【5】 内省とその表象物(その1)

 表象作用によって語りえぬ領域から語りうる領域へと浮上するのは、自己・身体・精神・欲望の観念である。これらは内省を通じて意識の対象となる表象物であって、あらかじめ実在していたものの再度の[re]現われ[presentation]であるかのように、諸主体にリアルな経験をもたらす。

 内省[introspection]のスペクトル分析。まず、発光器としての意識が自らの内に向かって照射する探査光は、自己をめぐる知(自己の同一性と連続性の観念:自己意識)をもたらす。(このような働きは検閲[inspection]と呼ぶことがふさわしいものだ。検閲の働きは、生体における免疫の作用と同様、自己知に先立つからである。)

 発光器は、自己知の起源を求めて次なる探査光を照射する。既に完了したプロセス(あらかじめ失われた時間)あるいは物質的な基盤に向かって、探査光は遡行[retrospection]する。そこで見い出されるのは、諸力がひしめきせめぎあう物質性の暗闇、すなわち身体であり、とりわけ性的身体がもつ御し難い力である。

 さらに、発光器は、物質性のくびきから脱出する通路に向けて外部観察[extrospection](思索[speculation])の探査光を照射し、また、未だ到来しない時間に向けて予期[prospect](投機[speculation])の探査光を照射する。その結果見い出されるのは、自己知の生成メカニズムそのものである精神、あるいは精神の運動としての言語であり、自己を維持しようとする欲望、あるいは欲望を産出しこれに絶えず力を供給し続ける根源的な実質、すなわち生命である。


【6】 内省とその表象物(その2)

 発光器は、いや意識は、自らの内に向かう探査を終了した。そこに見い出されたのは、根源的な力としての生命であり、生命を宿した物質の集積体(身体)であり、脱物質を志向し不断に自己知を産出し続ける精神の運動であった。そしてこれらを三位一体的に兼ね備えたもの(自己)こそ、私たちの社会における主体である。

 私たちの社会の主体は「私」と発語する権利によって、また、性差の発現に伴う時間あるいは目的、言語の使用に伴う意味、生命そのものに伴う価値という三つの観念によって充填されている。(これらの観念は、内省の探査光の反射によってもたらされる。)

 以上で、私たちの社会の表層において展開される諸過程を分析するための手がかりが得られた。再言すれば、諸主体は第一に自己を「私」と発語する権利をもっており、第二に身体的・性的な存在としてあらかじめ設定された目的実現のための盲目的な機構を宿しており、第三に言語を操作して思索する(自己の意味を問い続ける)存在であり、第四に欲望する生命という価値そのものであった。私たちの社会は、これらの分岐を起点として、四つの異なった社会過程を編纂していくのである。


【7】 内省とその表象物(その3)

 表象作用によって無意識の領域から出現した(かのように意識される)四つ組の観念。これらの語りえぬ存在を語るための言語を探究しよう。そのためには、2次元で表現された図式を3次に変換し再び2次元に還元する操作が必要だ(その理由は、不思議の国の論理学)。

 四つ組の表象物の新しい布置。まず、自己・権利をめぐる「政治」は事実として生起し、時間的・空間的な隣接性に基づき無際限に連鎖する(〜と〜と)。ついで、身体・目的は具体的な物に即しながらも認識不可能な深みをもち、論理(思惟)の世界における二項対立(〜か〜か)あるいは類種関係に基づき離散的に連鎖する。  そして、精神・意味は類似性に基づく運動(〜から〜へ)を契機として、また、生命・価値は死を超越するアイロニカルな連続性(¬〜⇔〜)を契機として、事実の世界と論理の世界を連結する(形相と質料、あるいは物の秩序と観念の秩序との連結と言い替えてもいいだろう)。