【18】 死をめぐる説話の生産(その1)

 言説過程において高次の精神に託された、あの果てしない意味探究の欲望。このような欲望を産み出し、かつこれに絶えず力を供給し続けるものは、諸主体の内部にあらかじめ備わった根源的な実質、制御不能の実体としての生命に他ならなかった。私たちの社会における第一義的な価値として生命を表象し、この価値をいくつかの異なるレベルにおいて限りなく追及しようとする社会過程が、生産過程である。

 生命という価値の追及は、その深部において死との緊張を孕んだ関係を取り結んでいる。このような事情から、私たちの社会における生産過程は、その超克であれ融和であれ超越であれ内部化であれ、死の問題の処理をめぐって展開されることとなる。

 私たちの社会における四つの死のイメージ。第一は、個としての主体に帰属する生命の死、すなわち最も具象性を帯びた生々しい出来事としてイメージされる死である。主体は死の超克を希い、自己の名を私たちの社会に刻印し、これを通じて「換喩的」に自己の生存にまつわる記憶を「反復」して想起させるための「説得」のメディア、すなわち『伝説』の制作を目論むだろう。

 第二は、個々の主体の生命を抽象して得られるレベル、種としての共同体に帰属する生命の死、すなわち最も抽象性を帯びた操作可能な事件としてイメージされる死である。とりわけ政治的身体とでもいうべき特権的な身体の死は、その存在を通じて「提喩的」に表現されていた共同体の存続目的の喪失をもたらすクリティカルな事件として受け止められるだろう。

 共同体は、その崩壊につながりかねない象徴的事件から固有名詞と身体性を剥ぎ取り、抽象化されたレベルにおいて事件の論理的構造を「再現」する『民話』を制作する。そして、これを仮構性と操作性を帯びた様々な儀礼を通じて、共同体の成員の意識化されない身体感覚に根差したものとして「論証」し、基礎付けるのである。


【19】 死をめぐる説話の生産(その2)

 私たちの社会における死のイメージ(承前)。

 第三は、個と種(共同体)という異なる位相を連結する超越的・超常的なレベル、意味生成の契機として現象する生命の死、すなわち個と種(共同体)のアイデンティティの拠り所である起源の喪失としてイメージされる死である。このような起源の観念の喪失は、共同体が共有する『神話』の消滅や聖性破壊として、その成員に深刻な問題を投げかけるだろう。

 共同体は、個と種、仮想性と現実性、論理的操作性と歴史的事件性を媒介し、相互に関係付ける「隠喩的」な精神の運動によって新たな『神話』を制作する。このような神話の共同制作を通じて共同体は「再生産」され、成員は神話が呈示する新たな問題(起源)をめぐる果てしない議論を通じてそこに内蔵された「教え」の意味を受肉するのである。

 第四は、個と種(共同体)が同質性をもって共在させられる自閉的・普遍的なレベル、価値産出の契機として現象する生命の死、すなわち殺戮と救済の等置というアイロニカルな価値転倒をもたらす仕掛けとしてイメージされる死である。このような死のイメージは、実は、神話が物語る意味世界を世俗的な時空間のうちに「複製」したものにすぎず、生命という一元的な価値の内部のうちにあらかじめ取り込まれている。それというのも、そこでは聖と俗、生と死、個と種といった対立する語が、言語そのものに起因する「逆喩的」な変形操作を被り、厚みのない均質なタブローの上に併置される他はないからだ。

 あらかじめ理解された死。共同体の総意によって選別された他者をめぐる供儀の演出を通じて、フィクショナルな危機と救済のイメージ、擬似的な死と再生のイメージの中に封印された死。あるいは供儀の日常化としての『スキャンダル』、個の抹殺による共同体再生の説話の生産と流通と消費のプロセスを通じて、共同体は死を内部化する。


【20】 模倣作用の総括

 生産過程における社会的諸観念の生産を通じて、模倣作用は表象作用から独立した自律的な閉域を私たちの社会の表層において構築する。

 命名過程は、名付けの暴力の行使によって共同体の成員に符号としての名を付与する。私と発語する権利を自認する諸主体に不可視の剣を振りかざし、これを個として切り出すと同時に、個に帰属する観念としての身体に登録の痕跡を刻むことによって、名付けのルールの上に成立する権力は諸主体を生まれながらに共同体の成員として掌握するのである。

 儀礼過程は、肉としての身体に対する同一性の強制によって、身体を媒体として生成・消費される諸力を物質から分離し統治する。鏡像としての他者の身体を自らの身体イメージの上に重ね合わせることで諸主体は自己の内面に「心」という場を制作し、儀礼への参入を通じて培った身体統治のタクトを応用することによって外部からの操作可能な場としてこれを共同体に差し出す。そして、儀礼過程が私たちの社会にはりめぐらせたシステム的統合の象徴体系の観念を、この自己の内面の植民地において培養するのである。

 言説過程は、すべての社会事象を因果・論理・意味・理解という関係性による管理の対象とすることによって、共同体とその成員の運命を司る高次の領域を仮構すること。そして、完全無欠の超越的存在(共同体の魂)の所在を示す聖なる言説によって編纂された珠玉の言説の読解を通じて、共同体とその成員は、全体と部分を共軛する弁証法的な擬似ダイナミクスのうちに統合されることになるのである。

 最後に、生産過程は以上の三つの社会過程の総仕上げとして、個と種(共同体)の同質性というフィクションを制作すること、すなわち権利・目的・意味といった観念を生産・流通・消費(理解)のプロセスを通じて価値として表象し、ひいては生命そのものを私たちの社会の表層における観念操作の対象として切り出す。そして、個体の抹殺による種の擬似再性というメカニズムを仮構することで、共同体は生命という価値に対する先取特権を行使し、社会的実在として自らを複製し続けるのである。