オースター通信



【241】オースター通信(第一便)
 
 やあ。ずいぶん長く会っていないけれど、元気だったかい。
 ところでポール・オースターは読んだことがあるだろうか。いつも僕よりずっと早くたくさんの小説を読んでいた君のことだから、訊ねるまでもないだろうな。まあ話の切り出しにちょっと修辞的疑問を使ってみたまでのことで、このところすっかりはまってしまったあげく、オースターを肴にあれこれ書き散らしては無沙汰の果ての唐突な便りのばつの悪さをごまかそうという算段。(あいかわらずだと君は思っているに違いない。)
 僕が勝手に考えたり思ったり感じたことを好きなだけ書いて送るから、もし気に入ったら──気に入らなくても──何か言葉を返してくれ。(返事がなくても僕はもちろんいっこう気にしない。)
 
 出会いはまったくの偶然だった。ほんとうに何もすることがなくて、込み入った本は読みとおす体力も気力もなくて、映画も音楽も無聊を慰めてくれそうになくて、どうしようもなくブルーだったとき、近所の小さな書店でタイトルと装丁に惹かれて買い求めた文庫本が『孤独の発明』。
 第一部を読み進めていたときは何度か投げ出したくなったのに、第二部「記憶の書」に入ると俄然面白くなって、読み終えた頃にはすっかりオースター菌に取りつかれていたわけだ。以来、翻訳書を次々に読んでいって『ムーンパレス』でとうとう打ちのめされてしまった。
 詩人で物語作家で映画監督でCMタレントで──と書いたのは、最近iMacのテレビCMに出演している男性がてっきりオースターだと勝手に思い込んでしまったから──「カルト的」な人気を誇る現代アメリカ文学の騎手。そんなキャッチフレーズが似合ってしまうところも気に入っている点の一つだ。
 
 僕がオースターの虜になった理由の多くは、柴田元幸さんの翻訳にあるのではないかと思っている。昔、澁澤龍彦が「あなたの翻訳はなぜそんなに素晴しいのか」と訊ねられて「それは私の書く日本語が素晴しいからだ」と答えたという話を読んだ記憶があるけれど、まったくその通りだと思う。僕が読みたいのは小説の「内容」ではなくて「日本語」なのだから、たとえばマンディアルグなどは澁澤訳でこそ読む価値があるというものだ。
(ずいぶん前のこと、現代文学フリークの君に刺激を受けて、二十世紀に書かれた小説を手当りしだいに百冊読んで感想文を書くといった作業を密かに進めていたことがある。完成したら君にたたきつけ、いや見てもらおうと考えていたのだけれど、予定していた半分の一年をかけてようやく十冊目まで仕上げたところで中断したままになっている。
 そのとき書き残しておいたものの中に翻訳について触れた文章があった。短いものだから末尾に添付しておく。もともと君に見せるつもりで書いたものだから、七年目にしてようやく所期の目的を果たすことになるわけだ。)
 
 これからしばらく君に送る便りは「ニューヨーク三部作」をめぐるものになるだろう。『孤独の発明』(1982)と『ムーンパレス』(1989)の間に書かれた「探偵小説」群で、実をいうと僕はいま名前をあげた二作ほどには陶酔できなかったのだけれど、その分たとえば批評心とでもいえる(遊び心といってもいい)ものをくすぐる絶妙な趣向が凝らされた作品だと思う。
 最後にいま一度くりかえしておく。これはオースターを肴にした旧情交歓のための試みなのだから、僕が書こうとしているのはまっとうな批評文やましてオースター論などではない。あくまで君に──どこで何をして暮らしているかわからない行方不明の君だけに──送る僕からのメッセージだ。
 
 
★ヘンリー・ミラー『暗い春』(吉田健一訳)
 
 大学生の頃『クリシーの静かな日々』を観た。『北回帰線』には挫折したけれど、映画には不思議な気分(濃密と浮遊感の混在というおうか)が漂っていて、印象深かった。ミラーの文章からどうしてあんな世界が開かれるのか、その時はよく判らなかった。短編集『暗い春』を読み終えて、なんとなく合点がいった。
 ミラーの文章はことごとくモノローグで、それも自動記述風の溢れるばかりの言葉の洪水なのだが、独白の主体である〈私〉へのこだわりが驚くほど希薄なのだ。〈私〉の内面心理や感情の動きなど歯牙にもかけず、ひたすら言葉で具体的な他者や事物を、つまりは都市の記憶そのものを再現し、更新する。言葉の奔流が終わった時、読後、躍動した精神のしばしの休息の時、意味や目的や観念ではなく不思議な静寂の気分が漂い、それがまるごとヘンリー・ミラーという異質な〈私〉にまつわる不安や喜悦や諦念の確かな実在を告知している。
 極彩色の猥雑なまでに豊穰な夢から醒めた時の、細部を言葉に置き換えようとするやたちまち瓦礫の山と化してしまう危うい全体感の記憶(それは幼少期の記憶に似ている)の表現。ミラーが達成した文章上の離れ業は、このことに尽きる。
 最後に一言。しばし陶然となった読書体験を支えたのは、もしかすると訳者の和文の力によるものではないか。そう言えば、以前マードックの『鐘』(丸谷才一訳)を読んだ時にも、同じことを感じた。
 

【242】オースター通信(第二便の1)
 
 『ガラスの街』は三つの層からできている。物語の枠と壁と襞。──ほんとうはこれに第四の層を加えることができると思う。作者と読者がいる場所、つまり君と僕がいる場所のことだ。
(これら四つの層は、カバラ学者のテクスト読解にならって、それぞれが「リテラルな意味」「寓意的・哲学的意味」「解釈学的意味」「神秘的意味」のいずれかを担っているといってもいいだろう。)
 
 第一の層、物語の枠。探偵小説作家ダニエル・クィンが残した「赤いノート」をもとに、物語の本体にも登場する作家ポール・オースターの友人である「わたし」が、判読しがたいときはさまざまな読解を繰り返して、正確に再現した物語が『ガラスの街』だ。
 冒頭に出てくる思わせぶりな言葉──問題は物語自体であって、それが何かを意味しているか否かは、物語の知ったことではない──など、あきらかに「わたし」の書き込みと思われる表現が本体=壁に挿入されていて、それが物語の骨格、文法のようなものをかたちづくっている。
 ここにも三つ、あるいは四つの層が出てくる。──物語の叙述者である「わたし」/物語の枠と本体=壁に顔を出す作家(あるいは実在しない私立探偵)ポール・オースター/物語本体の主人公ダニエル・クィン/そして『ガラスの街』の(本当の?)作者ポール・オースター。
 
 第二の層、物語の壁(本体あるいは舞台)。それは間違い電話で始まった。──『ガラスの街』の書き出しのフレーズだ。私立探偵マックス・ワークが主人公として活躍する探偵小説の作者ウィリアム・ウィルソンことダニエル・クィンの部屋にかかってきたのは、ピーター・スティルマンから私立探偵ポール・オースター(おそらくは実在しない人物。少なくともイエロー・ページには載っていない)あての依頼の電話だった。
 ここにもまた三つ、あるいは四つの層が出てくる。──作家ダニエル・クィン/その筆名ウィリアム・ウィルソン/私立探偵マックス・ワーク/そしてこれら三人に分かれる以前のかつてのダニエル・クィン。(<かつてのクィンから分かれた三人のうち、ウィルソンは腹話術士の、クィンは自身の人形[ダミー]の、ワークは人形の演技に生気を与える声の役割を果たした。>)
 クィンによると、ウィルソンは創造された人物で、クィンとワークを結ぶ橋である。またクィンは「ペンネームという仮面」の背後から姿を現わさないための代理人[エージェント]をもっている。
 
 第一場。オースターになりすましたクィンが依頼者のアパートを訪問すると、ピーターの妻ヴァージニア・スティルマン(三十か三十五ぐらいの、官能的な腰と黒い髪・目をもち、黒服に身をつつみ真っ赤な口紅をつけた女。ピーターの元スピーチ・セラピスト)が出てくる。
 マリオネットが操り糸なしで歩こうとしているようなピーターの奇妙な動作と演説(ぼくの名前はピーター・スティルマンです、本名ではありません、ピーターは頭の中に神の言葉をしまっています……)。
 ヴァージニアによると、ピーターは父親のピーター・スティルマン(息子と同名!)による「自然言語」の実験に供され、二歳のときから九年間、窓のない部屋に閉じこめられて育った。それから十三年、精神異常と判定され病院に送り込まれた父親が明日釈放されると知って、ピーターは父親に殺されるのではないかと怯えている。スティルマンは明日の朝六時四十一分に到着する列車でニューヨークにやってくる。(ヴァージニアはどういう手段を使ってこのことを知ったのだろう。)彼を見張って何をするつもりか調べてほしい。
 私立探偵ポール・オースターことダニエル・クィンがこの依頼を引き受けて(その理由の一つは、クィンの死んだ息子の名がピーターだったこと?)、物語の第一場は終わる。去り際にヴァージニア・スティルマンは突然クィンを抱いて唇を合わせ、舌を奥まで入れる激しいキスをする。
(他人の名という仮面をかぶったクィンとヴァージニアとの唐突なキス。仮面の割れ目、つまり真っ赤な口紅に彩られた口から出てきた舌。──後にクィンは夜ごと電話でヴァージニアに調査結果を報告することになる。いつかはきっとスティルマン夫人を腕の中に抱けるだろうとクィンは思っている。<しかし、彼の依頼人は急に仕事[ビジネス]という仮面の奥に引っこんでしまい、あの激情の一瞬についてはひとことも言わなかった。>)
 
 第二場。グランド・セントラル駅でのスティルマンとの出会いと尾行。スティルマンの奇妙な散歩(その軌跡を「赤いノート」にプロットしてみると、それは文字になる。さらに一日一文字のアルファベットをつなぐと、それは THE TOWER OF BABEL になった!)。スティルマンとの三度にわたる会話。そして、スティルマンの失踪。
 ここで気になる場面が出てくる。いよいよスティルマンの尾行を開始しようとしたとき、そのすぐ後ろにいた男の顔がスティルマンと瓜ふたつだったのだ。(<一瞬、クィンは幻影を、スティルマンの体内で起きた電磁気的な現象によるオーラのようなものを見たと思った。>)二人のスティルマンが右と左に分かれたとき、クィンはアメーバーのように体を分裂させて同時に二人を追いかけたいと思う。しかし結局、第一のスティルマンを尾行することにした。(物語の分岐点。物語の「可能」世界と「実在」世界との裂け目=橋。)
 
 第三場。失踪したスティルマンの手がかりを得るため、クィンは(ホワイト・ページに名前が出ていた)本物のオースターを訪ねる。オースターとの会話。その息子(クィンと同名のダニエル!)と妻(その名はシリ)との出会い。何度かけても話中の電話。ヴァージニアとの連絡はとれない。「スティルマン事件」の唐突な結末とスティルマン夫婦の失踪。そしてクィンはしだいに正気を失い、やがて消失してしまう。「赤いノート」を残して。
 機械的な声がその番号を告げ、その番号は現在使われていないと言った。──物語の終末、クィンがヴァージニア・スティルマンにかけた電話の回答だ。この物語はまちがい電話で始まり、電話の死(不通)とともに終わる。
(『ガラスの街』は電磁気的空間の物語なのかもしれない。電話の混線と死とともに、あのスティルマンの分岐=分身をもたらした「電磁気的現象」のことを僕は考えている。そうすると、クィンの消失とは電子的消去、つまりディスプレイ上の出来事だったのかもしれない。──<ニューヨークは果てしのない空間、出口のない迷路だった。><どこにも存在しないこと。ニューヨークは、彼[クィンのこと]が作り上げたその非在の場所だった。>)
 

【243】オースター通信(第二便の2)
 
 エドガー賞にもノミネートされた「ミステリー」小説の粗筋を紹介するわけだから、最低限のエチケットとして、トリックは伏せておいた。(それにしてもいったいどこにミステリーとしての仕掛けや趣向が潜めてあったのか、僕にはかいもく見当がつかない。)
 それと、第二場と第三場はほとんど物語の本体(本筋・本流)とは関係のないエピソード──物語の第三の層、つまり余剰=襞──でうずめられていた。(もちろん、物語の別の層でそれらは本体と密接不可分な関係をとり結んでいるのだけれど。)
 この作品のおもしろさは、ストーリーや狂気へいたるクィンの孤独などではなく、物語の中の物語(あるいはメタ物語)とでもいうべきその余剰にあるのだと思う。少なくとも僕にとってはそうだった。
 
 第三の層、物語の襞(余剰あるいは面紗=幕)。「スティルマン事件」をめぐる物語の本体(そこでは何も事件は起きず、謎は謎のままで消失してしまった。あるいはそれはクィンが名前と顔を、つまりは存在を喪失する物語だったのかもしれない)の中に埋め込まれたいくつかのエピソード。ここでは、五つの余剰=襞を(なるべく解釈抜きで)取り上げることにしよう。
 それらはいずれも「言葉と名前」(あるいは「顔と名前」?)をめぐる物語群だと思う。カバラのテキスト読解の三つの技術──折り句(メタリコン)、数秘術(ゲマトリア)、文字の置き換え(アナグラム)──がそこで駆使されているのかどうか、僕にはわからない。
 
 第一の襞、探偵について。クィンは、探偵とは対象や事件の沼沢地を見、訊き、動き回りながら、すべてを整理しその意味を明らかにする思考とアイデアの人だと考えている。
 また──たぶん「クィン(ダミー人形)/ウィルソン(腹話術士)/ワーク(声)」の三区分に関連させて──私立探偵[プライヴェート・アイ]という言葉は、調査員[インヴェスティゲーター]の“i”、大文字の“I”(肉体に埋め込まれた小さな命の芽)、作家の肉体の目[アイ](眼前に世界を顕現させる人間の目)の三つの意味を帯びていると述べている。
 いま一つ、「赤いノート」の中で、ポーの作品に出てくるデュパンの言葉(探偵の知恵と犯人の知恵の同一化)を引用している。
(要するに、探偵が調査するのは「意味」ではなくて「つながり」だということなのだろう。ガス灯の時代ではなく電子時代に生きる探偵の仕事は。──関係がないかもしれないけれど、ボルヘスは『ドン・キホーテ』は探偵小説だと書いていた。)
 
 第二の襞、自然言語について。スティルマンの「実験」に似たケースとして、クィンは、ヘロドトスが『歴史』(2・2)に記したエジプト王プサムティクの話、パルマのサリンベネ『年代記』(1664番)に出てくる神聖ローマ帝国フリードリッヒ二世の話などにふれている。
(これらの事例はエーコの本のエピグラムにも使われていた。有名な話なのだろう。──ついでに書いておくと、エーコはランボーの手紙も引用している。<言葉はすべて観念なんだから、やがて普遍言語の時代が到来するだろう。この言語は魂から魂にむけて語られるような言語だろう。>)
 ここでおもしろかったのは、カスパー・ハウザーの話だ。<記録によれば、特に名前と顔に対して抜群の記憶力を示した。>
 
 第三の襞、スティルマンの著書『楽園と塔、新世界の未来図』。これは「楽園の神秘」と「バベルの神秘」の二部構成になっている。(そのどこまでが作者オースターの創作なのか、僕にはよくわからない。)
 第一部でスティルマンが主張しているのは、アメリカの最初の訪問者は楽園(エデンの園)を発見したと思い込んでいたというもので、第二部のそれは、『創世記』に出てくるバベルの塔の物語は楽園で起きたことの再現であるというものだ。
 楽園で起きたことというのは、言葉の堕落、つまり名前を与えることがそのものの本質を顕現させ生命をもたらすことであったアダムの言葉──そこでは物とその名前が交換可能であった──が失われたことをいう。(スティルマンの研究によれば、ミルトンの『失楽園』に出てくるキーワードは堕落前と堕落後の二つの意味をもっている。「裂く」[クリーヴ]が「一つになる」と「分かれる」の二面性をもっているように。)
 さて、このふたつのこと(新大陸と堕落)を媒介するのが、ヘンリー・ダークというミルトンの秘書をつとめた人物で、彼はアメリカに渡りそこで『新バベルの塔』を出した。ダークはバベルの塔の物語を一つの予言書として読んだ。そしてバベルの塔が大洪水の三百四十年後に建てられたように、メイフラワー号のプリマス到着から三百四十年後(西暦1960年)に神託が実現され、新しいバベルの塔が着工されると書いたのだ。人は生まれ変わり、神の言葉(汚れなき原初の言葉)を話し、第二の永遠の楽園で暮らすことになるだろう。(1969年に起きたこと。人間が初めて月面を歩いた!)
 

【244】オースター通信(第二便の3)
 
 第四の襞、スティルマンとクィンの三つの会話。
 第一の会話は、クィン[QUINN]の名をめぐるもの。<クィンか。実にいい響きだ。双子[トゥイン]と同じ韻だね?…それから罪[シン]もそうだ。…それから中[イン]…と宿屋[イン]…フーム。実におもしろい。このクィンという語にはいろんな可能性がある。[以下、十六の同韻の語の列記]…あんたの名前はすこぶる気に入ったよ、クィン君。いろんな方面に散らばっているな…たいていの人間は、そんなことは気にとめないものだ。言葉をまるで石みたいに、命のないもののように、決して変化しない元素のようなものだと思っている>。(ここに出てくる「石」に注目。)
 第二の会話で、クィンは「ヘンリー・ダーク」と名乗る。スティルマンが創作したつくりごとの名前ヘンリー・ダークのイニシャルH・Dに隠された意味が明かされる。すなわちハンプティ・ダンプティ。塀の上の卵。<人間というものの最も純粋な姿だ。よく聞きなさい。卵とは何か? まだ生まれざるものだ。これはパラドックスかね?>(ちなみに、ダニエル・クィンのイニシャルはドン・キホーテと同じだ。)
 第三の会話では、クィンは「ピーター・スティルマン」と名乗る。<それはわしの名前じゃよ。…ああ、それじゃ、わしの息子だな。そう、それならわかる。息子にそっくりだ。もちろん、ピーターはブロンドで、あんたは黒い[ダーク]。ヘンリー・ダークのことじゃなくて、髪がダークだということだ。しかし、人間は変わるものだろう?>
 
 第五の襞、オースターとクィンの会話、あるいは『ドン・キホーテ』論。
 オースターは、セルバンテスが書いた本の中に出てくる本、つまりセルバンテスが想像のなかでデッチ上げた「架空の本」のことについて語る。その本(『ドン・キホーテ』)はシーデ・ハメーテ・ベネンヘーリがアラビア語で書いたもので、セルバンテスがトレドの市場でその原本を発見しスペイン語に翻訳させた(とセルバンテスはいっている)。
 オースターは執筆中のエッセイ(『ドン・キホーテ』論)で、ベネンヘーリは四人の異なった人物から成り立っているという説を立てる。ドン・キホーテの狂気の目撃者サンチョ・パンサと、彼の語る物語を口述筆記した人物と、それをアラビア語に翻訳した人物と、そしてそれを再びスペイン語に訳して出版したセルバンテス。
 このような「四分割」を行った人物は、実は狂人ではなかったドン・キホーテその人だというのがオースターの結論だ。<わたしの考えでは、ドン・キホーテはある実験をやっています。…世界を相手に、絶対の確信をもって、嘘やノンセンスを貫き通すことができるか? 風車は騎士であり、床屋の金盥は兜であり、あやつり人形は本ものの人間だと言ったら?>
 ここでもまた例の三層あるいは四層が(二重化された入れ子構造をもって)響いている。ついでにいうと、「あやつり人形」という語は「マリオネット」の動きを示したピーターや「ダミー人形」としてのクィンと共鳴している。
(『ドン・キホーテ』前編で架空の作者を創作したセルバンテスは、その実生活で「偽作者」と対決せざるをえなかった。後編執筆中に偽の後編が出回ったのだ。しかしセルバンテスはこのことを逆手にとり、本物の後編の中で、本物のドン・キホーテに偽物のドン・キホーテを打ち破らせている。──ナボコフは、この偽の後編の作者がセルバンテス自身であってほしかったといっている。いかにもナボコフらしい発想だし、オースターに似つかわしい趣向だと僕は思う。)
 
 このほかにも襞はまだまだたくさん見つけることができるだろう。──たとえば色彩をめぐる物語(かつてクィンが出版した青い表紙の『未完の仕事』と「赤いノート」、ピーターの白服とヴァージニアの黒服など)、あるいは物事のあるがままの状態・〈在ること〉の状態を示す〈it〉と「運命」をめぐるクィンの思索、そして「赤いノート」に綴られた言葉(音楽に浸りきること。その反復演奏の輪の中に引き込まれること。そこはおそらく存在が消滅する場所なのだ)との関係、等々。
 もしかすると僕が「壁」のうちに分類したもの、それどころか「枠」でさえもが「襞」の一種なのかもしれない。折り重なり相互に「つながり」あった襞の渦巻によって物語られたものこそが『ガラスの街』という小説だったのかもしれない。(こうして読者もまた、クィンのように、分裂していくわけだ。)
 
 さて、物語の第四の層。これをなんと名づければいいのだろう。たとえていえば、穴だろうか。無数の襞によって壁に穿たれた穴。枠の外が透けて見える穴。読者が作品の内部に侵入する穴。作中人物が枠の外へとはみだしていく穴。
 最初にいったように、そこは僕と君がいる場所でもある。『ガラスの街』をばらばらに分断し、いくつかの「素材」を抜き出して、それでいったい僕は何をしたかったのだろうか。どのようなメッセージを君に送るつもりだったか。
 
 
《引用・参考図書》
◯ポール・オースター『シティ・オブ・グラス』(山本楡美子他訳,角川文庫:原著1985)
◯ホルヘ・ルイス・ボルヘス『ボルヘス、オラル』(木村榮一訳,水声社:原著1979)
◯ウンベルト・エーコ『完全言語の探究』(上村忠男他訳,平凡社:原著1993)
◯ウラジミール・ナボコフ『ナボコフのドン・キホーテ講義』(行方昭夫他訳,晶文社:原著1983)
 

【245】オースター通信(第三便の1)
 
 ヴァン・ゴッホはテオドル宛の手紙で自らを「偶然の色彩家」と呼んだ。──僕がここで念頭においているのはもちろん『偶然の音楽』なのだけれど、その「訳者あとがき」で柴田元幸さんはオースターと「石」の関係について次のように書いている。
 
 詩集『消失』に収められた(1970年代の)詩に頻出する、言葉を厳として拒絶する「厳しい石」から、オースター自ら監督・脚本をてがけた『ルル・オン・ザ・ブリッジ』(1998年)の、言葉を超えた次元へと人を導く「生命の石」(暗闇の中で妖しい青い光を発する石)への変容。
 これらとは違った意味を担うのが、『偶然の音楽』(1990年)で富豪とのポーカー・ゲームに敗れた二人の男──主人公ジム・ナッシュとその「スプートニク」(旅の連れ)ジャック・ポッツィ──が奴隷のような境遇下でアイルランドから運ばれた一万個の石を積み上げて城壁を再現する場面に出てくる石たちで、それは幽閉のメタファーのようでもあれば過去の償いと救済をもたらすもののようでもある。
 
 以上が柴田さんの説。──僕は『言葉と物』というときの「物」にあてはめてオースターの「石」を考えることができると思うし、ヴァルター・ベンヤミンが「歴史のモナド的構造」というときの「モナド」に関係づけることもできると思う。(ついでに書いておくと、近代カバラの創始者の一人イサーク・ルリアの「器の破壊」の理論をもちだすこともできるだろう。)
 でもこの問題にはこれ以上立ち入らない。というのも、僕がここで伏線をはっておきたいと考えたのは、石(固体=弾性体)との関係で「ガラス」(液体=粘性体)を考えることだったのだから。(なんのための伏線か。いうまでもなく『ガラスの街』と『幽霊たち』を結ぶための。)
 
 昔、共通の友人が女の子との生まれてはじめてのデートで、ガラスは固体のように見えるけれども実はあれは流れる固体、つまり強い粘性をもった液体なんだ云々と、滔々と理系(レオロジー=流動学)の話題を展開してあきれられたという、僕たちのお気に入りの話があったよね、確か。(もしかすると何かの本で読んだことを間違ってそう記憶しているだけなのかもしれないけれど。)
 つい先日、安部公房の『他人の顔』を読み返していてそのことを思い出した。あの作品に出てくる「ぼく」──仮面を被って妻を誘惑して傷ついた男、そして妻から絶縁状をつきつけられて書く人から行為の人への転身を決意する男──は「研究所という僧院」にこもり「高分子化学という神」と「レオロジーという祈りの言葉」をもつ研究者・技術者だったのだ。(仮面といえば『幽霊たち』にも怪物の仮面を被った男が二度出てくるし、変装の場面も幾度か出てきた。)
 ラテン語のペルソナ(仮面)はギリシャ語のヒュポスタシスの訳語だというけれども、このヒュポスタシスには「液体と固体の中間のようなどろどろしたもの」という意味がある。してみると、仮面をめぐる物語の主人公にレオロジストをもってきたのには実に深い意図があったわけだ。
 
 僕は『幽霊たち』は窓と鏡の物語だと考えている。ここでいう鏡には双眼鏡や拡大鏡のレンズを含めることもできるだろう。いずれにしてもそれらはマテリアルとしてはガラスだ。それも砕け散る弾性体としてのガラスでも流れる粘性体としてのガラスでもなく、固体と液体の中間のようなどろどろとした「粘弾性体」としての、仮面の素材としてのガラス。(それでは「幽霊」の素材は何か。──このことについては後ほど。)
 
 この作品のちょうど真ん中あたりにホイットマンの脳味噌の話が出てくる。骨相学を信奉していたこの「アメリカ最大の詩人」は、死後、自らの脳の解剖を「全米人体測定学協会」に委ねた。ところが摘出された天才の脳(カリフラワーのお化けみたいな大きな灰色の野菜みたいなやつ)を研究所の助手がうっかり床に落としてしまった。<ぴしゃん、そこら中に飛び散ってしまった。それでおしまい。>
 それからいま一つ、『ウォールデン』のソローとその友人がホイットマンの部屋で対談した際のこと、部屋の中央に排泄物(でこぼこやひだひだがいっぱいあるその形が脳味噌を連想させる)のたっぷり入った「おまる」が置いてあった。<脳味噌とはらわた、人間の内部。我々はいつも、作品をよりよく理解するにはその作家の内部に入り込まねばならない、とか何とか言っている。だがいざその内部なるものを目のあたりにしてみると、べつに大したものは何もない>。
 
 僕が考えている「ガラス」はちょうど「石」と「脳味噌やはらわた」の中間にあるものだ。つまり、「物」と「言葉(の内部=意味)」の中間にあるもの。
(以下、整理のつかない言葉の羅列。──光を透すガラス。光から色彩を抽出するガラス。光を歪め、あるいは反射させるガラス。石とガラスでできた昆虫型の建造物。鉄筋とガラスでできた脊椎動物型の建造物。等々)
 

【246】オースター通信(第三便の2)
 
 『幽霊たち』の「内部」に立ち入る前にもう一本の伏線をはっておこう。冒頭のゴッホの言葉にかえってほしい。──『孤独の発明』の第二部「記憶の書」で、オースターは(というより「A」は)アムステルダムのゴッホ美術館の「寝室」の前に立って、ゴッホが弟に宛てて書いた手紙(壁は淡いヴァイオレット、床は赤のタイル…)を想起している。
 その少し前ではフェルメールの絵画の「見えない窓を通して左からさし込んでくる光の美しさ」や「ほとんど白というに近い青白い光」について書いているし、レンブラントやティトゥスのこと、デカルトやアンネ・フランクの部屋のこと(『省察』を読むアンネ)、そしてアムステルダムの街の(リゾーム状の?)還状構造のこと──迷子になったAの述懐「この街はきっと冥界をモデルに設計されたのだ」──について書いていた。
 ここで僕がとりあげたいのは「アムステルダムの街がニューヨーク(ニューアムステルダム、と帰国後彼はその都市を旧名で呼んで一人悦に入っていた)よりずっと小さいことはわかった」という叙述だ。
 
 まわりくどい伏線だったけれど、こうしてニューヨーク三部作の第二番目の作品に(オランダ経由で、再び)たどりついたわけだ。そしてこの作品のもう一つの素材が色彩、というより「光」そのものにあったことが鮮明に示された(と思う)。
 
 ──ところで『孤独の発明』の扉に掲げられた写真、五人の男たち(同一人物)が向かい合う合成写真は、マルセル・デュシャンの「テーブルを囲むデュシャン」という作品(鏡を使って増殖させた五人のデュシャン)のパロディだったんだね。どうでもいいことだけれど、この「発見」がちょっとうれしかったので余談として書いておく。
(谷川渥さんは「テーブルを囲むデュシャン」をめぐって「いったいどのデュシャンが本当のデュシャンなのか」、それとも「〈素顔〉のデュシャンは別にいて、これらはすべて〈仮面〉としてのデュシャンでしかないのだろうか」と書いている。これもどうでもいいことだけれど。)
 
 さて『幽霊たち』。一九四七年二月三日、私立探偵ブルーはホワイトと名乗る変装した男からブラックと呼ばれる男を見張るよう依頼を受ける。ホワイトが用意した向かいのアパートの部屋から双眼鏡で(当然のことながら窓を通して)ブラックの部屋をのぞくと、彼は部屋にとじこもって(赤い万年筆で)文章を書いている。(彼らのいる場所はブルックリン橋からそう遠くない一角にあるオレンジ・ロード。一八五五年、ホイットマンはここで『草の葉』初版の活字を組んだ。)
 
 何事も起こらない。退屈するブルー。与えられた仕事の意味をめぐっていくつかの仮説をたてるブルー。そして自分の内部世界の考察にふける(内省する)行動派の私立探偵ブルー。<想いにふける、スペキュレート。見張る、傍観するという意味のラテン語スペクラートゥスから来ていて、鏡を意味する英語スペキュラムともつながっている。>
 第一回の報告書を書く日がやってくる。<彼にとって言葉は透明である。彼と世界とのあいだに立つ大きな窓である。>──しかしブラックの件を前にしてブルーはかつてない経験をする。<彼の書いた言葉が、いつもなら事物を引き出し、世界の中にそれをがっちり据えつけてくれるのに、今回はまるで、事物が消えてしまうよう仕向けているような感じなのだ。>
 
 何事も起こらない。奇怪な状況のなかでブルーは混乱し窮地に陥る。恋人から「人でなし」とののしられた彼(亡霊)はブルックリン郵便局の私書箱を見張って、報告書を受け取りに来るはずのホワイトをつかまえようとするのだけれど、姿を現わしたゴム製の怪物の仮面を被った男を取り逃がしてしまう。
 翌年の夏。ブルーははいまや観察者にして観察される者、中間的な存在、ゼロの状態、檻を夢想し自分をその中に閉じ込める者、つまり「檻それ自体の囚人」だ。<死ぬまで一つの部屋にとどまって一冊の本を読みつづける刑を科されたような気分だ。…でもどうやってこの話から抜け出す? どうやってこの部屋から出る? 彼が部屋にとどまる限り、永遠に書きつづけられるであろう書物そのものであるこの部屋から?>
 
 ブルーはついに行動に出る。ブラックと直接の交渉をもつのだ。子供のころ近所で物乞いをしていたジミー・ローズという老人に変装したブルーは、壊れた拡大鏡で前日の新聞を読みながらブラックの外出を待つ。<ねえ君、ウォルト・ホイットマンにそっくりだって言われたことは?>
 こうして最初の会話が始まり、ブラックは「カリフラワーのお化けみたいな大きな灰色の野菜みたいなやつ」の話や「人間の内部」の話、あるいは十二年間自分の部屋に閉じこもって小説を書いたアメリカ最初の作家ホーソーンの話、つまり「幽霊たち」の話をブルーにきかせる。
(ここに出てきた「幽霊」には二つの意味がある。一つは死者。いま一つは作家。<書くというのは孤独な作業だ。それは生活をおおいつくしてしまう。ある意味で、作家には自分の人生がないとも言える。そこにいるときでも、本当はそこにいないんだ。/また幽霊ですね。>)
 
 第二の会話。ブルーは今度は変装せずにブラックを尾行し、ホテルのロビーで同席する。ブラック・アンド・ホワイトを注文し、私立探偵なんですよ、と涼しい顔でいうブラック。そりゃすごい、とブルー。
 私の仕事はある男を見張って毎週一回、その男に関する報告書を送ることなんです。これがひどい仕事で、男は一日中机の前に坐ってものを書いているだけなんです。その男はあなたに見張られていることを知っているのか、とブルー。もちろん知ってますとも、だからこそ意味があるんです、その男には私が必要なんだ、と目をそむけながらブラックは答える。
 
 第三の会話。ブラシのセールスマンに変装したブルーはブラックの部屋を訪問する。禁欲的な部屋。絵画一枚かかっていない壁。『ウォールデン』『草の葉』『二都物語』その他数冊の本。数千ページあるかもしれない手書きの原稿。こんなのは人生とは呼べない、これじゃ無人地帯だ、世界の果てで行きつく場所だ。
(ブルーの部屋との対比。壁に貼りつけられた数々の写真。迷宮入りした殺人事件の被害者のデスマスクをかかえた検屍官の写真、雪におおわれた山やブルックリン橋の写真、父親の写真、父親と母親の写真、ブルー自身の写真、等々。)
 

【247】オースター通信(第三便の3)
 
 ついにブルーはブラック不在の部屋に侵入して書きかけの紙束を読む。<黒と白の織りなす世界は何ひとつ意味することなく、何ひとつ伝えることなく、沈黙と同じくらい真相からはるか隔たっている。>──紙の正体を知ったブルーの衝撃。<全面的に回復するかどうか、それは定かでない。>
(部屋に足を一歩踏み入れたとたん、ブルーは自分の中のあらゆるものが闇と化すのを感じ、それと同時に自分の頭がとてつもなく膨張し肉体から離れて漂い去ろうとしているのを感じて気を失う。──この唐突な出来事の挿入は、『ガラスの街』にも出てきたあの「物語の分岐点」=作中人物の分裂=「穴」を示しているのだと思う。)
 
 自分を自分の思考の中にすっかり閉じ込めてしまったブルー。ブラックの孤独の聖域(ブラックの部屋)に入り込むことは自分自身の中に入っていくことに等しかったのだ。ブルーはもはや他の場所にいる自分を想定することができない。<だが実は、こここそがブラックのいるところなのだ。ブルーがそれを知らないだけなのだ。>
 再びブラックの部屋のドアをノックするブルー。あの怪物の仮面を被り手に38口径のリボルバーをもった男との対決。──仮面をめぐる会話。「グロテスクだろう?」「でも見ずにはいられないだろう?」──物語をめぐる会話。<あんたは俺に物語を聞かせることになってるんだ。この話はそういうふうに終わるんだろう?><だって君はもう知ってるんじゃないか、ブルー。>──そしてブルーは男を殴り倒し意識を奪い仮面を剥ぎとり机の上に置かれた原稿を奪い自分の部屋へ帰って読み通し(男のいうとおりブルーは物語をすべて知っていた)帽子を被り外へ出ていく。
(作品の最後になって初めて「私」が登場する。<私は一人ひそかに夢想する。ブルーがどこかの港で船の切符を買い、中国へ発つ姿を。そう、彼は中国へ行った、そういうことにしておこう。>──この「私」とはいったい誰のことだ?)
 
 以上、駆け足で『幽霊たち』の粗筋を追ってみた。(例によって「ミステリー」を紹介する際の最低限のエチケットは守ったつもりだけれど、実際のところはほとんどネタを明かしたようなものだ。)
 
 『ガラスの街』の固有名をもった私立探偵(実は探偵小説作家、つまりブラックと同様「ものを書く」人=内部世界の人=孤独の人)クィンは、言葉の韻と電話の不通がもたらす自己分裂=自己喪失の渦に巻き込まれ「赤いノート」を残して消失してしまった。
 『幽霊たち』のブルーは「ほとんど読書というものをしたことがない」「物事の表面を目まぐるしく滑走しつづけてきた」探偵で、だから透明な窓や光を反射する鏡、双眼鏡や拡大鏡を駆使した(光学的な)自己分裂=自己増殖の窮地を自らの行動で打開し(謎の話者の推測によると)中国へと旅立っていった。
 この対比は実に面白いし、言語哲学をめぐる(したがって歴史哲学をめぐる?)ニューヨーク三部作の向かうべき方向をはっきりとさし示しているようにも思う。
(『ガラスの街』は電磁気的空間の物語なのかもしれないと先に書いた。これと対比させるならば『幽霊たち』は場から物質へ、波動としての光から粒子としての光へ、つまり粘弾性体としてのガラス=身体へと向かうベクトルの上にある物語なのかもしれない。──そうするとさしずめ時間こそが「幽霊」の素材だったということになるのだろうが、この点はあまり自信がない。)
 
 ところで『幽霊たち』には五つの謎がある。(ほんとうは謎はいくらでも取り出すことができるのだけれど、直観的に五つにしぼってみた。)
 第一に、なぜ一九四七年から翌年にかけての物語なのか。
 第二に、たぶん(前作『ガラスの街』を念頭において)意図的に固有名を排除した作風のなかで、なぜ作者はホイットマンやソロー、ホーソーン(あるいはジミー・ローズ)の名を特権的に取り上げたのか。
 第三に、なぜブルーはブラックの見張りを止めることができなかったのか、つまりホワイトが用意した部屋を出ることができなかったのか。(この点について作者が与えた回答。<古代人はこれを宿命と呼んだ。>)
 第四に、自らの行動によって事件を「解決」した(男の仮面を剥ぎとった)ブルーはなぜ中国へと旅立っていったのか。
 そして最後に、これは繰り返しになるけれども、物語の最後に突然出てくる謎の話者「私」とは誰のことか。(あるいはオースターはなぜこの「私」を切れなかったのか。)
 このうち第三の謎に答えることはほとんど『幽霊たち』の主題(があるならの話だが)を抽出することにつながるだろうし、第五の謎の解明はニューヨーク三部作の完結によって果たされているように僕は思う。それ以外の謎は僕には手が負えない。
 
 第二の謎に関する余談。まずホーソーンは本来の苗字 Hathorne に woman を表わす w を加えた。<すなわち Hawthorne とは、不謹慎にも両性具有化されてしまった父の名ということになる。>
 またD.H.ロレンスは『アメリカ文学論』で、ホイットマンの「ぼく自身の歌」がその自我を「どろどろした粥のようなもの」「ごった煮のようなもの」「絶対同一という一個の恐るべきプディング」に変えてしまったと不満を洩らしている。
 以上、いずれも『性のペルソナ』という本で仕入れた知識だ。
 
 余談の余談。『幽霊たち』をめぐる謎の補遺として、なぜブルーはブラックの見張りを続けている間、恋人と連絡をとらなかったのかをあげることができる。
 なぜブルーは恋人に電話もかけず、暗い部屋の中で目を開けたまま仰向けに横たわりながら、未来のミセス・ブルーの肢体を一箇所ずつ再現する──<まず爪先からはじめて、足首を経て脚をのぼり、太腿に沿って進み、やがて腹部を伝って胸に到着する。しばらく近辺をさまよってその柔らかさを存分に味わってから、お尻をめざして降りていき、それからまた背中をのぼって、ややあって首に達し、うねるようにして前面にまわり、微笑をたたえたあの丸顔にたどり着く。>──ようなことをしたのだろうか。(これは実は第三の謎のコロラリーだ。)
 
 いま引用した文章は『幽霊たち』に出てくる唯一のエロティックな(?)描写で、これと『ガラスの街』に出てくるこれもまた唯一の性的なシーン(ヴァージニアとクインの「激しいキス」)を比較してみると面白い。
 前者は夢想の中の身体(可能世界の身体?)をめぐるもの。後者は「ビジネスという仮面」を被った女と「他人の名という仮面」を被った男の(仮面の割れ目から出てくるもの=舌を通じた)唐突な交渉。どちらもねじくれた情景だけれど、僕は『幽霊たち』のそれの方がより「現実的」なものだと思う。
 謎の補遺。ニューヨーク三部作のこの段階でなぜオースターは「歪んだ」性的表現しかできなかったか。これも実は第五の謎のコロラリーで、「書く人の孤独」を破砕して身体をとりもどしたブルーの行く末を、つまりニューヨーク三部作の完成を追ってみれば解明できるだろう。
(実際『鍵のかかった部屋』を読んでみれば、そしてニューヨーク三部作以降の作品、とりわけ『ムーン・パレス』でのフォッグとキティの「内なる壁の劇的な崩壊、わが孤独の深奥で起きた地震」のようなセックスの描写を読んでみれば、僕がいうことは納得してもらえると思う。)
 
 
《引用・参考図書》
◯ポール・オースター『偶然の音楽』(柴田元幸訳,新潮社:原著1990)
◯ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論 IV』(今村仁司他訳,岩波書店)
◯中川鶴太郎『流れる固体』(岩波書店:1975)
◯安部公房『他人の顔』(新潮文庫:原著1964)
◯ポール・オースター『幽霊たち』(柴田元幸訳,新潮文庫:原著1986)
◯谷川渥「仮面と肖像」(『武蔵野美術』NO.90[1993.10]所収)
◯ポール・オースター『孤独の発明』(柴田元幸訳,新潮文庫:原著1982)
◯カミール・パーリア『性のペルソナ(下)』(鈴木晶他訳,河出書房新社:原著1990)
◯ポール・オースター『ムーン・パレス』(柴田元幸訳,新潮文庫:原著1989)
 

【248】オースター通信(第四便の1)
 
 『鍵のかかった部屋』。ニューヨーク三部作の「完結」篇。――ここでは物語を縁どり境界づける枠はとり払われている。(あの謎の話者はもう出てこない。というより最初から、「僕」=『ガラスの街』『幽霊たち』の作者、として登場している。)
 壁と襞は渾然一体となって小説の形式と実質、表現と内容をかたちづくっている。(複数化された虚構世界。「僕」の影=双子のファンショー、「僕」の頭蓋骨の内側にある部屋の中で神秘的な孤独に耐えているファンショーが書いた作品群──『ネヴァーランド』『ミラクルズ』『ブラックアウツ』『グラウンド・ワーク』など──と手紙。「僕」が書いているNY三部作!)
 
 そして読者の参入を促す穴、作者がメタ・メッセージを繰り出す穴はふさがれている。というよりこの作品そのものが一つの巨大な穴で──いや微細な多数の穴で、色彩と暗闇、見える光と見えない光、終わりと始まり、思考と記憶、これとあれ、頭蓋骨=虚構世界の外部と内部をつなぐ「橋」で──できている。
(僕は『鍵のかかった部屋』は穴と箱、墓と子宮の物語だと思う。──「記憶の書」に出てくる変容する言葉。<部屋[ルーム]と墓[トゥーム]、墓[トゥーム]と子宮[ウーム]、子宮[ウーム]と部屋[ルーム]。息[プレス]と死[デス]。あるいは「生きる」(live)という言葉を組み替えれば「悪」(evil)になるという事実。>)
 
 韻による固有名の融合や人格の分裂(『ガラスの街』)。固有名の色彩名への置き換えや色彩語の羅列による「物」の探求(『幽霊たち』)。これらのカバラ的言語遊技(?)は『鍵のかかった部屋』では姿を消している。
(透明なガラスで造られたバベルの塔が砕け散り、色彩をまぶされて濁った破片たちが無数の小さな鏡となって内部世界の迷宮を照らし出す。しかしそこには「物」はない。レオロジカルな物質変容と沈澱。ガラスは自らを素材として身体を、つまり窓のない「部屋」を造形する。残された課題。顔の獲得と新たなる命名=歴史の編纂?)
 
 ある批評家がいうように、詩から散文、小説の言語へと向かうオースターの探究が『鍵のかかった部屋』でしめくくられたと見るべきなのだろうか。このことを確認──したいとほんとうに思っているわけではないけれど、言葉の勢いでそう書いてしまった──するためには、ストーリー(壁と襞がからまってできた複数の線、枠と穴、現在と過去の対位法)をきちんとトレースしておくことが必要だ。その際に心に留めておかないといけない事柄をいくつか。
 
 留意点その一。物語の発端はホーソーンの短編小説にある。『幽霊たち』でブラックが変装した探偵ブルーを相手にそのストーリーを語ってきかせた「ウェイクフィールド」(ボルヘスがカフカに相当すると激賞した作品)のことだ。
 ファンショーの名もまたホーソーンの作品のタイトルに出てくるというし、物語のクライマックスで「僕」とファンショーが鍵のかかった部屋のドアごしに最後の対話を交わす(傾きひびわれた、しかし堂々とした量感と十九世紀の優雅さをたたえた)四階建ての建物がある都市、ボストンはホーソーンゆかりの街だ。
 大学卒業後の十二年間、ホーソーンが孤独のうちに初期の短編を書きつづけたセーレムはボストンから北へ二◯キロ離れた(ホーソーンの血縁者が関係した魔女事件や近親相姦事件で有名な)港町。ちなみにセーレムの周辺にはウェイクフィールドの名をもつ町が三つあるという。
(僕は「Wakefield」を初めて読んでみた。残念ながら「Fanshawe」は未読。実に面白い文章だった。ホーソーンの小説はどれも「過剰なもの」を孕んでいて、「ホーソーン批評のルネサンス」の到来が云々されたのもよくわかる。なんといえばいいんだろう、ホーソーン個人やその時代の無意識とでもいうべきものが語りのうちに露出していて、一世紀をへだてた読者にドラマティック・アイロニーの興趣をもたらすとでも?)
 
 留意点その二。壁に描かれた模様にとらわれてはいけない。(模様は襞ではない。襞は「壁=襞」として物語のコンテンツに縫いこまれている。また模様は穴ではない。ここでは作品の外部と内部をつなぐ穴はふさがれている。穴はあくまで作品の内側にしつらえられている。)
 模様の一例。ファンショーの伝記を書くためその足跡を追ってパリへやってきた「僕」は、そこで「崩壊」の危機にさらされた。しかし結末(「僕」が再び自分をとり戻す=物語の言葉を見出すこと?)ははっきりしている。<その結末がもしも僕の内側に残っていなかったら、僕はこの本を書きはじめることもできなかっただろう。この本の前に出た二冊の本についても同じことが言える。『ガラスの街』、『幽霊たち』、そしてこの本、三つの物語は究極的にはみな同じ物語なのだ。ただそれぞれが、僕が徐々に状況を把握していく過程におけるそれぞれの段階の産物なのだ。>
 まどわされてはいけない。これは作者が仕掛けた罠、というよりパズル、偽物の穴だ。たとえば『鍵のかかった部屋』には探偵クィンやピーター・スティルマン、ヘンリー・ダークなど『ガラスの街』の登場人物の名が出てくるし、最後に「赤いノートブック」も姿を現わす。
 スチュアート・グリーンという色彩名をもった人物の登場や、ファンショーと「僕」が高校の頃まで一緒に育った町からニューヨークまでは三十キロくらいなのだけれど<僕らの世界からは、中国と同じくらいかけ離れていた>など、『幽霊たち』につながるリンクも張ってある。(なにより「僕」とファンショーは「ものを書く」人だ。)
 
 このほかにも模様はたくさん見つけることができるだろう。『ガラスの街』が電話で始まり電話で終わる物語だったとしたら、そして『幽霊たち』が報告書で始まり電話の禁欲を経てブラックの原稿(おそらくは『幽霊たち』というタイトルの)で終わる物語だったとしたら、『鍵のかかる部屋』はソフィーとファンショーの手紙で始まり(物語の始まりは二度ある!)電話ではなく電報を経て「赤いノートブック」で終わる物語だ。
 あるいは都市。前二作はあくまでニューヨークのテリトリーの中で進行する物語だった。でも『鍵のかかった部屋』には数々の都市や地名が出てくる。アラバマ州バーミンガム(そこで「僕」とソフィーが結婚する)、ミネソタ、ノルウェー、バミューダ、ニュージャージー(そこで「僕」はファンショーの母親と殺意をもって性交する)、そしてパリ、ボストン等々。
(一言つけ加えておこう。僕は模様を無視しろといっているんじゃない。ただ模様は襞でも穴でもないといいたいだけなのだ。──それはパズル、趣向にすぎない。もちろんよくできたパズルは小説を読む快楽の要素なのだけれども。)

【249】オースター通信(第四便の2)
 
 留意点その三。壁=襞を模様と取り違えてはいけない。ここでは三つの壁=襞をとりあげることにしよう。
 第一、顔と魂。まずファンショーの母親の言葉。<あなたは顔までうちの子に似てるわ。あんたたち二人、昔からそうだった──兄弟みたい、ほとんど双子といってもいいくらいにね。>
 次にファンショーがパリで暮らしていた時のガールフレンド、アンヌ・ミショーの言葉。<ほんのつかの間の錯覚だったのよ、と彼女は言った。次の瞬間もう錯覚だったとわかったわ、と。もちろん以前にも、僕たち二人は似ていると言われたことことがあった。でも僕たちが似ていることを、こんなに生々しく、強い衝撃をもって受け止めた人ははじめてだった。>
 
 顔については「僕」を恋に陥らせたソフィーの美しさ(あるいは「僕」の性的欲望をかきたてたファンショーの母親の美しさ?)にもふれておかなければならないだろう。でもここではこれらとはまったく異質な場面をとりあげよう。──「崩壊」しかけた「僕」はパリの酒場で偶然出合った一度も見たことがない男(ピーター・スティルマン)をファンショーだと思い込む。
<一瞬の火傷のような、ニューロンとニューロンの奇妙な結びつきが生む既知感。…もしこの男が誰でもないとすれば、この男はファンショーであるに違いない。…スティルマンはファンショーではない──そのこともよくわかっていた。彼はまったく恣意的な選択にすぎないのであり、何の罪もない、白紙の存在なのだ。しかしそのことこそが僕にとってはたまらないスリルだった──そのまったくのランダム性、百パーセントの偶然が生む眩暈が。それは何の意味もなさなかった。だからこそそれは、あらゆる意味をなしたのだ。>
 ここにあるいくつかの模様をはいでみると、顔と魂、という「テーマ」(ニューヨーク三部作のなかで『鍵のかかった部屋』が担っているもの)がうかびあがってくると僕は思う。
 顔といわず、鍵のかかった部屋(頭蓋骨)を内蔵した箱──鍵には鍵穴があるわけだから、精確には穴のあいた部屋を内蔵した箱──といってもいい。魂などといわず、人を他者へと結びつける媒体(あるいは媒質)といいかえてもいい。(ニューロンとニューロンを結びつけるように?)
 かなり強引に自説を展開すると、僕は顔こそが魂の素材なのだと考えている。つまり人は顔を媒(なかだち)として他者と結びついていく。
 そして顔とはプラズマなのだと僕は考えている。──物質の第四態、プラズマ。電子とイオンに電離した気体。ニューヨークの街を彩るネオンサイン。テトラソミア(四大)のうち「火」に相当するもの。(ニューロンとニューロンが火花を発して結びつくように?)
 仮面はどろどろした沈澱物=ヒュポスタシス=粘弾性体でできていたけれど、顔は(ほとんどすべての星と同様)プラズマでできている。「僕」がソフィーに惹かれたのもプラズマの力だし、「僕」とファンショーがついに顔をあわせることがなかったのも二人が双子、つまり電子とイオンだったからだ。
(電子とイオンが結びつくと「一個の物体」になってしまう。「僕」がパリで「崩壊」しかけた時のように。──あるいは反物質と合体すると物質は消失して光になってしまう、クィンのように?)
 
 説明不足のまま次へ進むまえに『ルル・オン・ザ・ブリッジ』に出てくるプラズマ、いや「生命の石」のことにふれておこう。──暗闇の中で燦然と光を放つ石に触ったシリアが、生命力と喜びに満ちた顔で(シナリオにそう書いてある)イジーに語る科白。<前よりも、つながってる感じがする。…なんだろう。…自分と。テーブルと。床と。部屋の空気と。自分以外のすべてのものと。…あなたと。>
 インタビューでのオースターの言葉。<物語を最初に書いたとき、あの石は何か神秘的な、何もかもをくるみこむような生命の飛躍だと思っていた──二つのものをくっつけるもの、人と人をくっつける糊、愛を可能ならしめる未知のものだと。やがて、イジーが箱から石を引っ張りだすシーンを撮影しているとき、違う考えが浮かんできた。…石がまるでイジーの魂のように思えてきたんだ。…男は石に対して恐怖と混乱を示し、パニック状態に陥る。翌日、シリアに出会ってようやく、何が起きたかがわかる。つまり、「自己」の真髄は、他人との関わりのなかでしか見出せない。それこそが大きなパラドックスなんだよ。>
 
 第二、言葉と性交。ニューヨーク三部作全篇の「テーマ」にかかわるものだ。
 『鍵のかかった部屋』で言葉は三つの異なった力を発揮している。その一、求愛。ソフィーと「僕」の会話。<夜が更けてゆくにつれ、ごくささいな言いまわしでさえもエロティックな響きを帯びるようになっていった。言葉はもはや単なる言葉ではなかった。それは奇妙な沈黙の暗号であり、表で言われている事柄はもはやふわふわと漂いつづけるコミュニケーションだった。われわれが真の本題を避けて通る限り、その呪縛は持続するのだ。>(僕はこういった「通俗的」な表現が大好きだし、NY三部作を書くことでオースターが獲得したものがこの文体なのだと思う。──時間の微分から積分へ、つまり分裂と増殖から懐胎と出産へ。あるいは時間の積分とは可能世界としての過去の造形のこと?)
 その二、誘惑。ファンショーの母親と「僕」の会話、というよりミセス・ファンショーの一方的な独白。<彼女の声には催眠術のような力があった。…僕はひたすらその声の中を漂い、声に囲まれ、その執拗な勢いによって下から支えられ、波のように上がっては下るひと言ひと言の流れに身を任せて進んでいった。>
 
 これらの場面はいずれも遅かれ早かれ性交の場面へとつながっていく。お互いの中へ速く、深く落ちていくソフィーとの性交。別人の体、別人の抱擁との盲目的記憶の喚起によって境界線を突破し、殺意と残酷さを帯びた悪夢のようなミセス・ファンショーとの性交。(NY三部作を書くことでオースターが獲得した叙述。)
 いま一つとり上げるべきシーンはパリでの「気違いじみた乱交」だろう。サン=ドゥニ通りの娼婦(二人の女の子、巨体の黒人女)、ピガール広場の酒場のエロティックな「フェイアウェイ」。(あるいはファンショーに連れていかれたニューヨークの売春宿。「生命に浸る」こと。──しかしこのとき「僕」はうまくいかなかった。)
 これらの出来事と対をなす(と僕は思っているのだけれど、あまり自信がない)のが、分裂病が進行していた妹エレン宛ての手紙に書かれたファンショーの詩だ。(ミセス・ファンショーは、ファンショーが自分の詩を出版しなかったのはエレンの発病に対する罪の償いのためだという。)
 『鍵のかかった部屋』で言葉が発揮する異なった三つの力。その三、神のメッセージ。<エレンは何時間も何時間も、その詩を読んで考えこんでたわ。まるで解読できるかどうかに生命がかかってるみたいにね。エレンにとってそれは、秘密のメッセージ、彼女に直接送られてきた神のお告げだったのよ。>(オースターによる詩の埋葬?)
 

【250】オースター通信(第四便の3)
 
 第三、穴と箱。『鍵のかかった部屋』に固有の「テーマ」だ。以下は備忘録がわりのメモ。
 穴。──「僕」がそれまで行ったことのない場所に向かって落下した「大地の奥に通じる穴」、ファンショーが死を体験するために降りて行った「開いた墓穴」、鍵と鍵穴、等々。
 箱。──ファンショーの残した原稿を詰めこんだ(人間一人分の重さをもった)二つのスーツケース、四つか五つの頃のファンショーがけっして「僕」に使わせようとしなかった「魔法の箱」、自分の吐く息が凍りついてできる氷の棺桶、クローゼットの床を埋める(ファンショーの記憶が詰まった)段ボールの箱、等々。
 穴と箱の合成。──鍵のかかった部屋。「僕」の頭蓋骨のなかのファンショー。子宮をもったソフィー。そして自らの内部に暗闇へとつづく穴を掘った小説『鍵のかかった部屋』。
 
 これ以外にも壁=襞はたくさん用意されている。たとえば名前。ソフィーを愛するということは「哲学する」ことと同義だし、ファンショーとソフィーの息子の名(ベン=ベンヤミン)や「僕」とソフィーの息子の名(ポール=パウロ=『東方見聞録』のポーロ?)にも、カバラ的(?)詩人ポール・オースターのことだ、必ずやパズルが仕掛けられているに違いない。
(『幽霊たち』をめぐる第二の謎を解くヒントがここにある。──幽霊たち=イドラたち=記号たちの連鎖の物語と、顔と肉声と折れる骨と死と暗闇と混沌と欲望と論理の連鎖をもった、性交したり出産したりする身体たちの物語。)
 あるいは物語の二つの層。ソフィーの手紙で始まる第一の「通俗的な」ラブ・ストーリーと、ファンショーの(署名のない)手紙で始まる第二のメタ・ストーリー(ファンショーの伝記を書く、つまりファンショーの生の軌跡を読む=翻訳するための調査行を叙述する探偵物語と、その断念の全プロセスを叙述する『鍵のかかった部屋』)の合成。
 あるいはイニシエーション。<要するにそれはひとつの通過儀礼[イニシエーション]だったのであり、したがって生き残ったことそれ自体が勝利のしるしであった。>(『幽霊たち』をめぐる第三の謎を解くヒントがここにある。)
 最後の、そしてもっとも大切な──あくまでもストーリーの展開をトレースする上で、という限定つきの話だけれど──留意点。『鍵のかかった部屋』は一種の年代期なのだから、日付けをきちんとおさえて読まなければならない。
 実際この作品にはたくさんの日付けが出てくる。たとえば「僕」が初めてソフィーの部屋のドアを開けた日(1976年11月25日)、『鍵のかかった部屋』が書かれている時点(1984年5月)、等々。
 これらの日付けは二つの層に属している。「僕」の記憶と調査によって記される「前史」と、メタ・フィクション(『鍵のかかった部屋』の中に出てくる同名の作品)が物語る「後史」。過去と現在。(これらがクロスされることによって体験が生まれ、言葉が生まれ、物語が生まれる。──NY三部作における言語哲学と歴史哲学の合一?)
 いずれにしても『鍵のかかった部屋』の粗筋を追うことは無意味だ。物語のストーリーは体験するものであって、分析したり解読したりするものではない。
 余談その一。『幽霊たち』が一九四七年から翌年にかけての物語だったこと。僕はてっきり死海文書の発見やくりこみ理論、サイバネティクス理論の誕生など、要するにDNAの発見とコンピュータの発明(あるいはプログラミング言語の「発見」?)以前を意味しているのだとばかり思っていたけれど、あの年号の謎を解く鍵はオースターの生年にあったわけだ。
 余談その二。『幽霊たち』のブルーが旅立っていった「中国」とは歴史の別名だったんじゃないか、と僕は思いはじめている。もちろん歴史というより年代記という方が「中国」には似つかわしい。
 そして──いや、もうやめておこう。これ以上の体力も気力も僕には残っていない。君へのメッセージはすべて書き尽くした。
 僕たちは二度と会うことはないだろう。君は僕の頭蓋骨の中に住んでいるわけではないし、僕は君の分身ではない。僕たちは電子化された言葉を通じてしかコミュニケートできない。そこには顔も声も匂いもない。
 最後に。「赤いノートブック」を読み終えた「僕」に残っていた感覚のことを覚えているかい。この上ない明晰さの感覚。すべてはこの言葉に尽きている。いつか君への便りの続きを書くことがあるとしたら、僕はこの感覚をめぐる言葉の探究から始めることになるだろう。
 それでは。見えない光を通じて、闇の中の君へ。
《引用・参考図書》
◯ポール・オースター『鍵のかかった部屋』(柴田元幸訳,白水社:原著1986)
◯ポール・オースター『孤独の発明』(柴田元幸訳,新潮文庫:原著1982)
◯『ホーソーン短編集』(坂下昇編訳,岩波文庫)
◯見城尚志『図解・わかる電気と電子』(講談社ブルーバックス:1999)
◯ポール・オースター『ルル・オン・ザ・ブリッジ』(畔柳和代訳,新潮文庫:原著1998)