不完全な真空



【120】不完全な真空(前口上)

 ベンヤミンの『パサージュ論』に「夢の街と夢の家、未来の空間、人間学的ニヒリズム、ユング」という項目名でまとめられた資料集・覚書(訳書第3巻に収録)があって、そのエピグラムの一つにカール・グツコウ『パリからの手紙』の次の一文が取り上げられています。──「私の父親はパリに行ったことがある。」

 私はこういった類の断片をこよなく愛し、それがいったいどうしてなのかは判然としないながらもいたく想像力を刺激される種類の人間なのですが、最近、鹿島茂氏の“『パサージュ論』熟読玩味”(青土社)を読んでいて、ああたぶんそういうことなんだろうなと得心のいく解釈を見つけたので、ここに書き写しておくことにします。

<…この引用のサンタグマティックな、あるいは意味論的機能はゼロに等しい。なにか機能しているものがあるとすれば、それは、そういうタイトルの本があった場合に、パリ関係の古本マニアが食指を動かすかもしれないという程度の極めて弱い意味論的機能でしかない。>(45-6頁)

 鹿島氏がここで目論んでいるのは、<『パサージュ論』は偉大なる書物蒐集家が残した特殊な形態のブック・コレクションの売り立て目録[オークション・カタログ]である>(35頁)という仮説の検証なのです。鹿島氏は、『都市の肖像』に収められた小文「蔵書の荷解きをする」の一節──<書物を手に入れるあらゆる方法のうち一番賞賛に値すると目されているのは、自分の手で書くことです。(略)元来著作家というのは、貧しさからではなく本にたいする不満から本を書く人々なのです。>──を踏まえながら、いま引用した文章に続けて次のように書いています。

<では、それならばなんのために、ベンヤミンがこの引用を行ったかといえば、それは彼が、古本コレクションの一冊として集めたいと願いながら現実には存在しないためにいっそ「自分の手で書こう」と決心した「夢の街と夢の家」というタイトルの本を、この引用が部分的ながら実現しているからである。つまり、グツコウのこの引用は、「夢の街と夢の家」という幻の古本の一章あるいは一節にほかならず、ベンヤミンは、こうした断片を拾い集めて、かくあらまほしと願っていた幻の「古本」に仕立てあげているのである。ベンヤミンこそは、「本にたいする不満から本を書く人々」の一人なのである。>

 こういった幻の書物のリストの制作や熟読ほど、本好きの人間の心を躍らせる(倒錯した)試みはほかにないでしょう。私は根をつめて読書する気概が湧かないときなど、漫然と図書目録を眺めて時間を潰すのが好きなのですが(最近愛用しているのは、工作舎と法政大学出版局のブック・リスト)、その際そこに掲げられた本たちの具体的な内容に立ち入らないのであれば──<…古本のコレクターというのは、基本的に蒐集した古本を読まないものである。>(鹿島前掲書36頁)──それが架空の書物の売言葉や解説や書評や一部引用付の目録であってもいっこう構わないわけです。

 いま思い出せるかぎりで幻本を扱った書物のリストを作るならば、坂本龍一が確か「未刊行図書目録」といった言葉が含まれるタイトルの書物を刊行していましたし、清水義範のパスティーシュ作品にも同様の趣向の短編集があったと記憶しています。そういえば、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『幻獣辞典』と並ぶ参考文献として、バートランド・クーパー著『動物たちの考古学』(牧村拓訳、三友館書房)が掲げられていました。(ほかにももっと事例があったように思うのですが、今日のところはこれで種切れ。)

 次いで海外に目を転じると、ラブレーの『ガルガンチュワとパンタグリュエル』に出てくる「サン・ヴィクトール図書館」がまさに架空の図書館の典型で、後にそこで枚挙された架空本のことごとくに注釈を施す研究書をものした「愛書家」さえいたそうです。それから何をおいてもボルヘスの諸作品。そして、このボルヘスを「既存の文化によって作られてきた思考の枠組を逸脱することなく、その中で許される論理的な操作を器用に拡張するだけだ」と厳しく批判したスタニスワフ・レムの二冊の書物──架空の書物の書評集『完全な真空』(沼野充義他訳、国書刊行会──ラブレーの架空図書館の話やレムのボルヘス評はこの本からの請売)と架空の書物の序文集『虚数』(長谷見一雄他訳、国書刊行会)。

 いま私はこの二冊の書物をためつすがめつ眺めています。実際これは凄い作品ですね。たとえば『完全な真空』の「序文」に相当する文章のなかで、レムは自らの「作品」を三つのグループに分類しています。その一は「パロディ、模倣作品[パスティーシュ]、及び嘲笑」、その二は「大作の概要を示す草案」、その三は「実現することのできない夢」。そして、架空の書評集への書評を装ったこの序文の末尾に出てくる文章の素晴しいこと。──自乗して実数の世界を創造する虚数、あるいは自らに掛け合うことでリアリティを創造する夢想についての究極の表現がそこにあります。

<それゆえ、長年胸に秘められてきた、滋養豊かなリアリズムに対する飢餓感から、あまりに大胆な見解を含むため、直接表現することもできないような思考から、そして、人が夢見ながら決して実現させられないあらゆるものから──まさに、そういったものから、『完全な真空』は生まれたのです。(略)“偽書評”という手法がこれらの作品を生み出したのではありません。むしろ、これらの作品が──空しく──表現を求めて、この手法を言い訳として、口実として使ったのだというべきでしょう。そもそもこの手法がなかったならば、すべては沈黙の領域にとどまっていたことでしょう。(略)これこそは、実現されなかった数々の夢想の物語です。>(11-2頁)

 ──さて、私がこれからしばらくの間やってみたいのは、「こういうものを私は書きたい(=読みたい)」といったテーマで、現在準備を進めつつある(もののたぶん成就することはないだろうと思われる)プロジェクトやかつて試み(てその途上で放置したままになっ)たプロジェクト、そしていつか機が熟せばとりかかりたいと漠然と夢想している(けれどもそのいつかは決してやってこないだろうと確信している)プロジェクトについての個人的なリスト・備忘録を作っておくことなのです。しかし、それにしては随分と大層で中途半端な「序文」になってしまいました。


【121】不完全な真空(第1回)

★二人のジャック・三人目のジャック

 「方法としての難解」という言葉があります。確かマラルメについて論じたヴァレリーの文章に出てきたのではなかったかと記憶していますが、いまひとつ自信はありません。これは随分と便利な表現で、かつて道理の通らぬ文章をさんざん書き散らしては、友人たちに「方法としての難解だよ」などとと嘯き一人悦に入った経験が私には(多々)あります。

 現代の哲学や思想の分野で厳選された「難解の人」を挙げるならば、デリダとラカンの二人のジャックが双璧ではないかと思います。(デリダの本名はジャッキー・デリダというのだそうですね。デリダはやはりジャックでなければ締まりません。)幸か不幸か私はこの二人の主著(もちろん翻訳書)に真っ向から挑戦したことがなくて、いつか腰を据えて取り組んでみたいものだと念じつつ、折にふれて入門書や講演・対談の類をつまみ食いしているのですが、それというのも「難解」を方法もしくは様式として採用せずには表現できない未発の思考というものが世の中にはあるはずだと思うからです。

 しかしその作品をまともに読んでもいない人たちについて云々することはできませんから、残念ながらこの話題はいまのところこれ以上深めようがありません。(ものの本によるとラカンとデリダが「文字」をめぐって論争を繰り広げていたらしい。このあたりから入っていければさぞや面白かろうと個人的には考えています。)

 ところで第三のジャックとは、ジャン・ジャック・ルソーその人のことです。ルソーについては、デリダ(『根源の彼方に―グラマトロジーについて』)もラカン(『二人であることの病』)もそれぞれ初期の著書の中で取り上げているようです。

 たとえばルソーとデリダを結ぶ線に「声」を、デリダとラカンを結ぶ線に「文字」を、そしてラカンとルソーを結ぶ線に「統辞論」とか「イメージ」とか「パラノイア」とかのラベルを貼ってみれば、そこに言語をめぐるトライアド(三つ組)をしつらえることができるかもしれない。(ルソーからヘーゲルへ、そしてフロイトを睨みつつコジェーヴを介してラカンへといった補助線を引いてみるのも一興。)

 あるいは「音楽家」ルソーに着目して、記譜法や調性や和声体系などの問題群を言語や表現や無意識の問題にからめて考えてみることができるかもしれません。(音楽家ルソーについては、内藤義博氏の「ジャン=ジャックルソーと音楽」[http://www.osk.3web.ne.jp/~nityshr/jindex.htm]がとても参考になります。)

(最後の思いつき。──デリダもラカンも「読む人」で、ルソーは「読まれる人」。ここに「難解」とは別次元の「理解不能の人」アントナン・アルトーをもちだして、名状しがたいテトラド(四つ組)を提示してみるのも一興。)

 蛇足。以上をまとめると(どこがどうまとまったのかはしばらく措くとして)、次のような構成になるでしょうか。――蛇足の蛇足。以下に出てくる対戦の組み合わせは、「対戦リスト」[http://www.big.or.jp/~wed/kuru/PHILOFIGHT/fightlist.html]にも載っていません。

 第一章 二人のジャック
  1 ジャック・デリダ――難解の人(その一)
  2 ジャック・ラカン――難解の人(その二)
  3 デリダ対ラカン――文字をめぐって
 第二章 三人目のジャック
  4 デリダ対ルソー――声をめぐって
  5 ラカン対ルソー――パラノイアをめぐって
  6 ジャン・ジャック・ルソー――すべてはルソーから始まった
 第三章 三人のジャック
  7 第一のトライアド――ルソーの『言語起源論』をめぐって
  8 第二のトライアド――ルソーの『近代音楽論究』をめぐって
  9 テトラドへ――ヘーゲルあるいはアルトーを媒介として

★十二人の考える男たち

 高校生の頃、ある雑誌に掲載されていた某探検家の手記に「愛読書はスピノザ」とあったのを見てなぜかしら深い感銘を受け、さっそく中央公論社の世界の名著シリーズのスピノザ・ライプニッツ編を購入した翌日、学校へもっていって友人に話したところ、以来しばらく「スピノザを読んでいる奴」と変人扱いされた経験があります。(キェルケゴールあたりだったらそれほど問題視されなかったのでしょうか。)

 実をいうと、いまに至るまでスピノザはまともに読んでいません。それというのも、変人扱いに懲りたからではなく、あれは「読む」ものではない、少なくとも若いうちに読むのは危険すぎると根拠もなくそう考えて禁欲してしまったからなのですが、最近になって、もうそろそろこの封印を解いてもいい頃ではないかと、これもまた根拠なく思いはじめています。――いま一人のユダヤ系の思考者、ウィトゲンシュタインの文章にも同様に「危険」なものを私は嗅ぎ取りました。

(人生経験を積まないうちに読むのは危険だとか、哲学の修行を経ない未熟者が読むのは危険だという意味ではありません。読む必要もない者が、つまりスピノザやウィトゲンシュタインと「問題」を共有しない者が知的好奇心にかられて読むのは危険だ、といえば私が抱いた感覚にやや近いようにも思えます。いずれにしても、ここでいう「危険」とはそれこそ身体や生命の存続にかかわるものを意味しています。)

 この二人に比べると、ショーペンハウアーとベルクソンはずっと穏やかな思考を展開した人物です。といっても、それはあくまで私にとってという限定つきの話。その著作には、研ぎ澄まされた究極の言葉を単刀直入に言い切ってしまわない寛容さ(「成熟感」とでも表現できそうな雰囲気)が漂っていて、安心して「読む」ことができるような気がしたのです。(もっとも、それは私のとんでもない勘違いで、実はこの二人もずいぶん恐ろしい言葉を書き残していたのに、鈍感にも気がつかなかっただけなのかもしれません。――余談ながら、この二人はそれぞれの国語の名うての使い手、優れた散文家としての評価が高い。)

 さて、いま挙げた四人の思考者はある時期からずっと気になっていた面々で、いつか機会があれば本腰を入れて読み解いて、四人まとめて論じてみたい(あるいは四人まとめて論じた文章を読んでみたい)と漠然と考えていました。その「いつか」は当分おとずれることはないでしょうが、そうであるならいっそのこと話を大きくして、西洋哲学のビッグ・ネームをどさっと掲げてみたらどうかと思いつき、その試みのタイトルとして考えたのが『十二人の考える男たち』でした。

 十二という数字や「男たち」であることに実は深甚な意味があるのですが、それがどのように意味深なのかはまだうまく説明できないので、ここでは「十二人」の枠に誰を入れるかという話題に限定します。

 四人はすでに決まっています。プラトンははずせないでしょう。オリゲネスやアクィナスも気になるところだし、デカルトやライプニッツやカントやヘーゲル、ニーチェやマルクスやキェルケゴール、ハイデガーやフーコーやドゥルーズ等々と、考えれば考えるほどとても十二人に絞り込めそうにありません。東洋思想や日本思想はどうしようかなどと思い始めると、もうお手上げです。――というわけで、この企画は当分の間「マイ・フェイバリット・フィロソファー探し」に終始しそうです。


【122】不完全な真空(第2回)

★建築と舞踏─あるいはポール・ヴァレリー[1871-1945]

 ヴァレリーはプラトンの対話篇を模した作品をいくつか書き残しています。そのうち『エウパリノス』と『魂と舞踏』(ともに1921)の二冊に私は強烈な関心を寄せてきました。前者はソクラテスとパイドロスが冥界でメガラの大建築家エウパリノス(実在のエウパリノスは土木技師)について語り合うという趣向で、後者はさらに医師エリュクシマコスが加わって舞踏論を展開するというもの。

 松浦寿輝氏は、<この二篇で展開されるのは、どちらの場合もいわば精神の創造的な営みとしての「ポイエーシス」そのものをめぐる議論であり、その意味では、ヴァレリーにとって「建築家」も「踊り子」も、その収歛するところは結局「詩人」の譬喩形象にすぎないと言ってもよい>(渡辺守章編『舞踊評論』新書館)と書いています。この評言の値踏みをするためには、やはりこれらの対話篇を(後の楽しみにとっておくのではなくて)実際に読んでみなければなりますまい。

 ところで、ル・コルビュジエはその著書を二度ヴァレリーに贈呈し──『今日の装飾芸術』(1925)と『輝く都市』(1935)──その都度、感謝と友情と賛辞にあふれた礼状を受け取ったとのこと。そして彼自身は終生ヴァレリーの『エウパリノス』を愛読したそうです。──コルビュジエとヴァレリー。地中海の陽光に洗われた近代の怪物たち!

★物質と音楽─あるいはアントン・ウェーベルン[1883-1945]

 少し困っています。タイトルだけが決まっていて、中味についてのイメージがまだ固まっていないのです。だったら止せばいいのですが、自分でこしらえたタイトルに魅せられてしまって、たとえ生煮えのままでも一言書き残しておきたいとの欲望をどうしても抑え切れないんですね。

 「物質と音楽」がベルクソンの第二の主著をもじったものであることはみやすいでしょう。最近、「ベルクソン哲学と現代芸術」という副題をもつ篠原資明氏の『漂流思考』(講談社学術文庫)を読んでいて、イヴ・クラインが「空気の建築」という構想を目論んでいたことを知りました。篠原氏によると、それは<火や水や空気や音を建築素材として用いることにより、さまざまな境界を流動化させること>(187頁)なのだそうです。

 そういえば『エウパリノス』でも「歌う建築」が話題になっていました。──ついでに書いておくと、松浦寿輝氏によれば、ヴァレリーは1921年の断章で<肉体とは現在に接している過去でしかなく、事件の数々が現在に至るまで積み上げられた一種のピラミッドである>と述べ、ベルクソンが『物質と記憶』で提示した円錐体の隠喩との「驚くべき酷似」をはらんだピラミッドのイマージュによる記憶論を展開しているとのこと(『ヴァレリー全集カイエ篇』第4巻解説,筑摩書房)。

 ウェーベルンについても一言。アドルノの「ウェーベルン論」(竹内豊治編訳『アントン・ウェーベルン』法政大学出版局所収)から。

<…ウェーベルンの理念は絶対詩のそれ、つまり、音楽的素材を、また音楽的形態のあらゆる客観的契機を、主観によそよそしく、かたく、同化されず対立している残余なしに、主観の純粋な音声のうちに溶解しようとする試みである。>(143頁)

<ヘーゲルの『現象学』のなかに一度、「消滅のフリア(復讐の女神)」という驚くべき言葉が出てくるが、ウェーベルンの作品はこのフリアを彼の天使に変じたのである。彼の作曲の形式法則は、彼のあらゆる段階を通じて、収縮のそれである。いってみれば、彼の諸作品は、発表の初日において、ある歴史的過程をへた終末に音楽の実質としてそのほかにまだ残っているかもしれぬもののごとく出現する。細事に拘泥する傾向において、充たされた瞬間の結成がすべての単に抽象的に命じられた展開の埋め合わせをするということにたいする信頼において、ウェーベルンにはヴァルター・ベンヤミンと共通するものがある。知り合いでなく、お互いのことについてよく知っていなかったといってよい、哲学者と狂信的におのが素材に拘束されたこの音楽家との、二人の筆跡はすこぶる似通っていた。それらはどこか小びとの国からの便りのように見えた。いつでもなにか巨大なものから縮小されたもののように見えたミニアチュアなのであった。>(146頁)


【123】不完全な真空(第3回)

★装飾と舞台―あるいは西田幾太郎[1870-1945]

 今年の4月から5月にかけてNHK教育テレビの「人間大学」を通して観ました。月曜日が蜷川幸雄「舞台・夢を紡ぐ磁場」、火曜日が樺山紘一「都市と大学の世界史」、水曜日が白幡洋三郎「庭園の美・造園の心」、そして木曜日が鶴岡真弓「装飾美術・奇想のヨーロッパをゆく」。──この四つのテーマを究めれば、都市と表現をめぐる問題群はあらかた押さえられると直感したのです。

 はじめての経験でもあったので、最初のうちは新鮮で日々の就眠前の楽しみだったのですが、しだいに面倒になって最後はいい加減に聞き流してしまいました。それでも月曜日と木曜日は最終回までちゃんと勉強した結果が「装飾と舞台」なって私の頭の中に残ったわけなのです。さてこのテーマと西田幾太郎をどうやって結びつけていくか。

 一つの戦略は「舞台」を「場所」と読み換えること。その手がかりは清水博氏の『生命知としての場の論理』(中公新書)にあります。以下、清水氏が柳生新陰流宗家第二十一世柳生延春氏にあてた書簡(同書所収)から。

<私は「生命」を自分自身に対する「公案」として、これまで長年研究してきましたが、生命の普遍的な原理を掴むために、「未来が予見できない複雑な場面において、その場所の状況に絶えず整合的になるように情報を創出しつつ、それによって自律的に自己表現をする」ことの原理を考えていました。それは、場所を一つの(観客を含む)劇場とし、その中で演劇する一人の役者として観客と絶えず整合的になるように、即興的に演劇をしていくことと論理的に同等であると考えています。>(186-7頁)

<場所論といえば西田幾太郎が有名ですが、西田の場所論は、実在とは何かを自覚の問題として考察した理論です。…この立場を本書では仮に「自覚的場所論」と呼ぶことにします。しかし今後の問題点は「場所の文明」を創ることであり、そのためには場所の文明を創作することができなければなりません。…「場所の文明」を創るためには、創作の立場に立つ場所論、すなわち「創作的場所論」とでも呼ぶべきものが必要になるのです。>(193頁)

 いま一つの装飾との関係づけに関する戦略は、西田の文体に着目することでしょう。小林敏明氏は『西田幾太郎 他性の文体』(太田出版)で、西田の思索は幾何学的なイメージに基づいていること、とりわけ同心円をモデルにして進められるものであることを指摘し、それが西田の文体に対してもつ意味を次のように述べています。

<西田がその思索に沿って書き進めていくとき、その進行はけっしてリニアな形をとらないということだ。…にもかかわらず現実の文章というものはどんなものであれ、第一行目の一文字から始まってリニアに記述されなければならないという宿命をもっている。つまり円環的同心円的に思考する西田にとって文字による記述はそもそも自己矛盾に陥らざるをえないということである。両者を妥協させるには一つの可能性しか存在しない。すなわち西田のような思索の記述はある意味で「螺旋」を描いて進行せざるをえないのではないかということである。一冊の記述の中であれほど何度も同じことが繰り返されることの一つがそういうところにあるように思われる。>(40頁)

 しかしこれは実にか細い戦略であって、第一これを使ってもそこからどうやって「装飾」と「場所」を結んでいくかが見えてきません。これは今後の課題。(「装飾と舞台」のタイトルでほんとうはジェイムズ・ジョイス[1882-1941]を取り上げたかったのですが、『ユリシーズ』にはケルトとユダヤとギリシアが混在している、というところまで考えてそれ以上アイデアが湧かなかったので止むを得ず断念しました。)

★文学と幼年時代―あるいはジョルジュ・バタイユ[1897-1962]

 学生の頃、チェーザレ・パヴェーゼとジョルジュ・バタイユの小説をほぼ同時期に読み漁ったことがありました。当時、この二人を結ぶ私なりの「何か」があったに違いないのですが、その記憶はいまや完璧に消え失せてしまって、ただ静謐な、あるいは鮮烈な読後感がいまも私の脳髄に残っているだけです。

 ところで、バタイユが特異な思考者であること、それも思考しえないものをめぐる難解だけれども魅惑的な謎めいたテクストを多く書き残していることは、常々気になっていました。気になっていくつかあたってはみたものの、ほとんど手がつけられなかったのです。酒井健氏(『バタイユ入門』ちくま新書)の進言にしたがって、「まえがき」しか読んだことのない『文学と悪』(山本功訳,ちくま学芸文庫)に取り組むことにします。──というわけで、以上、単なる読書計画の表明でした。


【124】不完全な真空(第4回)

★いばらの中のモーツアルト/ドン・ジュアンの気球

 昔、村上龍がホスト役を務めるトーク番組(Ryu's BAR?)がありました。週末の夜「クレオパトラの夢」のバック・ミュージックとともに始まり、いわくありげなバーテンや正体不明の女性客達が何の言及もなく映像の端に映し出され、たどたどしくそしてどこかけだるい雰囲気をもった三十分番組で、五木寛之と所ジョージと柄谷行人が(もちろんそれぞれ別の機会に)ゲストで出演したときのホストのいつもと違う反応はいまでもよく覚えています。

 この番組のオープニングかエンディングでゲストに最近見た夢を聞くコーナーがあって、これが結構おもしろかった。ゲストは時に素っ気なく、時に思い入れを込めて夢の話をするのですが、ホストの方はその意味をあれこれ詮索したり解釈を施したりはしないで、ただ聞き流すだけなのです。時には何かコメントめいたことをしゃべっていたのかもしれませんが、いかにもそれはお愛想で口にしたといった感じで、要するに他人の夢になんて別段関心はないよといった風情だったのです。

 だったら聞かなければいいようなものですが、いまから思うとあれは、夢の内容そのものよりも夢を話す語り口(素っ気なく、夢見るごとく思い入れたっぷりに…)にその人の資質とか精神のあり方の原形質のようなものが透けて見える、そういった効果をねらっていたのかもしれません。いずれにせよ、他人の夢の内容を詳しく聞きたがったり、ましてやそれをあれこれ分析したがるのはあまりいい趣味ではないと私は思います。そしてもし誰かが聞かれもしないのに自分が見た夢の話を始めたり頼まれもしないのに自己分析を始めたら、村上龍のように「あ、そうですか」と聞き流すにかぎります。

 さて、私はよく言葉の出てくる夢を見ます。それは文字の場合もあれば響きだけの場合もあるし、時には世の中に存在しない書物を読んでいた記憶の中に断片的な言葉が残っている場合もあります。最近二日続けて見た夢はそれらすべてが一緒になったもので、残夢感や視覚的イメージが一切伴わない純粋な言葉の連なりだけが目覚めたばかりの意識のうちにリアルに浮上してきたのです。

 第一日目のそれは「いばらの中のモーツアルト」で、第二日目のそれは「ドン・ジュアンの気球」。この拍子抜けするくらいに分かりやすく、およそ隠された意味など探りようもないと思える二組のタイトルを使って、何か(たとえば小説のようなものを)書いてみるとおもしろいかもしれない。そう思いついて、これらの言葉たちの「身辺調査」に取り組み、またこれらの言葉たちが暗示する心象やら観念やらをめぐる「自由連想」に耽ってみましたので、その概要を紹介します。

 まず「いばら」から私が連想したのは「単性生殖」という語彙でした。──グリム童話の「いばら姫」で、水浴びをしている妃に女児の誕生を告知するのは蛙です。この蛙という動物は、メルヘンの世界で独特の意味を担っているようです。たとえば、ブルーノ・ベッテルハイムは『昔話の魔法』(波多野完治他訳,評論社)で、蛙と男性性器とは無意識の領域で直接的に結びついていると書いていますし、河合隼雄氏の『昔話の深層』(著作集5「昔話の世界」所収,岩波書店)によれば、ユングは蛙を冷血動物の段階にある人間と評したそうです。

 ところが、ヤーコプ・グリム(兄)による初稿では、女児の誕生を予言するのは蛙ではなくザリガニ[Krebs]でした。このことについて、河合氏は前掲書で次のように書いています。<蛙も蟹も共通な特性は、両者とも水陸両方に棲めることである。水と陸との間を往来するもののイメージは、意識と無意識をつなぐもの、あるいは、無意識内より意識界へと出現してくるものを思わせる。>(86頁)

 しかし、蛙とザリガニで決定的に異なる点が一つあって、それは……と、ここまで書いてきてとんでもない間違いに気づきました。実はこのあと「ザリガニは単性生殖するということなのです」と書くつもりだったのです。どう考えてみてもザリガニは有性生殖であって、トビイロゴキブリみたいに雌だけで繁殖するわけはありません。何をどう勘違いしたものか私はてっきりそう思い込んでしまって、だから「いばら」から「単性生殖」を(ややまわりくどい道筋ではあるものの)連想したのでした。

 この際思いきって書いておくと、私はこのこと(ザリガニは単性生殖する!)を根拠に、「いばら姫」が表現しているのは実は思春期の女性が潜在的にいだいている「単性生殖」への憧れとその挫折の物語なのだ、という私製擬似精神分析的メルヘン解釈を提示して、さらにモーツアルトのホロスコープ(出生天宮図)における月の位置が射手座にあり、射手座を象徴する半人半獣のケィローンはアンドロギュノスやユニセックスを示していること(辛島宜夫『影絵のモーツアルト』音楽之友社,176-7頁)と組み合わせて、モーツアルトの音楽の起源は「単性生殖」であるという結論にもっていくつもりだったのです。

 この論証は出発点で躓いてしまいました。でも、これは夢の中に出てきた言葉をめぐる夢うつつの連想ゲームなのだからこの程度のミスは致命的ではないと思うし、そもそもメルヘンをめぐる精神分析的解釈はとても刺激的で読み物としては頗るおもしろいけれどもどこかしら眉唾的なところがあるのだから、上に述べた程度のヨタは許容されると思いたい。

 ちなみに、鈴木晶氏は『グリム童話』(講談社現代新書)で、精神分析学者は人間の心理を超歴史的なものと考えてメルヘンの細部が何を象徴しているかを解釈したがるけれども、たとえばグリム童話は古くから語り継がれた昔話ではなくグリム兄弟によって取捨選択され大幅に改作されたものなのだから、そこに象徴的に示された人間の心理はグリム兄弟の「ビーダー・マイヤー」的な世界観であり価値観にほかならないのだといった趣旨の指摘をしています。まったく同感です。(続く)


【125】不完全な真空(第5回)

★いばらの中のモーツアルト/ドン・ジュアンの気球(承前)

 グリム童話に「いばらの中のユダヤ人」という話があります。──ある旅の男がなけなしの所持金を小人に与え、かわりに何物をも射落とす吹き矢と誰をも踊らせるヴァイオリン、相手構わず願いを受け入れさせる(言葉の)力を与えられる。旅の途上で雲雀の歌に聞きほれているユダヤ人に出会った男は、早速吹き矢を使って雲雀を射落とし、ユダヤ人がこれを拾うためいばらに分け入るやヴァイオリンを奏で始める。

 満身傷だらけになったユダヤ人は、男に大金を与えてようやく解放されるが、憤滿やる方なく裁判所に訴え出る。絞首刑に処せられる寸前、男は裁判官に最後にヴァイオリンを弾かせてくれと頼む。ユダヤ人の制止の声もむなしくこの願いは聞き入れられて、裁判官や役人、ユダヤ人も含めてその場にいた者は皆際限なく踊り始める。やがて息もたえだえになったユダヤ人は男に与えたのは盗んだ金だと白状させられ(初稿ではキリスト教徒から盗んだとされている)、男は無罪放免、逆にユダヤ人が処刑される。

 なんとも切れ味と後味のよくない話で、物語の運びにもいま一つ納得のいかないところがあります。三番目の力さえあれば男は好きなことができたはずで、吹き矢やヴァイオリンにどんな意味があるのか合理的な説明を与えることはできないでしょう。結局この話の中心は言葉の力ではなく、ヴァイオリンの力、つまり音楽のもつ力の方にあるのだとするのは、強引にモーツアルトに結びつけようとする分析者の恣意的な解釈というものです。──以上、補遺として。

 さて「ドン・ジュアン」と「気球」について。ここでの私の連想はきわめて陳腐で、誘惑者としての胞子=浮遊する精子というものでありました。──モーツアルトと気球の関係については、辛島宜夫氏の『影絵のモーツアルト』に収められた「熱気球」というエッセイや、池内紀氏の『モーツアルト考』(講談社学術文庫)でも触れられています。

 1783年フランスのモンゴルフィエ兄弟による熱気球の発明から8年後、モーツアルトの死の5箇月前にあたる1791年7月6日、ウィーンでジャン・ピエール・ブランシャールによる熱気球の実験飛行が成功します。モーツアルト自身は見物していなかったようですが、バーデンで温泉保養中の妻コンスタンツェ宛ての手紙にこの出来事を書き残しているのです。

 喜多尾道冬氏は『気球の夢』(朝日新聞社)で、ユートピア思想の根底に飛翔の意識があるとしたケレーニイや空のイメージは自由であるとしたバシュラールに言及しつつ、次のように書いています。<埴谷雄高は『宇宙のなかの人間』で、気球の発明とフランス革命の関係について、気球は「自由へ向かいたがる人間の精神」をあらわしており、「限定された自由についての限定されざる無限な幻想を象徴」すると述べているが、この無限な幻想はユートピア思想と関連してゆく。こうして十九世紀には気球とユートピアは自由と飛翔を共通項として伴走することになる。>(3頁)

 次いでドン・ジュアン(これはフランス語読み、スペイン語でドン・ファン、イタリア語でドン・ジョバンニ)について。──この希代の誘惑者とフランス革命の関係をめぐって、ここではモーツアルトを遡ること1世紀、1665年初演のモリエールの戯曲について水林章氏が『ドン・ジュアンの埋葬』(山川出版社)で展開した議論に準拠することにします。

 水林氏によれば、モリエールのドン・ジュアンはたとえば結婚の秘儀性を破壊し女性を商品化する悪魔として描かれているのですが、その悪魔性を端的に表現するメタファーは「貨幣」にほかなりません。エンゲルスが国家とは一定の発展段階における社会の産物である指摘していること(『国家・私有財産・国家の起源』)を踏まえて、絶対主義的宮廷国家と市場的・貨幣的交換システムとが同時に成立しつつあった17世紀において、モリエールが描くドン・ジュアンの移動性は貨幣の流通性を表現しており、他者の存在を根底から揺さぶるドン・ジュアンの誘惑の力とは貨幣の力の表象にほかならないと水林氏はいうのです。

<…〈悪魔〉の衣装をまとった〈貨幣〉であり、〈貨幣〉という名の〈悪魔〉にほかならないドン・ジュアンが葬られてはじめて、最後には彼を葬った絶対王権それ自体を危機に落としめるところの悪魔=貨幣が社会の全面を覆う時代が訪れるのである。社会は、その深部に潜む、全面的な開花へと向かう市場的交換という前代未聞の事態によって引き起こされる底なしの不安に、〈ドン・ジュアン〉というかたちと名前を与え、その不安を手なずけようとしたのではないか。>(287-8頁)

 水林氏はまたドン・ジュアンを「父にそむく者」と規定しています。以下そのエッセンスを箇条書風に記しておきます。──『ドン・ジュアン』によって蒔かれた「父殺し」の種がフランス革命の時代にいっせいに芽をふき開花したこと(ルイ16世の象徴的な死)。にもかかわらず「父」はフランス近代を拘束する家父長制的法体系のなかに復活したこと(近代とは「よみがえった父=聖なるものを温存したかつての父の亡霊」の存在によって特徴づけられる時代であったこと)。このよみがえったはずの父の亡霊が再度殺害されたこと(ド・ゴール将軍の象徴的な死)。そして誰もが「凡庸なドン・ジュアン」になってしまった世界が今日のポスト・モダン的状況であること、あるいはモリエールの『ドン・ジュアン』からアンドレ・ジードの『贋金づかい』へ。(続く)


【126】不完全な真空(第6回)

 ところで、誘惑者ドン・ジュアンについてはキェルケゴールが『あれかこれか』の第1部で詳細に論じていました。いま手元に現物がないので、河上徹太郎『ドン・ジョバンニ』(講談社学術文庫)から孫引きします。──キェルケゴールは、ドン・ジュアンが女を誘惑する力とは官能的な欲望の力なのであって、女を欺くとき彼はいわば官能の化身となって官能の天才をもって欺くのだと書いています。

<……この精神力を表現することは言葉の能くする所ではない。ただ音楽だけがその表象を描くことが出来るであろう。倫理的に規定された誘惑者の権謀術数を描き出すためには言葉をこそ用うべく、音楽はいかに努力しても、このような課題を説くことは出来ぬであろう。ドン・ジュアンの誘惑の力はただ音楽にだけ表現しうるであろう。>(『あれかこれか』芳賀檀訳)

 キェルケゴールはまた、ドン・ジュアンとファウストは共に中世の巨人なのだが、中世前期に属するドン・ジュアンには中世的愛欲の美しい開花があり、そこには精神との露骨な相克はなくそれ自体として理想化されているのに対して、ファウストには内省的なものが生まれて来て、そこに罪の問題が発生していること、つまり中世から近世への移行を象徴する「意識」の問題が表面化しているのだと指摘しています。

<キェルケゴールはこの内省的な意識の問題が、最高の表現としての音楽の対象になり得ないことを知っている。そしてこれを「ドン・ジョバンニ」の要素から排除して考えるように繰り返し警めている。彼がモーツアルトに教えられ、この色事師を中世前期に押しやり、後の事をファウストに委ねているのもそのためであり、ここに近代の超克を企図する彼の重要な伏線も存するのである。>(河上前掲書24-5頁)

 キェルケゴールは純粋な官能性(内省的意識という重力を脱して浮遊する熱気球!)は音楽でしか表現できないとして、たとえばモリエールが言葉の力をもって描いたドン・ジュアンを軽蔑していたようです。しかしこの点については、水林氏の『ドン・ジュアンの埋葬』を読んだ後では少し割り引いて受け止めなければならないように思います。

 最後に、水林氏の同書から「生殖のメカニズム」について書かれた文章を引用しておきます。モリエールの時代にあって、家と子供をもとうとしないドン・ジュアンの生活態度がいかに常軌を逸したものであったかに言及した箇所に出てくるものです。

<生殖のメカニズムがまだ解明されていない時代の話である。古代ギリシャのヒポクラテスは男女の種子の混合によって生殖が営まれると考えていたようだが、一般には、十七世紀後半に女性の卵巣が発見されるまでは、生殖における男性の圧倒的優位が信じられていたという。卵巣の発見によって揺らいだかにみえた男性優位は、しかし、精子の存在が卵巣発見の数年後に確認されたことで維持された。優れた数学者・科学者であったモーペルチュイは、「生殖は完全に女の肩にかかっていると考えられてきたが、これで[精子の発見]男に返還された」と書いているほどである。生殖は卵子のなかに精子が進入することによってなされるということが知られるには、一八七五年を待たねばならなかったから、その後も、生殖における男性の役割を女性のそれよりも上位におく「思想」は、容易には勢いを失わなかった。>(249頁)

 ──以上をもって、夢に出てきた二組の言葉をめぐる「身辺調査」と「自由連想」の作業結果の報告を終えます。それではこれらの言葉をタイトルに戴いた書物(夢の中で私が読んでいたはずの本、あるいはこれらの夢の言葉をヒントに将来復元されるべき作品)とは、いったいどのようなものだったのか。たぶんそれは二組の短編小説のようなものではないかと予想しているのですが、さてどうでしょうか。以下、将来に備えてそのエクスポゼ(にもならないキーワード)を記しておきます。

☆いばらの中のモーツアルト
 ・茨=繭=殻
 ・単性生殖を夢想する女とオナニストの男との「友情」の物語
 ・卵を生みたい女とオート・エロティスム機械を夢想する男
 ・自分と同じ遺伝子をもった子=私の胎内に宿る私
 ・あるいは多性的存在をめぐる聴覚の物語
 ・二人の夢の儀式から生まれるものは何か(声に促された生殖?)
 ・天使的存在と多声のエロティスム

☆ドン・ジュアンの気球
 ・気球=胞子となって浮遊する無意識(欲望)
 ・老書家(女性)とそのモデルとなる青年との「愛」の物語
 ・老書家によって線化される若き誘惑者
 ・誘惑者=他者の無意識を操作する無意識のコレクター
 ・老書家によって凝視され線へと捕捉されるドン・ジュアン(視覚の物語)
 ・誘惑の言説と犠牲の儀式(贖罪=食材)
 ・線に捕捉され表現のなかに溶け込んでしまう若きドン・ジュアン