【26】 記憶作用から解釈作用へ

 私たちの社会は、生きている状態にあるかぎり部分の総和を超えている(ものと見なされる)。諸部分がその独自性を失わず、全体との弁証法的対立を経て一つの実在のうちに融合しているとき、人々は神との合一を意味するキリスト教カトリックの儀式、すなわち聖体拝領[communion]に象徴される共同性を獲得している(ものと見なされる)。

 私たちの社会に共同性をもたらすのは司法過程(検索過程)である。そして、これを不断に継続させるための「文法」を産出する作用、絶えることなく私たちの社会に問題(検索問題=記号の解釈問題)を供給し続け、リアルなものをフィクショナルなものの構成現場へとたたき込む作用こそが解釈作用である。


【27】 外部性と他者性

 解釈作用を成り立たせる二つの軸。第一の軸は、一つの社会的実在として、構成員に固定したイメージと価値観、思考・行動様式を内面化させる記号体系に、外部性の視点を導入し、外部の価値、外部の思考・行動様式を注入するもの、すなわち外部性の軸である。

 第二の軸は、記号体系を共有する者の間の関係やコミュニケーションの硬直性を、異質な価値観、行動パターン、信条体系をもった他者性の視点を導入することによって撹乱し、記号体系の凝集性に孔をうがち、これを自在な法的修辞活動の場(検索過程)へと状況化するもの、すなわち他者性の軸である。

 外部性と他者性──両者は、その作用すべき局面を決定的に異にしている。外部性は、集合としての記号体系そのものに関する観念的な関係をめぐるものであるのに対して、他者性は、集合の要素としての具体的な記号間の事実上の関係をめぐるものである。

 解釈作用とは、これら二つの軸をクロスさせること、つまり外部性の視点と他者性の視点を同時に記号体系の中へ導入するという不可能な業を成就させる作用である。それがいかにして可能かを考えるためには、解釈作用の機能不全の状態、すなわち司法過程(検索過程)の閉塞がもたらす私たちの社会の病理現象について見てみることが有益だ。なぜなら、そこからの脱出こそ解釈作用の最大の課題だからである。


【28】 社会の三つの病理現象

 第一の病理現象。外部性の視点も他者性の視点も組み入れられない記号体系を内臓した社会。したがって、議論すべき問題(検索問題)を共有することもなく司法過程(検索過程)も稼働しない社会。このような病理現象を呈している社会を「共同体」と呼ぼう。

 共同体の構成員がその恍惚たる帰一感を汲み取るべき至高の価値は、共同体それ自身である。そこでは、あたかも終わりなき祝祭のさなかにあるように、共同体は外部性と他者性から遊離し聖なる自己のイメージに自縛され、司法過程(検索過程)は永遠の現在のうちに停止しているであろう。そこに出現するのは、共同体から湧出する力を搾取する預言者的リーダーか、悪知恵に長けた司祭でしかない。

 彼らの仮借ない支配が遍くいきわたり、聖なるもの(共同体)との合一が禁じられ独占されたとき、そしてこのことを隠蔽するために、外部性を消去したまま虚構の他者性が記号体系に導入されたとき、そこに第二の病理現象が呈されることになる。

 そこでは、社会は聖なるものとの合一がもたらす祝祭的な眩暈から醒めた、日常的で慣習的な役割関係が支配する儀礼的な世界となって現れるだろう。そして、個人が内面に秘めている非合理的で抑制し難い欲望の奔流を整序し、役割同一性のうちに捕捉するために導入されるのが、管理された他者としてのスケープゴートである。

 それは、伝統的支配制に覊束された無為なる愚王として──彼が果たすべき職能は供儀の供物としてその身体を共同体に差し出すことであり、その責任はスケープゴート適格性とでも言うべきものとなる──あるいは、聖なるもののコインの裏側としての汚れを刻印 された「選民」として、現れることになる。

 社会の第三の病理現象は、聖なるもの(共同体)との合一チャンネルの独占を隠蔽するため、他者性を消去したまま虚構の外部性が共同体に導入されたときに呈される。

 そこでは、社会は外部の荒々しい力による聖性破壊への予兆に染め上げられ、純潔無垢な共同体の価値を保全するため細胞分裂さながらに内部検閲作業に明けくれる、緊張と猜疑心に満ちた世界となって現れるだろう。そこに出現するのは、ありもしない外部を仮構し、共同体に危機を注入するとともにその解決者として自らを演出する権力者としてのリーダーである。


  【29】 五つの誤謬推論

 病理現象からの脱出のための処方箋はどう書けばいいのか。

   共同体においては司法過程(検索過程)が稼働しない。あるいは、虚構の他者や外部という「疑似問題」をめぐって管理された司法過程(検索過程)が展開されている。そして、司法過程(検索過程)の本質は、問題を共有しあう人々の共同作業によって妥当な解決策を「推論」することであった。

 そうであれば、病理現象を呈している社会にあっては、推論の形式──連言[∧]、選言 [∨]、含意[⇒]、同値[⇔]及び否定[¬]という五つの論理詞によって示されるもの──をめぐるなんらかの支障が、すなわち誤謬推論が生じていることであろう。社会の「出エジプト」のための処方箋は、これらの誤謬推論を真正なそれへと是正することに他ならない。

 五つの誤謬推論。第一の誤謬推論は、個人と個人のいまここでの部分的かつ特殊的な結合[∧]の中から一般化された普遍的な関係、すなわち共同性を抽出することである。

 第二の誤謬推論は、このような共同性を実体的な価値として外在化させ、全体と部分の二者択一的緊張をはらんだ関係[∨]のうちに受肉させることである。

 第三の誤謬推論は第一と第二の誤謬推論を基礎として、異質な諸個人に同質性を外挿し、これを同一のタブローの上に並置すること、そして「〜から〜へ」と至る多数多様でメタフォリカルな諸個人の連鎖[⇒]を破壊し、「〜ならば〜である」という本来恣意的な因果関係のうちに編制してしまうことである。

 以上の誤謬推論の結果、すべてはトートロジカルな相互同質性をもって融合し、司法過程(検索過程)は閉塞する。その時、社会は共同体として実体化され、第一の病理現象を呈していることなる。

 第四の誤謬推論は、第三のそれが諸個人の連鎖の多数多様性を破壊することで生成させた因果的世界の恣意性・無根拠性を隠蔽し、これを基礎付けるため超越的・象徴的な外部世界を仮構し、因果的世界に禁忌(抑圧)あるいは全員一致の排除のルールを外挿することである。禁忌の対象とされあるいは排除されるもの、つまり虚構の他者(あるいは内部の敵)の存在をもって、外部世界の存在証明とするまやかしの置き換え[⇔]を遂行することである。そして、第四の誤謬推論が蔓延する時、社会は第二の病理現象を呈することになる。

 第五の誤謬推論は、第四のそれと類似した推論を、置き換えではなく否定[¬]の操作を介して行うことである。すなわち、因果的世界の恣意性・無根拠性の基礎付けを、いまここにではなく否定という人為的な操作を介して虚構の過去に求めること、因果的世界の自己完結性[integrity]を後から遡及させることである。  社会の第三の病理現象において、外部からの危機(否定)という虚構を介して観念される「純潔無垢な共同体の価値」とは、まさに第五の誤謬推論が導き出す仮構に他ならない。


【30】 空の青み(この私の世界へ)

 空の青みに見入っていると、自我が極微の要素から合成されていること、そしてこれらの要素はどの一つをとって見ても確固たる実在ではないこと、ただ関係があるだけだと解ってくる。そのような自我が無限小と無限大を結ぶ奇妙な等式にのっとって空の青み全体に拡散していく。それはもはや私の主観ではない。空そのものにまで広がった自我は、「私」の自我と名づけることはもちろん、もはや「自我」とさえ呼ぶことのできない客観世界をかたちづくっている。ただ空の「青み」が私の感覚に刺激を与え続けるかぎりで、主観と客観は浸透しあっている。

 私が見ているのは空であり空の青みであり、そこに映し出された私ではない私であり、つまりは抽象である。そこには一片のイメージすらない。全き空虚である。ただ空が、空の青みがある。あるという言葉がもはや確たる手触りをもたらさないようなあり方で、空の青みはそこにある。私の主観、私の自我は感覚に収斂されている。抽象と感覚。──神秘体験への予感がめばえるのは、その時だ。