【11】 観念としての身体の四層構造

 名指し名指されることによって編制される私たちの社会の秩序。そこに働く根源的な命名行為としての名付けの暴力(あるいは仮構としての社会事象をリアルな経験へと媒介する権力)。このような「認識論的」暴力とは異なる事実としてのむきだしの暴力が行使される対象が、身体である。

 身体という観念の四層構造。第一層は、集積する物質(離散)と振動する諸力(連続)の交点である。第二層は、排除の原理のもとにある物質と親和の原理にある諸力の錯綜の中から創発し両者の交換を媒介する「場」である。身体は、諸力のせめぎあいによる間断ない物質的変容を強いられながらも、場としての同一性・連続性を保持し続ける。(このことは、とりわけ性差の発現という御し難い盲目的な力の噴出が強いる身体の変異のうちに典型的に見ることができるだろう。)

 第三層は、第二の層における身体が他の身体との間に切り開く間身体場である。そこでは、拮抗し対立する物質間の関係から創発する身体の存在様式(否定する身体)と、共振し共鳴する諸力の関係から創発する身体の存在様式(模倣する身体)が、それぞれ異なる身体との間で取り結ぶ関係(相互否定性と同型性)を介して、差異性の経験が合成される。

 第四層は、内省する主体の意識のうちに表象される自己の身体をめぐるイメージである。相互否定性(排除)と同型性(親和)が差異性を媒介として主体の意識に浮上したとき、嫌悪と同情という感覚もしくは感情の形式、さらには身体を契機とする諸主体の社会的結合の原形式が生成するであろう。


【12】 社会システム編制の原観念(区画された時間、目的、役割)

 同情であれ嫌悪であれ、社会的結合の原形式はいずれも間身体場における差異性を共通の基盤としている。このことが見失われると、同情・嫌悪がその形式性を喪失し、実体化されてしまう。

 同情の場合。感情移入や自他未分の共生関係を含意するものとして実体化されると、身体を媒介とした他者との合一や性愛を通じた自他融合、ひいては他者との一体化を通じた自己完結性の回復といった「愛をめぐる説話」が、同情を原形式とする社会的結合の究極のあり方を示すものとして流布することになるだろう。

 嫌悪の場合。他の身体への否定的なかかわりが一方向において実体化されると、他者の排除を通じた自己の一貫性や唯一性の補償という暴力的攻撃をめぐる「悪の説話」が、嫌悪を原形式とする社会的結合の究極的のあり方を示すものとして流布することになるだろう。

 間身体場に流れる多数多様な諸時間に無限遠点としての始点と終点を外挿しこれを整序する、社会的結合システム編制の原観念──生誕と死、目的と役割。

 主体は、自身の生誕に先立つ性的結合という生々しい出来事を、神話的思考を駆使して聖なる男女の婚姻譚として物語る。そして、自己の身体に刻印された性差をいわば聖痕として受容し、来るべき婚姻の場における自身の役割をあらかじめ受容するのである。婚姻は性的身体にとって究極の目的である。(愛の説話のバージョン)

 あるいは主体は、自身の生誕をもたらした出来事の偶然性を否定し、身体に刻印された性差を自己の不完全性の徴憑として排除しようとする。分割された片割れの性に対するあくなき支配権の追及を通じて、他性による規範的・物理的な力の行使による受苦を通じて、または自らの身体を媒体とする両性の一体化を通じて、主体は時の始源(自己の生誕)を再現しようとするのである。(悪の説話のバージョン)


【13】 儀礼の四過程

 身体を基礎として展開される社会過程は、諸力を身体から切り離し「心」として統治する仕掛けを組み込んだものとなるであろう。というのも、諸力は方向性も形式ももたない盲目的・恣意的な奔流でしかなく、ともすれば身体は(「本能」としての)諸力に突き動かされ、目的と役割からなる社会的結合システムを撹乱することになるからである。そして、諸力を物質としての身体から切り離し規律するための装置こそ、儀礼である。

 儀礼過程の四つの類型。第一は、日常的な所作の下位のレベルにうごめく諸力の自在な運動を解放するとともにそれらを再編成し、儀礼を構成する具体的な素材である振舞いとして意識的に「反復」する過程である。

 第二は、諸々の振舞いの連鎖を通じて儀礼という上位の象徴的なレベルを仮構する過程である。振舞いはもはや儀礼を構成する具体的素材であるにとどまらず、儀礼そのものの分割不可能な部分となって全体の中に位置づけられる。類─種関係という提喩的・論理的な関係性を契機として、振舞いは儀礼システムの中に位置付けられ、目的─役割の体系のうちに「再現」されるのである。

 第三は、仮構として成立した儀礼に意味を吹き込み稼働させ、自己充足的なリアルな社会事象として実在させる過程である。神話であれ歴史的出来事であれその表現形態は異なるにせよ、儀礼を儀礼たらしめる意味体系・準拠枠を上位のレベルに仮構することで、儀礼はその象徴性の実質を獲得し、個々の振舞いはそれぞれに割り振られた役割遂行によって担うべき意味を、全体的布置の中に占める位置関係のうちに実現する。

 このようにして儀礼は自ら稼働するための力を生産することになるのだが、この力とは、そもそも振舞いの下位のレベルにおいて固有の法則に従って自律的に運動していた諸力の変形物、すなわち「再生産」物に他ならない。

 第四は、儀礼の最上位のレベル(意味体系・準拠枠)を最下位のレベル(諸力の運動)へと連結し、いわば非日常的な時間を日常的な時間の根底に据えるアイロニカルな過程である。

 まず、儀礼のクライマックスにおいて顕現する不可視のレベルを神話的過去あるいは超越的高みにおける原体験あるいは原型の「写し」として観念させ、次いで、不可視のレベルを儀礼という場に共在した人間集団の共通の記憶として、日常の社会生活を発現させる「遺伝子」として観念させる。──このような「複製」の働きによって、自給自足的な意味の生産・流通・消費体としての共同体(儀礼共同体)が形成され、個々の成員は共同体の記憶を刻印された身体として、役割体系のうちに捕捉されるのである。


【14】 性的結合の四類型

 儀礼の四過程は、社会的結合、とりわけ性的結合の四類型と相同的だ。奔流する諸力と物質の集積体としての身体の分離と再統合のうちに遂行される「反復」的結合(ここでは、他者の身体はいまだ固有の実質を備えたものではない)、目的─役割体系のうちにあって器官的結合へ向けた一連の手続きを経て遂行される「再現」的結合、あらかじめ喪失された原初の全的一体性への到達(あるいは生を包摂するものとしての死への帰還)といった根源的な力との接触を希求する「再生産」的結合、そして互いの身体を道具として、あるいはイメージとして利用する相互自涜的な「複製」的結合が、それぞれ儀礼の四過程に対応している。

 ここで重要なのは、第二の類型である。自己の身体をシステマティックに構成された物質の集積体として了解するためには、鏡像としての他者の身体との相互引用的な接触が不可欠である。また間身体場にうごめく諸力を統治するためには、他者との共同作業によって諸力の噴出する通路たる器官を特定しかつ管理することが必要である。このような、性的結合をいわば社会的結合として表現するための決定的な一線を超えるのが、再現的結合に他ならない。