生産過程


 模倣作用が紡ぎ出す最終の社会過程は、生産過程である。
 模倣作用は、表象・模倣・記憶・解釈という私たちの社会の四作用を、表層における社会過程のうちに再現させ「模倣」させるものであった。(命名過程は記憶作用を、儀礼過程は模倣作用そのものを、言説過程は解釈作用を、そして生産過程は表象作用をそれぞれ模倣している。)このような模倣作用の特質を最も濃厚に反映し、かつアイロニカルなかたちで反復しているのが、本稿で論及する生産過程である。

 生産過程を稼働させるのは、欲望である。言説過程において高次の精神のうちに託された、あの果てしない意味探究の欲望が、生産過程を紡ぎ出す根源的な原理である。このような欲望を産み出し、かつこれに絶えず力を供給し続けるものは生命──諸主体の内部にあらかじめ備わった根源的な本質、制御不能の実体としての生命──に他ならなかった。したがって、生産過程とは、生命を私たちの社会における第一義的な価値として表象し、この価値をいくつかの異なるレベルにおいて限りなく追求しようとする社会過程であると言うことができるだろう。
 ところで、生命は常に死と対峙しつつその営みを遂行している。そして、生命という価値の追求は、必ずその深部において死との緊張を孕んだ関係を取り結んでいる。このような事情から、生産過程をめぐる論考は、私たちの社会における死の問題の処理──その超克であれ融和であれ超越であれ内部化であれ──をめぐって展開されることとなる。
 ここで言う死とは、儀礼過程を論じた際に言及した身体の終焉としての具体的な死、すなわち時間や目的といった観念を紡ぎ出すそれではない。生産過程の端緒となる死は、個体やその集合としての種(共同体として実体化された社会)の生命を発露させる根源的な欲望の消尽と再生のメカニズムのうちに表現されるイメ−ジとしての死である。それは、個体と種をめぐる生命の異なった位相に応じて、四つの局面において結実することとなるだろう。
 第一に、具体的なレベルにおいて客観的事実として現象する生命、すなわち個としての主体に帰属する生命に関して言えば、死は最も具象性を帯びた生々しい出来事としてイメ−ジされる。主体は、死という理不尽な力の振舞いに抗するための有効な手立てをもたない。そこで、死をあらかじめ受容するための様々な観念操作の方法が考案されることになるのである。たとえば、自己の死になんらかの意味や目的あるいは価値を見出すこと。さらには自己の死を自ら決定し演出することで、死という異界からの一方的な召喚に対して権利をもって臨むこと──これらが、その代表的な例である。
 しかし、主体はこのような受動的な対応にとどまることなく、やがて能動的な死の超克を希い、そのための方法を模索するようになるであろう。その時、私たちの社会において個々の主体の生物学的な死を超えて永遠に生き続ける素材として、しかも生前の操作を通じて人為的に造形できる可塑物として重要な意義をもつことになるのが、主体の生存にまつわる「記憶」とこれを換喩的に表現する「名」の存在である。つまり、主体は自己の名を私たちの社会に刻印しこれを通じて自己の生存にまつわる記憶を反復して想起させるためのメディア、すなわち「伝説」の制作を通じて、個体としての死の超克を達成しようとするのである。 
 (個々の主体に割り振られた名が、命名儀礼のうちに隠蔽された主体の唯一性・単独性表象の契機をいわば痕跡としてとどめることによって、私たちの社会における符合機能を獲得すること、そして個としての諸主体を「自己名」主義へと駆り立てるのが、このような名をめぐる逆説的な事態であったことは、既に述べた。しかし、命名過程における自己名主義が、自己や帰属集団に関するエゴイズムという、社会秩序との間に緊張した関係を取り結ぶ主体の意識の変形物であると言えるのに対して、生産過程における「名」へのこだわりは、これとはいささか異なった様相を帯びている。というのも、かつて記述可能な名付けのル−ルの共有によって成立し得た共同体は、いまや理解共同体として、記述不可能な価値の共有という原理に立脚しているからである。経済活動に例えると、命名過程における名が商品の「価格」に相当するとすれば、生産過程における名は商品の「価値」に相当すると言えようか。したがって、主体は自己の生存の記憶を伝説化するに際して、既存の価格システムに依拠するだけでは足りず、不可視の価値システムそのものを仮構しなければならない。さらに比喩を使えば、自己名主義にあっては商品はいわば自然物としてあらかじめ存在しており、採集や掠奪を経て市場に出品され、闘争と妥協、断念と武断に彩られた紛糾したプロセスによってその価格が決定されるのに対して、「伝説化」主義にあっては商品とは伝説というメディアそのものであり、市場における説得を通じて──言い換えれば、自己の名にまつわる伝説を商品として市場に出品する権利の実証を通じて──伝説の制作とともに仮構された価値システムそのものを顕在化させるのである。)
 第二に、個々の主体の生命を抽象して得られるレベルにおいて、論理的構造をもった社会事象として現象する生命、すなわち儀礼共同体に帰属する生命に関して言えば、死は最も抽象性を帯びた操作可能な事件としてイメ−ジされる。儀礼共同体における死のイメ−ジは、共同体の内部に力を供給し続ける特異点の解体として、またその極限的な形態において、政治的身体とでも言うべき特権的な身体の上に提喩的に表現された儀礼共同体の存続目的の喪失として──端的に言えば、特権的な身体の生誕と死との間に流れる「時間」という観念の仮構性の暴露、あるいは特権的身体のもつ「原象徴」機能の瓦解として──共同体の成因に共通の危機意識を喚起することとなるだろう。
 儀礼共同体は、このような危機をもたらす政治的事件に対処するために、あるいは共同体の死という危機的な事件との融和を図るために、共同体の目的の一貫性とその内部に流れる時間の連続性を担保し、かつ役割分業システムを磐石なものとする多様な装置を考案するのである。たとえば、記念碑その他の建造物の造営、まがまがしい「外部」世界というフィクションの制作による擬似的な危機の演出などがその例だ。そして、これらの可視的な、仮構性と操作性を帯びた装置群を、共同体の成員の内面におけるプロセスを通じてリアルなものとして受容させるために──とりわけ意識化されない身体感覚に根差したものとして基礎付けるために──考案された手法が「民話」の制作なのである。
 (民話は、王殺しの説話であれ異類婚姻譚であれ、儀礼共同体の崩壊につながる象徴的な事件から固有名詞と生々しい身体性を取り去り、抽象化されたレベルにおいて事件の論理的構造を再現する。共同体の成員は、民話が物語る仮想的な世界のうちに、自らの身体の奥深くに内蔵された領域へ直接働きかける根源的な力を感受する。そして、儀礼共同体が様々な儀礼によって保存・伝達しようとするもの、すなわち共同体の「目的」や成員の「役割」についての共通感覚の実在性を、自らの身体とそこから発露する畏怖や愉悦の感情の体験を通じて論証することになるのである。)
 第三に、個体と種(共同体)という異なる位相を連結する超越的・超常的なレベルにおいて、意味生成の契機として現象する生命、すなわち議論共同体に帰属する生命に関して言えば、死は精神の運動の停止として、個体と種のアイデンティティの拠り所である「起源」の喪失としてイメ−ジされる。ここで起源とは、否定という論理操作の果てしない繰り返しによって仮構される無限遠点──言い換えれば、事後的に制作され、そこへの遡及を目的として様々な儀礼が流出し、一方で儀礼の遂行によっていまここで再生産される「忘却」──のことであり、また神の名や土地の名といった「原名」に内蔵され後世に伝えられる原初の出来事の記憶と、これを解読することによって明かされる意味の湧出点のことである。
 このような起源の観念の喪失は、議論共同体が共有する「神話」の消滅や聖性破壊として、その成員に深刻な問題を投げかけることであろう。いや、むしろ起源の喪失という危機に際して編纂されるのが神話であると言うべきだ。神話は議論共同体を更新し、死を超越させるための新たな起源を呈示する。あるいは、征服であれ併合であれ革命であれ、共同体の成立基盤の仮構性もしくは無根拠性が白日の下にさらされる状況に臨んで、これに超越的・超常的な聖性を付与するために、出来合いの伝説や民話に解体修復の手を加え、高次の精神への言及を含んだ特権的な言語によって体系付けたものが神話である。
 (個体と種、仮想性と現実性、論理的操作性と歴史的事実性を媒介し相互に関係付けるメタフォリカルな精神の運動によって神話は制作される。そして、議論共同体は新たな神話の制作によって再生産され、成員は神話が呈示する新たな問題=起源をめぐる果てしない議論を通じて、そこに内蔵された「教え」の意味を受肉するのである。)
 第四に、個体と種(共同体)が同質性をもって共在させられる自閉的・普遍的なレベルにおいて、価値産出の契機として現象する生命、すなわち理解共同体に帰属する生命に関して言えば、死は殺戮と救済の等置というアイロニカルな価値反転をもたらす仕掛けとしてイメ−ジされる。このような死のイメ−ジは、実は、神話が物語る神々の殺戮と生誕の意味世界を、あるいは聖性顕現、あるいは聖性破壊(真相暴露)の演劇的粉飾のもと、世俗的な時間と空間のうちに複製することによって捏造されたものにすぎない。理解共同体における死のイメ−ジはあらかじめ無力化され、生命という一元的な価値の内部に取り込まれている。というのも、そこでは、聖と俗、生と死、さらには個体と種といった対立する語が、言語そのものに起因する逆喩的な変形操作を被り、厚みのない均質なタブロ−の上に併置される他はないからだ。  理解共同体における死は、共同体の総意によって選別された特定の「他者」をめぐる供儀の演出を通じて、フィクショナルな危機とそこからの救済のイメ−ジ、擬似的な死と再生のイメ−ジの中に封印されている。あるいは、供儀の日常化としての「スキャンダル」──個の抹殺による共同体再生の説話──の生産と流通と消費のプロセスを通じて、理解共同体は死を内部化するのである。
 (スキャンダルは裏返しの神話として、世俗化された祝祭的時空間──仮面をつけた神々の饗宴──を構成するものとして、抽象性と具象性を通底する。すなわち、種=共同体の欲望を特定の個体のうちに具象化させ、あるいは特定の個体の欲望を種=共同体の欲望として抽象化する。このような欲望のアレゴリカルな変形プロセスを経て、共同体の成員たちは同一の欲望を内面化した、したがって誘惑の言説の交換によって社会過程を編制する「他者」としてお互いを認識することとなるのである。)

 生産過程は、様々な社会的観念を価値の相において「生産」する。名にかかわる権利、身体にかかわる目的、精神にかかわる意味、そして欲望する生命がそれである。これらの諸観念は、生とその否定である死の相克がもたらす緊張を解消させ、私たちの社会の異なるレベルにおいて生命という価値の永続性を表象するメディア──すなわち伝説・民話・神話・スキャンダルという四つの「説話」──を原型とする社会的装置群によって表現されるのである(たとえば、メディアの集積体としての都市、文学「作品」をはじめとする芸術的創造物によって)。
 このように、生産過程における社会的諸観念の生産を通じて、模倣作用は表象作用から独立した自律的な領域を私たちの社会の表層において構築しようとする。そして、私たちの社会の四作用が模倣作用を構成する四つの社会過程によって「模倣」され、その結果、私たちの社会の表層において一つの閉域が──すなわち、私たちの社会のダイナミクスを消去して得られる擬似社会たる共同体が──産出されるのである。
 第一に、命名過程は、名付けの暴力の行使によって共同体の成員に符合としての名を付与する。私と発語する権利を自認する諸主体に不可視の剣を振りかざし、これを個として切り出すと同時に、個に帰属する観念としての身体に登録の痕跡を刻むことによって、名付けのル−ルの上に成立する権力は、諸主体を生まれながらに共同体の成員として掌握するのである。v  第二に、儀礼過程は、肉としての身体に対する同一性の強制によって、身体を媒体として生成・消費される諸力を物質から分離し統治する。鏡像としての他者の身体を自らの身体イメ−ジの上に重ね合わせることで、諸主体は自己の内面に「心」という場を制作し、儀礼への参入を通じて培った身体統治のタクトを応用することによって外部からの操作可能な場としてこれを共同体に差し出す。そして、儀礼過程が私たちの社会にはりめぐらせたシステム的統合の象徴と役割体系の観念を、この自己の内面の植民地において培養するのである。
 第三に、言説過程は、すべての社会事象を因果・論理・意味・理解という関係性による管理の対象とすることによって、共同体とその成員の運命を司る高次の精神の領域を仮構する。そして、完全無欠の超越的存在(共同体の魂)の所在を示す聖なる言語によって編纂された珠玉の言説の読解を通じて、議論共同体とその成員は、全体と部分を共軛する弁証法的な擬似ダイナミクスのうちに統合されることとなるのである。
 最後に、生産過程は以上の三つの社会過程の総仕上げとして、種と個体の同質性というフィクションを制作する。すなわち、権利・目的・意味といった観念を、生産・流通・消費(=理解)のプロセスを通じて価値として表象し、ひいては生命そのものを私たちの社会の表層における観念操作の対象として切り出す。そして、個体の抹殺による種の擬似再生というメカニズムを仮構することで、理解共同体は生命という価値に対する先取特権を行使し、社会的実在として自らを複製し続けるのである。
 だが、これらの社会的諸価値を表象する原型的メディアとしての説話は、それぞれインデックス・シンボル・イコン・マスクという記号へと結実し、これらの記号をめぐる記憶作用と解釈作用を切り開いていく。そして、解釈作用が私たちの社会における諸主体の内省空間に無意識の領野を区画し、表象作用を開始させる力を備蓄する。──このように、生産過程は模倣作用を閉じるとともに開くというアイロニカルな機能を果たすのである。