無意識をめぐる冒険・第二部



【127】無意識をめぐる冒険・第二部(その1)

[1]
 無意識をめぐる冒険の第二部を始めよう。

[2]
 テーマはとりあえず「悪の起源」あるいは(かのニーチェに倣って)「悪の系譜」とでもしておこうか。そして「悪」をめぐる考察は必然的に「歴史」をめぐるそれへと推移していく──このことを仮説としてあらかじめ提示しておこう。(とはいえ無意識のなすことはもとより意識のよく知るところではないのだから、実際この冒険の行き着く先がどこになるかはやってみなければわからない。)

[3]
 無意識は未来からやって来る。古代や中世や近世や近代からではなく、ましてや現代からでもなく。(それにしても私たちはいつになったら現代に次ぐ時代区分の名称を見出すのだろうか。──現代の次に来るのは来世?)

[4]
 悪もまた未来時制で語られる?──レイ・ブラッドベリは確か、かつて(後に古代と呼ばれる時代)人類の前にその姿(後に悪魔として記憶されることになる形姿)を示したことのある「神」(地球外生命)が登場する作品を書いていた。

[5]
 村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』三部作で「歴史の叙述」の問題に取り組んでいる。ここでいう歴史とは家族の歴史、すなわち家族をめぐる無意識と「悪」の起源と顛末の物語であり、そしてその叙述を貫く時間意識は未来に根ざしている。

 つまり『ねじまき鳥クロニクル』三部作は逆さまの時間構造をもった神話(未来の痕跡としての神話)の叙述の試みなのである。──というのも神話とはつねに家族の(無意識と悪の)歴史の叙述であるから。(誰がそういっていたのかは失念した。もしかするとそれは私が発見したことなのかもしれない。)

[6]
 歴史とは記憶の再編の物語である。そして記憶とは「動物の頭骨の中に入っている古い夢」(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)である。

<「記憶の再編?」
 「そうです。あんたは今、別の世界に移行する準備をしておるのです。だからあんたが今見ておる世界もそれにあわせて少しずつ変化しておる。認識というものはそういうものです。認識ひとつで世界は変化するものなのです。世界はたしかにここにこうして実在しておる。しかし現象的なレベルで見れば、世界とは無限の可能性のひとつにすぎんです。細かく言えばあんたが足を右に出すか左に出すかで世界は変わってしまう。記憶が変化することによって世界が変わってしまっても不思議はない」>(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』新潮文庫下巻123-4頁)

[7]
 しかし「足を右に出すか左に出すかで」変わってしまうのはまず空間である。──「世界」の変化が「歴史」の変化につながっていくためには、時間が空間的表象の呪縛から解放されるまさにその瞬間を叙述する「文体」が発明されなければならないだろう。

[8]
 あるいは歴史とは情報である。そして情報とは「百科事典棒」に刻まれたポイントである。

<「百科辞典棒?」
 「百科辞典棒というのはどこかの科学者が考えついた理論の遊びです。百科辞典を楊枝一本に刻みこめるという説のことですな。どうするかわかりますか?」
 「わかりませんね」
 「簡単です。情報を、つまり百科事典の文章をですな、全部数字に置きかえます。ひとつひとつの文字を二桁の数字にするんです。Aは01、Bは02、という具合です。00はブランク、同じように句点や読点も数字化します。そしてそれを並べたいちばん前に小数点を置きます。するととてつもない長い小数点以下の数字が並びます。0.1732000631……という具合ですな。次にその数字にぴたり相応した楊枝のポイントに刻みを入れる。つまり0.50000……に相応する部分は楊枝のちょうどまん中、0.3333……なら前から三分の一のポイントです。意味はおわかりになりますな?」
 「わかります」
 「そうすればどんな長い情報でも楊枝のひとつのポイントに刻みこめてしまうのです。(中略)時間とは楊枝の長さのことです。中に詰められた情報量は楊枝の長さとは関係ありません。それはいくらでも長くできます。永遠に近づけることもできます。(中略)思念というものは時間をどこまでもどこまでも分解していきます。(中略)」
 「つまり」と私は言った。「不死だ」
 「そうです。思念の中に入った人間は不死なのです。正確には不死ではなくとも、限りなく不死に近いのです。永遠の生です」>(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』新潮文庫下巻125-7頁)

[9]
 思念は時間をどこまでもどこまでも分解していく。──ここに表現されているのは空間(連続量)の「無限」が時間(離散量)の「永遠」にすりかわるトリッキーな瞬間である。そしてこの誤謬推論を経て百科事典棒は「クロニクル棒」に変身する。


【128】無意識をめぐる冒険・第二部(その2)

[10]
 ここで村上春樹が現在までに発表した八つの長編小説を「分類」しておこう。

 まず第一の三部作(鼠三部作)は「僕の世界」と「鼠の世界」(僕の影の世界)との霊的な交わり(『風の歌を聴け』)とその分離(『1973年のピンボール』)、そして「異界=アナザー・ワールド」での再会(『羊をめぐる冒険』)へといたる個人的な物語、つまり個人的な無意識の起源とその構造化の過程が「空間」に即して叙述された作品群であった。

[11]
 これに対して『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は「空間から時間へ」をテーマに、空間の微分を介した時間の積分が試みられた作品であった。──つまり「個物」の記憶をめぐる空間論から「追悼的想起」の時間論への変換を課題として掲げ、時間の湧き出ずる場所(そして他者のいる場所)の叙述を試みた作品だった。

 だからそこには建築学的意匠が過剰なまでにちりばめられていたのであり、この作品を通してはじめて「僕の世界」と「鼠の世界」が「表層」=ハードボイルド・ワンダーランド=「私」の世界と「深層」=世界の終り=「僕」の世界においてそれぞれ二重に分節されたのである。(ちなみにこの作品を解読する鍵はカフカとユングだ。)

[12]
 第二の三部作は時間に沿った記憶の遡行とその再構成(複数の可能世界からの現実世界の抽出=救出?)を試みた作品群だ。村上春樹は「時間(物語)から歴史へ」をテーマにこれらの作品を書くことで、他者との現実的なかかわりを媒介として(そしてそこにおいてのみ)生成する無意識を叙述する「文体の練習」を試たのだといっていいだろう。

 記憶の遡行と再構成はまず高校時代の友人を媒介として(『ノルウェイの森』)、次いで中学時代の友人を媒介として(『ダンス・ダンス・ダンス』)、最後に小学時代の友人を媒介として(『国境の南、太陽の西』)それぞれ試みられる。そしてその過程を通して浮上してくるのが「悪」の問題である。──『森』における「僕」の暗示的(無意識的)な悪、『ダンス』における五反田君(「僕」のもう一つの影)の明示的な悪、そして『国境』における「僕」の悪の自覚。

<もちろん僕はイズミを損なったのと同時に、自分自身をも損なうことになった。僕は自分自身を深く──僕自身がそのときに感じていたよりもずっと深く──傷つけたのだ。そこから僕はいろんな教訓を学んだはずだった。でも何年かが経過してからあらためて振り返ってみると、その体験から僕が体得したのは、たったひとつの基本的な事実でしかなかった。それは、僕という人間が究極的には悪をなし得る人間であるという事実だった。>(『国境の南、太陽の西』講談社文庫66頁)

[13]
 また第二の三部作では「死」をめぐる叙述が明らかな変化を示している。──『森』における理由のない(痛切な)死、『ダンス』における現実的な理由(事故、殺人)が与えられた(数量化された)死、『国境』における可能性としての(延期された)死。

 それと並行するようにしだいに鮮明になるのが「家族」をめぐる叙述である。──たとえば『森』では直子とレイコさんと「僕」との擬似家族関係が描かれ、解体した緑の家族が描かれる。『ダンス』ではアメとユキと牧村拓(『世界の終り』末尾に掲げられた参考文献の著者)の家族が描かれ、さらには六つの白骨による「聖家族」像すら描かれている。『国境』でははじめて「僕」の家族が描かれる。

[14]
 そしてそれと同時に「吸引力」(他者との関係において生成する無意識?)の問題がしだいに大きく、そしてより表層のレベルにおいて意識的に取り上げられることになる。

<彼女[アメ]はまわりの人に何かを与えるというタイプではなかった。それとはまったく逆だ。自分自身の存在を調整するために、まわりからちょっとずつ何かを取っていくタイプだった。でも人々は彼女に何かを与えないわけにはいかないのだ。何故なら彼女は才能という強力な吸引力を有しているからだ。そして彼女はそうすることを自分の当然の権利だと思っているからだ。調和と静けさ。彼女がそれを得るために人々はみんな脚やら腕やらを彼女に差し出しているのだ。>(『ダンス・ダンス・ダンス』講談社文庫下巻80頁)

<僕は読んでいた本から顔をあげて、よくわからないまま彼女[再会した島本さん]を見た。でもそのとき何かが僕を打つのが感じられた。胸の中の空気が突然ずっしりと重くなったような気がした。僕は吸引力のことを考えた。これはあの吸引力なのだろうか?>(『国境の南、太陽の西』講談社文庫117頁)

[15]
 悪と死と家族と吸引力。これらの道具建てを経て『ねじまき鳥クロニクル』三部作は書かれた。それは歴史(とはすなわち「現実」?)を叙述する「文体の練習」の試みである。──あるいは『鳥』三部作とは幼年期、胎児期さらには「父母未生以前」(夏目漱石『門』)にまで遡行する記憶の再構成の物語なのかもしれない。

[16]
 幼年期とは──<ついにふたたび見いだされた>(ジョルジュ・バタイユ/山本功訳『文学と悪』「まえがき」から)──未来である。

[17]
 村上春樹の二つの三部作は夏目漱石の二つの三部作──『三四郎』『それから』『門』の第一の三部作と『彼岸過迄』『行人』『こころ』の第二の三部作──と対応しているのかもしれない。

 少なくとも『ノルウェイの森』(春樹第二の三部作の第一作)は『こころ』(漱石第二の三部作の第三作)との関係を軸に解読することができるかもしれない。(人間関係の「森」としての「心」?──『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の終末で「心」を喪失しかけている「僕」は「心」を取り戻しかけている「図書館の女の子」とともに「東の森」に入ることを決意する。)

[18]
 加藤典洋氏は島森路子氏との対談「村上春樹の立っている場所」(『群像日本の作家 村上春樹』小学館所収)で次のように述べている。

<『ノルウェイの森』は、ちょっと通俗的だと言われたりするんだけど、ことによったら夏目漱石という人は、『ノルウェイの森』みたいなものを、次から次に書いたんじゃないかと思うんですね。…夏目漱石というのはいま読んでも新しい人だし、三十七、八歳から書きはじめたにもかかわらず、若い人間を書くことが多かった。どういうふうにして生きていくのか、みたいなことは、ずっと変わらないテーマだけど、そういうものはつねにモードをまとって登場してくる。モードをまとって人に受け入れられるんです。そういう意味で、村上春樹は夏目漱石と、僕の中ではつながるものがある。>


【129】無意識をめぐる冒険・第二部(その3)

[19]
 キェルケゴールの時間論について。『不安の概念』(斎藤信治訳,岩波文庫)第三章から。──キェルケゴールは同書の「緒論」で次のように書いている。<本書の課題とするところは、原罪の教義を念頭におきかつ眼前に想い浮かべながら、「不安」の概念を心理学的に取扱うにある。>(21頁)また訳者跋によれば、キェルケゴールが同書で問題にしたのは「無垢な人間が、どうして罪あるものとなるのか」である。

<さて人間は霊と肉との総合であった。[引用者註:キェルケゴールは第一章で、精神において人間は霊的なるものと肉的なるものとの綜合である(71頁)と述べている。]ところでそれは同時に時間的なるものと永遠的なるものとの綜合なのである。(略)
 さてこの後の綜合に関していえば、それが第一の綜合とは異なった構造のものであることは、直ちに気づかれるところである。第一の場合には、霊と肉とが綜合の二つの契機であり、精神が第三者であった。そうしてそれも、ほかならぬ精神が措定される場合に始めて本来的に綜合が語られうるのである。もうひとつの綜合は、時間的なものと永遠的なものという二つの契機だけしかもっていない。さて第三者はどこにあるのだろうか。もしも第三者が存在しないならば、本来的にはいかなる綜合もまた存在しない。なぜというに、綜合は実にそのうちに矛盾を含んでいるものであり、それは第三者なしには綜合として成立しないのである。綜合が矛盾であるということは、実に綜合が存在しないということを意味するものにほかならないのである。にも拘らず綜合は存在している、──「瞬間」のうちに。>(148-9頁)

<瞬間とは、そこにおいて時間と永遠とが相互に触れあう所以のかの二義的なものである。これによって時間性[ツァイトリッヒカイト]の概念が措定せられる、──即ち時間性において時間はたえず永遠をもぎとり、永遠はたえず時間に滲透するのである。ここで始めて上述の、現在的時間・過去的時間・未来的時間という区分はその意義を獲得することになる。
 かかる区別において直ちに気づかれることは、或る意味においては未来的なるものが現在的なるものや過去的なるものよりもより多くを意味しているということである。なぜというに、未来的なるものは或る意味において全体なのであり、過去的なるものはその部分でしかない。未来的なるものが或る意味においては過去的なるものをも意味しうるということは、永遠的なるものはまずもって未来的なるものを意味しているということによるものである。換言すれば、未来的なるものとは、本来時間と質を異にしているところの永遠的なるものが、しかも時間とおのが関係を保とうとする場合にとるところの仮装[インコグニトー]なのである。かくして日常の用語においても往々にして未来的なるものと永遠的なるものとは同一視される(来世の生活──永遠の生活)。>(156-7頁)

<霊的なるものと肉的なるものとの綜合は精神によって措定せらるべきものである、ところが精神は永遠的なるものなのだから、それは第一の綜合と同時に時間的なるものとの綜合というもうひとつの綜合を措定する場合に始めて存在するのである。永遠的なるものが措定せられないかぎり、瞬間はそこにはない、乃至は単に境界[ディスクリメ]としてあるにすぎない。この場合永遠的なるものは──無垢においては精神は単に夢見るところの精神として規定されているが故に──未来的なるものとして現われる。なぜというに、前述のように、未来的なるものが永遠的なるものの最初の表現であり、それの仮装なのであるから。さて(前章によれば)精神は、それが綜合において措定せられようとする場合あるいはむしろそれがこの綜合を措定しようとする場合、精神の(即ち自由の)可能性として個体のなかでは不安として自己を顕わにしたのと全く同様に、ここでは未来的なるものは永遠的なるものの(即ち自由の)可能性として個体のなかでは不安となる。さて自由の可能性が自己を可能性の前に示すことによって、自由は地にくずおれる、そうしていまや時間性が感性と同じ仕方で罪性として出現してくるのである。このことは質的飛躍への最後の心理学的肉薄に対する最後の心理学的表現でしかないという点は、ここで再び指摘せられねばならない。>(159-60頁)

<時間性は罪性であるという規定からして、さらに死は刑罰であるという規定が生じてくる。これはひとつの前進である、ひとはこれとの類比を、もしおのぞみならば、次の点に見出すことができよう、──全く外面的にだけみても、死は有機体の完全性に正比例していよいよ恐怖すべきものとなってくるということ。>(163頁)


【130】無意識をめぐる冒険・第二部(その4)

[20]
 小林敏明氏は「転倒する時間意識──キルケゴール、西田、レヴィナス」(『西田幾太郎 他性の文体』太田出版所収)で、キェルケゴールが『不安の概念』第三章で強調した「未来という観念」こそが、従来の時間論や時間意識論において十分に議論されてこなかった重要なポイントであると述べている。

<永遠は未来として現われて来る。このテーゼの一つの意味は、むろん神が人間に到来するということである。だがキルケゴールが言おうとするのはたんにそれだけのことではない。時間は、「いまだ来ぬけれどもやがてやって来るもの」としてわれわれに不安をもたらす未来によって初めて時間たりうるということである。>(228頁)

[21]
 小林氏はまた未来に比重をかけたキェルケゴールの時間生成論は<我々の生命は過去から生れるのでなく、未来から生れるということができる>(「私と汝」)と書いた西田幾太郎の思考と親和的なものであると指摘し、さらに<脱自的─地平的な時間性は原初的には未来から時熟してくる>(『存在と時間』)と書いたハイデッガーの着想は思われている以上にキェルケゴールからの借用であると断言している。

[22]
 ところで「いまだ来ぬけれどもやがてやって来るもの」としての未来の本質的要素は「未知性」である。小林氏によれば、この未知を待ち望むことにこそ未来の(ひいては時間の)ひとつのポイントがあるのであって、この点でキェルケゴールをさらに一歩突き詰めたのがレヴィナスである。──キェルケゴールとレヴィナスを繋ぐ共通項のうち最も重要と思われる点の一つがレヴィナスの「イポスターズ hypostase」という特異な概念であると小林氏はいう。

<フランス語の hypostase には、哲学でいう「基体」「実体」やキリスト教神学の「位格」などの意味があるが、レヴィナスがここで言おうとしているのは、言語学でいう「品詞転換」の意味に近い。(略)つまりイポスターズとは実存するもの(名詞化された動詞)が主体も何もない匿名の実存すること(動詞)に触れるひとつの出来事を意味する。レヴィナスがこの「実存すること」を「永遠性」とも表現できると言うとき、われわれはここにキルケゴールのあの「質的飛躍」を重ね合わせることができる。>(232頁)

[23]
 イポスターズという出来事の現場にとどまることで、そこから何が見えてくるのか。──レヴィナスは<未来とは他なるものである>(『時間と他者』)と書いている。そしてこのような未来がたち現われてくる「不可能性」の中に顔を出すのが<すべての可能性を無効にしてしまうような他性そのものとしての死>であると小林氏はいう。

<われわれはキルケゴールの時間論から思わぬ道に迷い込んでしまったようにみえるが、そうではない。時間は、計量化される客観的時間と現在意識に還元される主観的時間という二つのオプティミズムの皮を剥いでみると、主でも客でもない未来=未知の次元、そしてまた自分の死という本質的にパラドキシカルな問題領域に境を接しているということである。>(236頁)

[24]
 それではこのこと(未知=他性としての未来の観念の導入)は時間を考えるうえでどういう意味をもっているのか。──以下小林氏の議論の要約。

 第一に「未知なる他性としての未来」が入ってくると時間はもはや等質な無限直線の表象においてはとらえられず、また現在という意識の中核への単純な還元も許されないこと。
 第二に<確実にやって来るにもかかわらず、経験しようのない不可知なもの>の前では蓋然性も確率も立ち往生する以外にないこと。
 第三に時間において未来を考える際、未知や他性といった直接的には時間概念と無縁なものを同時に考慮しなければならなくなること。(そもそも「未来」とは「未だ来ない」という行動を示す言葉であって、時間そのものを表現する言葉ではない。)

[25]
 小林氏によればこの最後の点が最も重要である。そこには<時間の表象はそもそも空間表象が混ざることによってのみ成立するのであって、しかもそれは時間にとっての宿命的な存在論的制約でもある>(238頁)──<時間は純粋に空間から分離して存在するわけではない>(同)──という時間問題の最大のパラドックスが存在している。そして空間表象が混ざる瞬間とは分節化が入る瞬間(質的飛躍あるいはイポスターゼの瞬間)であり、言語の分節化差異化と同時相関的である。

<それは「たったいま」「分けられ」ようとしているものでありながら「未だ分からぬ」パラドキシカルな瞬間である。要するにこうした未知=未来を含んだ瞬間は時間であって時間ではないということだ。(略)
 だが、と最後に急いで付け加えておかなければならない。この未知で他なる未来の次元は他方でいつも容易に神秘化されてしまうという危険に晒されている。(略)われわれに残された道はただ一つ、それはこれらの語りえぬものを神秘化することも、実体化することもなく、なおかついかにして言語の俎上にのせてくることができるかという本質的にパラドキシカルな所業にほかならない。>(239-40頁)


【131】無意識をめぐる冒険・第二部(その5)

[26]
 キェルケゴールの性欲論について。『不安の概念』(斎藤信治訳,岩波文庫)第二章から。──訳者跋によれば、不安と性との関係に関するキェルケゴールの考察は研究者たちによってしばしばフロイトの学説と連関させられている。

<罪性とともに性欲が措定せられた。その同じ瞬間に人類の歴史が始まる。さて人類における罪性が量的な規定で動いてゆくように、不安もまたそうである。原罪の結果換言すれば個体における原罪の現存在が不安なのであり、これはアダムの不安とはただ量的に異なっているだけである。>(87頁)

<アダムの罪の故に罪性がこの世に来たった、──そしてまた性欲が。いまや性欲はアダムにとって罪性としての意味をもつことになった。性欲が措定された。書物の上でも話の上でもすでに無邪気さに関してこの世で多くの饒舌がなされてきた。ところでただ無垢のみが無邪気なのである、しかしまた無垢は無知である。性欲が意識にもたらされるにいたるや否や、無邪気さについて語ることは軽率であり、気どりであり、ときにはまたもっと悪いもの、即ち快楽の仮面、である。だが人間がもはや無邪気ではないからといって、そこからして彼が罪を犯しているということになるというのでは決してない。そんな風に言うのは、人間の注意を真実なるもの・人倫的なるものからそらすことによって、人間を誘惑しようとする陳腐な冗説でしかない。
 性欲の意識に関する、さらには個々の領域における性欲の意義に関する一切の問題に対して、今日まで殆ど満足な解答が与えられてきていないということは否定せらるべくもない。>(114-5頁)

<このように羞恥のなかに不安が措かれているように、不安はまたあらゆる性愛的享楽のなかにも現前している、但しそれはかかる享楽が罪であるからなのでは断じてない、──それだからまたたとえ牧師がその男女を十度祝福したとしてもなんの役にもたたないのである。よし性愛が可能なかぎり美しく純粋に人倫的に表現せられ、その歓喜はいかなる欲情的反省によっても撹乱せられていないとしても、しかも不安は存在しているのである、──但しそれは撹乱する不安ではなしに、従属的契機としての不安である。
(略)ところでなんのためのかかる不安であろうか。それは性愛の頂点においては精神がともにそこにはありえないことによるものである。(略)しかし精神は性愛のなかでは自己を表現することができない、それは自己を縁なきものとして感ずるのである。彼は謂わば性愛に向ってこう語りかける、──「友よ、ここで私は第三者であることはできない、だからしばらくの間私はひっこんでいようと思う。」ところがこれがまさしく不安なのである、そうして同時にまたこれが羞恥にほかならない。>(122-3頁)

[27]
 キェルケゴールの悪魔論について。『不安の概念』第四章から。──訳者跋によれば、同書において就中キェルケゴールがそれの分析に力を注いでいるのは「悪魔的なるもの」についてである。

<悪魔的なるものとは閉じこもっているところのものである。悪魔的なるものとは善に対する不安である。我々が悪魔的なるものをこのような観点のもとに把握する場合(この際よく注意せられねばならないのは、閉鎖性の内容はいかなるものでもありうるということである、それはこの上なく恐怖すべきものでもこの上なく無意味なものでもありうる。それはそういうことが人生においても起こりうるとは大ていの人は夢にも思わないようなこの上なく戦慄すべきものでも、そういうことには誰も注意を払わないような瑣細なものでもありうるのである)、──この場合、閉鎖性がそれに対して恐怖を抱いている善とはいったい何を意味しているのであろうか。善とは、閉鎖性が開き示されうるようになるということを意味しているのである。この場合開示[オッフェンバールング]はまたもやこの上なく崇高なこと(卓越せる意味における救済)を意味しうるとともにこの上なく無意味なこと(ひとがなんらかどうでもいいことをすぐさま口に出して言うようなこと)をも意味しうる。我々はそのことによって惑わされてはならない。範疇は同一なのである。もろもろの現象はそれらが悪魔的なものであるという点において共通なのである、──よしその相違が眩暈を感じさせるほどのものであろうとも。善とはここでは開示である、というのは、開示が救済の最初の表現なのである。>(226-7頁)

<だがひとは永遠性を真剣に考えようとはしない。ひとは永遠性に対して不安を抱いている、そうして不安は百の逃げ路を見つけるのである。ところでこのことこそは悪魔的なるものにほかならない。>(277頁)

[28]
 キェルケゴールは『反復』で反復とは前方に向かう追憶であると書いている。──このことをめぐって村瀬学氏は、ここで追憶されるものは単なる過去の出来事一般ではなく特殊な物語的な出来事、すなわち聖書の出来事でなければならないと指摘している(『新しいキルケゴール』大和書房)。

<というのも《聖書の出来事》は過去に確かにあったことなのだから、それは当然「追憶」されるものである。その意味ではギリシア人の言うように、あらゆる認識は追憶であるというのは正しいということになる。けれども《聖書の出来事》は決して過去に終わってしまったものではない。その出来事はすでに「未来」としてあったものなのであり、人々は未来にあったものとして《聖書》を追憶する。つまりそれは過去の追憶ではなく、未来の追憶である限りにおいて「反復」と呼ばれるのだ、というのである。ここでの《聖書》は過去のものであると同時に未来でもあると二重の性格を負わされている。《聖書》は予言であり、予言の成就であり、未来を現在に実現させるものとして設定されている。(略)
 そう考えるなら、あの「ヨブ記」を熟読した一人の青年[『反復』の登場人物]は、どのように位置づけられるだろうか。おそらくこうである。同じ「聖書」といっても、ヨブ記は旧約聖書である。これは予言の成就される以前の「過去の聖書」である。このヨブ記に頼って「反復」を求める青年は所詮「追憶の人」にすぎない。(略)未来になった聖書というのはあの《イエスの物語》を中核にもつ「新約聖書」以外にはなかったのである。だから、この書を媒介にしてのみ「反復」は可能になるのだ、ということになるのである。>(142-3頁)


【132】無意識をめぐる冒険・第二部(その6)

[29]
 村上春樹第二の三部作と第一の三部作との決定的な相違点の一つは、性的陶酔の描写の有無である。──たとえば『ノルウエイの森』で直子は生涯に一度だけ陶酔を覚え、レイコさんは虚言症の十三歳の少女の愛撫に激しく濡れる。『ダンス・ダンス・ダンス』で「僕」はコールガールのユキとの「官能的雪かき」で「悪くない」セックスを経験する。

<それは素晴しい音楽と同じように心を慰撫し、肉を優しくほぐし、時の感覚を麻痺させた。そこにあるものは洗練された親密さであり、空間と時間との穏やかな調和であり、限定された形での完璧なコミュニケーションだった。>(『ダンス・ダンス・ダンス』講談社文庫上巻280頁)──もっとも「僕」はその後で「おまけにそれは経費で落ちるのだ」「これはただの[3Dの性的]イメージなんだ」と思う。しかしそれでもユキと寝たのは「素敵だった」。

[30]
 そして性欲をめぐる叙述。──『国境の南、太陽の西』で島本さんは「私は十二のときからもう、裸になってあなたと抱き合いたいと思っていたのよ」と語り、『ねじまき鳥クロニクル』第二部でクミコは「僕」以外の男性に対して抱いた「激しい性欲」について「長い手紙」の中で告白する。

<それは理屈も何もない圧倒的な電流の交感のようなものでした。まるで空が頭の上にどすんと落ちてきたような感じでした。頬が急に熱くなり、胸がどきどきして、下腹がもったりと重くなりました。スツールの上にきちんと座っているのが難しいくらいでした。最初、私は自分の中で何が起こっているのかわかりませんでした。でもそのうちに、それが性欲であることに気づきました。息が詰まって苦しくなるくらい激しく、私は彼の体を求めていたのです。>(『ねじまき鳥クロニクル』第二部新潮文庫191頁)

[31]
 性的陶酔によって「時間」が生成し、性欲とともに「歴史」が開始(開示)される。

[32]
 ところでキェルケゴールは「悪=閉鎖性」「善=開示性」と形式的に定義していた。──そうすると『ノルウエイの森』でレイコさんの無意識を開示した虚言症の少女は「善」的存在なのだろうか。いやそうではない。むしろ隠された欲望の所在を明らかにすることによってレイコさんを閉鎖された場所へと追い込む「悪魔」的存在であるというべきだろう。

[33]
 三角関係の問題。──それは閉鎖された関係なのだろうか。つまり「悪」が語られるべき関係なのだろうか。それとも悪ではなく「罪」が語られるべきなのだろうか。(『ノルウエイの森』の二つの三角関係。キズキ─直子─僕、直子─僕─緑。「僕」は前者においてキズキを裏切り、後者において直子を裏切る。)

[34]
 予言とは開示である。

[35]
 『ダンス・ダンス・ダンス』で「僕」が予知能力をもった少女ユキに「性欲」について講義をする場面がある。(ちなみに『ノルウエイの森』では緑が「僕」に次々と「いやらしい話」をしかける。──緑とユキの関係。)

<「もし君が鳥だとする。」と僕は言った。「そして空を飛ぶのがすごく気持ち良くて好きだとする。でもいろんな事情でたまにしか飛ぶことができない。そうだな、天候とか、風向きとか、あるいは季節とかによって、飛べたり飛べなかったりするんだ。でも飛べない日が続くと力も余るし、苛々してくる。自分が不当に貶められているような気がしてくる。どうして飛べないんだと腹も立ってくる。こういう感じわかる?」
 「わかる」と彼女は言った。「いつもそんな風に感じてる」
 「じゃあ、話が早い。それが性欲なんだ」>(『ダンス・ダンス・ダンス』講談社文庫下巻123頁)

[36]
 男と交わり性的陶酔を経験した少女は「予知能力」を喪失する。──ところで彼女が予知する未来は言葉(幻聴)として訪れるのか映像(幻視)として訪れるのか。(彼女は預言者なのか黙示録作家なのか。)前者であれば未来は「反復」し後者であれば未来は「追憶」される、といえるのかどうか。

[37]
 『ねじまき鳥クロニクル』にも予知能力の持ち主が登場する。──加納マルタ。本田さん。そしてクミコからの「長い手紙」を読み終えた「僕」がFMラジオのクラシック番組で聴くのが、シューマンの『森の情景』第七曲「予言する鳥」だった。

<僕はクミコがその男の体の下で腰をくねらせたり、脚を上げたり、相手の背中に爪を立てたり、シーツの上によだれを垂らしたりしているところを想像した。森の中に予言をする不思議な鳥がいて、シューマンはその情景を幻想的に描いているのだとそのアナウンサーは説明した。
 僕はクミコについてのいったい何を知っていたのだろうと僕は思った。(略)僕が理解していると思っていたクミコは、そして何年にもわたって僕が妻として抱いて交わってきたクミコは、結局のところクミコという人間のほんの僅かな表層に過ぎなかったのだろうか。ちょうどこの世界の殆どがクラゲたちの領域に属しているのと同じように。だとしたら、僕とクミコが二人で過ごしてきたこの六年という歳月はいったい何だったのだろう。そこには何の意味があったのだろう。>(『ねじまき鳥クロニクル』第二部新潮文庫191頁)

[38]
 鳥は無意識の所在を告知する。──『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の末尾で雪に包まれた南の空に向けて飛んでいった一羽の白い鳥は、「僕」がそこで住み続けることを決意した街を取り囲む「高い壁」を越え、そして(ユングが陸地=意識との比較で無意識になぞらえた)海を越えていくことだろう。

[39]
 無意識とは未来である。


【133】無意識をめぐる冒険・第二部(その7)

[40]
 予言と遡言。──渡辺慧氏によれば「遡言」とは「予言」の逆過程であって、既知の終結状態から自然法則に従って未知の初期状態を推論することである(「創造的時間」,渡辺慧・渡辺ドロテア『時間と人間』中央公論社所収228頁)。

 そしてエントロピー増大の系(物理的環境)において「予言」が有効であるのとちょうど同じ意味で、エントロピー減少の系(生物体のある部分)において「遡言」が有効に成り立つ。

<いずれにせよ、次のような論点を提案することができるだろう。「エントロピー減少の系についての正当な科学は、エントロピー増大の系についての正当な科学が予言的(因果的)であるのとちょうど同じ意味で、遡言的(反因果的)であるはずである。この点について、これまでの、そして現在の哲学者たちは、何らの根拠なく、予言的と因果的な論議だけが正当な科学的営為であり、あるいはそれが一般的に唯一の合理的思考なのだと主張するという点で、完全に偏見に捉われているのである」。>(257頁)

[41]
 渡辺氏が同書で提示する「時間的に嵌め込まれたミンコフスキ空間」のアイデアは刺激的である。──まず「ミンコフスキ空間」とは客観主義的な世界観を表現するもので、空間内の各点(四次元点)がそれぞれ何らかの物理的事象に相当する。このような世界の構図の中では未決定のものは皆無であり、「今」も「生成」もないし真の意味での主体もしくは観察し行動する心を容れる余地は残されていない。

 渡辺氏はそこに未来と過去の区別を導入する。つまり「創造的時間」の概念を導入し、われわれの意志の方向の下に未来の創造を考えることができる世界観を提示するのである。そしてこのような状況を幾何学的に表現できるのだろうかと問う。

<答えは否である。しかし、次のような構図を描いてみれば、真の状況のもつ本質的な特徴の多くはそこから落ちてしまうにせよ、状況を視覚化するある種の助けとすることはできるのではなかろうか。(人間の)世界線の各点にあって、その世界点とその原点とが一致し、しかもその時間軸が当の世界線に接するようなミンコフスキ座標系を定義することができよう。すると、その世界線上のある世界点における座標系から、他の世界点における座標系へと、ローレンツ変換で移行することができる、これが、その人間に付随した、そしてまたその人間とともに運動する座標系である。ただ、時間の原点は移ってしまうので、時間が各世界点から勘定されることになる、という奇妙な事態はある。各座標系は、その世界線上の一つの固定された世界点から測られた、その座標原点の固有時間値を使って同定することができる。さて、仮にここで、これら同一世界線上のすべての座標系を重ね合せ、同じ座標系どうしを一緒に重ね、原点を一緒にしてみたとしよう。すると、見かけ上は通常のミンコフスキと同様の四次元座標系が得られる。ただ、その解釈は全然違っているはずである。この新しい空間に名前を付けるとしたら、さしずめ(時間的に)「嵌め込まれた」ミンコフスキ空間といったところだろうか。>(前掲書260-1頁)

<この嵌め込まれた空間を使って、働きかけるべき世界をこのように視覚化した場合に、主体はその構図の一部なのか否か、という解答不能の問題がある。これは彼によって、働きかけるべき世界である、ということにされたのであるから、彼自身はその構図の中にいられるはずはない。けれども、また一方では、彼はその空間の原点に位置するという表現を使った。これは不可避のジレンマである。(略)
 しかし、これだけのことは言うことができよう。人間(あるいは他の何の能動体でもよいが)の肉体的延長は有限である。その神経系もまたある有限な空間を占めている。神経刺激の伝達も有限の時間内に行われる。心理学的な「現在」というのも、ある物理的に有限な時間領域をもっていることも、心理学的に確かめられている。このゆえに「ここ─そして─今」というものを、嵌め込まれた空間の原点付近のある有限な空間として描く方が、事実に即している。>(264-5頁)

 渡辺氏はここでいう「ある有限な空間」の距離を、「現在の時間的持続の大きさのオーダー」[0.01秒]×「信号の速度(光速度)」[3×10exp [10] cm/秒]の計算式により3,000km としている。

<これは結構大きな値である。(略)こうしてわれわれは、事象は至るところで起っているが、しかし現在起っている事象は何か特別リアルなものであって、過去よりも未来よりもリアルなのだ、という拭い難い感覚をもってしまう。常識としてばかりでなく、尊敬すべき哲学者までが、この幻想から逃れられないのである。同じ理由から、現在のデータを基にして行われる予言は信用のおける行為だと信じられてきたのである。現在のデータなどというものは、上に述べたような曖昧かつ限定された意味において以上に、実際には知ることのできないものなのだということを、誰も気づかなかったのではあるまいか。>(265-6頁)


【134】無意識をめぐる冒険・第二部(その8)

[42]
 小説の時制をめぐって。鈴村和成氏は「未だ/既に」(『村上春樹クロニクル 1983─1995』洋泉社所収)で、小説の内部を流れる時間は「回顧的[レトロスペクティブ]」なものだと書いている。

<なぜなら小説は、既に終わったところからしか自らの記述を見出すことができないからである。「変身」[カフカ]を小説の時間の内部で記述する限りにおいて、変身という出来事は既に起こっている。作者がいくら入念に変身の予感といったものを叙述したとしても、それは変身という出来事を既定の事実として受け入れたという条件においてのみ、それは予感でありえるのだ。予感において既に変身は起こっていたのである。>(96頁)

[43]
<記憶というのは小説に似ている。あるいは小説というのは記憶に似ている。>(村上春樹「午後の最後の芝生」『中国行きのスロウ・ボート』所収)

[44]
 鈴村氏は村上春樹の作品空間を「共時性[サンクロニティ]」という概念で把握している。村上作品には<ある一つの変化が決して孤立した独自の変化ではなく、その変化が含まれている体系自体をも「新しい体系」に組み替えているという、共時的な時間の認識>(鈴村前掲書134頁)が示されているというのだ。

<こうした共時的な時間性の中で現象を把握するという方法は、押しつめて行けば、出来事をその純粋な結果からのみ見るという認識論、更には極度に静態的な構造のみのある冷ややかな世界像を招き寄せるだろうことは想像にかたくない。それが『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』における「世界の終り」の光景である。ここでは世界は静態的に完結して、美しい結晶体の構造を見せている。手を触れれば指の凍るような冷感の宇宙が、そこにはある。ボードレール的なダンディズムに近い資質を持つ村上春樹が、こうした無感無覚の、ダイヤモンドに似た、「寒い」世界の消息に通じていないはずがない。「世界の終り」は体感的に言えば、何よりも「寒い」のである。>(135頁)

[45]
 『ねじまき鳥クロニクル』第3部で「僕」が目隠しをされたまま謎の女と交わる(実際は「僕」の顔に出現したあざに女が舌を這わせるだけの)シーンがある。──「僕」は自分を空き家であると思い、なんらかの理由で女が勝手に手を触れている柱であり壁であり天井であり床であり屋根でありドアであり石であると思い、やがて意識は「僕という肉体」を離れていく。

<時間の経過はより不明確になる。そこにあるさまざまな時間制のうちのどの時間制を自分が今とっているのか、わからなくなってくる。僕の意識はゆっくりと僕の肉体に戻っていく。(略)僕の意識の一部はまだ一軒の空き家としてそこにある。それと同時に、僕としてこのソファーの上にいる。そしてこれからどうすればいいのだろうと考えている。どちらが現実なのか、僕にはまだうまく決められない。「ここ」という言葉が僕の中で少しずつ分裂していくような気がする。僕はここにいる。でも僕はここにもいる。僕にとってそれらは同じくらい真実であるように思える。僕はソファーに座ったままその奇妙な乖離の中に身を浸している。>(新潮文庫69-70頁)

[46]
 カッシーラーは『シンボル形式の哲学(一)』(生松敬三・木田元訳,岩波文庫)で、言語は相対的な時間段階の表示を根源的機能とする「時制」の明確な区別に移行するよりも前に、ある行為が突然はじまるのか漸次展開されていくのか、一挙に遂行されるのか連続的に経過するのか、またその行為が唯一不可分な全体をなすのかリズミカルに繰り返される同種の幾つかの局面に分かたれるのかといった「動作様態」(完了相・継続相・反復相など)の区別を先行させたと指摘している。

 そこで問題になっていたのは、時間をあらゆる出来事を包摂する一般的な関係形式・秩序形式と見る見方ではなく、一定の動作様態によって表わされる個々の出来事の固有の時間(自分のための時間)だったのである。これに対してある出来事や行為の一般的な「時間形態」の表現(時制)が成立するためには、ある形式による「時間測定」が前提とならなければならない。つまり時制とは時間を明確に規定された大きさの値として捉える言語表現にほかならないのである。

<言語は、異なってはいるがたがいに密接に結びつき、たがいに関連し合う三つの位相で、空間、時間、数という三つの基本的直観を展開し、そうすることではじめて、あらゆる現象の知的な支配の試みと、諸現象を「世界概念」という統一体へ綜合する作業の前提となる条件を手に入れるのである。>(298頁)

[47]
 『ねじまき鳥クロニクル』の「僕」の意識は「僕という肉体」を離れて「一軒の空き家」となった。空き家にはそもそも「動作様態」の区別でさえ成立しない。だから時制の区別もない。──あるいは純粋に「霊的なるもの」には時間は存在しない。

[48]
 西田幾太郎の「無限大の円」のイメージ。たとえば「私と汝」に<周辺なくして至る所が中心となる円の自己限定としては、之に於て無数の自己自身を限定する円が限定せられると考えることができる>とある。

 「絶対矛盾的自己同一」を表現するものとしての無限大の円。──周辺のない円はいたるところに中心をもつと同時に、どこにも中心をもたない。すなわち「絶対の生の面」と「絶対の死の面」の矛盾的統一。(「永遠の今の自己限定」)

 そして前者の規定からは無限個の円(多)が析出され、後者の規定からは無限個の円を包摂する集合としての円(一)が帰結される。あるいは前者から「個物的多の自己否定的一」としての時間が、後者から「全体的統一の自己否定的多」としての空間が導出されるというべきか。(「物理の世界」)

[49]
 『ねじまき鳥クロニクル』の「僕」が<僕はここにいる。でも僕はここにもいる。>というときの「ここ」とは、無限大の円の無数の中心の一つなのだろう。──そして「僕」が目隠しをされていたということは、無限大の円の時間的側面を「見る」ための仕掛けだったのだろうか。


【135】無意識をめぐる冒険・第二部(その9)

[50]
<地の基いをわたしがすえたとき君は何処にいたか。>(関根正雄訳『ヨブ記』岩波文庫142頁)

[51]
 ヨブ記は散文からなる短い序曲・終曲と詩文からなる長大な対話の部分で構成されている。──序曲では、義人ヨブの信仰をためすためサタンが神の許しを得て数々の厄災をヨブにもたらすこととなった経緯が語られる。財産と家族を奪われ皮膚病に侵されたヨブと三人の友、さらには第四の人物エリフとの激しい応酬、そして最後に神が顕現し<地の基いをわたしがすえたとき君は何処にいたか>と嵐の中からヨブに語りかけ、ヨブが悔い改めることで対話は終結する。終曲では、神の審きの不当を抗議するヨブに対して倫理的応報思想に基づく非難を浴びせた三人の友が退けられ、ヨブに回復がもたらされた経緯が語られる。

<この散文の部分と詩文の部分が一応異質のものであることは、読んでだれもが気づくことであるが、両者の関係は厳密にはどうなのであろうか。
 主として散文で書かれている部分がヨブ記全体のわくをなしていて、三章以下の本論[対話の部分]へと読者を導入し、また最後に全体の結末をつけていることは明らかである。しかし問題は、このわくと本論の内容が必ずしも符号しないことにある。たとえばいちばん著しい点としてわくの部分のヨブは終始敬虔な人として描かれているが、本論の部分のヨブは決してそうではなく、友人たちと烈しく論争し、伝統的な信仰や敬虔を否定するのみでなく、さらに神に向かって抗議し、神に反抗する姿勢すら示していることを指摘しうるのである。
 散文の部分のヨブが伝統的なヨブについての伝承をもとにして書かれていることは今日否定する人はいない。(略)
 最も決定困難な問題は古い伝承を伝えていると思われるこのわくの部分に本論の詩人がどの程度に手を加えているかである。(略)わくの部分に民間伝承的な特長、口碑的な文体、童話的な描写が多く出てくる一方、その思想はすでに相当深いものがあり、ヨブは理由なしに神を信じているのかという「敵対者[サーターン]」の提出する問題はすでに本論の主題に応じ、単に民間的とは言えない。他面試練に堪えたヨブに以前に倍する幸福が与えられる終末は本論におけるヨブに与えられた結論とはかなりの開きがあり、民間伝承である。>(関根正雄『ヨブ記註解』教文館1-2頁)

[52]
 文学作品における「わく」と「本文」の問題。──「わく」は物語に通じ「本文」は小説に通じる。前者は超越的なもの(神やカテゴリー)・無時間的(範例的)なものと関係を結び、後者は個体的なもの(人間的なもの)・時間的(歴史的)なものへと結びついていく。

 そして前者における創造主と被造物との関係が後者における作者(小説の無意識)と登場人物との関係に反映している。──あるいは「歴史」は後者にかかわっている。(年代記制作者もしくはインタビュー記録者としての小説家。)

[53]
<僕はいつも思うのだけれど、個人の個体性の奇妙さというのは、あらゆるカテゴリーや一般論を超えている。>(村上春樹「中国行きのスロウ・ボート」)

[54]
<いいですか、僕は条件をつけられる立場にまったく立っていないわけじゃありません。あなたは僕がここで実際に何をやっているか、ずいぶん気になっているはずだ。それがいったい何なのかをまだうまく掴めていないから、そのことであなたは苛立っているのではありませんか?>(村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』第三部新潮文庫304頁)

[55]
 ルネ・ジラールは『邪な人々の昔の道』(小池健男訳,法政大学出版局)で、序曲で語られたサタンの所業への言及が対話のなかで完璧に欠落していることを論拠に、ヨブをおそった不幸の原因は神やサタンに由来するものではなくひたすら人間に由来するものであったと述べている。(ヨブ記の真実は「わく」にではなく「本文」にのみあるということだろう。)

 そしてこの人間に由来する不幸を、『暴力と聖なるもの』以後の著書で展開した理論を踏まえて、群衆の「無意識の模倣[ミメテイスム]」の作用に基づく全員一致の称賛と嫌悪による供犠に由来すると述べている。つまりヨブは共同体の集団リンチにさらされた「身代りの山羊」であったというのだ。そしてルネ・ジラールの議論はヨブに起きた出来事と「受難」との類似と差異にまで及ぶ。彼はヨブのうちにキリストの「予兆」を見ているのである。

<人間のあるグループが、自分たちのグループの集団による暴力を、神聖なものと感知するためには、犠牲者に対して全員一致で、まさにこの全員一致ということから考えてもその犠牲者が無実であることなどもうはっきりとはわからなくなっている犠牲者に対して、暴力を行使することが必要である。>(42頁)

<宗教的なものということばの定義。それはまず、身代りの山羊を前にしたとき、次に儀礼化された過程から生み出されるすべてのものを前にしたとき、しぐさやことばを全員が模倣しあうこと、である。宗教的なものとは、文化そのものである。ヨブの全存在が、彼の文化的な世界のなかに、どっぷりとつかっている。一族の人々から選ばれた彼は、当然神から選ばれたと思いこんでいたし、人々が自分を呪うようになれば、その日から自分は神に呪われたと思いこむ。>(195-6頁)

<「対話」を正しく解釈するためには、すでに言ったことではあるが、迫害者たちに対抗して、犠牲者の方を選ばなければならない。犠牲者と一体化し、犠牲者の言うことを真実ととらなければならない……。われわれの場合もそうであったように『ヨブの書』はまだ十分にヨブの嘆きを人々に理解させるには至っていない。つまりありとあらゆることが、われわれを決定的にテクストから引き離し、テクストを変形し、中性化している。われわれの秘かな共犯によって。
 したがってわれわれには、もう一つのテクストが、何かあるものが、あるいはむしろだれかある人が、われわれのところに助けにきてくれることが必要だ。つまりそれが「受難」のテクストであり、キリストである。そして「受難」とキリストこそ、われわれにヨブを理解させてくれるのである。なぜならキリストは、ヨブが半ばまでしかやりとげないことを、最後までやりとげるからである。>(246-7頁)

[56]
 ルネ・ジラールはヨブの物語とオイディプスの物語との類似について分析したあとで、次のように述べている。

<ヨブの場合はこれとはまったくちがう。ヨブとは、ギリシアの哲学者やその近代の継承者たちのなかでは、まったく考えられない人物である。たとえばオイディプスという名のひとりの男がいて、これが絶対あとには退かぬ男、宿命などは無視して気にもとめぬ男、特に父親殺しや近親相姦などはものともせぬ男だと想像すればよいだろう。神託も、身代りの山羊をこしらえるためのいまわしい罠だ、と頑強に言い張る男だと想像すればよいだろう。神託とは疑いもなくそうしたものだが、この男はすべての人を、古代ギリシア文学研究者[ヘレニスト]たちも、ハイデガーも、フロイトも、そしてその背後のすべての大学教授たちも、敵にまわすことになるだろう。こんな男は、即座に殺してしまうか、精神科の病院に閉じこめて、二度と立ち上がれないように押さえこんでしまう必要があるだろう。
 こうなれば西欧文明やそのなかから生まれた文学の問題は、ほとんど収拾がつかなくなるだろう。カタルシスはその効能を失い、あらゆる種類の崇高なものも、同時に解体されてしまう。悲劇の見事な形式、そのすばらしい形式には、もう均衡が見られなくなる。示すべき結末がなくなる。これは今日われわれがまさに目のあたりにしている光景である。なぜならそうした形式は、もう崩れてしまっているからである。供犠という策略も種切れになっている。だがこんな状況に立ち至るまでには、どれほど多くの時間を要したことだろう!>(69-70頁)


【136】無意識をめぐる冒険・第二部(その10)

[57]
<彼が地の基を定め給えるとき、/我[ソフィア]は愛し子となりてその傍らにあり、/日々に喜びたり……。>(『箴言』第八章二九-三〇節──C.G.ユング『ヨブへの答え』(林道義訳,みすず書房)32頁からの引用)

[58]
 『ヨブ記』は旧約聖書の分類では智恵文学に属する作品である。ここでいう智恵はヘブライ語で「ホクマー」、原典が失われギリシア語訳のみ残っている外典『シラ書(集会の書)』では「ソフィア」と訳されている。

<捕囚期以後、原始キリスト教の成立までには約六百年の歴史がある。この時代に旧約精神史の中心主題になったのは、いわゆる智恵文学と黙示文学である。両者は同じ時期に現われたばかりでなく、人間性の深層心理学的考察という観点からみると、表裏一体ともいうべき関係にある。「黙示」(アポカリプシス、覆いをとる意味)とは、神が人間に対して霊的世界の秘密を開き示すことであるが、具体的な経験としては、深層領域から発現してくる幻視体験を指している。また「智恵」(ホクマー)とは、そういう神との霊的つながりにおいて成り立つ世界の新しい認識を意味する。>(湯浅泰雄『ユングとキリスト教』講談社学術文庫156頁)

[59]
 湯浅泰雄氏によれば「ホクマー」は古代オリエント文明の中で蓄積された学問的知識の体系にさかのぼる概念であり、しだいに人生の智恵(人間社会において正しく身を処するための方法)という性格を帯びるようになった。そしてそこには律法(トーラー)と同じ倫理的応報主義の考えが流れている。(前掲書156-7頁)

 またヘレニズム時代のギリシア哲学でいう「ソフィア」は、学問的な「知識」(エピステーメー)と区別された神秘的霊的な認識を意味する傾向がみられる。ホクマーは女性名詞であり、ソフィアもギリシアではしばしば女性的存在として人格化される傾向があった。(前掲書162頁)

 そして『箴言』(第八章二二-三一節)において、「智恵」は<主なる神の世界創成に先立って、太初に、神と共にあった女性的な人格的存在>とみなされている。(前掲書161頁)

[60]
 ユングは『ヨブへの答え』(林道義訳,みすず書房)で、『ヨブ記』において生じた「大事件」(13頁)とは神がヨブに敗北を喫したことであると述べている。ヨブが神より道徳的に上に立ち、この点で被造物が創造主を追い越した(68頁)というのである。

<これまでヤーヴェの前にいたのは、無に等しい人間だけであった。しかし『ヨブ記』のドラマによって状況が根底から変わる。ここでヤーヴェは強情な人間に出会う。この者は自らの義をどこまでも主張し、そのためについには野蛮な力をもって屈服させねばならない。彼は神の顔を、そして神の無意識の矛盾を、見てしまったのである。神が認識されたのである。>(56頁)

 ヨブによって凌駕された神は新しく生まれ変わり自らを客観化しようする。つまり人間になろうとする。そのとき神が思い起こしたのが、天地創造に立ち合い神の思念を現実化した女性的存在「ソフィア」である。

  <外的な出来事が無意識の知に触れるときにはいつでもそうであるが、無意識の知が意識化されることがある。[その場合には]その出来事は《既視》のものとして認識され、それについて予め存在していた知が思い起こされる。この種のことがヤーヴェに起こったにちがいない。ヨブの優位はもはや覆すことのできないものである。その優位によって今や熟慮や反省を本当に必要とする状況が生まれた。それだからこそソフィアが手を貸すのである。彼女は必要な自覚を援助し、それによってヤーヴェが自ら人間になろうとする決断を可能にする。こうして重大な結果をもたらす決断がなされる。つまり彼は以前の幼稚な意識状態を越えて高まるのである。なぜなら彼は人間ヨブが彼より道徳的に優れていることを、それゆえ彼が人間の状態にまで追いつかなければならないことを、間接的に認めているからである。>(68-9頁)

 かくして処女マリアが<来たるべき神の誕生の清らかな器>(58頁)として選ばれる。マリアは無原罪の受胎という特権を認められた特別な存在であり、そのために原罪の汚れから免れている。マリアは<神の花嫁として彼女の原型であるソフィアの生まれ変わり>(59頁)なのである。

[61]
<良いニュースは小さな声で語られる。>(村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』第二部新潮文庫355頁)

[62]
 中沢新一『東方的』(せりか書房)から。

<(略)私はソフィアとマリアの、ふたりの霊的な姉妹の運命について、考えた。ソフィアは宇宙全体を巻き込みながら全体運動をつづける、完全なる高次元の叡知体をしめしている。彼女の中では、物質と意識のプロセスは、本質的なちがいをもっていない。物質のプロセスも、物質的生命の中にやどる意識のプロセスも、そのふたつをともどもに巻き込む高次元の実在のしめす、表情のちがうふたつの「顔(ペルソナ)」にほかならないのだ。彼女は、この宇宙が空間としてつくりだされる、その発生の現場を知っている。その空間が物質を生成し、その中から生命が発生してくるプロセスのことも、ソフィアはよく知りぬいているのだ。(略)ローマから西の世界では、このソフィアをまるごと受け入れ、彼女の世界をのぞきこもうとする探究者は、つねに少数者でしかなかったのである。
 そのかわり、西方が好んだのは、妹であるマリアのほうだった。このマリアという女性の中には、姉であるソフィア(もちろんスピリチュアルな姉、という意味だ)の知らない、ひとつの裂け目がかかえこまれている。彼女はいっぽうでは、姉と同じような霊的な叡知をやどした存在だ。しかし、彼女は産む女として物質化された生命のプロセスをも、自分の体内にかかえこんでいる。しかも、そのふたつのプロセスは、彼女の中にあっては、たえずマニ教的な二元論の力によって、分離させられていく危険をはらんでいるのだ。霊性と物質。聖と俗。このふたつのレベルをつなぎとめているのは、全体運動をつづけるソフィアの働きではなく、神の「恩寵」の不可思議な力にほかならないと、考えられた(西欧思想の原型をかたちづくった聖アウグスティヌスに、そういう考えをみることができる)。たえず分離への危険をはらんだ統一としてのマリア。西方の世界がこのマリアを選びとったとき、「歴史」への運動は開始されたのである。
 人間の内面の統一は破られた。聖と俗との分離が進行した。合理論的・システム論的な思考の全面的な展開が、許されるようになった。一切の富と権力(パワー)は、空間の中を自己拡張していくようになった。信仰は、合理主義を批判しつづけた。しかし、それをおこなうのに、宗教は叡知ではなく、恩寵のジャンプをもとめる情動主義や神秘主義によるのりこえを試みては、そのたびに手ひどい失敗をあじわった。ここには、極端なかたちの合理主義と極端な非合理主義が、ほとんど同じ場所から発生することができるのである。科学技術文明と近代の資本主義の母、それは西方に向かったマリアなのかも知れない。>(9-11頁)


【137】無意識をめぐる冒険・第二部(その11)

[63]
 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』に加納マルタと加納クレタの姉妹が登場する。(ただし第三部ではそれぞれ「僕」の夢の中で一度だけ登場する。)──姉のマルタには幼少の頃から超自然的な霊能力(予知能力)が備わっていた。彼女は「水」に対して深い関心を寄せ、ハワイのカウアイの奥に出る水を体内に入れることでその肉体と能力とを「より融和させる」ことができたという。そしてより完全な水を求めて最後にたどり着いたのがマルタ島であった。

 妹のクレタは幼少の頃からあらゆる「痛み」に取りつかれていた。それは純粋に肉体的な痛みだった。姉の助言に従って二十歳になるまで苦痛に耐えたクレタは、自殺に失敗したことを契機に痛みから解放され無感覚の中に生きることになる。その後「肉体の娼婦」になった彼女は、綿谷ノボル(「僕」の義兄・クミコの兄)によって再び痛みとそして生まれて初めての理不尽なほどの性的快感を与えられ、<ぱっくりとふたつに裂けた自分の肉の中から……まるで生まれたての赤ん坊のようにぬるぬるしたもの>を抜き取られる。(『ねじまき鳥クロニクル』第二部新潮文庫238頁)

 そして三年間にわたるマルタ島での修行を終え帰国した姉によってクレタという名を与えられた彼女は、マルタの霊媒として、肉と精神を分離する方法を学び「僕」と夢の中で交わる(意識の娼婦)。最後に彼女は「僕」と肉体的に交わることによって名前を失い、クレタ島に向かって一人旅立つ。

(『ねじまき鳥クロニクル』第二部の末尾でクレタは「良いニュースは小さな声で語られるのです」と啓示(福音)の訪れを「僕」に告知し、第三部で「僕」の夢の中に出てきたクレタは、自分は実はクレタ島にはいかず日本で子供を生み、いまは間宮中尉と一緒に野菜を作りながら平和に暮らしているのだと語る。彼女が生んだ子供の名は「コルシカ」で、その半分の父親は「僕」であと半分は間宮中尉なのだという。)

[64]
 マルタは霊的存在(ソフィア)であり、クレタは霊肉に裂かれた存在(マリア)である。

 マルタは水(精霊)によって物質と意識を結びつけ、未来的なもののうちを──電話の中の「声」のように、あるいはコンピュータ画面上の「文字」のように──浮遊する。クレタは「ローズマリー」のように悪魔の赤ん坊を生まされ「マリア」のように──「歴史」を──処女懐胎する。(そうすると綿谷ノボルとは悪魔だったのだろうか。)

[65]
 加納マルタと加納クレタの姉妹そして作品には一切登場しない彼女たちの兄が、それぞれ自殺したクミコの姉と「僕」の元を去ったクミコとそして彼女たちの兄である綿谷ノボルに対応させられていることはみやすい。

 たとえばクレタはクミコの「影」(あるいは可能世界におけるクミコ)であるといっていいだろう。実際「僕」は作品の最後で「もし僕とクミコとのあいだに子供が生まれたら、コルシカという名前にしようと思っているんだ」と笠原メイに語っているのである。(しかしそうすると綿谷ノボルの「影」はいったい誰なのだろう。「顔のない男」がそうなのだろうか。)

[66]
 この兄弟姉妹をめぐる「家族」の物語にクロスするのが、赤坂ナツメグと赤坂シナモンの母と息子の物語である。正確にいうと、息子によって再現される祖父の物語であり、そして息子による「父殺し」の物語である。

 シナモンは母親が語る潜水艦と動物園の話をもとにひとつの「神話体系」を作り上げ(彼が書き続けている物語のタイトルは「ねじまき鳥クロニクル」という)、やがて彼の言葉はその物語のある世界の迷路の中に呑み込まれて消えてしまう。

<その物語から出てきたものが彼の舌を奪って持っていってしまったのよ。そしてそれは、その数年後に私の夫を殺すことになった>(『ねじまき鳥クロニクル』第三部新潮文庫191頁)

[67]
 ユングは、神の新しい息子キリストはソフィアの模像であるマリアの息子として「ロゴス」であり、ロゴスはソフィアと同様に『ヨハネ福音書』にいう創造の工匠[たくみ]であると指摘し、<こうした母と息子の同一性は神話の中でもよく見られるものである>と述べている。

<キリストの誕生は歴史的な一回限りの出来事であるにもかかわらず、しかしそれはいつでも永遠に存在し続けているのである。この種の事柄にうとい人にとっては、無時間的な永遠の出来事と一回限りの出来事とが同一であるという観念はつねにしっくりこないものである。しかし彼は次のような考え方に慣れなければならない。すなわち「時間」とは相対的な概念であって、本来は、あらゆる歴史的な現象がバルドないしプレローマにおいては「同時的に」存在しているという概念によって補われるべきだ、という考え方である。プレローマの中に永遠の「範例」として存在しているのものは、時間の中に非周期的な反復として・すなわち多くの不規則的な繰り返しとして・現われる。>(『ヨブ記』62頁)

*訳注
「バルド」:『チベット死者の書』において、人が死んでから再び生まれ変わるまでの期間を指す。
「プレローマ」:グノーシス主義における霊界、根源的な源初の状態。プレローマは形も音もなく無の状態であるが、永遠であり充溢である。本書では、被造物の世界に対する天界、の意味で使われている。


【138】無意識をめぐる冒険・第二部(その12)

[68]
 シナモンによる「神話体系」は間宮中尉の手記が物語る「実際に起きた出来事」とリンクする。──ここで村上春樹によって語られているのは「歴史」の叙述(再現)をめぐる真実と「想像力」の問題である。

[69]
 間宮中尉は「僕」にあてた手記の中で、ソビエト秘密警察をひきいたベリヤの懐刀ボリスの次の言葉を書き記している。

<いいかマミヤ中尉、この国で生き残る手段はひとつしかない。それは何かを想像しないことだ。想像するロシア人は必ず破滅する。私はもちろん想像なんかしないね。私の仕事はほかの人々に想像をさせることだ。それが私の飯のたねだ。そのことは君もよく覚えておくといい。少なくともここ[ボリスが公然と権力をふるう捕虜収容所]にいるあいだは、何かを想像したくなったら、私の顔を思いだすんだな。そしてこれはいけない、想像するのは命取りだって思うんだよ。これは私の黄金の忠告だ。>(『ねじまき鳥クロニクル』第三部新潮文庫425-6頁)

[70]
 ルネ・ジラールは、全体主義の形成過程と犠牲者ヨブを生み出す過程との最も目立つ共通点の一つは「記憶の消去」であると指摘している。

<「有罪者」の根絶は、全体主義の世界の歴史の操作を思い起こされる。ソビエト連邦では、失脚した指導者は、非・人間化し、その名まえは百科事典や公的な年報などから消えてしまう。>(『邪な人々の昔の道』175頁)

[71]
 そしてシナモンによる父殺しはクミコによる兄の殺害と関連づけられている。──ここで村上春樹によって語られているのは小説における「作者」殺しの物語である。

[72]
 『ねじまき鳥クロニクル』第三部では登場人物がしきりに「存在の異和感」を訴えている。──たとえば笠原メイは自分が実はクミコなのではないかと思い、ナツメグは自分の人生は最初から巧妙に綿密にプログラムされて仕組まれてきたことなのではないかと疑い、ナツメグの父(シナモンの祖父。「僕」と同様顔に青いあざを持つ)は今度こそ自分の意志で決断したと思っても、あとになって考えてみれば実際は外部の力によってあらかじめ「決断させられていた」ことを思い知らされるのが常だった。(ここでいう「外部の力」を行使する者こそが「作者」である。──あるいは創造主。あるいは歴史の叙述者。)

[73]
 そして「僕」がシナモンのコンピュータに向かって綿谷ノボルへの次の通信文を打ち込んだとき、彼は自らが登場する作品の作者(綿谷ノボル)に対して──ヨブのように──挑戦しているのである。

<あなたが僕のことをあっさりと無視してしまいたいという気持ちはわかります。僕となんか取引したくないという気持ちもよくわかります。あなたがあなたの頭で何を考えるかは百パーセントあなたの自由です。僕にはそれを止めることはできない。たしかに僕はあなたの目から見ればゼロに近い存在でしょうからね。でもお気の毒ですが、まったくのゼロというわけじゃありません。あなたは僕なんかよりずっと強い力を持っているでしょう。それは僕も認めます。しかしあなただって夜がくれば眠らなくてはならないし、眠ればかならず夢を見ます。それは僕が保証します。そしてあなたには自分の見る夢を選ぶことができない。そうですね?>(『ねじまき鳥クロニクル』第三部新潮文庫309頁)

[74]
 『ねじまき鳥クロニクル』は第一部と第二部が「本文」であり第三部が「わく」である。そして第三部には二人の「作者」がいて、両者は物語の(世界と歴史の)主導権を争って熾烈な戦いを展開している。──綿谷ノボルと赤坂シナモン。

 共通プリンシプル(世界共通精神言語)が切実に必要とされる現代の危機をもたらしたのが共通プリンシプルの喪失消滅そのものであるという「致死的なパラドックス」を説く政治家綿谷ノボルと、測り知れない人間の深さをもち、歴史の事実(彼は何をしたか)ではなく真実(何をしたはずか)を再創造する年代記作者赤坂シナモン。──両者は「僕」を媒介としてつながっている。

<僕はこのあざによって、シナモンの祖父(ナツメグの父)と結びついている。シナモンの祖父と間宮中尉は、新京という街で結びついている。間宮中尉と占い師の本田さんは満州と蒙古の国境における特殊任務で結びついて、僕とクミコは本田さんを綿谷ノボルの家から紹介された。そして僕と間宮中尉は井戸の底によって結びついている。間宮中尉の井戸はモンゴルにあり、僕の井戸はこの屋敷の庭にある。ここにはかつて中国派遣軍の指揮官が住んでいた。すべては輪のように繋がり、その輪の中心にあるのは戦前の満州であり、中国大陸であり、昭和十四年のノモンハンでの戦争だった。でもどうして僕とクミコがそのような歴史の因縁の中に引き込まれて行くことになったのか、僕には理解できない。それらはみんな僕やクミコが生まれるずっと前に起こったことなのだ。>(『ねじまき鳥クロニクル』第三部新潮文庫285-6頁)

[75]
 そして井戸の中からの「壁抜け」を果たした「僕」は二人の「物語作者」の支配圏から脱出する。(「わく」からの逃走。)──ほんとうの「歴史」を語ることができる場所へ向かって?

<僕らは若かったし、予言を必要とはしなかった。生きていくこと自体が予言行為のようなものだった。>(『ねじまき鳥クロニクル』第三部新潮文庫475頁)

[76]
 それでは小説として書かれた『ねじまき鳥クロニクル』の本当の作者は誰だろう。もちろんそれは村上春樹だ。──これから先は推測にすぎないのだが、『ねじまき鳥クロニクル』の第一部と第二部を書き終えたとき、村上の頭の中には第三部のプログラムは存在していなかったに違いない。(そしてそれは加納マルタの「予知能力」をすりぬけるための戦略でもあったに違いない。)

 もちろん第三部で重要な役割を担う赤坂ナツメグはあらかじめ通行人として登場していたし、その他多くの伏線を指摘することもできる。しかし赤坂ナツメグの登場は、「本文」を書き終えた作者が「わく」をこしらえる際に「本文」から不当に借用した唐突さを免れてはいない。

 あるいは第一部と第二部での綿谷ノボルは村上の過去の作品に出てきた「僕の影」のバリエーションであり、本来「悪」の系譜に属する登場人物であったといっていい。しかし第三部での綿谷ノボルはもはや登場人物の一人ではなく、物語の背後で力を行使する(あるいは行使しようとする)存在になっている。そして彼は赤坂シナモンとの間であたかも旧約の神とキリストとのそれを思わせる関係を取り結ぶのだが、そこでは「悪」を担う存在としてむしろシナモン(疑似キリスト)の方がはるかに魅力的に描かれている。

 いずれにせよ『ねじまき鳥クロニクル』第一部・第二部とその第三部との間には裂け目がある。(そして笠原メイの存在が両者をつないでいる。)


【139】無意識をめぐる冒険・第二部(その13)

[77]
 魔術師シモン(『新約聖書』使徒行伝八章)と赤坂シナモン(『ねじまき鳥クロニクル』第三部)。──シモンは初期キリスト教におけるグノーシス主義者と目されている。

[78]
 中沢新一氏は『リアルであること』(メタローグ)で、思想における二十世紀はグノーシスの時代であったと書いている。

 中沢氏によれば、ヘーゲルであれマルクスであれハイデッガーであれ二十世紀の人類にもっとも大きな影響をあたえた思想の大半は「ドイツ・イデオロギー」を母体として生まれたものなのだが、このドイツ思想の「家族的遺伝形質」を形成したのが徹底した二元論を特徴とするグノーシスの思想だったのである。

<もしも、創造の神がみずからのプランにしたがって、世界をこのようなものとして創造したのだとすると、その創造の神とは邪悪を本質とした、偽物の神、悪の神ではないのだろうか。真実の神は、人間の生きている世界からは、隠されている。その神は宇宙の創造には、いささかもタッチしたことがなく、この宇宙のどこにも所属していない。人間は叡知(グノーシス)によって、それを理解しなければならない。それを知って、悪の神によって創造されたこの世界を否定し、そこから、抜け出すことを試みなければならない。
 このような二元論の考え方を、グノーシスは徹底的に追及しようとした。そのために、それはキリスト教会最大の敵となった。>(80頁)

 中沢氏によれば、宇宙が「実在世界」とそこからは「隠されてある世界」の二つの異質な原理でできているとするグノーシス主義的な二元論を近代において主張したのが「唯物論」である。

<弁証法的唯物論では、人間の理性が数学としてとりだす、科学のとらえる物質的世界の背後に、無限の深さと複雑さをもつ、もうひとつの「物質」を認めようとしていた。>(131頁)

[79]
 中沢氏は同書「あとがき」で次のように書いている。<私はこれらの文章を書きながら、どうやって表現のシンプルさの裏に、複雑さを隠すことができるか、そのための訓練をおこなっていたように思える。>

 私はそれらの文章を読みながら、どうやって善のシンプルさの裏に隠された悪の複雑さ(悪の根源性とそのリアリティ)を開示するか、つまり未来の歴史を叙述する文体の可能性の模索を読みとろうとしたように思える。

[80]
 グノーシス主義における二元論について。湯浅泰雄『ユングとキリスト教』(講談社学術文庫)から。──湯浅氏によれば<グノーシス主義は、原始キリスト教時代からアウグスチヌスによる古代キリスト教神学の完成に至るまで、キリスト教思想の周辺にあって強い影響を及ぼし続けた思想の流れ>(208頁)であり、この「異端」的というよりは「異教」的というべき<グノーシス主義の流れは西洋精神史の異端的底層流の出発点をなすものであり、その後も長く西洋精神史の影の部分を形成してゆくのである>(21頁)。

<ユングの解釈に従えば、原始キリスト教の人間観は霊肉の一致を主張するものであり、グノーシス主義の人間観はこの流れをくむものである。こういう解釈は、グノーシス主義を霊肉二元論の極端化と解釈する神学者の古い見方とは正反対である。どうしてこういう正反対の解釈が出てくるのであろうか。ここには宇宙観と人間観の関係に関する厄介な問題がある。グノーシス主義者は、宇宙論においては感覚界と心霊界を分つ二元論(厳密にいえば三世界論)をとっている。キリストは本来アイオーン界[永遠な霊的生命[プノイマ]の充溢した究極最高の世界で、グノーシス神話の宇宙観によれば、その下方に心魂(プシュケー)から成る中間界と肉(サルタス)・物質(ソーマ)から成る物質界がある。]に属する存在であって、肉のイエスはロゴスの影にすぎない。この点から言えば、彼らの論理はたしかに霊肉二元論の極端化であり、キリストの肉体に本質的意味を認めない仮現説 Docetism の先駆であるとも言える。しかしグノーシス主義の宇宙論には、先にも言ったように、新プラトン的汎神論につながる「流出[エマナチオ]」の考え方がつよい。この流出論理から言うと、霊的次元と物質的次元とは、光から次第に闇へと移行してゆくようにゆるやかに相互浸透し合っている。彼らが霊の世界と肉の世界の間に、両方の要素が入り混った中間界を設定したのもそのためである。肉体の底に霊性の種子が宿っているという彼らの人間観は、その意味において、肉を罪の源泉とする後のキリスト教の正統教義とは異なった人間観に向う萌芽をはらんでいる。キリスト教の正統教義学はやがて宇宙論から流出論的な汎神論の要素をぬぐい去り、人格神による「無からの創造」という唯一神の観念に達する。これによって神は、被造物としての宇宙と人間をこえた絶対的超越者となってゆく。同時に、神性と人間性は全く断絶する。そのとき人間の身体性は超越的な神性とは全く無関係になってしまうから、身体はもはや何の価値も認められなくなるであろう。それはただ、罪の源泉としての単なる「肉」でしかなくなるのである。この点からみると、神学者の古い解釈とは逆に、正統教義学は霊肉分離的人間観の方向に向うものであり、これに対してグノーシス思想の流れは霊肉一致の人間観に向うものであったと解釈されるのである。>(224-5頁)

[81]
 錬金術師たちの「賢者の石」(lapis philosophorum )。──<「石[ラピス]]とは、粗大な物質の中に閉じこめられた霊的存在、霊妙な一種独特の霊的物質ともいうべきものであった。これを抽出することは、「物質」の中に潜在しているその「霊性」を救済することを意味する。したがってそれは、肉的身体の中に閉じこめられた霊魂を救済しようとする神のわざに類比される。>(湯浅前掲書353頁)

[82]
 悪を「善の欠如」と説明するキリスト教正統教義学に対して、グノーシス主義では悪は善と対抗しながらこれと一体化して世界を動かしている実体的な力である。ユングは、このような善と悪の根源をともに人間をこえた神的な力に帰するグノーシス思想は人間の本性に対する一つの洞察を示しているものとみた。──以下、湯浅氏によるその紹介。

<心理学的にみた人間の本性においては、精神と肉対(物質)、したがってまた合理性と情緒性は一体不可分の関係にある。グノーシス思想はこの関係を神話的に投影して、善神と悪神、あるいはキリストと反キリスト(悪魔)を一体不可分の関係にあるものとしてとらえたのである。神話的表象としての悪神・悪魔は、深層心理学的に言えば人間性の「影」の部分、すなわち肉体と結びついた無意識領域の衝動が投影され、実体化されたものである。言いかえれば人間の本性は、善と悪、精神性と物質性、神性と悪魔性の結合において存在しているのである。このような視点に立ってみると、グノーシス的人間観が深層心理学の見方と深くつながっているのに対して、教父哲学における「善の欠如」という命題は、人間の肉体性や無意識過程の諸問題を倫理学の体系から、したがってまた人間性の本質から論理的に排除してゆく傾向をもつものであったと言えるであろう。>(湯浅前掲書257-8頁)

[83]
<グノーシス主義によって発せられた「悪はいずこより来るか」という古い問いは、キリスト教世界では答えられていない。>(ユング『自伝2』河合他訳,みすず書房182頁)


【140】無意識をめぐる冒険・第二部(その14)

[84]
 キリスト教正統教義学の三つのテーゼ。「善の欠如」「無からの創造」「三位一体論」。──そしてそのいずれにもキリスト教的グノーシス主義者クレメンスの弟子、東方教会の神学の確立者にして「あらゆる異端の源泉」オリゲネス(185頃〜254頃)が関与している。

[85]
 村上春樹は「アトス──神様のリアル・ワールド」(『雨天炎天』新潮文庫所収)で、ギリシア正教の修道院での真夜中の礼拝を「覗き見」したときの体験を記している。

<僕は宗教全般についてそれほど多くの知識を持つ人間ではない。でも個人的な感想を述べるなら、ギリシャ正教という宗教にはどことなくセオリーを越えた東方的な凄味が感じられる場合があるような気がする。[略]そこにはたしかに、僕らの理性では捌ききれない力学が存在しているように感じられる。ヨーロッパと小アジアが歴史の根本で折れ合ったような、根源的なダイナミズム。それは形而上的な世界観というよりは、もっと神秘的な土俗的な肉体性を備えているように感じられる。もっとつっこんで言えば、キリストという謎に満ちた人間の小アジア的不気味さをもっともダイレクトに受け継いでいるのがギリシャ正教ではないかとさえ思う。>(51頁)

[86]
 善の系譜と悪の系譜。──湯浅泰雄『ユングとキリスト教』講談社学術文庫版への関根清三氏の「解説」を参考に。

◯善=日常的自我意識=精神=正統(表面流)=論理的男性的なもの(義)
◯悪=非日常的無意識=肉体=異端(底層流)=情緒的女性的なもの(エロス)

[87]
<ユングのえがく精神史[西洋精神史の異端的底層流=影の精神史]は、いわば死者たちの鎮魂のための精神史である。>(湯浅前掲書366頁)

[88]
 上山安敏氏は『魔女とキリスト教』(講談社学術文庫)で、キリスト教は女性の聖性という問題に苦しみ抜いた宗教であると書いている。

<キリスト教は地中海世界の人びとの心をとらえていた太母神信仰をマリア崇拝に変容させ、そうすることによって母性宗教を裏口から受け入れた。太母神から恐怖とエロスを抜きとり、慈愛と清純の母性像をつくりあげた。マリアの非原罪(処女懐胎)の教えはそのために必要であった。それにもかかわらず、キリスト教にしみついている女性嫌悪[ミソギニー]の性格は拭い切れなかった。キリスト教は女性祭司を認可するかどうかという問題をつねにかかえている。キリスト教が女性宗教との闘争から布教を始めなければならなかったという歴史の運命は大きい意味をもっている。ここから出発しなければ、魔女の問題もフェミニズムの問題も解かれないのではないか。>(15頁)

[89]
 村上春樹の長編小説に登場する「魔女」の系譜。

◯ジェイズ・バーで倒れていた左手が4本しかない女。(『風の歌を聴け』)
◯双子の女の子「208」と「209」。(『1973年のピンボール』)
◯耳のモデル=キキ。(『羊をめぐる冒険』)
◯ピンクのスーツを着た若くて美しくて太った女。(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)
◯虚言症の少女とレイコさん。緑。(『ノルウェイの森』)
◯アメとユキの母娘。(『ダンス・ダンス・ダンス』)
◯島本さん=イズミ?(『国境の南、太陽の西』)
◯笠原メイと彼女が語る六本の指と四つの乳房をもつ女の子。加納マルタとクレタの姉妹。赤坂ナツメグとシナモンの母と息子。(『ねじまき鳥クロニクル』)

[90]
 悪の論点集。──中村雄二郎『悪の哲学ノート』(岩波書店)から。

(1) さかしま、捻じれ、カオス。
(2) きたなさ、穢れ、醜さ。
(3) 妖怪、悪鬼、悪魔。毒物、病原菌、毒虫。
(4) 暴力、権力、破壊、侵犯、残酷。不正、犯罪、差別、裏切り、嘘、憎しみ。
(5) 痛み、苦しみ、病、死。ガン、エイズ。

[91]
 悪の定義集。──中村雄二郎『悪の哲学ノート』から。

◯生命的なものの否定。(中村)
◯それに対して闘うべきもの。存在しているものだが、存在すべからざるもの。なぜ存在するのか言えぬもの。非・当為存在。(リクール「悪の躓き」)
◯一種の魅力を持った、あるべからざる、現実的な現象。(中村)
◯関係の解体。(スピノザ『エティカ』第4部定理39)
◯存在の過剰。(シオラン『悪しき造物主』)
◯他を魅惑すると同時に他に感染するという二重の特権をもつもの。(中村)
◯<存在に伴う悪、観念論哲学における質料の悪は、存在することの禍悪となる。>(レヴィナス『実存から実存者へ』西谷修訳)

[92]
 ポール・リクールは『悪の神話』(一戸とおる・佐々木陽太郎・竹沢尚一郎訳,渓声社)で、悪の起源と終焉に関する神話の四つの範型を示している。

1.創造のドラマ。──神がその「世界創造」(=救済)を通して闘いを交える「カオス」が悪の起源である。
2.始源の人間の「過ち」の神話。──創造を終えた世界に生じる「墜罪」という非合理的な出来事によって悪の起源が語られる。悪の起源は「人間」である。
3.悲劇的範型。──邪悪な神がひとを誘惑し盲目にしさすらわせる。彼は過ちを犯してはいないが有罪である。(第一と第二の範型の中間。ホメロスの世界。)
4.追放された魂の神話。──人間を魂と身体に分割し魂の行く末に関心を絞る「孤立した神話」。「哲学よりは古いが発見されていない神話」(オルペウス教の昔のことば)。

[93]
 上山安敏氏は『フロイトとユング』(岩波書店)で、フロイトの精神分析の誕生にとって「悪魔学」は意外と思われるほどの大きい意味をもったと指摘している。

<フロイトは、バハオーフェンの母権制のシェーマをそのままの形で認めなかった。彼は文明の発達の過程では、母権制の前に、原始的な家父長の専制主義があることが、フロイトの仮説からは欠くことができなかった。大胆な発想をお許し願えれば、ユングが影や太母の神話類型を、ヨーロッパのキリスト教によって忘却されている異教とアジア・アフリカにまたがる非ヨーロッパの神話学から求めたのに対して、ギリシャ神話とユダヤ=キリスト教の、父権制の支配する神話に核心を求めたフロイトは、ユダヤ=キリスト教の一神教の中に影と瞑府の世界を見出さなければならなかった。その突破口は神と悪魔のアンビヴァレンツの思考である。だからこそフロイトはセム族の神話と中世のキリスト教会の体制の学である悪魔学の中に母権的イメージを求めたのである。>(216頁)


【141】無意識をめぐる冒険・第二部(その15)

[94]
 小浜逸郎氏は『無意識はどこにあるのか』(洋泉社)で、フロイトによって──とりわけその「抑圧論」によって──叙述された「実体論的な無意識概念」の批判的読み替えを通して、<ありのままのこの生の現在に寄り添う「無意識」を語る方法>(66頁)をめぐる──<個体の心身論と、人間関係論を合わせ含むような、基礎的・原理的な>(7頁)──考察を加えている。

 小浜氏は、<無意識は同時性においてその主体の意識の対象とならないからこそ無意識なのである>(270頁)という。というのも、論理的にいって<無意識と呼ばれるものが実際にあらわれる場合、それは常に意識に寄り添うかたちで、ある意識に気づかれるという仕方であらわれる>からであり、その意味で<無意識とは、どこまでも意識的な事件であり、意識自身が自分を越えたものを意識させられるという現象である>(147頁)からだ。

<無意識は、「後の」または「他者の」意識によって無意識として「気づかれる」ことで初めて意識のなかで存在を許される。それは現にそれが働いていたと見なされる時点においては、主体にとってそれをそれとして措定することが原理的に不可能なのである。>(151頁)

 このような議論を経て小浜氏は、<無意識とは、現在の実存の断面における、意識性を越えたすべての自己関係性のあり方に対する一般的な命名と考えるべきなのである>(184頁)とし、この自己関係性のあり方を条件づけるものとして──そして無意識を構成する条件として(224頁)──「他者性」「身体性」「時間性」の三つの概念を抽出している。

<他者と身体と時間は、人間がそれとともに生きており、それを生きており、それによって生かされていながら、まさにそのためにそれについて究極的には意識の把握をはみ出すような生存条件である。それらの存在にあまりに馴染んでいるがゆえに、それらの存在性格を自体的に意識化できないというこのあり方が、私たちの意識の本質を、不安という様式で染め上げている。言いかえると、意識が不安そのものであるという事実は、私たちの生きられる無意識が、これらの三つの馴染み深い生存条件をその欠くことのできない内包としている事実と呼応しているのである。>(185頁)

[95]
 以下『無意識はどこにあるのか』第四章で小浜氏は、主として他者性と時間性の軸を中心に<「無意識」が人間の具体的な生を支えているあり方>(268頁)を論じている。(記憶の問題をはじめとする時間性としての無意識の問題は、いずれ書かれるべき後書に委ねられている。)

 そこではいくつかの興味深い議論が展開されているのだが、そのうち身体をめぐる考察──外部世界との「遠距離的な関係」における知覚や運動にかかわる身体の根源的な無意識性(メルロ=ポンティ)に対して、<身体が外界との接触面で快楽や苦痛の受容器であったり、情念の座であったり、自覚されない臓器的活動を通じてたえず存在の根底的な基盤である安定性や、意識の「浮遊性」や「超越性」をかたち作っていたりする側面>(231頁)に着目した身体論、とりわけ三木成夫の「臓器的」身体論と浜田寿美男の発達論的身体論を踏まえた「臓器としての無意識」という考え方──が刺激的であったことだけを記録しておこう。

 そして『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(第25章)で「博士」が語る三つの思考回路の話──表層の回路、像(イメージ)ならぬ「象工場」ともいうべき深層の回路、そして人工的に外挿された第三の回路(世界の終り)──が連想されたという(個人的な)記録を書き添えておこう。

 ついでに、ベンヤミンが『パサージュ論』で次のように書いていたことも。<個人の内面には臓器感覚、つまり病気だとか健康だという感じがあるように、集団の内部には建築やモード、いやそれどころか、空模様さえも含まれている。そして、無意識の不定形な夢の形象のうちにとどまっているかぎり、それらは消化過程や呼吸などとまったく同じ自然過程なのである。>

[96]
 小浜氏がいうように無意識とは「後の」意識によって無意識として気づかれるものなのだとしたら、歴史家の仕事とはまさに過去の無意識を叙述することにほかならないだろう。

 ピーター・ゲイは『歴史学と精神分析』(成田篤彦・森泉弘次訳,岩波書店)で、十八世紀の啓蒙思想家がその歴史的著作をとおして主張したあらゆる時代と文明を通じて作用している「人間性」と称する至高の虚構に対して、ランケを中心とする十九世紀の「歴史主義学派」が徹底的な批判を加えたことをめぐって次のように述べている。(ゲイによれば、この「思想的父殺し」ともいうべき啓蒙主義歴史家に対する弾劾は、今世紀にも引き継がれている。<(オルテガを思い出して言えば)人間には本性など存在しない。あるのは歴史なのである。>(103頁))

<本質において歴史主義の体系はランケの有名な言葉、「あらゆる時代は神と直接触れている」への注解である。ランケの言わんとした真意は、歴史家はそれぞれ時代や事件を複製不可能なものとして扱い、後世という有利な立場から評価を下すのではなく、あたかもそれらがみずから自己評価するであろうと思われるやり方で評価しなければならないということである。皮肉なことに、ほかならぬマイネッケ[歴史主義史観に基づく規範的歴史書『歴史主義の成立』(1936)の著者]が、肝腎な時に、得意の余りこの勧告に背いてしまった。彼は、みずから到達したと満足げに公言している「理解の至高の高み」から、啓蒙主義者たちをほとんど文字通り見下しているのである。結局のところ、啓蒙主義者たちの時代は彼自身の時代ほど神に近接していなかったというわけだ。確かに、マイネッケのこの歴史主義弁護論は、無意識的に、歴史主義がある面ではみずからの約束を果たさなかったことの証拠となっている。というのも、歴史主義者たちは対象との距離と対象への感情移入を彼らの最高原理にまつり上げたが、彼らは自由勝手にこれに背いたのである。>(103-4頁)

 ゲイ自身は次のように述べている。<人間性にはそれ自身の歴史がある。変化とは、一貫して流れていながらしばしば捉え難い主題にもとづいて演ずる一組の微妙な変奏曲なのである。>(107頁)


【142】無意識をめぐる冒険・第二部(その16)

[97]補遺1
 村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』にカフカとユングの名前が出てくる。──この作品は『羊をめぐる冒険』で「僕」を「鼠」のもとに導いた耳のモデル兼高級コールガール兼アルバイトの校正係の女の子(キキ)の行方を追うガール・チェイス・ストーリーで、その物語の「本流」に登場するのが「僕」の中学時代の級友にして映画俳優の五反田君だ。

 カフカの名前が出てくるのは、五反田君が呼んで「僕」が寝たゴージャスなコールガールのユキ(キキの友人)が殺された翌日、漁師のように日焼けした年配の刑事と一昔前の文学青年みたいな若い刑事の二人連れに任意同行を求められ、昨日の夜夕食を食べてから何をしていたと問われ、ずっと『審判』を呼んでいたと答える場面である。

<僕はカフカの小説のあらすじを漁師[年配の刑事]に説明してやったが、その内容はあまり彼の興味を引かなかったようだ。そのストーリーは彼にとってあまりにも日常的すぎたのかもしれない。フランツ・カフカの小説は果たして二十一世紀まで生き残れるだろうか、とふと僕は心配になった。いずれにせよ、彼は「審判」のあらすじまで書類に書きつけた。どうしてそんなことをいちいち聞いて書類にしなくてはならないのか、僕には全然理解できなかった。実にフランツ・カフカ的だ。>(講談社文庫上巻320頁)

 ユングの名前が出てくるのは物語のラスト近く、五反田君と一緒にビールを飲みピッツァを食べながら最後の会話を交す場面で、「僕」が「どうしてキキを殺したの?」と訊ねる直前の五反田君の科白の中でのことである。

<三日前からずっとピッツァが食べたかったんだ。ピッツァの夢まで見たよ。オーブンの中でね、じりじりと音をたててピッツァが焼けているんだ。夢の中で僕はただじっとそれを見ている。ただそれだけの夢。始めもないし、終わりもない。ユングだったらどう解釈するだろう? 僕だったら『僕はピッツァが食べたいんだ』と解釈するけどね。さて、僕に何の話があるのかな?>(下巻286頁)

 いずれも『ダンス・ダンス・ダンス』に特有な(そしておそらく「高度資本主義社会」における「表現」の問題を念頭においた作者の方法意識にのっとった)表層をすべっていくような文体のうちに貼りつけられた言葉にすぎないのだから、これらの引用を必要以上に深読みすべきではない。

 ただ「実質的に」キキを殺したという五反田君の述懐は気になるところだ。──「でも何故君がキキを殺すんだ? 意味がないじゃないか?」と「僕」に問われて五反田君は「わからない」と答える。

<たぶんある種の自己破壊本能だろう。僕には昔からそういうのがあるんだ。一種のストレスだよ。自分自身と、僕が演じている自分自身とのギャップがあるところまで開くと、よくそういうことが起きるんだ。僕はそのギャップをこの目で実際に見ることができるんだ。まるで地震でできた地割れみたいにね。ぽっかりとそれが開いているんだ。深くて、暗い穴だ。目が眩みそうに深い。そしてそうなると、何かを無意識に破壊してしまうんだ。>(292頁)

<何故僕が彼女を殺さなくちゃいけない? でも殺したんだよ、この手で。殺意なんてなかった。僕は自分の影を殺すみたいに彼女を絞め殺したんだ。僕は彼女を絞めてるあいだ、これは僕の影なんだと思っていた。この影を殺せば僕は上手くいくんだと思っていた。でもそれは僕の影じゃなかった。キキだった。でもそれは闇の世界で起こったんだ。こことは違う世界なんだ。わかるかい? ここじゃないんだよ。そして誘ったのはキキなんだ。私を絞めなさいって、キキが言ったんだ。(略)何もかもが夢みたいに思える。考えれば考えるほど現実が溶解していくんだ。何故キキが僕を誘うんだ。何故僕に自分を殺せなんて言うんだ?>(296頁)

[98]補遺2
 『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』(岩波書店)での村上の発言。

<ぼくは小説を書いていて、ふだんは思わないですけれども、死者の力を非常によく感じることがあるんです。小説を書くというのは、黄泉国へ行くという感覚に非常に近い感じがするのです。それは、ある意味では自分の死というのを先取りするということかもしれないと、小説を書いていてふと感ずることがあるのですね。>(163頁)

<身体性という問題に関連してもう一つ、暴力性ということが大きな問題になってきますね。『ねじまき鳥クロニクル』においては、それが大きく出てきたのです。
 ぼくは、『風の歌を聴け』という最初の小説を書いたときは、死とセックスに関しては書くまいというひとつのテーゼみたいなものを立てたのです。(略)
 結局、でも、行き着く先はそれしかなかったというか、『ノルウェイの森』を十年後に書いたのですが、あの小説の中ではセックスと死のことしか書いていないのです。>(166-7頁)

<『ねじまき鳥クロニクル』の中においては、クミコという存在を取り戻すことがひとつのモチーフになっているのですね。彼女は闇の世界の中に引きずり込まれているのです。彼女を闇の世界から取り戻すためには暴力を揮わざるをえない。そうしないことには、闇の世界から取り戻すということについての、カタルシス、説得力がないのです。(略)
 もうひとつ、闇の世界はなにかというと、そこにはえんえん積み重なった歴史的な暴力というのが存在しているのです。(略)
 結局、第三部の終わりで、闇の世界から光の世界へ引き戻すために揮われる暴力は、それら歴史的な暴力に呼応するものだという、一種の蓋然性というのですか、そういうものができてくるんですね。
 それはもちろんあとになって、テキストを読んでこう思ったということにすぎないけれども、ぼくの一種の歴史認識みたいなものだったのじゃないかという気がするのです。>(172-4頁)

<『ねじまき鳥クロニクル』という小説をいま振り返ってみると、だんだん見えてきたのだけれども、自分の中における歴史的暴力の認識があって、これからどういう方向を自分が見つけていかなくちゃいけないのか、というところにいるんだと思うのです。でもそれが僕をどこに連れていくかということになると、僕自身にもそれはよくわかりません。>(186頁)

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 無意識をめぐる冒険は(再び)ここで中断される。──残された論点。死と性と暴力(と悪と歴史と無意識)の問題。「可能世界」と無意識。「フェミニズム」と無意識。「ホラー」小説と無意識。村上春樹とカフカ。村上春樹と夏目漱石。等々。