無意識をめぐる冒険・第三部



【201】無意識をめぐる冒険・第三部(その1)

[1]明け方の鸚鵡
 ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立ち、阿弥陀仏の鸚鵡は明け方にまどろむ?

[2]極楽国土の鸚鵡
 『寺子屋ネット』所収「阿弥陀経を見る」[http://www.terakoya.com/amidakyo/index.html](浄土真宗本願寺派蓮浄寺)から。以下、全文引用。

復次舍利弗.彼國常有.種種奇妙.雜色之鳥.白鵠孔雀.鸚鵡舍利.迦陵頻伽.共命之鳥.是諸衆鳥.晝夜六時.出和雅音.其音演暢.五根五力.七菩提分.八聖道分.如是等法.其土衆生.聞是音已.皆悉念佛.念法念僧.舍利弗.汝勿謂此鳥.實是罪報所生.所以者何.彼佛國土.無三惡趣.舍利弗.其佛國土.尚無三惡道之名.何況有實.是諸衆鳥.皆是阿彌陀佛.欲令法音宣流.變化所作.舍利弗.彼佛國土.微風吹動.諸寶行樹.及寶羅網.出微妙音.譬如百千種樂.同時倶作.聞是音者.皆自然生.念佛念法.念僧之心.舍利弗.其佛國土.成就如是.功徳莊嚴.

また次に舎利弗よ、その国[極楽国土]にはつねに種々の美しい色とりどりの鳥がいる。白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命などの鳥である。このさまざまな鳥たちは、昼夜六時のそれぞれに優雅な声でさえずる。その鳴き声は、五根・五力・七菩提分・八聖道分などの尊い教えを説き述べている。その国土の人々は、この鳴き声を聞きおわると、だれもかれも仏を念じ、法を念じ、僧を念じるのである。舎利弗よ、そなたはこれらの鳥が罪の報いで鳥に生まれたのだと思ってはいけない。そのわけは、阿弥陀仏の国土には三悪趣(地獄・餓鬼・畜生)はないからである。舎利弗よ、その仏国土には三悪道(地獄・餓鬼・畜生)の名さえもないのだから、ましてそのようなものがいるはずがない。このさまざまな鳥はみな、阿弥陀仏が法を説きひろめようと、いろいろと形を変えてあらわされたものにほかならないのである。舎利弗よ、その仏の国土はさわやかな風が吹きわたり、さまざまな宝の並木および宝の網飾りを吹きゆるがせて、妙なる音楽作り出している。それは百千種もの楽器が同時に奏でられているようであり、この音色を聞く者は、だれでも自ずから仏を念じ、法を念じ、僧を念じる心を生ずるのである。舎利弗よ、極楽国土は、このように麗しく飾りたてられている。

[3]逃げる鸚鵡
 松島を/逃げる/重たい鸚鵡かな(高柳重信『日本海軍』)

[4]PARROT
 ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』(斎藤昌三訳,白水社)に、<もともと鸚鵡というのは人間だったのである>と書いてある。

<つまり、語源がそうだということだ。すなわち、フランス語の「ペロケ」(鸚鵡)は人の名「ピエロ」を変形させた愛称であり、英語の「パロット」(鸚鵡)も人名「ピエール」からできた語、スペイン語の「ペリコ」(鸚鵡)もまた人名「ペドロ」から派生している。ギリシア人にとって、鸚鵡に喋る能力があるということは人間と動物の違いをめぐる哲学論争の論点のひとつとなっていた。アイリアノスの言によると、「バラモンたちは他のいかなる鳥よりも鸚鵡を崇めていた。これは至極当然のことにすぎないと彼らは言う。なぜなら、鸚鵡のみが人間の声をよく真似することができるからである」。>(79-80頁)

[5]鳥の声
 ヘーゲル『自然哲学』(加藤尚武訳,岩波書店)から。

<声は、動物のもつ奇蹟的と思われうるもののうちで最高の特権である。[略]馬は戦闘に赴くときにいななく。昆虫はぶんぶんと鳴く。猫は、気分がよくなるとゴロゴロいう。しかし、さえずる鳥の理論的な没頭(Sich-Ergehen)はもっと高次の種の声である。そして、それが鳥の場合に非常に広範囲に達するということは、動物が一般に声をもっているということと比べれば、すでに特殊なことである。というのは、水の中の魚はものが言えない。これに対して、鳥は自分のエレメント(境位)としての空気の中で自由に浮遊するからである。地の客観的な重さから分離されて、鳥は空気を自らによって満たし、自分の自己感情を特殊なエレメント(境位)の中で表出する。金属は響きをもっている。しかしまだ声はもっていない。声は精神的となった自己表出する機構である。[略]主体的なものは自らの内で震動し空気をただ震動させることによって、自らをこのような霊魂的なものとして知らせる。この単独の主体性は、まったく抽象的に、時間の純粋な過程である。この過程は、具体的な物体の内では、自己実現する時間として、震動であり音(Ton)である。[略]声は思惟にもっとも近い。>(下巻565-6頁)

[6]予言する鳥
 ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』から。

<『純な心』以前にも、鸚鵡はフロベールの作品や手紙のなか、あちこちにちらちらと姿をみせている。ルイーズに異国の魅力を説いて(一八四六年十二月十一日付)、ギュスターヴはこう書く。「子供のころには、誰でも鸚鵡と砂糖漬けのなつめ椰子の国に行って暮らしたいと思うものです。」[略]
 前にも述べたことだが、『サラムボー』に登場するカルタゴの通訳者たちは、胸に鸚鵡の入れ墨をしている(この細部描写はたぶん、事実に基づくというより、巧みな創作ではあるまいか?)。この同じ小説に出てくる何人かの傭兵たちは、「手に日傘を持ち、肩に鸚鵡をとまらせている」。一方、サラムボーの露台を飾る家具調度品のなかには、小さな象牙の寝台があって、寝床の敷物には鸚鵡の羽根が詰めてある。──「鸚鵡は運命を予言する力を持ち、神々に捧げられた鳥であるとされていたからである。」>(83-4頁)


【202】無意識をめぐる冒険・第三部(その2)

[7]〈終わり〉の予言
 大澤真幸氏は、予言とは他者による先験的選択であるという(『戦後の思考空間』244頁,ちくま新書)。ここでいう先験的選択の例として大澤氏があげているのが「性格」の選択である。行為が自由な選択として実現するためには「性格」がその不可欠な条件となるのだが、このようなあらゆる前提にとっての前提となる基底的な前提の──先験的過去における──選択が「先験的選択」であるというのだ(「〈終わり〉の予言」,『言語』1999.2所収)。

(ギリシャの「運命」悲劇に対するシェイクスピアの「性格」悲劇。──大澤氏は、マクベスは性格の特徴づけをほとんどもたない「ぼんやりした男」だったが、王になるべきものという魔女の予言だけがマクベスに特定の性格を与え、殺人を恐れない強靭な意志の持ち主として振る舞うことを可能にしたのだと指摘している。)

 ところで、先験的に選択された基底的前提は、偶有的である(他でもありえた)と同時に必然的である(もはや変えることができない)という様相上の両義性を帯びている。つまり、生の基底的な前提(たとえば「性格」)に関する先験的選択は、他ではありえない事実性を偶有的な可能性であるかのように選択する冗長な試みとして構成されるのである。

<すべての予言は、「終わり」についての予言である。もちろん、その終わりは、同時に、目的でもある。生や歴史の終極でもあるような目的を指示することで、予言は、述べてきたような、生や歴史の基底的な前提──生や歴史のなかの諸選択が常に前提している前提──を指定したのと同等な効果を有することができたのである。だから、予言とは、「事前」において「事後」を与えることを意味するのだ。>(「〈終わり〉の予言」)

 しかし、高度資本主義社会──決して究極の終わりに到達せず、終わりを次々と先送りしていくことによってのみ維持される社会──にあっては、このような意味での「終わり」を積極的・実定的なものとして提示する予言はほとんど不可能なものになっている。というのも、資本主義とは、規範をより一層の包括的な許容度を有するものへと置き換え普遍化していくダイナミズムにおいてのみ可能なシステムだからであり、そこでは「偶有性」を「必然性」として転換させる予言の言説的な効果はほとんど得難いものになってしまうからである。

<だが、「終わり」がほとんど不可能なシステムのもとで、予言が効力を発揮する場合が、たったひとつだけある。「終わり」は、通常、なにごとかの成就であり、したがって創造であり、その意味では、もうひとつの始まりでもある。このような終わりが、予言として、社会的な効果をもつことは、述べてきたように、今日では難しい。だが、宣せられた終わりが、始まりでもあるような終わりではなく、真の〈終わり〉であったときには、それが絶対的な〈終わり〉であったときには、事情が異なってくる。世界の全的な否定を意味するような絶対的な〈終わり〉だけは、(結局はシステムの維持を前提にしている)資本主義的な(規範の)普遍化のダイナミズムによっては相対化されえず、逆説的な仕方で超越的な輝きや崇高性をもつことがありうるからである。>(同)

[8]地下世界
 大澤真幸『虚構の時代の果て』(ちくま新書)から。

<インフラストラクチュアが〈自然〉からの都市の一定の分離を保証する。近代都市において、このようなインフラが整備されえた理由に関して、内田隆三は、フィリップ・アリエスや片木篤の議論を援用しつつ、都市の空間から死が排除されたことを指摘している。近代都市の建設は,死者(屍体)を都市の郊外(郊外の庭園風の──つまり死の匂いのない──墓地)へと排除し、都市を生者の空間へと純化する過程をともなっている。それは、同時に、「地上/地下」の対立と並行していた「生/死」の宇宙論的な二元論から、都市が自由になることでもある。地下や地表がこうして意味的に中性化することで、はじめて、生者の利便性だけに指向した開発の対象となりえたのであり、かつて生と死を分ける象徴的な境界であった大地に、鉱山技術や土木技術が投入された、と片木篤は論じている。とりわけ、死から解放された地下は、水路やガス管などの物やエネルギーのためのチューブが、また通信網のような情報が流れるチューブが、そして何よりも、地下鉄のような人間が運ばれるチューブが敷設される、最も豊穰な整備対象となったのである。>(14頁)

[9]都市の無意識
 都市の神経回路網としての地下世界。──あるいは、都市の内臓(無意識)としてのアンダーグラウンド。


【203】無意識をめぐる冒険・第三部(その3)

[10]冥界への道
 ベンヤミン『パサージュ論I』(今村仁司他訳,岩波書店)から。

<もっとも、パリの地下を延びているもう一つ別のギャルリ、つまり地下鉄もあって、ここでは、晩になると、灯火が明々と輝きはじめ、駅名の氾濫する冥界への道を教えてくれる。コンバ、エリゼ、ジョルジュ・サンク、エティエンヌ、アンヴァリッド、ヴォージラールといった一連の駅名は、街路や広場といったかつての不名誉きわまりないしがらみを自分から脱ぎ捨てて、電車のライトにつかの間に照らし出されその汽笛の響きわたる暗闇のなかで、形も定かならぬ下水溝の神々やカタコンベの妖精たちになってしまっている。この迷宮はその内部に、一頭とはいわず多くの盲目の狂暴な牡牛を飼っており、しかもこの牡牛ときたら、ぱっくり開いた口にテーバイの若い娘を毎年一人だけくれてやれば済むというのではなく、毎朝何千人という顔色の悪いお針子や睡眠不足の店員たちをくれてやらねばならないのだ。>(C1a,2)

  [11]CRYPTE
 東浩紀『存在論的、郵便的』(新潮社)から。──東氏の紹介によれば、デリダは「Fors」(邦訳『現代思想』1982.2 臨時増刊号)でクリプト[crypte]の三つの意味について論じている。第一に教会の地下聖堂、第二に納骨堂(自我の内部に穿たれた地下室、Da 内部に穿たれた穴)、第三に動詞形[crypter]で暗号化すること(排除された表象を物表象と語表象との中間的存在として扱う無意識的情報処理の特性=ヒエログリフ性)。

<[無意識における]情報処理経路の複数性は、クラインの管の分岐を意味する。無意識の表象はまっすぐには進まない。その経路は分岐し迂回し逸脱する。私たちはさきほどシニフィアンの分割可能性に触れた。単一の語+物表象から複数の物表象へのその「破砕」は、このモデルにおいては、各表象に備給された心的エネルギーの「分離 Entbindung」、そしてその結果生じた自由エネルギーの分割と拡散により説明されるだろう。……また前掲したデリダのテクストは、「暗号[クリプト]の内壁を超え、その外へあるいはその外から浸透するもの」の存在に触れ、無意識=地下聖堂[クリプト]の「密閉性」の「失敗」について語っている。無意識においては、心的エネルギーが各表象から絶えず漏れ出る。そしてその漏出を他の表象が引き継ぐ(uebernehmen)。その過程でエネルギーは圧縮(結合 Verbindung)され分割される。つまり Wolkenkratzer の心的エネルギーは volk や kr によりばらばらに運び去られ、そしてそれぞれがまた「狼」や「女中の掃除姿」の物表象へと流れていく。多数の流通=配達経路が絡み合うこの無意識の場を、私たちはいままで「郵便空間」あるいは「デッド・ストック空間」と呼んできた。超越論的シニフィアンは、その回帰行程で郵便空間を通過せねばならない。>(279-280頁)

  [12]アンダーグラウンド
 スラヴォイ・ジジェク「『アンダーグラウンド』,あるいは他の手段による詩の継続としての民族浄化」(森田祐三訳,『Inter Communication』Issue18所収)から。──エミール・クストリッツァ監督の『アンダーグラウンド UNDERGROUND 』(仏=独=ハンガリー:1995)をめぐって。

<映画のタイトルの言う「アンダーグラウンド」が示しているのは,人目に触れぬ無時間的空間で飲んだり歌ったり性交したりする果てしない乱痴気騒ぎという「ずるずると延期された自死」のことだけではない.世界の他の部分から切り離され,それ故に第二次世界大戦がまだ終わっていないと信じこまされている奴隷状態の労働者が,日夜はたらいて武器を製造し続ける「地下(アンダーグラウンド)」の作業場のことも表わしているのであり,その武器を売る主人公のマルコは,彼らの「所有者」,すべてを握る操作者であるだけでなく,この「地下世界(アンダーグラウンド)」と公の世界を媒介する唯一の者なのである.クストリッツァはここで,ヨーロッパの古いお伽話にでてくる勤勉な小人をモチーフとして参照している(小人は普通悪い魔法使いに操られており,人々が寝静まったころ隠れ家から出てきて,家事をしたり,食事を作ったりといった仕事をするので,人々が朝起きたときには自分たちの仕事がすっかりできあがっているという具合だ).ニーベルング族が地下洞窟で残酷な主人(小人のアルベリヒ)に駆られながらはたらくワーグナーの《ラインの黄金》や,資本家の奴隷と化した工場労働者たちが地中深いところで生産を行なうフリッツ・ラングの『メトロポリス』(1927)にみられるモチーフが,クストリッツァの「地下世界(アンダーグラウンド)」のうちに最新のかたちで現われているのである.悪い主人が巧みに支配する「地中(アンダーグラウンド)」の奴隷というこの装置が,一方には「可視的な」公の象徴的権威がいて,他方には「不可視の」恐ろしい幻像がいるという二つの主人像間の対立の背景に現われることになる.>

<『アンダーグラウンド』は,言うまでもなく重層的であり,非常に自己言及的な映画である.爆弾が落ちても悠然と食事を続けるのが真の男,というセルビア人の神話的イメージなど,まず幾つかの紋切り型と戯れ,ヴィゴの『アタラント号』(1934)にまで至る映画的引用を行なったかと思えば,(死んだと思われていた「地下抵抗運動(アンダーグラウンド・ウォー)」の英雄が隠れ家から出てきてみると,彼の華々しい最後を題材にした映画の撮影場面に出くわす,といった具合に)映画そのものに言及するだけでなく,さらに,例えば「昔々○○と呼ばれた国がありました」というようなお伽話の視角への参照や,リアリズムから純粋な空想――ヨーロッパの地中には地下トンネル網があり,その内の一つはベルリンからアテネへ通じている,というアイディア――への移行等々,種々のポストモダンな自己言及性に満ちている.もちろん,これらのことすべては皮肉混じりに呈示されており,「額面通りに受け取ってはならない」のだが,すでにみたように,まさしくこのように自己に対して距離を取ることを通じて「ポストモダンの」シニカルなイデオロギーは機能するのである.近頃ウンベルト・エーコはファシスト的態度の核心を為す特徴と称するものを列挙し,例えば,ドグマへの固執,ユーモアの欠如,理性的議論に対する冷淡さ,を挙げたりしているが,彼はこれ以上はないというくらい誤っている.今日のネオ・ファシズムはますます「ポストモダン」になり,洗練され,遊び心を持ち,自己に対してアイロニックな距離を取ること等々も心得ている.だが,これらすべてのことにも拘わらず,やはりファシストであることにかわりはないのだ.>


【204】無意識をめぐる冒険・第三部(その4)

[13]鼠─地下生活者
 鼠、地下世界に棲息するもの。──暗闇に棲むもの、声を発するもの、繁殖するもの、無意識の感染媒体(浮遊し感染する無意識=細菌、ガス、声、踊り等々)、象神ガネーシャの乗り物、羊を呑んで死んだもの、穴を掘るもの(都市の陰部への穴=鼠径)。

<【鼠径管】鼠径部の鼠径靱帯内側半部の上を靱帯に沿って斜めに内下方に向かって走る裂隙で、長さ約四センチメートル、前壁は外腹斜筋の腱膜、後壁は横筋筋膜、上壁は内腹斜筋と腹横筋の繊維、下壁は鼠径靱帯から成る。鼠径管内を男では精索、女では子宮内索が走る。>(『広辞苑』第四版)

[14]鼠のスクラップ・1
 『羊をめぐる冒険』(講談社文庫下巻)から。

<「簡単に言うと、僕は羊を呑み込んだまま死んだんだよ」と鼠は言った。「羊がぐっすりと寝込むのを待ってから台所のはりにロープを結んで首を吊ったんだ。奴には逃げ出す暇もなかった」
 「本当にそうしなきゃならなかったのか?」
 「本当にそうしなきゃならなかったんだよ。もう少し遅かったら羊は完全に俺を支配していただろうからね。最後のチャンスだったんだ」>(199頁)

  <「そのあとには何が来ることになっていたんだ?」
 「完全にアナーキーな観念の王国だよ。そこではあらゆる対立が一体化するんだ。その中心に俺と羊がいる」
 「何故拒否したんだ?」
 時は死に絶えていた。死に絶えた時の上に音もなく雪が積っていた。
 「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさやつらさも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや……」鼠はそこで言葉を呑みこんだ。「わからないよ」>(204頁)

[15]鼠のスクラップ・2
 「目じるしのない悪夢」(『アンダーグラウンド』所収,講談社)から。

<『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』には東京の地下の闇の中に生息する「やみくろ」という生き物(もちろん私が思いついた架空の生き物だ)が登場する。彼らは古代から地底の深い闇の中に住みついている。おぞましく邪悪な生き物である。目ももたず、死肉をかじる。彼らは東京の地下に地下道を縦横無尽に堀りめぐらし、あちこちに巣を作って集団で生きている。>(722-3頁)

<私が『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の中で「やみくろ」たちを描くことによって、小説的に表出したかったのは、おそらく私たちの内にある根元的な「恐怖」のひとつのかたちなのだと思う。私たちの意識のアンダーグラウンドが、あるいは集団記憶としてシンボリックに記憶しているかもしれない、純粋に危険なものたちの姿なのだ。そしてその闇の奥に潜んだ「歪められた」ものたちが、その姿のかりそめの実現を通して、生身の私たちに及ぼすかもしれない意識の波動なのだ。
 それらは何があっても解き放たれてはならない。またその姿を目にしてもならない。私たちは何があろうと、「やみくろ」たちを避けて、日の光の下で生きていかなくてはならない。地下の心地よい暗闇はときとして私たちの心を慰め、優しく癒してくれる。そこまではいい。私たちにはそれが必要なのだ。しかし決してその先に進んではならない。いちばん奥にある鍵のついたドアをこじ開けてはならない。その向こうには「やみくろ」たちの果てしなく深い闇の物語が広がっているのだ。>(724頁)

[16]鼠のスクラップ・3
 カフカ「歌姫ヨゼフィーヌ、あるいは二十日鼠」(池内紀編訳『カフカ寓話集』岩波文庫)から。──鼠族には幼年時代がない。鼠族は音楽にうとい。鼠族は歴史を尊ばない。

<ほかにどんな鳴き方があるだろう。チュウチュウはわが民の言葉であり、生涯にわたりチュウチュウ鳴きつづけていて、それが民の言葉だと気づかない輩さえいる。天下晴れてのチュウチュウであって、チュウチュウはまたわれわれを、ほんのつかのまであれ、日々の生活のくさびから解放してくれる。だからしてチュウチュウ鳴きをやめるわけにはいかないのだ。>(215頁)

[17]鼠のスクラップ・4
 「踊る小人」(『蛍・納屋を焼く・その他の短編』所収,新潮文庫)。──北の国からやってきて、革命軍に追われ、森に住み、「僕」の体の乗っ取りをもくろむ小人。

<小人の踊りは他の誰の踊りとも違っていた。ひとことで言えば小人の踊りは観客の心の中にある普段使われていなくて、そんなものがあることを本人さえ気づかなかったような感情を白日のもとに──まるで魚のはらわたを抜くみたいに──ひっぱり出すことができたのだ。>(96頁)

[18]鼠のスクラップ・5
 『森羅情報サービス』[http://www.cypress.ne.jp/why/index.html]の「宮沢賢治童話館」に収められた「氷河鼠の毛皮」から。

<そのとき俄に外ががやがやしてそれからいきなり扉ががたっと開き朝日はビールのようにながれ込みました。赤ひげがまるで違った物凄い顔をしてピカピカするピストルをつきつけてはいって来ました。
 そのあとから二十人ばかりのすさまじい顔つきをした人がどうもそれは人というよりは白熊といった方がいいような、いや、白熊というよりは雪狐と云った方がいいようなすてきにもくもくした毛皮を着た、いや、着たというよりは毛皮で皮ができてるというた方がいいような、ものが変な仮面をかぶったりえり巻を眼まで上げたりしてまっ白ないきをふうふう吐きながら大きなピストルをみんな握って車室の中にはいって来ました。
 先登の赤ひげは腰かけにうつむいてまだ睡っていたゆうべの偉らい紳士を指さして云いました。
『こいつがイーハトヴのタイチだ。ふらちなやつだ。イーハトヴの冬の着物の上にねラッコ裏の内外套と海狸の中外套と黒狐裏表の外外套を着ようというんだ。おまけにパテント外套と氷河鼠の頸のとこの毛皮だけでこさえた上着も着ようというやつだ。これから黒狐の毛皮九百枚とるとぬかすんだ、叩き起せ。』>


【205】無意識をめぐる冒険・第三部(その5)

[19]鳥─浮遊者
 鼠と鳥、地下生活者と浮遊者(超越者)。──無意識の感染媒体と浮遊する無意識。鼠は壁に穴を穿ち、鳥は壁を越える。

 鳥、空間と時間の間を浮遊するもの。──対外離脱するもの、死者の眼(他者の眼)をもつもの、無意識(の棲息する場所)を視るもの、予言するもの、時計のねじをまくもの、蛍や蝶に通じるもの。

 鳥が視るもの。──大陸的無意識(砂漠的無意識、森林的無意識)と海洋的無意識(ここに「羊」がいる)、そして森羅万象(ここに「象」がいる)。

[20]鳥のスクラップ・1
 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮文庫下巻)から。

<たまりがすっぽりと僕の影を呑みこんでしまったあとも、僕は長いあいだその水面を見つめていた。水面には波紋ひとつ残らなかった。水は獣の目のように青く、そしてひっそりとしていた。影を失ってしまうと、自分が宇宙の辺土に一人で残されたように感じられた。僕はもうどこにも行けず、どこにも戻れなかった。そこは世界の終りで、世界の終りはどこにも通じてはいないのだ。そこで世界は終息し、静かにとどまっているのだ。
 僕はたまりに背を向けて、雪の中を西の丘に向けて歩きはじめた。西の丘の向う側には街があり、川が流れ、図書館の中では彼女と手風琴が僕を待っているはずだった。
 降りしきる雪の中を一羽の白い鳥が南に向けて飛んでいくのが見えた。鳥は壁を越え、雪に包まれた南の空に呑みこまれていった。そのあとには僕が踏む雪の軋みだけが残った。>(347頁)

[21]鳥のスクラップ・2
 『ノルウェイの森』(講談社文庫上巻)から。

<その巨大な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルク空港に着陸しようとしているところだった。(略)僕は顔を上げて北海の上空に浮かんだ暗い雲を眺め、自分がこれまでの人生の過程で失ってきた多くのもののことを考えた。失われた時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い。>(7-8頁)

 ──小林正明氏によれば、降下するボーイング747は「上からするすると降りてきて全部処理してくれる」デウス・エクス・マキーナである。(『村上春樹・塔と海の彼方に』第七章,森話社)

[22]鳥のスクラップ・3
 『ねじまき鳥クロニクル』第一部(新潮文庫)から。

<その草の海のちょうど中央あたりに、鳥の石像がこの前見たときとまったく同じ姿勢で、今にも飛び立とうと翼を広げていた。しかしもちろんその鳥が飛び立てる可能性はなかった。それは僕にもわかっていたし、鳥にもわかっていた。それはそこに固定されたまま、どこかに運び去られるか、あるいは壊されるかするのを待っていただけだ。それ以外に、鳥がこの庭から出ていける可能性はなかった。そこで動くものといえば、ふらふらと草の上を彷徨っている季節遅れのモンシロチョウだけだった。モンシロチョウは、探し物をしているうちに、何を探しているのかわからなくなってしまった人のようにも見えた。>(110頁)

[23]鳥のスクラップ・4
 バタイユ「低俗唯物論とグノーシス派」(片山正樹訳『ドキュマン』所収,二見書房)の図版説明から。

<あひるの頭を持つ執政官[アルコン]。>(107頁)
<脚は人間。胴体は蛇。頭は鶏の神。>(108頁)

 ──『ねじまき鳥クロニクル』第三部(第三十八章)で、笠原メイは「アヒルのヒトたちの話」を語っている。

[24]鳥のスクラップ・番外
 「双子と沈んだ大陸」(『パン屋再襲撃』所収,文春文庫)から。

<僕は天井を眺めながら海に沈んでしまった古代の大陸のことを思った。どうしてそんなもののことを考えついたのか、僕にはよくわからない。たぶん十一月の冷たい雨の降る夜に傘を持っていなかったせいだろう。あるいは明け方の夢の冷ややかさを残したままの手で名前も知らない女の体を──どんな体だったのかも思いだせない──抱いたせいだろう。だからこそ僕は自分が遠い昔の海の底に没した伝説の大陸のことを想うのだ。光は淡く滲み、音はくぐもり、空気は重く湿っているのだ。(略)
 僕は枕もとのライトを消し、目を閉じてベッドの上でゆっくりと体をのばした。そして夢のない眠りの中へと意識を沈みこませていった。雨が窓を打ち、暗い海流が忘れられた山脈を洗った。>(151-2頁)


【206】無意識をめぐる冒険・第三部(その6)

[25]羊─システム
 鳥と羊、水へとつながるもの。──鳥は島に、羊は羊水に通じる。鳥は壁を越え、羊は壁抜けをする。

 鼠と羊、人称代名詞。──「僕」の死んだ友達、羊を呑み込んだまま死んだ鼠。あるいは、仮面(毛皮)を被ったもの。──鼠は死んで白骨を残し、羊は死んで羊毛を残す。

 羊、つなぐもの。──電子空間に棲息するもの(電気羊)、土地に縛られながら超越するもの、アサハラを思わせるもの、単性生殖するもの(クローン羊)、観念のシステム。

[26]羊のスクラップ・1
 『羊をめぐる冒険』(講談社文庫下巻)から。

<「羊は君に何を求めたんだ?」
 「全てだよ。何から何まで全てさ。俺の体、俺の記憶、俺の弱さ、俺の矛盾……羊はそういうものが大好きなんだ。奴は触手をいっぱい持っていてね、俺の耳の穴や鼻の穴にそれを突っこんでストローで吸うみたいにしぼりあげるんだ。そういうのって考えるだけでぞっとするだろう?」
 「その代償は?」
 「俺にはもったいないくらい立派なものだよ。もっとも羊はきちんとした形でそれを俺に示してくれたわけじゃないけれどね。俺はあくまでそのほんの一部を見ただけにすぎないんだ。それでも……」
 鼠は黙った。
 「それでも、俺は叩きのめされたよ。どうしようもないくらいね。それを言葉で説明することはできない。それはちょうど、あらゆるものを呑みこむるつぼなんだ。気が遠くなるほど美しく、そしておぞましいくらいに邪悪なんだ。そこに体を埋めれば、全ては消える。意識も価値観も感情も苦痛も、みんな消える。宇宙の一点に凡る生命の根源が出現した時のダイナミズムに近いものだよ」>(202-3頁)

[27]羊のスクラップ・2
 『ダンス・ダンス・ダンス』(講談社文庫下巻)から。

<「ここにいったい誰がいたの?」とユミヨシさんが訊いた。
 「羊男」と僕は答えた。「羊男がこの世界の管理をしているんだ。ここが結び目で、彼が僕のためにいろんなものを繋げている。電話の配電盤と同じようにね。彼は羊の毛皮を着て、ずっと昔から生きつづけてる。そしてここに住みついている。隠れているんだ」
 「何から隠れているの?」
 「何からだろう? 戦争から、文明から、法律から、システムから……、羊男的じゃないありとあらゆるものから」>(356-7頁)

[28]羊のスクラップ・3
 『ダンス・ダンス・ダンス』(講談社文庫下巻)から。

<そしてキキの時と同じように僕は壁を抜けた。前と同じだった。不透明な空気の層。ざらりとした硬質な感触。水のような冷やかさ。時間が揺らぎ、連続性がねじ曲げられ、重力が震えた。太古の記憶が時の深淵から蒸気のように立ちあがっているのが感じられた。それは僕の遺伝子なのだ。僕は自分の肉の中に進化のたかぶりを感じた。僕はその複雑に絡み合った巨大な自分自身のDNAを越えた。地球が膨らみ、そして冷えて縮んだ。洞窟の中に羊が潜んでいた。海は巨大な思念であり、その表面に音もなく雨が降っていた。顔のない人々が波打ち際に立って沖を見つめていた。終りのない時間が巨大な糸玉となって空に浮かんでいるのが見えた。虚無が人々を呑み、より巨大な虚無がその虚無を呑んだ。人々の肉が溶け、白骨が現れ、それも塵となって風に吹きとばされた。非常に完全に死んでいる、と誰かが言った。かっこう、と誰かが言った。僕の肉は分解し、はじけ飛び、そしてまたひとつに凝結した。>(360-1頁)

[29]羊のスクラップ・4
 井筒俊彦『イスラーム哲学の原像』(岩波新書)から。

<イスラーム文化の内部に発達しました神秘主義のことを西洋ではふつうスーフィズム(Sufism)と申しまして、神秘主義的体験の主体、すなわち神秘家のことをスーフィー(Sufi)と呼びならわしております。(略)ところで、スーフと申しますのは羊毛のことです。ですから、スーフィーというのは羊の毛の着物を着た人、つまり粗い羊の毛をそのままざっくり織ってつくった粗末な着物を一枚、肌にじかに着ている人ということになるのでありまして、事実このような着物は昔のアラビア砂漠では禁欲苦行のしるしだったのであります。そういう着物を着て苦行の道に携わっている人、それをスーフィーといったのだと、そういうふうにふつうはいわれております。しかし実を申しますと、これは一種の通俗的解釈でありまして、本当はこの解釈が言語学的に正しいのかどうか、正確にはわかっておりません。>(6-7頁)

[30]羊のスクラップ・5
 『賢治の歌曲』[http://www.asahi-net.or.jp/~nj2t-hg/kenjimd/index.htm]から。以下、全文引用。

   北 ぞ ら の ち ぢ れ 羊 か ら
   お れ の 崇 敬 は 照 り 返 さ れ
   天 の 海 と 窓 の 日 お ほ ひ
   お れ の 崇 敬 は 照 り 返 さ れ

 歌詞は、『春と修羅』中の「雲とはんのき」にある。ただし、この詩句は口語詩「ダルゲ」や散文「図書館幻想」中にもほぼ同じ形がみられる。
 「雲とはんのき」詩集原稿では「西ぞらの」から「北ぞらの」に推敲されており、「ダルゲ」「図書館幻想」ではともに「西ぞらの」となっている。
 〔冬のスケッチ補遺〕では次のようになっている。

   西ぞらのちゞれ羊より
   ひとの崇敬は照り返され
       (天の海と窓の日覆ひ)
   ひとの崇敬は照り返され
     日はしづみ
     屋根屋根に
     藍晶せきの粉末が撒かれ
     さびしくひるがへる天竺木綿
   ひとの崇敬はまた照り返され

 出典:筑摩書房「校本 宮澤賢治全集 第六巻」
    筑摩書房 佐藤泰平「宮沢賢治の音楽」


【207】無意識をめぐる冒険・第三部(その7)

[31]象─マテリアル
 羊と象、言語にかかわるもの。──羊は美、義、翔等々に、象は象徴、表象、現象等々に通じる。あるいは、夢にかかわるもの。──夢の意味(羊)と夢の素材(象)。そして夢は「象工場」でつくられる。

 鼠と象、意識と無意識。──鼠に乗る象。
 鳥と象、魂と肉体。──鳥は壁を越え、象は消滅する。
 象、巨大なもの。──こねられるもの、霊的物質(マテリアル)。

[32]象のスクラップ・1
 「踊る小人」(『蛍・納屋を焼く・その他の短編』所収,新潮文庫)から。

<念のために説明しておくと、我々はなにも無から象を作りあげているわけではない。正直に言うなら、我々は象を水増ししているということになる。つまり一頭の象をつかまえてきてのこぎりで耳と鼻と頭と胴と足と尻尾に分断し、それをうまく組みあわせて五頭の象を作るわけなのだ。だから出来上がったそれぞれの象の1/5だけが本物で、あとの4/5はニセ物であるということになる。でもそんなことはちょっと見ただけではわからないし、象自身にだってわかりはしない。我々はそれくらいうまく象を作るのだ。>(88-9頁)

[33]象のスクラップ・2
 『1973年のピンボール』(講談社文庫)から。

<ごく好意的に見れば、それは象の墓場のようにも見えた。そして足を折り曲げた象の白骨のかわりには、見渡す限りのピンボール台がコンクリートの床にずらりと並んでいてた。僕は階段の上に立ち、その異様な光景をじっと見下ろしていた。手が無意識に口もとを這い、そしてまたポケットに戻った。>(150頁)

[34]象のスクラップ・3
 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮文庫下巻)から。

<これはまさにブラックボックスですな。つまり我々の頭の中には人跡未踏の巨大な象の墓場のごときものが埋まっておるわけですな。大宇宙をべつにすればこれは人類最後の未知の大地[テラ・インコグニタ]と呼ぶべきでしょう。
 いや、象の墓場という表現はよくないですな。何故ならそこは死んだ記憶の集積場ではないからです。正確には象工場と呼んだ方が近いかもしれん。そこでは無数の記憶や認識の断片[チップ]が選りわけられ、選りわけられた断片[チップ]が複雑に組みあわされて線[ライン]を作り、その線[ライン]がまた複雑に組みあわされて束[バンドル]を作り、そのバンドルがシステムを作りあげておるからです。それはまさに〈工場〉です。それは生産しておるのです。>(80頁)

[35]象のスクラップ・4
 『ねじまき鳥クロニクル』第三巻(新潮文庫)から。

<結局象は殺さないことになった。実際に目の前にしてみると象はあまりにも巨大だった。>(129頁)

[36]象のスクラップ・5
 詩仙ヴィヤーサが口述する『マハー・バーラタ』を書きとった象神ガネーシャ。──ヨーガの王シヴァ(南インドでは舞踏の王シヴァ・ナタラージャ)の息子。障害を除く神(入り口を守る門神)、物事の初めを加護する神(旅立ちや新たな商売を加護する神)、また学芸の守護者とも。象頭。鼠に騎乗する。

 補遺。九◯年二月の衆議院選挙に大挙して立候補したオウム真理教の選挙キャンペーンを見た村上春樹は、そのときの印象を「私がもっとも見たくないもののひとつ」だったと記し、そこには「私たちがわざわざ意識して排除しなくてはならないもの」が含まれていたのではないか、つまり<「こちら側」=一般市民の論理とシステムと、「あちら側」=オウム真理教の論理とシステムは、一種の合わせ鏡的な像を共有していたのではないか>という仮説をたてている。(「目じるしのない悪夢」)。

 ところで、そこで村上が見たものは、白い服を着てわけのわからない踊りを踊っていた若い男女で、彼らは象神ガネーシャの面や羊の、いや(自らをシヴァになぞらえた)麻原の面をかぶっていた。

[37]羊と象
 「語表象」としての羊、「物表象」としての象。

[38]語表象と物表象
 フロイト「無意識について」(小此木啓吾他訳『フロイト著作集第六巻』所収,人文書院)から。

<われわれが意識された表象とよぶことのできるものは、いまや言語表象と事物表象とにわけられる。それは、直接の事物の記憶像ではなく、それよりもっと遠くはなれた記憶痕跡の充当によって成り立つのである。いまとつぜんわれわれは、意識される表象が何によって意識されない表象から区別されるかがわかると思う。両者は、われわれが考えたように、異なった心理的な場所における同一の内容の異なった記載ではなく、またおなじ場所における異なった機能的な充当の状態でもなく、意識される表象は、事物表象とそれに属する言語表象とをふくみ、無意識の表象はたんに事物表象だけなのである。>(111頁)


【208】無意識をめぐる冒険・第三部(その8)

[39]ムラカミ・ワールドの「三獣一鳥」構造
 村上春樹の虚構世界をかたちづくる「三獣一鳥」構造。──鼠と鳥、羊と象。

[40]文字─呪われたもの
 武田雅哉氏は『蒼頡たちの宴』(ちくま学芸文庫)で、『淮南子』「本経訓」の「そのむかし、蒼頡が書を作った。すると、点は粟(穀物)を降らせ、鬼は夜に泣いた」をめぐるある解釈(高誘による)を紹介している。──武田氏はこの解釈を踏まえて、<文字の発明は、少なくとも漢代には、呪われたものとしての一面も兼ね備えていたということになる>と指摘している。

<蒼頡は、はじめて鳥の足跡を見て、書契[文字]を造った。すると、詐偽が発生した。詐偽が発生すると、本を棄てて末に趨くようになり、耕作の業を棄てて、錐刀を鋭利に研ぐのに努めるようになった。天は、人間が飢えるであろうことを知った。だから、粟を降らせらのだ。鬼は文書によって弾劾されるのを恐れた。だから夜に泣いたのである。>(28頁)

[41]文字と悪
 文字の発明が悪の起源である。

[42]文字の「三獣一鳥」構造
 鳥の足跡(『説文解字』叙では鳥獣の足跡)から文字が生まれたとすれば、鼠は文字の表音性を、羊は表意性を、象は表形性を担っている。そして鳥は文字造成の構造を、つまり変換規則そのものを担っている。

[43]鳥と鼠─超越と内在
 鼠は鳥の発する声を内面化する。

[44]鼠と羊─霊性と電子
 鼠は声を文字に固着させ、羊はこれを電子システムへと変換する。

[45]配電盤
 羊は電話を中継する。──『ねじまき鳥クロニクル』は謎の女からの電話で物語が始まり、笠原メイからの五百通もの手紙が「僕」に届いていなかったことが判明して終わる。また、ポール・オースター『シティ・オヴ・グラス』(角川文庫)は電話の混線から始まり、電話の死で物語が終わる(正確には、登場人物が消失する)。

[46]どこでもない場所
 『ノルウェイの森』(講談社文庫下巻)から。

<それからやがて緑が口を開いた。「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。
 僕は今どこにいるのだ?
 僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるだ? でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ? 僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。>(262頁)

[47]鍵のかかった部屋
 柴田元幸氏は、ポール・オースター『幽霊たち』(新潮文庫)の訳者あとがきで、<オースターもまた[カフカやベケット、安部公房などと同様]、何ひとつ起こらない、「どこでもない場所」に迷い込んだ人物が、次第に「誰でもない人間」と化してゆく状況を好んで描く>と書いている。──そういえば、ニューヨーク三部作最後の作品『鍵のかかった部屋』(白水社)で、「僕」に妻と原稿を託して失踪したファンショーが残した長編小説のタイトルが『どこでもない国[ネヴァーランド]』だった。

[48]匿名デザイン通信
 森岡正博氏は『意識通信』(筑摩書房)で、「匿名デザイン通信」の思考実験を試みている。──それは、ホストが人工現実インターフェイスをつけてコンピュータ内につくられた三次元の「電子架想空間」に入りこみ、自己表現の形をとって流入してくる参加者たちの「意識」をデザインするというものだ。

 森岡氏によれば、匿名デザイン通信では、顔情報と肉声は送り込んではならないというルールがしかれる。また、触覚も排除される。参加者たちのこころの深層に抑圧され秘められていたもの(深層意識)がメッセージの中へとスムーズに解放されるためには、「この世界」性を強く感じさせるものを排除し、できるかぎり「虚構性」の強い世界にしておかなければならないのである。

 つまり、匿名性が保証されることで、参加者は現実世界では達成できなかった「もうひとりの私」となって虚構性の強い自己表現を繰り出すことができ、その自己表現の虚構内容の選択や創造をとおして、深層意識がもっとも強く解放されるというのだ。

[49]ドリーム・ナヴィゲイターの旅
 森岡正博氏『意識通信』(筑摩書房)から。

<匿名デザイン通信での作業をとおして、ホストの身体には、参加者たちからの表層意識と深層意識とが流れ込み、ホストの身体にかすかな痕跡を残してから意識交流場へと発散してゆく。
 参加者たちの深層意識は、ホストの身体を経由して、意識交流場の底辺に「社会の無意識」を形成する。その社会の無意識の層には、デザイン通信への参加者たちが共有するところの、いまだ解放されない「願望」や「衝動」や「表層意識への呼びかけ」などが渦巻いている。
 ホストは、ドリーム・ナヴィゲイターとなって意識交流場の深層へと旅立ち、そこに潜む社会の無意識の声をすくい上げて意識交流場の表層へとフィードバックし、無意識のうねりを解放しなければならない。そうすることによってはじめて、ホストによる「夢の作業」が完全に成立し、デザイン通信の場に成立した社会は「夢」を見ることができるようになる。
 意識交流の深層への旅の「論理構造」を、私はヴィジアルな手法で描写してゆきたいと思う。私はこれから、ドリーム・ナヴィゲイターが旅の途中で出会う光景を、視覚と身体的想像力に訴える形で描写してゆく。その具体的な細部の記述それ自体に客観的な意味があるのではない。そうではなくて、具体的な細部の記述によって読者の脳裏に喚起されるイメージの運動の中に、私が示したい「論理構造」が現われてくるはずである。私が捉えたいのは、一種の論理学なのだ。それも、記号関係によって表現される「形式論理学」ではなく、イメージの運動によって喚起される「可視論理学」とでも言うべきもの。
 我々はここから、「論理の可視化」という実験に入ってゆく。(以下、略)>(187-8頁)


【209】無意識をめぐる冒険・第三部(その9)

[50]羊がつなぐもの
 羊は他者へとつなぐ。──他者への「直接参入」あるいは他者との「極限的に直接的なコミュニケーション」(大澤真幸)。鍵のかかった部屋からの壁抜け。

 また、羊は言語以前の世界(羊水世界)あるいは「父母未生以前」の世界へとつなぐ。どこでもない場所へ。

[51]内なる地震
 ポール・オースター『ムーン・パレス』(柴田元幸訳,新潮文庫)から。

<アパートのなかの、翳りゆく午後の光に包まれて、僕たちは何時間も愛しあった。それは間違いなく、僕の身のうちに起きたもっとも素晴しい出来事のひとつだった。いまにして思えば、僕という人間はそれによって根本的に変わったと思う。単にセックスとか欲望の交わしあいとかいうだけの話ではない。内なる壁の劇的な崩壊、わが孤独の深奥で起きた地震、そういうことを僕は言っているのだ。>(141頁)

[52]羊と鳥─浮遊へ
  羊の管理する電子システムから、磁力を得て観念が浮遊する。

[53]サリンと電磁波
 大澤真幸『虚構の時代の果て』(ちくま新書)から。

<あらためて整理しておけば、オウムが修行を通じて獲得しようとした身体は、相互に関係する二つの契機によって特徴づけることができる。第一に、それは、流体あるいは気体と化し、一種の波動として特徴づけることができる。第二に、その身体は、言語的な疎通に媒介されることなく、〈他者〉に直接参入することができるのだ。彼らが回復しようとしていた身体性が、これらの諸点で成り立っているのだとすれば、われわれは驚くべきことに、気づかざるをえない。これら二つは、まさにサリンを特徴づける性質にほかならない。>(138-9頁)

<…電磁波には、彼らが獲得を目指している身体の様態が、つまり直接的コミュニケーションを通じて共鳴する身体の様態が投影されている。(略)マスコミによる情報伝達の方法は、とりわけデレビやラジオの電波を通じた情報伝達の方法は、師の身体の波動を電子的な方法で弟子の身体に直接に伝達するというサイバーパンク的な構成の、薄められてはいるが大規模化された再現として、受け取られうるものである。電子的なものへのこの種の過信は、オウムに限らず、新新宗教的な運動にしばしば見出されるものである。>(142-3頁)

[54]電気仕掛けの世界
 ポール・オースター『ムーン・パレス』(柴田元幸訳,新潮文庫)から。

<偶然なんてものはありゃしない。そんな言葉を使うのは無知な人間だけだ。この世界のものはすべて、生物も無生物も、電気でできている。思考だって電荷を放出するんだ。その電荷が十分強ければ、人間の思考はまわりの世界を変えることができるのさ。>(154頁)

[55]地震兵器と電磁波─あるいはニコラ・テスラ
 大澤真幸『虚構の時代の果て』(ちくま新書)から。

<たとえば、オウム真理教は、十九世紀末の優れた電気科学者ニコラ・テスラに強い関心を示していた。テスラは、交流の送電システムや高周波変圧器の発明者である。無線通信やラジオ放送の実用化を最初に図ったのも、一説によれば、この人物である。(略)
 テスラにここで注目したのは、彼の仕事が、科学とオカルトの混融を鮮やかに具現しているからである。彼が構想していた装置には、空中送電システムをはじめとして、気象コントロール装置、殺人光線、粒子ビーム兵器、エネルギー・シールド、無限エネルギー装置などが含まれていたという。ここには、オウムが制作しようとしていた「劇画的な」兵器の先駆を見ることができるだろう。兵庫県南部地震との関連で、オウムのメンバーが引き合いに出した、地震兵器という構想もテスラに由来している。>(233頁)

<ここでテスラの神秘主義的な科学を概観してみたのは、彼の仕事が、科学がどの地点でオカルトと混融するのかを見定めるための契機を与えるからである。テスラが、もともと、電磁波の研究家であったことに注目しておこう。科学と神秘は、電磁波に隠喩を求めることで表現できる何かへの想像力の中で、混融しているように見えるのだ。たとえば、地震兵器は、空中を伝播する共鳴現象として理解されている。このような知覚しがたい(ほとんど不可視の)媒質を伝播する振動の原型として想像される現象が、電磁波であろう。言い換えれば、地震兵器は、電磁波の共振の隠喩的な拡張として構想されているのである。(略)
 異なるものの間の共振は、さらに、典型的にはコミュニケーションの様態を採るだろう。この場合、電磁波は、電気・電子メディアとして構想されることになる。(略)要するに科学とオカルトが混融するのは、直接の知覚が及びがたい──したがって自覚に先立つ──層で実現されている、身体や感覚のコミュニカティヴな共鳴の現象においてなのである。それは、当事者にとっては、先に「極限的に直接的なコミュニケーション」と呼んだものとして現れる。>(235-6頁)

[56]ニコラ・テスラ─あるいは自由についての話
 ポール・オースター『ムーン・パレス』(柴田元幸訳,新潮文庫)から。

<あるとき、テスラと目が合ったことがあった。よく覚えているよ。ものすごく重要な瞬間だった。テスラと目が合って、わしは感じたんだ。相手がわしをつき抜けてその向こうを見ているのを。まるでわしなんか存在しないみたに。信じがたい瞬間だった。テスラの視線がわしの目を貫いて、頭のうしろから出ていくのを感じたんだ。わしの脳味噌はジュージューと音をたて続け、燃えつきて灰になった。生まれてはじめて、わしは自分がゼロだと悟った。俺はまったくのゼロなんだ、と。いや、べつにそれで落胆したわけじゃない。はじめはとにかくただ呆然としていた。そして、いったんそのショックが和らいでくると、今度は逆に元気が湧いてきた。まるで自分自身の死をくぐり抜けたみたいな気分だった。いや、それとも違うな。わしはまだ十七の若僧だった。テスラの目に射ぬかれて、死というのはきっとこういうものだという実感を生まれてはじめて味わった、そう言ったほうがあのときの気持ちに近いな。口のなかに死の味を感じて、わしは悟ったのさ、僕は永遠に生きられるわけじゃないんだ、と。そういうことを学ぶには時間がかかる。だがいったん学んでしまえば、自分のなかで何もかもが変わってくる。もう二度と、前の自分には戻れない。十七のわしは、そうやって突然、疑念のかけらもなしに、自分の人生が自分自身のものだと悟ったんだ。それは自分に属しているのであって、ほかの誰のものでもないんだと。
 いいかフォッグ、これは自由についての話なんだ。あまりにも大きな絶望、あまりにも圧倒的で、すべてが崩れ落ちてしまうほどの絶望、そういうものを前にしたとき、人はそれによって解放されるしかないんだよ。それしか選択はないんだ。>(214-5頁)


【210】無意識をめぐる冒険・第三部(その10)

[57]鼠と象─夢をこねる
 鼠は声を文字に固定させ、象はこれを(自らを素材として)こねあげる。象工場で造られるもの、物質と記憶のアマルガム、すなわち夢=物語。

[58]夢─重層的な物語
 「目じるしのない悪夢」(『アンダーグラウンド』所収,講談社)から。

<そう、もしあなたが自我を失えば、そこであなたは自分という一貫した物語をも喪失してしまう。しかし人は、物語なしには長く生きていくことはできない。物語というものは、あなたがあなたを取り囲み限定する論理的制度(あるいは制度的論理)を超越し、他者との共時体験をおこなうための重要な秘密の鍵であり、安全弁なのだから。
 物語とはもちろん「お話」である。「お話」は論理でも哲学でもない。それはあなたが見続ける夢である。あなたはあるいは気がついていないかもしれない。でもあなたは息をするのと同じように、間断なくその「お話」の夢を見ているのだ。その「お話」の中では、あなたは二つの顔を持った存在である。あなたは主体であり、同時にあなたは客体である。あなたは総合であり、同時にあなたは部分である。あなたは実体であり、同時にあなたは影である。あなたは物語を作る「メーカー」であり、同時にあなたはその物語を体験する「プレーヤー」である。私たちは多かれ少なかれこうした重層的な物語性を持つことによって、この世界で個であることの孤独を癒しているのである。>(701頁)

[59]土器つくり
 クロード・レヴィ・ストロース『やきもち焼きの土器つくり』(渡辺公三訳,みすず書房)から。

<いかなる技術も、素材に形式を与えるものである。ただ、いわゆる文明の技術のなかでも、土器作りは原料から製品への移行がもっとも直接的で介在する段階の少ない技術であることは確かだ。土器製品は焼成を受ける前に、土器つくりの手ですっかりできあがった形を与えられるのである。
 この素材──土から採り出される粘土──は、人間が知り、用いるさまざまな素材のなかでもっとも「生のままの」ものでもある。その粗野な外観と有機的構成がまったく欠如することとは、形の定まらぬものの塊としてのの現存、不定形のものの優位をわれわれの視覚、触覚さらには悟性に対置する。創造の初め、大地は「形が定まらずむき出しであった」と聖書にも記されている。他の多くの神話体系もまた創造神の業と土器つくりの仕事を対照することにはそれなりの理由がある。だが素材に形を与えることは、素材を躾るだけのことではない。それはまた素材を無限の可能性の場からひき離し、ある一定の可能性のみを現実化することによって、素材を弱めることでもある。プロメテウスからムカットにいたるすべての造物主は、嫉妬深い性格の持ち主でもあるのだ。>(250頁)

[60]記憶について─あるいは象工場
 「目じるしのない悪夢」(『アンダーグラウンド』所収,講談社)から。

<ある精神科医が述べているように、「人間の記憶というものは、あくまでひとつの出来事の〈個人的な解釈〉に過ぎない」と定義することもできる。たとえば記憶という装置をとおして、我々はときとしてひとつの体験をわかりやすく改編する。不都合な部分を省き捨てる。前後を逆にする。不鮮明な部分を補う。自分の記憶と他者の記憶とを混同し、必要に応じて入れ換える。そのような作業を我々はごく自然に、無意識的に行ってしまうことがある。
 極端な言い方をすれば、「我々は自分の体験の記憶を多かれ少なかれ物語化するのだ」ということになるかもしれない。多い少ないの差こそあれ、これは人間の意識のごく自然な機能である(要するに私たち作家はそれを意識的に、職業的に行っているわけだ)。>(706頁)

[61]象と鳥─工場と劇場
 象がこねあげた物質を鳥たちの視線がついばむ、あるいは署名を刻みつける。

[62]運命と性格
 高山宏氏は「運命ヴィジュアル」(『言語』1999.2所収)で、近代とは見えないものを見えるものに置きかえることで慰謝を得てきた強迫観念の行程であると書いている。──「劇場」から「理論」へ。(「見る所」を意味するギリシャ語「テアトロン」と「テオーリア」は同じ語源をもつ。)

 見えないものの極限的存在である「運命」、そして運命を導く不可視の「性格」が顔面や外形に文字[キャラクター]として表われているのを読み取る顔相学[フィジオノミー]。ソポクレスの運命悲劇『オイディプス』とそのモダン・ヴァージョンであるシェイクスピアの性格悲劇『ハムレット』、この二つを自己流に繋げて「エディプス・コンプレックス」という精神分析学の中核観念の根拠のひとつとし、さらにモダンな解釈を下したフロイト。

<状況の見えぬオイディプス本人にとって世界は黒洞々如法の闇であった。ところが、この芝居を半円劇場で眺めていた客たちは「イローニア …」を通して演劇的カタルシスを得た。イローニアとは肩越しに明視する時の良き展望、もっと我々にピンと来べき訳語なら複眼視とでもいうか(…)。舞台の上のオイディプスは状況が「見えず」苦しんでいるのに、台本の行方を主人公の「肩越し」に「見て」いる客の神の如き優越感と慰謝が結局、「見る所[テアートロン]」の社会維持機構としての意味のすべてだったのではなかろうか。それはまさしく機構、メカネーの宇宙観なのであり、訳のわからぬ状況を一挙解決する不可視のはずの超台本作者を「機械仕掛けの神 deus ex machina」と呼ぶところなどにその名残りが伝えられている。運命という名のメカニズムが、具体的に劇場を作動させる一切の機械的なるものと不可分に合体した。>

<面白いことにギリシア語…[カラクテール]は、しるしを刻み付ける具ということになっていて、一挙に間をとばして記しておくと、人という素材に神とか自然とかがのみをふるって刻みこんだしるし、即ちその人の「性格」という聖なる「文字」なのだという、当然元々は聖刻文字 hieroglyphs としての人間という見方を主張する神秘主義やロマン派哲学なのであった。我々が何気なく使っている「サイン」という語だって神秘主義者ヤーコプ・ベーメにいわせれば神が人や自然に刻みこんだ“signum”だったのと同工である。こちらの方は「神の署名」という考え方で、ブレイクからボルヘスまで滔々と流れこむヘブライ起源の性格−記号論[カラクテロロジー]である。>

[63]フロイト
 フロイト「無意識について」(小此木啓吾他訳『フロイト著作集第六巻』所収,人文書院)から。

<経験は、次のことをおしえている。人は、自分自身の心にはみとめないような行為を、他人についてはひじょうによく気づき、その人の精神の総体のうちに組みいれてみることができる。>(90頁)


【211】無意識をめぐる冒険・第三部(その11)

[64]鳥─変換
 鳥は変換する。──物質と観念、象工場と電子システム(あるいは化学実験室)、空間と時間、知覚と思考、現実と仮想、死と不死、大陸と海等々。

[65]「三獣一鳥」構造を解析する三つの軸

1「鼠・鳥」と「羊・象」 知覚世界と思考世界
2「鼠・羊」と「鳥・象」 死後の世界の二相(屍体と夢の不死性)
3「鼠・象」と「鳥・羊」 地下・大地(重力世界)と脱土地性(天使的世界)

[66]三獣一鳥図・1
 註。下図には、小林正明『村上春樹・塔と海の彼方に』にならって「塔」と「海」を、ポール・オースターにならって「鍵のかかった部屋」と「どこでもない場所」を書き入れることができる。あるいは、無意識が生まれ棲み消滅する場所ならなんでも。──島、井戸、森等々。

           鳥
    劇場   /   \  電子空間
        /     \
       /       \
      象         羊
       \       /
        \     /
    工場   \   /  羊水世界
           鼠

       地下世界=内蔵(管世界)

[67]三獣一鳥図・2
 註。下図に書きこまれた項目は、それぞれ「自律的パワーシステム」と「他律的パワーシステム」(「目じるしのない悪夢」参照)の両義性をもっている。たとえば、「壁抜け」は超能力としてとらえるならばテレパシーだが、他律的パワーシステムの面からみれば「感応力」(同)である。あるいは、「不死」性は世俗化された錬金術(不老長寿の術)と見ることもできるし、霊的物質(たとえば薬草?)に関する智慧の体系として把握することもできる。

           鳥
    予言   /   \  対外離脱
        /     \ (空中浮遊)
       /       \
      象         羊
       \       /
        \     / 他者への参入
    不死   \   /  (壁抜け)
           鼠

[68]文字から物語へ
 文字の「三獣一鳥」構造・再説、あるいは文字の悪から物語の悪へ。そのためには、無意識(寄生する無意識、予言する無意識、成仏する無意識、物語る無意識)の表現プロセスが解明されなければならない。──ここで、ひとつの仮説を提示しておこう。すなわち、鼠=音楽=他者、羊=美術=時間、象=舞踏=身体、鳥=祭儀=記号。

[69]芸術の発生
 木村重信『はじめにイメージありき─原始美術の諸相─』(岩波新書)から。

<芸術の発生を研究したハリソン(イギリスの考古学者)は、神は祭儀からうまれるとして、つぎのような図式を考える。すなわち、最初に起動的な反作用力をもつ現実的生命、つぎにその反作用が弱まった、祭儀による生命の模写、ついで祭儀によって浮かび上ってくる神のイメージ、そして最後にそのイメージを写すものとしての芸術作品、という順序である。しかしこれはちがう。神が祭儀からうまれること、最初に現実的生命があったことはその通りだろうが、ついで起こったものはひとつのものであった。それは舞踏であり、音楽であり、絵画や彫刻であった。ベニンの宮廷に立てられ並べられた美術工芸品は、祭儀のための単なる道具だてではなく、それらのもつ生命は祭儀のもつ生命と同じものであった。神のイメージは祭儀によって浮かび上ってきたのではない。祭儀そのものがすでにイメージであり、そしてイメージは想像力のつくるものである。神的なものに関する意識は論理的な認識からおこったのではなく、ハリソンのいう起動的反作用力をもった現実的生命に根ざした想像力からうまれたのである。すなわち、神的なものの意識は、形態に関する意識と相携えてのみ発達したのである。>(178-9頁)


【212】無意識をめぐる冒険・第三部(その12)

[70]鼠=音楽=他者
 鼠は他者の発する声を内面化する。

[71]「他者」がいっぱい
 大澤真幸『虚構の時代の果て』(ちくま新書)から。──他者の四類型。

★他者1=〈他者〉:自己の根源的否定・自己に内在する他者

<…ここではまだ[私2=《他者》のように]、他者に、自己の存在を否定する「敵」としての性質は付与されてはいない。このような他者を〈他者〉と表記しておこう。〈他者〉とは、自己であることの条件そのものによって定義される他者、自己性を構成する契機が他所において現れることによって現出する他者である。>(110頁)

<それぞれの身体は、自己であること──「ここ」から世界にかかわる固有性であるということ──において、同時にその根源的な否定である〈他者〉──「そこ」から世界にかかわる固有性であるということ──でもある。このような身体が相互に出会った場合には、互いに互いを、(自己でもあるところの)〈他者〉として定位しあうだろう(…)。それは、諸身体が、それぞれの積極的な性質の共通性によってではなく、それぞれが自己の否定=〈他者〉でもあるということを共有することにおいて、相互交流している状態である。>(226-7頁)

★他者2=《他者》:近くて遠い敵

<自分たちにとっての非常に基本的な規範にすら従わない最も遠い敵対的な他者が、同時に、自分たち自身に内在しているということ。この両義的な感覚の延長上には何があるのか? そこには、まさに自分(たち)自身こそが、その他者である、という恐ろしい逆転がまっているだろう。この最も遠く敵対的であることにおいて同時に最も近いものとして感覚される他者を、《他者》と表記しておこう。>(30頁)

<身体を流体・気体として実感されうる水準に漸近させることで生ずる自己性と他者性との間の混乱や横断を、つまり〈自己=他者〉とでも表記しうる体験を、再び強引に「自己(味方)/他者(敵)」と分節し、身体の自己同一性を恢復しようとする。このとき、結節する敵の像こそが、《他者》(近くて遠い敵)である。他方、味方としての自己の像の焦点には、真我[アートマン]がある。>(282頁)

★他者3=寄生する《他者》:異和的な他者・侵入してくる他者

<敵対的な《他者》が、自分自身かもしれないということ、敵対的な《他者》が、自己に内在しているかもしれないということ、このような事態を感覚的に表現すれば、《他者》がこの自己に「寄生している」、ということになろう。われわれはオウムに寄生されていることを──またオウムはユダヤ人に寄生されていることを──恐れているのである。オウムとの関係という文脈を離れても、「寄生」という語が、一九九◯年代中盤の日本社会の大衆的な感覚を要約しているように思われる。(略)これらの事実[瀬名秀明『パラサイト・イヴ』、鈴木光司『らせん』、岩明均『寄生獣』など「バイオホラー」の流行]を考慮に入れることからわれわれの社会は──少なくとも現代の日本社会は──、何らかの理由によって、「人間を食う」ということによって表象されるような極限的に敵対的な《他者》に自らが寄生されているという想像力に現実性を与えるような感覚を、醸成してきたのだ。>(31-3頁)

<オウムの絶望的な攻撃は、《他者》に寄生されていることの恐怖に由来するものであった。攻撃の究極のねらいは、その寄生状態の除去にあると言うことができるだろう。ところで、…寄生されているという感覚、異和的な他者がわれわれの身体に内在しているという感覚、われわれ自身がまさにわれわれとはまったく異なる原理で動く他者に近接してしまっているのではないかという感覚は、現代社会において広く共有されている。そうであるとすれば、オウムが歩んだ道を、われわれがまた歩まないためには、われわれの内に侵入してくる他者に対する徹底した寛容が不可欠の条件となるだろう。>(294頁)

★他者4=〈超越〉的な第三者の審級:任意の他者・独自の他者・特権的な他者

<このとき[それぞれが自己の否定=〈他者〉でもあるということを共有することにおいて、諸身体が相互交流しているとき]交流しあう身体の全体……は、まさにそれが自己の自己性の根源的な「否定」を接続の媒介としているがゆえに、どの身体とも同一視しえない独自の他者としての実在性を獲得する蓋然性をもっている。その独自の他者は、交流しあうすべての身体を代表すべきものでありながら、それらのどの個別の身体にも還元することができないものとして現れるはずだ。「任意の他者」とは、このようにして浮上する「独自の他者」のことであり、私はそれを「第三者の審級」と呼んでいる。第三者の審級は、一度、形成された場合には、諸身体の相互交流の現場から独立して存続する抽象的な実在性を確保することになる。
 あらためて整理すれば、第三者の審級とは、そこに帰属していると想定された(つまりそれが承認していると認知された)ことがらについては、任意の他者が学習すべきことについての(価値的な)規範が成り立っているかのように現れる、特権的な他者のことである。その最もわかりやすい事例は神である。>(227頁)

<〈超越〉的な他者を経験の領域に回帰させるということは、その他者を、他者体験の最も原始的な水準に、つまり〈他者〉に格下げすることと同じことである。〈他者〉は、…自己に内在してくる他者の水準である。〈他者〉は、その本性上、自己に内在しているまさにその形態においては、積極的に対象化して捕えることはできない。もともと、〈超越〉的な第三者の審級は、この〈他者〉の対象化から逃れていくという性質をいわば踏切板のように利用することによって、投射されるのである。このように第三者の審級が措定されることによって、逆に、〈他者〉の水準は隠蔽される。だが、第三者の審級を経験の領域に回帰させることは、それを、その本来の「素材」の形態において、つまり〈他者〉として確保することを意味するだろう。(略)しかし、規範の普遍的な妥当性を保証する〈超越性〉を、〈他者〉の形態で保持することは、解消不可能な矛盾をもたらすことになる。>(279頁)

[72]三獣一鳥図・3(鼠の部)
 註。永井均氏の「私」をめぐる学の四類型──〈私〉の形而上学、《私》の論理学、『私』の倫理学、“私”の人間学──あるいは「永井−入不二論争」によって炙り出された「私1」〜「私4」との関係の有無について立ち入って検討のこと。また、他者1と他者3の位置関係について再考のこと。

          他者4
         /   \
   〈私〉? /     \  《私》?
       /       \
    他者1         他者2
       \       /
   “私”? \     /  『私』?
         \   /
          他者3


【213】無意識をめぐる冒険・第三部(その13)

[73]羊=美術=時間
 羊は美に通じる。羊は電子空間に(純粋イメージとして)棲息する。羊は言語以前の世界(羊水世界)あるいは「父母未生以前」へとつなぐ。

[74]時間の三つの様相
 大澤真幸『虚構の時代の果て』(ちくま新書)から。

<…中世において「時間(tempus)」というカテゴリーは、可滅性を本性とする時間であった。これと対をなすカテゴリーは、「永遠(aeternitae)」である。この「永遠」は、今問題にしている永続性と同じものではない。「永遠」が意味しているのは、無時間的な永遠性であり、それは、時間に完全に外在しているからだ。「時間」は、現世に〈内在〉するもの──つまり人間──の視点に対して現れる時間の様相である。それに対して、「永遠」は、現世を〈超越〉するもの──つまり神──の視点に相関している。(略)
 ところで、「時間」は人間の視点に、「永遠」は神の視点に、それぞれ相関しているのであった。非時間的な永遠ではなく、時間化された──あるいは時間に抗する──永続が概念化されうるためには、人間でも神でもない第三の視点が導入されなくてはならない。その第三の視点とは何か? それは「天使」の視点なのだ。「永続(aevum)」という三つ目のカテゴリーが成立することができたのは、「神/人間」の単純な二項対立を越えた天使の概念が整備されたことの産物であった。天使とは、神と人間を媒介する存在者、〈超越〉と〈内在〉を往還する存在者にほかならない。天使の媒介的な視点を発見したことにより、終末論的な直進する時間に、永続性という性質が付加されたのだ。>(153-4頁)

[75]三獣一鳥図・3(羊の部)
 註。ヒンドゥー教的な循環する時間とヘブライズムの線分的時間、肯定的な終末論すなわち必ず終わる時間と否定的な終末論すなわち決して終わらない時間(大澤真幸)、マグダガートのA系列とB系列、予言と遡言との関係の有無について立ち入って検討のこと。

          永 続
         /   \
        /     \
       /       \
     時間         永遠
       \       /
        \     /
         \   /
          瞬間?

[76]象=舞踏=身体
 象は(自らの身体を素材として)物質と記憶をこねあげる。(象は飛翔しない。象は鳥にはなれない。)

[77]化学実験室=空虚な器
 大澤真幸氏は『虚構の時代の果て』(ちくま新書)で、麻原の弟子の模範的な「モデル」ともいうべき石井久子が修行で得た体験(「そのとき、私は光だった……」)をめぐって、東方キリスト教の行者ヘシュカスト(静寂主義者)の体験と比較しつつ、彼女が自らを等置するに至った「光」とは、自己がそこに内在しかつ自己の否定であるところの〈他者〉の形象だったのであり、したがって光=〈他者〉の自己への重なりは、自己が自己以上のものであることを保証し、まさに「自己以上の」と特徴づけられるような無限性への通路が開かれていることを直観させるものであったと指摘している。

<だが、他者性の自己への内在を経験することは、通常は、具体的な他者に媒介されなくては、困難なことであろう。ある具体的な他者が、自己の内に浸食しうる〈他者〉一般の代理人として現れることによって、したがって、とりあえずまさにその具体的な他者(へ)の内在を直観することを通じて、自己の身体の内に他者性一般への通路が開削されるのである。オウムの場合、その具体的な他者の機能を果たしたのが、もちろん、麻原彰晃である。麻原の身体が、解脱への「触媒」であった、というのはこの意味である。(略)化学反応の促進剤である触媒は、その化学反応にとって、理論上は不可欠ではないが、しかし、事実上は、触媒なしには、化学反応はほとんど絶対に生起しない。(略)解脱は、先に述べたように「自我」を無化することを前提にするから、「自我」に帰属させうる一切の判断を停止し、自らを空虚な器へと変形させる変形させることを必要条件とする。頼れる何者もなしに、自身をただ空虚にすることは、絶望的なほどに難しいだろう。逆に、絶対的に信頼しうる他者がいるならば、一切の判断をその他者に委ねることが可能ならば、さしあたって、比較的容易に、「自我」を空虚化することができるに違いない。>(113-4頁)

[78]踊る私
 川田順造『無文字社会の歴史』(岩波書店)から。──<われ踊る、ゆえにわれあり>(43頁,268頁)

[79]〈肉〉の思想
 中山元「メルロ=ポンティの〈身体〉の思想」(中山編訳『メルロ=ポンティ・コレクション』所収,ちくま学芸文庫)から。

<言語が開く共通の世界は、他者との交流の場であり、主体がはじめて主体であり、自己であることのできるものだった。これをメルロ=ポンティは同じ風景を眺めている二人の人間が、言葉を交わすことによって感動を共有できることで説明していた。ロゴスによって、二人を貫く世界の〈肉〉のようなものが生まれるのである。
 しかしメルロ=ポンティは、この世界の〈肉〉を形成するのは、言葉としてのロゴスだけではないと考えている。同じ音楽を聞く人々の間には音楽そのものが降り立ち、一つの世界を作り出す。ピアニストはソナタの〈道具〉となり、演奏の場にソナタがたち現れる。ピアニストが演奏するのではなく、ソナタがピアニストの身体を借りて歌いだす。
 あるいは演劇では、俳優の身体を借りてフェードルが語りはじめる。言葉だけではなく、俳優の身体の表現そのものから一つの世界が生まれる。観客もその世界の一部となり、観客たちと俳優の間に、一つの厚みのある〈肉〉のようなものが形成される。これは言語表現を利用しない舞踊の場合にはさらに顕著になるだろう。ダンサーの身体を借りて、ある〈精〉のようなものが踊りだす。観客とダンサーの間に、〈精〉が降り立つのである。>(289頁)


【214】無意識をめぐる冒険・第三部(その14)

[80]象の死
 二つの死、「総括」と「ポア」。──羊に寄生された象。偽魂としての羊を抜かれる象。象の屍。──肉と魂のアマルガム、あるいは粘土と水と大気と炎による土器。

[81]象の解体・象の消滅
 象の屍の二つの処理方法、食肉処理と鳥葬。──食肉処理場で解体された屍肉は(アンダーグラウンドの)下水道に流される。象の屍肉を喰らう鳥。骨の風化。消滅した象のために墓碑銘が刻まれる(再生あるいは生誕の儀式)。象の生産(再生あるいは誕生)。

[82]運動の建築家
 邦正美『舞踏の文化史』(岩波新書)から。

<メリー・ヴィグマン──“運動の建築家”というあだ名をとり世界のメリーとして愛され尊敬されている.ドイツが生んだ現代舞踊の至宝>(165頁)

[83]踊る女・炎の物質
 ポール・ヴァレリー「魂と舞踏」(松浦寿輝訳,渡辺守章編『舞踊評論』所収,新書館)から。

<生命とは、あれやこれやの偶然の出来事という迂路を経て、私を絶えず私自身へと変容させ、私を実に迅速にこの同一のソクラテスへと立ち戻らせてくれるあの謎めいた運動のことではあるまいか。──その迅速さは、私が彼を再発見するのに、そして自分が彼を再認したと否応なしに想像することで、私が存在するのに、十分なほどのものなのだ! ──生命とは、踊る女だ。自分の為した跳躍に雲のはてまで身を委ねることができるなら、女であることをやめて神となるやもしれぬ女だ。だが、われわれは、夢の中でも目覚めているときも、無限へと到達することはできない、ちょうどそれと同様、彼女もまた、いつでも結局は彼女自身へと立ち戻る。雪片、鳥、観念であることを、──つまり、横笛の調べが彼女をそんな姿に変えたいと欲した様々なものであることを、やめてしまう、というのも、彼女を送り出したその同じ〈大地〉が、彼女を呼び戻し、激しく喘いでいる彼女を返すのだ、女としてのその本性に、その恋人に……>(205頁)

<そして、炎とはまた、もっとも高貴な破壊の、捉えがたい、誇り高い形態のことではないか?──もう二度と起こるまいことが、われわれの眼前で壮麗に起こるのだ!──もう二度と起こるまいことが、可能なかぎりもっとも壮麗な仕方で起こらねばならぬ!──声が熱狂して歌うように、炎の物質とエーテルの間で狂おしく歌うように、──そして物質からエーテルへと猛り狂って囁き飛びかかるように、──大いなる〈舞踏〉は、おお、わが友よ、虚偽の精神に、そして虚偽である音楽の精神にすっかり取り憑かれ、無に等しい現実を否定することに酔い痴れた、われわれの肉体の、この解放のことではないか。──見たまえ、炎が炎に置き代わるように跳ねるあの肉体を、見たまえ、それが真実なるものをいかに踏みにじっているかを! みずから身を置く場所そのものを、それがいかに猛然と、また喜々として、破壊しているかを、そして、自身の変化の極端さにいかに陶酔しているかを!>(228-9頁)

[84]カリグラフィー
 魂のコレオグラフィー(舞踏術・振付術)としてのカリグラフィー。

[85]歌う建築
 ポール・ヴァレリー「エウパリノス」(世界の名著66『アラン ヴァレリー』所収,中央公論社)から。

<いろんな芸術についてとりとめもないことを考えるよう刺激して止まないのだ。私はそれらを比較し区別を立てる。並び立つ石の柱の歌を聞き、歌の旋律の大建築を澄みきった空に描いてみたいのだ。こうした想像は私をいとも造作なく導いて、一方に音楽と建築を据え、他方に他の芸術を配置するに至らしめる。>(416頁)

<りっぱな肉体はおのずと人目をひいて、われわれに見事な瞬間を与える。それは芸術家が奇蹟的に引きとめた自然の一細部だ。……ところが「音楽」と「建築」は、それら自体とはまったく別のものをわれわれに考えさせる。この世界のまんなかにありながら、まるで別世界の記念碑ででもあるようだ。というか、存在の構造と持続ではなく、形や法則の構造と持続の、あちこちに散らばった見本ででもあるようだ。音楽と建築にはもともとこういう定めでもあるらしい、──つまり一方は宇宙の形成を、他方はその秩序と安定を、直接われわれに思い出させることだ。そうした秩序を探し求め、それを無数の仕方で建てなおす精神の自由と、それから精神の建造物を、この二つの芸術は念力で呼び出す。>(420頁)

[86]三獣一鳥図・3(象の部)
 註。劇場で上演されているのは運命悲劇か性格悲劇か。それともサーカス?

           名
   劇場    /   \
  (建築現場)/     \  化学実験室
       /       \
  生誕(合金)        死(食肉処理)
       \       /
   舞踏場  \     /  下水処理場
  (陶芸工房) \   /
        カリグラフィー


【215】無意識をめぐる冒険・第三部(その15)

[87]鳥=祭儀=記号
 鳥は墓碑銘を刻む。──死者の名、王の名。(歴史の書記としての鳥。朱鷺の姿のトト神。あるいは数の記号としてのホルスの目。)

[88]遠い太鼓
 川田順造『無文字社会の歴史』(岩波書店:1976)から。

<視覚化された記号が、意味が明確で、しかも分解と再構成の可能な小単位に分けられるかどうか、言語の表音伝達を可能にするかどうかで、機能に大きなひらきがでてくることはいうまでもない。だが、西アフリカのドゴン族、バンバラ族、グルマンチェ族などの、儀礼や地文占いや世界観の表現に用いられる図形、ひょうたんの紋様、織物の意匠等についての最近の研究は、従来文字の下限とみられてきた古代文明の象形文字と、文字をもたないとみられてきた社会のさまざまな図形とが、連続した関係でとらえうるということを、いっそうつよく示唆しているように思われる。バンバラ族のコモ結社で用いられる図形は、小単位に分解し、別の組みあわせをつくることによって、ほぼ無限といってよい異なった意味を表現できるという。
 他方、図形として固定されていないしるしや記号のうちに、歴史に最も関連のふかいものは、言語伝承をのぞけば、楽器、とくに太鼓の、記号化された音であろう。ここで、私の小さな経験を挿入することを許していただきたい。モシ族の中でも、従来の推定では、最も古く王朝を樹立したといわれていた南部モシ族の、テンゴドル王の宮廷で、私が歴史伝承の採集をはじめたばかりのころのことである。王の系譜は、住民の主作物であるとうもろこしの収穫後の祖先祭をはじめ、大きな祭のときに、とくにていねいに朗誦されるが、二十一日に一度のダー・カサンガ(大きい市の日)の早朝にも、宮廷の前庭でベンダ(語り部・楽師)が朗誦するから、さしあたりそれを録音したらよかろう、と王様が私にいった。つぎのダー・カサンガの朝、私はくらいうちに起きて、まだひとけのない宮廷の前庭に行ってみた。やがて、顔見知りのベンダたちがやってきた。さしかけの下にあぐらをかき、大きなひょうたんに牛の皮を張った太鼓を、両手で調子よくたたきだした。私もすぐ録音をとりはじめたが、前奏と思われる部分があまりながくつづくので、あとの朗誦にそなえて、テープの節約のため、途中で録音をとめ、系譜の朗誦がはじまったらすぐ再開できるようにして、待ちかまえた。そうやって四十分もたったろうか、終始真剣な面持で太鼓をたたきおえると、ベンダは、ほっとくつろいで汗をぬぐい、私に、録音はうまくできたかね、というようなことを言い、それではと立ちあがって、太鼓をかついで門を出て行ったしまった。私はしばらくそこに待っていたが、まもなく夜が明けはなれて、ソグンカンバ(小姓)たちが、前庭の掃除をはじめた。年かさの小姓に、ベンダはまたもどってきて系譜の朗誦をするのか、と不自由な片言できくと、朗誦ならいますんだではないかという。私はようやく意味がのみこめたが、太鼓の音だけで、歴代の王とそれぞれの王への賛美を表わすということが、その後いろいろな機会に解るようになった。>(4-6頁)

[89]三獣一鳥図・3(鳥の部)
 註。下図の記号の四類型と隠喩・換喩・提喩・逆喩のレトリックの四類型、あるいは神話・伝説・民話・スキャンダルの説話の四類型との関係の有無について立ち入って検討のこと。あるいは「仮面の記号論」の探究。──イコン・シンボル・インデックスはチャールズ・サンダーズ・パースの分類に基づく。なお、ガタリ『分裂分析的地図作成法』(訳書50頁)と東浩紀『存在論的、郵便的』(200頁)の図と比較のこと。

          イコン
  可能的・   /   \   現実的・
    潜在的 /     \    潜在的
       /       \
   シンボル         インデックス
       \       /
  可能的・  \     /  現実的・
    実在的  \   /     実在的
          マスク

[90]サーカスとしての物語空間、あるいはハイパーテキスト
 中沢新一「折口信夫とハイパーテキスト」(『すばる』1999.4)から。

<異種混合テキストであるサーカスが実現している「ポエジー」を、ポール・ブーイサックは『身振りの測度』の中で、サイバネティックスの理論を使って、表現してみようとした。サイバネティックス研究の中で生まれたフィードバック機構の考え方こそが、その当時は非言語的テキストを分析するための、唯一の科学的手段だったのだから、それも仕方がない。それに、アクロバットという身体芸は、まったくほれぼれするような機械性[マシナリー]の持ち主なので、同じことをレトリックということばのねじれ技法で表現しようとする文学よりも、ずっと適切に相手の本質に近づいていけそうなのだ。>

[91]カフカとサーカス
 三原弟平『カフカとサーカス』(白水社)から。

<カフカがサーカスに興味を持つ、というより、あんなに多くのサーカス物語を書いていることの理由の一つは、カフカにとって書くことが、それまでの書く概念とは違って、テキスト・パフォーマンスとでも呼ばれるべき特異な性質のものであったからだと思うのだが、もちろん話はそれだけではない。>(49-50頁)

[92]物語作者
 物語作者とはサーカスの象使いのことではないか。(あるいは象牙細工としての物語。)──ベンヤミン「物語作家」(浅井健二郎編訳『ベンヤミン・コレクション2』所収,ちくま学芸文庫)から。なお、ベンヤミンによれば、<口から口へ伝わっていく経験は、すべての物語作者が汲み続けた源泉であった。>(287頁)

<物語作者が生まれてくるあの手仕事の圏域の精神的なイメージは、おそらくポール・ヴァレリーによってほど意味深く表現されたことはなかった。彼は自然界にある完璧なもの、瑕も汚点もない真珠や、豊かに熟成したワイン、みごとに造り上げられた地上の生き物たちなどについて語っているところで、それらのものを、「互いに似かよった原因が次々と連鎖して作り出してゆく貴重な仕事[「マリ・モニスの刺繍」一九二四年]と呼んでいる。しかしこのような原因の積み重ねに終わりがあるとすれば、それは完璧さに達した時点だけである、と。ヴァレリーはさらに続けて言う。「自然のこのように忍耐強いやり方は、かつて人間によって模倣された。細密画、完璧に仕上げられた象牙細工、研磨と刻印において完全な宝石、薄く透明な層をいくえにも重ねてゆく漆工芸品や絵画作品……──これら忍耐づよく没我的な努力の産物のすべてが、いま消えていこうとしている。そして、時間など問題にされなかった時代はもう過ぎ去ったのだ。今日の人間は、短縮されえないような仕事にはもはや手をつけようとしない」[同前]。事実、今日の人間は、物語さえ短縮することに成功した。私たちはショート・ストーリーの生成を体験したが、それは口伝えの伝統からは遠く離れてしまい、あの、薄い透明な層をいくえにも重ねていく作業など、もはや許すものではない。しかしまさにこの作業こそ、完璧な物語がどのように成立するかを、最も的確に表わすイメージなのである。さまざまに語り継がれてきたものがいくえにも層をなしていき、そこから完璧な物語がその姿を現わしてくるのだ。>(302-3頁頁)


【216】無意識をめぐる冒険・第三部(その16)

[93]もうひとつの物語
 村上春樹は「目じるしのない悪夢」の中で、『アンダーグラウンド』執筆の動機を三つあげている。その第一は、「一九九五年三月二◯日の朝に、東京の地下でほんとうに何が起こったのか」を知ること、その第二は、日本という「場のありかた」や日本人という「意識のありかた」を知ること、その第三は、村上自身が作り出した「やみくろ」という生き物がもたらす恐怖と地下鉄サリン事件がもたらしたそれとがつながっていたこと。そしてこれらすべてにかかわってくるのが、「もうひとつの物語」という観念である。

<言い方は極端かもしれないけれど、この事件は結局は四コマ漫画的な「笑い話」として、ビザールな犯罪ゴシップとして、もしくは世代別にプロセスされた「都市伝説」というかたちをとってしか、意味的に生き残れない状況へと向かいつつあるようにさえ思えるのだ。>(690頁)

<「オウムは悪だ」というのはた易いだろう。また「悪と正気とは別だ」というのも論理自体としてはた易いだろう。しかしどれだけそれらの論が正面からぶつかりあっても、それによって〈乗合馬車的コンセンサス〉の呪縛を解くのはおそらくむずかしいのではないか。
 というのは、それらは既にあらゆる場面で、あらゆる言い方で、利用し尽くされた言葉だからだ。言い換えれば既に制度的になってしまった、手垢にまみれた言葉だからだ。このような制度の枠内にある言葉を使って、制度の枠内にある状況や、固定された情緒を揺さぶり崩していくことは不可能とまではいわずとも、相当な困難を伴う作業であるように私には思えるのだ。
 とすれば、私たちが今必要としているのは、おそらく新しい方向からやってきた言葉であり、それらの言葉で語られるまったく新しい物語(物語を浄化するための別の物語)なのだ──ということになるかもしれない。>(691頁)

<しかしそれに対して、「こちら側」の私たちはいったいどんな有効な物語を持ち出すことができるだろう?(略)
 これはかなり大きな命題だ。私は小説家であり、ご存じのように小説家とは「物語」を職業的に語る人種である。だからその命題は、私にとっては大きいという以上のものである。まさに頭の上にぶら下げられた鋭利な剣みたいなものだ。そのことについて私はこれからもずっと、真剣に切実に考え続けていかなくてはならないだろう。そして私自身の「宇宙との交信装置」を作っていかなければならないだろうと思っている。私自身の内なるジャンクと欠損性を、ひとつひとつ切々と突き詰めていかなくてはならないだろうと思っている(こう書いてみてあらためて驚いているのだが、実のところそれこそが、小説家として、長いあいだ私のやろうとしてきたことなのだ!)。>(704頁)

[94]次の作品
 しかし「もうひとつの物語」は(村上の「次の作品」は)まだ書かれていない。──『アンダーグラウンド』(それは神によるヨブたちへのインタビューの試みだったのかもしれない)そして『約束された場所で』(それは作者による登場人物へのインタビューの試みだったのかもしれない)は「もうひとつの物語」ではない。

[95]新しいヨブ記
 村上春樹がいう「もうひとつの物語」とは、新しいヨブ記のことではないかと思う。あるいは、悪の物語。

[96]ヨブのいる場所・1
 註。下図には悪魔がいない。あるいは悪魔は神に含まれている。あるいはヨブが悪魔である。

           神
         /   \
        /     \
       /       \
 夢の言語=復号?      システム言語=暗号?
       \       /
        \     /
         \   /
          ヨ ブ

[97]システムとファクトリー
 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮文庫上巻)から。

<我々[計算士]の組織は一般に『組織[システム]』と呼ばれ、記号士たちの組織は『工場[ファクトリー]』と呼ばれている。(略)…資格を奪われた計算士は往々にして『工場[ファクトリー]』に吸収されて地下にもぐり、記号士になってしまう…。>(60頁)

[98]ヨブのいる場所・2
 註。下図に「それ」を書き入れることは可能か?

          かれら
         /   \
        /     \
       /       \
    あなた         あなたがた
       \       / (わたしたち)
        \     /
         \   /
          わたし

[99]もうひとつの物語へ
 村上春樹の短編小説と紀行文を探究せよ。


【217】無意識をめぐる冒険・第三部(追録の1)

[1]非小説
 『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(岩波書店)から。

<ぼくは実は今、ノンフィクションの本を書こうと思って、そのリサーチのようなことをしているところなんです。ちょっと小説のほうは一服して、この一年はそれに集中してやってみたいという気持ちでいます。テーマを定めて徹底的に調査をして、一人でも多くの人に話を聞いて、まとまったかたちの「非小説」をひとつ書きたいと。いろんな意味でそうすることが自分にとっても必要じゃないかと感じるんですね。そこには人の話をいっぱい聞くことによって自分がある意味では癒されたいという感覚もあるのです。他人の語る物語に正面からかかわってみたいというか……。それはむずかしいことなのでしょうか?>(78-9頁)

[2]他人の話を聞く人
 村上春樹の長編小説は「他人の話を聞く人」が軸となっている。(たとえば『ノルウェイの森』)

[3]マテリアルとリアリティ
 『回転木場のデッド・ヒート』「はじめに」(講談社文庫)から。

<僕が小説を書こうとするとき、僕はあらゆる現実的なマテリアル──そういうものがもしあればということだが──を大きな鍋にいっしょくたに放りこんで原形が認められなくなるまでに溶解し、しかるのちにそれを適当なかたちにちぎって使用する。小説というのは多かれ少なかれそういうものである。リアリティというのもそういうものである。パン屋のリアリティはパンの中に存在するのであって、小麦粉の中にあるわけではない。
 しかしここに収められた文章は原則的に事実に即している。僕は多くの人々から様々な話を聞き、それを文章にした。もちろん僕は当人に迷惑が及ばないように細部をいろいろといじったから、まったくの事実とはいかないけれど、それでも話の大筋は事実である。話を面白くするために誇張したところもないし、つけ加えたものもない。僕は聞いたままの話を、なるべくその雰囲気を壊さないように文章にうつしかえたつもりである。
 僕はこのような一連の文章を──仮にスケッチと呼ぶことにしよう──最初のうちは長編にとりかかるためのウォーミング・アップのつもりで書きはじめた。(略)  しかし三つ四つと書き進んでいるうちに、僕にはそれらの話のひとつひとつがある共通項を有しているように感じられてきた。それらは「話してもらいたがっている」のである。それは僕にとっては奇妙な体験だった。>(9-10頁)

<正直に言って、僕は自分の話をするよりは他人の話を聞く方が好きである。それに加えて、僕には他人の話の中に面白みを見出す才能があるのではないかという気がすることがある。事実、大抵の人の話は僕自身の話よりずっと面白く感じられる。それも特殊な人の特殊な話よりは平凡な人の平凡な話の方がずっと面白い。>(11頁)

<…僕が小説という形態を一時的に放棄したとき、ごく自然にこのような一種のマテリアルが僕の意識の水面に浮かびあがってきたということになるのだろう。僕にとってはこれらのスケッチのマテリアルは身よりのない孤児たちのように感じられる。彼らはどの小説にもどの文章にも組みこまれることなく、僕の中でじっと眠りつづけてきたのだ。そう思うと、僕はなんとなく居心地の悪い気分になってしまう。>(12-3頁)

<自己表現が精神の解放に寄与するという考えは迷信であり、好意的に言うとしても神話である。少くとも文章による自己表現は誰の精神をも解放しない。もしそのような目的のために自己表現を志している方がおられるとしたら、それは止めた方がいい。自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。もし何かに到達したような気分になったとすれば、それは錯覚である。人は書かずにいられないから書くのだ。書くということ自体には効用もないし、それに付随する救いもない。>(13頁)

[4]デッキ・チェアで語る女
 小林正明『村上春樹・塔と海の彼方に』(森話社)から。

<対話療法を小説に仕立てた『土の中の彼女の小さな犬』(『中国行のスロウ・ボート』所収)という、ひとつの短編がある。この短編において、精神分析療法にとって言葉の力がいかに強度な作用を果たすものか、吟味できる。しかも『土の中の彼女の小さな犬』には、村上春樹が必ずやフロイトの著作の何篇かを読んでいるはずだ、と推断できる濃厚な痕跡が標記されている。>(45頁)

[5]善き物語・悪しき物語
 「河合隼雄氏との対話」(『約束された場所で』所収,文藝春秋)から。

<僕は小説家としてそれがすごく気になるんです。こんなに多くの人を惹き付ける[麻原の]ストーリー性とはいったいどんなものだったのか。そしてそのようなストーリーがどうして結果的にあれほどの致死性を帯びなくてはならなかったのか。そう考えていきますと、物語には善き物語と悪しき物語があるんじゃないかと、そういうところにまで行ってしまいます。ここでまた悪とは何かという命題に立ち戻るわけですが。>(223頁)


【218】無意識をめぐる冒険・第三部(追録の2)

[6]弛緩した既視感
 村上春樹『アンダーグラウンド』(講談社)をめぐって、宮台真司氏は次のように書いている。

<実のところ数十人・数百人相手に性愛コミュニケーションを重ねると、誘惑と受容のシグナル、性交技法、最中の声や仕草、相手を愛でる態度や言葉、身の上話、愚痴や言い訳、社会への不満など全てのコミュニケーションが順列組み合わせだと確証されることになります。
 最初は浅い付き合いだからだと思おうとします。でもバリエーションを重ねると、浅く付き合ったなら浅く付き合ったなりの型、深く付き合ったなら深く付き合ったなりの型の順列組み合わせがあることが分かってくる。むろん自分自身もその型から出られません。
 かくして「かけがえのない個性」「人から見える世界は人それぞれ」という意識しなかった幻想が失望に晒され、どんな人間に会ってもどんな話を聴いても「弛緩した既視感」しか見つからなくなります。村上春樹『アンダーグラウンド』の聞き書きを読むように……。>(「宮台真司の世紀末論」,朝日現代用語『知恵蔵』'99所収)

[7]殿様ノンフィクション
 村上朝日堂[http://opendoors.asahi-np.co.jp/span/asahido/index.htm]「『アンダーグラウンド』フォーラム 4」から。以下、全文引用。

> この「アンダーグラウンド」はいろいろなところで批判的な論評が掲載されてい
> ました。「村上春樹が有名な流行作家だから売れているんだ」とか「贅沢な殿様
> ノンフィクションだ」とか言われていますが、僕はそうは思いません。確かには
> じめは村上さんの作品だから読んでみたというのはありますが、売れている、い
> ないの問題ではないと思います。読んでみて、村上さんの書いたものでなくと
> も、この本はすばらしいと感じました。またこのような本を誰かが書かなくては
> いけないと思いました。そしてそんなに批判的に論評する評論家たちに「じゃあ
> こんな良い作品がほかの作家にできるのか、お前に書けるのか」と僕は言いたい
> です。こんなにすばらしい作品を書いた村上さんを僕は改めて尊敬します。他の
> 人がなんと言おうともがんばってください。

 こんにちは。

 励ましのお便りをありがとうございました。本についていろいろと意見が出てくるのは毎度のことで、僕自身は「まあこんなものだろう」とクールに暮らしています。それにものを書く人間というのは、ひとつ書いてしまうと、次のことのほうにもう頭が行っちゃってるんですよね。でも励まされるというのは、いずれにせよ嬉しいです。これからもがんばります。

 でも、その「殿様ノンフィクション」っていうのは、ちょっと言葉的にかっこいいですね。昔、筒井康隆さんの小説に「富豪刑事」というのがあって、どんな事件でも「推理なんかしったことか」「捜査がなんだ」と、ただただ札ビラをきって謎を一気に解決してしまう大金持ちの刑事が主人公でしたが、雰囲気がなんとなくそれに似てます。僕はさしずめ「暴れん坊将軍」と「水戸黄門」の中間くらいのところなんでしょうか。すごいですね。

 尊敬されたりすると身体が硬直しますので(変な意味じゃなくて)、簡単に尊敬なんかしないで下さい。簡単に人を尊敬する人は、たいてい裏切られます。

 ところで、「これがお前に書けるか」というと、きっと「こんなもの書きたくねえよ」という答えが返ってくると思います。そういうものです。あまり相手にしないほうがいいという気がします。


【219】無意識をめぐる冒険・第三部(追録の3)

[8]無意識の場所
 無意識はチャイニーズ・ボックスに貯蔵される。あるいは合わせ鏡に映るものが無意識である。

[9]チャイニーズ・ボックス
 「河合隼雄氏との対話」(『約束された場所で』所収,文藝春秋)から。

<話をしていても、宗教的な話になると、彼らの言葉には広がりというものがないんです。それでね、僕はなんでだろう、なんでだろうと、それについてずっと考えていたんです。それで結局思ったんですが、僕らは世界というものの構造をごく本能的に、チャイニーズ・ボックス(入れ子)のようなものとして捉えていると思うんです。箱の中に箱があって、またその中に箱があって……というやつですね。僕らが今捉えている世界のひとつ外には、あるいはひとつ内側には、もうひとつ別の世界があるんじゃないかと、僕らは潜在的に理解しているんじゃかいか。そのような理解が我々の世界に陰を与え、深みを与えているわけです。音楽でいえば倍音のようなものを与えている。ところがオウムの人たちは、口では「別の世界」を希求しているにもかかわらず、彼らにとっての実際の世界の成立の仕方は、奇妙に単一で平板なんです。あるところで広がりが止まってしまっている。箱ひとつ分でしか世界を見ていないところがあります。>(232頁)

[10]物事にはつねに続きがある・〈ここ〉と〈そこ〉
 ポール・オースター『ムーン・パレス』(柴田元幸訳,新潮文庫)から。

<続き。そういうことなんだ。いいか、物事にはつねに続きがあるんだ。好むと好まざるとにかかわらず>(224頁)

<つまり、まずはじめに天文学がある。天文学があって、そこから地上の地図が出てくる。ふだん何となく思っているのとは正反対さ。じっくり考えてみると脳味噌がひっくる返るみたいな気になってくる。〈ここ〉は〈そこ〉との関係においてのみ存在し、その逆ではない。〈これ〉があるのも〈あれ〉があるからだ。上を見なければ、下に何があるかはわからない。考えてみたまえ、自分でないものを仰いではじめて、我々は自分を見出すんだ。空に触れなければ、大地に足を据えることもできない>(227頁)

[11]ケルト的視覚、あるいは膨張する鏡
 鶴岡真弓『ケルト美術への招待』(ちくま新書)から。

<世界の中心に「人間(像)[アンスロポモルフ]」を置き、可視的世界の親和的縁どりとしての「情景」を模倣的に描く古典的な表現者の眼は、安定した遠近法のなかでものを捉えて、そのあるべき姿の全体を“描写”しようとする。しかし三次元のイリュージョンを懐疑する北方の画家たちは、部分を細密に誇張し、それを真新しい奇怪な存在[もの]として現出させる。冠の宝石の一粒一粒、あるいは聖母の足下のじゅうたんのけばが、生きもののように立ち上がってくる。
 これは現代思想家ドゥルーズの言葉を借りれば、「遠く」から「光学的」にものを見る古典的視覚(つまり遠近法の視覚)に抗い、「近く」から「触覚的」にものをとらえようとする視覚である。装飾美術は万華鏡的な反復的ないし累乗的集合を創造する。「図」と「地」を主客顛倒させて、「地」は無限を映し出す膨張する鏡のようなものに限りなく近づく。それはまたドゥルーズのいう秩序的な「条理空間」に対する、区切りのない滑らかな「平滑空間」ということができる。中心がないこと、どこまでもずれていく視点の促し。対象を光学的に客観する視覚の無効化。>(22-3頁)

[12]合わせ鏡的な像
 「目じるしのない悪夢」(『アンダーグラウンド』所収,講談社)から。

<……私は実はこう思っている。「こちら側」=一般市民の論理とシステムと、「あちら側」=オウム真理教の論理とシステムとは、一種の合わせ鏡的な像を共有していたのではないかと。>(695頁)

[13]論理学
 ヘーゲルの『大論理学』を「有論」=チャイニーズ・ボックス論、「本質論」=合わせ鏡論として読解できるとしたら、「概念論」=生殖論あるいは組織論として捉えることができるかもしれない。──ここで組織が懐胎するものは、いうまでもなく悪だ。(そして、文字の発明が組織の起源である。)


【220】無意識をめぐる冒険・第三部(追録の4)

[14]組織について─カリカチュア
 池田清彦『科学とオカルト』(PHP新書)から。

<悲しいことに、あるメジャーな社会的装置を逃れて、別のマイナーな社会的装置にはまって得られるものは、逃れようとしたものをさらにグロテスクに変型した模倣品でしかない。(略)組織というのはどんなものであれ、その時代の最もメジャーな組織から、組織運営のノウハウを無意識のうちに盗んでいるのである。人はだれでも自分が育った時代から逃れられないが、特に、複数の人間が集まって組織を創る時、互いに通底するものは時代しかないのだから、組織運営の形式は、その時代の最もメジャーな組織のカリカチュアとなるほかはないのであろう。>(178-9頁)

[15]組織について─皮肉な構造
 大澤真幸『虚構の時代の果て』(ちくま新書)から。

<オウムが提起した困難を、いかにして超克することができるのか? とりあえずオウム真理教事件を経由して浮上してきた皮肉な構造に注意しておかなくてはならない。それは、オウムを正面から批判したり攻撃する者の方が、しばしば、オウムに似てくるという構図である。オウムを批判したり攻撃したりすることが、逆にかえって、意図することなくオウムを模倣してしまうのである(反対に、オウムに比較的に好意的な論者は、本質的にオウムと似ていないことが多い)。このような意図しない模倣が最も顕著に現れたのは、オウムを取り締まる権力の構造において、である。>(289頁)

[16]組織について・3─ほんとうの悪夢
 「目じるしのない悪夢」(『アンダーグラウンド』所収,講談社)から。

<『ねじまき鳥クロニクル』という小説を書くために以前、一九九三年の「ノモンハン戦争(事件)」の綿密なリサーチをしたことがあるが、資料を調べれば調べるほど、その当時の帝国陸軍の運営システムの杜撰さと愚かしさに、ほとんど言葉を失ってしまった。どうしてこのような無意味な悲劇が、歴史の中でむなしく看過されてしまったのだろうと。でも今回の地下鉄サリン事件の取材を通じて、私が経験したこのような閉鎖的、責任回避型の社会体質は、実のところ当時の帝国陸軍の体質とたいして変わっていないのだ。
 簡単に言ってしまえば、現場の鉄砲を持った兵隊がいちばん苦しみ、報われず、酷い目にあわされる、ということだ。後方にいる幕僚や参謀は一切その責任をとらない。彼らは面子を重んじ、敗北という事実を認めず、システム言語を駆使したレトリックで失策を糊塗する。(略)たとえ五◯年以上前のこととはいえ、そんな愚かしいことが実際におこなわれていたという事実に、私は少なからぬショックを覚えた。しかし実はそれとほとんど変わらないことが、この現代において繰り返されているのだ。これは悪夢以外のなにものでもなかった。>(720頁)

[17]組織と悪、あるいは純粋な悪
 「河合隼雄氏との対話」(『約束された場所で』所収,文藝春秋)から。

<河合 だからね、本物の組織というのは、悪を自分の中に抱えていないと駄目なんです、組織内に。>(243頁)

<村上 昨年、先生とお目にかかったときに悪についてお話をして、それでいろいろ考えたんですが、悪というのは人間というシステムの切り離せない一部として存在するものだろうという印象を僕は持っているんです。それは独立したものでもないし、交換したり、それだけをつぶしたりできるものでもない。というかそれは、場合によって悪になったり善になったりするものではないかという気さえするんです。つまりこっちから光を当てたらその影が悪になり、そっちから光を当てたらその影が善になるというような。それでいろんなことの説明はつきます。
 ところがそれだけでは説明のつかないものもたしかにあるんです。たとえば麻原彰晃を見ていても、少年Aを見ていても、純粋な悪というか、悪の腫瘍みたいなものがわっと結集して出てくる場合があるような気がします。そういうものが体内にあって、「悪の照射」とでも言うべきものを起こすんじゃないかと。>(247頁)