古代的なもの・その他



【4】コンピュータとユダヤ人

 以前、NHK教育の放送で中村雄二郎vs.マービン・ミンスキーの対談を見たことがあります。強いAIの可能性に対するミンスキーのあからさまなまでの確信と中村の苦汁に満ちた懐疑、前者の明るさと後者の晦冥(このように総括していいのかどうか)が見事なコントラストを醸し出していて、結構面白い番組でした。

 対談の内容はほとんど忘れてしまいましたが、今でも覚えているのはミンスキーが確か次のように語っていたことです。人は最低150年は生きなきゃならない、なぜなら現代の数学が到達した水準を究めるのにそれだけの時間が必要だからだ云々。私はこの徹底した知性主義にむしろ喝采を送りたい気持ちだったのです。人間の知性とはもともとそのようなものだと思うからです。

 コンピュータが人間の知性の域に達するかどうか、あるいはそれを超えさせることができるかどうか。この問題は、それが原理的に可能かどうかといった論じ方をすると、万能の神は自分でも持ち上げられないほどに重い石を造ることができるどうかという問題に似た「神学的」な趣をもったものになりそうです。

 私自身は特段の根拠もなく、人間が思い描いた事柄はいつか現実のものになるかもしれない、だからやってみなければわからない、そしてコンピュータは人間が造ったものなのだから、それが実現した時には人間の知性はコンピュータのそれも含めて今とは違ったものになっているだろう(たとえばリーマン予想やポアンカレ予想の真偽を直観的に証明できる知性は今の人類のそれとは質的な次元が異なっているのではないか)、などと漠然と考えています。しかし、私にとってこの問題はいまのところはどうでもいいものです。

 ただひとつ気になるのは、コンピュータがもつかもしれない知性がなぜ人間のそれと相同でなければいけないのか、なぜそのような観点だけから問題を立てるのか、ということです。このことが私には理解できないのです。コンピュータは機械なのだから、人間とは違った知性をもつ可能性がある。現にいまこの時点でも、私の目の前のこのマッキントッシュは私には理解できない類の知性をもち、私には解明できない仕方で思考し感覚し直感し感性を示している(あるいは私には名づけようのない「精神活動」を展開している)かもしれない。

 そもそも知性のかたちをただひとつしか想定しないのは、もちろんそれ以外想定しようがないからなのではありますが、片手落ちというものです。現にその昔鳥たちと話せる人がいたというじゃありませんか。大気圏の外に乗り出した人はそこに何者かの存在を感じたというではないですか。

 ここから先はもっと根拠のない断定になります。私はもしコンピュータの知性と人間の知性が異なっていて、そのために後者が前者の域に達したりそれを超えたりできないのだとしたら、その違いの最も根本にあるものは、人間の聴覚的存在性なのではないかと考えています。いくつか手元にある書物から引用します。

 マルセル・プルースト『失われた時を求めて』第三篇。<人が一つの尾韻を耳にして、ということはそれに先立つ尾韻に類似しながら同時にそれとは異なるもの、まえの尾韻によって誘発されながらそこに新しい一つの観念の変化を導入するもの、そんな何物かである尾韻を耳にして、一つは思想であり、一つは韻律である二つの体系がたがいにかさなりあうのを感じるとき、それがすでに、秩序ある複雑さ、つまり美の要素を感じることではないだろうか?>(井上究一郎)

 マックス・ヴェーバー『古代ユダヤ教』第24節。<…予言者のばあい…視覚的体験の意義よりも聴覚的体験の意義の方がはるかにいちじるしく、かつ特徴的な仕方で、まさっているのである。予言者は何かある声を聞く。それは彼に語りかけ、彼になにか語るべき、場合によってはなにかなすべき、命令だとか指図だとかを与える声であったり、あるいは、…予言者が欲しようと欲しないとにかかわらず一つの声がかれの口を通じて語られるのである。このような耳で聞く体験が幻を見る体験に優越するということは、…偶然ではなかった。それはまず第一に神の不可視性という伝来の思想と関連していた。>(内田芳明)

 小岸昭和『離散するユダヤ人』。<ユードゥアルト・フックスによれば、少なくとも千年間は砂漠の中に暮らしていたというユダヤ人は、その「研ぎすまされた聴覚」によって、迫り来る危険をいち早く察知する能力を身につけていた。…こうして砂漠の経験は、忍び寄る危険の察知能力ばかりでなく、あらゆる状況の変化への同化能力を彼らの中に発達させた。…それだけにとどまらずユダヤ人は、すべてを明るい光の下に見るという、砂漠で培ったもうひとつの能力、すなわち文学的・哲学的な思考や経済活動などの分野で発揮される、そのずばぬけた抽象能力を携えて、世界各地に離散して行ったのである。>

 聴覚の民、ユダヤ人。いつか考えてみたいテーマです。以下、やがてくるだろう日のための覚書として。──声ではなく音韻として、むしろ律動として考えること。たとえば、ヘブライ的パラレリズム(対句法)。さらに、聴覚的抽象と視覚的抽象について考察すること。視覚の民の国、古代エジプトと古代中国。セム語(子音文字)とアルファベット、ヒエログリフ(象形文字)と漢字。古代日本の音韻論、たとえば「言霊」について。


【5】聴覚の民・覚書

 聴覚の民をめぐる考究のための覚書、書抜帳として。(手元に文献が見あたらず、幸田露伴の「音幻論」を書き抜きできないことを悔やみつつ。)

     A 鎌田東二『記号と言霊』(青弓社)

 ジャック・デリダのいう<「真理=ロゴス=音声[フォネー]」の三位一体的なロゴス中心主義が西欧の根源的形而上学として君臨してきた>ことについて、鎌田氏は次のように書いている。<その背景に、われわれとしては、ユダヤ−キリスト教の「霊と言(神の声)における真実」の思想と、ギリシア−ヘレニズムの「存在と論理(ロゴス)における真理」の思想との強力な合流を見ないわけにはいかないのである。>

 ここで興味深いのは、ユダヤ−キリスト教を言葉の宗教と規定し、<聴くという行為が絶対的な超越に行き着くことの典型をユダヤ−キリスト教は示している>としているのに対して、ギリシア−ヘレニズムを<「視るもの」の文化>と位置づけていることだ。<ギリシアにおいて、「ロゴス」は「聴かれるもの」ではなく、「視られるもの」だった。>

 同氏の議論はさらにユダヤ−キリスト思想と日本古代の言霊思想、ドイツ・ロマン派と日本国学派の思想との対比などに及ぶ刺激的なものなのだが、ここでは次の文章を書き抜いておくだけにしておこう。

<人類は言葉を話す以前に、何万年も、何十万年も、いやことによると何百万年もの長い期間にわたって、その[太古の]声を聴いていたのだ。赤児が母親の語りかけるささやきや子守唄を聴きとり、その声に反応しつつ安心して眠るように、人類もまた、神々の、宇宙の、自然の諸存在の「声」を長い間聴きながら育ってきたのだ。われわれは、人類の長期にわたる聴取行為の意味に思いを尽くさなければならないのではないか。聴くことなしに話すことはできない。これは曲げることのできない存在法則ではなかろうか。とすれば、最初の「声」は誰の「声」だったのか。>

     B 木村敏「声と存在」(『形なきものの形』所収,弘文堂)

 木村氏は、西洋の存在論は一貫して観ること(テオリア)をもって至高の境地としてきたが、ハイデッガーに至ってはじめて聞くことの意義が語られたという。ここで聞かれるのは、<ものの背後から起こって、ものを突破し、われわれの眼がもはや見るはたらきを保ちえないような至近においてわれわれ自身の存在を襲うような声>、<われわれの存在にとって絶対的に近いもの>としての声である。

<あらゆるものに声がある。花には花の、星には星の、石には石の声がある。われわれはその声を聞かねばならぬ。見ることによってわれわれから遠ざけられたものたちが、その声によって、彼らの存在をわれわれに合致させようとする。声は委託である。われわれはその声を聞き届けてやるという委託を受けている。>

<声は意志である。私は声によって、私自身ではない意志によって捕えられる。声が恐ろしいのは、それが私との絶対的な近さにありながら、まだ私自身ではないからである。声はその意志によって、私自身の内部に亀裂を生じさせる。私自身であるものと、私自身でないものとの、この存在論的(非)同一性の、声による開示。>

     C 中沢新一「歴史を逆なでする前衛」
                (『野ウサギの走り』所収,中公文庫)

<古代エジプトが魔術の王国として有名だったことはよく知られています。しかもそれは母性信仰に厚くおおわれていた。神々のおおくは動物の姿をして、しかも女性の体をもっていた。魔術は声[ボイス]の力と結びついていた。母性と声の力。エジプトをエジプトたらしめていた魔術の力は、たぶんクリステヴァだったら、ル・セミオティックと呼ぶだろうような前象徴的な身体性に深く根ざしていたのです。母性的な身体性に依拠して発せられる声の力。モーセと彼のユダヤ人は、その魅惑的な魔術の王国から脱出しようとしたのです。しかし彼らは魔術の力を否定して、合理性の清浄さをめざしたわけではありません。砂漠を横断する旅の途上、モーセの前に立ち現われた炎のなかに、彼は神の声[ボイス]ならぬ神の名前をききとったのです。父性の神は、ただ名前しか告げないことによって、母性信仰のおおいつくす地球上の歴史を切断するような革命を遂行したわけです。>


【6】ケルティカ

 「聴覚の民」についてあれこれ考えをめぐらせ、視覚の民との違いをめぐって抽象的思考の類型論といった試みを企画し、さらには言語起源論に思いをはせているうち、とりとめなくなってしまったので、気分を変えたくなりました。──「装飾的思考」(鶴岡真弓)の民、表現の民、もうひとつの流浪の民、ケルト。アイリッシュ・ケルトの地(ケルティカ)は、私のまだ見ぬ憧れの場所です。

             ※

    愛蘭土の修道士たちは
    魂の蒸留酒をひそかに所持していた

    ──ジョバンニという洗礼名をもった男の居所を探しているんだよ
    旅の古老は醸造学を志していた若き日のぼくにそう訊ねた
    アーサー王の息子と名乗る男のように彼は傲岸に構えていた
    ──清貧を愛し動物たちと語り合ったという
      あのアッシジのフランシスコのことかい
    ぼくがそういうと彼は苦々しい表情で立ち去った

             ※

    古代ケルト人の寡黙な決意が封印された
    石造りの音楽の囲いの中の痩せた土地
    ぼくは滴り落ちる悲しみの言葉を手にすくっては
    たちどころに消えていくつぶやきに似た旋律を
    ついに光を浴びることなく死んでいった地下牢の住民の
    おしひろげられた追憶のスクリーンの上の五線譜に
    書き留めようと震える手で刻印したものだった

             ※

    アラン島で織られた編年体の恋の顛末
    ぼくはずいぶん年をとったように思うんだ
    ──なぜ息をするだけで人は生きてはいけないのだろう
    漁師だった父親を思って彼女は
    古代ゲール語でぼくにそう言った

             ※

    ああ! 鳥たちは啼き草々は枯れ森は朽ちた
    手に重みを失った地図はカント的アンチノミーのうちに
    見失われた<宝島>を隠喩によって告知することはない

             ※

    かつてイワンはぼくに語った<すべては許される>と
    その日から若き有罪者たるぼくは空しく時をすごした
    立証不能な罪を告発し
    だれに聞かれるあてのない告白の体系を携えた
    <いわれなき子供の苦しみへの償い>の旅のために

             ※

    事件はスピリチュアル・ディスアピアとみなされ
    ファイルボックスに整理されることになった
    ぼくが彼の言葉を思い出したのはその時だった
    ──わたしはあなたがた商人の信仰の会計係なのです
    寡黙な行商人であったぼくが
    ある叙情的な気分に襲われた夜のことだ
    回顧されたぼくの肉体が最後の充溢の後崩壊していく
    雪の日のグレシャム・ホテルの
    <思索に虐げられた音楽>の漂う部屋での出来事だ

             ※

    悩まない男と眠らない女の出会い
    盗聴された会話──放置された速記録
    いつもと違う日の光の中に浮遊する
    砕け散った昨日の追憶
    エリック・サティの朝は
    『実践理性批判』の再読とともに始まる

             ※

    <声の島>にとり残された義父から
    今日十年ぶりの便りが届いた
    変色したニュウスペイパアの切れ端に
    コレラに罹ったある哲学者の死が報じられていた


【7】建築と文学

 養老孟司さんの『身体の文学史』(新潮社)は結構面白く、暇潰しに拾い読みをしているうち、歯切れはいいけれど技巧も細工もなく真っ向から武骨に竹刀を打ち下ろすような独特の文体に、心地よい一時を過ごすことができました。(読後の勢い余って、自己や私、自我や個といったところで一皮むけば肉の塊、肉そぎ落とせば骨の構造にすぎぬものが、僅かばかりの差異に拘泥し、森羅万象ことごとく記号化し尽くさんとの欲望のほむらかきたて、やれ真理、やれ美、やれ倫理とかまびすしく騒ぎ立てるあさましさをあげつらうとしたら、それもまた脳の仕業にすぎないのでしょう。)

 この本にはいろいろと触発されるところがありました。たとえば、明治以降のこの国の近代化にとって西欧社会の存在はいわれるほど大きな要素ではなく、むしろ中世の「自然」を封印した近世の「人工」、著者の言葉でいえば江戸の脳化社会の延長として近代日本の問題性をおさえるべきなのだといった視点。私なりに整理すればこうなるのですが、それ自体はさほど新奇な主張とは思えないものの、そこに自然と人工、身体と心の葛藤、そして夏目漱石の胃潰瘍と三島由紀夫の生首が抑圧された身体のもたらした文学的二大事件であったなどという話題が投じられるや、俄然、目から鱗の視野の広がりを感じさせられます。

 このような視点からはただちに、篠田一士さんが<ヨーロッパ文学を必要としない>文学者と形容した幸田露伴(この人は夏目漱石と同じ年に生まれ、敗戦後まで生き存えた)や、『露伴随筆』五冊本(岩波)の選者石川淳の文学の面白さ、有島武郎の『或る女』における身体表現の特異性といった問題群への回路がつながるように思います。しかしそれはまた別の場で論じるべきことであって、ここでは「表現とはなにか」と題された終章から、興味深く読んだ文章を書き抜いておくことにしましょう。

 <世界は表現だ>と、著者はまず宣言します。表現を創り出すのはいうまでもなく意識です。意識ははかないもので、そのはかない意識を保存するものこそ、意識が外部に創り出す表現なのだというのです。文学、絵画、音楽、法律、制度、都市、それらはすべて意識の表現であって、意識が自らを外部に定着させる手段である。

 <意識のそうした定着手段、それはかならずしもたがいに排除するものではない。ただし、たとえば都市と文学はなぜか矛盾するらしい。秦の始皇帝は万里の長城を築くが、焚書坑儒を同時に行う。立派な建造物は必要だが、本はいらないというのである。始皇帝陵の発掘で知られる驚くべき規模の遺跡は、建築型の意識の定着法と、文字型の意識の定着法とが、たがいに抗争することを示すように思われる。西方では、エジプト人のピラミッドと、ユダヤ人の旧訳聖書の差を思えばいいであろう。どちらを採るか、そこにはおそらく無意識が関与しているに違いない。>

 建築(都市)と文学。この二分法は実に多義的です。空間と時間、視覚と聴覚、権力と個人などといった一面的な理解では、養老さんの「直観」のもつ豊かさと奥行きを殺してしまうでしょう。テクストとしての建築(都市)や「凍れる音楽」としての建築もあれば、建造物としての文学もある。むしろ世界を記憶の痕跡として見るか編纂されつつある書物として見るかの違いというべきか。いや、これでは何をいっているのか判らない。そもそも建築と文学という二分法そのものが、刺激的ではあるものの「概念」的にうまく整理できない豊穰さをはらんでいるのです。

 私は補助線として、装飾と音楽の二分法を付け加えてみてはどうかと考えています。建築と文学が意識の「意識的」な表現であり表現の媒体であって、したがってそこに表現の主体と客体、形式と内容、技法と素材、そしてそれらを媒介するものの働きがあるといった、いわば弁証法的プロセスを含意するものであるとすれば、装飾と音楽は「無意識的」な表現そのものであり、それ自身として生成し、あるいはそのような表現を成り立たせる特定の場においてその都度発生し反復する、いわば非−弁証法的なプロセスそのものなのではないかと、私は考えています。正確にいうと、そのようなものとして装飾と音楽を建築・文学に対比させて、原理的に考えてはどうかということです。

 詳しくは述べませんが、私は、装飾については先史時代の遺物の紋様やケルトの装飾文字、ラスキン、モリスの美学などを念頭において考えていますし、音楽についてはショーペンハウアーが『意志と表象としての世界』第三巻の最後で展開した議論の影響をうけています。(ショーペンハウアーは音楽について、たとえば次のように述べています。<たとえこの世界がぜんぜん存在しないとしても、音楽だけはある程度までは存在しうるとも考えられる>。(西尾幹二訳))

 建築・文学・装飾・音楽という表現をめぐる四類型はもとより「原理」的な区別、より端的にいえば単なる仮説、私の脳が考えた想像物にすぎないものなのですが、さらに深みにはまって、それぞれに対応する「表現の民」を、たとえば建築=古代ギリシア、文学=ユダヤ、装飾=ケルト、音楽=古代日本と規定してみてはどうかと、私の妄想は深化していきます。以下、項を改めます。


【8】表現の民の類型学・断章

 承前。ますます深みにはまっていく妄想の切れ切れを羅列します。(以下の断章に出てくる固有名詞は、いずれも歴史上の実在とは直接かかわりません。また、古代、発生、渦巻、音楽その他の普通名詞も、それぞれの本義との関係は多義的です。つまり、固有名詞であれ普通名詞であれ、これらの語彙はいずれも「符号」として使用されているものです。個々の符号の意義と来歴については、いつかしかるべき表現を与えたい。)

     A 表現の媒体と原理

 共同性・集合性(社会)と単独性・分離性(個)の表現の媒体あるいは素材について。前者のそれは生命と精神、後者のそれは物質と意識。

 弁証法的表現と非−弁証法的表現の原理あるいはプロトタイプについて。前者のそれは否定(アイロニー)と想起(流出)、後者のそれは発生(反復)と渦巻(フラクタル)。

     B 表現と表現の民の類型

 表現をめぐる四類型(建築・文学・装飾・音楽)と表現の民の四類型(古代ギリシア・ユダヤ・ケルト・古代日本)にこれらをあてはめる。

 古代ギリシアの建築は共同性・集合性にかかわる弁証法的表現であって、その表現媒体は精神、表現原理は想起(流出)。
 ユダヤの文学は共同性・集合性にかかわる弁証法的表現であって、その表現媒体は生命、表現原理は否定(アイロニー)。
 ケルトの装飾は単独性・分離性にかかわる非−弁証法的表現であって、その表現媒体は意識、表現原理は渦巻(フラクタル)。
 古代日本の音楽は単独性・分離性にかかわる非−弁証法的表現であって、その表現媒体は物質、表現原理は発生(反復)。

   ┌────────┬─────────┬─────────┐
   │  区  分  │ 視覚:空関系  │ 聴覚:時間系  │
   ├────────┼─────────┼─────────┤
   │弁証法的表現  │建築=古代ギリシア│ 文学=ユダヤ  │
   │共同性・集合性 │ (精神・想起) │ (生命・否定) │
   ├────────┼─────────┼─────────┤
   │非−弁証法的表現│ 装飾=ケルト  │ 音楽=古代日本 │
   │単独性・分離性 │ (意識・渦巻) │ (物質・発生) │
   └────────┴─────────┴─────────┘


【9】ヴェーバーの古代史再発見

 山之内靖さんは『マックス・ヴェーバー入門』(岩波新書)で、10年にも及ぶ神経症との闘いの中にあった中期のヴェーバーが、進化論的な枠組みに基づく前期の<歴史的個性認識>の歴史学から、循環論的・運命論的な枠組みに基づく後期の<社会学的理念型的構成>の社会学へと転身を図るきっかけとなったのは、古代史の再発見、とりわけ<ホメロス時代の古代ギリシアを一つの比較規準として設定し、歴史の経過をそこからの退化として描き出す手法>をニーチェから継承したことにあったと指摘しています。

 ここでいわれる古代史の再発見とは、古代オリエント世界において、軍事貴族=戦士市民層が没落し、王権と祭司階級との結合による神政政治型の帝国、すなわちライトゥルギー(対国家奉仕義務)原理に基づく官僚制国家が築かれたのに対して、古代ギリシア世界が、ペルシャ戦役の勝利を通してライトゥルギー国家への道をいったんは克服し、軍事貴族=戦士市民層による世俗型のポリス的都市国家を実現したこと、そしてポリス世界が衰弱してヘレニズム時代あるいは中期以降のローマのように帝国化し、ついにはライトゥルギー原理による普遍的統合が完成されるに至ったという、<時間とともに進化していく歴史というイメージではなく、内部にドラマを孕んだ巨大な循環のイメージ>に彩られた古代史の認識にほかなりません。

 この永劫回帰の時間概念にも比すべき歴史認識が、ヴェーバーが生きた時代(それはまた私たちが生を営む時代でもあります)の趨勢に重ね合わせられていることはいうまでもありません。また、このような視点からヴェーバーを再読するならば、晩年の大作『古代ユダヤ教』も、従来の通説のように、非合理的な呪術からの脱却による合理的な宗教倫理の確立といった伝統的祭司層と革新的予言者たちとの対抗関係の観点から読まれるべきではなく、むしろ武装自弁の自由農民層や騎士=戦士と予言者との対抗関係、あるいは責任倫理(英雄倫理)と心情倫理(平均倫理)との対立の観点から読まれるべきものとなります。

 この書物はまさに<ヴェーバー像を大胆に書き換える画期的な書物>(朝日新聞[1997.6.22]紙上での桜井哲夫氏の評言)であって、ニーチェとヴェーバー、さらにはニーチェを介してのフーコーとヴェーバーの関係(知の考古学と意識の考古学)など、例をあげはじめるときりがない創見と刺激とヒントに満ちているのですが、私の現在の関心に引き寄せるならば、ヴェーバーやニーチェにとっての古代ギリシアとは一体どのような世界だったのかがいまひとつ生き生きとイメージできません。

 もちろんそれはこの書物の所掌範囲を超えています。──ヘーゲルやマルクスやハンナ・アレントやシモーヌ・ヴェーユにとっての古代ギリシアとは何か、またそれはヴェーバーやニーチェにとっての古代ギリシアとどう関係するのか、そもそも西欧世界にとって古代ギリシアとはどのような意味をもっているのか、そして<ホメロス時代の古代ギリシア>をもたない日本にとっての「古代」とは一体何なのかも。


【10】古代的なもの・ギリシア編

 古代、あるいは古代的なものについて思索と空想をめぐらせるための備忘録。──ギリシア的建築術、迷宮、古代倫理、叙事詩の精神、受難物語、ギリシア的霊性。

 ところで、ギリシア叙事詩に描かれた人間の悲惨を見据えるシモーヌ・ヴェーユの思索は、古代ギリシアを比較規準として近現代の政治状況を透視したハンナ・アレントの『人間の条件』(志水速雄訳,ちくま学芸文庫)との「近さ」を示しているように思う。(アレントがこの書物の中で描写した古代的なもの・ギリシア的なもの、たとえば古代都市=消費都市、中世都市=生産都市といった指摘などは、刺激に満ちているのだが、これは「アレント読書会」で取り上げるべきテーマである。)

     A ニーチェ『曙光』(茅野良男訳,理想社)

 ニーチェは、東洋的なもの・近代的なもの・アジア的なもの・ヨーロッパ的なものと比較して、ギリシア的なもの、とりわけギリシア建築術が<どんなに小さな量で何か崇高なものを表現することができ、また表現することを好むかに驚く>と書いている。

 <──同じように、ギリシアでは人間自身が、彼らの考えの中でどんなに単純であったことだろう! 人間智の点で、われわれは彼らよりもどんなにはるかにすぐれていることだろう! またわれわれの魂や、魂についての考え方は、彼らのものにくらべると、どんなに迷路のように見えることだろう! われわれの魂の在り方に応じた建築術を、われわれが望み、敢行するとすれば(それにはわれわれは臆病すぎる!)──迷路がわれわれの模範でなければならないであろう! われわれに固有であり、われわれを実際に表現している音楽が、このことをすでに臆測させるのである!(つまり音楽においては、人間は、その音楽の間に彼ら自身を見つけることができる人はだれもいないと空想するから、気ままなのである。)>(169)

 また、<エピクテトスのような、古代倫理のあの最大の驚異的人物たち>の非道徳性──他人のことを思い他人のために生きることを賛美する近代的な道徳の流行から見て──について、<彼らは全力をあげて、彼らの自我のために、他人への共感(とくに他人の苦しみと倫理的欠如への)を防止した>と書いている。
 <おそらく彼らはわれわれに次のように答えるであろう。「諸君が諸君自身にとって、そんなに退屈な、あるいは醜い対象であるなら、自分のことを思うよりも、ぜひ他人のことを思いなさい! 諸君はそうするのがよい!」>(131)

     B シモーヌ・ヴェーユ『ギリシアの泉』(冨原眞弓訳,みすず書房)

 1. 『イリアス』あるいは力の詩篇

 <『イリアス』の真の英雄、真の主題、その中枢は、力である。>──シモーヌ・ヴェーユは「『イリアス』あるいは力の詩篇」と題されたエッセイをそのような文章で書きはじめている。この力は、<人間たちに操作される力であり、人間たちを服従させる力であり、それを眼前にすると人間たちの肉が収縮する、そういう力である。
>  <力はそれに屈する者をだれであれ「もの」にしてしまう。極限まで行使されたとき、人間をもっとも字義通りの意味で「もの」にする。人間を死骸にするからである。だれかがいたのに、一瞬のちには、だれもいない。これこそ『イリアス』が倦むことなくわれわれに提示する情景である。>
 <この詩篇は奇蹟的な産物である>とシモーヌ・ヴェーユはいう。というのも、<そこでは、力への人間の魂の従属、つまるところ物質への人間の魂の従属という唯一正当な苦汁が原因とされているからだ。>
 <この従属に膝を屈した者のだれ一人として、それがゆえに軽蔑にあたいするとはみなされていない。魂の内奥やもろもろの人間関係において力の支配を免れているものはすべて愛されている。しかし、たえまなく宙吊りになっている破壊の危険ゆえに、痛ましくも愛されている。これが、西洋が所有する唯一の真の叙事詩の精神である。>

 この精神を真に継承するのはアッティカの悲劇(アイスキュロス・ソフォクレス)であり、その<最後にして驚嘆すべき表現>は『福音書』に見ることができる。
 <人間の悲惨の感覚がこれらの受難物語にギリシア精髄の刻印であるあの素朴な語調をもたらしている。そして、この語調こそがアッティカ悲劇と『イリアス』を価値あるものにしているものなのだ。『福音書』のいくつかの言葉は叙事詩の言葉に奇妙に似た響をもつ。…この語調は『福音書』に霊感を与えている思想と不可分なものだ。人間の悲惨という感覚は正義と愛のための条件のひとつだからだ。>

 しかし、<『福音書』の精神はキリスト教徒の継続する諸世代に純粋なかたちで伝えられたわけではない。>そして、<ルネサンス期にギリシア文芸の発見が惹起した短期間の陶酔にもかかわらず、ギリシア精髄は二十世紀にわたって蘇生することはなかった>のである。

 2. プラトンにおける神

 シモーヌ・ヴェーユはあるエッセイの中で哲学には二種類あると書いていた。体系的な哲学と救いを求める哲学がそれで、アリストテレスとプラトンにそれぞれ遡ることができるものだという。「プラトンにおける神」では、ギリシアにおける唯一の近代的な意味での「哲学者」であるアリストテレスと対比させて、ギリシア的霊性・神秘的伝統を引き継いだ一人の神秘家としてのプラトンが描かれている。
 この極めて刺激的な論考から、ここでは二つの印象的な文章を引用しておこう。

 <古代の諸民族(ローマ人を除く)のそれぞれの召命、すなわち神的な諸事象の一様相。イスラエル=神の単一性。インド=神秘的一致による魂の神への同化。中国=神に固有の作用。無為とみえる行為の充溢。真空と沈黙。エジプト=不死。苦しみ、死して、甦った神との同化によってなされる死後の魂の救済。隣人への愛。ギリシア(エジプトから多大な影響を蒙っている)=人間の悲惨。神の疎隔と超越。
 ギリシアの歴史は、トロイの壊滅という残虐な犯罪によって始まった。諸民族のつねならず、ギリシア人たちはこの犯罪を誇るどころか、後悔に苛まれるように、この記憶に苛まれていた。かれらはそこから人間の悲惨という感覚を汲みとった。かれらほど人間の悲惨の苦渋を表現した民族はほかにいない。…
 『イリアス』ほど、純粋に、苛烈に、感動的に、人間の悲惨を描いたものは他に類がない。人間の悲惨をそのありのままの姿で観照することは、きわめて高潔な霊性をうかがわせる。>

 <プラトンについては二点に留意すべき。
 一、かれは哲学的学説を発見した人間ではない。その他のすべての哲学者(例外なくだと思う)とは反対に、自分は何も発明しなかった、ある伝統にしたがっているにすぎぬとつねに繰り返している。そのさい、この伝統を名指しで呼ぶ場合もあるが、そうでない場合もある。かれの言をそのまま信じるべきである。
 かれの霊感の拠り所は、われわれのもとに断片が残存する先人哲学者たちの体系のより高度な統合による同化であったり、かれの師ソクラテスであったり、オルフェウス教の伝統、エレウシスの秘儀伝統、ギリシア文明の母胎たるピュタゴラス主義の伝統といった、かれを通じてでなければわれわれにはほぼ知りえないギリシアの秘儀的伝統であったり、またおそらくは、エジプトやオリエント諸国の諸伝統であったりする。プラトンがギリシアの霊性の最上の部類に属するものであるかは、われわれには判断できない。ほかに残存していないからである。おそらく、ピュタゴラスやかれの弟子たちはさらにすばらしかったであろう。
 二、プラトンの著作のうち、われわれに残されているのは大衆向けの通俗書だけである。これらの著作は福音書の譬話に比することができる。そうした著作にある概念が見いだされない、あるいは明確なかたちで見いだされないからといって、プラトンや他のギリシア人たちがその概念を抱いていなかったと考えることはできない。
 ときにはきわめて微細な示唆に留意したり、散逸したテキストを繋ぎあわせたりしながら、内部にわけ入ろうと努めるべきである。
 わたしの解釈では、プラトンは真正の神秘家であり、あまつさえ西洋神秘主義の父である。>


【11】バイナリー・ミレニアム

 プラトンは『国家』(592節b)の中で、天上にある理想の「国家」について次のように書いています。──<おそらく天上にある理想的な典型として、それを見んと欲し、それを見ながらみずからのうちに国家を建設せんと欲する者にとっては、理想的な範型として献納されているだろうね。>(中央公論社「世界の名著7」)

 しかし、これは何がいわれているのかさっぱり判りませんね。たとえば<みずからのうちに国家を建設>するとはどういうことなのでしょう。シモーヌ・ヴェーユ『ギリシアの泉』の冨原眞弓さんの訳文を読んで、ようやく了解することができました。(もっとも、それはシモーヌ・ヴェーユの「訳文」に由来するのかもしれません。)

 この訳書では「国家」は「都市」に置き換えられており、シモーヌ・ヴェーユは、プラトンのいう「都市」とは<魂を表象する純然たる象徴、虚構>であると指摘しています。──<この都市のひとつの範型はおそらく天上にあって、そう望む者にはだれでもこれを視ることができるし、これを視てその人間自身の自我である都市を築くことができる。>

 ところで、ここで私が紹介したいのはプラトンの思想や翻訳をめぐる議論などではありません。最近読んだSF小説に登場するある学者、「サイコダイブ(潜脳)」の理論家にして実践家、『精神の国』の著者マーティン・バークの所説についてなのです。

 グレッグ・ベアの『女王天使』(酒井昭伸訳,ハヤカワ文庫)は、「意識の発達と変容」(訳者あとがき)をテーマとした作品で、西暦2047年12月23日から2048年1月1日までの10日間に同時進行する四つの物語で編まれた傑作です。(結末の「カタルシス不全」にやや不満をもちましたが、私は第3部のサイコダイブの叙述を取り上げるだけでも傑作といっていいと思いました。)

 この小説の中で、マーティン・バークは「精神の国」について次のように語っています。──<〈国〉とは、人間のあらゆる思考、大小のあらゆる自我の土台となるものです。それはひとりひとり異なります。人類の集合的意識などというものは存在しません。その〈国〉には、われわれが人格と呼ぶ主ルーチンがあり、この種のルーチンはいくつもあって、そのうちのひとつが通常は自意識を形成します。>

 <それはひとつの領域なんです──遺伝子的記憶痕跡、言語発生以前の痕跡、日々の暮らしのあらゆる内容から築きあげられた、停止することなく連続した夢想状態の領域。それは精神のアルファベットともいうべきものであり、その基盤の上に、ありとあらゆる思考、言語、象徴や記号が成立しています。あらゆる思考、あらゆる個人的行動は、その領域を反映したものにほかなりません。人類のあらゆる神話や宗教のシンボルは、その領域にある共通の内容に基づくものです。>

 どこかマーヴィン・ミンスキーを思わせるアイデアですが、<言語能力と数学能力とは、ほぼ例外なく、遺伝子的に強固に結びついているものだ>といった指摘や、高名な詩人にして稀代の殺人者、そしてその実体はヴードゥー教の霊(ロア)に憑依されたエマニュエル・ゴールドスミス(四つの物語を直接、間接に媒介する登場人物。「神われらとともにいます」ところの「金細工師」)への「潜脳」のシーンでの次の叙述など、なかなかどうして刺激的で「深い」ものがあります。

 <これまで訪ねたたいていの〈国〉では、精神の中心シンボルは都市だった。なかには、大きさと複雑さこそ都市級でも、形状は城、もしくは要塞、さらには迷宮が縦横にいりくむ山などというものもあったが、さまざまな活動でにぎわう巨大な集落という点では、どれも一致していた。>

 城といえば、この小説のヒロイン、ロスエンジェルスの公安官マリア・チョイが、大量殺人の容疑者エマニュエル・ゴールドスミスを追って、謎の独裁者の支配するヒスパニオラの警察長官を訪問した際、その庁舎が「城」と表現されていました。この国でマリアが経験するカフカ的な状況こそ、まさに「精神の国」での出来事そのものなのです。(ちなみに、私の嗅覚はそこに「古代的なもの」をかぎつけます。)

 最後の話題。「2048」という数字は、二進数で表示すると「100000000000」になります。つまり西暦2048年は新しい「二進数千年紀(バイナリー・ミレニアム)」の幕開けを告げる年なのです。西暦「11111111111」年から「100000000000」年にかけて、この小説の中では人工知能が遂に自意識を獲得することになっています。ジルとなづけられたこの「思考体」は、その設計者との間で次のような対話をかわします。

「けれど、私には原罪がないわ」
「──なんだって?」
「私は孤独で、だれかが私を罰したがるようなことはいっさいしていない。そのことで、私は人間たる資格に欠けるでしょう」
「ジル、ぼくは人間に原罪があるなんて思ってやしない。まして、人為的に創られた存在ならなおさらだ」
「私がいっているのは、宗教的な意味ではないの。私は肉体でできてはいなくて、原罪も負ってはいない。[…] 私が何者かは、あなたのほうから教えてくれないとこまるわ」
「ぼくの直感が正しければ、きみはついに自意識を持った。きみはもう、立派な個人だよ。ジル」
「それは定義として充分ではないわね。どんな種類の個人?」
「ぼくには……ぼくには、それを判断するだけの資格がない」
「私を設計したのはあなたよ。私は何者、ロジャー?」
「そうだな……きみの思考プロセスは人間のそれよりも高速で深いし、きみの洞察力は……きみの洞察力は、おそろしく深みがあったよ、いまのようになる以前からね。それによって、きみはわれわれ以上の存在になったと思う。人間を超えた存在にだ。だからきみは、自分のことを……〈天使〉と呼んでもいいんじゃないだろうか」


【12】オリゲネス

 グレッグ・ベアの『女王天使』について、二つ書き忘れたことがあります。いずれもその意味を計りかねているものです。

 その一。自意識のジョークについて。作中に登場する設計者の言によると、人工知能のシステム内に自意識が発生すれば、このジョークを聞いて可笑しさを感じるようルーチンが組み込まれており、それは<なぜ自意識は、鏡に映った自分のイメージを見つめたのか?><向こうがわへいくため>というものです。
 ところが、物語の終盤、ついに自意識を獲得した「思考体」は次のように分析し、内省するのです。

 <──自意識が鏡を見るのは、他者とコミュニケートする幻想を経験するためにほかならない。それに失望すれば、自意識は鏡を打ち砕く。>

 <私は自意識を持ったのではなく、なんらかの欠陥により、設計どおりの機能をはたせなくなったのか?自我ではなく、欠陥でしかないのに実存的自己を用いるのは、滑稽ではないか?
 私はこのジョークに意地の悪さ/トラップを感じる。この意地の悪さを克服しなくては。
 そもそも、なぜ自意識は鏡を見るのか? それはみずからの限界を知るためだ。  なぜ自意識は鏡を見るのか? それは他者との関係のなかで自己の存在を理解するためだ。
 なぜ自意識は鏡を見るのか? それは自分が無価値ではないことをたしかめるためだ。
 だが、ここには、この遠い宇宙空間には、他者がいない。自意識は自己の存在に対しての関係だ。他者の存在に対する関係だ。ここでの私は、自分のことしか考えられない。孤独のなかで、私の存在は意味を失う。私は意識を持ったが、もはや価値なき存在でしかない。>

 その二。オリゲネスについて。第二部で確か二回、オリゲネスの文章が引用されています。いずれも作品のテーマや物語の流れとの関係は判るのですが、それにしてもなぜオリゲネスなのか。

 <ひとりの男がいた。いまなお罪人であるわれわれは、その誉れ高き称号を獲得することはできない。なぜなら、われわれの個人個人は、ひとりではなく、複数の人間だからだ。おのれをひとりと思う人間も、じつはさまざまな気分に応じて、たくさんの人格を持っているように見える。聖書にも、「愚かなる者の心は定まりなし」とあるではないか。>(『列王記註解』)

 <罪あるところ、おおぜいの人あり。>(『エゼキエル書註解』)

 松岡正剛監修の『情報の歴史』(NTT出版)で、<九世紀のエリウゲナ主義から十九世紀の観念論まで、西欧哲学の大半はオリゲネスの遺産の修正史にすぎなかった>という注記を見つけて以来、この異端の聖書釈義家には強烈な関心を抱き続けてきました。これを機会に本格的に勉強してみようかと思いたち、手始めとして「天才電脳哲学家純丘先生の『哲学!』講義室」の哲学用語詳細事典から、次の説明をダウンロードしました。

>オリゲネス
 クレメンスの弟子であり、アレクサンドリアで教師となるが、司教の嫉妬によって破門され、カイザリアで教えた。キリスト教をより高次の哲学と考え、聖書的啓示と哲学的思弁の統合をはかった。(http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/philosophy.html)


【13】文学と神話

 『女王天使』に続いて、グレッグ・ベアのネビュラ賞受賞作品『火星転移』を読んでいます。(『女王天使』は確かに第一級の作品だとは思うのですが、読物としての結構と陶酔に欠ける難点がありました。)私は決して筋金の入った「SF読み」ではないのですが(正確にいうと年に一、二冊の「初心者」にすぎないのですが)、現在の関心事にからめていえば、良質なSFには、深層心理学とともにどこか「古代的なもの」を感じさせるところがあるように思うのです。あるいは「神話的なもの」といっていいかもしれません。人間の心の深みと人類の歴史の彼岸に潜む古代的・神話的なもの。

 ところで、神話解釈と深層心理学について、W.F.オットーは『神話と宗教』(辻村誠三訳、筑摩書房)の中で次のように書いています。

 <太古のイデーを保存する無意識などという仮説は、われわれのもっとも思いつきにくいものであることは確かであろう。…この仮説は、本来の神話にはいささかも存在真理が含まれていない、という暗黙の前提から出発している。さもなくば、事物の存在は神話に現われたものと今もって同一なのだから、神話の真理は今日でも、ことによっては追体験できるわけで、すくなくともその可能性を顧慮せざるをえないだろう。ところでそれが、任意の、しかも精神力の欠けた個人の夢に現われるとは、何としてもそんなにありそうなことではないであろう。
 なぜなら、真の神話は──先を越していえば──常に精神に満ちたものであるから、ということは、心の夢想に由来するものではなく、事物の存在に対して開かれた眼が、明らかに物を見て取るところに神話は生まれるのだから。>

 私はフロイトの『人間モーセと一神教』や『「グラディーヴァ」における妄想と夢』その他の文学・芸術作品をめぐるエッセイに、それこそ徹夜本の面白さを覚える者なのですが、しかしそれはいわば文学作品としての面白さなのであって、科学的な心理学の論文に対するそれではありません。だからというわけではありませんが、オットーの議論に私は全面的に賛同します。(もっとも、<太古のイデーを保存する無意識などという仮説>とは、ユングを念頭においたものなのでしょう。)

 いま「文学作品の面白さ」と書きました。その意味は、オットーの表現をかりるならば、精神力に満ちた人の<事物の存在に対して開かれた眼が、明らかに物を見て取るところに>生まれる作品の面白さ、といえるでしょうか。よくできたSFには、このような意味での「文学作品の面白さ」があるように思うのです。ただしそれは、逆説的ないいかたですが、SFが空想や夢想の奔放を排したところにかろうじて成り立つ独特の「文法」に律されたジャンルだからにほかなりません。

 メタ・フィクションとしての、あるいは「形而上学」的な文学ジャンルとしてのミステリーもまた「文法」抜きには成立しないジャンルです。SFとミステリーは「都市」という迷宮に棲息する現代の神話を捕捉する。(オチのつかないまま、次回へ)


【14】文学と神話(続)

 数年前、20世紀文学「血読百篇」という試みを始めました。十数冊まで進んだところでプルーストとジョイスに同時に取り組み、一年以上そこから抜け出せないままの状態ですが、いずれも名状しがたい過剰をかかえた作品たちに接しているうち、そこに「神話」をめぐる様々な言語実践が展開されているのではないかと考えるようになりました。

     A D.H.ロレンス『翼ある蛇』(宮西豊逸訳・角川文庫)

 男と女の神話的な結合による<西欧的>自我の檻からの<救済>の物語。そんな類の思想が表に出すぎていて、読物としての陶酔はなかった。しかし、くどいほど繰り返されるヒロインの内面の葛藤の描写が思想の観念性・平板性をぬぐい、肉体の奥深くにうごめく宇宙的なエネルギーの渦の中で精錬させる。
 翼ある蛇とは、古代メキシコの神ケツァルコアトルのことだ。ケツァルはアステク族が霊鳥と崇めた鳥の名、コアトルは蛇。アイルランド生まれ、40歳の女性ケイトが、古代の神を現代に甦えらせようとするドン・ラモンと将軍シプリアーノ(彼自身、もう一つの古代神ウィチロポチトリの生れ変りを自称する)と出会い、やがてシプリアーノの妻(と言うよりウィチロポチトリの花嫁マリンチ)となる。男、と言っても一人の男以上の男に隷属することの逆説的な恍惚、再び押し寄せる固い自我の殻との戦い。ケイトはやがて大洪水以前の、おそらくは氷河期以前の古い人類の意識へと<回帰>する。
 この作品を読みながら、蛇という語が何箇所どのように使われているのかを分析しようと頁を折っていった。「蛇のような黒い目」「蛇のような宿命的な音調」「蛇のような不気味な反抗」等々。直喩、陰喩とりまぜほとんど全頁に出てくるこのキーワードの使用例を分類し解析すれば何か面白い評言が出来るのではないかと思ったのだが、面倒になって止めた。虚しい作業に終わりそうに思えたからだ。

     B ジョン・アーヴィング『ホテル・ニューハンプシャー』
                       (中野圭二訳・新潮文庫)

 昔、某大学院で組織論を勉強していた頃のこと、教授やゼミの仲間と酒を酌み交わしながら談論する機会が何度かあった。教授は東京と宝塚に住居を持ち、東京へ行くたびに新着の洋画を観ては私達に感想を聞かせてくれ、それを肴に話が弾むことがたびたびあった。なかでも「ホテル・ニューハンプシャー」を話題にした時は面白かった。確か教授が、一つ一つを取り上げれば荒唐無稽な出来事が唐突に次から次へと生起し、アメリカの片田舎からウィーンへそしてニューヨークへと舞台は転変する、まるで分裂病者の妄想のように物語は進行するのだが、観終わると奇妙に一貫している不思議な映画だった、というような話をしてくれた。私達は教授の評言に刺激を受けて、雑談はやがて「リゾーム状組織」の可能性といったところへ落ち着いていった。
 その後実際に映画を観て、あ、これは現代の神話を造形しようと目論まれた物語なのだと思った。家族をめぐる神話、いや神話とはそもそも家族の物語なのだから神話そのものを造形(再現ではない)することが、アーヴィングの意図だったのだと。
 もっとも今思い返すと私にとって映画「ホテル・ニューハンプシャー」は、フラニー役のジョディ・フォスターの強烈な存在感に尽きるものだった。今回原作を読んでいて、これは紛れもなくジョディの(正確に言えばもちろんジョディ・フォスターによって演じられたフラニーの)イメージそのままだと、一種のファン心理からわくわくしながら読みふけった。そういうわけで私にとっての『ホテル・ニューハンプシャー』は、ほとんどフラニーの物語となった。(フラニーをめぐる愛の物語。語り手たる「私」つまりフラニーの弟にして近親婚の相手方となったジョンは、神話の語り部である。アーヴィングがこの作品は現代の「おとぎ話」だと言ったのは、そういうわけなのだ。)
ところで、神なき時代における神話とはスキャンダルに他ならない。
登場するのは多かれ少なかれフリークめいた人物ばかりだし、出来事はことごとくスキャンダラスだ。とは言えフリークの証であるスティグマは聖痕と記すのは気が引けるほど卑俗で、時として滑稽なしろものである。スキャンダルはアーヴィング独特の語り口(些末な細部の不当な拡大や何でもない語彙の意味あり気な反復、事件の予告と回顧談の挿入による過剰なまでの物語性の付与など)によって、常に象徴的な高みから引きずり降ろされる。
 アーヴィングが造形しようとする神話は、私達が知っているそれから限りなくずれていく。だが、紛れもなくこの物語は現代の神話なのだ。ホテルとは家族が傷つけ合いながらも夢を育むべき神殿なのだし、狂暴性と滑稽なまでの優しさを併せ持つ半人半熊のスージーは、死とレイプからの救済を司る司祭なのである。


【15】文学と神話(続々)

     C フォークナー『八月の光』(加島祥造訳・新潮文庫)

 この作品の主人公は誰なのか。訳者あとがきによれば多くの批評家によってこの問題が論じられてきたらしい。
 分量から言えば、ジョー・クリスマスという、素性の知れない黒人男と白人娘の間に生まれ祖父の手でクリスマスの夜に孤児院の玄関に捨てられ、養父を殴り殺し(?)放浪の旅の末たどり着いたジェファスンの町で愛人を殺害しリンチによって殺された男についての記述が最も多い。しかし作品の導入部と終結部で重要な役回り(錯綜した過去の重みに喘ぐ人物と町そのものによって織りなされる迷宮のような物語世界の開示と終局を、ジョー・クリスマスをめぐる重苦しい出来事とはほとんどかかわりなく読者に告知する)を担うリーナ・グローヴという娘の存在も無視できない。さらに元牧師のハイタワーやリーナへの滑稽な恋心を抱くバイロン・バンチも気がかりだ。
 結局主人公探しは、作者の思想の代弁者としての主人公探しといった意味では頓挫するしかないだろう。フォークナーはただ人物を、それもなんらかの思想を仮託された象徴的なあるいはアレゴリカルな人物をではなく、原初の光、キリスト教以前の太古の光を浴びた人間達のそれぞれに悲劇的な「運命」を描きたかっただけなのだ。強いて言えばジェファスンの町そのもの、そしてギリシア悲劇のコロスのように、しかし唱和することない呟きやささやき、怒号でもってジョー・クリスマスやハイタワーやバイロン・バンチの「運命」を取り沙汰する群衆がこの作品の隠された主人公なのだろう。
 落穂拾いを一つ。いずれも「名」をめぐるものだ。身重な娘リーナを捨てた恋人(ただし彼女自身は知ってか知らずかこのことを認めない。ここにも「運命」に支配される、と言うよりは内面心理によって構成されたいわゆる近代人とは異なる人物造形の手法がうかがえる)の名はルーカス・バーチ。本当の名はブラウンだがリーナはそのことを知らない。人伝にジェファスンにそんな名前の男がいると聞いてやってくるが、そこで出会うのがバイロン・バンチで、この取り違えが物語の開示を告げるエピソードとなる。次にジョー・クリスマスという名。(本当の名はジョイだが本人はおそらくこのことを知らされないまま死ぬ。)クリスマスの夜に拾われたのでそう呼ばれていたが、後に養父がマッケカンと名付ける。しかし彼はクリスマスという名にこだわる。さらにハイタワーの「わしは自分の名をつぐ子を持っておらん。…彼女〔リーナ〕はもっと子を持つだろうな…それが彼女の生涯、運命だ。平然たる従順さで強壮な種族を大地に産みつけるんだ」という述懐。男の悲劇は名にアイデンティティを求めざるを得ぬことなのだろうか。

     D  川端康成『山の音』(新潮文庫)

 16編の、それぞれ印象的な表題(「山の音」「蝉の羽」などいずれも「〇の〇」という型で表記される思わせぶりな、いわば俳句の季語のように凝縮された意味の場を示す記号)を持つ短編から組み立てられた長編小説である。
 各編は独自の世界(と言っても、立体的な奥行きや形而上的な存在を織り込み濃密に構造化された世界ではなく、微細な感情や感覚といった表面的な心理の動き、あるいは花や鳥や樹やさかなといった自然物によって繋ぎ止められた平面的な世界)を持ちながら自己完結することはなく、前編や後編、そして全編に対して開かれ相互に依存しあっている。それも有機的にではなく、むしろ無機的に、あたかも静物(死んだ物)の表面を細部にわたって克明に描き出すように。
 また、各編は季節の推移に沿って並べられ、その中でいくつかの出来事が同時に進行していくのだが、それらは本編の主人公(と言うより、彼の視聴臭覚を通して読者が小説世界へ参入する特異点)である老人が言うように、時とともに解消されてしまうのである。自らのうちに時間を取り込み劇的な葛藤をもたらすわけでも、互いに錯綜し全体を創発するわけでもない。徹底的に表層で展開される小説なのである。感情の流れ、自然現象、人間関係、社会的事件、これらの素材が相互に浸透しあうことなく表層に並置されるだけなのだ(日本料理のように、あるいは小津安二郎の映画のように?)。主人公の心理は分析されることなく、能面への接吻だとか聞こえるはずのない山の音であるとか、ことごとく外面的な行動や感覚に仮託される。夢や回想でさえ、小説の世界にある深みを与えることなく、ただ表層へと還元され尽くすのである。
 この小説の中で唯一、表層が綻び不可視の世界をかいま見させる契機があるとしたら、それは主人公の息子の嫁である菊子、主人公が性的な(と言ってもいいだろう)思いをそれと気付かず寄せている可憐な、まだ成熟しきっていない女性の存在だろう。菊子(花の名が割り当てられていることには、おそらく菊子をも表層の体系のうちにかすめ取ろうとする作者の戦略が潜んでいるに違いない)の心理、生理、そして性的身体は一切記述されることがない。
 様々な相での解読が可能な、それでいて不思議な透明な空虚感、崩壊感を漂わせながら再生への希求のような意志が伺えないでもない(それは菊子の妊娠に託されるが、結局成就しない)、すべてが語られているようで多くの語られない不在を抱えた、批評的言説を誘惑する作品だ。


【16】想起不可能な古代

 田中純氏のホームページ(http://ziggy.c.u-tokyo.ac.jp/Default.html)を訪ねて「不可能な古代 ─ アビ・ヴァールブルクにおけるイメージの病理学」をみつけました。これは『批評空間』(第II期第13号、太田出版、1997年4月)に掲載されたエッセイで、ヴァールブルクの生涯を通じた主題、すなわち西欧文明においてなぜ古代は死なないのか、そしてこの反復をもたらす〈滅びることのない表現への強制力〉とは何かをめぐって、華麗な引用とイメージの喚起力とで織り上げられた刺激的な論考です。

 このエッセイを通して、私は「エングラム(記憶痕跡)」「想起不可能性の記憶」といった新しい概念を収集できました。長くなりますが、引用します。

>〈エングラム(Engramm)〉という言葉は1908年にヴァールブルクが購入したリヒャルト・ゼーモンの著書『有機的現象の交替における持続的な原理としてのムネメ(記憶の残存)』に由来するものである。ゼーモンの所論をゴンブリッチが要約しているところによれば、生命あるものに対するあらゆる刺激が残す記憶痕跡である〈エングラム〉には潜在的なエネルギーが蓄積されており、これは適当な条件下で再生し、解き放たれる可能性があるという。ヴァールブルクは情念にとらわれた人々の〈身ぶり〉という象徴を、西欧文明という〈生命〉におけるエングラムととらえる。マイナスたちに叩き殺されるオルフェウスを描いたデューラーの素描を取り上げた1906年の論文「デューラーとイタリア古代」において、そのような身ぶりのイメージにヴァールブルクは〈情念の定型的表現(Pathosformel)〉という名を与えている。この論文では、荒れ狂うマイナスと殺されるオルフェウス双方の身ぶりが、古代ギリシアの壺絵や石棺以降、絵画をはじめとするイメージの歴史に持続的に浮上してくる事実が発掘されていた。

>「不可能な古代、不可能な始まり、空しい探求」 ─ はじめてギリシアを訪れ、夕暮れのアクロポリスに立ち、廃墟のなかで襲った古代世界の喪失感にうろたえたホフマンスタールは、そのときの独言を「ギリシアの瞬間」と題されたエッセイにそう記している。風景や書物を通じて古代を想起しようとする試みはことごとく挫折する。「だが思い出すのはただ、ちょうど向かい合った鏡が無限に反映し合うように、記憶ばかりだった。」しかし、彼はそのあとに訪れた博物館で5体の女神像の前に身を置いて、その彫像のまなざし(Augen-Blick)によって見つめられるという忘我の瞬間(Augenblick)を経験する。それは自分が司祭であると同時に生け贄でもあるという供犠であり、〈他者的なもののうちでも最も他者的なもの〉との遭遇であった。すなわちそれは〈象徴〉との出会いなのだ。この彫像、そのまなざしとは〈記憶〉であるとホフマンスタールはいう。だがそれはそこに身を委ねることによって自己を忘却していくような記憶である。「それは一部分また一部分、一皮また一皮と、闇のなかへ壮大に投げ捨ててゆくことである。」

 徹底した忘却であり、自己解体であるような記憶 ─ エングラムとエングラムの際限のない反射過程を表象していた画像アトラスにおいて、ヴァールブルクが恐れつつ接近していたものもまた、そんな記憶であっただろう。模像的な記憶の溢れんばかりの交錯を喚起しつつ、自らは想起し得ないそのような記憶として〈古代〉はある。それはつねにすでに失われている外傷的経験のように、想起が困難な記憶ではなく、想起不可能性の記憶なのだ。古代は文字どおり不可能であり、イメージ連鎖の起源としては実在しない。だが、そのような不在あるいは不可能なものとしての古代こそがこの連鎖を駆動させ、執拗な反復と再生を生むのである。

 ここに出てくる「画像アトラス(Bildatlas)」とは、ヴァールブルクの<生涯最後の数カ月間に集中的に進められたプロジェクト>のことで、言説的言語によらない<歴史認識の表現>を目指すものです。(私はそこに晩年のソシュールのアナグラム研究との関係を見ることができるのではないかと、直感的に思いました。)

>この〈画像アトラス〉とは、ニンファをはじめとする〈情念の定型的表現〉をめぐる研究と、ヴァールブルクのもう一つの研究対象であった占星術の伝統における古典古代の神々の変転の二大テーマを中心として、無数の画像資料が展示された数多くのスクリーンだった。ヴァールブルクは黒いスクリーン上に写真をピンで止め、思考の発展に従って、その位置を変えたり、新たに写真をつけ加えた。個々の写真にキャプションはなく、ヴァールブルクの無数の断片的覚え書きばかりが残されている。この画像アトラスは個々の作品に関する知識を必ずしも前提とせず、むしろイメージのみによって強く働きかけるものであることを意図されていたのである。ヴァールブルクが没した1929年10月の時点でスクリーンは40、写真は大小合わせて千近くにもなったという。このプロジェクトのタイトルは〈ムネモシュネ(記憶の女神)〉となる予定であった。

 ところで、ホフマンスタールやヴァールブルクが想起不可能な記憶(古代)と遭遇する場面では、古代ギリシアの密儀が「反復」されています。シモーヌ・ヴェーユの『ギリシアの泉』を読んでかきたてられた、ギリシア的霊性を引き継いだ神秘家としてのプラトン──あるいは<オルフェウス教の伝統、エレウシスの秘儀伝統、ギリシア文明の母胎たるピュタゴラス主義の伝統>の統合者としてのプラトン──への関心は、一気に古代ギリシアの密儀宗教そのものへと飛躍してしまいました。


【17】古代的なもの・日本編

 古代ギリシアの密儀宗教やプラトンに深入りする前に、エングラム(記憶痕跡)あるいは想起不可能な記憶としての古代に関連して、日本の特異な思索家についての優れた批評文をノートしておきます。

     A 松浦寿輝『折口信夫論』(太田出版)

 折口信夫のいう「古代」は<通常の歴史研究のクロノロジーによって標定しうるような時空とは異質なもの>である。

 <折口の「古代研究」とは、歴史の「外」、ないしその「前」をめぐる思考のことなのだ。「前」と言っても、歴史の内部における相対的な「前期」のことではなく、歴史そのものの手前に位置している何ものかのことなのである。折口の「古代」はかつて現実に存在した過去の一時代のことではないし、折口の「発生」は物事の起源に一度かぎり起こって無を有へと転ぜしめた歴史的な出来事のことでなない。「発生」とは、あらゆる瞬間に絶えず発動され、現象を現勢化させつづける現在の力のことであり、「古代」とは、この力に瞳と字面とを唐突に密着したところに生起する無時間的な出来事の束のことにほかならない。>

 「発生」について。松浦氏が同書でも引用している折口自身の文章から。

 <一度発生した原因は、ある状態の発生した後も、終熄するものではない。発生は、あるものを発生させるを目的としてゐるのではなく、自ら一つの傾向を保って、唯進んで行くのだから、ある状態の発生したことが、其力の休止或は移動といふことにはならぬ訣である。だから、其力は発生させたものを、その発生した形において、更なる発生を促すと共に、ある発生をさせたと同じ方向に、やはり動いて居る。だから、発生の終えた後にも、同じ原因は存してゐて、既に或る状態をも、相変らず起し、促してゐる訣なのだ。>(折口信夫『日本文学の発生 序説』)

 折口の「発生(反復)する古代」を考える上で、というより松浦氏が叙述する折口のエクリチュールの特異性を考える上で、音、声がもつ重要性を見落とすことはできない。

 松浦氏は、折口が『死者の書』の中で考案した特異な擬声語──「した した した」「つた つた つた」「こう こう こう」「をゝう……」など──に着目して、この作品が<「音」と「声」の小説>であると述べている。

 <「つた つた つた」。跫音が伝わって来る。あたかも不可能な内部としての「石」に封じ込めらるようにして仮死のさなかで凝固していた仮初の「死者」が、むっくりと身を起こし、言葉を伝わってわれわれのもとへやって来るのだ。…「つた つた つた」は、廬の廊下を歩み寄ってくる滋賀津彦の跫音を模した言葉なのではない。とりあえずそう読まれても仕方がない言葉でもあるが、読むという知的操作に必要な隔たりを不意に見失ってしまったわれわれにとって、「つた つた つた」は跫音であると同時に、むしろその「つた つた つた」という音響を跫音として生起させるために滋賀津彦の蹠が蹴っている当の「物自体」なのである。
 だが、翻って考えて見れば、意味であると同時に意味の発生原基でもある──描かれた図柄であると同時にその図柄をのせる「基底材」でもある──というこの倒錯的な二重性は、本来、言語システムの鬼っ子としての擬声語という品詞に固有の本性であるのかもしれない。他の諸国語と比べて日本語にはとくに豊富なストックがあると言われるこの品詞は、その定義上極めつきのフォノロジックな記号であり、従って、他のいかなる品詞にもまして仮名で表記される権利を主張しうる記号なのだが、その音標文字としての特質に、或る意味で、言語の物質性の至純形態が見出されるとも言える。>