無意識をめぐる冒険



【97】無意識をめぐる冒険(その1)

[1]
 無意識をめぐる冒険を始めよう。といっても、練に練った作戦や透き通った見通しや頼もしい兵站をもちあわせているわけではないので、手近に見つけたありあわせの素材を使って、勘と運と風を頼りに気ままに漂流してみたいということだ。

[2]
 無意識には三つの類型がある。──以下は、典拠や論拠があっての分類ではなく、直感に基づく(使い道のない)作業仮説にすぎない。

 第一の類型。深層や太古といった観察したり触れたりできない特別の場所に存在するもの。それはさらに、個人的なものと集団的なものとに分類される。基本的に内在するものだが、稀に超越するものがある。
 第二の類型。それについて語ったり分析したりすることが(原理的・論理的に)できないもの。例外なく集団的なもの。それは内在するものでも外在するものでも超越するものでもなく、強いていえばそのような位置関係が成立する場をしつらえつつこれに即して存在するものである。
 第三の類型。意識あるものを取り巻いているもの。第一、第二の類型とは異なって、観察することも触れることも語ることも分析することもできる。集団的なものだが、個人的に特異なかたちで表現される場合もある。それは(定義により)外在するものだが、超越するものではない。(あるいは第一の類型の無意識が露呈したもの)

[3]
 黒崎宏「ウィトゲンシュタインとフロイト」(『言語ゲーム一元論』勁草書房、所収)から。

<…ウィトゲンシュタインにしたがえば、フロイトは、「無意識」という新しい事実を発見したのではなく、「無意識」という語の新しい語り方を発明したのである、という事になる。>(143頁)

<ウィトゲンシュタインとフロイトは、ともに「治療」を目指している。ウィトゲンシュタインは哲学的問題に悩む人の、そして、フロイトは神経症に悩む人の。しかも興味深いことに、ウィトゲンシュタイン自身が哲学的問題に悩み、フロイト自身が神経症に悩んだのである。
 さて、哲学的問題に悩む人は、言語の表面的構造に捉えられて、自由を失っているのであり、神経症に悩む人は、意識の底に沈んだ過去の経験に捉えられて、自由を失っているのである。そしてウィトゲンシュタインによれば、哲学的問題に悩む人をその悩みから解放するには、言語の表面的構造の底にある深層構造──深層文法──を自覚させればよいのであり、フロイトによれば、神経症に悩む人をその悩みから解放するには、意識の底に沈んだ過去の経験をとにかく自覚させねばならないのである。>(150頁)

<ウィトゲンシュタインによれば、意味、信念、知識、能力、理解、といったものは、観察可能な持続を有せず、したがって、観察の対象にはならない。それらは、体験内容を有せず、実はそもそも体験ではないのである。したがってそれらは、本来意識されないものなのである。実は、我々の自己というものは、大部分意識されないものなのである。それは行動に現われて初めて我々自身にも明らかになるものなのである。「自分が如何なる人間であるかは、自分自身が一番よく知っている」と言う事ほど、大きな嘘はないのである。そして、この点に関しては、フロイトの言うことも同じである。我々は、自我の他に、意識されないエスと超自我を抱えているからである。>(151-2頁)

[4]
 鹿島茂『『パサージュ論』熟読玩味』(青土社)から。

<…『パサージュ論』の方法論は、いかにも精神分析と非常によく似た手法に基づいている。>(12頁)

< 近代的な技術の世界と、神話のアルカイックな象徴の世界の間には照応関係の戯
  れがある、ということを否定できる者がいるとすれば、それは、考えることなく
  ぼんやりものを見ている者ぐらいだ。[N2a,1]

このように、資本主義技術のような近代的な事象の中に神話のような集団的無意識の働きを見る観点は、一見すると、古代神話などの集団的無意識を分析の対象にしたユング理論に多くを負うているように見える。ただその類似は思っているほど深いものではない。なかでも、ベンヤミンがユング派と決定的に異なるのは、「個人の夢」と「集団の夢」の関係が、ちょうど裏返しになっていると考えていることである。

  いうまでもなく、個人にとって外的であるようなかなり多くのものが、集団にと
  っては内的なものである。個人の内面には臓器感覚、つまり病気だとか健康だと
  いう感じがあるように、集団の内面には建築やモード、いやそれどころか、空模
  様さえも含まれている。[K1,5]

ベンヤミンの直感の独創性はあげてここにある。すなわち、個人が目覚めているとき集団は眠っている。個人にとって外的なものが集団にとって内的なものとしてあらわれてくるという「個人/集団」の裏返しの接続関係が、一九世紀という資本主義の時代の特徴となっていることを見抜いた点、いいかえれば事物としての形象に「集団の夢」のあらわれを見た点に、『パサージュ論』の核心があるのだ。>(14-5頁)

[5]
 フロイトは無意識を「象形文字」として捉えていた(らしい)。ラカンはこれ踏まえて、無意識=象形文字を常に露出させている日本語のような文字の使い方をする者には精神分析は不要だと、日本での講演で語っている(らしい)。

                                      


【98】無意識をめぐる冒険(その2)

[6]
 無意識の分類学。──遺伝する無意識(レオポルト・ソンディの家族的無意識)と遺伝しない無意識(フロイトの個人的無意識・ユングの集合的無意識)。

[7]
 木村敏「無意識と主体性」(岩波講座現代思想3『無意識の発見』所収)から。

<…ソンディの運命分析は、個人の一見「主体的」な行動を制約する「無意識」の要因として、個体発生の途上での幼児期の性体験を重視するフロイトの「個人的無意識」と、人類の系統発生に内在する社会的文化構造の「原型」を問題とするユングの「集団的無意識」とのいわば中間にあり、個人の欲動の運命についてある種の「遺伝」を想定する「家族的無意識」の理論として位置づけられている。フロイトもユングも、それなりの仕方で、欲動の遺伝ないし系統発生を想定はした。しかし彼らはいずれも、人類史上の「先史時代」に欲動の起源を──決定論的に──位置づけた。たとえば個人の心的活動におけるタブーが太古の父親殺しに由来するという想定は、すべての個人にとってひとしなみに妥当する仮説である。そこには異なった遺伝型が異なった表現型を方向づけるといった発想は認められない。これに対してソンディは、各個人が両親から継承している遺伝形質そのもののなかに、さまざまな遺伝子を介して伝達される「祖先の意思」(Ahnenanspruch)を見ようとする。>(291-2頁)

[8]
 無意識の類型学。──視覚的無意識と聴覚的無意識。

[9]
 長谷正人(千葉大学文学部社会学・映像文化論)「ベンヤミンと視覚的無意識」(http://www.apn.co.jp/photo/ipmj/eizou/eizou20.html:“Internet Photo Magazine Japan”所収)から。

<ベンヤミンによる映像の議論(「複製芸術時代の芸術作品」を中心とする)は、なぜかいつも「アウラの喪失」をキーワードにして紹介されることになっている。ベンヤミンの芸術論の、現代に通ずるような先見性と意義は、「アウラの裏失」を論じたところにあるのだと。例えば、そうしたベンヤミン諭は、(私流に言えば)以下のように展開することができるだろう。一一伝統的に芸術作品は、それを享受する人々に対してある種のアウラ(つまり神秘的な光=オーラ)を発していた。つまり芸術作品を見ることは、もともとはその神秘性を発揮する絵画や彫刻を唯一無二の存在として「礼拝」的に崇め奉ることだった。しかし複製技術としての写真と映画は、その「唯一無二性」を芸術作品から奪い取ってしまう。たとえば、写真によって、いつでもどこでも見ることができるようになったダヴィンチの「モナリザ」は、ルーヴルに行かないかぎり見ることのできなかった貴重な有難みなどない、平凡で大衆的なイメージにすぎないだろう。いまやルーヴルに行って「モナリザ」を見た人間さえ、「写真そっくり」と確認して安心するだけである。複製芸術時代の芸術作品は、こうして宗教的特権性=アウラを喪失するのである。一一こんな具合だ。
 確かにベンヤミンは、このように言っている。だが、それは彼の議論のそれほど面白くない部分だと私は思う。私たちは、ベンヤミンの映像論の別の、もっと興味深い側面を取り出すことにしよう。その場合のキーワードは、「アウラ」ではなく「無意識」でなければならない。例えばベンヤミンは、「カメラに語りかける自然は、肉眼に語りかける自然と異な」り、「人間によって意識を織り込まれた空間の代わりに、無意識が織り込まれた空間が立ち現れる」(以上、「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミンコレクションI』ちくま文庫所収、619頁)と論じている。私たちが注意したいのは、この「カメラ」に写し出される視覚的空間としての「無意識」である。>

[10]
 カメラをめぐって。──無意識とは機械である。あるいは、機械とは無意識である。夢見られた機械、あるいは夢見る機械。

[11]
 田中純「〈光の皮膚〉の肌理 ─ 都市写真という寓意(非都市の存在論2)」(http://ziggy.c.u-tokyo.ac.jp/files/noncity2.html:『10+1』第6号、INAX出版、1996年7月)から。

<C・S・パースの記号論が示すように、写真はイコン(類似記号)でもシンボル(象徴記号)でもなく、インデックス(指標記号)である。それは対象との間の見かけ上の類似性に依拠して記号となるのではないし、文化的コードの媒介によって象徴的に対象と関係づけられているのでもない。あらゆる写真とは光によって感光紙上に残された物理的痕跡であり、砂の上の足跡のように ─ あるいはトリノの聖骸布のように ─ 、対象と写真の間に存在するのは物質的な接触関係のみであって、そこに文化的コードの入り込む余地はない。固有名をインデックスと関係づけたパースにならえば、写真とはいわば時間と場所を特定された出来事の瞬間に与えられた固有名なのであって、その固有名を確定記述に置き換えることはできない。対象との類似は、写真が物理的に対象との一致を強いられるという条件から生まれた副次的な性質でしかない。インデックスにあってはむしろ、あらゆる形象の消失こそが、その記号と指示対象との直接的接触や真正性を保証するものとなりうる。  写真とはこのように、イコンの仮面をかぶったインデックスとして、つねに二重性において存在する奇怪な記号である。
 写真のこのインデックス的性格ゆえに、写真を見るという経験は視覚的というよりも、はるかに触覚的なものとなる。「撮影されたものの肉体と私の視線とは、へその緒のようなもので結ばれている。光は触知できないものであるが、写真の場合、光はまさしく肉体的媒質であり、一種の皮膚であって、私は撮影された男や女とそれを共有するのである。」  写真とは対象となる現実世界から剥ぎとられた〈光の皮膚〉である。物質としての光が凝固して、世界の表層から剥落したそのかけらが写真という皮膚なのだ。
 この触覚的な物質性において、写真は想像的模倣でもコード化による象徴的表象でもない、現実の直接的な〈描出〉なのである。スラヴォイ・ジジェクはミシェル・シオンの映画音楽理論に由来する〈描出されたもの(rendu)〉という概念を、後期ラカン理論におけるシニフィアンの次元に還元できない前言説的な〈文字〉としての〈記号〉の概念に対応させている。  そして、そのような〈文字〉は象徴化しえない〈現実的なもの〉との連続性を保っており、いまだ狂った享楽に浸透されている。イメージの個々の内容ではなく、記号としての性格そのものにおいて、写真とは原理的に読みえない〈文字〉であり、その物質性は目覚めた意識の流れを〈中断〉し、無意識へと直結してしまう。>

[12]
 新宮一成『無意識の組曲』(岩波書店)から。

<…私の中にあって私のものではない音の流れの存在を考えるとき、私の個人的な同一性が、それに強く依存していることを認めないわけにはいかない。私というものを示す音の流れがあって、今の場合、その流れはとりあえず言語ではなく、一定の音楽的潮流なのである。
 この音楽的潮流を無意識というべきであろうか。私はそう言ってもいいと思う。無意識は、私という個人が占有しているものではない。>(37頁)
<世界と意識との間の、根源的な音生成の場>(136頁)
<音楽の死体性の次元>(146頁)
<…我々に世界が音楽として与えられたとしたら、それは言語のような音楽であったことだろう。アントンウェーベルンは、音楽が言語であるということをしきりに強調した。それはたんに情趣をひこおこす音刺激ではない。言語のような、なにか簡素な法則性を帯びたものである。
 私を世界と出会わせた、言語のような音楽、それが無意識なのだと考えてみよう。>(296頁)

                                      


【99】無意識をめぐる冒険(その3)

[13]
 新宮一成『無意識の組曲』(岩波書店)から。

<乳児期には、「声」が人間と人間の間を司っていることは分かっても意味が分からないのである。セイレーンたちの歌は、その状態を抜け出して、言葉の象徴機能によって未来へと自らを企投する人間的自由への誘惑である。そして動くことのできないオデユッセウスの状態は、その可能性を断つこと、つまり未来に関連づけられたものとしての行為の「意味」を断念することを表わしている。そこではセイレーンたちの声は、いわば声の材質の美しさそのものへと純化されている。>(143-4頁)

[14]
 池内紀『モーツアルト考』(講談社学術文庫)から。

<ちょっと気になるところは、モーツアルトの手紙には、昨夜こんな夢を見て、といった記述がぜんぜんないんですよ。ちょっとそれは奇異な感じです。というのは、同時代のほかの人たちのものには、わりかしよく出てくるんです。ゲーテの若いころは、夢の記録をずいぶん書いているんです。…フロイトは自分の『夢判断』のなかで、かなりそれを整理して紹介しているんです。十八世紀は夢の時代だった。十九世紀は、それを忘れちゃって抑えこんだ。
 …モーツアルトは夢をみない人間だったというと、おもしろいんだけどな。しかしおそらくそうではなくて、ぜんぜん関心がなかったんでしょうね。夢というのは、非常に視覚的なものでしょう。つまり、夢というのはだいたい音がなくて、匂いもなくて、たえず視覚ですよね。…音のない世界で視覚のみというのは、非常に彼にとってはつまらなかったんでしょうね。>(117-8頁)

<モーツアルトの言葉遊びには、あきらかに思想がありますね。言葉そのものというか、人間の発する言葉の意味のほうは、あまり信じてなかった。形のほうです、彼が信じていたのは。意味というのは、非常に人間を苦しめるという意識があったでしょう。だから、形のほうだけで、彼は書きたかったんでしょうね。>(119頁)

[15]
 『無意識の組曲』によれば、フロイトが『夢判断』で述べた「幼年時代は、そのものとしては、もう無い」という精神分析全体にとっての基本認識は、<夢の表象が、その消え去ったものの代理として読まれるということ>、つまり<夢には意味がある>というもう一つの基本認識と結びついている。

<根源的な消失を表わす夢の代理装置、その装置に関してフロイトが驚いたのは、それはファロス(男根)をさし示す表象で満ちているということであった。フロイトは、詠嘆的な一句をそのことについて書き記している、「複雑な機械は、十中八九、ファルスである」と。
 機械は言うまでもなく生命の模像だ。このことはデカルトによって決定づけられ、今もまだ続いている。自動機械への情熱、フロイトも興味を惹かれた世紀末の人形愛、そして遺伝子複製の企て……。いつ果てるとも知れぬ、生命ならざるものから生命を産もうとするこの欲望は、その守り神として、古来の豊穰の御神体としてのファロスを戴いている。
 我々はフロイトの言葉を、もう少し正確に言い直すことができるであろう。夢の中の機械がファロスであるというより、機械が失われた生命の代理をなしうるという考えを、我々の夢の中に吹き込んだものがファロスなのだと。>(253頁)

[16]
 ニーチェもフロイトもウィトゲンシュタインも、みんなショーペンハウアーが好きだった。──カントの「物自体」がショーペンハウアーの「(生きんとする)意志」になり、フロイトの「無意識」になった。そして、ショーペンハウアーは、音楽こそが「意志」の(イデアの媒介によらない)客観化であり模写なのだという。

  [17]
 ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』(西尾幹二訳、中央公論社)から。

<さて、われわれにとっては、意志とは物自体であり、イデアとは一定の段階におけるこの意志の直接の客体性にあたるのである。>(347頁)

<われわれのこれまでの考察の結果、カントとプラトンの間には内面的な一致があり、両者の念頭にうかんでいた目標、両者を哲学することへとかり立て導いていった世界像は同一であるにもかかわらず、それでもわれわれの立場からみて、イデアと物自体は、端的に同じ一つのものであるということにはならない。むしろイデアはわれわれにとっては物自体の直接的な、したがって適切な客体性にすぎない。しかしこの物自体そのものは、意志であり、まだ客観化されてはいない、まだ表象にはなっていないかぎりにおいての意志なのである。>(353頁)

<[プラトンの言う意味での]イデアとは意志の適切な客観化のことである。個物の描写を通じて[なにしろ芸術作品そのものがつねに個物であるから]このようなイデアの認識をうながすこと[そうなるにはそれに対応する認識主観の側における変化が起こり得てこなければならないが]こそが、音楽以外のいっさいの芸術の目的なのである。つまり音楽以外のあらゆる芸術は、意志をただ間接的に、すなわちイデアを媒介として客観化するということになる。「個体化の原理」[個体そのものにも可能である認識の形式]のなかにイデアが入りこんで、イデアが数多性のうちに現象したものこそがまさにわれわれのこの現実世界にほかならないが、ところが音楽となると、イデアをとびこえてしまうものだから、音楽は現象するこの世界からさえ完全に独立し、端的に言って現象する世界を無視しているのであって、たとえこの世界がぜんぜん存在しないとしても、音楽だけはある程度まで存在しうるとも考えられるほどなのである。>(478-9頁)

<…世界を、肉体を与えられた音楽とよんでもいいし、肉体を与えられた意志とよぶこともできるだろう。>(487頁)

<…音楽はきわめて普遍的な言語であり、そのもっとも明白な現われ方からみて意志という概念で考えられている世界の内奥の本質、世界それ自体を、音楽は一種類の素材すなわち単なる音で言い表わし、しかもその際最大の規定性と真実性をそなえている…>(489頁)

[18]
 新宮一成『無意識の組曲』(岩波書店)から。

<音楽は時間芸術であると言われる。だがその意味は、音楽が時間の中で鳴るということではない。そうではなくて、音楽が時間なのである。音楽がなければ時間もない。すなわち、生命そのものの中に潜む時間は、原初的に音楽であるような何物かがなければ、人間的現象として現前することができないということである。>(129頁)

                                      


【100】無意識をめぐる冒険(その4)

[19]
 時計をめぐって。──無意識のメカニスム(自動機械=無限反復装置=永遠機関)としての時計。その中には、螺旋もしくは渦巻がしつらえられている。

[20]
 高津道昭『レオナルド=ダ=ヴィンチ 鏡面文字の謎』(新潮選書)から。

<…当時の機械時計は意外に進んでいたためレオナルドは大いに刺激され、自身で時計を作り出すというよりも、その原理や方法を学びとろうとし、多くのスケッチを行った。当時の時計の動力は、心棒に巻きつけた紐とその先端にぶら下がる錘による巻き戻しの効果を利用したものであり、無数の歯車で回転のスピードをコントロールしようとした。ただし、レオナルドの数十年前にすでにゼンマイが知られており、彼もそのいくつかのタイプについて考察を行っている。またレオナルドはゼンマイの力を均質化する方法として螺旋状の歯車の美しい図をいくつか残している(マドリッド手稿I)。>(36頁)

[21]
 時計をめぐって。──反復は眠気を誘い、夢を掬い出す。(砂。コロイド。ゲル。)あるいは、反復は死を分泌する。(究極の無意識としての死。無機物の無意識。あるいは、記憶を秘めた頭蓋骨。)

[22]
 『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上)』(杉浦明平訳、岩波文庫)から。

<点とは精神も分割しえないものである。>(77頁)

<点は無と線分との間の共通の極限であって、無でもなければ線でもなく、無と線との中間に位置を占めるものでもない。したがって無の終りと線の始りは互に接触してはいるが、連続してはいない。しかもかく接触するところに点が存する。無はかかる点の兄弟である。けだし想像しうるかぎりのすべての点は唯一個の点に等しいから。ちょうど数学のすべてのゼロが数値としては唯一個のゼロに等しいように。ゆえに、順々に真直ぐに接触している想像上の多数の点は線を構成するということにはならず、その結果、次々に横に並べた多数の線も決して面を作るものではなく、また残る隈なく次々に積重ねた多数の等しい面も決して立体をつくりはしない。何となればこの地上では非立体から立体をこしらえるわけにはゆかぬからである。>(79頁)

<物の極限はすべてその物のいかなる部分にも属さず、他のものの始りである。
 そこで、物の極限がその物にもまたその物に触れているものにも属さない以上、その極限は無にあたる。そして無にあたるものはすべて互に相等しく、合計した全部がその各々に等しく、その各々は全部に等しい。それゆえこの場合には部分が全体に、全体が部分に、分割可能なものが分割不可能なものに、有限が無限に等しいということになる。従って上述せるところによって、面、線、点は無である、というのは、その極限は無にあたるが、数学的に証明されるように、あらゆるゼロは全部のゼロにひとしく、全部のゼロは一つのゼロに等しいから。>(80頁)

<時間は連続量のうちに数えられるかもしれぬが、それは不可視であり、物体ではないから幾何学的範疇にそのまま入るというわけにはゆかない。…がしかし[時間は]、ただ幾何学の第一原理、すなわち点および線と一致する。点は時間における瞬間とくらべてもいいし、線は一定量の時間の長さに似ている。そして、ちょうど点が上述の線の始りでありかつ終りであるごとく、瞬間はある所与の時間の果てでありかつ始りである。>(81頁)

<いわゆる無なるものはただ時間と言葉の中にのみ見出される。時間においては過去と未来との間に見出され、現在には何ものをも持っていない。同様に[言葉においては]、存在しないとか、または不可能であるとか言われるものごとを表わす言葉のうちに[見出される]。>(82頁)

<仮想せられないもの、万一仮想せられたらそのものでなくなるものとはいかなるものであろうか?
 それは無限である。無限は仮想されたら、限定されて有限になるにちがいない。けだし仮想しうるものはすべてその端において自分をかこむ物と末端を接するが、仮想しえないものとは末端を有せざるものの謂であるから。>(83頁)

[23]
 無意識とは無限である。そして、無限としての無意識のかたちは螺旋であり、渦巻である。

[24]
 長尾重武『建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ』(中公新書)から。

<レオナルドの螺旋階段は実に興味深い。そこにあらわれた二重螺旋、多重螺旋階段のメリットは、別の階段を昇り降りする人に決して途中で出会うことはないということである。
 一つは各階へ直接階段で到達するもの、もう一つはいっそう複雑なものだ。これらは、しかし、昇り口をを間違えたら、下からもう一度やりなおす他はない。レオナルドがこうしたアイデアに夢中になったのは、…一つは上に述べた動線の分離ということだが、さらに階段は建築の内部の重要な循環系統だということである。それは外から内部へのつなぎのような装置でもある。人は階段を降りて街に出ていく。
 このように複雑な仕組みを考える際のレオナルドはことのほか生き生きしていたはずだ、それはまた建築のメカニズムそのものでもあるからだ。
 フランスのロワール河畔のシャンボール城の天守閣に相当する中心建物の中央には大螺旋階段が造られている。この螺旋階段の仕組みは、おそらくレオナルドのアイデアによるものと考えられる。…また、一種の二重螺旋階段がヴェネツィアの一六世紀の集合住宅に取り入れられ、それらは今日「レオナルド型階段」と呼ばれている。>(134-5頁)

                                      


【101】無意識をめぐる冒険(その5)

[25]
 無意識の論理学。──マッテ・ブランコは「分裂症における基礎的な論理─数学的構造」(廣石正和訳、現代思想 1996.10)で、無意識の論理が、通常の科学的な二値論理を代弁する「一般化の原理」(個体を集合の元であるかのようにあつかう:さらにこの集合を上位の集合の部分集合としてあつかい、以下同様に進む)と、その違反・逸脱としての「対称の原理」(あらゆる関係の逆をその関係と同一のものとしてあつかう:非対称的関係を対称的であるかのようにあつかう)からなるバイロジカルなものであることを論じている。そして、対称の原理からの帰結の一つである部分と全体の同一性を、無限集合のアイデアを使って考察している。以下、同論文に記された「原理」のみ抜粋しておく。

1.無意識は個体(人間、事物、概念)を、他のメンバーもしくは要素を含む集合もしくはクラスのメンバーであるかのようにあつかう。無意識はこのクラスを、より一般的なクラスのサブクラスとしてあつかい、このより一般的なクラスを、さらにより一般的なクラスのサブクラスもしくは部分集合としてあつかい、以下同様に進んでいく。(一般化の原理)

1-1.クラスや上位のクラスを選ぶにあたって、無意識は、一面では一般性を増すとともに他面では出発点となった個体の個別的特徴を保持してもいるような命題関数を選好する。

2.無意識は、あらゆる関係の逆をその関係と同一のものとしてあつかう。いいかえれば、非対称的な関係を対称的であるかのようにあつかう。(対称の原理)

2-1.対称の原理が適用されるとき、時間的継起はありえない。

2-2.対称の原理が適用されるとき、部分は全体とかならず同一となる。

2-2a.対称の原理が適用されるとき、ひとつの集合もしくはクラスのあらゆるメンバーは互いに同一のものとしてあつかわれ、また全体の集合もしくはクラスと同一のものとしてあつかわれる。したがって、それらのメンバーは、そのクラスを定義する命題関数をめぐって互換的なものとなり、またそれらのメンバーを区別するあらゆる命題関数をめぐって互換的なものとなる。

2-2aa.無意識は個体を知らず、クラス、あるいはクラスを定義する命題関数しか知らず、それゆえ個体を命題関数であるかのようにあつかう。

2-2aaa.クラスもしくは命題関数は個体の特徴をもつかのようにあつかわれる。すなわち、それらは「拡大された」もしくは「一般化された」個体のようなものである。

2-2b.対称の原理が適用されるとき、pかつpの否定というタイプに属するものを命題関数とするクラス、つまり定義のうえでは空となっているクラスが、空でないかのようにあつかわれることがある。

2-2c.対称の原理が適用されるとき、全体の各部分のあいだに隣接の関係はありえない。


【102】無意識をめぐる冒険(その6)

[26]
 村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に、オブジェのごとく屹立する時計塔が出てくる。

<塔は四角形の石造りで、それぞれが東西南北の方位を示し、上の方に行くほど細くなっている。先端には四面の文字盤がついており、その八本の針はそれぞれに十時三十五分のあたりを指したままぴくりとも動かない。文字盤の少し下あたりに見える小窓から推測すると、塔の内部はどうやら空洞になっており、梯子か何かで上にのぼることができるようだったが、そこに入る入口らしきものはどこにも見あたらなかった。異様なほどに高くそそり立っていたので、文字盤を読むためには旧橋をわたって南側まで行かねばならなかった。>(「4 世界の終り」)

(シェリングはゴシック建築を「凍れる音楽」と形容したという。──「世界の終り」の街の北に広がる半円形の広場の中央に建造された大聖堂は、さしあたり「凍れる時間」とでも形容すればいいのだろうか。)

[27]
 それにしてもなぜ、二組の双面のヤヌス(二組の双子)よろしく東西南北を(すなわち世界を)告知する時計は、「十時三十五分のあたり」で止まっているのだろう?

 バックミンスター・フラーは絵本『テトラスクロール』のなかで、正四面体を一面ずつ貼り合わせて一方向へ繋いでいくと、DNAの二重螺旋の模型ができると書いていた(と記憶している)。そのとき、隣り合う正四面体の辺と辺のなす角度(確か、109.5度)が、「十時三十五分のあたり」を示す長針と短針のなす角度にほぼ等しいものになる。──この仮説が正しいとすれば、より正確には「十時三十四分三十八.一八一八……秒のあたり」になるはずだ。

 論拠。「鼠三部作」──『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』──の「僕」は、大学で生物学を専攻した。

[28]
 村上春樹『羊をめぐる冒険』に、死んだ友人(「鼠」)と「僕」が語り合う場面が出てくる。

<「台所のはりで首を吊ったんだ」と鼠はいった。(略)
 「いつ?」
 「君がここに来る一週間前だよ」
 「その時に時計のねじを巻いたんだね?」
 鼠は笑った。「まったく不思議なもんさ。だって三十年にわたる人生の最後の最後にやったことが時計のねじを巻くことなんだぜ。死んでいく人間が何故時計のねじなんて巻くんだろうね。おかしなもんだよ」
 鼠が黙るとあたりはしんとして、時計の音だけが聞こえた。雪がそれ以外の全ての音を吸いこんでいた。まるで宇宙の中に我々二人だけがとり残されたような気分だった。
 「もし……」
 「よせよ」と鼠が僕の言葉を遮った。「もうもしはないんだよ。君にもそれはわかっているはずだ。そうだろう?」>(第八章12「時計のねじをまく鼠」)

[29]
 ところで、『羊をめぐる冒険』は「写真の消滅」によって一つの物語が終わり、二つの写真との出会いを通して新しい物語(無意識へと遡行する冒険=冥界降り)が始まる。

(この作品では、前二作においてもそうであったように、時間は常に年号や月日、時刻として厳密に表示され、音楽はいつも見えない衣装のように表層をすべっていく。それらは決して無意識を宿したり開示したりはしない。繰り返し几帳面に記録される性交や飲酒の場面が決して「陶酔」をもたらさないように。──その代わりここでは写真が「視覚的無意識」を、あるいは「読めない文字」を露呈させている。)

[30]
 「あなたのことは今でも好きよ。でも、きっとそういう問題でもないのね。それは自分でもよくわかっているのよ」──そう言って、「僕」の妻はスリップ一枚残さずアパートを出ていった。

<アルバムを開いてみると彼女が写っている写真は一枚残らずはぎ取られていた。僕と彼女が一緒に写ったものは、彼女の部分だけがきちんと切り取られ、あとには僕だけが残されていた。僕一人が写っている写真と風景と動物を撮った写真はそのままだった。僕はいつも一人ぼっちで、そのあいだに山や川や鹿や猫の写真があった、まるで生まれた時も一人で、ずっと一人ぼっちで、これから先も一人というような気がした。(略)何ひとつ残すまい、と彼女は決めたのだ。僕はそれに従うほかない。あるいは彼女が意図したように、そもそもの始めから彼女は存在しなかったのだと思い込む他ない。>(第二章2「彼女の消滅・写真の消滅・スリップの消滅」)

[31]
 その直後、「僕」は三枚の巨大な耳の写真に出会い、その耳の持ち主に出会う。この「僕」の新しいガール・フレンドは、小さな出版社のアルバイトの校正係であり、耳専門の広告モデルであり、そしてあるささやかなクラブに属するコール・ガールだった。耳を隠した彼女は、美人揃いのコール・ガールたちの中ではいちばん見栄えが悪く、平凡ななりをしていた。しかし、耳を「開放」した彼女は別人だった。

<彼女は非現実的なまでに美しかった。その美しさは僕がそれまでに目にしたこともなく、想像したこともない美しさだった。全てが宇宙のように膨張し、そして同時に全てが厚い氷河の中に凝縮されていた。全てが傲慢なまでに膨張され、そして同時に全てが削ぎ落されていた。それは僕の知る限りのあらゆる観念を超えていた。彼女と彼女の耳は一体となり、古い一筋の光のように時の斜面を滑り落ちていった。
「君はすごいよ」とやっと一息ついてから僕は言った。
「しってるわ」と彼女は言った。「これが耳を開放した状態なの」>(第三章2「耳の開放について」)

[32]
 そして、鼠からの手紙に添えられていた写真。

<一枚の写真を同封する。羊の写真だ。これをどこでもいいから人目につくところにもちだしてほしい。>(第五章2「二番目の鼠の手紙 消印は一九七八年五月?日」)

 この写真から「羊をめぐる冒険」が始まり、「僕」は耳のモデルに導かれて、鼠が住み首を吊って死んだ別荘(羊の写真が移された場所)へたどり着く。そして彼女は去り、「僕」は空腹感に襲われる。

<「あんたはあの女にはもう二度と会えないよ」
 「僕が自分のことしか考えなかったから?」
 「そうだよ。あんたが自分のことしか考えなかったからだよ。その報いだよ」>(第八章7「羊男来る」)

[33]
 トマス・ハリスの『羊たちの沈黙』を三度読み、ジョナサン・デミ監督の映画を五度観ても、いまだによく判らない箇所がある。FBI捜査官クラレス・スターリング(ジョディ・フォスター)が、個人情報を与えることと引き換えにハンニバル・レクター博士(アンソニー・ホプキンス)からバッハァロー・ビル事件の犯人像を聞き出す場面に出てくる「羊の悲鳴」の意味だ。

 ──幼い頃母を失い、十歳の時警察官だった父が殺されて孤児になたクラレスは、母のいとこの家に引き取られる。そこは羊と馬の牧場だった。ある夜目覚めたクラレスは、殺される子羊の悲鳴を聞く。逃がそうとしても小屋から動かない羊たち。一匹の羊を抱いて逃げ出したクラレスは、数時間後保安官につかまり、怒った牧場主は彼女を施設に預ける。

 このクラレスの「個人情報」が語られる間、映画では、ジョディ・フォスターとアンソニー・ホプキンスの顔が交互に大きく、そして長く映し出されている。──美しく無防備な被害者の顔と恐ろしい食人者(分析者)の顔。自分では決して見ることのできない無意識を露呈させた若い女性と無意識のコレクターたる老いた男性。とりわけジョディ・フォスターの「顔」は、生きながらに屍姦された女を思わせる生々しい衝撃力をもっていた。映画が創造しえた最高のマスクの一つだろう。

(ポスターに使われビデオ・パッケージにも印刷された、骸骨の顔をもつ蛾に唇を覆われたジョディ・フォスターの「顔」は、フェルナン・クノップフの「褐色の瞳と青い花」に描かれた女性を思わせる。──無意識が凝固したデス・マスク。)


【103】無意識をめぐる冒険(その7)

[34]
 耳。──無意識へ通ずる穴。迷路を内蔵した器官。そこにはカタツムリが棲息し、カタツムリは螺旋形の殻に包まれている。

<【内耳】耳の最深部。側頭骨の岩様部内にあり、音の受容をつかさどる蝸牛管と、平衡感覚をつかさどる三半規管及び前庭とを含んでいる。これらの器官を迷路ともいう。>(『広辞苑』)

[35]
 そして、耳は「双子」だ。

[36]
 西成彦「耳なし芳一考」(『ラフカディオ・ハーンの耳』岩波書店所収)から。

<ハーンが極東の片隅で息をひきとってから間もなく、プラハの一ユダヤ系作家は、「笛吹き」におびえながら、それでも「文学」という名の「笛」を手にして、芸人としての道を歩みつづけ、数々の寓話を書き残した。そのなかのひとつ「セーレンの沈黙」は、どんなに耳を澄ませようとも、もはや異界そのものが雑音を発しなくなり、たしかに汚されずにはすむ代わりに、身体の一部として存在する理由をいつ失ってしまわないともかぎらない耳の未来を、暗澹たる展望とともに予言してみせた不気味な物語である。
 セーレンの歌声に惑わされまいと、オデュッセウスは耳に蝋をつめこんで舟を進める。ところが、セーレンたちはそんなことで負けてはいない。彼女たちが考えた対抗策は、沈黙によってオデュッセウスを迎えることだった。そうとも知らず自惚れるオデュッセウス。自信に満ちたオデュッセウスに見とれるセーレンたち。傲慢な存在どうしの恍惚としたすれちがいの中に、カフカは現代の寓意のひとつを見たのだった。みずから耳を塞ぐものと、みすみす歌うことをやめてしまったもの。現代社会はこんなふうにして、音響性に乏しい静寂へと近づいていく。音楽的な種族の衰退。ハーンとカフカのあいだには共通の時代認識があった。>(203頁)

[37]
 カフカの寓話に出てくる「動物の声」。──「ピーピー Piepsen」(『変身』)。「シューシュー Zischen」「ピューピュー Pfeifen」(『巣穴』)。あるいは、『或る犬の探究』に出てくる「音楽犬 Musikhunde」。──そして、最後の作品『歌手ヨゼフィーネ、あるいは鼠族』を書き終えたとき、カフカは咽喉結核のために分節音を失っていた。(ちなみに、カフカは友人にあてた手紙の中で、『ヨゼフィーネ』をピーピーという音についての物語とよんでいる。)

[38]
 鼠族には幼年時代がない。

[39]
 小林康夫「カフカの門」(『現代思想』1987.12所収)から。

<カフカの世界は、一見するとむしろ余りにもはっきりした建築的な形象で満ちている。(略)他の幾つかの形象群(例えば、動物の形象群)と並んで、建築の形象群はカフカの世界のもっとも本質的な次元を構成していることは間違いがない。すなわち、カフカの作品は、つねにその構造が明らかに見て取れるはっきりした空間的、建築的区域──門、閾、部屋、寝室、窓、階段、廊下、中庭、囲い、屏、回廊、街路、広場、橋、牢獄、城、など──の果てしない連鎖である。そして、この連鎖、すなわち同じものの反復としての連鎖が、最終的には、部分において成立している建築的な力学をすべて宙吊りにし、不安のうちに解体してしまうのである。>(65頁)

[40]
 そして、耳は「門」である。

[41]
 あるいは、キノコの中に「耳」がある。

[42]
 「私たち」という名前の妖術使いに人間の造り方を教わるため
 その頃私たちの父は毎日森へ入っていきました
 森は もう そこには ない はず です
 なぜなら 森は もう そこ には ない から

     ※

 茸たちよ
 おまえたちのために用意した
 この盛りだくさんのコトバのサラダを
 もう父は食べる力すらないのだよ

 茸たちよ
 私が名付けたものたちよ
 おまえたちにとって私というこの立体的な論理構造は
 端的にいってもう存在しないように思うのだよ

 茸たちよ
 私の最後のコトバを
 その見えない耳で聞いていておくれ
 父はもうおまえたちの
 際限のない議論や壊れ続ける形態には
 うんざりなのだよ
         ──「茸たちのために」

[43]
 茸。──寄生するもの。妖精へと化身するもの。ファロスのかたちをしたもの。英語の辞書で「音楽」と並んで掲載されるもの。多数の「性」をもつもの。死ぬと消えてしまうクラゲに似たもの。幻覚や陶酔をもたらすもの。異界への入口にはえるもの。地球内部の空洞で巨大な森を形成するもの(ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』)。植物と動物の間にあるもの。そして、生と死の間にあるもの。

[44]
 南方熊楠は、岩田準一宛書簡(南方熊楠コレクション第三巻『浄のセクソロジー』河出文庫所収)の中で次のように書いている。

<故に、人が見て原形体といい、無形のつまらぬ痰様の半流動体と蔑視さるその原形体が活物で、後日蕃殖の胞子を護るだけの粘菌は実は死物なり。死物を見て粘菌が生えたと言って活物と見、活物を見て何の分職もなきゆえ、原形体は死物同然と思う人間の見解がまるで間違いおる。>(336頁)

[45]
 南方熊楠が語る粘菌とは、言語のことなのではないか。──死物は文字。活物は無意識?

 そして茸の森とは、図書館のことだ。──妖精たちが歌い踊る森。妖精とは言語の精。妖精の踊りはカリグラフィー。<世界と意識との間の、根源的な音生成の場>(新宮一成『無意識の組曲』136頁)。


【104】無意識をめぐる冒険(その8)

[46]
 無意識の貯蔵庫としての図書館。──天使たちがたむろし、老ホメロスが訪れる場所(『ベルリン・天使の詩』)。

[47]
 「その宇宙(他の人びとはそれを図書館とよぶ)」──二十世紀アルゼンチンの盲目の図書館長ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、「バベルの図書館」と題された作品をこのような印象的な記述をもって書き始めている。

 「図書館は、永遠をこえて存在する」という公理が示されたこの作品において、「図書館」とは、謎めいた場所、たとえばすべての生物の遺伝子によって編まれた書物が配架された場所をぼくたちに告知する建造物を意味している。

 しかしそれは、ウンベルト・エーコの長編ミステリー『薔薇の名前』に登場する、十四世紀イタリア、ベネディクト会修道院の盲目の文書館長ホルヘによって炎上させられた、開かずの部屋・知の迷宮たる「図書館」のような、ぼくたちが手に触れることのできる可視物ではないに違いない。

 強いていえば、灰燼に帰した「図書館」のイメージ、宇宙のすべてがあらかじめ記述されていた始原の書物の散逸のイメージこそが、二十世紀の図書館長が描き出そうとした「図書館」なのだろう。

[48]
 ところで、このブルゴスのホルヘの「(知識を)保存せよ、しかし保存するのみ」という訓戒は、中世ヨーロッパが果たした歴史的役割を的確に表現している。

 図式的にいえば、ギリシア・ローマ古典古代の思想・技術をキリスト教という心的世界を媒体として近代へと継承すること。もちろんその過程において両者、知と信のアマルガム(たとえばトマス・アキナスによるスコラ哲学の完成)が得られたことは特筆すべき出来事だ。

 しかしそれ自体「保存」のための理論武装といっていえないことはないのであって、いずれにせよ、キリスト教という海に沈んだ古典古代の彫塑が、実体を喪失してもなお全身を覆う海中生物たちの死骸によって「保存」され、きたるべき知の大航海時代において復元される時を待つ──この気の遠くなるような時間の集積こそが中世ヨーロッパの意味だったのであり、修道院の文書館はその象徴的な建造物だったのである。

 しかしその時代を生きる者はその意味を問うてはならない。「保存するのみ」なのだ。

[49]
 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で、時計塔のある街にやってきた「僕」は、門番から、毎日夕方の六時から十時か十一時まで図書館へ行って古い夢を読むのがあんたの仕事だと言われる。

<「古い夢?」と僕は思わず訊きかえした。「古い夢というのはいったい何なのですか?」
 門番は小型のナイフを使って木片から丸い楔か木釘のようなものを作っていたが、その手を休めてテーブルの上にちらばった削りかすを集め、ごみ箱の中に捨てた。 「古い夢というのは、古い夢さ。図書館にいけば嫌というほどある。好きなだけ手にとってとっくりと眺めてみるといいやね。」>(「4 世界の終り」)

 図書館にいけば嫌というほどある「古い夢」とは、動物の頭骨である。正確に言えば、動物の頭骨の中に古い夢が入っているというわけだ。(ところで、門番が作っていたのはいったい何なのだろう。文字ではないのだろうか。)

[50]
 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のいま一つの世界に、太った孫娘を持ち、コツコツと骨を集めてきた老人が登場する。

<「私は比較的若い時期から哺乳類の頭骨には少なからざる興味を持っておって、それでコツコツと骨を集めておったんです。もう四十年近くになりますかな。骨というものを理解するには想像以上に長い歳月がかかるのです。そういう意味では肉のついた生身の人間を理解する方がよほど楽だ。私はつくづくそう思うですよ。もっともあんたくらいお若ければ肉そのものの方に興味がおありだと思うが」と言って老人はまたふおっほっほとひとしきり笑った。「私の場合、骨から出てくる音を聴き取るまでにまるまる三十年もかかったですよ。三十年といえばあんた、これは並大抵な歳月ではない」
 「音?」と私は言った。
 「もちろん」と老人は言った。「それぞれの骨にはそれぞれ固有の音があるです。それはまあ言うならば隠された信号のようなものですな。比喩的にではなく、文字どおりの意味で骨は語るのです。」>(「3 ハードボイルド・ワンダーランド」)


【105】無意識をめぐる冒険(その9)

[51]
 村上春樹「鼠三部作」をめぐるノート(アレゴリー篇)。

◯『風の歌を聴け』は、浮遊する無意識のかたちを示している。断片化され、内容・中味が一切語られない沈黙の言語としての「風の歌」。──ここでは時間が歪んでいる。「盆」という特別の時間の物語。
◯<「心は使うものじゃないよ」と僕は言った。「心というものはただそこにあるものなんだ。風と同じさ。君はただその動きを感じるだけでいいんだよ」>(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』6)

◯『1973年のピンボール』では、無意識は双子によって貯水地に埋葬される壊れた配電盤として(11)、「世界の果て」の潰れた養鶏場の「象の墓場」のような冷凍倉庫に並べられた七八台のピンボール・マシーンとして(21)、アレゴリカルに表現される。──ここでは空間が歪んでいる。抽象的な観念が具体的な視覚映像として(アレゴリーとして)現われる空間。
◯<「哲学の義務は、」と僕はカントを引用した。「誤解によって生じた幻想を除去することにある。……配電盤よ貯水池の底に安らかに眠れ。」>(11)
◯他の人よりずっと大きく曲がった耳の穴を持つ「僕」(25)。

◯『羊をめぐる冒険』では、無意識は「不吉なカーブ」で下界と分断された高原(異界=民話的・寓話的世界)の「別荘」とともに爆破される。──ここでは時空そのものが歪んでいる。あるいは、歴史の無意識の露呈。
◯<考えて見れば、これほど広い平らな土地を歩いたのは初めてだった。ずっと遠くの風の動きまでが手にとるように見えた。>(第八章4)
◯また、この作品は感染する無意識をめぐる物語である。──物語とは無意識の建築物であり、そして冒険とは浮遊し遍歴する無意識の自己認識(あるいは他者発見)の物語である。(『ゲド戦記』を想起せよ。「僕」の「影」としての「鼠」。)
◯音楽は空気感染する。──「言語のような音楽」としての無意識(新宮一成)は「耳」を通って出現する。

[52]
 ベンヤミン『パサージュ論 II 』(岩波書店)から。

<アレゴリーに対するもともとの関心は言語的なものではなく、視覚的なものである。>(251頁)
<アレゴリー的志向には事物とのどのような親密さも無縁なのである。アレゴリー的志向にとっては、事物に触れるとは事物に暴力を加えることである。事物を認識するとは事物の根底を見抜くことなのである。アレゴリー的志向が支配するところでは、習慣というものは一切形成されえない。事物が捉えられたと思ったとたんに、[その事物が置かれている]状況はアレゴリー的志向によって排除される。>(253-4頁)
<売春婦はアレゴリーの勝利によって得られるもっとも高価な戦利品である──それは死を意味する生なのである。この性質は、売春婦から買い取ることができない唯一のものであり、ボードレールにとってはただそれだけが重要なのである。>(255-6頁)
<ボードレールは大量生産品のもつ意味を、バルザックと同じく明確に見抜いていた。ラフォルグの言うボードレールの「アメリカニズム」のもっとも強固な基盤がそこにある。彼は「紋切型」を作ろうとしたのである。>(253頁)

[53]
 ジークリット・ヴァイゲル「アレゴリー・無意識・他者」(大貫敦子訳、『現代思想』1992.12臨時増刊)から。

<私のテーゼは、精神分析における意味での「他者」は、近代のアレゴリー的なエクリチュールにおいて中心的な役割を果たすものであり、その場合に前近代的なアレゴリー手法──例えば間接的な言い回し、比喩的な描写、擬人化、アレゴリー的な図式、語りの構造など──は、変形した形で近代のアレゴリーに入り込むことになり、その結果として、「異質なディスクール」が「異質なものについてのディスクール」になっていくというものである。>
<…「異質な」という言葉が意味するものが、「無意識」とならんで「女性的なるもの」をも指し示すとすれば、…>
<…もし表現を問題とするならば、実際に視覚化されて描かれた具体的な記号は、意味に対して「異質なもの」とされる。だが逆に読み解く行為を問題とするならば、具体的な形象[ビルト]あるいはテクストの言葉の意味は、そこに書かれたものとは「別の」意味を指示しているとされる。>
<ベンヤミンがバロック悲劇を例として描きだしたのはほかでもなく、アレゴリー表現において常に物質が「何か異質なもの」へと変化してしまうことによって、物質がその価値を奪われてしまう傾向であった。>
<物質をエクリチュールに変える力を持つアレゴリー作家の視線>
<言うまでもなくフロイトは、心理機構の動きを説明するために、アレゴリー的な方法を好んで使用した。それはほかでもなく、心理の動きの動因を身体に求めようとする考え方を批判し、その逆に身体を心理の歪みが現われてくる〈場〉として把握しようとするためだった。(略)さらにフロイトは無意識の構造をアレゴリー的な方法で記述したばかりでなく、無意識が現われてくる時の様々な様子を分析する場合に、主体が産出する形象[ビルト]そのものをアレゴリーとして読んでいるのである。〈アレゴリーとして〉ということはつまり、本来の思考──いわゆる夢の思考──が表現されることのない〈もうひとつ別の〉記述として、ということである。>
<「歪み」というものは、精神分析の概念のひとつであるが、ベンヤミンは近代に関する彼の研究においてその概念を踏襲している。たとえばカフカに関するエッセイがそうである。そこではカフカのテクストにおける身振りや登場人物を「歪んだもの」として表現し、その「歪んだもの」を忘却と関連させている。>

[54]
 池内紀編訳『カフカ寓話集』(岩波文庫)から。

<カフカは絵を描いた。ペン画、あるいは鉛筆による戯画風に、ノートや日記、手紙、勤め先の官庁用紙にも描いていた。意味を問われると、ごく私的な「象形文字」だと答えた。人に見られると、くしゃくしゃに丸めて屑かごに捨てた。>


【106】無意識をめぐる冒険(その10)

[55]
 村上春樹「鼠三部作」をめぐるノート(アルゴリズム・暗号篇)。

◯『羊をめぐる冒険』で、「僕」を「別荘」へと導く女性は、まず「コール・ガール」として物体・商品であり、「耳のモデル」として形而上的存在(古代の娼婦=巫女)であり、そして「アルバイトの校正係」として社会的存在である。──ここでもっとも重要なのが「校正係」であることはいうまでもない。というのも、『羊をめぐる冒険』とは歴史という書物の(文字どおりの)校正の物語にほかならないから。
◯ある評論家によれば、「羊」は「義」と「美」に通ずる。つまり『羊をめぐる冒険』とは、「羊」という文字をめぐる冒険(校正の物語)だということか。
◯『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「私」は、計算士という職業に就いている。──計算士たちの組織は「システム」と呼ばれ、これと敵対する記号士たちの組織は「ファクトリー」と呼ばれている。(計算士はデータを暗号化し、記号士はこれを解読=復号する。一方は文字を音韻記号に分解し、他方は文字を有意味化する。)

[56]
 ロジャー・ペンローズ『皇帝の新しい心』(林一訳、みすず書房)から。

<心的状態とアルゴリズムがこのような仕方で互いに同一視できることに,すべての人が同意することは決してないだろう.とりわけ,アメリカの哲学者ジョン・サールはこのような見解に強く反対している.彼は適切にプログラムされたコンピュータが単純化されたチューリング・テストに実際すでに合格している例に言及しているが,それにもかかわらず,「理解」という重要な心的属性が完全に欠如しているという見解を支持する強力な議論を行なっているのである.(略)サールはコンピュータの側には理解はないという議論を,「中国語の部屋」という概念を持ち出すことによって行なう.彼はまず,物語が英語ではなく中国語で作られ──これが本質的な変更でないことは確かだ──,この特定の演習問題に対するコンピュータのアルゴリズムのすべての演算は,中国語の記号を記した札を操作するための命令(これは英語で与えられる)の集合である,と想定する.そして,サール自身が鍵のかかった部屋の中ですべての操作をするものと想像する.まず物語を表現する記号の系列が,次いで質問が,小さな隙間を通して部屋の中に入れられる.これ以外にはいかなる情報も外部から入ることは許されない.最後に,すべての操作が終わったところで,結果としてできた記号の系列が隙間を通して外部に出される.(略)ここでサールが明らかにするのは次のことである.彼は中国語を一言も知らないので,物語がどういう話なのか,彼にはさっぱり分かっていない.にもかかわらず,彼は(略)一連の操作を正しく行なうことによって,物語を本当に理解している中国人と同じようにうまく答えることができる.うまくできたアルゴリズムを単に遂行することそれ自体は,理解が生じたことを意味しない.これがサールの論点である──きわめて強力な論法のように私には思える.>(20-2頁)

[57]
 もしもサールの論法において、「中国語」であることが本質的であるとしたら?──しかしこのように問うことに意味があるとしても、それは漢字が「表意文字 ideograph」だからではない。むしろ漢字は豊かな「表音」性をもっている。

 西暦百年、後漢の許慎は『説文解字』を著し、漢字の造字法を象形・指示・会意・形声・転注・仮借の「六書」に整理した。そして漢字の大部分を占めるのは、表意機能をもつ意符と表音機能をもつ音符から成る形声文字である。(中国語学者ブードバーグは、漢字を「表語文字 logograph」と呼ぶことを提唱している。)

[58]
 辻井重男『暗号』(講談社選書メチエ)によれば、古来、暗号は「秘匿」を目的としてきたが、現代の暗号はさらに「認証」(署名、相手確認、情報が改竄されていないことの証明等)の機能をもつ。そのために発想されたのが「公開鍵暗号」という奇想天外ともいえる概念で、これは人類が二千年以上にわたって使用してきた古典的・近代的な暗号システム(共通鍵暗号)の概念を覆えす画期的なものであった。

<一人のユーザーが、公開鍵と秘密鍵の二種類を用意し、公開鍵はすべてのユーザーに公開して、どのユーザーにも、その公開鍵で、自分宛の暗号文を作成してもらうのである。届いた暗号文を平文に戻す(復号する)には自分だけが秘密保管する暗号鍵を使う。>(195頁)

 ここで、ある公開鍵で作成した暗号文はこれと対になる秘密鍵でのみ復号化でき、またある秘密鍵で作成した暗号文はこれと対になる公開鍵でのみ復号化できる。──AがBに署名付の親展メールを送信するためには、AはまずBの公開鍵を使って平文を暗号化し、さらに自分の秘密鍵を使って暗号化する。この二重に暗号化されたメールを受け取ったBは、まずAの公開鍵を使って復号化し(Aからのメールであること、つまりAの署名付であることが確認される)、さらに自分の秘密鍵を使って復号化しAが作成した平文を復元=解読する(通信内容の秘匿性が担保される)。

 ──この暗号システムには、意識と無意識、表現と解読、自己と他者の錯綜した関係を解明する(利用可能なものとする)文法のようなものが潜んでいる。ただし、ここでいう「文法」はアルゴリズムではない。

[59]
 村上春樹「鼠三部作」をめぐるノート(忘却篇)。

◯「鼠三部作」は、露出した無意識をめぐる物語群である。というよりも、表層に浮遊する無意識が異界へと沈澱していく「弁証法」的な物語群である。──しかし、異界もまた表層に露出している。したがって、そこには常に「他者」が欠如している。自分が作った暗号を自分自身で復号化する物語。
◯キーワード。──その一、動物たち。より正確には、動物たちの名。その二、肉体をもたない女性たち。死んだ女性、双子、そもそも始めから存在しなかった女性等々。その三、暗号としての言語。かたちとしての言語=文字記号。──これらはいずれも無意識ではない。「鼠三部作」のほんとうの無意識は、実は阪神間の埋め立てられた海である。
◯キーワード。──1970年代。目覚めの時。<間近に迫りつつある目覚めは、ギリシア人たちの木馬のように、夢というトロイに置かれている。>(ベンヤミン『パサージュ論 III 』14頁)


【107】無意識をめぐる冒険(その11)

[60]
 第58条第1項中「辻井重男『暗号』」を「ところで、サールの「中国語の部屋」ではどのような鍵が使われていたのだろうか。──辻井重男『暗号』」に改め、同条第3項を次のように改める。

 ここで、ある公開鍵で作成した暗号文はこれと対になる秘密鍵でのみ復号化でき、またある秘密鍵で作成した暗号文はこれと対になる公開鍵でのみ復号化できるのであって、これが公開鍵暗号の「秘匿」機能の仕組である。いま一つの「認証」機能の方は、たとえば次のような手順で果たされる。

 第58条第4項ただし書を次のように改め、同項を同条第5項とする。

 ただし、ここでいう「文法」は、ある一組の公開鍵と秘密鍵を作製するアルゴリズムとはまったく異なるものである。

 第58条第3項の次に、同条第4項として次の一項を加える。

 AがBに署名付の親展メールを送信する方法。Aはまず自分の秘密鍵を使って平文を暗号化し、さらにBの公開鍵を使って暗号化する。この二重に暗号化されたメールを受け取ったBは、まず自分の秘密鍵を使って復号化し、さらにAの公開鍵を使って復号化し、平文を復元=解読する。

[61]
 明治以来、法令の一部改正は「溶け込み方式」によってなされてきた。ある法令の一部を改正する法令(一種のアルゴリズム)は、公布された途端、元の法令に対して所定の変形を加え、同時に元の法令も改正後の形態を獲得することになる。つまり、一部改正法令は公布とともに(厳密にいうと、施行とともに)元の法令に溶け込んでしまうわけだ。

 このような操作が行われる場(法空間とでも呼ぼうか)は、決して目に見ることはできない。現行法規総覧は、ある時点における法空間の模写にすぎない。(ちなみに、現行法規総覧に一部改正法令そのものが掲載されることはない。というのも、それは常に溶けん込んでいるから。ただし、それがまだ施行されていない場合は、例外的に掲載される。)

 一部改正法令がもつこのような力(ある法令を変形する力、自らの力が行使される時を決定する力)は、純粋に言語によるものである。──声なき沈黙の公布による文字校正。しかもそれは一切の痕跡を残さない。

[62]
 ピーター・グリーナウェイは、自作『枕草子』について次のように語っている(CINEMA RISE No.67)。

<文字がイメージを作り出すということに日本語は深く関わっています。東洋の文字は形と意味が結びついたものです。西洋ではその部分は切り離されています。ですから西洋では文学が、東洋では絵画が画期的なこととして重要視されてきたのです。映画には言葉とイメージ(映像)をうまく結びつける可能性があると僕は信じています。この映画の中には、肉体は本であり、本は肉体なのだという比喩(メタファー)があります。>

[63]
 橋本治「漢字で書かれた枕草子」(CINEMA RISE No.67)から。

<ヒロイン諾子は、日本人の父と中国人の母の間に生まれた。仮名の国の男と漢字の国の女の間に生まれた娘である。(略)諾子は、まず父によってその漢字の名前を顔に書かれる。漢字を書く仮名の国の男が「男に犯される男」というのは、なんとも日本文化の本質をついたような設定だが、ヒロインはあくまでも、仮名文化の日本と漢字文化の中国のハーフで、彼女は、彼女自身の歴史を、「父親によって与えられた漢字」からスタートさせる。この映画の清原諾子は、「男の文字を書く女」で、この映画は、「父親の屈辱を晴らすための女の復讐物語」なのである。>

[64]
 浅田彰「もうひとつのイルミネーテッド・ブック」(CINEMA RISE No.67)から。

<そもそも、彼女は、男性によって文字を書かれる対象であることをやめ、自ら男性に文字を書く主体となる。しかも、その書き方にも違いがある。西洋のエクリチュールの原型が、動物の皮をなめした紙──たとえば羊皮紙に、尖ったペンで傷をつけてインクを流し込むことだとすれば(したがって、そこでは紙とペンが女性と男性に対応することになる)、東洋のエクリチュールの原型は、植物繊維を漉いた紙に、柔らかい筆で墨を置いていくことだ。そのような意味も含め、西洋人の男性に文字を書かれるだけだった東洋の女性は、やがて書く主体として──ただし別のエクリチュールの主体として自らを解放するのである。(さらに厳密を期すなら、日本で漢字と仮名が男性と女性に対応させられており、清少納言も仮名を多用していることからいって、諾子の書から大幅に漢字を減らすべきところだったろう。)その意味では、これは西洋的男性中心主義を相対化する「政治的に正しい」作品であるともいえる。>

[65]
 文字の「文」は文様(紋様)の文で、線を交差させ形を象った紋(あや)であり、「字」は物象の本たる「文」を組み合わせ、形や声を増やしていったものをいう(『説文解字』)。また「文」は文身(いれずみ)であり、死喪や出生に際して心臓の形の省略形(VやX)が胸部や額に記された。文字はまた書契ともいう。

[66]
 鶴岡真弓『装飾美術・奇想のヨーロッパをゆく』(日本放送出版協会・人間大学テキスト)から。

<「文」を宇宙自然の「あや」とする古代中国の語源は、西洋にも通ずるところがあります。
 「装飾」は英語で「デコレーション」とも「オーナメント」ともいわれますが、オーナメント(文様)は、ラテン語の「オルナーレ」(秩序を与える・整える・優美にする・装う)から来ています。さらにこれはギリシア語の「コスモス」(宇宙・秩序)に対応するといわれています。
 古代ギリシア人は夜空の星を見て、これを装飾(コスモス)と呼んだということを聞いたことがありますが、何もない真っ暗な夜空に現われる星座は、まさに彼らが天空に目撃した、最初の秩序(コスモス)(英語でいえばまさに天の綾織り「天文」)だったのでしょう。
 このコスモスという言葉から英語の「コスメティック」(化粧品)という語ができますが、これは夜空が星座で装飾され、調えられ、優美になるごとく、それが人間の顔やからだにも行われること(化粧する)を指しています。宇宙の秩序という装飾(調い・装い)、それは「天」に対照される「人」のもの(「人文」)でもあるという思想が、コスモスとコスメティックの語のはざまに潜んでいるようです。>(25-6頁)


【108】無意識をめぐる冒険(その12)

[67]
 白川静『漢字百話』(中公新書)から。

<文字と書契は同義に用いられるが、字の初義はそれぞれ異なる。(略)文は文身、字は幼名、書は呪術的な目的のもとに隠された呪文、契は刻みつけるという記号の方法である。わが国では文字のことを古く名といった。(略)文・字・名はいずれも人の出生・冠婚・死喪の際などに行なわれる通過儀礼、書は文字の機能、契は書記の方法に関している。古代の文字を意味する語には、他の民族においては契刻の方法をいう語が多いとされているが、契が単独に文字を意味することはない。中国では早くから筆を用いる筆記の方法があったからであろう。書は文字の特殊なありかたを示す字であるが、その他の本来文字を意味する文や名・字などの字は、すべて通過儀礼に関するものである。>(5頁)

[68]
 伝説上の書契(文字)の発明者、蒼頡は四つ目だった。──漢字には四つの次元がある。たとえば、表音性と表意性をあわせもつ形態素、四声、組み合わせによる造語機能と呪術性、そして無意識の形態変換。

[69]
 エリエット・アベカシス『クムラン』(鈴木敏弘訳、角川書店)から。──訳者あとがきに紹介されたある書評は、著者を<ピンナップガールの容姿を備えた若き[哲学の]アグレジェ(大学教授資格者)>と形容している。この評言は妙に心に残る。

<私はジェーンに人の顔に現われる“印”のことも教えた。この“印”は生来のものではなく、不変のものでもない。その人のコンディションによって変わるものである。ヘブライ語のアルファベット二二文字がそれぞれの魂に刻まれていて、今度はこの文字を刻まれた魂が、魂によって生命を吹き込まれた身体に顕現する。これがカバラ学者のいう“顔の印”なのである。>(194-5頁)

[70]
 石川九陽「文字という虚構」(『ユリイカ』1998.5)から。

<言葉には話し言葉(話された音声語)と書き言葉(書かれた筆蝕言語)という二種類の言語があり、別個の領域をもちながらも、相互に浸透し合っているのであって、書き言葉の代名詞として文字言語と呼ぶのはよいとしても、実際には、文字などというものは存在しない。「文字」というのは、つくり話という意味でも、抜殻という意味においても虚構なのだ。
 話された言葉を誰も声などとは呼びはしない。話された言葉がそこにあるだけだ。詩を読んでいる時、詩の世界を読んでいるのであって、文字を読むのではない。ただし声なくして言葉が生まれぬように、筆蝕なくして、言葉は生まれない。>

[71]
 文様のもつ呪術性について。──松岡正剛『情報の歴史を読む』(NTT出版)から。

<これらの文様や図形[雷文や螺旋文などの渦巻文様]は、やがて部族や民族のアイデンティティを示すシンボルになったり、一族のトーテムになったりします。文様が呪力をもったからです。この呪力が発揮できる技術が観念技術です。呪力の不思議なところは、そのような呪力がいったん定着すると、人々がそれに感染するだけはなく、その文様の一部を使った別の文様にも、似たような呪力が伝染する、類感する、ということです。つまり、それらは観念技術ツールになる。これはいいかえれば「観念技術の部族化」ということです。>(87-8頁)

 なぜ感染や伝染や類感が生じるのかというと、原始時代にはコレクティブ・ブレイン(集合脳)の状態があったからであり、それはひとつの観念技術集団(柿本一族や佐伯族、バルバロイなど)として存在していた。

<このように観念技術集団は一種のコレクティブ・ブレインとして機能していたわけですが、そうなると、こんどはAという観念技術集団とBという観念技術集団のあいだで競争がおこったり、補完がおこったりすることになる。文様ですら競争や紛争の原因になるのです。私はこれを「文様戦争」と名づけています。>(89頁)

[72]
 ポール・ヴァレリー「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法 序説 1849年」(山田九朗訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』岩波文庫)から。

<…耳殻、髪の巻毛から、貝殻におく渦模様へと、この人はゆく。貝殻からは、また沖の波頭の巻き返しへ、小池の肌からは、それを温めているかとみえるその漣の脈管、地水火風の屈伸運動、水をゆく蛇の爬行へと移る。この人は生気を注ぐのである。>(46頁)

[73]
 土器(ハードウエア)にインストールされた文様と輪郭。商業デザインの中に表現された女性のフォルム。ピンナップガールの表情は永遠の現在のうちに固定されている。


【109】無意識をめぐる冒険(その13)

[74]
 ケルト人は「文字の禁忌」によって、自らの歴史を残さなかった。(カエサル『ガリア戦記』第六巻第一四節)

[75]
 中沢新一「ドルイド──息子による宗教」(中沢新一・鶴岡真弓・月川和雄『ケルトの宗教 ドルイディズム』岩波書店所収)から。

 二つの宗教的思考、キリスト教的思考とドルイド的思考は、ともに「息子による宗教」である点で共通性をもつ。しかしキリスト教において息子(イエス)が語る真理のことばは、父のことばの直接的複製にすぎない。ところがドルイド的思考において息子(ドルイド)が語るのは、父のことばを仲立ちにして表現された、母=女=自然に秘められた「知恵のことば」なのである。

 <ここでは、デリケートで堅固な数学的構造をもった、ひとつの「ねじれ」が発生しているのがわかる。父と息子と母=女は、同じひとつの「自然」に内蔵された真理の知恵を語ろうとしておたがいの間に差異と偏向をはらんだズレのある言い回しを発生させる。
 状況はあわせ鏡を組み合わせた、複雑なバロックの居間を思わせる。「自然」が女に向って光を投げかける。しかし、女はその光を直接自分の中に吸収してしまうために(女は「自然」にまっすぐに向いあっているからだ)、外には光は反射していかない。そこで、あらためて「自然」は、自分に向ってまっすぐに立っていない父に向って光を投げ与える。父はそれを受けて、知恵のことばに翻訳して、息子であるドルイドに伝えようとする。しかし、この息子もまた、父に向ってまっすぐ正面を見て立っていない。彼の身体には、自分が母である女によって育てられたという、強烈な記憶が刻み込まれているからだ。息子の無意識は、いま自分に向って注がれている光が、本来は父の所有ではなく、父と息子の秘密結社的な結合からは否定されている、母であり女であるものの所有物であったことを知っている。そこで息子は、父の向うにひろがる闇に注がれていくようにと、父のことばに「ねじれ」を発生させながら、新しい光を外に送りだそうとするのだ。>(104-5頁)

<女性は抑圧されているのではない。ここではラカンの言う「排除(folculsion)」の現象がおこっているのだ。表立った表現から排除されてしまったものが、身体を音楽化するリズムや、色彩の奔流や感情のほとばしりとなって浮上してくる現象である。女性は、ドルイド的思考の表面からは、たしかに排除されている。「ドルイドの知恵」は、資格を持って選ばれた男性たちの所有となり、その知恵は若い修行者たちに「秘伝」として伝えられていく。しかし、ドルイドでは、制度的な表現からは排除されてしまっているこの女性的なるものが、まさにその知恵の表現そのもののなかに、かたちを変えて回帰してくる、という不思議な現象がおこっているのだ。
 まっすぐな知恵の伝達に混乱をもたらすアクシデント、物事が進行していく軌道をたえず逸らせようとする逸脱への衝動、ことばの構造のなかに侵入し、それを音楽でわきたたせる律動を愛好して、ものごとの意味を重層化したり多義化したりしたがる傾向、あふれかえる逆説表現。こうしたドルイド的思考のすべての特徴が、息子の意識のなかに回帰してくる母(女性、自然)の記憶につながりを持っている。>(111頁)

[76]
 赤間啓之「女性の博物学」(http://www.dp.hum.titech.ac.jp/akama/history/hnf/hnf-j.html)から。

<ラカンによると、ひとの思考、性的思考は、性をめぐる関係を、男根を「持つ」avoir、「持たない」ne pas avoirという二分法で処理しようとしている点で、性の現実をとらえることはできない。だからたとえば「女性とは何か?」という問いをたてる時に、どう巧みな規定をしてみたところで、この「持つ」「持たない」の解剖学的な対立から逃れることはできない。男根を持たないもの。子宮を持つもの。しかし精神分析によると、この答えが答えになっていないことを身をもって証明する存在が現実にある。いやむしろ「女性とはなにか?」という問い自体が、問いとして問題をはらんでいることを、示唆する存在が現実にある。純粋に(狂気の?)身体症状でもって答えようとする存在。ラカンに言わせると、その存在とはヒステリー患者のことだ。子宮ということばを語源に持ち、さまざまに変化する身体的症状(麻痺、激痛、知覚過敏等)によって器質疾患を−病変の痕跡なく−模倣する狂気。その定義の不可能性そのものが定義になってしまった病。ラカンは、まさしくこの疾患に、性差をとらえた(つもりの)思考を覆す、それも主体の無意識が生産する症状を介してそうする契機をとらえたのである。
 彼がそこから「女性は存在しない」La femme n'existe pasという秘教的命題に達した。このことは、ラカニアンたちの努力によりようやく知られるようになってきている。一般的、普遍的な存在ジャンルとしての「女性」la femme(フランス語で定冠詞laは名詞が示すものすべてを一般的、抽象的にあらわす)というものは、「すべて」男根を「持たない」という普遍否定が論理学的に言って意味を持たないかぎり、存在することはない。「すべて・・・でない」という場合、「・・・である」もの(男性?)が前提にならないと絶対にそう言うことはできないはずなのだが、そうすると「・・・である」ものの潜在的な存在は「すべて(・・・でない)」という条件に反することになるからである。ラカンにとって「普遍肯定」と「普遍否定」は両立可能で、これが彼の言う「女性におけるエディプス・コンプレクス」の説明原理になっている。ヒステリー患者とは、彼にとって、自らの性の知認に失敗した女性のことであり、フロイトの症例を使うと、理由のわからぬ咳がとまらないドラは、自我の形成にあたって父への同一化に失敗し、自分の女性としての性をひきうけることができなくなってしまったのだ、と彼は解釈する。>


【110】無意識をめぐる冒険(その14)

[77]
 澁澤龍彦は『ドラコニア綺譚集』に収められたエッセイ「仮面について」で、親しい友人の体験を紹介している。──飛行機のトイレットのドアを開けると、真っ赤なセーターを着た大柄な金髪の女が便器にすわっていて、スラックスとパンティーを膝の下まで引き下げて、背筋をぴんとのばして、顔にはジャクリーヌ・ケネディの仮面をつけていたというのだ。

<おれはこれまで五十年あまり生きてきたが、あとにも先にも、あんな猥褻なシーンは見たことがないよ。あれにくらべれば、どんな露骨なストリップだってはるかに健康なものさ。なにより苛立たしい感じがするのは、明らかにおれのほうが相手を侵犯しているはずなのに、かえって相手によっておれが侵犯されているような気がしたということだな。これはどう考えたらいいのかね。>

[78]
 中沢新一「ディケンズの亡霊」(『純粋な自然の贈与』せりか書房所収)から。

<モーツアルトの音楽は、深層律動の深さと力強さを、その最大の特徴としている。その音楽は、言わば二重の構造として、つくられているのだ。私たちの耳が、その音楽にまずまっさきに聴き取るのは、倍音のつくりなす、美しく完璧な音響の構成体だ。しかし、そのときに、同時に私たちの耳の蝸牛器官は、その下で鳴り響いている別の次元の律動を、聴き取っている。(略)それは、宇宙的な律動だ。それによってモーツアルトの音楽は、私たちの知性を、人間的なものを越えたなにものかにむけて、開いていくことを可能にする。>(188頁)

<人間の無意識に、さまざまなあらわれをとることになる「贈与の霊」が流動をはじめるとき、その人の心には同胞への共感が呼び起こされる。このとき、私と他者たちとの間には、「黄金数」という無理数の比率で表現されるような、ひとつの関係が生み出される。このことは、私たちを、霊の唯物論的理解にいざなっていく。死霊にせよ、亡霊にせよ、精霊にせよ、およそ霊的存在と呼ばれるものを、なにかの実体性をもったものと考える必要などないし、それがあるかないかを議論することには、ほとんど意味などはない、ということだ。しかも、霊の発動には無理数で表現されるなにものかが関係している、つまり、霊というものを、ひとつの実体や精神としてあつかうことはできない、ということだ。
 それは、Das Ding(もの)と私との間につくりあげられる構造の弁証法の「効果」として、出現する。Das Ding は生命の基底部を越境して、私というものをつくりあげている秩序の縁にあらわれる、唯物論的な力だ。私にとっての他者であるその Das Ding 的なものと私との間に、一瞬みごと「黄金数」で表現される関係が生まれたとき、私はそこになにかの創造的な力の流動を感じとる。そのとき私は世界の中にあって、自由を感じる。深層において、霊の流動がおこったのだ。モーツアルトの音楽の秘密がここにある。その深層に脈打つ宇宙的な律動こそは、音楽の Das Ding とモーツアルトの創造する心との間につくりあげられた「黄金数」を実現している。>(226-7頁)

[79]
 新宮一成「ポール・デルヴォー、夢と欲望の孤独」(『無意識の組曲』)から。

<彼女は今眠っている。デルヴォーの女たちは、時には魚たちのように眼を見開いたまま眠り、時にはつつましやかに眼を閉じて眠る。どうやら彼女たちは、夢の中で、これらの記憶に出会っているらしい。確かにこの光景は夢の中のものだ。闇を染める青白い月の光、見馴れないにもかかわらず親しみを憶えさせる事物、そして理屈に合わない空間構成は、明らかに夢のしるしを帯びている。>(100-1頁)

<さらに一般化してよいだろうか。男はみな、女を欲望するときに、女を所有して社会的地位を得ることを求めているのではなく、実は、「女になりたい」と思っているだけなのかもしれない、と。男が美しい女を愛するのは、自分がそのような美しい女なのであると思いたいからではないだろうか。>(115-6頁)

<人は、女として、自らを神の前に投げ出す。女になることは、単に彼個人の望みなのではない。それは神に対する聖なる務めなのだ。エロスの中にある至高の倫理がここにある。>(122頁)


【111】無意識をめぐる冒険(その15)

[80]
 アームチェア・アンスロポロジスト(あるいは眠る人類学者)、サー・ジェームズ・ジョージ・フレーザーは『金枝篇』1911年版(増補第三版)への序文に次のように書いている。

<ドイツ哲学に通暁する友人たちの指摘によると、呪術と宗教および歴史的にみたそれらの相互関係に関する私の見解は、ある程度だがヘーゲルの学説と一致しているそうだ。>(メアリー・ダグラス監修/サビーヌ・マコーマック編集『図説金枝篇』内田昭一郎・吉岡晶子訳、東京書籍)

[81]
 ロゴス。──歴史の無意識?

[82]
 鶴岡真弓「ドルイドと創られた古代」(『ケルトの宗教 ドルイディズム』所収)から。

<こうしてわれわれにとっての「ドルイド」は、古典古代文献のなかのドルイドと、近世以降の歴史化のなかのドルイドという二重のイメージの相克としてある。つまりドルイドとは、第一にギリシア・ローマ人という他者が構築した異境という(空間的)彼方の象徴であるが、第二には近世絶対王政国家の要請によって創造されることになったヨーロッパの起源という(時間的)彼方の表象である。そして本稿が語ろうとする後者は、一言でいえば、近世以降の諸国家の起源神話、つまり「古代創造」[アンテイキテイ]
という主題に深くかかわっていることにおいてきわめて重要である。>(53頁)

[83]
 古代。──歴史の無意識?

[84]
 ピーター・ゲイ『神なきユダヤ人』(入江良平訳,みすず書房)から。

<私の示唆したいのは、フロイトの規定されざるユダヤ性の感覚なるものが、獲得形質の遺伝についての彼の執拗な信念の一特殊事例ではなかろうかということである。(略)フロイトは自分のユダヤ性を、なんらかのかたちで系統発生的な素質の一部をなすものとみていた。一九二二年、彼はフェレンツィを相手に、自分の内面から湧き起ってくる「奇妙な、密かな憧憬」について考えをめぐらせた。「これはおそらく私の祖先からの遺伝に由来するものでしょう──オリエントと地中海世界、まったく異なる種類の生活への憧憬、現実にうまく適応していなかった幼年時代後期からの願望なのでしょう。」古代に対するフロイトの情熱、彼が何年もかけて勤勉に収集した飾り板や小彫刻類に対する情熱は、幾重にも多元決定されている。しかしこの「有史以前に対する偏愛」が形成された理由の一つは、それらが一度も訪れたことがないけれど、彼が密かに自分の本当の故郷だと考えていた世界を思い起こさせる力をもっていたからだということは間違いない。これこそフロイトが『トーテムとタブー』のヘブライ語版への序文の中で伝えたかったことだった。>(132-3頁)

[85]
 今村仁司『ベンヤミンの〈問い〉』(講談社)は、ベンヤミンの根源史の概念をレヴィ=ストロースの構造人類学に関連づけて論じている。

<レヴィ=ストロースは、地質学や考古学に関心をもち、その考え方を取り入れていることからもわかるように、彼は過去の「残骸」や「廃物」に鋭い反応を示す。じじつ、彼は「骨董」収集の情熱をもっている。残骸、骨董、廃物といった言葉に注意すべきである。それはベンヤミンの鍵用語でもあるからだ。>(231-2頁)

[86]
 一つの仮説。無意識は数学の構造をもっている。それもおそらく数論のような離散数学の構造。

[87]
 無意識にとって、たとえば「ゼロ」はア・プリオリな存在なのだろうか?


【112】無意識をめぐる冒険(その16)

[88]
 無意識をめぐる冒険も着地点のないまま拡散し始めた。──以下、乱雑にとり集めた素材からの落穂拾い。

[89]
 赤の赤らしさ。赤のクオリア(質感)。──語りえないもの。しかし常にそこにあるもの。クオリアとは無意識である、といえるだろうか。

[90]
 茂木健一郎『脳とクオリア』(日経サイエンス社)から。

<クオリアの内観的定義=クオリアは、私たちの感覚のもつ、シンボルでは表すことのできない、ある原始的な質感である。>(147頁)
<クオリアの情報処理の側面からの定義=クオリアは、脳の中で行われている情報処理の本質的な特性を表す概念である。>(148頁)
<クオリア=認識の要素を構成する相互作用連結なニューロンの発火パターン>(169頁)
<音楽はクオリアの芸術である。>(175頁)

[91]
 ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』(西尾幹二訳、中央公論社)から。

<……音楽はあれこれの個々の、特定の喜びとか、あれこれの悲哀とか、苦痛とか、驚愕とか、歓喜とか、愉快さとか、心の安らぎとかを表現しているわけではけっしてない。音楽が表現しているのは喜びというもの、悲哀というもの、苦痛というもの、驚愕というもの、歓喜というもの、愉快というもの、心の安らぎというものそれ自体なのである。>(484-5頁)

<もしも音楽を完全に正しく微に入り細にわたってくまなく説明することに成功したとすれば、いいかえれば音楽が表現するところを概念を用いて詳細に再現することに成功したとしたら、それはそのまま世界というものを概念を用いて十分に再現し説明したことにもなるのであって、同じことを別様にいえば、これこそ真の哲学になるのだといえるであろう。したがって先に引用したライプニッツの言葉[音楽は無意識的な算数の練習である。その際自分がいま計算していることを精神は知らないでいる。]は、比較的低い立場で見ればあれなりに正しいわけであったが、いまわれわれの比較的高い音楽観の与える意味でいえば、次のようにパロディー化して言い替えることができる。「音楽は無意識的な形而上学の練習である。その際自分がいま哲学していることを精神は知らないでいる」(略)われわれはいま、互いに異なるが、両方ともに正しい二つの音楽観(訳者注:ライプニッツの音楽観と、ショーペンハウアーの音楽観)を一つに合わせてみれば、ピュタゴラス派の数哲学とか、「易経」にみられるシナ人の数哲学のような、なにかしら数に関する哲学の可能性を理解できるにいたるであろう。>(489-90頁)

[92]
 「語感」はクオリアなのだろうか。──クオリアは先験的なものだと茂木氏はいう。語感がクオリアであるとすれば、先験的な言語というものがあるのだろうか。(固有名が与えるあの独特の感じ。忘却の痕跡の纏いつく事物が与える「このもの」性。これらの内実ではなく形式が、先験的なあるいは根元的な言語がもつ「力」なのだろうか。)

[93]
 一つの仮説。言語ゲームとは、クオリアをめぐって織りなされる実践である。(リアリティとは言語ゲームの先にあるものなのか、後にあるものなのか、それとも同時にかつ言語ゲームとともにのみあるものなのか。)

[94]
 記憶の記憶らしさ。歴史の歴史らしさ。私の「私」らしさ。

[95]
 仮面はそれを見るものの無意識を映し出す鏡である。

[96]
 麻薬を吸飲したベンヤミンの記録。(飯吉光夫訳『陶酔論』晶文社)

<装飾をつくりだしている一般に最も接近困難な、隠れた表面の世界に麻薬によって不意に入っていくという意識ほど、麻薬の正当性を後あとまで保証するものはない。>(77頁)

<第一に、真のアウラはあらゆる事物に現われる。みんなが思うように、特定の事物にだけ現われるのではない。第二に、アウラは事物がとるあらゆる運動──それがアウラなのだが──につれて根本的に変わる。第三に、真のアウラは決して、通俗的神秘主義の書物が図解したり描写したりしているような、通り一遍の心霊的光の魔術ではない。むしろどぎついもの、その中にこそアウラがある。装飾的なもの、事物やその本質が裏地に縫い込められているようにしっかりと入り込んだ装飾模様──そこにこそアウラがある。>(143頁)

 また、観察者によって記録されたベンヤミンの言葉。<装飾模様は霊たちのやどり場。>(162頁)

[97]
 ボードレール「人工楽園」の献詞(渡辺一夫訳『人工楽園』角川文庫)から。

<…自然界が精神界に浸透し、精神界の飼料の役を勤め、その上に、我々が我々の個性と名付けている名状し難いこの合金[アマルガム]を作り出すことに協力する以上、女性たるものは我々の夢幻世界にもっとも巨大な影あるいはもっとも巨大な光を投射する存在であることは明瞭であります。女性は宿命的に、暗示に富んでいます。女性は、自己固有の生命とは異なった他の一つの生命を営んでいるのです。人々の想像世界で、霊的な生活をして居り、その想像世界につきまとい、これを豊かならしめるのです。>

[98]
 バタイユは、<文学とは、ついにふたたび見いだされた少年時のことではなかろうか>(山本功訳『文学と悪』)と書いている。とすれば、哲学とは、ついにふたたび見いだされた胎児時のことではないか。

[99]
 無意識をめぐる冒険はここで中断される。