哲学の問題



【1】哲学の問題

 近頃、哲学者たちが本当に問題にしたことは何だったのかが気になっています。
 私はいまヘーゲルの『大論理学』を継続的に読んでおり、記録とも雑感ともつかないレジュメを定期的に作成しているのですが、最近になって、いったいヘーゲルはどのような事柄に問題性を感じてこの書物を書いたのだろうかと思いをめぐらせ始めたのです。

 ヘーゲルだけではありません。スピノザやショーペンハウアーやベルクソンやウィトゲンシュタインなど、私がこれまで漠然と関心を寄せてきた哲学者たちが生前(あるいは場合によっては死後も)どのような問題をめぐって思考し続けたのかも気になるところです。そしてそもそも「哲学の問題」とはいったい何なのかも。

 こういったことをぼんやりと考えているうちに、私は昔読んだ文章の印象的な切れ切れを思い出していました。それは、数学という学問をめぐって書かれた文章でした。

 雑誌「数学セミナー」の表紙にミニ・コラムの欄があります。いつ頃誰が書いたのかは覚えていませんが、数学の根底には一種の生命感覚、体性感覚があって、それは「数覚」とでもいうべきものなのではないか、確かそのようなアイデアが述べられていたと記憶しています。

 数学的構造をなんらかの概念や理論を媒介とせず、直接的に認識する感覚のことを「数覚」というのだとすれば──そしてこれも同誌に掲載されていた文章の中で述べられていたことだと記憶しているのですが、たとえばポアンカレにとって四次元空間を見ることができるかどうかは認識論の問題ではなく、高次元幾何学をいかにして建設すべきかという実際問題であったという指摘(深谷賢治氏)とあわせて考えるならば、ある数学的対象は、少なくともそれに「問題」を感じている数学者にとっては、まぎれもなく世界のうちに実在しているものであるということができるのではないでしょうか。

 いま一つ思い出したのは、数学者の岡潔が文化勲章を受けた際のこと、田中耕太郎が天皇に向かって、数学は自然科学の粋であると紹介しかけたとき、それは違う、数学は精神科学の粋だ、と岡潔が訂正したというエピソードです。

 私が数学に対して片思いに近い関心を寄せ続けてきたのは、まさに、数学の世界で扱われている素材や観念や概念が私たちの精神過程を客観化したものであるに違いないと、経験も根拠もなく確信しているからであり、また、数学者が使用している手法や操作群は、私たちの精神を稼働させている諸作用をいわば「工具」として純粋化したものなのではないかと考えているからにほかなりません。

 岡潔の発言はそのような私の確信と仮説に力を与えてくれたのですが、それはともかくとして、このことと先に述べた「数覚」やポアンカレ云々とを強引にひとまとめにして論じるならば、次のようにいえるかもしれません。

 すなわち、ある対象の存在についてリアリティを感じるかどうかが、ある数学者がそれを数学的に取り組むべき問題であると受け止めるかどうかを決定づけているのではないか、そしてそのような対象とは、実は数学者の精神の活動そのもののうちに実在しているのではないかと。

   哲学の問題についても同じことがいえると私は考えています。哲学の根底には一種の生命感覚に裏うちされた「哲覚」とでもいうべきものがあって、それは精神の感覚器官(あるいは神学的な装いをもたせるならば、魂の器官)によって感得されるものなのではないか。そして、他人の痛みや快楽を味わえないように、他人がかかえている「哲学の問題」は私にはおそらく感覚できないものなのではないか。

 それは一種のプラトニズムにすぎないといわれれば、そういうものかと応じるしかありません。私はプラトニズムという術語は知っているものの、その内実を詳細に承知しているとは思えないからです。また、それは君の哲学の問題にすぎないといわれれば、それはその通りだと応じるでしょう。

 (そして、それは永井均氏が語っていることの下手な焼き直しではないかといわれれば、おそらくその通りだろうと応じるしかありません。実際、私はほぼ十年前、永井氏の最初の著作に触れたとき、ああここに「考える人」がいると、大げさにいえば感激さえしたのですから。)

 哲学の問題をめぐっては、もっとたくさん書いておくべき事柄あったように思うのですが、いまのところはここで「種切れ」です。

 補足しておくと、哲学の問題について思いをめぐらせながら、私は同時に「哲学の病」ということを考えてきました。その意味は、一つには「問題」でもないことを問題視して無理な思索、無意味な思考を重ねること、いま一つには真正の「問題」をかかえているにもかかわらずそのことに気づかず、あるいは意識化する努力を怠ることです。ここでいう「問題」が、その人にとってという限定つきであることはいうまでもありません。

 前者に対する療法は簡単です。考えることをやめればいいのです。後者に対する療法は、私はそれを「哲学療法」と名づけているのですが、少しやっかいです。なぜそれが病なのか、そもそもなぜ治癒させなければならないのかが必ずしも明らかではないからです。むしろ、問題を切り捨てることなくそこに生き生きとしたリアリティを感じ続けること、病を生きることこそが、その人が生きていることの意味なのかもしれないからです。

 蛇足を重ねますと、昨年の11月、パリ政治学院の哲学教授マルク・ソーテ氏を日本に招いて、<カフェでお茶を飲みながら哲学論議を楽しもうという試み>が紀伊国屋書店の主催で開かれたそうです。「カフェ・トーク」というのだそうですが、フランスではソーテ氏のそれを含めて同様のセッションが五十ほどあるとのことで、同氏は<哲学を語り合うことは、心を癒す効果がある>と語っています。(1996.11.26付け朝日新聞朝刊東京版)

 癒しという最近のキーワードに対して私は少し懐疑的な気分なのですが、哲学の病や哲学療法については、いずれ機が熟せば改めて考えてみようと思います。


【2】哲学の問題(続)

 私自身の「哲学の問題」について書いてみます。

 考えているのは本当に自分なのだろうか。時折ふとそんな思いにかられることがあ ります。私が考えているのだ、と私がいっているのだからそれは間違いない、と私が いう。ここには法的な意味で有効な証人は不在です。しかも「考えているのは自分な のか」と問うているのはこの私自身なのですから、「私が考えているのだ」という私 の証言はそもそも論理的に矛盾しているといわざるを得ません。

 考えているのが私ではないとしたら、本当に考えているのは誰なのか、あるいは何 (どのような機序)なのか。しかしこの問いは私の「問題」ではありません。むしろ そのように「本当のこと」や「考える主体」を問題にしてしまう意識のあり方の方が 、あるいはそのような思考を強いる言語のあり方の方が別の意味で問題なのではない かと思います。

 ここで言語について考えはじめると、問題がますます込み入ってくるのは見やすい ことでしょう。私は自分が考えた(と私が思っている)事柄を言語に託して表現しま す。その名宛人は自分自身であったり具体的な他者であったり不特定多数であったり 時間を超越する存在であったりと様々ですが、いずれにせよこの社会にあって私は私 に帰属する言葉に対して責任をもたなければならないのです。それというのも、その 言葉たちが表現しているのはこの私の思想であり感慨でありその他諸々である(とさ れている)からです。

 しかし考えることは言語から独立しているわけではありません。語彙や文法その他 ある言語を成り立たせている要素は、私の思考を拘束し誘導します。むしろ考えてい るのは言語の方であって、言語体系の内部での自律的な相互変換の操作が、あるいは 言語表現の総体としてのアルシーブ[archives]における盲目的な編集過程こそが、 考えているということの実相なのであって、私はただ私の脳髄を媒体として展開され ている言語の運動を私自身の統治にかかるものと取り違えているだけなのかもしれない。

 脳という物質の集積体あるいは構造からみれば、思惟も意識も言語もすべて脳の異 なった機能の一つです。これらがいわば三位一体的に錯綜することで、私が考えると いう事態とそれにまつわる謎めいた「感覚」を成り立たせているとみることもできる でしょう。

 たとえば私は意図的に(時間を先取りして)言葉の繋がりを整序することができま す。つまり「語る」ことができるわけです。しかしそのようにして語られた言語のか たちそのものが、私の意図とはかかわりのない何事かを「示す」ことがあります。私 は語ることによって何者か私には疎遠なものを示してしまう。それを外側から観察す れば、隠された真意やら抑圧された深層心理やらあらかじめ失われた記憶の痕跡やら 集合的な無意識やら神としか名づけようのない意思の顕在やらが透いて見えるという わけです。

 また語ることによって示すという機序を意識的に操作することによって、韻文、預 言、呪言、教えの言説、プロパガンダ等々の特異な言説を生み出すこともできます。 (このことを私は「タクト」というかたちで一般化して考えてきました。ちなみに有 島武郎の『或る女』では、主人公・葉子の社会的な振る舞いにおける「手管」を表現 する語として「タクト」が使用されています。)

 話が拡散してきました。結論を急ぎます。

 先に私は「感覚」という語を使いました。「考えているのは本当に自分なのだろう か」と不可思議な思いにとらわれたとき、私を包んでいるのはそのような言葉でしか 表現できないある独特の感覚なのです。だからそれを分析して言葉で述べようとする と、この感覚は曇り、やがては別のものになってしまいます。それでもその名残、余 韻は残っていて、次のような思いとなって私のからだに染み込んでいます。

 この私の思考、私たちの社会の過程、歴史の推移、そして自然の成り立ちのそれぞ れの根底には、何か共通した非人格的なものの働きがあって、それはたとえば数学や 論理学がこれまでに扱ってきた素材や観念を通して表現されているのではないか。

 これが私にとっての「哲学の問題」です。それ以外の心身問題や自他問題や独我論 の問題、観念論と唯物論の対立などは、少なくとも哲学の解説書で紹介されているよ うなかたちでは、私にとって「問題」ではなかったのです。それよりも目の前の異性 との関係をどう築きあげればいいのかという「タクト」の問題の方がよほど大切なも のでした。

 それではこのような問題について私自身はどのように考えてきたのか。ここでもま た考えているのは果たしてこの私なのだろうかという(決して不快ではない)感覚に つきまとわれながら、私はまず、私たちの社会の過程とは錯綜した「推論過程」なの ではないかと考えたのです。(その詳しい内容は、ここでは述べません。)

 私はまだヘーゲルがその生涯を通して「問題」性を感じ続けたものが何だったのか は鮮明につかめていないのですが、しかし私自身のそれは、『大論理学』を読み進め るうちにようやく自覚できるようになりました。これは一つの成果だと思っています 。他の哲学者、たとえばウィトゲンシュタインをつきつめて読んでみることで、また 別の問題をかかえていることに思いいたるかもしれません。「理解」しようとするの ではなく「味わう」こと、そしてたまたま「味わう」ことができる哲学者にめぐりあ えること、それこそ哲学書を読む醍醐味というものでしょう。


【3】私の体系

     A 意識には場所が必要だ

 ぼくの意識がぼくのからだから離れて自在に動き始める。──たとえば大気圏の外に出てみる。そこが無重力だとは、ぼくの意識は感じないだろう。なぜならぼくの意識はもともと重力から解放されているのだから。(ところでぼくの意識は何かを感じることができるのだろうか。もしそうだとしたら、いったいどこで感じるのだろう。意識に感覚器官があるのだろうか。)

 生身を離れた意識だけの存在は世界を全く別のものとして見ることになるだろう。(そもそも意識が何かを見ることなど不可能だ。See as 〜 という認識のかたちは生身の存在を前提にしている。意識は何も見ない。何も聴かない。だから言葉がない。言葉は身体を抜きに存在し得ない。感覚の統合としての理性。理性の統合としての意識。)

 意識には場所が必要だ。

 数と空間。デジタルとアナログ。離散と連続。算術と幾何学。粒子と波。個人と社会。左脳と右脳。ルディ・ラッカーはいう。<私たちが世界を点々型となめらか型という相反するパターンに従って見てしまうのは、脳機能の内的分業のせいだろうか。そうかもしれない。だが、私には、その逆のほうがよりもっともらしいように思われる。つまり、数ー空間の分裂はリアリティの根本的な特徴であって、私たちの脳は存在の二つの様式を扱うことができるように発達したのではないのだろうか。>(『思考の道具箱』

 物質から生命へ、生命から精神へ、精神から「意識」へ、そして「意識」から再び物質へ。この流れ、進化、重層化、創発のプロセスを説明する仮説。

・物質の振動が時間なき空間を生み、そこに充満するエネルギーを「内部化」することで生命(時間)が生まれる。
・物質の粒子性と波動性は生命において止揚される。あるいは生命とは物質の「表現」である。
・生命の本質が自己複製にあるとすれば、生命と物質を分かつのは「情報」である。
・生命の性の分化とこれに伴う死の必然化が精神を生む。
・精神は物質に関する記憶(物質を抽象化して得られる観念)を言語に託する。
・物質の空間的振動は視覚のうちに、時間的振動は聴覚のうちに「表現」され、言語はこれらをイメージ及び観念としてそれぞれ合成する。
・物質の粒子性と波動性は部分と全体、個別と普遍の観念に転化される。これらの観念の相互の矛盾、論理の混沌が精神すなわち言語の振動を生む。
・精神あるいは言語の振動が時空を生み、そこに充満する情報を「内部化」することで「意識」が生まれる。
・個別と普遍と特殊をめぐる三位一体の未完結性、あるいは弁証法の無限連鎖は、「意識」という第4の次元を導入することによって、4次元多様体(ペンタヘドロイド)のうちに表現される。あるいは「意識」とは精神の表現である。
・そして「意識」が物質を産出する。

 物質、生命、精神、「意識」は、からだ、こころ、ことば、「たましい」にそれぞれ対応している。

 物質から生命への移行を「模倣」作用、生命から精神への移行を「記憶」作用、精神から「意識」への移行を「解釈」作用、そして「意識」から物質への移行を「表象」作用と名づけよう。模倣、記憶、解釈、表象は存在とロゴスを通底する基本的な作用である。あるいは、スピノザに倣って、「物の秩序・連結」と「観念の秩序・連結」を通底するといってもよい。(『エティカ』第2部定理7)

 柄谷行人。<観念とはデカルト=スピノザの言い方によれば、想像ではないものです。表象でも知覚でもないもの、つまり対象やレファレントを持たない形式、それを彼らは「観念」と呼んでいる>(『言葉と悲劇』)

 「形式」としての観念。「実質」としての物。そして「表現」と「内容」。生命は物質の表現であり、物質は生命の内容である(模倣)。精神は生命の表現であり、生命は精神の内容である(記憶)。「意識」は精神の表現であり、精神は「意識」の内容である(解釈)。物質は「意識」の表現であり、「意識」は物質の内容である(表象)。そして、それぞれの作用が形式としての観念と実質としての物に二重に分節される。(『千のプラトー』第3章参照)

     B 私の体系:「最古」のプログラム

 氈@神とは情報である スピノザ
  −1 物の秩序 ・連結
    @ 次元:高次元多様体[秩序、離散:構造]
    A 層と創発[連結、連続:作用] M.ポラニー
  −2 観念の秩序 ・連結
    @ 情報・数・空間・論理・無限[構造] R.ラッカー
    A 記憶・模倣・解釈・表象[作用]
  骰子一擲 マラルメ
  −1 自然学(物と観念の宇宙)
      物質・生命・精神・意識・情報
  −2 社会・歴史(私たちの社会)
  −3 意識・「私」(この私の世界)

     C この私の世界:序説

 この私の世界を規律し、記述し、表出し、告知する言語。──預言、福音、神託、韻文、暗号、アナグラム、法華七喩、戒律、法律、固有名、言霊、DNA、アルゴリズム、プログラミング言語、譜面、レシピ、指令、呪文、マントラ、呪言、ESP。
 魔術言語、宗教言語、詩的言語、物質言語、生命言語、霊的言語。数学言語、そして情報へ。──情報は、記憶言語と表象言語の交点に位置し、模倣言語と解釈言語、あるいは外部性の言語と他者性の言語を連結する。

 1 模倣言語(物質から生命へ。物質を統治する生命の言語)
    物質言語──DNA、アルゴリズム、プログラミング言語
 2 記憶言語(生命から精神へ。生命を統治する精神の言語)
    宗教言語──預言、福音、神託
 3 解釈言語(精神から意識へ。精神を統治する意識の言語)
    詩的言語──韻文、譜面、レシピ、指令
 4 表象言語(意識から物質へ。意識を統治する物質の言語)
    霊的言語──呪文、マントラ、呪言、ESP
 5 外部性の言語(物質と精神を連接する言語)
    感覚言語──法華七喩、戒律、法律、固有名、言霊
 6 他者性の言語(生命と意識を連接する言語)
    歴史言語──暗号、アナグラム

             精 神
              │
              │
        物 質───┼───意 識
              │
              │
             生 命