仮面考・第一回「音=声を通して」



【221】仮面考・第一回「音=声を通して」(1)

 いつのころからか「仮面」に強い関心をいだくようになりました。仮面をめぐる現象や機能、それらのなかにうごめいている構造、そして仮面の存在そのものにいたく想像力を刺激され、あれこれと妄想をたくましくしてきたのです。

 文献や民俗などにあらわれた諸事例を収集分類し、そういった作業にどっぷりと身を浸すことのなかからおのずと浮かび上がってくる「論」のようなものを掬いだす試みに着手しかけたこともありますが、性分としてこの種の「知的営為」には向いていなくて、作業は長続きせず、当初の新鮮な関心はとりとめもなく拡散していってしまいます。

 そこで、このあたりで一度棚卸しをして、自分なりの仮面への想いにひとつのかたちを与えておきたいと考えました。棚卸しといっても、情報や知識ではなく妄想その他のイメージの‘我楽多’の整理にすぎず、ひとつのかたちを与えるといっても、体系的に整序された見通しのいいものではなく、ありあわせ・間に合わせの素材をつかって‘苫屋’を組み立てる応急仮設工事にすぎません。

 そういうわけで、以下はけっして器用でない人間の手仕事によって(脱線を重ねながら)ブリコラージュされた「仮面学」の試みです。――これから工事に着手するわけですから、正しくは、たとえば仮面学序説(変格版)とでも名づけることができるものになればいいと思っている素材蒐集の作業にすぎません。

(とりあえず第一回目は「音=声」をめぐって、第二回目以降は──流れと気分に即して──「顔=貌」「身=実」等々をめぐる作業を予定していて、最終的には以前から「構想」している仮面の記号論──イコン・インデックス・シンボルに次ぐ第四の記号類型としてのマスクについての論──へたどり着きたいと考えているのですが、これだけはやってみなければどうなるかわかりませんし、仮面というテーマを逸脱して漂流してしまうかもしれません。)

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■銅鐸と青銅仮面

 銅鐸は古代のコンピュータだったという説があります。この「ベル型の青銅器」は一種の楽器あるいは共鳴器で、古代の神々は(あるいは人と神は)音を通じてコミュニケートし「計算」していたというのです。山田久延彦著『真説 古事記』全四巻のいずれかで読んだと記憶しているのですが、もうずいぶん昔のことだし手元に現物がないので確かめられません。(それにしても「くえひこ」=「かかし」とは人を食った筆名ですね。)

 ところで、私には前々からひとつの直観(というか妄想)があって、それは建築物とは楽器にほかならないのではないか、というものです。ヴァレリーの『エウパリノス』やシェリングの「凍れる音楽」をもちだすまでもなく、即物的に考えてみても、建築物がその内部や外部にかたちづくる空間は音が宿り生まれ増幅し、通いあい響きあう場として機能することはみやすい道理です。

 いまひとつ直観を書き加えるならば、建築物に宿る「音」とは非−人間的な神性や霊性そのものなのではないか、あるいは建築物とは宇宙に飛び交う「音的存在」を捕獲し培養し顕現させる器(霊的コミュニケーションの媒体)として機能してきたのではないか、というものです。

 以上の「仮説」は、それこそいくらでも反証をあげることができる脆弱なものだと思うので、これ以上強弁するつもりはありません。ただ、これらの直観をもとにさらに想像をたくましくすれば、さしずめ銅鐸などは霊的器=聖なる楽器として造形された「純粋建築」であるということができるのかもしれない、とだけ書いておきます。

 昨年、東京・世田谷美術館をかわきりに京都市美術館、福岡市美術館、広島県立美術館で開催された「三星堆─驚異の仮面王国」展では、一九八六年、四川省成都郊外の三星堆遺跡(祭祀抗)から出土した青銅製の巨大仮面が数多く展示されていました。高さ65センチメートル、幅137センチメートルの「大型縦目仮面」(円柱状の瞳が眼球より飛び出している凸目怪獣)をはじめアーモンドの形をした目をもつ仮面群、さらには数々の人頭像、獣面飾り等々。

 これらの青銅製の仮面は、もとより人が顔に装着して使用するものではありません。図録『三星堆』(発行/朝日新聞社・テレビ朝日)に掲載されていた稲畑耕一郎氏の「三星堆における仮面の文化」によると、着用を目的としない顔面の塑像・造形物をマスコイド[maskoid]、胸部や腹部につけるものをマスケット[maskette]と呼び、これらを含めて広義の仮面[mask]を考えることができるのだそうですが、三星堆遺跡から出土した仮面群は、いずれもマスコイド、マスケットに属するものだったのです。

(ちなみに稲畑氏によると、こうした仮面や人頭像を用意して祭祀を執り行うことは、目下のところ中国の他の古代文化には見られないことなのだそうです。たとえば殷や周の王朝では、青銅製の容器に供物を盛って祭祀を行ったり、具体的な神像を青銅で鋳造して祭祀の対象とすることはなかった。──この点について稲畑氏は、殷・周が文字という抽象的に概念を表示する道具をもったことと関係しているのではないかと書いています。)

 銅鐸から青銅製の仮面へと話題を転じることで私が示唆したかったのは、いうまでもありません、仮面すなわちペルソナ[persona]が「音を[son]通して[per-]」の意味をもち、またラテン語の‘personare’に「ひびかせる」の意味がある(坂部恵著『仮面の解釈学』からの請売)という周知の事柄です。

 実際、三星堆の奇怪な仮面たちを目の前にして、私はその周囲の空間に何か呪言のような「音」が立ちこめているように感じたものです。仮面の裏側の空虚な空間から響いてくる言葉にならない謎めいた音。いや、それは音というより「声」といった方が適切でしょう。(どこでもない場所から仮面を通じて聞こえてくる、誰でもないものの声。)


【222】仮面考・第一回「音=声を通して」(2)

■梵鐘と茶碗

 さて、銅鐸から連想されるのが(私の場合)「梵鐘」です。この梵鐘からさらに「茶碗」が想起される――というのはやや強引で、実をいうと、これは武貞良人氏の「茶碗の音」(『ACCUMU』Vol.5 所収[http://www.kcg.ac.jp/acm/accumu.html])を読んでいて思いついたものでした。

 このエッセイのテーマは<古代のインド人が日常生活で感覚していた音の意味を掘りおこすことによって侘びの気持をおこさせる茶碗から,幻想的な梵音が感じ取れる意識の働きを止揚する>というもので、少し意味のとらえにくいところもありますが、刺激的な文章がいくつか散見されるので、以下に生のまま、再編集したかたちで抜粋しておきます。

◎梵鐘―存在と時間を意識させるもの
<自然界には,2000サイクルに近い振動数をもつ音波が最も多く存在しており,人間の聴覚もそれに最も鋭敏に感ずるようになっている。古池に飛び込む蛙の水音もおよそ2000サイクルに近いと思われる。200サイクルに近い振動数をもつ音波については,一般に特別な注目が注がれていない。しかし,この種の基本振動数をもつ梵鐘には,宗教的空間では,諸行無常の響きが潜在し,存在と時間を意識させる。梵鐘から出る響きは,蝸牛管の中の膜を通って聴覚神経を刺激し,知覚を呼びおこして音の意味がとらえられる働きをする。>

◎梵鐘―音を視させるもの・来世と現世の境界に置かれたもの
<昔,インドで須達長者が7層の祇園精舎を建てて鐘を撞いたところ,万象が常時変転して龍宮に届くように鳴り響いたと言われている。そこに住んでいる人達は,音を聞いて鐘を想い,鐘を視ては,それから出る音を知るようになった。視覚によって鐘の響きに似た音が感じられるのは,視る人と創造された対象物との間に共通した心理的な働きによる存在(もの)があって,それが通い合う場合に限られる。音は,祭祀にはなくてはならない存在(もの)で,来世と現世との境界に置かれ,葬式の先導を笛吹隊が務めた時代もあった。物理的に,視覚でもって,来世をみるわけにはいかないが,境内に鐘が吊るされている寺は,意識の働かせ方によっては,来世と現世との境界に建てられていると思惟することができる。>

◎茶碗―梵鐘に似たもの
<「説文解字」によれば碗は元来,仏前に供える飯器であって,鎌倉時代に禅寺で飯器で茶を点(た)てたのが喫茶に用いられるようになった始まりと言われている。それまでは,飲食用には,やま茶碗や木椀が用いられている。茶の栽培は,明恵上人の奨励によって各地に茶畑ができ喫茶の習慣が定着したが,それまでは,桑の葉が薬用を兼ねて使用されていた。仏前に供える飯盛器は梵鐘に似ており,茶道を日常生活に取り入れた京都・大徳寺には,天目茶碗や井戸茶碗がみられる。>

◎梵鐘と茶碗―牡牛の鳴き声を内に秘めたもの
<古代インドの詩人が,牝牛の鳴き声を真似て発声し詩を朗詠したのは,牝牛が当時,妙音天であり,美しい音声の持ち主とされていたからである。妙音の語源は,サンスクリット語の復合詞のガドガダスバラであり,古代インドの医学書では,胃が故障をおこしている際の鼻声である。この鼻声が中国で,なぜ妙音と訳されたのかはわからない。
 牛の鳴き声の基本振動数は,梵鐘のそれに似ているので牝牛が妙音天になったと推察される。京都の妙心寺と太宰府の観世音寺にある同形の鐘のもつ基本振動数は,共に129サイクルである。牝牛の鳴き声を内に秘めた梵鐘は,インドからシルクロードを東進して渡来し,仏に供える飯盛器が茶器となり,鎌倉時代から室町時代を経て桃山時代になり,手捏の茶碗が梵鐘の声を観る人に呼びおこさせるようになったと推察することができる。
 牝牛の鳴く声が聞こえるように思われる茶碗はどのようにして造られるのだろうか。
 古代のインド人は日常生活に必要な原素として,地,火,風及び水をあげている。茶碗の焼成もこれらの4原素に依存する。地は茶碗の素材である土,火は薪の燃焼,風は酸素,水は水素に該当している。還元焼成の終わりの時期に,炉内に水蒸気が充満する場合,作品の色調は著しく玄妙になる。>

◎陶芸と音楽
<老子や龍樹は,存在の背後にある本質は,虚無や虚偽でなく邪念のない虚なるものとしている。−1の平方根で表示される虚数は,三次方程式が解かれたときに現れ,実根,虚根の名付け親がデカルトであることは広く知られている。情を秘めている陶芸とメロディーとハーモニーを生命とする音楽芸術は,視覚と聴覚をそれぞれ窓口として,人間精神によって創造されると言われるが,双方の芸術の背後には,共通して存在の根底に触れて傾動する要因が存在する。>

◎音=声と音響
<古代のインドでは,声として発生するものが音であって,器物が衝突して発するものを音響と呼んで区別している。音波は外界の対象であり音は聴覚と連携している脳細胞によって認識されたものである。
 対象が知覚されるのは,認識の成立によるものである。楽器から出る音響を聞いて音を認識し,そしてその音色を知覚して演奏者の表現力の豊かさを知ることができる。伎楽や,密教思想の始まりは,古代インドで,言語や文字,音韻について研究した声明(しょうみょう)に端を発している。これは,隋,唐の時代に中国に伝わった悉曇(しったん)学のことである。現今,仏前で歌詠する梵唱は,小野妹子によって伝えられたと言われている。>


【223】仮面考・第一回「音=声を通して」(3)

■音楽の梵鐘様式・その他

 言葉のコレクション──細川俊夫『魂のランドスケープ』(岩波書店:1997)から。

◎祈りの感情、あるいは呼びかける声(=越え)
<私は、人間には日常体験するさまざまな感情の奥に、もっと深い感情が眠っているように思われる。それはこの宇宙に一人で向き合っているような感情である。それは祈りの感情といっていいかもしれない。そういった時間空間に響いてくる「声」を私は聴きたいのである。川田氏が言われるように[引用者註:川田順造『聲』]、声を発することが、“呼ぶ”ことと深くかかわっているなら、私が作曲をするのは、音楽を通して私を越えた存在に向かって「呼びかけている」のだろうか。>(4-5頁)

◎聖なる場所=祈りの空間
<音楽を書いていくことは、ただ歌い、語りかけることではなく、深く「聴くこと」から始まる。自分たちを越えた彼方から響いてくる声に耳を澄ませることで、作曲家は、音楽の内側に「聖なる場所」を生み出していく。そしてその空間が、音楽に本当の意味と抵抗力を与えるのだと思う。>(35頁)

◎魂のランドスケープ
<「ランドスケープ」というシリーズをここ三年ほど書き続けている。「原風景」(ランドスケープ)は、人間と自然との出会いの場に生まれるものである。画家は線や色彩によって風景を描くが、私は音によってランドスケープを描いてみたい。その風景は、精密なリアリスティックなものではなくて、心の奥に浮かんでいるような想像上の風景である。かつて禅の影響を受けた山水画では、実際にある風景よりも、心の中にある想像上の原風景、桃源郷のような風景を描いたという。私も自分の理想の場所、私が自然の魂と深く交感している風景を描いてみたいと思った。>(36-7頁)

◎深い声・深いリズム
<私が、音でランドスケープを描くというのは、音楽作品を聴くことでこういった日常の世界を越えた世界を体験したいからである。私たちが、日常では忘れている見えない聴こえない世界を、音を聴くことによって目覚めさせること。そしてできたら、そういった音の体験から、より高い世界、なかなか日常では聴こえない、ある「深い声」を聴きたい。ダンテが地獄から煉獄を経て天国への魂の上昇を体験するように、音楽を聴くことによって、私は、自分の魂が少しでも高い次元に向かって飛翔することを願いたい。
 祈るということは、息にのることだ、とある人から聴いた。息はリズムを持っている。そのリズムは人間がコントロールできるリズムではなく、人間を越えたもの、私たちの意志を越えたもののリズムでなければ本当に深いリズムとはいえないだろう。私は、そういった息にのりたいのである。>(38-9頁)

◎空間・時間へのカリグラフィーとしての音楽
<私の音楽の出発点は、日本で禅を学んでおられる神父さんにこんなヒントをいただいたことから始まった。それは、書道をするとき、彼はいきなり白い紙に線を描くことをせずに虚空の一点に焦点を定め、その一点から運動を起こし、そして紙の上を通ってまたその一点に帰ってくる。そのとき、目に見える白紙に残された「線」は全体の線運動の一部にすぎない。目に見える世界、耳に聴こえる世界は、世界の一パーセントにすぎない。私の音楽は空間への、また時間への書道(カリグラフィー)であり、聴こえてくる音は、その目に見える「線」の部分だろう。そして聴こえる世界は、聴こえない世界の一部分にすぎない。そのような音楽を創りたいと思っている。>(44-5頁)

◎根源語としての音楽
<親しい友人にも、言葉では語れない世界がある。私は音楽を通して、こういった友人ともっと深く結びついていきたい。音楽は、言葉のない言葉、ドイツ語でいう「Ursprache」(原言語、根源語)であってほしい。その根源語は、私たちの内に眠り、埋もれつつある感性を呼び覚ます。そして私たちの習慣化し惰性となった人間関係を、生き生きとした豊かなものへと変化させていく。>(46-7頁)

◎声明=祈りの音楽・大自然からの声
<仏教の祈りの音楽、声明は、ぼくが最も愛する日本の音楽である。この音楽は、グレゴリオ聖歌と同じように単旋律であるが、発声法も、また微妙な音のじらし方も、グレゴリアンとはずいぶん違う。シンプルで力強く、その響は身体の奥底にまでしみ入ってくる。それは大自然からの声のように聴こえる。子どものころ聴いた自然の響きを思わせ、深い懐かしさを呼び起こす。>(70頁)

◎音楽建築
<ヨーロッパの鐘は、ひとつの音はそれほど魅力があるものではない。その鐘の音が房のようにいくつか連続的に鳴らされて、はじめて世界全体が振れ動くような神聖な音の波動が生まれるのだ。ちょうどヨーロッパ音楽のなかでのひとつの音のように、音は大きな音楽建築の煉瓦のひとつである。その音たちが構築された時、はじめて音の美しさも生きてくる。>(76頁)

◎音が生まれてくる母胎
<日本の梵鐘の鐘は、ひとつの音で充足する。そのために、音と音の間は、大きく空けられ、その間は、ひとつの音の複雑性を聴くための準備をする。その音の間、それは梵鐘の音の背景となり、音が生まれてくる母胎となる音の「大地」である。その聴こえない背景の彼方から、音が生み出される。>(76頁)

◎音楽の梵鐘様式
<ぼくは最近、音楽の梵鐘様式というものを考えて、作曲するようになった。歌うこと、音楽することは、除夜の鐘を、祈りを込めてひとつひとつ、撞くような行為ではないだろうか。ひとつの音に、梵鐘のようなシンプルで、しかも深みと複雑性を持たせたい。
 仏教に「一音成仏」という言葉がある。ひとつの音で、仏と一つに成る。ひとつの音を聴くことで、世界と一体化する。尺八奏者の一吹きの音が、宇宙の根源からのエネルギーに触れる。梵鐘のひとつの響きを打つ。そしてそれを聴くことで、宇宙の根源の力の内に入っていく。
 笙のひとつの響きを、梵鐘のように考える。そしてオーケストラはその笙の響きを生み出す背景の自然であり、宇宙である。笙の静かな一吹きの響きが、背景のオーケストラに余韻を与える。そのこだまを受けて再び笙がエコーを返す。背景の間の持続的な静かな響きは、母胎の響きであり、そこから笙の響きが立ち上がってくる。そして背景に再び還っていく。そのこだまが、幾層にも時間のずれを持って、世界に響き渡る。
 全体は深い静けさに包まれている。ピアニッシモよりも、かすかな遠い響き。そのほとんど聴こえないような可聴域の限界の響きが、人を遠い記憶の世界、聴くことの始源の世界へ連れ出す。>(77-8頁)


【224】仮面考・第一回「音=声を通して」(4)

■ヴェニスの鐘・その他(承前)

◎音宇宙─人間を越えたものへの憧れ
<歌は、時間と空間を生み出していく。生きていく場所を獲得し、自分の存在を主張する。小鳥が歌うのは、自分の生きる縄張り(テリトリー)を獲得することであり、また他の鳥への求愛のポーズでもあるという。(略)
 ぼくが音楽に求める体験は、それを聴いた後に、自分の内に眠っている感覚が生きかえってくるような体験である。その体験は、この日常では忘れられていた自分の内なる埋もれていた宇宙的な感覚、内なる力、生命の根源となるようなエネルギーをよみがえらせる。ぼくは、ベートーヴェンやバッハという西洋音楽を聴くことで、人間のさまざまな感情の深さとともに、リズムと音楽形式が生み出す音宇宙の大きな新しい空間、時間を知ることができた。
 小鳥たちは求愛のために歌を歌うといったが、音楽のほんとうに気高い歌は、人間を越えたものへの憧れの形を持っているのだろう。
 深い静けさを孕んだ音楽、海の底のような深い沈黙を内に抱えた音楽が書きたい。それは世界をにぎやかにするのではなく、逆に世界の喧騒を包み込んでしまうような大きな包容力を持っているのだ。世界の喧騒に対して、それ以上に大きな音で対抗することはできない。全く逆に、喧騒を吸い込んでしまうような力強い音楽空間があることを信じたいのである。>(82-4頁)

◎沈黙から沈黙へ─音の誕生と旅、あるいは音の影としての息づかい
<ぼくにとって音を生み出すことの基本は、息づかいにある。息に支えられて、音は生きてくる。沈黙の虚空から生まれ、そして沈黙へと還っていく音。それは息を吐くことによって生まれ、吸うことによって消えていく。
 息の音は、十九世紀までの西洋音楽では、雑音として切り捨てられてきた。フルート奏者やクラリネット奏者が、ひとつのフレーズを歌う時、息の音を発音してはいけなかった。しかし日本の尺八奏者や、能管の奏者は音を発音する時、息の音も同時に響かせる。まるで、自然の風の音が木の管にあたって音が生まれてくるように。
 その激しい息の音はノイズとは考えられなかった。世界の奥から、音が生まれてくる過程がそのまま聴こえてくるのが、尺八音楽だ。とすると、西洋音楽の素材の音は、音の生み出される背景を切り捨てた結果、音の上ずみの部分だけで構築された音楽である。その構築によって、偉大な音の構築物が生まれ、そこには人間の大きな精神世界を投影するさまざまな音楽世界が生まれた。しかし近代の西洋音楽は、あまりにその音の生まれ出てくることの背景を忘れ、知的な構築に傾くために、音の初源の力強さを失っていったのではないか。
 ぼくは、そうした音の誕生をもう一度基本から考え直して、音の背景、音の影ともいうべき息の音に注目して、その音になる以前の響きを聴くことから音楽を生み出してみたい。そして沈黙から生まれ、沈黙へ還っていく音の軌跡を描きたい。それは音の「旅」の過程を描くことでもある。>(133-5頁)

◎深い底・深い森
<そもそも芸術表現を通してぼくが表現したいのも、この句[引用者註:西田幾太郎の句「わが心深き底あり喜も憂の波もとどかじと思ふ」]のように喜びも悲しみも届かない人間の奥底に横たわっている深い世界である。(略)
 ホテルから練習場に向かう道はお城の壮大な庭園になっていて、高い木が深い森をなしている。小鳥の声がこだましてとても美しい。春の隠された力強い気配の中を歩いていると、まさにこの森の中にも、喜びも悲しみも届かない深い底があることに気づいた。しかもその底には力強い光の予感があった。自然の中に入って心が癒されるのは、そこで人は無意識のうちに、そうした底からの力に触れるからだろう。
 西田は若い頃、故郷の石川県の浜に出て長い間海を見て過ごしたという。近所の人が変に思って、「先生は毎日そうして何をしておられるのですか」と尋ねたら、西田は「世界のことを考えている。海というものは不思議なものだ」と答えたという。>(136-7頁)

◎ヴェニスの鐘
<イタリアの作曲家ルイジ・ノーノは、空間の響きにきわめて敏感な作曲家の一人だった。彼は空間の音の体験を、自分の故郷ヴェニスの鐘の響きの体験をもとに語る。ヴェニスでは教会の鐘の響きは、石畳を、海の水を反響して都市全体に響きわたる。そこでは、ひとつの音源から響くものが、石、水、光、風を通して乱反射し、さまざまな場所から響いてくるものに変化するのだ。>(182頁)

◎群島としての音楽
<ノーノは一つ一つの楽章を、「島」と捉えており、作品は、群島のようにいくつかが続けて演奏される。演奏されるたびに、オーケストラと合唱の空間の配置によって、響きの様相を変える。したがってこの作品は完結するということがない。  ヴェニスという都市が、海上貿易によって栄えた都市であり、さまざまな影響の中で豊かになってきた都市であるように、ノーノにとって理想的な芸術のあり方は、さまざまな影響が交わる地点に身を置くことで生み出されていくのだ。>(183頁)

◎身体─音が生まれてくる母胎、あるいは空間を形成する音
<私たち音楽家は、音そものものを聴くことばかりに捕われて、音が生まれてくる背景(母胎)としての、身体に対してあまりに無関心であった。実際に音を生み出す音楽家の身体に注目してみると、確かに優れた演奏家の身体は柔軟で、コントロールが実にうまくなされている。そしてそこから生まれてくる音も、充実している。それに比べて、まずい演奏家の身体はぎこちなく、おかしな身体的な習慣が残っていて、訓練が行き届いていない。どのように音そのものをよく出そうとしても、そうした身体との深いつながりを持たない音楽家の演奏は、音が空間を形成していない。>(185頁)

◎生命運動
<二十世紀の音楽は、音を生み出す母胎としての身体や、空間(劇場)の問題をあまりにないがしろにしてきたように思われる。人間の根源的な生命運動である人間の所作、声、呼吸、身体運動についての徹底した考察と、その地点から組み立てられた新しい訓練を続けながら、新しい音楽を生み出し、それを体験する場所を私たちは必要としている。>(187頁)

◎沈める鐘
<これ[引用者註:芭蕉の句「月いずこ鐘はしづみて海の底」]は夜の海のランドスケープを歌ったものですが、海の底から聴こえない沈黙の鐘の響きが世界全体に響いてくるようです。こういった詩から、ドビュッシーのピアノ曲「沈める寺」を連想される方もおられると思います。ただ芭蕉が生きたのは十七世紀の半ばですから、彼は非常に斬新な作家であったということができると思います。>(199頁)


【225】仮面考・第一回「音=声を通して」(5)

■観想の種子

 言葉のコレクション──山口昌男「細川俊夫の「面とペルソナ」」から。(細川俊夫作品集『観想の種子──音宇宙III』[フォンティック/FOCD3259]所収)

◎持ち運び可能な音楽・土地の精霊との対話としての音楽
<細川俊夫は「東京1985」のためのノートの中で音の響く以前の問題として、音エネルギーの生成・変換・音の身体性(パフォーマンスする奏者の身体行為・素材の楽器の特性)引用、コラージュ、音が響く空間性・地域性をあげている。こうした考え方を前提として細川の試みを検討すると、それは西欧の「持ち運び可能」な音楽から一時遠ざかり、オーストラリア原住民の〈土地の精霊〉との対話の音楽に近づける試みであるように思われる。「音」が発せられる文脈を重視するというこの考え方は、それが生まれた場所(トポス)とその場所にいる人とのかかわりのなかで、音が「はじめて本来的な生き生きとした生命をとりもどす」という主張は何よりも私達のような文脈中心の文化人類学者の共感を呼ぶ。>

◎ペル・ソナーレ─響きの宇宙
<細川は[引用者註:フルート協奏曲「ペル・ソナーレ」をめぐって]〈PER〉は「内へ向かって透りぬけること」で〈SONARE〉は響きを意味すると云う。そこで、この表現は響きが宇宙に向かって〈響き・渡る〉という意味を帯びるという。このような条件が満たされたとき成立するのは〈響きの宇宙〉であると細川は云う。面白いことに、声が穴を通して響き渡ることから〈面(おもて)〉(=仮面)をも意味すると細川は云う。この考え方の根源には音は「母胎空間」に発しているという細川年来の主張がある。フルート奏者が四つの異なるフルート(アルト、ピッコロ、バス、通常)を、丁度、バリ島の仮面劇(ワヤン・トペン)の役者がするように、〈面〉を次々に変えるように持ち変えて、「面の穴に息(プネウマ)を吹きかけることによって、オーケストラの様々な音宇宙を響き、渡らせる。」(細川の「ノート」より)
 ペルソナの演劇性を強調するかのように細川はノートを次のように続ける。 『人は面を変えることによって、あるときは宇宙と対決し、またあるときは道化として宇宙を挑発してからかい、またあるときは宇宙の大きな響きの流動に身をまかせ宇宙と一体化する。人間が多次元的な存在であるならば、人間の音楽もまた様々なペルソナをとおして響き、渡るポリフォニックなものであるべきだろう。』>

◎京都の鐘、あるいは土地の気配
<我々は、気づかないうちに、例えば国技館の東西南北の構成や京都の都市の作られ方にそれ[引用者註:古代東アジアの宇宙論の基本である「四神相応」の考え方]は浸透している。例えば京都の四方の寺の鐘の音は西=平調・北=盤渉調・南=黄鐘調・東=双調といった具合にピッチが合わされているということが最近わかった。細川は、現代の都市においては、音は規格化され、画一的で、無表情で、無性格だと云う。つまり、音が土地の「気配」を写し出す力を失っていると云う。>

◎補遺:引用の音楽
<この作品の音楽的素材のほとんどは、引用から成り立っており、私の仕事は作曲というより編集に近いものだった。旋律のほとんどは、天台宗声明の旋律線を組み立て直したものであり、I章は、私の最初の雅楽作品『TOKYO 1985』からの引用、II章、IV章は武満徹の『秋庭歌』の旋律からの引用が用いられている。既存の音楽を、マンダラという思想にそって脱構築した作品であり、それはちょうど中世のヨーロッパの作曲家が、グレゴリオ聖歌を基礎として、ミサ曲やモテットを書いた態度に似ている。>(「観想の種子[しゅじ]」──マンダラ──声明と雅楽のための(1986)をめぐる「作曲者の言葉」から)


【226】仮面考・第一回「音=声を通して」(6)

■ティンティナブリ様式─この世のものではない静けさ

 学生の頃、現代音楽に凝っていて、武満徹やジョン・ケージといったビッグ・ネームとならんで「愛聴」した作曲家にイアニス・クセナキスがいます。ル・コルビュジェのもとでラ・トゥーレット修道院その他を手がけた「建築」家にして、確率論をはじめ「数学」の概念を使って「作曲」する「ギリシャ」人。この四つのキーワードが当時の私の関心にぴったりと符号して、けっして陶酔を与えることはなかったその音楽を(やや「知」に走りすぎてはいたものの──若聴き?)繰り返し耳にしたものでした。

 その後、ウェーベルンやソフィア・グバイドゥリーナ、テリー・ライリーなどを経て、最近では「沈黙と測りあえる」音、魂を蒸発させてしまうような音楽に魅かれるようになってきました。たとえば細川俊夫やアルヴォ・ペルト。この二人の作曲家の作品に共通する要素は「祈りの音楽」とか「中世的(?)な響き」とでも形容できるでしょうか。

 というわけで、言葉のコレクション──白石美雪「アルヴォ・ペルトについて」から。(『アルボス《樹》/アルヴォ・ペルトの世界』[ポリドール/J32J 20224]所収)

<この年[引用者註:1967年]にはじめて、東方教会の単旋聖歌を聴いたペルトは、祈りとしての音楽へとまっすぐに向かう。その結果、《アルボス》や《パリ・インテルヴァロ》のような作品の中で、音を極限まで切り詰め、作曲家自身の言葉によれば「ティンティナブリ(鈴鳴らし)の様式」で作曲するようになる。それは、単旋聖歌風の自由でシンプルな音の組み合わせを、ほとんど同じリズムで、はてしなく反復する技法だ。

 しかし、ほとんど禁欲的とすら思われるこの技法は、逆説的にも、実に濃密な音楽をもたらした。ここにいたってペルトの音楽は、表面的な類似にもかかわらず、ミニマル・ミュージックと明らかに一線を画している。ミニマル・ミュージックとよばれる軽やかな音の戯れには、徹底した表層性がそなわっていて、究極的には差異に還元されてしまうような機構をもっている。けれども、ペルトの場合には、ミニマルが排除した内なるものを完全に音そのものが集約している。ここでは「内と外」「深層と表層」「内容と形式」といった対立が無効となり、音がひとつひとつ生じるたびに、世界が瞬時に現れる。モティーフは、度重なる反復を経ても、けっして差異には還元されてしまうことがない。
 儀礼的なニュアンスの込められた《アルボス》にはじまるこのディスクに耳を傾けていると、日常的な生の在り方とは別の、こうした特殊な世界へと、誘いこまれる。タルコフスキーの映像に水の粒子が偏在するのに似て、その音楽が持つ重厚な響きにつつみこまれる。と、私たちは〈永遠なる瞬間〉の住人となる。この世のものとは思えない、あの静けさは、ここから生まれてくる。人間の持つ本源的な宗教性に支えられたペルトの音楽は、こうして、際限のない〈瞬間〉の継起となるのである。>

■散文と詩、声と沈黙

 言葉のコレクション──詩人の山崎佳代子さんが朝日新聞夕刊(4月5日付)に寄せた「宇宙と、声と、沈黙と……」から、冒頭と最後の文章。(ワグナーを「聴く」こととジョン・レノンを「聞く」こととの違い。「茶色の時代」は中原中也から?)

<三月二十五日、空爆二日目の夜。ベオグラード郊外の我が家に近い空港の辺りで、巡航ミサイルの炸裂音が響いた。それから沈黙がやって来る。私は震えていた。窓を開けるとバルコニーにヒヤシンスがもの憂げに匂い、犬たちが月に吠えている。長い夜が明けた。死の香を含んだ春の静けさの中で、タルコフスキー監督の「犠牲[サクリファイス]」という長くて苦しい映画のラストシーンを思い出し、私はワグナーが聴きたかった(我が家にはそれがなくて、仕方なしにジョン・レノンを聞きながら、これからやって来る「茶色の時代」に、心を強くしようとしていた)。
 三十日の午後、我が家の灰色の電話がなった。詩人のステヴァン・ライコヴィッチさんだ。「ステヴァンさん、そちらは大丈夫?」「今、散文を書き上げたが、あなたに読んでもらいたい。散文は外の世界からやって来て、詩は内なる世界からやって来る……」。>

<人とは何か……。答えが正しければ正しいほど、新しい問いを生むこの永劫の命題。巨大な金管楽器が不協和音を奏で始めた今もなお、その答えを探し続けるほかはない。でも答えは独りでは見つからない。この世にはどんなに強い力にも壊しきれないものが在る。それを守るために、人には声と沈黙が与えられているのだと、私は春に告げられたのだった。>


【227】仮面考・第一回「音=声を通して」(7)

■耳の建築

 クセナキスへのインタビュー記事が掲載されているというので、『耳の建築──都市のささやき』(INAX:1994)をインターネット経由で入手しました。(この小冊子は、浜田剛爾氏が企画を担当してINAXギャラリーで開催された同名の展示と「併せて刊行される」と、目次のページに書いてある。)

 残念ながら期待していたような「言葉」は採集できなかったものの、それでもいくつか気になったものがあるので、他の記事からの抜粋も含めて、以下に記録しておきます。(クセナキスには『音楽と建築』[高橋悠治訳,全音楽譜出版社:1975]という著書があるそうなので、いつかまた改めて読んでみることにしよう。)

☆「音・空間・建築 イアニス・クセナキスに聞く」(聞き手:浜田邦裕)

<浜田──異なる知覚による建築はありうるでしょうか。たとえば、耳で認識される建築というのがありうると思いますか。
 クセナキス──耳ですか。
 浜田──聴覚的な建築です。
 クセナキス──私にはそのようなものが成り立つとは思えません。……話の要点はこうです。大気の密度があり、光の振動の密度があったとします。しかし、光と音は同じ振動だとしても、極端に遠い存在ですし、別のものとしてしか知覚されません。二種類の規範であり、同じものではありません。>(23-4頁)

<クセナキス──現代建築といわれるものは、多かれ少なかれ窓のついた箱のようなものですが……>(25頁)

☆「建築的音楽、音楽的建築」(浜田邦裕)

<視覚芸術の場合には図像に与えられた意味を読みとくイコノグラフィーという学問があるが、音という抽象物に対しても単純な認知の議論以上に、個人の記憶にある聴覚的世界を呼び起こしたときの、頭脳のなかでの音の認知の全感覚化は成立しているといえよう。>(7頁)

<建築の内部の音世界を抽出しようとすれば、おそらくは目を閉じたり、静止したり、意識をひどく集中させないかぎり自分の意識のなかに何らかの世界を描くことはできない。その集中された状態のなかで、たとえば何か単純な音をポーンと発生させることで、意識の具象化を一気に加速させることができるのであろう。>(7-8頁)

<音の空間化というか、建築と音楽の関係を創作に具現化するには、もう一つの戦略がある。……作曲家としてのクセナキスの独創性は既存の音楽言語を用いず、言語そのものから自分でつくり直したことであり、言語をつくり出した数学的操作は建築にも音楽にも共通するものであった。もっとも、建築と音楽は必ずしも直訳されうる関係をもっていたわけではなかった。クセナキスは視覚芸術と音楽との統合を翻訳という考え方ではなく、どちらともまったく異なる表現形式の創作によって解決した。これは「ポリトープ」と称され、ギリシア語で…全体で多様な側面、多数の地点という意味をもつ。ポリトープは、何百というライトの明滅とレーザー光線の照明パターンと音楽によって表現される。>(11頁)

☆「キルヒャーと鳴き龍──建築と音、都市と音」(藤本由紀夫)

<…キルヒャーにとって「空間」とはひとつの音響装置であり、空間の構造を設計することは、即ち、音をつくることであった。>(40頁)

<空間の体験とは、目だけではなく、耳の体験でもある。空間はそれ自身独自の響きを持つ。その響きを体験するには、空間に対して音の投げ掛けが必要となる、その投げ掛けに対して、空間は独自の響きで応答する。>(42頁)

☆「音と空間のクリティクス」(中山真)

<…伝統的なキリスト教世界では、教区の大きさは教会の鐘の届く範囲によって定められていた。教会の鐘が聞こえなくなった地点で、私たちは教区の外に出ることになる。しかも教会の鐘には、教区の地形を画定するだけでなく、人間を襲う外敵の侵入を拒む力も与えられていた。中世のことである。狼などの棲む森の世界が家々の戸口にまで押し寄せる夜を人々は恐れていた。夜更けの野獣の叫びや風の音は森の悪霊の仕業であり、それに対抗すべく鐘がガンガンと打ち鳴らされた。「嵐をくじく」[シラー]鐘の音は、その強大な音量と金属的な音色でもって、共同体を恐るべき森の最前線から護り、平穏な人間社会の空間を確保しようとした。そのとき鐘の音は、ミサの始まりを告げる単なる合図から、神の力を示現する象徴音へと高まり、人々の希求する空間の広がりを誇示したのであった。>(43-4頁)

<囃し[引用者註:祗園祭の囃し]が聞き取りにくくなればなるほど、囃しの音への関心は薄れていき、囃しの音を媒介とした感覚の共有が不可能になる。このなだらかな階層性は、ある意味ではごく自然なものであるが、もつ意味は大きい。輪郭線[引用者註:囃しの音の届く範囲を示す線]のこちら側と向こう側には、音認識の大きく異なった人々が住んでいるのだ。そういう意味で、この線は音響の共同体[acoustical community][引用者註:サウンド・スケープの提唱者マリー・シェーファー『世界の調律』から]を確定している。>(45頁)

☆「都市の「音」は自由にする──ヨーロッパ中世の音世界」(上尾信也)

<音は都市の機能である。>(56頁)
<音は支配構造でもある。><都市とはあらゆる音の玉手箱であり……>(57頁)


【228】仮面考・第一回「音=声を通して」(8)

■音の宇宙

 中川真氏の『平安京・音の宇宙』(平凡社:1992)によれば、京都大原は九世紀以来千年以上にわたって「声明」の中心地として栄えたそうです。この地が古来「魚山」と呼ばれるのも、中国における声明の中心地の名を借りてのこと。

<正月二日、三日に営まれる修正会「阿弥陀悔過[けか]」は音楽法要とでもいうべきもので、声明は荘厳でありながら、官能的といえるほどの魅惑的な旋律を堂内に響かせる。声明や雅楽の音は、中世においてもおそらく一年中、大原の里を包んでいたはずである。>(26-7頁)

 今回の言葉狩りは、中川氏が『平家物語』の音風景(サウンドスケープ)の研究をしているとき、大原の僧から聞いたある話から始まります。――以下、この豊穣な、香りたつ音が織り込まれたような書物の第2章「平安京・音のコスモス」から。

◎音のコスモス─大原篇
<「それにね、中川さん」と、天納師[引用者註:実光院住職]はことばの切れ目を埋めるように、大原にある意味深い音の配置について語ってくれた。「勝林院の鐘(平安朝鋳造)の音は『平調』に調律してあるんですよ。勝林院は阿弥陀如来、つまり回向の仏さまでしょ。ですから木の葉の落ちる秋の物悲しい音(平調)がする。来迎院の鐘(一四三五年鋳造)の音は『双調』です。薬師如来で、祈願の仏さま。若葉のもえ出る春の歓びの音なんですよ」。季節や仏の意味体系と緊密な関係をもちながら、鐘の音が鳴っているというのである。呂律の川のせせらぎと声明、梵鐘の音の混ざりあった豊かな音の世界。そして一方では建礼門院が聴いた、喩えようもなく虚ろな音の世界[引用者註:『平家物語』「灌頂巻」]。大原の音風景は濃密で重層的な気配を宿しながら、私に謎を投げかけ始めた。>(27頁)

◎音のコスモス─バリ篇
<インドネシアでは人々は山を神聖な方位として崇め、反対に海を汚れた方位として遠ざける。このような二極対立的な思考法が、ジャワやバリのコスモロジーの基本となっている。(略)
 バリのコテカン[引用者註:ガムランの演奏技法]の「一体」の意味深さも、このコスモロジーとかかわっている。二人が一対になることこそが、コスモロジーとの抜き差しならぬ音楽の現実化の過程なのである。バリの音楽家は、コテカンにおけるポロスを「吐く」「出る」「押す」、サンシを「吸う」「入る」「引く」ことだという。呼吸という比喩を用いることによって、二人で演奏することの自然さが語られる。二台のガンサ[引用者註:青銅製の薄い音板を並べた打楽器]の音階は微妙にずらして調律され、それがガムラン独特の唸りを生む。その微妙に低い音高のほう(ポロス)を「女の」ガンサ、高いほう(サンシ)を「男の」ガンサと呼ぶ。「男女」のガンサは「呼吸」する。かくして、二元論的世界は演奏現象だけでなく、楽曲構造や楽器の用語にまで広く及ぶ。
 コスモロジーは音楽にだけ反映しているのではない。むしろ音楽が他の事象、たとえば色彩、方位などを通して、建築や美術、文芸、医術などと結びつけられるところに、媒介原理としてのコスモロジーの重要な点がある。(略)
 こうした世界を体験していた私は、大原で梵鐘の話を聞いたとき、バリのことを思い起こしながら、平安時代の音のありかたもコスモロジーとつながっているのではないか、梵鐘の音と季節の照応のなかに、音を通して触知できるコスモロジーが広がっているのではないか、と考えるようになった。>(31-2頁)

 こうして中川氏は、平安時代から近世初期にかけて鋳造された京都の梵鐘(三十二体あるという)の音高調査に乗り出します。その結果、平安京の音(梵鐘)は、五行思想による中世の音楽理論を体系化した『管弦音義』(一三○三年)の「音の宇宙論」とほぼ照応していることが見出されました。

◎音の宇宙論
 中川氏が図解した『管弦音義』による「音の宇宙論」(38頁)からの抜粋。なお、ヘルツ数は伊庭孝『日本音楽概論』(1928)によるもの。

・北=盤渉(ばんしき)調[491.5Hz]/冬/黒/水/玄武/え/腎臓/耳
・東=双調(そうじょう)[391.5Hz]/春/青/木/青龍/う/肝臓/目
・南=黄鐘(おうしき)調[437.0Hz]/夏/赤/火/朱雀/い/心臓/舌
・西=平調(ひょうじょう)[326.2Hz]/秋/白/金/白虎/を/肺臓/鼻
・中央=壱越(いちこつ)調[292.7Hz]/土用/黄/土/勾陳/あ/脾臓

◎平安京―音の曼陀羅都市
<京都に残された梵鐘の配置は、今日の私たちの都市計画では考えられないような、大規模な音の設計が古代から中世に達成されていた可能性を示唆した。それは上位下達というようなものではなく、個々の寺院が当時の音の美学に沿って、ごく自然に組み立てたものであろう。その結果、京は玄武、青龍、朱雀、白虎、麒麟という幻の獣神によって中央と四辺を守護され、同時に鐘の五種の調の響きに覆われるという、まさに地上に建設されたコスモスあるいは曼陀羅都市として出現したのである。>(47頁)

◎音のできごと―都市の皮膚(表層)に響くもの
<中世の梵鐘の設置と現代のサウンド・インスタレーションは、その背景や意味において決して同一の地平に並ぶものではないが、後者によって前者を語る意義があるとすれば、平安京の音プランを、単に五行思想の制度化あるいは現実化としてではなく、音のできごと(イヴェント)の創出として捉える視点をもたらすところにある。それは皮膚とか鼓膜という、知覚の表層の次元でコスモスを捉える方法である。理念は現象し、音は人間とコスモスの関係を調整する媒介となる。京に響きわたる鐘の音は、五行思想の何たるかを知らぬ人にも、一時的な音のできごとによって、ときを知らせ、都市の広さを知らせ、はるか西方への思いを馳せさせたであろう。このとき、梵鐘の音と現代のサウンド・インスタレーションは、何百年も隔たった歴史の壁を突き破って、大きく共鳴し始めるのである。>(48-9頁)

 以下、「鬼の声・都市の闇」「利休が聴いた音」「王宮〈音〉都市論」等々、刺激的な論考が続くのですが、今回はここまでにします。――ただ、次の一文だけはぜひ引用しておきたい。

◎倍音と超越者、南方の音
<以上のように[引用者註:梵鐘の響きや祗園囃子の鉦などの]金属音は、強大な音量と倍音を含む特殊な音色を媒体として、人間と超越者との霊的な交信を促し、超自然力を至現する様々な文化事象のなかに、連綿と生き続けてきたのである。思い起こせば、カトリックのミサも、聖体拝領に際してベルが鳴らされるではないか。(略)だが留意すべきは、金属のすぐれた精錬技術は、南方からの渡来人によってもたらされたということである。おそらく彼らは技術とともに思想をももち込んできたのである。ということは、祗園囃子の音の意味を考えるのに、日本という狭い枠のなかだけに閉じこもっていては、本来の姿を見失ってしまうことになる。すると私たちの視野の前には、アジアという広大な地平が開けてくる。>(290-1頁)


【229】仮面考・第一回「音=声を通して」(9)

■音を観る

 観音、音を観る、という言葉に惹かれて、資料漁りを始めてみたのですが、これという成果もないままに、ふと昔読んだ書物のタイトルが浮かんできました。大森荘蔵+坂本竜一の対談による哲学講義『音を視る,時を聴く』(朝日出版社:1982)。――任意に開いたページに出てきた(梵鐘の音をめぐる?)大森荘蔵氏の発言を二つ。

◎音―世界の相貌を響き現わすもの
<…たとえばごうごうという嵐の音は人の心にみみっちい情緒を呼びさますのではなく、あらあらしく揺れ騒ぐ野や林や街路を立ち現わすのではないでしょうか。心の情緒といわれるものは実はこの荒れ狂う外部世界の相貌だと思うのです。嵐の音はその相貌をもった世界を鳴り現わすのです。音楽も同じで、荘厳なミサ曲を聴くと身がひしきまり沈痛な気持ちになるでしょう。しかしそれは「心の中」のことではなくて、その音楽が沈痛荘厳な相貌の世界を立ち現わすのだと思います。コンサートで瞑目して聴き入っている聴衆もそれぞれ自分の「心の中」に聴き入っているのではないと思います。その音が世界を響き渡って世界に沈痛な相貌を与え、その相貌をもった世界の立ち現われに面しているのだと思います。その曲はそういう相貌を響き現わすのです。結局音は、言葉の音であれ、風の唸りであれ、楽器の響きであれ、世界の中に鳴り、世界の中に籠もって、世界の相貌を変え、そしてその相貌の世界が立ち現われる、私はそう言いたい気がします。>(150-1頁)

◎響き―世界に無常の影を宿すもの
<今思い出したのは、平安時代に入ると加持祈祷が盛んになる。あれは鳴り物入りですね。お香は?く鐘は鳴らす、木魚はボコボコ。そしてそういうふうな一つの世界に変えていくわけですね。(略)祗園精舎の鐘の音で、まさに何とかの無情の響きありと言って。単なる響きじゃなしに世界が無常の影を宿すわけですね。>(153頁)

 これに続く坂本龍一氏の発言。

◎集団の声、倍音
<読経のときに、大きな木魚があり、それから小坊主が時どき小さな鐘を「カーン」と鳴らします。三人のお坊さんがやります。読経の声というのは分別し難い集団の声というか、それでまた一つの音じゃない。一つのジャンクションであり、周波数のかたよりの大きい倍音が突出して聴こえて、一人のお坊さんの読経もたくさんの声になってるわけなんですよね。チベットのブッディストのお祈りの場合もそうですけれども、低い周波数のところと高い、まあ科学の言葉で言えば倍音という、要するに二つの音を出しておりますね。二つだけじゃないけれども、ぼくには二つぐらいにしか聴こえない。実際にはたくさんの倍音があって、ある音色に聴こえるというふうに言ってますけども、ぼくにはあのときは二つに聴こえた。それから木魚は、要するにビートを出してるんですね。そうするとこういったものが、木魚が鳴るときに「ウー、ウー」というふうに鳴る。しかも言葉がありますから言葉自身も、ここでいろんな抑揚があってビートを出してる。それから鐘が鳴るとこれは一瞬全部変化します。鐘は「カーン」と鳴って広がって消えていきますね。そうすると、これ全体の音響の聴こえ方が「カーン」、一瞬サーッと低音がなくなって、それでまただんだんと低音がワーッと聴こえてくる。だから鐘は、たとえば一回鳴らすといろんなアクセントが複雑にからんでいるわけなんですね。>(154頁)

■音がする

 大森荘蔵『流れとよどみ』(産業図書:1981)から。

◎音は物にあらず
<レコード盤やテープは音を保存するものではない、ただ元の音に似た音を新たに発生する装置なのである。保存倉庫ではなくて、シュミレーター(模倣装置)なのである。痛みや悲喜の情が保存できないように、そして「時」が保存できないように、音も保存できないのである。保存できるのはただ「物」だけであるのに、音は物ではなくその時限りの刻々の体験だからである。>(49-50頁)

◎三〇億年の孤独
<元来、自然科学の世界描写というものは音なし、色なし、味なし、匂いなし、要するに眼耳鼻舌身意の六根抜きの描写なのである。(略)今から三◯億年前、感覚器官を備えた生物が皆無の地球の風景を描写できる方式の描写なのである。(略)このような世界の描写から音や色がでてくる道理がない。そこに音や色を語ろうとするならば他でもない、ただ色や音をつけ加えればいいのである。(略)そしてその色や音を具体的にはどのように描き加えるべきかはただ経験のみが教えてくれる。われわれはこのわれわれの経験世界を描こうとしているのだからそれは当然のことである。空気がふるえ、鼓膜がふるえ、脳細胞が(電気的に)ふるえる。ここに音はない。だが、そして(それに加えて)ステージの上で音がしているのである。>(55-6頁)

■プロスペローの島

 ウィリアム・シェイクスピア『テンペスト』(小田島雄志訳,白水社)から。――余談ながら、ピーター・グリーナウェイ監督の『プロスペローの本』では、キャリバンを暗黒舞踏家が演じていて気味が悪かった。(言語によって縛められた「原-身体」?)

 そういえば、「キャリバン」とは「カニバル」(食人種)のアナグラムではないかという説があるそうだ。(INSCRIPT[http://inscript.co.jp/index.htm]掲載の「歴史の中の『テンペスト』」に収められた本橋哲也氏のエッセイ「言語と応答責任――二つの『テンペスト』におけるキャリバンの呪いと恩寵」による。)

◎声の島
<キャリバン こわがることはねえぜ。この島はいつも物音や歌声や/音楽でいっぱいだが、楽しいだけで悪いことは/なんにもしねえ。ときには何百何千って楽器が/耳もとでブーンとひびくことがある、かと思うと、/歌声が聞こえてきて、ぐっすり眠ったすぐあとでも/また眠くなることもある。そのまま夢を見ると、/雲が割れてそのあいだから宝物がおれの上に/降ってきそうになる、そこで目が覚めたときなんか、/もう一度夢の続きを見てえと泣いたもんだ。>(102頁)

◎夢の物質─仮面劇のあと
<プロスペロー どうやら驚いたらしいな、私の息子、その顔は/恐怖に打たれたようだぞ。元気を出すがいい。/もう余興は終わった。いま演じた役者たちは、/さきほども言ったように、みんな妖精たちであって、/大気のなかに、淡い大気のなかに、溶けていった。/だが、大地に礎をもたぬいまの幻の世界と同様に、/雲に接する摩天楼も、豪奢を誇る宮殿も、/荘厳きわまりない大寺院も、巨大な地球そのものも、/そう、この地上に在るいっさいのものは、結局は/溶け去って、いま消え失せた幻影と同様に、あとには/一片の浮き雲も残しはしない。われわれ人間は/夢と同じもので織りなされている。はかない一生の/仕上げをするのは眠りなのだ。>(124-5頁)


【230】仮面考・第一回「音=声を通して」(10)

■仮面とは何か─中間総括

 話がだんだんと拡散して、このままだと仮面というテーマを大きく逸脱してしまいそうです。仮面考・第一回の前半(?)を終えたこのあたりで「初心」に立ち返り、そもそも仮面(もしくは仮面的なもの)とは何か、と大上段に構えてみたくなりました。といっても、以下は、いずれ書かれることになる(かもしれない)最終考に向けた順不同の手控え、未完成の素描あるいは未整理の粗描のたぐいにすぎません。

◎仮面とは穴を穿つもの、あるいは穿たれた穴そのものである。――そこから声が発出する穴。風(精霊)の通い路。(穴とは媒介、媒質、媒体、触媒、媒辞等々のいずれかに相当するものなのか? ソシュールのアナグラムの意味を考えること。)

◎仮面劇では、演者は仮面に穿たれた穴を通して、場(舞台)に顕現する。(くぐもった声として?)――あるいは、演者は仮面に穿たれた穴を通して、場(舞台と観客席)を観察する。(一人の観客として?)

◎建築物には必ず穴(窓)がある。これもまた仮面(もしくは仮面的なもの)である。――風あるいは光の通い路。たとえば大聖堂には音楽が降り注ぐ。(それでは、窓=穴のないモナドは?)

◎人間とは穴である(稲垣足穂)。宇宙もまた巨大な穴である。そして、都市には穴がある(はずだ)。――たとえば、川田順造『聲』(ちくま学芸文庫:1988/1998)に出てくる「声のアジール」(130頁)という言葉がヒントになるだろう。(あるいは、都市の穴としての鐘?)

◎仮面は境界を象り、空間を設える。――ここで境界とは、純粋個体と共同体がともに懐胎される場(たとえば不可視の「教会」)のことである。また空間とは、二項対立的なもの、あるいは多数多様な無関係なもの(たとえば死者と生者)の関係を取り結ぶ「公共的な」場のことである。

◎銅鐸、梵鐘は下方に穴を穿ち、陶器は上方に穴を穿つ。いずれも仮面(もしくは仮面的なもの)である。――そこでは空間が捻れる。あるいは場(精霊が交通するエーテル場)が創られる。

◎梵鐘・鐘楼の音が届く範囲がコミュニティであるとすれば、個人の声が届く範囲が権力空間だのだろうか。――声力=勢力、すなわち権力の声・法を布告する声。(あるいは声力=精力、すなわち受胎告知の声?)

◎仮面をめぐる三位一体。――精霊=声(音)、子=肉(身)。父=顔(貌)もしくは名。(それでは、仮面の三一性が含意する第四格とは?)

◎仮面の三位一体は「物理的」作用か「化学的」作用か。そこには「触媒」が介在するかしないか。――たとえば声の物理反応を考えてみよ。(フーリエ級数による振動の合成、魂の蒸発=蒸留?)あるいは声の化学反応の考えてみよ。(倍音の創出、魂の変性?)

◎声の多数性。(響きあいの中で混融し、懐胎されるものとは何か?)

◎仮面的なものが切り拓く内面と外面、表層と深層、起源と帰趨、母胎空間と権力空間等々。

◎精霊は仮面に宿る。いや、宿るのではなく、精霊(声)が仮面(穴)を通して産出される。そして、精霊とは「動き」そのもの(音楽)のことではないか。音楽の彫刻としての仮面。――久野昭『鏡の研究』(南窓社:1985)から。<なるほど、仮面はひとつの彫刻芸術でもあるが、この芸術の機能は祖型的なものを再現し、それを高度の存在として象徴的にあらわし出すところにある。そして、原理が静止よりは変化や動きにおいてみずからをあらわならしめるように、この再現、このあらわし出すはたらきもまた、動きにおいてこそ、その効果を発揮したであろう。>(83頁)

◎プロスペローの本とは、声が封殺された書物(文字)のことではないか。

◎声を奪われた少女とは、魔力を封じられた魔女のことではないか。――桐島敬子『民族の仮面』(岩崎美術館)から。<日本語の仮面にあたるマスク(仏 masque,英 mask,伊 maschera)は,狭義では,布,紙,木,金,銀,その他の材料で人間や動物あるいはその両方の要素を同時にもつ人体の顔の部分を覆うものを指す.しかしながらマスクという言葉の語源をたどる時,末期ラテン語で masca は,魔女という意味であり,マスクの古い宗教的で呪術的起源を暗示している.>(3頁)

◎デーモンたち。――ソクラテスのデーモン。デカルトのデーモン。ラプラスのデーモン。マクスウェルのデーモン。デリダの「幽霊」。


【231】仮面考・第一回「音=声を通して」(11)

■ポリフォニー小説・カーニバル文学

 言葉のコレクション──ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』(望月哲男・鈴木淳一訳,ちくま学芸文庫:1963/1995)から。

(引用者のモノローグ:「声」とはもともと多数の人格=人称が織り込まれたものなのであって、単独の声などというものはない。──この「声の多声性」あるいは「声の公共性」については、川田順造氏の『聲』を参照のこと。たとえば、そこで紹介されている、普通名詞の組み合わせでできたメッセージ=意味作用をもつ「名」や二人の人間が共有する「名」と小説の登場人物に割り振られた「名」の比較検討。)

◎ポリフォニー小説
<それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識。それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。彼の作品の中で起こっていることは、複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされた単一の客観的な世界の中で展開されてゆくといったことではない。そうではなくて、ここではまさに、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独自性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆくのである。実際ドストエフスキーの主要人物たちは、すでに創作の構想において、単なる作者の意識の客体であるばかりではなく、直接の意味作用をもった自らの言葉の主体でもあるのだ。(略)主人公の意識は、もう一つの、他者の意識として提示されているのだが、同時にそれは物象化され閉ざされた意識ではない。すなわち作者の意識の単なる客体ではないのである。この意味でドストエフスキーの主人公の形象は、伝統的な小説における普通の客体的な主人公像とは異なっているのである。/ドストエフスキーはポリフォニー小説の創造者である。彼は本質的に新しい小説ジャンルを作り出したのだ。>(15-6頁)

◎シェイクスピア
<シェークスピアの戯曲の中にポリフォニーの何らかの要素、その契機を見出すことが可能である……。シェークスピアはラブレー、セルバンテス、グリンメルスハウゼンなどとともに、ポリフォニーの芽を育てることになったヨーロッパ文学の発展の一系列に属しており、そしてその意味でこの系列の完成者となったのがドストエフスキーだったのである。しかしシェークスピアの戯曲を一貫した目的を持って完成されたポリフォニーであるとみなすことは、次のような意味で不可能であると思われる。
 その理由は第一に、劇というものがその本性からして、本当の意味のポリフォニーとは異質なものであるということだ。劇は多次元的ではあり得ても、多世界的ではあり得ない。すなわちただ一つの計算システムを許容するばかりで、複数のそれを許容できないのである。
 第二に、十全な価値を持つ複数の声の共存ということは、シェークスピアの創作全体に関しては言えるが、個々の戯曲には当てはまらないのである。個々の戯曲において十全な価値をを持つ声は本来一つしか存在しない。しかるにポリフォニーが成立するためには、一つの作品の中に複数の十全な価値を持つ声が存在しなければならないのである。そのような条件が満たされたときに初めて、ポリフォニー的な全体の構築の原理が成立するからである。
 第三に、シェークスピアにおける複数の声は、ドストエフスキーにおけると同じ程度にそれぞれの世界への視点を表現してはいない。シェークスピアの主人公たちは、完全なる意味におけるイデオローグではないのである。>(68-9頁)

◎カーニバル文学
<カーニバル的世界感覚は、世界を活性化し変貌させる力に富み、尽きることのない生命力を持っている。だからたとえほんのかすかでも真面目な笑話の伝統に結びついているジャンルは、現代においてさえカーニバル的な酵母(発酵素)を内に保ち続けており、その点で他の諸ジャンルから際立っているのである。こうしたジャンルには常に、一目でそれと分かる特別の印がついている。良い耳の持ち主はいつでもカーニバル的世界感覚のほんのかすかな残響さえ聞きつけるのである。
(古代のものにせよ中世のもににせよ)何らかの種類のカーニバル的フォークロアの影響を──何の媒介もなく直接に、あるいは一連の媒介者を通じて間接的に──こうむっているような文学を、ここではカーニバル文学と名づけることにしよう。>(222頁)

<十七世紀から民衆のカーニバル生活は衰退し始めた。それは従来の全民衆性をほとんど失い、人々の生活の中に占める比重は急激に小さくなり、その形式も貧弱で小ぶりで素朴なものと化していった。一方ですでにルネッサンスの時代から、宮廷の祝日行事としての仮装舞踏会文化が、様々なカーニバル的形式やシンボリズムを取り込む形で栄え始めていた(だがカーニバルの模倣は主として外面的な装飾の域にとどまった)。その後より広い範囲にわたる(すでに宮廷とは別の)一連の祝祭や娯楽──仮装舞踏会系列と呼ぶべきもの──が発展し始める。これはそれなりの解放感とカーニバル的世界感覚の遠い残光を保つものではあった。こうしてカーニバル的形式の多くはその民衆的基盤からもぎ離され、広場を去って、今日見られるような室内仮装舞踏会風のものに変じていったのである。古代のカーニバル形式の多くは、広場の見せ物小屋の笑話やサーカスの内に保存されて命脈を保ち、生まれ変わり続けている。カーニバルのある種の要素は近代の劇場の見せ物の世界にも残っている。特徴的なのはいわゆる《芸能界》さえもが、何がしかのカーニバル的自由と世界感覚と魅力を受け継いでいることである。これはゲーテが『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』で見事に示してみせたことであり、……。>(262-3頁)


【232】仮面考・第一回「音=声を通して」(12)

■ヒュポスタシスとペルソナ(その1)

 坂口ふみ『〈個〉の誕生─キリスト教教理をつくった人びと』(岩波書店:1996)。この汲めども尽きぬ魅力を湛えた書物から、その理論的白眉ともいうべき第二章「ヒュポスタシスとペルソナ」の概要と抜き書き。

 1 東方の息吹き

◎バフチンの聖霊=多声的存在
<当時[引用者註:バフチンの時代]の知的な正教思想に共通な関心の一つは、「我と汝の問題」であり「共同体」の問題だったと言われる。これはキリスト教会創設のはじめからの問題であり、とくに個人ひとりひとりの神化と共生の場として教会をとらえ、その原理としての聖霊を尊重する東方教会にとっては中心問題だったはずである。バフチーンの文学論、言説論の中心は一見一つの言説とみえるものを実は構成している多くの言説の交流・対話の分析である。ドストエフスキーの小説のうちに、彼はそのような「ポリフォニー的言説」の傑作を見いだしたのだった。>(110頁)

◎境界にあらわれるもの=聖霊、あるいは接触と交流と対話の(東方的)存在論
 坂口氏が引用するバフチンの文章から。──<自己自身の喪失の根本原因としての離反、孤立、自己への閉塞。内部で生じることではなく、自己と他者の意識の境界で、敷居で生じること。あらゆる内的なものは自足することなく、外部へ向けられ、対話化される。いかなる内的経験も境界にあらわれ、他者と出会う。この緊張にみちた出会いの中に、内的体験の全本質が存する。……人間の存在そのものは(外面的・内面的を問わず)最も深い接触である。存在するとは接触することである。>(『ドストエフスキー論の改稿によせて』著作集八巻,伊東一郎訳,新時代社:1986)

<このような、接触と交流と対話の存在論、「内的な社会性」の考察、それがそのはるかな根を、三位一体論に、また共同性と個の深みにおける交わりを司る聖霊の位格への深い傾倒にもたなかったとは、私には思えない。キリスト教の神は、ナツィアンツのグレゴリウスが言ったように、一神ではない。異にして同なる三者の関係の神である。交わりなしには存在しない神であり、西方のトマスもまた言うように交わりが、関係がすなわち実体であり存在である神であった。>(111-2頁)

 2 迷子になった概念

◎イポスターズ─歴史の倍音が響く言葉
 坂口氏は、西洋近代の哲学的諸概念の多くがギリシャ語起源をもち、ラテン語訳を経て近代西ヨーロッパ語に入ってきたなかで、レヴィナスの思想のキイワード「イポスターズ hypostase」(実詞化、位相転換)の語源ヒュポスタシスは、ラテン語化されず西ヨーロッパの哲学的概念の群にはいりそこねた「孤児のようなことば」であると書いている。

<ドイツ語にも hypostasieren という語が残っているが、物的ならざるものを物化するという意味で、必ずしもよい意味に使われるとはかぎらない。(略)レヴィナスのイポスターズにしても、これは exister より、いわばすぐれた具体的存在性を与えるが、そのゆえにまた閉鎖性と孤独性を帯びざるをえない個存在を帰結し、そこからの「他なるもの」への開きが課題になるという性格をもっている。しかし、この、匿名的・普遍的存在性よりはたしかに優先する具体的・主体的存在性へのイポスターゼという名づけには、古い歴史の倍音が響いてはいないだろうか。>(113-4頁)

◎失われた概念をめぐる物語
<…この本の主題である四世紀から六世紀の教義論争は、とくにカルケドン宗教会議[引用者註:451年]以後のそれは、まさしくこの概念[引用者註:ヒュポスタシス]の生成をめぐっての闘争であったと言ってもよい。そのことからもわかるように、この概念こそは、キリスト教思想がギリシア的思想世界に対してつきつけた独立宣言のようなものだった。この概念を、キリスト教の思想化の中核をなすものとして鍛え上げることこそ、この時代の思想的努力の中心だったのだ。>(114頁)

 だとすれば、それほど重大な概念がなぜラテン語化されず、近代西欧諸語から姿を消してしまったのか。その一つの答えは、ラテン語でヒュポスタシスがペルソナ(persona)と翻訳されたからなのだが、しかしペルソナは本来ヒュポスタシスとはまったく異なった意味の語である。(ここでヒュポスタシスの概念が迷子になる。)

 しかもこのペルソナにしても、四世紀から六世紀にかけて、独特の存在論の中核をなす語──<「個」にきわめてよく似るが単なるギリシア的「個体存在 (individuum) 」ではなく、おきかえのきかない純粋個者、しかも、つねに他者との交流のうちにあることを本質とする単独者>(115頁)──としてあったものが、西欧中世から近代の歴史のなかで次第に単なる人間論の術語としての意味しかもたなくなってしまうのである。(ここでペルソナの概念が迷子になる。)

 こうして、坂口氏の物語(失われた概念をめぐる物語)は始まる。


【233】仮面考・第一回「音=声を通して」(13)

■ヒュポスタシスとペルソナ(その2)

 2 迷子になった概念(承前)

◎ヒュポスタシス=どろどろしたもの
 まず坂口氏は、ヒュポスタシスの概念がもつギリシャ語本来の意味(「下に+立つ」という動詞から生じた名詞で、ラテン語 substantia の語源)に遡り、次いでリデル−スコットの希英辞典を繙く。──行為の名としては「支えること」「抵抗すること」など。以下は、そこから派する意味群。

1)物の名としては、液体の中の沈澱物、濃いスープ、膿など、要するに固体と液体の中間のようなどろどろしたもの。さらに時の持続。また存在を得ること、ここから起源など。
2)神殿などの基礎、言語的に主題。またプラン、目的、企画など。
3)哲学的には実体、現実存在や現実性。
4)その他、富・財産の意味も。

<興味をひくのは、この語のもっとも早期の意味に、液体の中の沈澱とか、濃いスープとか、膿というものが見られることである。沈澱とは流動的な液体が固体化したものを言い、おそらくそれから濃いスープや膿などの液体と固体の中間のようなどろどろしたものという意味が出てきたのであろう。そしてこの基本的な意味は、哲学的に用いられるようになっても、残りつづけていると思われる。ギリシア語の『七十人訳聖書』その他の、「存在を得る」という意味にも、非存在から存在が現われてくるという、動的変化のイメージがある。これは液体から沈澱が生ずる時のイメージと共通のものである。そしてレヴィナスが使うイポスターズにも、この「液体の中に固体が現われてくる」というイメージは生きている。さらに、旧約やストアの使い方から、基礎・存在の源泉の意味さえもつに至る。>(116-7頁)

◎ヒュポスタシス=存在のリアリティ
 坂口氏によると、ヒュポスタシスという語を好み、きわめて多くしかも重要な箇所で使った最初の著名な例はプロティノスだという。また、グノーシス派も一般によく使ったという。(ある神学者の計算では『エネアデス』で百二十数回使用されているとのこと。)

<この語が、ウシア、ピュシスなどの似かよった意味の語からはっきりと区別され、独自の意味を担うのは、主としてカルケドン宗教会議以後の、激しいキリスト論論争の中においてであった。そして……この概念の出現が、キリスト教の理論的説明を可能にしたと言ってもよい。(略)
 プロチヌスはキリスト教教義論争以前にすでにウシアとヒュポスタシスをはっきり区別し、キリスト者は、その区別から直接・間接に学んでいると思われる。(略)
 …プロチヌスではこの表現[引用者註:ニカイア公会議で使用された「ウシアまたはヒュポスタシス」]は、ウシアという語の広い意味圏のうち、とくに現実存在性、リアリティーを強調する場合に使われる。これがヒュポスタシスの核心的意味であるらしい。したがって「ウシアのヒュポスタシス(つまり存在のリアリティ)」という表現がある。(略)
 つまりこれ[引用者註:存在のリアリティとしてのヒュポスタシス]は、「無」とも語られる無限に一なる力、第一の原理から発して、世界のすみずみまで弱まりながらもとどいていく、無限に透明な、動的な、純粋存在性とも言うべきものである。キリスト教哲学はネオプラトニズムを用い、変形しながら自分の体系を作ったが、その最高峰とも言われる十三世紀のトマス・アクィナスの神はやはり「純粋な活動(actus purus)」であり、それを彼は存在のはたらき(esse)とも呼んだ。(略)
 ただし、この esse も、あるいはレヴィナスのイポスターズも、プロチヌスのヒュポスタシスのように非人称的ではない。少なくとも、単に非人称的ではない。人称・非人称の区別を超え、それらを包摂すると言えるかもしれないが。トマスは、神のペルソナは神の本性と同一だから、神のペルソナのうちには、本性の esse とは異なるペルソナの esse があるわけではない、とその辺の事情を説明している。しかし、ヒュポスタシス=ペルソナはもとより、父・子・聖霊という、人びとに働きかけ、対話する、聖書のうちの登場者である。トマスの抑制された語り方よりは、実ははるかに自由、自発、交流、対話を本質とするような「純粋存在」なのである。(略)
 つまり、ヒュポスタシスは、実体・本質と区別された神の位格(父・子・聖霊)を表示し、この「位格」が西方のラテン語ではペルソナと呼ばれるものである。したがって、ヒュポスタシスはまさに神のペルソナ的な、いわば人格的(正しくは位格的)な面を示すことばである。(略)

 こうしてみると、東方ギリシア語圏のキリスト教神学の中核となった「ヒュポスタシス」が、言い方によっては「人称的」「人格的」とも言える、ある具体性と強度の現実性をもった活動主体であることが、ほのかに予感されるだろう。(略)
 ニカイア前後以来、三位一体の一性を強調する西方神学に対して、三位格をこそ基本と考える東方神学は異議を申し立て続けてきた。(略)
 この[引用者註:レヴィナスの]「匿名でない」実存者、ある種の具体性と自由とを持つ実存者──と言うより、その含みもつ、あるいは含まれる、匿名的存在から実存者化する働きそのもの──、としてのイポスターズには、「実体」を共有し、いわばそれを基礎としつつも、そこから歩み出る位格、人格、ペルソナの姿がほのかに残ってはいないだろうか。もちろん、レヴィナスにとっては、そこで話が終るわけではなく、イポスターズはまだいわばモナド的な、孤独な人格存在であり、その孤独からの脱出の方途がさまざまな仕方で探られるのではあるけれど。>(118-22頁)

◎ヒュポスタシス=存在のアクチュアリティー
 坂口氏によれば、ピュシスとヒュポスタシスの語義の差が、ローマ帝国の東西分裂をもたらした。ニカイアを中心とする三位一体論で、ウシアとヒュポスタシスの差が問題となった(神の実体[一]と位格[三]はどう違うのか)のに対して、これに続くカルケドン公会議を中心とするキリスト論論争では、ピュシスとヒュポスタシスの差が問題となったのである。

<ここまでに出てきた性格の差を大まかにもう一度繰り返せば、ウシアはもっとも哲学的・抽象的性格が強く、しかしこれも本質、種形相、実体、個存在と、かなりの幅をもつ。とくにアリストテレスで発展・明確化させられた概念である。ヒュポスタシスは比較的新しいヘレニズム・ギリシア語で、存在のアクチュアリティー、実存、といったニュアンスをもち、動的はたらき、流動のうちのいっときの留まり、という性格をもつ。ネオプラトニズムで重用され、とくに第二原理ヌースと親近性をもつ。ピュシスはもっとも古いギリシア語で、自然存在、本性、生むもの、生まれたもの等のニュアンスをもつ。本性であるかぎり、本質であるウシアとほとんど等しい意味をもつが、生み、生まれるという動的・生命的イメージ、また自然という具体的イメージはウシアと異なる。
 したがって、…キリスト構造論を考えた三世紀から六世紀の人びとが、ほとんど同義な実体[ウシア]とピュシスという二語のうち、ウシアではなく本性[ピュシス]の語を使ったのは、理由があったのだと思われる。つまり、ピュシスの方がこの物質世界に近く、具体的な、動き、成長し、滅する世界に近いから、目の前に具体的に見えるものとしての人間イエスの本性を考えるのに、ウシアではなくピュシスという語を使ったのではあるまいか。>(129頁)


【234】仮面考・第一回「音=声を通して」(14)

■ヒュポスタシスとペルソナ(その3)

 3 翻訳による変貌

◎ヒュポスタシスとペルソナ─対角線的な等置
 カルケドン信教は、ペルソナに対応するギリシャ語プロソーポン(顔、個人)とヒュポスタシスを同義として列挙し、ラテン語でペルソナとスブシステンチア(subsistentia)を列挙していた。この四つの同義的概念のうち、なぜヒュポスタシスとペルソナの二語が残り、等置されることになったのか。

 坂口氏によれば、その理由の一つは、ラテン語で本質(essentia)と実体(substantia)が同じ意味をもっていたこと──この点を踏まえて、アウグスチヌスは「私たちは敢えて一つの本質、三つの実体とは言わず、一つの本質あるいは実体、三つのペルソナと言う」と語っている(『三位一体論』五巻八章)──、いま一つは、プロソーポンという語が、カルケドン公会議で異端として排斥されたネストリウス系やアンチオキア系の思想で好んで用いられ、重要な意味をもたされていたという、いずれも表面的・歴史的なものであった。

 つまり、第一の理由でラテン語の二語のうちペルソナが残り、第二の理由でギリシャ語の二語のうちヒュポスタシスが残り、ヒュポスタシス=ペルソナという対角線的な等置が成立したのである。

◎プロソーポン─顔
<プロソーポンは[引用者註:ネドンセルによれば]、古来から顔を意味し、語源としては、もともと目や顔を意味するオープス…の前にさらにプロ…という前置詞のついたものと考えられている。そこから転じて、物の前面の意味になることは容易に推測がつく。デモステネスなどでは仮面という意味にもなっているという。この仮面は、宗教的儀式やそれから出たギリシア演劇で重要な役割を担ったことはよく知られている。小人数で演じられたギリシア悲劇の中の主役では、仮面によって一人の俳優が複数の役を演ずることもあった。その表わすものは個々のヒーローであることも、種々のタイプ(年齢、性など)であることもあった。
 そこからプロソーポンという語が、人間の社会における役割を指すようになるのは当然であり、そこから個人を指すに至るにはほんの一歩であった。>(133-4頁)

 坂口氏はここで、総じて新約聖書ではプロソーポンから「仮面」という意味や役割という含意が消えて「個」と「個人」だけが残るのはセム的思考の影響であろうと述べ、レヴィナスにおいて「顔」が他者性の体験の強烈な場であることを考えると、この伝統はある連続性をもっているのではないかと示唆している。

◎ペルソナ─仮面
<それではペルソナはどうか。この、西欧思想史で枢軸的な地位を占めつづける概念の原義は「仮面」である。プロソーポンがもともとは「顔」であって、転じて仮面の意味も得てきたのに対し、ペルソナの方ははじめから仮面であった。アウルス・ゲルスの『アッティカの夜』は紀元頃の作家バッススをひいて、ペルソナの語源は persono (響きわたる)という動詞からだろうと語る。この語源説は、六世紀のラテン作家ボエチウスによって繰り返され、彼を通じてその後の西欧に一般に知れわたることになった。言語学的には、この説は母音oの長短の問題で難点をもつ。しかし、古来もっともポピュラーな説であることはまちがいない。
 語源としてはその他、per se una (自らにより一である、の意。当然のこととしてこのプラキドゥスによる語源は、中世キリスト教思想家に歓迎されたが信憑性は薄い)、プロソーポンと同語源であるという説、エトルスク語の phersu という説などがある。この最後の説には、ネドンセルはある信憑性を与えている。phersu は墓碑などから、仮面をつけた踊り手で、何らかの神を表す俳優のようなものであるらしい。その神として、ギリシア神話ペルセポネではないかという説を、彼は展開している。この女神の名が、その祭のときに用いられる仮面を指すようになったのではないかというのである。(略)霊や人物の名が、それを演じる仮面を通じて「仮面」の意味をとる例は、larva という語にもみられるという。とくに、ラテン民族の演劇はエトルスク文化の影響を大きく受け、演劇用語はエトルスク語源のものが多いことが、この説を補強している。>(135頁)

<二世紀以降、もともと「人間」だった homo が次第に「男」の意味に使われるようになり、それにかわって抽象的な「人間」にペルソナが用いられるようになったと言われる。これには、人間を、哲学的考察の対象のような抽象的次元ではないが、文学のような個性的次元でもなく、その中間の「法のもとなる人間」の次元でとらえるローマ法の発達が大きく寄与したらしい。このようにして、ローマ人の法的思考のうちで、ペルソナの語は、ギリシア語プロソーポンよりはるかに豊かに発達し、かえってプロソーポンの語義を広めるのに影響したことが指摘される。ただ、法的発展をのぞいても、それ以前に仮面と劇の人物という意味から、タイプ、性格、社会的・道徳的役割という意味への移行は、日常言語のうちで行われていた。また劇のヒーローの尊厳やユニークさのニュアンスも、この語に与えられていた。ペルソナとはこのように豊かな社会的・法的・道徳的意味を含む語として、キリスト教成立以前にラテン語のうちに確立していたのである。>(136-7頁)


【235】仮面考・第一回「音=声を通して」(15)

■ヒュポスタシスとペルソナ(その4)

 4 概念のポリフォニー

◎ペルソナ=ヒュポスタシス─概念の交響・倍音としての概念
<「沈澱」「基礎」が「仮面」と訳されるという奇異な事態がおこったのは、既述のような歴史的経過の中で、おのおのの語の多様な意味のひろがりの中にある「個存在」という共通項・媒介項を介してであった。ラテン語のペルソナには、徹頭徹尾社会のうちなる個人というニュアンスがあり、役割、人に与える影響、印象、尊厳といった含意がある。ヒュポスタシスには、元来そうした意味合いはまったくない。そのかわり、ヒュポスタシスにはまた、ペルソナにはまったくなかった宇宙的視野と連関がある。ヒュポスタシスは自然学的・形而上学的な存在論のことばであり、ペルソナは劇場と法律と日常生活のことばである。この両者が等置されて、一つの同じ対象を指すとされるとき、その対象には複雑な交響が生じ、多様な倍音が生じる。キリスト教思想の中核となったペルソナ=ヒュポスタシスは、このようにしてきわめて豊かな概念となった。>(138頁)

◎ペルソナ=ヒュポスタシス─概念の対位法
<ここで注目すべき重要なことは、両概念に共通する一つの性格である。それは、この両者いずれにおいても、個存在性と流動性・関係性という一見矛盾した二要素が密接に共存しているということである。ヒュポスタシスは、流動きわみない、一者からの存在の流出(…emanatio)のうちの束の間の留まり…としての純粋存在性であった。宇宙的流動と因果関連の網なしには、ヒュポスタシスは存在し得ない。ペルソナはまた、劇場という演劇的場のうちの一要素であり、そこから転じて法体系のうちでの要素、社会的関係のうちで役割をもつ個人であった。
 いずれの場合も、これらの概念の指し示すものは、一面では包括的な場のむすぼれのようなものであり(ネオプラトニズムのヒュポスタシスも、レヴィナスのイポスターゼも、このような性格を顕著に示している)、しかし他方、場へ向い、場を形成する原点としてのアクチュアリティーももっている。その意味では、場をうちに含んでいるという言い方もできるだろう。両方とも、きわめてアクチャルな概念であるが、他方、自分の包括するもの(ウシアや「実存すること」)によって現実性と自己同一性を得ている面もある。
 ヒュポスタシスは、存在するものを存在せしめているアクチュアリティそのものであったし、ペルソナは、これこそ劇場や社会のうちでの主演者であった。しかし、ヒュポスタシスは宇宙的循環の一要素であるし、劇全体の構成や社会全体の依存関係と関連性なしにはペルソナはペルソナたりえない。劇は成立しない。この両概念がそのまわりにひろげる関連の場は、異質なものである。しかし、両者とも個存在性と関係性の両面をにらみ、両面を必須とする概念であることは共通している。そして、この両者が等置されるとき、結合された概念のもつ場は、宇宙的かつ人間的、自然的かつ法的・社会的、非人間的かつ日常人生的なものが重なり合い、混じり合い、対位法的に関わり合う不思議な場となった。
 したがって、この二つの概念は時にその意味内容を入れ換え、東方教会におけるようにヒュポスタシスが人格的な交わりの原理を意味したり、西欧キリスト教哲学におけるように、ペルソナが純粋存在性を意味するという、これも不思議な現象が生じてきた。(略)そしてこのことは、他の諸般の外的事情と共に、ロゴスを中心的位格とする西方教会と、聖霊を重視する東方という、基本的志向の差とからみ合っている。
 ただし、意味がいれかわっても、それぞれの概念はやはりもとの意味の倍音をしっかりと響かせている。ヒュポスタシスは抽象的で明確な存在概念であることをやめないし、ペルソナは神学的概念であると共に「神の似姿へと」造られた人間を示す語であり続ける。「ペルソナという語は、たとい人間と神との間には非常な相違があるにしても、人間もこの語で語られ得るほどに類的な名称である」とアウグスチヌスは言っている[引用者註:『三位一体論』]。>(138-40頁)

◎ペルソナ=ヒュポスタシス─カーニバル的時代が生んだ多声=多産な種子
 キリスト教思想がこのように豊かな含みと幅をもった基本概念(多面で豊かな種子)を獲得したのは歴史の偶然だったのだろうか。──そうではない、と坂口氏はいう。それはもとをただせば広大なローマ帝国における多民族・多文化の交響によるものだというのである。ギリシャ語圏とラテン語圏、東方の思弁・神秘・超越と西方の現世・人間の現実へのたしかな眼ざし、形而上学・宗教と法・レトリックの出会い。そしてヒュポスタシスとペルソナの出会い。

<連想のままに、ふたたびバフチーンをひき合いに出せば、彼は『小説の言語』第五章の中で、キリスト教が成立した頃のローマ帝国を、言語の多元性がはじめて自覚され、それに伴う文化の多元性・多声性が現実的問題として社会を支配した時期と規定している。ポリフォニックであり、そして多元なるものの対話が旧来の秩序を時に逆転させるカーニヴァル的時代であると。
 その当否はさておいても、しばしば「折衷的」とのみ軽蔑的に評価されるこのヘレニズム後期のローマの文化が、その一見まとまりのない多声性・多様性のゆえに、ある自由とのびやかさをもち、人間というものの相対性の意識をももったであろうことは、注目されてもよいことである。ヒュポスタシス=ペルソナもまさに「折衷的」概念にはちがいないが、それゆえに、この一つの概念の中にさえも、無限に豊かな対立と宥和と対話の可能性が含まれており、それは現代ヨーロッパに至るまでの思索の種を提供していることを見逃してはならない。自然学的な「もの」にも似た自存性と閉鎖性も、イデアに似た知性的存在特有のあり方も、生命も、他者によってのみ存在し得るという開いたあり方も、すべてこの種子のうちにある。>(141頁)


【236】仮面考・第一回「音=声を通して」(16)

■文字の宇宙─音と器

 NHK教育の『文字の宇宙』(4月14日放映)を観ました。「孤高の学者・白川静」をテーマとした番組で、こういうものを月に一度くらい観せてくれるなら、受信料はけっして惜しくないと思える出来映え。その構成・編集の技量と水準もさることながら(タイトルに出てくる「の」を渦巻き模様で表示した、制作者のセンスにまず痺れた)、やはりにじみ出る素材の素晴しさが圧倒的でした。

 「漢字は単なる記号ではない」と、文字誕生以前の古代人の意識のはたらきを「図象」や漢字(甲骨文・金文)の形のうちに読み取らんとする、今年八十九歳の白川氏の鬼気迫る(しかし泰然として自在な)「狂狷」の徒ぶりが深く心に刻まれ、その余韻が「生きる勇気」のようなものとなってすがすがしく残ります。

 さて、番組で取り上げられていた「白川文字学」をめぐるいくつかの話題から、ここでは「音」と「器」の字の成り立ちをメモしておきます。(いずれも著書に詳しく記されている事柄ではありますが、本人の肉声と筆跡でもって語られると、文字生成の現場がそこに出現──再現ではない──しているかと思わせる、ときめくような臨場感がたちこめます。)

 許慎の『説文解字』で「告」は「牛」と「口」に分解され、牛が何事かを訴えるため人に口をすり寄せている形であるとされます。しかし白川氏は、甲骨文や金文の字形との比較から、上部は小さな木の枝であり下部はそれに繋げられた祝詞を入れる器の形[「日」の横三本のうち最上部を省略した形に似たもの。以下「*」と表示]であるとします。つまり、告げるとは神に告げ訴えることだというのです。

 ここから、たとえば「可」は「*」を木の枝で呵しながら祈りの実現を神に要求する意であり、これを上下に重ね、さらに口を開けて立つ人の形を配すれば「歌」となる。また「言」は「辛」(入墨に用いる針の形)と「*」から成り、我が誓い・祈りに虚偽あらば神の罰(入墨の刑)を受けん、との自己詛盟(うけひ)を示すもの。

 そして人の「うけひ」に対する神の応答、つまり「*」の中への神の「おとなひ」「おとづれ」を示すしるしが「日」(のたまわく)で、ここから「音」の字が生成する。神意をたずねること、すなわち「問」(家の門の前に置かれた「*」を示す)への神の応答が「闇」であり、闇こそ神の住む世界である。(余談。安部公房の『他人の顔』に、「宇宙的規模で考えれば、闇こそ、現実世界の大部分を占める要素なのだ」と書いてあった。)

 ちなみに「器」の字は、出陣に際して(その鳴き声が悪霊をはらう力をもつとされた)犬を供犠に供する儀礼をかたどった字形であるとのこと。(器には犠牲獣の血と断末魔の声が封じ込められている?)──最後に、いま手元に開いている書物からの引用を一つ。

◎「言・音・意」と「形・声・義」(単語三兄弟)
<神にはことばはない。ただそれとなき音ずれによって、その気配が察せられるのみである。神意はその音ずれによって推し測るほかはない。これを推し測ることを意という。推測の意はのちに億・臆を用いるが、意がもと推測の意であり、億・臆はそれから分化した字である。言・音・意はもと一系の字であり、その音声の上でも関係がある。もし単語家族というものを考えるとすれば、このように形・声・義において一貫する関係にあるものを求めて、その群語構成を試みることができよう。>(白川静『漢字百話』37頁,中公新書:1978)

■備忘録─白川文字学から始まる

 白川文字学から、いくつかの興味深いテーマが派生してきます。以下、備忘録として思いつくまま書き残しておくと、たとえば呪具としての「器」がもつ各民族に普遍的な聖性・霊力の由来、あるいは動物の、とりわけ人間の首がもつ呪術的意味、そしてそれらと「仮面(的なもの)」との関係。

 ──「道」とは戦に際して異族の生首を掲げて軍を先導したことを示す字であり(白川静)、ラ・テーヌ期の古代ケルト美術の際立ったテーマである奇怪な「貌」ないし「人頭」について、大家ヤコブスタールは「獣面または仮面」と呼んだ(鶴岡真弓『ケルト美術への招待』81頁)。ちなみに、フェリックス・ガタリによれば、フランス語では道(ヴォア)と言表作用=声(ヴォア)とを同音異義的に結びつけることができるそうです(『分裂分析的地図作成法』訳書11頁)。

 また、言と音と義、文様(図象)と声と儀礼、視覚と聴覚と霊覚(?)、「イメージ」(木村重信『はじめにイメージありき』)と「音の共感覚」(川田順造『聲』)と「観念技術」等々の相互関係。──それらの合成としての文字。さらに文字と「仮面の三位一体」仮説(精霊=声、子=肉、父=顔あるいは名)との関係。

 そして白川文字学の方法論としての「トレース」(字形をなぞることで古代人の意識を活握する)がもつ意味。川田順造『聲』で紹介されている西アフリカ・モシ族の「太鼓ことば」の記憶法(楽器を演奏したことのある人ならおそらく誰しも経験がある、あの身体に深くかかわった記憶法。あるいは文字なき時代の長大な叙事詩の記憶法)との関係、等々。

 こんこんと湧き出してくるこれらのテーマ群については深く心に止め、いつか思い出すことがあればあらてめて再考することとします。


【237】仮面考・第一回「音=声を通して」(17)

■意識の表出法─「かく」「はなす」「つむ、くむ」

 言葉のスクラップ──吉増剛造との対談での石川九楊氏の発言(「筆触が切り開く宇宙 書と詩が互いに恋い焦がれ」,『ユリイカ』1998.5所収,150頁)。なお、以下は一続きの発言を分割したもの。

◎打楽器は書く
<打楽器というのは、書くんですよね。「かく」時に出る音。ひっかく時に出る音が弦楽器の音。だから打楽器や弦楽器と、ラッパとか口の前につける楽器とは全然異質の発達の仕方をしてると思いますね。口の前へつけるのは、話しの延長線上で拡声ですよね。だから吹奏などの吹くほうの音は打楽器や弦楽器とは発生がおそらく違う。>

◎意識の表出法─「かく」「はなす」「つむ、くむ」
<文化人類学的に言うと、人間の意識の表出法には「かく」と「はなす」と「つむ、くむ」という三タイプあると思うんです。「かく」には「ひっかく」「打つ」なんかも含まれて、音楽でも打楽というのは「かく」に入ります。「はなす」のは、要するに道具を使わない。道具を使わずに自己の身体を用いて、それで直に意識を「はな」していく。「話術」或いは「踊り」「スポーツ」なんかもそうですね。その辺が話し言葉と書き言葉の違いの根本のところにある。だから「かく」ということは人類発生とともにあったと思ってるんです。>

◎農耕─動物的な呼び声とは違う「言葉」の発生源
<「かく」ということのいちばんの基本形はやはり農耕だと思うんです。棒を持って土をパッパッと掻いて、そこに種を置いた。動物がやるように直に手で掘ることと、道具を持ってそこを同じようにひっかいた時とでは触覚、タッチが全然違うにもかかわらず、おそらく対象は同一であるということに気がついた時にはじめての人間的な意識であるクエスチョンマークがまず生じた。じかに掻くのと道具を手にして掻いた時の対象はどうも同じものであるらしいにもかかわらず違う。こっちは音が出ないが、あっちは音がする。感じてくる触覚も違う。にもかかわらず対象はどうも同一だという、その二重性というか、そのジレンマから「これはいったい何なの? 助けてくれ」みたいな意識をこめて対象を指し示す声が出たというのが、動物的な呼び声とは違う「言葉」なんじゃないかなと思うんです。>

◎「かく」と「はなす」の合流=文字の誕生
<クエスチョンマークを抱え込んで、クエスチョンマークをなんとか解きたいという思いで出ていった言葉。それは動物の呼び声=呼気とは違って、息を止めて発した。そこが言葉の発生源で、だから言葉というのは当然人間とともにあるし、「かく」ことも「はなす」ことも人類史とともにある。ただ、その「かく」という意識の表出がある段階では「はなす」ことと、完全に一緒にはならないんだけれど、一緒になろうという一つの合流が起きた。それが文字の誕生だということだろうと思うんですね。>

◎子どもの遊び

<だから「かく」というのは無文字社会にもある。僕が考えた三つの振り分け方で見てみると、子どもの遊びというのは全部このどれかに属するんですね。例えば物差しを持って走りまわって、あちこち突いたり、ガンガンガンガン音を鳴らすとか、これは「かいて」るわけですね。むろんでたらめ書きもする。綾取りなんかは「くむ」わけでしょ。積み木というのは「つみ」ますね。わけのわからない言葉を発したり、でたらめな歌を歌ってみたり、おどけて妙な身ぶりをしたり、踊ってみたりというのは「はなし」てます。砂場遊びというのは一方では砂を「かく」わけだし、こっち側ではその砂を「つみ」上げている。子どもの遊びというのはあらゆる意識の表出を連携的に全部やってますよね。>

  ■秘すればケ―声なき声としての花、あるいは舞の根としての声

 言葉のスクラップ──「浜田剛爾ホームページ」[http://www2.imaging.co.jp/home1/mbros/hamada/J-html/index-j.html]所収の「風景の中の世阿弥」から。――あるいは、「舞は声をもって根となす」(『花鏡』)。

<こうした時代背景や世阿弥の心理を私の世阿弥論をベースにして組み立ててゆくはてに、〈秘すれば花〉とはすなわち〈秘すればケ〉=変化する〈私〉の心理という推理が生まれることになった。〈花〉とはケであり化、つまり化することによって能芸人ははじめて身分の運命にとらわれることなく自由にいきることができる、という解釈である。つまり身分から解放されたいという世阿弥の叫びが私の胸の中に去来する。戸井田道三は著作『能芸論』で「最下層の賤民としての芸能人の哀しみが、能面という喜怒哀楽を極度におさえた無表情さの中にくみとれる」とし、その能面のもつ中性的美しさは「だれも、たがいに、他人の哀しみをどうすることも出来ないという不幸の中にある」という当時の能の状況を描いている。
 つまり仮面をもちだすまでもなく、花とは世阿弥の内なる声である。声なき声である。自由になりたいという声である。私にはそのように感じられたのであった。

 隠喩や比喩、あるいは寓話とは、民衆が偉大なる王権に対抗して唯一、声なき声、姿なき姿として自分達の意識や自由の声を反映させることのできる形式である。>


【238】仮面考・第一回「音=声を通して」(18)

■声とペルソナ

 川田順造『聲』(ちくま学芸文庫:1988/1998)。詩誌『現代詩手帖』に連載、単行本は「歴程賞」を受賞。兵藤裕己氏の「解説」によると、レヴィ=ストロースは「多様にとられた視座や構図といい、また文学的な美しさに富んだくだりと、学術的考察の交錯といい、驚くべき豊穰さをそなえた名著です。……『聲』は必ずや古典になるでしょう」と、川田氏あての私信で絶賛しているとのこと。

 この、読者の頭と心と身体を沸き立たせ、区画され矮小化された記憶と意識と生命を解き放ち、霊的ともいうべき自在かつ奔放に躍動する(広大で深遠でそれでいて軽やかな)世界へと誘う書物からの言葉摘み。今回は、第17章「声とペルソナ」を中心に。

◎こ・そ・あ・ど─近いと遠い、得体の知れぬもの
<周知にように、日本語にはペルソナを単位として、話し手、聞き手、参照される第三者という形での人称はない。話し手からの空間的、心理的遠近を、人、事物、場所、方向、関係、状態などについて示す一群の語があり、その遠近関係が「こ、そ、あ、ど」で示されることもすでに国語学者によって指摘されている通りだ。(略)古語で「これ」という語は、ペルソナ文法における一人称も二人称も、話者に近い人や事物の三人称も指すことができるし、逆に遠い人や事物、得体の知れぬものは、二人称、三人称とも「かれ」「あれ」などの語で示される。「われ」「おのれ」などが、一人称と二人称にともに用いられていることもよく知られている通りだ。(略)ことばが一人称から二人称へ排他的、直接的に差し向けられ、それ以外の者は三人称で参照されることは、原則でも常態でもない。言語行為や人称のあり方も文化によって異なる。語りの人称といった問題をある程度一般的に、つまり通文化的に考えようとするとき、ペルソナなど基本概念の枠組み自体が、まず問われなければならない。>(228-9頁)

◎ペルソナの集合的性格
<「仮面」に発したペルソナの観念が、「理性的本性をそなえた分割できない実体」(ポエティウス)と定義されるようなものになったのは、ローマ法やストア哲学、キリスト教思想のヨーロッパ社会での特殊化の結果とみるべきなのであろう。だがヨーロッパにおいても、近代以前には、「ペルソナ」が、あらゆる意味で集合的な性格を帯びていたことは、アーロン・グーレヴィッチによって指摘されている。神の「秩序[オルド]」に人々が個人の独自性を消去して参与し、人々が演ずる社会的役割は“vocatio”つまり召命、神のお召しと見做されていた中世において、個人は外的に定められた諸特徴の担い手にすぎなかった。個人の役割は、彼の所属する社会集団の中で承認されたモデルにのっとったものであり、そこでは自叙伝が独自の領域とはなりえなかった。>(235-6頁)

◎ペルソナの単子性と重層性─アモルフなコミュニケーションの場
<…本書の主題である声とのかかわりで、ペルソナの単子性、重層性について考えてみよう。それは、本書のはじめから断続的にとりあげてきた語りの人称の問題、声を発しているのは誰なのか、声がさしむけられ、またその声で存在を与えられ、あるいは強められているのは誰なのかという問いに戻ることでもある。語源からして、ペルソナ(仮面)は、「音(声)によって」(per son)声を発している主体を認知させることにかかわっている。
 声を発している“私”は、あくまでも醒めている。そして声のさしむけられる相手と対話し、第三者を指示する──それが「近代的」理性に最も適合する、声とペルソナのあり方であろう。だが、これまでも見てきたように、もっと不定形[アモルフ]なコミュニケーションの場や、非単一指向性の発話、あるいは真の宛て先[アドレシー]にはさしむけられていない発話、他の人称のとりこまれた言述などのいりまじる中にあって、一、二、三人称のペルソナを単子として想定したコミュニケーションを、「純粋」ないし「標準的」とみること自体が、「近代的」偏向の所産とみなすべきかもしれない。>(241-2頁)

◎人称の融合とクロスオーバー、ペルソナの多重性
<黒人アフリカの歌に多い音頭=一同[リーダー・コーラス]、問いかけ=応答[コール・アンド・レスポンス]、掛け合い[ダイアローグ]などの形式でも、人称の融合やクロスオーバーは頻繁に起る。そしてより明確な我の他者化は、黒人アフリカに多い「代弁者」や、憑衣儀礼における霊媒のように、他者が「私」の口をかりて一人称で語る場合に起っているといえるだろう。(略)
 周知のように、アイヌのユーカラでは、神々の物語も、人間の物語も、すべて、語り手の口をかりた一人称で述べられる。『古事記』に多数含まれている歌謡でも、三人称と一人称は交錯する。古橋信孝は、八千矛神の神謡について、南西諸島の神謡における巫者の一人称の語りも援用しながら、語り手が神がかりして神の世界を実現する神謡は、本来一人称であったはずだとみている。
 ……奄美のユタ、「我も其身になって」霊[もの]がたりする平曲の琵琶法師、女神ムーサの助けを借り、ムーサと対話しつつ聴衆に語りかける古代ギリシアの詩人なども、ことばを発する行為におけるペルソナの多重性を示していよう。日本の祝詞にも、神、天皇、神職、会衆がつくる関係の中での、「宣[の]る」行為のコミュニケーションとしての多義性、そのことばの媒介者としての神職の多重性が集約的に表われている。>(244-5頁)

◎能─ペルソナと語りの人称の融通無碍な性格、人称の離合・主体の変換
<超常界のものが発話者の口をかりる一人称の語りが、能、とりわけ夢幻能の後ジテの語りにいかに緊迫感を与えているかは、つとに横道萬里雄、表章が指摘している。ペルソナと語りの人称の融通無碍な性格が、能ほどあからさまな領域もないだろう。地が感情移入してシテの人称でうたったり、掛ケ合でワキとシテが融合するなど、人称の離合が自在であるだけでなく、死者や霊界、植物、動物、果ては雪や山の精と人間との主体の変換も、ごく自然に行なわれる。>(245-6頁)

◎未分化の人称的世界のかりそめの切れ目
<このような能の表現に接していると、まず単子としてのペルソナがあって、その交錯や変換が起こっていると考えるより、自然界に包みこまれた未分化の人称的世界に、登場人物や、元来の意味でのペルソナである面によって、かりそめの切れ目が入れられて物語が進行しているとみる方が、妥当ではないかと思えてくる。>(246頁)

 摘みきれなかった言葉の種子。──「システムと創造性」(238-41頁)、「多元的一人称」(248頁)、「説明の時制と語りの時制」(249-51頁)、「非ヨーロッパ世界の諸語も視野に含めた、人称との関わりでの時制、相の概念の再検討」(256頁)等々。


【239】仮面考・第一回「音=声を通して」(19)

■仮面をこえて─イコンからイドラへ

 川田順造『聲』からの言葉摘み。今回は第18章「仮面をこえて」を軸に。(この濃縮された意味生成の磁場のような書物に出てくる「名」をめぐるいくつかの話題。これは後に「名=汝」と「我=割れ」の人称世界を通して仮面を考える際のコンテンツ、あるいは発想の種としてとっておくことにする。──芽=眼、花=鼻、葉=歯、実=耳あるいは身、根=骨等々。種子=胎児?)

◎音声の四「面」性─あるいは音象徴性
 ことばによる意味の伝え方には、二つの二面性がある。その第一。分節的側面(子音、母音のつらなりとして把握できる音の継起によって意味を伝える面)と、超分節的=韻律的側面(音の高低、強弱、長短、“音色”によって表わされる側面)。(18頁)

 その第二。ある言語の中で音声が担わされている約束に従って、概念化された形で意味を伝える面(音声とそれによって意味されるものの関係が恣意的=無契的であるとする見方、言語を約束に基づく記号体系であるとする立場から、言語研究の中心に置かれてきた側面)と、音声そのものが帯びている性質が直接、ないしは象徴的なやり方で意味を伝える面(擬音語、擬態語などに代表され、音象徴性[sound symbolism]という観点から細々と関心がもたれつづけてきた側面)。(28頁)

◎言語音の三類型・三作用─あるいは音の共感覚
 川田氏による言語音(ある言語の音韻を構成している音声)の三分類とそれぞれの機能。(35-7,110頁)──なぜそのような「用語の整理」が必要なのか。<それは議論の混乱を防ぐためだけでなく、私が音象徴性の問題をその一部として位置づけてみたいと考えている、言語音と非言語音との間の、あるいは音の領域と、視覚、嗅覚、味覚、触覚、運動感覚等の非聴覚的感覚領域との間の共感覚(synesthesia)の問題を考える前提にもなるからである。>

《言語音I》─感覚作用
 直接には何も模倣したり象徴したりしておらず、音が音として感覚に訴えるものによって伝達を行う領域。この領域に属する語は欧米で‘vocable’(意味に関係なく、音で構成されたものとしての語)といい、川田氏はこれを「音感語」(概念化された意味も、音象徴性ももたず、音そのものの直接的な刺激のために用いられる語)と名づける。川上音二郎の「オッペケペー」など。

《言語音 II 》─象徴作用
 言語音の象徴作用によって伝達が行われる領域。川田氏はこの領域に属する語を「象徴語」[ideophone]とよび、その下位概念を「表音語」(非言語音を言語で表わす:擬音語)と「表容語」(音以外の感覚を言語音で表わす:擬態語)に区別する。

《言語音 III 》─表意作用
 概念化された意味によって伝達が行われる領域。言語音とそれによって意味されるものとの結びつきが恣意的なもの。

◎発話行為の三「面」性
<私は発話行為を、(一)情報伝達性、(二)行為遂行性、(三)演戯性の三つの側面から捉えるべきであると思う。あらゆる発話行為にはこの三側面が混在している。情報伝達性の強いものは使者の伝言、ニュース、学術報告等であり、そこでは情報の「新しさ」と「真偽」が問題となる。行為遂行性の比重が大きい儀礼言語(唱え言、祝詞、宣誓など、特定の場で声にして発することに意味がある言述)では、発話者および発話の場の「適確性」が重視され、演戯性が大切な、昔話、古典落語などくりかえし享受される言述においては、「感興」が求められる。>(275頁)

◎声のイドラ─記号の束縛を「超え」て遊ぶ声が発散する力
<いずれにせよ、イコンも含めて、これらの記号[引用者註:イコン=写像、インデックス=指標、シンボル=象徴]はすべて、パースの用語での“representamen”つまり何かを「表象」するものだ。だが、右にみた中毒現象を成り立たせる声の演戯性は、声が何かを「表象」しているから生まれるのでは必ずしもない。それは声そのものの魅力、記号の束縛を超えて遊ぶ声が発散する力から生まれるのだ。(略)
 このように記号を離れ、イコンの表象性[引用者註:川田氏は、演戯性の面から見た声の表現の超分節的特徴は、パースの記号の三分類のうち、より有契性が大きいイコンに近いものであるとしている]をさらに超えたところにあるもの、それは何と名づけられるべきなのだろうか? 他に適切なことばが見当たらないままに、私は仮りに「イドラ」(熱愛の対象)という語を、フランシス・ベーコンによって先入的謬見のしるしとして貶められた“idola”の含意を、そのままの形では受け入れずに、あてはめてみたいと思う。だが、マイケル・ジャクソンの歌にしびれる現代の若者と、羽左衛門の口跡に酔った明治・大正の若者の、アイドル化された声の中毒現象に本質的な差がないとすれば、科学主義、経験論のベーコンには貶められて当然の、人間の非理性的な分泌物で起る中毒症状のもとを、ラテン語で「幽霊」の意味もある「イドラ」という名で呼ぶことに、むしろ積極的な意義があるとも思える。>(278-80頁)

◎補遺1─未分類
<声は聞かれるものであるより前に“発する”ものであり、遠方に向って、あるいは超常なるものに向けて、興奮をこめて叫ぶものではなかったろうか?>(281頁)

◎補遺2─死者のペルソナ=デスマスク?
<声をテーマにしたこの本で、私は「名を呼ぶこと」と、その声を発する主体としての人称[ペルソナ]とに、こだわりつづけてきた。声は、それを発している主体=人称[ペルソナ]の息にのせて、その主体を他のペルソナとかかわらせるからであり、ある主体から発せられた声が他の名を呼ぶことで、名づけられた他の主体=人称[ペルソナ]を、声の中にひき出して、呼ぶ者をはじめとする他のペルソナとかかわらせるからである。死者はしばしば、声で呼ばれた名の中にしか、いや名を呼ぶという行為の中にしか存在しない。これらの主体=人称[ペルソナ]が、決して単子的に実在するのではなく、呼ぶ声を媒介として幾重にもなった、あるいは屈曲した“関係”のうちにあることは、これまでさまざまな事例を通して見てきたところである。>(282-3頁)

◎補遺3─ペルソナなき声
<一つの名で呼ばれるペルソナが、他のペルソナにとってかけがえのない「イドラ」として物神[フェティシュ]化され、その名を呼ぶ声自体も物神化されて、表象としてのイコンから音のイドラに変質するとき、名を呼びつづけるペルソナも物化され、やがて屍に変質する……。>(284-5頁)

 摘みきれなかった言葉の種子。──「運動記憶」(89頁)、「天と地の媒介者・異界からのメッセンジャーとしての鳥」(108頁)、「命名行為の神秘と罪の意識」(118頁)、「声のアジール」(130頁)、「死と生の間に介在することばである名」(139頁)、「私の声を共同のものにすること=私の他者化」(196頁)、「声というものが元来もっている一種の公共性」(199頁)、「ことばと鉄鉱石、粘土、獣皮等との類比」(210頁)、「ことばを紡ぎ文どる行為と機織りとの類比」(217頁)、「言語学者ロジャー・ウェスコットのいう「音調のイコン性」[tonal iconicity]」(262頁)等々。


【240】仮面考・第一回「音=声を通して」(20)

■補遺1─やり残したことなど

 まだ「仮面の記号論」の足場すら固めていないのに、いきなり記号を超えられては意欲が萎えてしまいます。だからというわけではないのですが(これで挫けるほどの学識を備えているわけではないので)、このあたりで一応の区切りをつけて、仮面考・第一回を終えることにします。

 次回は「顔=貌に面して」というタイトルで、引き続き引用の織物づくり、あるいは引用の重ね着のための基礎作業を試みる予定である、と予告をしておきましょう。(これぞ「自己詛盟」というやつですね。)

 それにしても「音=声」というテーマは奥が深くて、あと十年、一心不乱に作業を続けてみたところで、とても『聲』を超えることはできそうにありません。──と、まだまだ未練が断ち切れないので、いま手元に書きちらしたメモ(のうち判読可能なもの)をそのまま転記しておきます。そして、これらについても深く心に止め、いつか思い出すことがあればあらてめて再考することとします。

◎幸田露伴の音幻論。白川静氏の「漢字の思考」(『文字遊心』所収,平凡社ライブラリー:1990/1996)にも「音幻の論」という節がある。<つまり音には、一種の音感というものがある。その音感が次第に固定して語型をもち、ことばになって分化していく。>(370頁)

◎川田順造『聲』(265-72頁)にルソーの「メロドラマ」をめぐる叙述がある。ピーター・ブルックス『メロドラマ的創造力』も調査のこと。

◎ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』(桜井直文他訳,藤原書店:1982/1991)にすべてが書かれている。たとえば<聴覚は、内部に手をふれることなく、内部を差し示すことができる。>(152頁)等々。

◎チャールズ・サンダーズ・パースの記号論をよくよく吟味のこと。(そこに音=声の契機はあるのだろうか。)大熊昭信『文学人類学への招待』(NHKブックス:1997)も調査のこと。

◎ポール・オースターの諸作品。『孤独の発見』後半の「記憶の書」は声の物語である。あるいは『鍵のかかった部屋』終末での壁越しの(声だけの)会話。あるいは『シティ・オブ・グラス』(ガラスの街)における電話(の声)の意味。

◎その他、歌鳥風月の記号論、ラフカディオ・ハーンの耳、カフカの耳、音と電磁波(ニッコロ・カベオ『磁気哲学』、ウィリアム・バーロウ『磁気告知』)、エーテル、「植物である前にことばであった植物たち」(レオ・レオーニ『平行植物』)等々。

■補遺2─「音=声」から「顔=貌」へ(あるいは「名」へ)

 安部公房『他人の顔』(新潮文庫)から。

◎皮膚にある魂、表情=他人との通路、人間の誕生、表情係数
<人間の魂は、皮膚にある……文字どおり、そう確信しています。>(29頁)
<顔というのは、つまり、表情のことなんですよ。表情というのは……どう言ったらいいか……要するに、他人との関係をあらわす、方程式のようなものでしょう。自分と他人を結ぶ通路ですね。>(30-2頁)
<表情筋の解剖図を参照しながら、粘土の薄片を一枚一枚、たんねんに積み重ねていく作業は、まるで一人の人間の誕生に内側から立ち合っているような、劇的な緊張があった(以下略)>(60頁)
<表情係数[引用者註:表情筋が表情におよぼす影響を量的にあらわしたもの]の濃度は、子鼻から唇の端にかけての三角地帯がもっとも高く、次は口輪から頬骨にまたがる鞍状部、それから眼瞼下部、眉間という順に次第に薄くなり、額がもっとも希薄な場所になる。つまり表情は、顔の下半分、それも唇の周辺に集中しているというわけだ。>(63頁)

 ──声のパフォーマンス。声の表情。唇、すなわち声の通る「穴=仮面的なもの」のまわりに表情(魂)が宿ること。

◎能面=頭蓋骨、空虚な器、鏡のなかの映像、仮面の基本原理
<もともと、能面のおこりは、頭蓋骨だったのではあるまいか?(略)初期の能面作家たちが、表情の限界を超えようとして、ついに頭蓋骨にまで辿り着かなければならなかったのは、一体どういう理由だったのだろうか? おそらく、単なる表情の抑制などではあるまい。日常的な表情からの脱出という点では、ほかの仮面の場合と、おなじことだったのだ。強いて違いを探すとすれば、普通の仮面が正の方向への脱出をはかったのに対して、こちらは、負の方向を目指している。容れようと思えば、どんな表情でも容れられるが、まだなんにも容れていない、空っぽの容器……相手に応じて、どんなふうにでも変貌できる、鏡のなかの映像……(略)顔を空っぽの容器にしてしまった、その能面の思い切った行き方には、あらゆる顔、あらゆる表情、あらゆる仮面を通じて言える、基本原理のようなものがありはすまいか。自分がつくり出す顔ではなく、相手によってつくられる顔……自分で選んだ表情ではなく、相手によって選ばれた表情……そう、それが本当なのかもしれない……怪物だって、被造物なのだから、人間だって、被造物でいいわけだ……そして、その場合、その造物主は、表情という手紙に関するかぎり、差出人ではなくて、どうやら受取人の方らしいのである。>(84-5頁)

 ──声の多声性と共同性。表情(魂)を入れる「空虚な器=仮面的なもの」。あるいはデスマスクの無声性。

 付記。川田順造『聲』から。<ヒョウタンは、西アフリカのこの地方原産で、さまざまな形、大きさのものがあり、杓子、食器から、各種容器、楽器、祭具、洗濯だらいにいたるまで、日常生活全般でひろく使用されている。(略)聖なることばを「語る」太鼓をはじめ、中空のものが霊力を宿すという信仰や、「うつわ」という女性の象徴性をそなえた物体として、生活空間のいたるところにありながら、決して粗末には扱われていない。>(207頁)

◎自我粘性度

<自我粘性度(すなわちこの低下は,自己の確立であると同時に,自己の硬化でもある。おおむね年齢に逆比例するが,その軌跡の曲率は,性別,性格,職業等によって,かなりの個人差が認められる)>(51頁)

 ──液体(人間の非理性的な分泌物)と固体の中間のどろどろしたものから「顔」ができる。あるいは気体と液体の中間のねばねばしたものから「名」ができる。(気体=風の震え=音=声=精霊、液体=火と水の混融=顔あるいは名=父、固体=大地の振動=身=実=子。)