになってしまうことがよくある」と西丸は記している[引用者註:西丸四方『精神医学入門』(南山堂:1949)]が、確かに我々が感知している表情とは、実は様々な場面における顔つきを積分したものであるから、瞬間的な表情からは明確な狂気の兆候が抜け落ちていることが珍しくない。>(33頁)
<結局のところ、我々は表情のみを観察しているように思っているときでも、本当は身体全体、周囲との関わり具合、立ち居振る舞いなどのすべてを顔へと集約して認識するように目と頭が働く構造となっているのであろう。であるから、いざ顔だけを見つめても、そこからは存外に特異的なものを見出せない。>(38頁)
<狂気の顔は実在する。ただしそれを映像として記録することは、さながら燃えさかる炎を、標本として硝子瓶へ永久保存しようとする試みにも似た虚しいものとなるだろう。>(39頁)
 
◎森羅万象に「顔」が隠されている[217頁]
<記憶の中に息づく顔は淡い。その淡さは、弱さや曖昧さよりもむしろ、普遍性につながる性質を帯びているようにも考えられる。そしてその普遍性は、現代人の匿名性の裏にある普遍性にも通じているのではないか。>(214頁)
<それにしても我々の視覚は、あえて意識せずとも曖昧や混沌の中から、直観的に「顔」のパターンを見出すように作用する。そのような認識機構が誰の心にもプログラムされているのである。だから我々は壁のシミや木目や大理石の模様の中に顔を発見する。葉叢や岩肌の凹凸が作りだす陰影に、顔らしきものを読み取る。顔を知覚すると同時に、神秘的な力や啓示へと思いを巡らせたりもする。>(215頁)
 
◎顔とグロテスク
<顔について論じようとする者は、やがてグロテスクについても語らざるを得なくなるのである。>(259頁)
<「それは顔の一部である」という注釈だけで、わけのわからぬ肉片や皮はたちまち過剰なグロテスクさと悲惨さに彩られてしまう──そのような反射的な作用はなぜ生じるのだろうか…>(265頁)
 
◎精神は「顔の裏側」に監禁されている[239頁]
<…今こうして文を綴っているわたしは、顔に穿たれた「目」と称する穴からワードプロセッサーの画面を眺めているのである。顔から逃れることはできない。わたしは死ぬまで顔の裏側に幽閉されたままなのである。>(261頁)
 
◎顔の実在感
<顔のもたらす強烈な実在感の前には、あらゆる論もたちまちに霞んでしまう。>(270頁)
 

【267】仮面考・第二回「顔=貌に面して」 (17)
 
■『顔の現象学』『顔面考』─顔のエンサイクロペディア(承前)
 
《顔の現象学》
 
 この書物で浮き立たせようとしたのは「壊れやすい〈顔〉」(あるいは「傷としての〈顔〉」[218頁])であり「その造作を読まれたり分析されたりするのではない切迫や呼びかけとしての〈顔〉」である、と鷲田氏は「学術文庫版まえがき」で書いています。それは他人の「プレゼンス」、だれかがそばに「いてくれること」(中井久夫著『1995年1月・神戸』)として定義される顔であり、レヴィナスがいう「他者の顔」のことです。
 
 鷲田氏はまず「自分の顔が見えない、自分の顔面が視覚的に遮られている、というとてもプリミティヴな事実」(215頁)、すなわち「〈顔〉はつねにだれかの顔である」(16頁)ことから出発し、「読まれたり分析されたり」する顔──こちら側や向こう側、背後や内部とのトポロジカルな関係においてとらえられた公共的な意味としての顔、いいかえれば記号、あるいは鏡、あるいは面=像としての顔──について縦横に論じたあと、「根源的な現象」(98頁)「意味の外へと逸脱してゆく存在の表面」(111頁)あるいは「意味と非意味との境界」(116頁)としての顔へと考察を進めていきます。
 
 この前半の叙述のなかにも切れ味のいい刺激的な断言──<顔は地上に存在する人間の数よりも多い。>(31頁)、<…〈わたし〉の存在もまた、共同性がみずからを折りたたみ、褶曲させるときのその一つの襞としてとらえられねばならない…>(76頁)、<…身体の表皮は、欲望の力線が交錯しあうそういう力動的な場としての身体を、仮構された可視的表面へと移行させるなかではじめて、内部と外部、あるいは自己に属するものと他者に属するものとの境界面として出現することになる。>(107頁)、<人称の外部とは…無名、失名、没名といった、いわば匿名的な位相にある存在のことである。わたしのなかにあってわたしではないもの、わたしの存在よりももっと古い存在、あるいは、わたしがそうありえたかもしれないもの。>(112頁)等々──がいっぱい出てきますし、いくつかの刺激的な議論が展開されているのですが、ここではそれらは割愛して、後半、レヴィナスの名が出てくるまでの二つの章からそれぞれ一つずつ話題を厳選して(?)抜き書きをしておきます。
 
◎ミシェル・セール─魂の位相論的構造の探究
 鷲田氏は、ミシェル・セール『五感』(米山親能訳,法政大学出版会:1991)からの文章の引用──<意識はしばしば感覚のひだのなかに身を潜めている。><皮膚は己自身の上に意識をもっており、また粘膜も自分自身の上に意識をもっている。折り畳まれたひだもなく、自分自身に触ることもないならば、真の内的感覚も、固有の肉体もないだろう…><われわれは不器用な表面部位をもっており、それらの部位は裏のない準平面もしくは荒野であり、そこでは束の間の意識が記憶も残さずに過ぎ去ってゆく。><皮膚はポケットやしわを作り、そうした胚のなかで皮膚は鋭敏化されるのだが、そこが目である。><皮膚は窪みを作り、縁りのあるひだを作り、彫りのある扇子状の半楕円形を作るが、そこが耳であり、そこに聴覚が凝縮される。>等々──を踏まえて、次のように書いている。
 
<皮膚が自分自身へと折り返される場所、あるいはたがいに接触する場所に〈魂〉が誕生する。皮膚が自己接触の細やかな網の目を増やし、そこで生まれた〈魂〉がさまざまな方向に移動し、飛び跳ね、たがいに交錯したり、重なりあったりすることで、われわれの存在が多様な感覚の交響体として描きだされる。われわれの〈魂〉は単一体として存在しているのでなく、身体のあちこちに「散在」しているのだ。>(120-1頁)
 
<セールが注意深く析出しようとしているのは、身体の自己接触点に生まれる〈魂〉の位相論的構造である。〈魂〉は身体のさまざまな部位で身体と押しあい、溶けあい、もつれあい、浸透しあっている。そしてそのように緊張し錯綜する線たちが合して、ある「力の場、すなわち魂による巨大な圧力の空間」をかたちづくる。身体のそこかしこで発生する感覚の襞としての〈魂〉が、その身体の表面に波紋のように残すさまざまの線や回廊、渦や急流、ぼかしや斑紋、そしてさまざまの濃淡。その〈魂〉が、ときには迷路のように、ときには波紋のようにうねりつつ描きだす「抽象絵画」を可視化したものが刺青だと、セールは言うのである。>(131頁)
 
 
◎ジャン=ルイ・ベドゥアン─変貌のメディアと変身のメディア
<描かれた肌、刻まれた皮膚、象られたボディ、変形された頭蓋骨……こうした身体塗飾や身体加工のあくなき探究を、「存在のもっている像を変形させることによって、存在そのものを修正する」仕掛け、あるいは「見えざる存在で自分を満たすことにより、自然そのものを変え」てしまいたいという〈変貌〉への欲望装置としてとらえるジャン=ルイ・ベドゥアンは、存在の〈変貌〉(=世界からの脱出)のためのメディアが、〈社会〉の内部を循環するたんなる変身のメディア(=〈同一性〉の秩序への帰属・編入・併合のメディア)へと頽落したことをまるで嘆き悲しむかのように、〈わたし〉たちの存在を開くと同時に閉じもするこの〈顔〉の二重性について次のように書いている。[以下、『仮面の民俗学』(斉藤正二訳,白水社)からの引用。]
〈顔〉、それは表面が意味としてみずからを編成替えすること、言いかえると、褶曲し、くぼみ、折りたたまれ、起伏を呈する……そういうかたちでその可視性の表面に意味を生成させることを意味する。それは形象ではなくて、むしろ意味を生成させる働き、あるいは意味が生成する場を開く働きといってもいいかもしれない。固有なものと他なるもの(一般的なもの)、そして内と外……〈顔〉はわれわれの存在の表面を炸裂させ、そういう意味の襞、差異の体系として編成しなおす。存在を、現前を、裂き開いてゆく根源的な動性、〈顔〉はおそらくそういうものとしてある。したがってそれは、見えるものと見えないもの、語りうるものと語りえないものとを媒介するものであり、意味の内と外をたえまなく横断しつづけるものである。
〈顔〉はつねにこのように意味と非意味の境界に位置する。〈顔〉には許容可能な意味の偏差ないしは遊動空間といったものがあって、これを逸脱したとき、顔が崩れると言われる(「狂人」の顔?)。しかし、〈顔〉が意味の内と外をたえず越境するものであるかぎり、意味の内部に拘束された顔、同一的なものとして解読可能な顔はすでに盗まれた顔なのである。ベドゥアンが指摘しているように、仮面としての〈顔〉がもともと〈変貌〉のメディア、つまり自己同一性の変換と転位のメディアだったとすると──ベドゥアンは、仮面の効能は、「種の定着性を新しい種で置き代える」(人間=鳥、人間=精霊、人間=羚羊……)ことによって、「動物や神が大暴れする、あの遥かなる地平の彼方へと飛翔する」ことにあるとしている──、〈顔〉はむしろつねに同一性の秩序を形成しながら、同時に同一性の外部をめがけるものだということになる。>(149-51頁)
 
 補遺。仮面をめぐるいくつかの断章の孫引き。
 
<ある顔の下におのれを隠しているものをそれと見分け、ある顔を読み取ろうとするや否や、われわれは暗黙のうちにその顔をひとつの仮面と見なしている>。(84頁,G・バシュラール『夢見る権利』)
 
<仮面はひとの顔を隠すが、その仮面は、それを装着するひとの顔が隠しているものをあらわにする、という逆説>。(116頁,『アウラ・ヒステリカ』の著者G・ディディ=ユベルマンの言葉)
 
<面をつけることは、視野のうちから自分の姿を消すことである。面をつけると裸体になってしまった気がすると言うのを聞いたことがある。>(118頁,土屋恵一郎『能』)
 
<仮面の衰退とともに、近代の退廃が始まった>。(148頁,ロジェ・カイヨワ)
 
<額、鼻、目、口を有したこの清らかな皮膚の切れ端の感性的現前は、シニフィエへと遡ることを許す記号でもなければ、シニフィエを隠蔽する仮面でもない。>(189頁,エマニュエル・レヴィナス)
 
<…仮面とは、完全に純粋な状態にある意味のことである。>(207頁,ロラン・バルト『明るい部屋』)
 
<人間の顔は、沈黙と言葉とのあいだにある最後の境界である。つまり、顔はそこから言葉が発生するところの壁なのだ>。(209頁,マックス・ピカート)
 

【268】仮面考・第二回「顔=貌に面して」 (18)
 
■観相術(physiognomy)─都市生活者の実用知識
 
 春日武彦氏は『顔面考』第二章で、西欧十九世紀における観相術の興隆を都市の巨大化(人口の急激な都市流入)に関連づけて論じています。すなわち、村落共同体的なつながりとはまったく異なった、得体の知れぬ者(見知らぬ顔の持ち主)同士の出会いに際して、互いに相手を見定め、見極めるための手引き書として観相術はもてはやされることになったらしい、というのです。
 
(同様の記述は『顔の現象学』[78頁]にもあって、そこで鷲田氏は、一個人をではなく一類型を客観的に眺めるまなざし=観察行為が十九世紀パリでは「生理学」と呼ばれたことを紹介し、観相術は都市住民たちのプリミティヴな社会科学であり、同時に窃視症的快楽としても存在したのだろう、と書いている。)
 
 さらに春日氏は、富山太佳夫氏が、十九世紀のはじめまで小説のなかでヒロインの顔の描写はほとんど見られない、と述べていること(『現代思想』[1991.7]所収の多木浩二氏との対談「見えない顔を読む」での発言)を紹介したうえで、次のように書いています。
 
<この事実は何を意味するのだろうか。顔は隠喩であり、暗号であり、そして翻訳可能な表意文字と考えられるようになった、ということである。観相術を介して解読についての共通認識が高まったからこそ、顔についての細かな描写が意味を担うことができるようになったのであろう。ただし顔を「読む」ことへの期待は、それが他者の内面を脳天気なばかりに単純化し、把握可能なものと決めつけたわけではない。(略)観相術台頭の背景には「言語コミュニケーションの失調」が潜んでいるのであり、つまり人々はそれこそ手さぐりをするかのように相手の顔へ視線を這わせねばならなくなった事実を示す。>(66-7頁)
 
 都市生活者と顔、都市的なものと仮面的なもの(不滅なもの=太古的なもの?)との関係。──たとえば、ボードレールのアフォリズム。<顔に関する間違いは、現実の影像[イマージュ]が、そこから生れ出る幻覚によって隠蔽されることの結果である。><創造された形態[フォルム]はすべて、人間によって創造されたものさえ、不滅である。というのも形態は物質から独立しているからであって、形態を構成しているものは分子ではない。>(阿部良雄訳『ボードレール批評4』ちくま学芸文庫,45頁・128頁)
 
 
■観相学─マインド・リーダー、あるいは不可視の情報
 
 この人を措いて顔や観相術といった事柄を論ずるわけにはいくまい、と思われる人物がいます。──いま手元にその著書が見当たらないので、高山宏氏の本格的な「論」を概観することはできませんが、ここでは、月刊誌『言語』(1999.2)に掲載された短文「運命ヴィジュアル」の一節をまるごと抜き書きして、その一端を見ておくことにします。
 
<我々が人や物の「性格」という意味で使うことの多い“character”は本来はずっと広い意味で「記号」だの「しるし」だのを意味していたことはOEDの当該項を熟読して実に面白く理解することができる。(略)
 面白いことにギリシア語で…[カラクテール]は、しるしを刻み付ける具ということになっていて、一挙に間をとばして記しておくと、人という素材に神とか自然とかがのみをふるって刻みこんだしるし、即ちその人の「性格」という聖なる「文字」なのだという、当然元々は聖刻文字 hieroglyphs としての人間という見方を主張する神秘主義やロマン派哲学なのであった。我々が何気なく使っている「サイン」という語だって神秘主義者ヤーコブ・ベーメにいわせれば神が人や自然に刻みこんだ“signum”だったのと同工である。こちらの方は「神の署名」という考え方で、ブレイクからボルヘスにまで滔々と流れこむヘブライ起源の性格−記号論[カラクテロロジー]である。
 決定的なことはそのロマン派運動の只中、一七七五年に、想像通り神秘主義者J・C・ラファーターが大著『観相学断片』を出し始めた時に生じた。都市人口の急増を背景に人々を髪の色や唇の形、歩き方から服装まで、外形[アパランス]すべての分析を介して、その人間の内面の一切(性格・気分)を推定するという徹底した類型学[タイポロジー]がフィジオノミーという不思議な「科学」である。活字印刷ともかかわらざるをえない「タイプ」(そしてむろん「ステロタイプ」)という観念も面白い。
 今なら“mind reader”というようないい方があるが、要するに「性格」という「文字」を人の外形中に「読む」のである。内と外の間にあるはずの照応ということを万事に追求した神秘主義なればこその発想で、神信心が科学されて理神論だの「自然神学」だのという段階に時代が推移していくにつれて、「科学」として自立し始めた。顔の科学、外形の科学である。ラファーター、ガル、シュプルツハイムと受け継がれていくうちに「顔面角」[フェイシャル・アングル]といって額と鼻頂を結ぶ線が耳眼面とつくる角度がこれなら「正しい顔」というような正邪、美醜をいう差別的イデオロギーと結びついていったり、応用篇として頭蓋骨の凸凹でその人の内面の状態をいい当てる骨相学[フレノロギー]などという怪体な「科学」さえ派生した。(略)
 不可視の性格、そしてその性格が導いてしまうだろう「運命」が、その人の顔や外形に文字[キャラクター]として表われている。それを「線」[ライン]として読めというのは、ラファーダー同時代に写楽や歌麿をはやらせた江戸「相見」にいう運命「線」という感覚と同じ。「ライン」は文章の「行」の謂でもあって、つまりそこからキャラクターを「読みと」らるべき一人の人間自体、「運命」を読みとられる予言テクストということになるわけで、十八世紀末の可視化の欲望というものの、洋の東西を問わぬ不可思議に改めて首をひねってしまう。
 文学とのかかわりでいえば、要するに十九世紀リアリズム小説そのものがバルザックからディケンズを経て、推理小説にいたるまで、相手の外見をこと細かに描写することで、その人物の内に隠された情報(性格・運命)を伝えるというやり方にどっぷりとはまってしまっている。>
 

【269】仮面考・第二回「顔=貌に面して」 (19)
 
■動物観相学─時間のあけぼのの時代に生じたこと
 
 バルトルシャイティス著作集1『アベラシオン』(種村季弘・巌谷國士訳,国書刊行会:1991)に収められた「動物観相学」から。
 
◎人間と動物、演繹と類推、古代の観相学者たち
<人間と動物との同一視には蒼古たる由来がある。すべての古代文明の寓話や神々はそこから成立してきたし、肉体的外見を手掛りにして生き物の道徳的性質を認識するシステムのなかでそれはある役割を果たしてきた。
 人間の肉体は、あらゆる時代に予言者や哲学者たちによってその隠された素質の徴[しるし]が探究されてきた。鼻、眼、額の形、身体各肢部や全身の形姿は、これを読み解くすべを心得ているものには、当の人物の性格や精神を打ち明けてくれるのである。肉体を観相学者の観ること、世界の秩序と運命がそこに書きこまれている天空を占星術師の観る如し、である。観相学者はこれに演繹の、あるいは類推の方法を用いる。
 偽のアリストテレス、ポレモンの書、アダマンティオス、偽のアプレイウスといった古代の観相学者たちは、すべて多少ともこれと同じ地盤に立脚して観相学の学説を定式化しつつ、右の二つの方法(演繹と類推)を用いることを勧めた。形姿にまつわる一切が表徴である。>(13頁)
 
◎ゲーテの骨相学─妄想的表象
 バルトルシャイティスによると、エッカーマンとの対話でゲーテは「ラファーターの『観相術』の動物の頭蓋骨に関する発言は、私の言ったことです」と述べている。
<これ[引用者註:スイスの神学者・詩人ラファーターがゲーテの影響を受けて『観相学断章』につけ加えた動物の頭蓋骨に関する断章]は妄想的表象である。この章の序論は、ミクロコスモスという昔ながらの表象をふたたびとり上げながら、人間を動物たちに対置させている。人間の頭蓋骨はアーチが礎石を土台にしているように脊柱の上に安らかにのせられ天上界を反映しており、これにひきかえ動物の場合は頭部は脊椎にただぶらさがっているだけで、その脳はたんに脊髄の末端にすぎず、容量の点では生命霊に必要ぎりぎりの量にかぎられている。しかもなお詩人は四足獣の骨格を擬人法的表徴に則って解読するのである。こうした見方はこれみよがしの効果の強調により、またその哲学的文学的側面を通じて、すでに近代ドイツの表現主義の萌芽を孕んでいる。>(60頁)
 
◎時間のあけぼのの時代に生じたこと
<古代思想は、中世とルネサンスを通じて持久し、十七世紀の瞑想によみがえったが、その多面的な星位[アスペクト]のなかで新たな生命を得る。人間についての科学のあたらしい観念が、ヴィジョンや感情に定義されたプリミティヴな考えの数かずをあらたに活気づけて普及させたというのは、奇妙な矛盾である。今日私たちの時代にいたるまで、私たちの動作や顔つきには原生動物が姿をあらわすのである。パリの週刊誌のためにこれらの類似性を捕捉し、同時代人の顔と対比してこれを際立たせたあの写真[引用者註:写真週刊誌『フランス−ディマンシュ』1950年4月号に掲載されたもので、有名人の顔を野性動物や家畜の顔と比較した組写真]は、そのかなり深長な意味には思いいたることなく自然発生的にそうしたのである。まさしくこういうことが始原に、時間のあけぼのの時代に生じた、とでもいうように。>(79頁)
 
 
■獣の幻惑的魅力で身を飾った人間
 
 ジョルジュ・バタイユ『ラスコーの壁画』(出口裕弘訳,二見書房)から。
 
<動物を前にして人間を消去すること──しかもまさに人間的なものとなりつつある人間を消去すること──この作業が、私たちの想像の及ぶかぎりもっとも完全なものだったという事実に、私たちはいつまでも驚嘆しつづけるのだ。象られた動物が獲物であり食料であったということも、この謙虚さの持つ意味を変えはしない。馴鹿時代の人間は、幻惑的でもあれば同時に忠実とも見える動物の似姿を遺したが、自分の姿を描きとどめるというかぎりでは、肉体的特徴をすべて動物の仮面の下に隠したのである。名匠の域に達するほどのデッサン力を持っていた彼らは、自分の顔を侮蔑していたのだ。人間の形態を許容することがあったとしても、同時にそれを隠そうとした。つまりそういうときは動物の顔を被ることにしたのである。まるで自分の顔を恥じているかのように、みずから姿を現わしたいときは、同時に別の生きものの仮面をつけるのを義務とした。
「獣の幻惑的魅力で身を飾った人間」という逆説は、つねづね、十分に強調されたためしがない。動物から人間への移行は、先ずもって、人間が動物性に対してなした否認であった。今日私たちは、動物から人間を分つ差異に、さながらそこに本質的なものがあるかのようにして執着する。私たちに残存する動物性を思い起させるようなものは、すべて嫌悪の対象である。禁止の運動に似た動きを引き起す。だが、事実として馴鹿時代の人間たちは、現在私たちが動物に対して抱く羞恥の念を、自分自身に対して抱いていたかのようであった。彼らは別の生きものの顔を自分に被らせながら、裸体で姿を見せ、私たちなら細心に隠そうとするものを露出していた。画像制作の聖なる瞬間には、人間的な態度(俗の時間の、労働の時間の態度)と考えられるべきものから、彼らは顔をそむけたように思われる。>(153-4頁)
 

【270】仮面考・第二回「顔=貌に面して」 (20)
 
■洞窟と穴、蔵と存思─中国人の身体観
 
 ようやく「佳境」に入ってきたところではありますが、このあたりで一応の区切りをつけて、仮面考・第二回を終えます。今回もまたやり残したことが多すぎて、それらを列挙しはじめると収拾がつかなくなりそうなので、ここでは(次回への橋渡しあるいはその先取りとして)三浦國雄氏のテキスト──『中国人のトポス 洞窟・風水・壺中天』(平凡社:1988)と「心は神明の主―古代中国人の臓器観─」(「季刊誌CEL」vol 44 所収[http://www.osakagas.co.jp/Cel/Html/kikans.htm
])──から引用しておくことにします。
 
《中国人のトポス》
 
◎「虚中に実あり、実中に虚あり」
<洞天とは、山中に穿たれた一個の小天(小宇宙)であり、洞窟のごとく外界のごとく、内部世界がいつの間にか外部世界に反転している、クラインの壺のような不思議な空間であった。かかる幻想のユートピアは、いったいいかにして生み出されたのであるか。それは端的に言って、身体を宇宙へと開いたあの想像力と同じ力の所産であったにちがいない。(我々はさきに、宇宙と洞窟と身体との密接な連関についていささか考察を加えておいた。宇宙と身体には洞窟イメージが貫通していたが、一歩を進めて、三者はイメージとして互いに変換しうるものと観念されていたとしてよかろう。身体の側から言えば、洞窟もまた一個の擬似身体として表象されることがあったはずである。自己の内部世界を反転させた洞窟内の修行者は、その同じ存思のはたらきによって、擬似身体としての洞窟もまた外へと開いたのであった。かくして道士の瞑想の裡において、宇宙−山(洞窟)−身体という三つの場の境界が消滅し、ここに洞天の世界が現出したのである。
 このような想像力は、より一般化して言えば、道教に特徴的な小宇宙に大宇宙を見る精神、閉じられた小さな空無の中に宇宙を容れるかの壺中天の精神、あるいは、「大中に小を見、小中に大を見、虚中に実あり、実中に虚あり」(『浮生六記』)とする精神──と通じるであろう。>(96-7頁)
 
◎「三年龍を尋ね、十年、穴を点ず」
<ところで、生気[引用者註:風水思想でいう「霊なる地気」のこと]は龍脈のなかを均質に流れているわけではなく、場所によっては濃密な生気がわだかまっているところがある。その地点を「(龍)穴」という。経路における気穴(つぼ)と照応するのはいうまでもない。風水の眼目は、実にこの龍穴を見つけるところに存在する。しかしその困難さは、「三年龍を尋ね、十年、穴を点ず」という諺に表現されている。>(174-5頁)
 
◎<形而上のもの、これを道といい、形而下なるもの、これを器という。>(243頁,『程子遺書』第十一)
 
《心は神明の主―古代中国人の臓器観―》
 
 
<「心なる者は形の君なり、而して神明の主なり」というのは、その後の〈心〉観念を大きく規定し、中国人の〈心〉観を論じる場合には必ず引かれる断章で、心は肉体を支配する君主であり、叡知の主体だというのが大体の意味である。(略)
 『荀子』ではこの句の前に、人間が〈道〉(偉大なる真実)というものを認識しうる根拠として心の〈虚〉〈一〉〈静〉という能力が挙げられている。心はいつも記憶として様々な事柄を貯えているが、もうこれで満杯だとして新しい情報が入って来るのを拒んだりはしない。それは心が〈虚〉という属性を備えているからである。また、心は同時に多くの事柄を認識しうるが、そこにある種の統一ないし秩序が保たれ、無数の知識同士がたがいに衝突して混乱状態に陥らないのは、心に〈一〉という能力があるからである。さらにまた、心は夢を見たり計画を練ったりして絶えず活動しているが、だからといって〈静〉なる状態に戻れないということはない。かくして人間はこの〈虚〉〈一〉〈静〉という心のはたらきによって〈道〉をわがものにしうるのだと荀子は云い、そのあとに例の「心は形の君なり……」の一句が続くのである。>
 
 三浦氏は続けて、<中国では十九世紀に至るまで認識や感情といった精神作用は脳ではなく心臓のはたらきに帰せられていたという事実>にふれたあとで、荀子と同時代にその原型が成立したと伝えられる医学書『黄帝内経』を取り上げている。
 
<その『黄帝内経』に、心臓のみならず五臓の他の臓器も精神作用を分担するという記述が見えるのである。精神作用は脳に、それ以外の生命維持のはたらきは五臓に帰属させる私たちの通念からすれば、きわめて奇異な思想と云わざるをえない。役割の配当はテキストによって若干異同があり、今は『黄帝内経素問』(以下『素問』と略称)宣明五気篇の一文を引いてみる
 
心臓は神を内蔵し、肺臓は魄を内蔵し、肝臓は魂を内蔵し、脾臓は意を内蔵し、腎臓は志を内蔵している。
 
 右の記述から、五臓が〈臓〉と命名されたのはそれらが各々〈神〉〈魄〉等をその内部に蔵(=臓)しているからだと理解できる。心臓が内蔵するとされる〈神〉は、さきの『荀子』の「神明の主」の〈神〉と響き合っており、ここでもカミではなく、知性や理性のような神妙な精神作用を指している。〈神〉はまた一方で、「心傷るれば神去る、神去れば死す」(『霊枢』邪客篇)とも云われているから、生体には欠くべからざる根源的な生命元素のような性質も担っている。〈魄〉や〈魂〉は二字合わせると〈魂魄〉となるが、ここではいわゆるタマシイというより、中国医学や心理学では人間の生命活動を支えるある種のパワーと考えられていた。後世のより整備された魂魄観によれば、〈魂〉は呼吸作用・思慮・計画を司どり、〈魄〉は視聴覚作用・記憶・弁別などを担当する。〈意〉は意識、心の動きが顕在化したもの。〈志〉は意志、志向。〈意〉が一定の方向性を持つに至った時の呼称。この中で〈神〉が最も地位が高く、〈神〉を蔵する心臓が五臓をコントロールするだけでなく、身体全体を統括する。「心は君主の宮、神明出ず」(『素問』霊蘭秘典論篇)という云い方は驚くほど前引『荀子』の句に似ている。
 いずれにせよ、精神作用は首から下の臓器に割り振られ、脳の影ははなはだ薄い。あらゆる機器が集中している航空機のコックピットのように、目・鼻・口・耳という人間の感覚器官が集まっている頭部の重要性に古人はなぜ気づかなかったのだろうか。この点についても、私たちは肩すかしを食わされてしまう。医学書のみならず古代の諸子百家の文献では、そうした感覚器官(排泄器官もまた)は五臓の竅、つまり内臓が体表部に設置した窓のごときものとされ、大脳は素通りしてここでも主役は首から下の臓器である。たとえば『素問』金匱真言論篇では、「肝は竅を両目に開く」という云い方で、肝=目、心=耳、脾=口、肺=鼻、腎=二陰(肛門、尿口)という対応関係が示されている。このシステムに従えば、たとえば目が悪いのは肝臓の何らかの障害に起因するということになる。>
 
 それでは、古代の中国で脳はどのように考えられていたのか。
 
<ところで、『素問』五臓別論篇では、エネルギーを放出するだけで貯蔵せず、五臓の濁った気を受け入れる六腑を「伝化の府」と呼び、これらと脳・髄・骨・脈・胆・女子の胞(子宮)の六つの器官を陰の気を貯蔵するものとして対照させ、「奇恒の府」と命名している。この記述だけを見ると、脳などは六腑と対等の位置を与えられているような印象を受けるけれども、「奇恒の府」というようなネーミングからも察せられるように、いわゆる臓腑経絡システムからやや離れたところに位置づけられていたと云わざるをえない。
 古代には脳を〈臓〉の中に組み込む一派も存在したらしいが(『素問』五蔵別論篇)、この説はたちまち葬り去られ〈臓〉のカテゴリーから除外されて、脳は結局エネルギーの貯蔵庫のごとき役割を付与された。人間の体には天地の四つの海と対応して「髄の海」「血の海」「気の海」「水穀の海」があるとされるが、このうち「脳は髄の海」であり、この「髄の海」が「髄」によって十二分に満たされていると体も軽く力も湧いてくるが、不足すると耳鳴りがし目もよく見えなくなり、だるくなって寝るほかはなくなるという(『霊枢』海論篇)。「髄」は『霊枢』経脈篇に、「人が生を受けるとまず精が形成され、精から脳髄が生成される」とあるように、脳に貯えられる一種のエネルギーであろう。>
 
 以下、三浦氏は道教へと話題を転じる。
 
<さて、道教には自己の体内に神の存在を想定する考え方がある。神は外在すると同時に内在する。この発想は前述の内経医学[引用者註:『黄帝内経』に依拠する医学ないし医療]における五臓神を神格化したものと考えられるが、しかし道教の体内神は五臓のみならず体内のあらゆる部位に遍在している。前述したように内経医学では神が体から去ると人は死ぬとされたが、同様に道教でも神々が体内に留まって下さってこそ不老長生が保証されるという。神々と交感し体内に引き留めるテクニックを〈存思〉と呼ぶ。神々の姿や衣裳・それに住居などを鮮明にイメージするのである。この存思法は、はじめから存在が前提されているものを呼び起こすというより、イメージすることによって存在を生み出す技法だと私は考えている。(略)
 『黄庭経』では五臓六腑を中心に、宮殿に見立てられた各臓器の形や構造、そこに棲まう神々の名や姿といった、イメージされた体内風景が蜿々と韻文で語られる。まだ解読が充分に果たされていない難解な経典であるが、たとえば『黄庭内景経』心神章に登場する体内神は次のように記述されている。ここでは神々のディティールは描かれておらず、ただ名と字(別名)が記されているだけであるが、その名字がまさしく「名は体を表わす」であって、この場合はイメージというより神々の名号の読誦が神々の現前と加護をもたらすと考えられていたのであろう。
 
心神〔の名〕は丹元 字は守霊、肺神は皓華 字は虚成、肝神は龍煙 字は含明、腎神は玄冥 字は育嬰、脾神は常在 字は魂停、胆神は龍曜 字は威明。
 
 ところで、内経医学に慣れ親しんだ人がこの『黄庭経』を読んだなら、そこに五臓六腑の神々のほかに頭部の神々がにぎにぎしく勢揃いしているのを見て驚くにちがいない。心神章より一つ前の至道章に、次のように列挙されているのである。
 
泥丸の百節みな神あり、髪神〔の名〕は蒼華 字は太元、脳神は精根 字は泥丸、眼神は明上 字は英玄、鼻神は玉壟 字は霊堅、耳神は空閑 字は幽田、舌神は通命 字は正倫、歯神は鋒 字は羅千、一面の神は泥丸を宗とし、泥丸の九真(九人の真人)みな房あり。
 
 右のようにこの道教経典では、目や鼻や耳は五臓とつながっているのではなく、「一面の神は泥丸(脳神)を宗とす(宗主として仰ぐ)」と云われている通り、脳神の支配下に入っていて頭部の中で自立し自足している。体内神という観点から云えば、頭部は五臓と同等かそれ以上の地位を与えられているのである。
 なお、右に云う「泥丸」は脳内を意味する道教独得のタームであって、これが仏教語のニルヴァーナ(涅槃=解脱)に由来することを指摘したのはフランス中国学の泰斗、アンリ・マスペロ(一八八三−一九四五)であったと世上云われているが、実はわが幸田露伴もそのことに気づいていた(「仙書参同契」一九四一年)。露伴がマスペロの論文を通して知った可能性もないではないが、それにしても中国学者としての露伴翁の学識はもっと顕彰されるべきである。ともあれ、ニルヴァーナなる語を頭部に当てたこと自体にも、道教徒の頭部重視がよく示されている。(略)
 なお、道教には生命中枢を体の三つの部分に設定する(換言すれば人体を三分割する)独得の身体観があったことを付け加えておきたい。ふつう丹田(生命中枢)というと臍下三寸の部位を指すが、元来は上・中・下の三つのポイントがあった。中丹田は両乳の間、下丹田はいま述べたように下腹部、そして上丹田はいわゆる泥丸、つまり頭部に想定されていたのである。
 このように見てくると、道教徒の頭部重視はいよいよ揺るがないが、しかし右に挙げた諸例は、彼らが頭部に精神作用の座を置いていたことの証拠にはならない。道教徒は、当時広く信じられていた心臓の役割をそっくり頭脳に転位させたわけではないのである。彼らが頭部に多大な関心を寄せたのは、そこが天に最も近く、神々と交感し、神々が降り立つ場所として最もふさわしいと考えたからであろう。すでに道教成立以前から、次のような説も一部で唱えられていた。「頭は神の居場所であり、その丸い形は天に象る。また気の倉庫である」(『春秋緯元命苞』)。>