生活美学都市について



【113】生活美学都市について(1)

 今年の三月から四月にかけて、都市について考えをめぐらせていました。そのときに書いた文章の中からいくつか紹介したいと思います。
 今回は序論に相当する部分で、次回からの三回が文学と建築を素材として阪神間と呼ばれる地域に焦点をあてたもの、最後の三回が「ガーデン・シティ」をテーマとした文章です。それぞれ短い文章をパッチワークしたもので、決して体系的に叙述したものではありませんが、一種の記録として読んでいただければ幸いです。

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■美的経験のメディア

 造園の世界に「用」と「景」の区別がある。「用」とは利用、活用、実用の用、すなわち機能に通じる語であり、「景」とは景色、景観、風景の景、すなわちそこに暮らしそこで遊ぶ人々の美的経験につながる語である。用と景、機能と美。これらの絶妙な配合にこそ、人間の五感すべてにかかわる総合芸術としての庭園のいのちがある。
 いま「美的経験」と書いた。それはなにも、優れた芸術家の作品に接することで得られるものだけをいうのではない。庭園での遊興のように、生活の営みそのものから得られる喜びや楽しみのうちにも美的経験はまぎれもなく息づいているはずだ。
 たとえば、清水満氏の『共感する心、表現する身体』(新評論)に次の文章がある。

《目的をたてながら、現在を犠牲にすることなく、今を大事にすることはできる。よくいわれる「プロセスを大事にする」とか、茶の道でいう「一期一会」の精神がそうだろう。でも実は「美的な経験」をすることが、人をして、未来・現在・過去という時間の制約から解放してくれるものなのだ。
 「美的経験」はすぐれた芸術を前にしたときに現れるのはもちろんだ。だが、自然の風景に心洗われたり、子どもの遊ぶ姿や家族の団らんなど、日常的にも経験できるものでもある。
 たとえば、土を踏み、土をいじるときの不思議な落ちつき。ハンマーで釘を打つときのあの心地よい手応え。青みを取り戻した野山を散策するときの解放感。春の浜辺で、まだ肌寒い潮風に吹かれるときの切ないうれしさ。満開の桜にみるたおやかな生命力の喜び。静かな夏の午後、照りつける陽射しと木陰とのコントラストの鮮明さ。》

 「生活美学」とは、まさに清水氏がいう意味での美的経験に関する「作法」のようなもの、いわば生活の楽しみ方をめぐる──伝統と新機軸がないまぜとなった様式あるいはソフトウエアとしての──「情報」の編集技法のことなのである。
 美的経験は各人の個性に応じた多様性をもちながらも、一つのパブリック(公共的・市民的)な形をなしているはずである。なぜなら、生活の楽しみあるいは美的経験とは、あくまでも「社交」のうちにあるものだからだ。(優れた芸術作品に独り沈潜するときでさえ、人は「対話」のうちにある。)そうであれば、それは生活文化あるいはたんに文化と呼んでもいいものだろう。
 しかし、文化が一つの形あるいは型をもっていることは、その渦中にある者にとって、他者の視点その他の媒体(メディア)を抜きにしてはそれとして意識化できない。また、ここでいう形や型は固定的かつ静態的なものではなく、よりダイナミックで錯綜したプロセスとしてとらえられるべきものである。
 ここで「文化」ではなく「美学」の語を使用するのは、第一に美的経験をめぐる情報の編集技法あるいは無形のソフトウエア(生活の楽しみ方)を意識化させるメディアの所在をそれとして示したかったからであり、第二に文化を生成流転のアクチュアリティ(現勢態)において、そしてとりわけ創造性においてとらえたかったからにほかならない。
 ここでいうメディアには有形・無形の多様な形態がある。市民生活の舞台となる都市の様々な装置群(建造物、年中行事その他)は、いずれも生活の楽しみ方に関する情報媒体(メディア)に該当する。それらのうちで美的生活にもっとも密接に関係するのが、そして創造性について考える際のモデルともなるのが、いうまでもなく芸術であり、ミュージアムをはじめとするその関連装置群なのである。

■庭園の論理

 様々な有形・無形の装置群からなり、人々のパブリックな生活の舞台である都市もまた、それ自体一つのメディアであるといえるだろう。
 都市はかつてマクロコスモス(宇宙・無限なる超越者)とミクロコスモス(有限なる人間)を媒介する場であり、それ自身が自ら変化・成長する秩序を宿したコスモスでもあった。このような文明史的な「記憶」の保存と伝達と表現も含めて、都市は人々の記憶と社会の伝統を未来へとつないでいくメディア、あるいは過去から未来への線状の時間の流れを切り裂き、その間に自らをパブリック・スペースとして(あるいは生成途上の時間座標として)切り開く運動体(生命体)でもある。この意味で、都市もまた「庭園」にほかならない。
 国際日本文化研究センターの白幡洋三郎氏は、近代日本が取り入れた西洋19世紀の都市計画は「竣工の論理」あるいは「建築の論理」に強く規定されたものであったと指摘している(「文化がつくる街と街並み」)。

《建築の論理とは、あらかじめ完成の時点を頭に描き、図面に表して、その「絵」が竣工の時点で完成されるように取りはからう姿勢である。建築の論理からは、竣工が最も大事な時である。だからその後の維持管理は、最高の状態である竣工の時点を保つことにある。》

 ところが、西洋でもかつては都市と庭園は同じものととらえられていたのであって、実際18世紀に主流だったのは都市計画を庭園計画と同じものとみる考え方、つまり時の移ろいに即して見守りつくりあげてゆく「庭園の論理」に基づくものだったと白幡氏はいう。

《庭園には竣工がない。庭園ができあがる「時」とは、ある「時点」ではない。庭園は変化し、とどまることなく移ろってゆく。放っておかれれば樹木は成長し、石には苔がつき、水の流れが変わる。慎重に手入れをしていても庭園は変化してゆく。しかしあるとき素晴らしいと思える状態が出現する。そのときがいわばその庭園の最高点であり、完成=竣工である。
 都市もじつはこれと同じ性格をもっているのではないかと私は思っている。都市にも竣工という発想はなじまない。》

 生活美学都市――すなわち、美的経験に彩られた生活(美的生活)のための様々な有形・無形の装置群があたかも葡萄状に連鎖し、「生活の楽しみ方」そのものが伝統と創造のうちに共同制作される一つの作品として結実しているパブリックな消費と社交の空間――もまた、細部の躍動を通して全体が生成し続ける「プロセス」のうちにあるものだ。
 それではこのような都市を実現する手だては何か。それが「計画」ではないことは見やすい道理である。生活美学都市が「庭園」のようにつねに生成の途上にあるものであり、これを全体として整序する立場などありえないのだとすれば、まずなすべきことは、モデルとなる具体的な地域に即して、その細部に宿された「都市の記憶」に身を浸してみることだろう。


【114】生活美学都市について(2-1)

■文学と建築

 阪神間と呼ばれる地域をフィールドとして、そこに保存された「都市の記憶」を探索してみることにしよう。そのことを通して、生活美学都市の要素を抽出してみたいと思う。
 その際、文学と建築に着目した。その理由は、一つには無形と有形の芸術活動の典型としてそれぞれを想定したこと、いま一つは「記憶」の表現媒体として文学と建築が際だった対比の関係にあること。この後者の理由については、養老孟司氏が『身体の文学史』(新潮社)で展開した議論を参考にした。
 世界は表現だと養老氏は宣言している。表現を創り出すのはいうまでもなく意識だが、意識ははかないもので、そのはかない意識を保存するものこそ、意識が外部に創り出す表現であるというのだ。文学、絵画、音楽、法律、制度、都市、それらはすべて意識の表現であって、意識が自らを外部に定着させる手段である。

《意識のそうした定着手段、それはかならずしもたがいに排除するものではない。ただし、たとえば都市と文学はなぜか矛盾するらしい。秦の始皇帝は万里の長城を築くが、焚書坑儒を同時に行う。立派な建造物は必要だが、本はいらないというのである。始皇帝陵の発掘で知られる驚くべき規模の遺跡は、建築型の意識の定着法と、文字型の意識の定着法とが、たがいに抗争することを示すように思われる。西方では、エジプト人のピラミッドと、ユダヤ人の旧訳聖書の差を思えばいいであろう。どちらを採るか、そこにはおそらく無意識が関与しているに違いない。》

 養老氏がいう「建築型の意識の定着法」と「文字型の意識の定着法」が、阪神間では渾然一体となって独特の生活美学をかたちづくってきたのではないか。このことを確認したい。

■谷崎潤一郎の見た阪神

 大正12年9月、関東大震災を逃れて関西に避難した谷崎潤一郎は、昭和19年疎開のためこの地を離れるまでの21年間、その大半を阪神間に居住し、実に13回の転居を繰り返している。それは谷崎潤一郎の文学が最も豊かに結実する時でもあった。
 大正13年、関西移住後の日も浅い頃、谷崎は「阪神見聞録」のなかで「大阪人」の印象を次のように記している。

《一體に、東京人は見ず知らずの人に向って話しかけることはめったにない。それは不作法な事であり、田舎者のする事だとしてゐる。大阪人は此の點に於いて東京人ほどはにかみ屋ではなく、人みしりをしない。或る場合には却ってフランクでいいこともあり、寧ろ美點であるのかも知れぬが、此れがやっぱり東京人にはづうづうしく見え、不愉快でない迄も「非常識」なと云ふ感じを與える。》

 ところが、昭和7年に発表された「私の見た大阪及び大阪人」では、《関西の風土人情に対して、善いにつけ悪いにつけ、私の愛情が日増しに深くなって行くのは甚だ自然の道理である》と書き、純粋の東京者である自分が上方文化を批判するのは《あの「阪神見聞録」を書いた時のような皮肉な興味からではなく、今や第二の故郷たらんとする京阪の地への愛情からである》とさえ記しているのである。
 谷崎のこのような態度の変更の背景に、阪神間の女性、とりわけ後に第三の妻となった理想の女性・根津松子との出会いがあったことはつとに指摘されている。しかし、ここでは、谷崎自身の文章から、とりわけ「阪神間」に言及された箇所を断片的に抜き書きすることで、谷崎の観察した阪神とは何かを考えてみることにしよう。

《関西における最もハイカラな区域といえば阪急の夙川から御影に至る沿線であって、あの辺に住んでいる若夫人や令嬢たちは、随分洋服の眼も肥えているし、趣味も進んでいるし、金に不自由はないのだから、毛皮、手袋、ハンドバックの好みまでソツのあろうはずはないのだけれども、それでいて何処かスッキリしない。[…]いったい和服の色合いでも関西の方が関東よりも派手であって、阪神沿道の暖国的風景、――濃い青い空、翠緑の松林、白い土の反射に、そのケバケバしい色彩が非常によく調和することは事実であるが、その和服の派手な好みをそっくりそのままクレプ・ド・シンのドレスなどに持って来るのはちょっと考え物だと思う。[…]
 これは色合いばかりでなく、彼女たちの骨格や動作などがよほど関係しているに違いない。[…]関西の方は服装ばかり取り替えても、体のこなしに数百年来のしとやかな習慣が泌み込んでいるのではあるまいか。》

《私にいわせると、女の声の一番美しいのは大阪から播州あたりまでのようである。[…]
 東西の夫人の声の相違は、三味線の音色に例を取るのが一番いい。[…]東京の女の声は、良くも悪くも、あの長唄の三味線の音色であり、また実にあれとよく調和する。キレイといえばキレイだけれども、幅がなく、厚みがなく、円みがなく、そして何よりも粘りがない。だから会話も精密で、明瞭で、文法的に正確であるが、余情がなく、含蓄がない。大阪の方は、浄瑠璃乃至地唄の三味線のようで、どんなに調子が甲高くなっても、その声の裏に必ず潤いがあり、つやがあり、あたたか味がある。》

《生活の定式とは何かといえば、一つの家庭、一つの社会において長い間に自ずから出来上がった一定のしきたり、――年中行事である。[…]
 私はこういう生活の定式が善いとか悪いとかいうのでない。今日のヤンガーゼネレーションの人々は、明治時代のブルジョア趣味として必ずやそういうものに反感を抱くであろう。が、ともかくも、現在の東京にはそれが亡びてしまっている。[…]
 ところで関西には、この生活の定式というものが今も一と通りは保存されている。京都や大阪の旧市内はいうまでもないとして、赤瓦の住宅の多い阪神地方でも、あの辺に住んでいる人々の生活は決してその建て物の外観が示すようにハイカラでない。それというのが、あの辺の人は昔は船場とか島の内とかいう旧市内の目貫きの所に住んでいたものが移って来たか、そうでなければ地着きの素封家や豪農等が大部分であるから、一面において近代風の邸宅に住まい、それにふさわしい暮らし方をしているようでも、他の一面において旧家らしいしきたりを今も捨てないでいるのである。》

《阪神地方で面白いのは、旧大阪市の延長としてそういう町屋の習慣が行われている一方に、昔からあるあの辺の田舎の行事が今も見られることである。田園都市の膨張につれて年々狭められて行く田圃道や畦道を行くと、ふと七夕の笹の棒が捨ててあったり、茅葺き屋根に菖蒲が挿してあったりするのは、あわれともまたなつかしい気がする。》

《私どもは小学校の読本で、「我が大日本帝国は気候温暖にして風光明媚……」と教えられたもので、東京にいると一向そう感じないどころかかえって反対の気がするが、あの記事がほんとうだということは、ただのお国自慢でないことは、此方へ来てなるほどと頷かれる。つまりあれに当て篏まる「日本」は何処にあるかといえば、大阪から中国に至る本土の西半部なのである。[…]摂河泉の国々もいいが、これから西へ行けば行くほど土の色が白くなり、気候が一層温かになり、景色がいよいよ明るくなる。
 しかし私は決して無条件に此方を讃美するものでないことは上来述べ尽くした通りである。何んといっても、学窓を出てこれから社会に活動する人、あるいは業成り名遂げて隠棲するのにはいいが、子女を教育する土地ではない。[…]些少ながらも親譲りの恒産があって、気候がよくって、食物が安くって甘いと来るから、皆小成に安んじてしまい、壮志を抱く者がないようになる。[…]あまり天然に恵まれることも善し悪しである。》

■近代ブルジョアジィの古都

 これらの文章には現代にも通じるに違いない「阪神間」の生活美学の実質が濃縮されたかたちで示されているのではないかと思う。――すなわち、女性の洋装と声を素材として語られる数百年来の伝統文化の蓄積、ハイカラな邸宅の外観のうちに保存された町屋の「生活の定式」、そして空の青、松林の緑、土の白、屋根の赤で表現される風土と住環境。(谷崎はそれを「田園都市」と呼んでいる。)
 これらが指し示しているのは、モダンとプレモダン、豊かな消費生活とつましい金銭感覚の混在のうちに展開された「私」の文化であり、端的にいってブルジョア文化にほかならないだろう。明治以降、世界でも希な交通インフラの整備(小松左京氏)とともに郊外住宅地として発展した阪神間は、何よりもまず住宅都市だったのであり、大衆消費社会を先取りした「近代ブルジョアジィの古都」(河内厚郎氏)なのである。
 谷崎潤一郎が京阪の地を「第二の故郷」と定めたのも、伝統とハイカラ、和風と洋風に彩られた阪神間の生活文化、とりわけ住環境の素晴らしさにその理由があった。また、谷崎潤一郎が阪神間で住居を転々としたのも、私小説作家とは異なる意味で《作品世界と現実世界とが、密接な関わり方を持っている》谷崎にとって、《居住地は作品世界を醸成させる重大な意味を持っていた》(たつみ都志氏)からにほかならない。実際、『細雪』をはじめ上記の略年譜に掲げた作品のうちには、谷崎潤一郎という個性によって濾過された阪神間の「都市の記憶」が定着しているのである。


【115】生活美学都市について(2-2)

■阪神間の美術工芸的住宅

 大阪芸術大学の山形政昭氏は、『阪神間モダニズム』(淡交社)所収の「美術工芸的住宅の開花」において、先の震災で被災し、移築保存されることとなった二棟の洋風邸宅とその設計者、野口孫一と武田五一を取り上げている。
 たとえば野口が設計した田辺邸(住友銀行初代支配人田辺貞吉の住宅。明治41年)については、次のように叙述されている。

《田辺邸は住吉駅の山手、当時は人家もまばらな田園風景のなかに建ち、北には六甲の緑、南に青い海をのぞむ西洋館で、一部に和室部を連ねたやや複雑な平面形に沿って急勾配の瓦葺き屋根と赤レンガの高い煙突をもち、外壁は英国式の木骨意匠[ハーフティンバー]や鱗状の木製シングルを用いるなど、情緒ある絵画的[ピクチャレスク]な外観を有し、内部諸室では階段、暖炉まわりの装飾家具、照明灯具など個性豊かな意匠がみられる住宅であった。》

 山形氏によれば、このような「美術工芸」的な住宅は《野口が英国視察の旅程において熱心に学んだであろう新しい住宅思想、つまり都市郊外の田園地帯に拓かれた住宅地と、そこで展開されていたウィリアム・モリスを旗手とした美術工芸運動の影響をうけて着想されたものとみられている》という。この点は、いま一つの洋風邸宅、芝川邸の設計者武田五一についても同様である。
 そのほか、武田に師事し、野口からも感化を受けた小川安一郎や小出楢重アトリエを設計した笹川慎一らの仕事を紹介したあとで、山形氏は次のように総括している。

《[…]明治末から大正期にかけてこの地に開花したモダンで美的香りの高い住宅文化は、ヴィクトリア朝後半期の近代住宅運動における「アーツ・アンド・クラフツ」と「ガーデン・サバーブ」の住宅をモデルとして成立したものとみられるのである。
 こうした美術工芸的と呼べる住宅建築を育んだ地域が、関西においては大阪、神戸、京都などの都市周縁部、なかでも六甲山麓に沿う阪神間住宅地にあるとみられよう。この一帯は、明治大正期の鉄道駅の開設にともなって宅地化が進行したところであるが、通勤圏の広がりといった状況に先行して、田園的環境における別荘地帯のような郊外住宅地が成立していたところであった。》

■二人の中世主義者─ヴォーリズ

 長谷川堯氏は『都市廻廊 あるいは建築の中世主義』(相模書房)の中で、阪神間にも縁の深い二人の建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズと村野藤吾を取り上げている。長谷川氏はこの著書で、ヴォーリズと村野を、ウィリアム・モリスやモリスに多大な影響を与えた思想家ジョン・ラスキン、ガーデン・シティの提唱者にして実践者であったエベネザー・ハワードといった「中世主義」者の系譜に位置づけているのである。

 1880年、アメリカのカンザス州に生まれたヴォーリズは、コロラド大学哲学科を卒業後、滋賀県近江八幡でプロテスタント系の伝道活動を開始し、以後90歳で他界するまで同地にとどまり、ヴォーリズ建築事務所と近江兄弟社を率いた。関西学園キャンパスや神戸女学院キャンパス、伊藤邸その他の邸宅の建築で知られるヴォーリズは、実は正式な建築教育を受けていない。また、彼を支えたスタッフのほとんどは建築科の卒業生ではなく、ヴォーリズを慕うクリスチャンであったという。
 これらの点をとらえて長谷川氏は、そこに《技術よりも祈り、論理よりも想像力によってまず建築をつくることを始めた者たちの仕事につきまとう建築の内的な充実》を旨とする中世主義の投影を見出している。

《それらの建築は全体的構成において、特に外部形態においての視覚的な迫力は、古典主義的建築に比較して弱い。しかしこの中世主義の追跡の冒頭の部分において見たような細部から全体へというヴェクトル、あのラスキンが「装飾は建築の主要な要素である」と逆説的な言葉であらわした、小さなものからの視覚がそこには生きている。そしてヴォーリズをはじめ、そのスタッフはすべて、自分たち自身の存在をまさにその小さなものから発想し、大きななにかにむけて投げる(祈る)ことにおいて、建築をつくったのだ。実は、日本の多くの建築家たちが、正式な建築の大学教育をうけなかったヴォーリズに、仕事の上でかなわなかった理由がそこにかくされている。》

■二人の中世主義者─村野藤吾

 次に、村野藤吾についてみてみよう。長く宝塚に住み関西で活躍したこの建築家について、安藤忠雄氏は次のように語っている。(「インタビュー 風土を創る」、河内厚郎編『阪神学事始』(神戸新聞総合出版センター)所収)

《村野さんという人は、戦後は大阪の新歌舞伎座をつくり、東京の日生劇場もつくりましが、ほとんどが民間の建築ばかりです。商業建築というものが、美学的にも成立しうるということを証明した人でした。それは道のりの遠い、たいへんな闘いだった。公共建築というのは流行らなくても綺麗だったらいい。それに対して、商業性がありながら、美的でもあり、立派に社会性をもった建築として存在させるということは、実は大変なことなんです。》

 この発言に出てくる「日生劇場」(日本生命日比谷ビル)をつくった時、村野はある対談で「クラフトマンを我々が失うことはどんなにか建築上悲しいことであるか」と述べたという。このことを踏まえて長谷川氏は、《村野氏の建築のよさ、息の長さは、ほとんどいつでも、そうした工人たちのすぐれた手わざがつくりだす輝き、とでも呼ぶべきものに多く負っていることは周知の事実である》と述べている。
 そして、中世の建築装飾を「それらは石材を切る各工人の生命と自由との表象である」としたジョン・ラスキンの思索や、ラスキンから決定的な影響を受けたウィリアム・モリスの有名なアフォリズム「芸術とは人間の労働における喜びの表現である」に言及した上で、村野もまたこれら中世主義者の系譜に連なる建築家ではないかと指摘しているのである。(実際、村野は、28歳の青年時代(大正8年)に書いた論文を回顧した文章のなかで、「学生時代にラスキンやウイリアム・モリスに傾倒し、ハワードの田園都市計画などに虚無的な心を癒した」と書いている。)

《ラスキンの有名な逆説のひとつに「装飾は建築の主要部分である」という語句があることはすでにふれた。これに対してラスキンに反対する人たちは、ラスキンがあまりに細部にとらわれすぎている、「建築の真の崇高さ」というものはマッスの配分とかプロポーションの決定といったところにあり、そこにほんとうの「主要な」ものがあるはずだ、と批判する。たしかにラスキンの著作(たとえば『ヴェニスの石』)をひもとけば、建築は常に装飾的な細部からはじまり、またその種の細部の連続的な考察に終始するようにみえる。しかしこれをラスキンの側からみれば、もし仮に建築の究極がマッスの配分やプロポーションの決定にあるとすれば、すべての建築はその規範に合致すると同時に、その完結性のなかで死ぬ、つまり規範に合致したものとして過去のなかに凝結し、同時に生々と現前することを止めるように思えるのだ。ラスキンは全体ではなく細部に目をむけ、その細部の現在をたどることによって、その「過程」そのものを生きるのだ。ラスキンもまた、村野藤吾がいう意味と同じような意味で、「目的」ではなく「過程」のなかに建築を考えたのではなかろうか。》

■細部から全体へ

 長谷川氏がいう「建築の中世主義」とは、まさに機械の論理(建築の論理)に抗する「手」の論理あるいは生命の論理(庭園の論理)そのものであり、ガウディのサグラダ・ファミリア(聖家族)に典型的なように、濃厚な宗教性、内面性を帯びた建築思想であり美学であった。(村野の70代後半の仕事に、宝塚カトリック教会(昭和42年)、西宮トラピスチヌス修道院(昭和45年)、日本ルーテル神学大学(同年)のキリスト教関係三部作がある。これらのすぐれた作品群の存在も踏まえて、長谷川氏は村野を「宗教的な作家」と規定している。)
 全体のマッスの配分やプロポーションの決定から細部へと至るのではなく、細部の輝き(装飾)を通して常に未完成の全体へと至るプロセス。──この細部から全体への不断のプロセスは、ヴォーリズを慕い支えたスタッフたちが自分自身の存在を《小さなものから発想し、大きななにかにむけて投げる(祈る)ことにおいて、建築をつくった》仕事ぶりに通じるものだ。
 「美術工芸」的住宅とは、造り手の「労働における喜びの表現」にほかならず、かつそこに住まう者の生の喜びを通して絶え間なく完成へと近づいていくものというべきだろう。そしてこの意味で、建築物もまた文学と同様の意味において「都市の記憶」の表現媒体である。ただしそこで表現されるのは、権力者の意思が介在する万里の長城やピラミッドとは違って、都市の「細部」としての人間の生の記憶なのである。


【116】生活美学都市について(2-3)

■ラスキンとコルビュジェ

 明治末のわが国に紹介されたラスキンがもたらした衝撃に匹敵するのが、昭和の初期、日本の建築界に紹介されたル・コルビュジェが昭和の建築美学に及ぼした影響力であった。
 この二人の建築美学は実に対照的である。ラスキンはヨーロッパの中世建築を念頭におきながら、特に建築をおおっている装飾のすばらしさを讃美した。これに対してコルビュジェは、量塊と表面の幾何学的な単純性を説き、古代地中海の諸建築をより高く評価している。彼は「住宅は住むための機械として考えられなければならない」という言葉で知られるように、建築を論理的構築物ととらえ、都市計画を「合理的かつ詩的な記念碑」と考えたのである。
 長谷川氏は前掲書で、ラスキンが賞賛した中世建築(ゴシック建築)は基本的にアルプス以北の世界の所産であり、そのメンタルな内容において「太陽に背を向けた建築」であったのに対して、コルビュジェが主張した建築は、どこまでも明るく透明で澄んだ地中海の光を唯一の光源として認めることによって、アルプス以北のいわゆる西ヨーロッパの「陰翳」を忘却しようとしたのかもしれないと指摘している。
 そして、日本の昭和の建築美学(機械生産を基礎とする近代主義すなわちモダニズム)は、大正期の建築美学(中世主義)が注意深く観察しようとしていたこの「陰翳」をかなぐり捨て、《コルビュジェが推奨するような地中海の光の建築への移植をほとんど無暴ともいえる性急さで押し進めはじめるところに開始された》としているのである。
 また、村野の建築作品にコルビュジェからの間接直接の影響が明らかであるにもかかわらず、それがコルビュジェの建築とは内容を別にするものであること──すなわち、「陰翳」の魅力をもたらさない光(地中海の光)が、村野の建築的着想のなかでついに席を占めることができなかったこと──の理由を、次のように述べている。

《コルビュジェはその生地、スイスのラ・シュー・ド・フォンに生れ、アルプスの山塊のすぐむこうに、事実としての地中海の光を持っていた。他方村野氏は唐津に生れ、八幡で育ち、南を常に山並みでさえぎられ、北の海つまり太平洋に対して“陰の海”である日本海の最後尾に位置する対馬海峡に面しながら少年から青年期への自然環境を経験してきた。考えようによっては、北向きの家と陽をうけた庭という、村野氏が愛着を示す空間構成は、すでに少年期の環境によって指示されていた、ともいえるであろう。(このことからみて、距離的にはそれほど遠くない大分に生れた磯崎新氏や、さらに東の今治の丹下健三氏などの、「日本の地中海派」つまり“瀬戸内海派”の建築家たちのコルビュジェ好みの傾向と、はっきり区別して考えなければならない。[…])》

 建築や都市計画がとりわけ自然環境や風土、あるいはコルビュジェが『輝く都市』で計画の偶発状況と名づけたもの──場所、人間、文化、地勢、気候といった環境──と密接な関係を取り結ぶものである以上、長谷川氏の指摘は単なる環境決定論ではなく、建築家がいだくイメージのいわば「原風景」の所在を示すものとして有効な議論であるといえるだろう。

■阪神間─間の都市

 ここで阪神間の「位置」の問題へと話題を転じたい。阪神「間」とは、京阪神の間、和風とハイカラの間といった意義に加えて、歴史的古都(たとえば京都)の陰翳に満ちた世界と日本の地中海・瀬戸内海の陽光にあふれた世界との「間」の都市としてとらえることができるのではないだろうか。
 陰翳的世界といい地中海的世界といっても、それはあくまでもイメージとして述べているのであって、そのように名づけられる実体が存在しているわけではない。ともすれば善と悪、美と醜、光と陰、精神と肉体といった二元論的、二項対立的思考様式によって現実を単純化してしまう、日常的なものの見方にゆさぶりをかけるための「作業仮説」として、あえてそのように規定してみたわけである。
 それと同時に、阪神間の生活美学とは、物事の二元性を見透かしながらも、それらを単純な対立の相で見たり性急に折衷したりするのではなくて、まさにその「間」にとどまりつつ、いわば細部から全体へと至るプロセスを楽しみながら熟成させる態度そのもののことなのではないかといいたいのである。
 それは、アジアではじめて中産階級が登場した関西の住宅街の代名詞であり、その生活文化圏として最初に成熟した阪神間(河内厚郎氏)にあって、市民が体現した「倫理感覚」(谷崎がいう「生活の定式」)に根ざしたものであったに違いない。
 たとえば、谷崎潤一郎が阪神間在住中に著した『陰翳礼讃』は、けっして和風礼讃でも伝統回帰の主張でも西洋文明への嫌悪を表明したものでもない。西洋の科学技術がもたらした利便性からもはや後戻りのできない現実をしかと見つめながら、そういった「借り物」ではなく、《美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にある》とする東洋人の感覚(あるいは肌の色)に合致した利器や科学や学問をなぜ工夫しないのか、自分たちの習慣や趣味生活に順応するように改良を加えないのかといっているのである。
 谷崎潤一郎は《美というものは常に生活の実際から発達するもの》なのだという。この言葉のうちに、阪神間の生活美学の特質も表現され尽くしているように思う。そこで開花したモダニズム(近代主義)は、たしかに「地中海の光」を光源とする色彩豊かなものではあったが、一方で長谷川氏がいう「中世主義」の陰翳を深い部分で内臓していたのである。

■荷風とパリの暗色世界

 東秀紀氏は『荷風とル・コルビュジエのパリ』(新潮社)で、永井荷風とコルビュジェという──ともに今世紀初頭のパリに遭遇し、以来、自らの芸術の主軸に都市との関係を据えたことを唯一の交点とする以外は──まったく正反対の思想と経歴をもつ二人の芸術家の足跡を対比させている。
 長谷川氏が「中世主義」者の系譜に位置づけた荷風は、随筆『日和下駄』に示されたように、江戸時代以来の風景のうちに具体的な理想都市空間を見い出していったのだが、東氏によれば、その原体験は裏路地や墓地といったパリの「暗色世界」にあった。

《狭い路地だが、人々の生活の匂いがふんぷんとし、古くからの記憶がこめられている街角。人々が生まれ、成長し、泣き、喜び、そしてひっそりと死んでいく場所。さまざまの痕跡と景観が、想像力をかきたて、物語を育んでいく小路。オスマンの改造の際に取り壊しを免れた、そういう「暗色世界」のパリこそが、住民たちにとって住みやすく、離れがたいものにしている、この都市の本質であり、文明の本質であり、文明の圧力や技術の発展を越えて、なおパリを生き続けさせていくものだ、と荷風は見て取ったのである。》

 そもそもパリは、今世紀初頭に城壁が撤去されるまで中性都市の性格を保持していた。中世都市とは、東氏によれば、狭い道路をもち《一つの区域や建物にブルジョワジーから労働者まで雑多な人間が同居し、働く場と生活する場が混在した、コンパクトで高密度な都市空間》のことなのだが、それは荷風の理想都市そのものだったのである。
 これに対してコルビュジェが見たパリは、オスマンによって新設されたブールヴァール(大通り)であり、マチスやピカソによって新しい芸術の潮流が胎動していた活気あふれる都市であった。それは、《あらゆる人と情報が集中し、展開する世界都市》であり《古典と前衛の芸術が共存し、理性的な精神と感性的な情緒の交差する都》だったのである。
 このようなパリ体験の質の違いを反映して、コルビュジェの理想都市は、高層建築や高速道路に象徴されるように機械化・工業化される社会の未来を楽観視したもので、荷風のそれとはまったく対照的なものだった。

■コルビュジェの中世主義

 しかし、東氏によれば、晩年のコルビュジェが手がけた建築作品──ロンシャン礼拝堂、ラ・トゥーレット修道院、未完に終わったヴェネツィアの病院──は、《かつての機能や効率性優先とは異なった、精神的な方向に修正し、より高い次元で完結させようと》したものだった。とりわけラ・トゥーレット修道院は、《人々が自然とともに生き、日々の安らぎと平穏を祈る中世都市の再現》としての集合住宅だったのである。
 東氏が前掲書で引用しているインタビューで、かつて「住居は住む機械である」としたコルビュジェが次のように語っている。

《住居とは家族にとっての神殿である。その中にこそ、人間の幸福の大きな部分があると私は信じている。なぜ私がそれ程人間の幸福にこだわるのかは分からないが、人間の痛みを和らげる努力をすること、生きる喜びをもたらすことを私は愛している。》

 こうしてコルビュジェは大きな軌跡を描いた後で、荷風と同じ場所に立つこととなった。しかしそれは決してコルビュジェの挫折でも変身でもない。あるいは若きコルビュジェが師事したレプラトニエが、スイスで展開しようとしていたアーツ・アンド・クラフツ運動──《大量生産の工業技術が進行する中で、もう一度中世以来の職人芸を見直し、自然の世界へと回帰することによって、芸術を復権させようという運動》──への復帰でもないだろう。それはあくまでも東氏がいうように、機能主義、合理主義をより高い次元で完結させようとする努力の結晶だったのだ。
 荷風・ラスキンとコルビュジェ、あるいは中世主義の陰翳とモダニズムの光。──これらは単純な対立関係にあるものではない。造園における「景」と「用」のように、両者は実は不即不離の関係にある。そして、阪神間の生活美学を「間」のプロセスのうちにあるものと規定した意義はここにある。


【117】生活美学都市について(3-1)

■花苑都市─日本型ガーデン・シティ

 明治7年、わが国で二番目の官営鉄道(大阪・神戸間約33キロメートルを70分で結ぶ)が開通して以来、明治38年の阪神、大正9年の阪急、さらに昭和2年の阪神国道電車(昭和49年廃線)の開通と、明治末期から大正期にかけて、阪神間には有数の交通機関が整備された。村々が点在する農村地帯にすぎなかった阪神間が、郊外住宅地として発展する基盤が整ったのである。
 明治40年に開園した香櫨園をかわきりに、苦楽園、雲雀が丘、花屋敷、甲陽園、甲東園、六麓荘、武庫之荘など、様々な経営主体による住宅地の開発が進められた。関西を本拠として活躍した都市計画家であり、わが国の環境デザインのパイオニアでもあった大屋霊城が、大正14年、阪神電鉄から依頼を受けて手がけた「甲子園花苑都市」構想もその一つである。
 橋爪紳也氏の『海遊都市』(白地社)によれば、大屋の計画案は、「田園都市的庭園本位の町」のコンセプトのもと、野球場とテニスコートからなる運動施設地区と、海水浴場、動物園、摩天楼風のホテルなどを配した海浜娯楽地区とを想定し、これらを連絡する幅広いゆるやかな幹線道路沿いに住宅を配置するというものであったという。
 このような「花苑都市」は、当時の英国で進められ、いちはやくわが国にも紹介されたエベネザー・ハワードの「ガーデン・シティ」に影響を受けたものであることはいうまでもない。
 しかし、ハワードのめざした理想都市が、人口3万2千人を限度とした小さな都市でありながらも、そこで働き生活する職住近接の完結した都市機能をもったものであったのに対して、「田園都市」と訳された日本型のガーデン・シティは、住宅地だけを都市郊外に切り離し、働く場所としての大都市とを鉄道で連結するもの、すなわち田園を都市化する「田園郊外」(ガーデン・サバーブ)にほかならなかった。
 ルイス・マンフォードは、ハワードの著書‘GARDEN CITIES OF TO-MORROW’に寄せた序文で、ガーデン・シティとは《ハワードの定義のとおり、郊外ではなく郊外の対立物である。いなかの引きこもり場所ではなく、効果的な都市生活のための統合された基礎である》(長素連訳『明日の田園都市』鹿島出版会)と指摘している。
 橋爪氏の前掲書によれば、大屋霊城は花苑都市の具体的なイメージを次のように描いている。

《一歩足を職工の居住地たる離れ島に入れた時、そこには運動場もあり、蔬園もあり、花もあり、森もある鳥の声も聞くことが出来るといふごとき職工村が、一方に発展して居るならば、彼等物質的にも貧しき職工も、精神的の楽天地に彼等の疲れきつた心身を横たゆることが出来るのであらう。》

 住と職を分離しつつ、そこに「遊」の要素を付け加えた都市計画のアイデアを大屋が「花苑都市」と名づけたのは、ハワードに感化されながらもこれとは異なる点を強調したかったからだろう。

■都市群としてのガーデン・シティ

 ハワードのガーデン・シティが日本ではガーデン・サバーブの形態で導入されたことに関して、東秀紀氏は『漱石の倫敦、ハワードのロンドン』(中公新書)で次のように述べている。

《東京の急速な人口増大に対して、郊外に良好な住宅地をつくることは理解できても、職場を分散させて、自立的な新都市群──社会都市[ハワードが独自の意味で使用した言葉:引用者註]を形成する必要性は、当時の日本人には認識されなかったのである。
 急速な近代化を目指していた日本人にとって、すでに社会は成熟期を迎え、生産から生活への人々の価値観の転換の中から現われてきた英国近代都市計画の理念は理解の範囲を越えていた。そのため「田園都市」は、ときには地方振興に、ときには郊外住宅地に誤解され、その語感のもつムードだけが一般に流布していったのである。》

 この文章のうちに、実はガーデン・シティをめぐるいま一つの誤解が浮き彫りにされている。それは、ハワードの著書のタイトルが‘GARDEN CITIES’であって‘GARDEN CITY’ではなかったこと、東氏の言葉でいえば、自立的な都市「群」としてガーデン・シティの思想がとらえられるべきであったことである。
 ハワード自身の言葉で、このことを確認しておこう。ガーデン・シティの成長について、ハワードは次のように述べているのである。

《〈田園都市〉には、建物がすでに建てられている。その人口は三二、◯◯◯に達している。〈田園都市〉はどのようにして成長するか。〈田園都市〉は、──おそらく国会の力で──、その新しい町がそれ自身の農村の環帯をもつことができるように、〈田園都市〉自身の『農村』の環帯をすこし隔たった、もう一つの市を設立することによって成長するだろう。わたしは『もう一つの市を設立することによって』といった。それだから、行政目的のためには、二つの市があることになる。
 しかし、一つの市の住民は、もう一つの市にわずか数分で達することができる。というのは、とくに高速輸送の手段が用意されているからであり、かくして二つの町の住民は、じつは一つのコミュニティを現わすからである。
 そして、成長のこの原則──われわれの都市の周りにつねに農村の帯を保有するこの原則──は、もちろんわたしのダイアグラムのように正確には幾何学的に配置されないにしても、一つの〈中央の市〉の周りに集まった一群の市をもち、群全体のそれぞれの住民が、ある意味では小さな町に住みながら、じっさいには、一つの大きな最も美しい市のすべての利点を、時の流れにおいて享受できるように、これを心にとめておかねばならない。
 しかも、単にとりすました公園や庭園ばかりでなく、原っぱ・生垣・森林地の農村のすべての新鮮な喜びが、わずか数分歩いたり馬や自転車に乗って行けるところにあるのである。》

 日本型の田園都市(ガーデン・サバーブ)は、大屋霊城がいうように「離れ島」にすぎなかった。島と島があたかも葡萄状に連鎖して一つの広がり(「人間サイズ」の広がりといってもいいだろう)をもった生活圏を形成していくための基盤、すなわち社会の成熟が、ハワードの思想が紹介された頃の日本ではまだ達成されていなかったのである。

■町と村の連合体

 東氏によれば、ハワードがその改造を目論んだ当のロンドンが、まさに町や村の連合体(都市群)として歴史的に形成された都市であった。
 ロンドンの発端は紀元前、ローマ人が軍事拠点として築いたロンディニウムにあり、中世においてシティと呼ばれる城壁をもった自由商業都市に発展する。王権とは独立した都市国家であったシティと、宮殿や議会が建設された政治的な中心(ウストミンスター)とが近代になって共存し、郊外の田園地帯を内に含むことによってロンドンが形成されていった。

《しかもこの拡大のプロセスにおいても、ロンドンはユニークな形を示した。求心的なパリのように、郊外の田舎を都市というまったく対立するものが飲みこんでいくのではなく、周辺のチェルシー、ケンジントン、ハムステッド、サザビーなどの多くの村々が、各々の村の個性を維持しつつ、都市というよりも「村」そしてその拡大したものとしての「町」の集合体として、ロンドンを形成していったのである。》

 ハワードが思い描き、ロンドンの郊外レッチワースで実践した‘GARDEN CITIES ’とは、単に一つの郊外都市を建設することではなかった。

《最終的には、ロンドンを周囲を含む大都市圏としてとらえ、都市の周囲の田園をグリーンベルトとして保存し、その外側に都心から職場と人口を移転させたレッチワースのような田園都市を衛星状にいくつも建設して、これらを含む大ロンドン圏(エベネザー・ハワードの言葉を借りれば「社会都市」)を、かつてのロンドンがそうであったような、町と村の集合体──「田園都市」群にしようとしたのである。》


【118】生活美学都市について(3-2)

■中世都市をめぐって

 長谷川氏は『都市廻廊』で、ハワードのガーデン・シティの源流は、中世都市ヴェネツィアをこよなく愛したジョン・ラスキンの建築美学、すなわち長谷川氏のいう中世主義にあると書いていた。(ちなみに、ラスキンの『胡麻と百合』と主著『ヴェニスの石』を翻訳し、わが国に紹介したのは、阪神間にも縁の深い賀川豊彦である。)
 長谷川氏によれば、中世都市は、原理として「囲い地」である。ここで原理としてという意味は、城壁のように物理的に囲まれている場合だけではなく、たとえば堺の町には壁のかわりに堀(水の囲壁)があったこと、ヴェネツィアにとってアドリア海の海水が都市壁であったこと、「固体の海」ともいえる砂漠地帯や山岳都市では地理的条件そのものが自然の囲い壁として働いたこと、さらにはユダヤ教やキリスト教の支配する世界において洪水のなかのノアの箱船が都市の原像であったことをも含めて考えるためだ。
 囲まれることによって内部空間が成立し、とりわけアーバン・インテリアとしての街路と建築が、《人が玄関の扉をあけて家へ入ったとたんに自分の家の内部を身体化するのと同じように、都市門をくぐって一歩足を都市内に踏み入れた時に、市民たちに故郷のくつろぎを、あるいは母胎のなかの親しさを一挙に身体化させてしまう》ものとして成立しているとき、都市は「囲い地」としての内密性や居住者どうしの濃密な交わりに満たされるだろう。

■囲い地─あるいはコミュニティ

 囲まれた都市は、《内攻する空間を醸造する》。たとえばマーケットとしての広場、内面性の共有を祈りのかたちで表現する神殿や寺院(中世ヨーロッパの場合、カテドラルは垂直性の表現を強調した)、そして祝祭。とりわけ表通りと裏通りからなる街路は、様々な都市の記憶を痕跡として保存し、人々の出会いの場となる。

《[…]ヨーロッパ中世都市の大部分がそうであるように、都市の道路は、まがりくねった見透しのききにくいものの方がふさわしい。なぜ都市の街路はまがりくねっているのだろうか。極く単純にいえば真直ぐな道を通すにはある程度集中化された権力が不可欠なのだ。[…]しかし都市にはそうした権力の集中は禁物であった。理念としては、同じ船に乗り込んだものとして運命をひとつにしていた都市民たちにとって、例外的に生きのびる唯一の権力者というイメージはやはり許せないものであるはずであった。道は細くまがっていることによって生き、自由なのだ。[…]
 この紆余曲折をくりかえす街路に面して〈囲い地〉の中に自らを閉じ込めた者たちの住居や商店や仕事場をおさめた、二、三階建の建物が建ちならぶ。このように街路に直面して連続する家屋とその街路の屈曲は、生物の内臓の管のようなものに見える。[…]市民は街路を通過するコミュニティの栄養(とりすましていえば情報といったことになろうか)をそこから吸収するのである。》

 永井荷風が江戸切図を懐中にし、日和下駄をカラカラ鳴らして歩いた東京の裏通りも、長谷川氏がいう「管」であった。『日和下駄』に描写されているもの、たとえば市区改正(当時の東京の都市計画事業)から取り残された「市中の廃址」は、「管」を通して荷風が吸収(観察)したコミュニティの情報、すなわち囲い地としての都市の記憶にほかならなかった。
 長谷川氏は、都市の表通りと荷風が愛した裏通りとの関係を、能楽と歌舞伎、あるいは舞台芸術と芝居の関係になぞらえている。(芝居とは文字どおり芝に居る者、つまり観客のことである。)
 長谷川氏によれば、能における演劇的時空が「舞台」に重点を置き、舞台の上から観客を動かすという性格をもっていたのに対して、歌舞伎は「観客席」に重点を置き、《舞台上の俳優や楽屋の劇作家の(いわば演劇空間のヘッドクォーターの)意識に関係するというよりも、芝の上に座を占め、その位置から世界を定位しようとする土間の側の意識の内的充実に深くかかわっているもの》である。

《私たちが河や路地に代表される例の裏通りのまさに生きた都市空間の内容を、時代の推移のなかで忘却し、そうした環境の意味を充分に理解してこなかったことと、芝居小屋の内容的変質とは無関係であるわけがないし、ほとんどピッタリと表裏をなしてくっついている事柄なのだ。いいかえれば、表通りの単一的な視界が最も象徴的に、最も激しく顕在化したのが現在の劇場建築であり、芝居小屋があの薄皮まんじゅうのように薄いが、しかしヒリヒリと痛いように身体にせまってくる内的な被膜性を失ってしまい、かわりに外ヅラだけ妙に硬質な劇場建築に変質したことのなかに、近代の文明が現在の都市空間を、都市の空間として失格させてしまった事態が正確に対応するのである。》

■水─中世主義のメタファー

 ところで、『都市廻廊』の文章には「水」のイメージが溢れている。これまでに引用ないしは言及した部分以外でも、長谷川氏は、荷風が観察した路地や閑地、崖、坂、裏町を「水のない河川」と呼び、あるいは路地とは地下水道なのだと述べているし、水という素材が中世主義の隠喩として格好のものであるとも述べている。
 また、東氏が『荷風とル・コルビュジエのパリ』で紹介しているように、日本の「中世主義者」荷風は、ある雑誌社から関東大震災後の帝都復興へのアンケートを求められて、日頃この種のものには応じることがなかったにもかかわらず、これからの都市計画は機能本位に考えるだけではなく美的デザインが必要であること、したがって帝都復興院に外国人顧問を迎えるならば、フランスかイタリアのそれも芸術家を招くべきこと、また復興計画の審議会に芸術家を入れるべきことを述べたあとで、新しい東京のあるべき姿について「快活なる運河の都とせよ」と答えているのである。

《この度新都造営に際しては道路の修復と共に溝渠の開通には一層の尽力然るべきやに被存候。都市外観の上よりしても東京市には従来の溝渠の外、新に堀割を開き舟行の便宜あるように致度候。急用の人は電車自動車にて陸上を行くべく、閑人は舟にて行くように致し候わば、おのずからなる雑踏を避くべき一助とも相成申べく候。京都はうつくしき丘陵の都会なれば、此れに対して東京は快活なる運河の美観を有する新都に致したく存候。》

 あるいは谷崎潤一郎の文学を語るときにも、水のイメージを抜きにできない。阪神間の風土と住環境──谷崎がそれを「田園都市」と呼んでいることはすでに述べた──に魅了され、京阪の地を「第二の故郷」と定めた際、谷崎がもっとも重要視したのは「川」であった。
 たつみ都志氏の『谷崎潤一郎・「関西」の衝撃』(和泉書院)では、次のように指摘されている。

《作品『蘆刈』は大阪の母なる川、淀川を遡行してそのふところに抱かれて書かれた作品。『吉野葛』は吉野川の源流にむかって歩く話。母性思慕小説の構想を『母を恋ふる記』に見出すとするなら、作中の〈海〉がその後〈川〉となって男性主人公をその腕に抱く。『細雪』もまた、野口武彦氏が言うように、芦屋川にまつわる伝説として時代を越えて流れていく。》

《このように谷崎文学において〈母〉と〈水〉は切っても切れない関係にある。「〈川〉の遡行」は、〈母〉にまつわる、欠落した記憶をたどるための唯一の通路なのである。
 谷崎は関西在住足かけ二十一年間に十八回転居している[このうち13回が阪神間:引用者註]が、その転居先をつぶさに廻って調査すると、彼が好んでやや長く住んだ家の付近にはかならず水が、川があることに気がつく。中でも、在住七年という最長の記録を持つ、倚松庵──『細雪』モデルの家の前には住吉川が静かに流れている。この住吉川を芦屋川に見たてて谷崎の『細雪』の世界は展開するのだ。そして、中巻。昭和十三年の阪神大水害の実体験をもとに描かれた〈水〉の横暴。暴徒と化した〈水〉は四女妙子の運命を変えていく。下巻。岐阜大垣の見合いに出かけた三姉妹は小川のほとりで瞑想的な蛍狩を楽しむ。》

■水に浮かぶ都市

 阪神間の生活美学と都市空間の質を形成した要素と源流を追跡し、長谷川氏のいう中世主義の流れを見出したのだが、そこには一貫して庭園のイメージが見え隠れしていた。
 白幡洋三郎氏によれば「庭園」はきわめて新しい言葉であって、日本では明治の半ばまで「林泉」と呼ばれていたのであり、万葉集では、今日の庭園にあたる空間を「にわ」「その」と並んで「しま」と表現している(『庭園の美・造園の心』日本放送出版協会)。
 ここに出てきた「林泉」も「しま」も水に関係する。そもそも庭園にとって、そして人間の居住空間としての都市にとっても水は深いかかわりをもつ物質であった。
 囲い地としての中世都市、ひいては職住近接の完結した機能をもつ理想都市としてのガーデン・シティが、内部空間(アーバン・インテリア・スペースあるいはパブリック・スペース)を熟成させるとともに、外部へと繋がっていく契機となるのが水のイメージであり、水に浮かぶ箱船としての住居、あるいは緑の樹海に囲まれた島としての都市のイメージであったといえるだろう。


【119】生活美学都市について(3-3)

■ガーデン・シティの起源

 川勝平太氏は『文明の海洋史観』(中央公論社)で、ガーデン・シティの起源がどこにあるかを論じている。

《それはほぼ疑いなく幕末に日本を訪れた外国人の日本都市のイメージである。家に縁側があって庭に面し、長屋の狭い路地にも朝顔や植木鉢をおいて緑を大切にした百万都市江戸の生活風景を外国人は garden city と形容した。庭園都市という形容は暮らしのなかに緑(自然)が育てられ、生活と庭が一体となっているさまをとらえたものである。それが外国に伝わり、ハワードによって都市づくりのモデルとなり、一世を風靡した。庭園(田園)都市の究極の原型をたどっていくと日本に行き着くのである。》

 川勝氏が例証として挙げるのは、幕末の英国初代公使オールコックの『大君の都』(日本の園芸農園と農村の風景を激賞)、明治5年に来日した近代観光業の創始者トーマス・クック(日本の自然と景観の美しさに魅了され日本を理想郷として宣伝)、西南戦争の翌年に東北・北海道を旅したイザベラ・バードの『日本奥地紀行』(日本の田園風景の美しさを「エデンの園」「アジアのアルカディア」と賞賛)で、いずれも英国内に多大な影響を及ぼした著作であり人物であった。
 これらの記録や宣伝が、ハワードの思想に直接関係したのかどうか、あるいは20世紀初頭の二つの偉大な発明の一つといわれたガーデン・シティが、《暮らしのなかに緑(自然)が育てられ、生活と庭が一体となっているさま》という形容で尽きるものかどうかの吟味は、ここではおく。

■ガーデン・アイランズ

 川勝氏の著書で注目したいのは、以下の三点である。
 第一に、川勝氏が「水の惑星」としての地球のイメージ──《大小の陸地は地球表面に浮かぶ島である。》──を念頭におきつつ、21世紀に出現するであろう「太平洋文明」の主要な担い手を、日本を軸にしたアジアNIES(新興工業経済群)とASEAN(東南アジア諸国連合)、すなわち世界でもっとも「島」の多い西太平洋海域であると指摘していること。川勝氏はこの海域を、異なる文化・言語・宗教の混在する豊穰の海と呼び、西太平洋の多くの海の連なりを、チグリス・ユーフラテス文明の「肥沃の三日月地帯」にちなんで「豊穰の半月弧」と名づけている。
 第二に、21世紀の日本文明のイメージを、過去二千年にわたって東西両文明を受容してきた歴史を踏まえた「世界諸文明の生きた博物館」と、六千八百余りの島々からなり、亜寒帯から亜熱帯までをも含む生態系の宝庫ともいうべき植生を生かした「緑の地球の理念的縮図」(地球的自然の箱船)と規定していること。川勝氏は、「豊穰の半月弧」の要の位置にある日本は、開かれた海洋国としての道を歩むほかはないと述べている。
 第三に、日本にとってのフロンティアは海だけではなく国内にもあり、それは過疎地(多自然居住地域)あるいは中山間地域であると指摘していること。21世紀はネットワークの時代ともいわれるが、とりわけネットワークのメリットは過疎地において際立つのであって、生活と庭が一体となったかつての暮らしを取り戻すためには、近代化とは都市化だと考えてきた明治以来の誤謬を改め、交通・情報・通信のインフラ整備に支えられた多自然居住地域での美しい生活様式を開花させるしかないと川勝氏は主張している。
 以上の事柄を総合して、川勝氏は「庭園の島」というコンセプトを掲げるのである。

《日本人が「家」と「庭」を一体とした生活様式をもち、緑したたる景観を作りあげれば、“庭園の島(Garden Islands)”の評判を得て観光客が増えるに違いない。それは内需拡大と観光客増大という一石二鳥の経済効果をもたらすばかりか、日本文化の再生となり、生活に自信と誇りを与えるであろう。日本固有の価値である「自然との調和」を、暮らしの立て方の基礎である「家」「庭」一体の本来の「家庭」を再構築することによって実現できるのである。宮沢賢治が岩手県の理想型を作ろうとしたように、多様な自然の理想型が各地で実現すれば、日本は花のある“庭園の島(Garden Islands)”として、「太平洋に浮かぶアルカディア(理想郷)」と呼ばれるにちがいない。「太平洋に浮かぶ“庭園の島(Garden Islands)”日本」は夢ではない。日本人の生活風景はかつてそう呼ばれたように「アルカディア(理想郷)」「エデンの園」たりうる。》

■21世紀のガーデン・シティ構想

 川勝氏の説くガーデン・アイランズ論は、二つの要素をもっている。
 その一は、日本型のガーデン・シティ(田園郊外)がはらんでいた可能性を現代において再評価する契機をもっていることである。ここでいう日本型田園都市の可能性とは、大屋霊城が花苑都市論で述べていた「精神的の楽天地」としての「職工村」のアイデアに見られるような、都市をその居住者の精神的充足においてとらえる発想──生活美学を通して都市を考える観点──をいう。
 川勝氏の提案は、大都市とこれに従属する郊外住宅地(田園郊外)といった旧来の関係を、情報インフラをはじめとする社会基盤の整備による職住一体化(大屋霊城にならって、これに「遊」を加えることもできるだろう)によってくつがえし、さらにこれを都市部と過疎部(多自然居住地域)の関係として列島全体にまで拡張しようというものだ。
 その二は、都市を「島」と見たてることによって、多様な歴史、文化、風土からなる群島として都市のネットワーク(連携)を構築する視点を提示していることである。
 その背景には、マルクス由来の唯物史観とこれに抗する梅棹忠夫の生態史観をともに「陸地史観」として批判し、独自の「海洋史観」を提唱する川勝氏の文明論的な展望がひかえているのだが、ここでは、「群島」としての水平的な都市のネットワークが国境という(陸地史観的な)囲いを越えて、西太平洋の島々(川勝氏のいう「豊穰の半月弧」)へとつながっていくものであることを確認しておきたい。それは、ハワードがガーデン・シティを都市群として構想していたことの現代版と見ていいだろう。
 川勝氏のガーデン・アイランズ論は、中央集権的あるいは帝国主義的な権力構造を不断に解体しつつ、都市連合としての国土構造の骨格と国際的な関係構築の方向までも示そうとするものであり、まさに21世紀の理想都市構想にふさわしいビジョンではないかと思うのである。

■磯崎新の海市─もう一つのユートピア

 中国三大長流の一つ、珠江が南シナ海に注ぐデルタの中央に珠海市がある。1993年、磯崎新氏は珠海市から、横琴島南岸地区の開発計画の策定を依頼された。横琴島は珠海・マカオ両市の南端に位置し、珠海経済特区のなかで大規模な経済開発(ハイテク産業、流通基地、金融センター、政府系業務施設、文化娯楽リゾート施設、住宅等)が進められている。
 磯崎氏はまず、珠海を中心に半径3000キロメートル(珠海・東京間の距離)の円を描くと、東アジアの主要都市がほぼ含まれることに着目した。そして、横琴島の沖2マイルの海域での人工島建設を提案し、この構想を「海市」(中国語で蜃気楼を意味する)と名づけたのである。(ちなみに、珠海は川勝氏がいう「豊穰の半月弧」のほぼ中央部に位置している。)
 磯崎氏は、浅田彰氏との共同レポート「「海市」計画への幻の序論」(『海市』NTT出版所収)で、次のように書いている。

《1999年にマカオが中国本土に返還されたとき、珠海市は、それを横琴島と合併して、あらたな政治・経済特別区をつくる構想をもっている。「海市」はさらにその沖の洋上にあるので、これを自立させて、たとえばアジア共同体が共有するテリトリーとする。少なくとも今後しばらくは存続しているアジアの民族国家がヨーロッパ・ユニオンのような新しい相互の関係を組み立てねばならない時期は早晩訪れる。そのときアジア文化圏の全部をちょうど3000キロメートル圏におさめるこの「海市」の位置は、洋上であることも含めて、適切であろう。同時に、地表面をもっぱら統治領域としてきた近代に対して、中世以前の海域を単位にした文化圏があらためて再考されることになるだろう。ここにアジア各国は代議制を介して代表を送る。その合議のための諸施設をここに建設するのである。》

 磯崎氏がこのヴェネツィアを思わせる人工島計画で試みようとしているのは、現代のユートピアづくりにほかならない。
 かつてトマス・モアがユートピア(どこにもない場所)を語ったとき、彼はそれを大航海によって発見された島に設定していた。このように、ユートピアと島はきわめて親和的である。しかしそれが「島」であるためには、外界が、すなわち海を介して連鎖する他の「島々」が存在していなければならない。そうでなければ島は孤島にすぎず、大陸とは異なるもののやはり「地表面」にすぎないものとなるだろう。そして、海とはまさに(砂漠と同様)交通の場であり、島と島をつなぐ「街路」なのである。

■アーキペラゴ・モデル

 シャルル・フーリエは、人間がもつ810の情念(欲望)を代表する男女のカップル1620人による農業生活協同組合「ファランジェ」と、その成員が共同で生活する四階建ての宿舎「ファランステール」(労働を快楽に変えるユートピアの実験室)を構想したが、このユートピアの単位であるファランジェは「渦巻き」と呼ばれていた。  浅田氏は前掲レポートで、次のように書いている。

《実際、ファランジェは、それだけで自足する貧しい農業共同体などではなく、常に他のファランジェとの交通に向かって開かれており、ファランジェの住居たるファランステールも、保護というより、循環と交流のために設計されている。その間を往来する巡礼職人や巡礼騎士団、そして芸人たちは、教養を積んで故郷に帰る遍歴者ではなく、自他の特異性を開発しながら永遠に旅を続ける遊牧民なのである。》

 「海市」とは、常に生成と変貌のプロセスにある「渦巻き」、すなわち多くの島々の連鎖として構想された現代のユートピアのいわば雛型でありメタファーにほかなるまい。磯崎・浅田両氏は、このような新しい都市(国家)のあり方を示すコンセプトを、大陸モデルと孤島モデルの中間としての「群島(アーキペラゴ)モデル」と名づけている。
 磯崎氏が「日仏文化サミット '97」の基調講演で、「幻想の国「日本」から国境線のない群島─アーキペラゴへ」と題して次のように語っているのは、まさにこのアーキペラゴ・モデルなのである(『論座』1998年1月号)。

《私は、「日本」から離れて、世界の各地で実際に仕事をする機会を得た結果、ひとつの状態に立ち至ることを夢想しています。それは世界のすべての人々が国境線なしに発想して、文化的優劣なしに対等の立場を守ることです。
 このとき「島国」は国という呼称を捨てて「島」になるでしょう。これをさらに推し進めると、大陸もまた、多くの「島」になるはずです。これは西欧/東洋、フランス/日本といった地政学的視点が廃棄されることにも通じるでしょう。
 すでに電脳ネットワークのなかにウェブ・サイトと呼ばれる土地がうまれはじめています。民族国家の枠組みは容易に超えられています。このときモデルになるのは、絶対的中心がなく、逆にいずれの位置もが中心になっている状態、すなわち群島[アーキペラゴ]です。私たちが組みたてる言説はあらためて、群島的視点によって再編されるべきだろうと考えられます。》