言説過程


 儀礼のクライマックスにおいて、個々の振舞いはあたかも象形文字と化して一冊の書物を編纂し、また天上からあるいは神話的太古から、聴く者をして恍惚と恐怖と帰依の念を覚えさせずにはおかない神々しい声が響いてくる──これらの文字や声は、醒めてしまえば意味不明の、しかし確実に存在したというリアルな記憶を伴った説明不可能な夢の言語として、きれぎれの断片として記録されるであろう。私たちの社会の表層において働く模倣作用は、このような解読不能の、あるいは公共的言語への翻訳が不可能な体験をめぐる解釈と言説編制の過程を紡ぎ出していく。それは、物質的くびきをを脱し、儀礼共同体の「精神」ともいうべき場に集約させられた諸力が、自らの成り立ちと構造を問い、意味を探究する過程、言い換えれば自らを制約する場の淵源を明らかにすることで再び「出エジプト」を企図する、自己言及的な運動の過程である。精神の運動とは、言語そのものであった。言語が言語を対象とし、言語をもってかかわっていくこのような運動によって編制される社会過程を、言説過程と呼ぶことにしよう。

 私たちは意味のない振舞いをしたり意味のない言説を表明することはできる。しかし意味のない振舞いや言説を記録し、記憶にとどめることはできない。つまり無意味な振舞いや言説を基礎として、これに対して次の振舞いや言説を関係付けていくことはできない。言い換えれば、無意味な振舞いを儀礼として編制したり、無意味な言説の連鎖を通じてあるまとまりをもった社会過程(言説過程)を紡ぎ出していくことはできないのである。
 それでは振舞いや言説の意味とは一体何か。ここではとりあえず次のように定義しておくことにしよう。すなわち、ある振舞いや言説の意味とは、次なる振舞い・言説を産出するための契機、あるいは──連接的であれ離接的であれ──異なる振舞い・言説をこれに関係付けるための手掛りのことであると。(ここで言う意味とは、何が表現され表明されたかという内容よりも、いかに表現され表明されたかという形式に重きを置いたものである。あるいは、振舞いや言説のうちにまず反復可能な型を見出し、再現された形を読解するという私たちの認識のあり方に照らして定義されたものだ。形式とは、たとえば論理形式のように客観的かつ無時間的に構築された概念のことではない。私たちが形式を見出し読解する時、その根底には、「今ここで」生成しつつある諸力のダイナミックでリズミカルな運動との遭遇という生々しい体験が潜んでいる。)
 私たちの社会の表層における第三の社会過程を編制する言説とは、したがってなんらかの「意味」を内在させた──あるいは外在的な解釈によって、唯一のものではないにせよある特定の「意味」をそこから導出することが可能な──ひとかたまりの言語表現のことである。
 ところで、言語とは精神の運動であり、精神の運動から生成するものであった。また、精神とは物質性から自らを解放し外へ出ようとする、あるいは不断に自己の意味を問い続ける運動そのものであった。(あるいは精神とは脳が脳自身にかかわっていくこと、そのようなかかわりから産出される意識・無意識の合成物、もしくは脳が脳内過程に自己参入する道具であると言ってもいい。)したがって、言説とはこのような精神の自己解放・自己探究運動のプロセスを、精神自身に対して同型的に表現したものであると言うことができるだろう。そして私たちが通常考える言説の意味とは──先に定義した、言説の連結を可能にする契機・手掛りといった形式的なそれではなく──言説と精神の運動との写像関係のうちに経験される、ある名状し難い実質感のことであろう。
 このような意味をめぐる経験が、私たちの社会においていかにして言説の「意味」的な連結過程を通じて成立していくのか。以下、単純なものから複雑なものへと精神の運動(あるいは脳内過程)を図式化することで、この問題を考察することにしよう。
 第一に、精神は精神自身が生み出した事象に対してかかわっていく。精神自身が生み出した事象とは、可視的な人工物(道具、建造物、身体装飾、芸術作品等)や不可視の情報・知識体系(制度、歴史、慣習、科学、技術等)、あるいはこれらの合成物(都市、社会体等)のことである。また、自己や時間をめぐる意識、言語、権利・目的・意味・価値といった観念、社会的実践としての行為も、精神自身が生み出し──あるいは脳が脳内過程を外化させて──自らに対峙させた事象のうちに含めて考えてもいいだろう。そして精神がこれらの事象に対してかかわっていくということは、事象の意味を問い、その起源を究明し、帰趨を見定めようとすることに他ならない。  (ここに奇妙な循環が生じている。精神がその意味を問う対象が、実は精神そのものによって生み出されたものであるという循環が。いずれ精神はこのことに気付き、探究の方向をより自己に近接した場所へとシフトさせることになるだろう。クリテイカルで自己言及的な、本来の精神の運動が開始されるのは、まさにその時なのである。だがここでは先を急がず、いましばらく精神の「覚醒」を待つことにしよう。)
 自らの産出物である事象の意味を問うこと──このような問題の設定、あるいは問題の仮構を成し遂げるためには、身体を媒体とする儀礼がその全過程を成就し、物質性のうちにまどろんでいた諸力を社会的に整序する装置が設営されていなければならない。この装置とは、社会的主権という観念であり、統治するもの(精神=脳)と統治されるもの(身体=諸器官の集合)の区分である。そしてこれらの根底にあるものこそが、主観と客観の二分なのである。
 自己の産出物の意味を問うことによって、精神は私たちの社会にあらかじめ用意されていた主客分離の線分を「発見」し、確定する。「主観」としての精神の運動が、「客観」としての事象の意味を探究することによって遂行されるわけである。このような探究は、個々の事象そのものについてではなく、まず諸事象相互の関係を因果の鎖によって説明することをもって開始されるであろう。と言うのも、精神は儀礼過程の稼働原理を、いわば原形質として自らの運動法則のうちに組み込んでいるからである。儀礼過程の稼働原理とは、儀礼を組成する身体の振舞いを目的−役割(手段)体系のうちに位置付け、社会的行為として表現させるというものであった。精神は、この目的−役割(手段)体系を原因−結果という時間的連鎖のうちに翻訳し、諸事象の相互作用を整理し構造化することによって、客観世界の中に因果関係という法則を「発見」するわけである。
 このようにして精神は客観世界を確定し、そこで自律的に働く法則を見出すことになるのだが、言うまでもなくこれらは精神自身の起源のうちにあらかじめ準備されていたことなのだ。精神はそれと知らず、自己を非可逆的に世界から切り出し、残余の世界(客観世界)に自己を投影することによってこれを統治しようと企てている。因果の法則を客観世界に外挿し、諸事象の関係性を管理することによって自らの主権を確立しようという欲望が、精神を支配している。だが、自らを解放し外へ出ようとする精神の欲望は、自己を支配する欲望そのものからも解放されることを目指すであろう。そのためには、まず第一の探究を通じて明らかにされた客観世界の法則性が、実は精神自身の欲望の痕跡に他ならないことが「発見」されなければならない。
 精神の運動の第二の展開は、精神が事象にかかわっていくこと、客観を客観として確定することそのものを探究の対象とするものである。
 このような探究の端緒は、客観的諸事象が生起する場をひとかたまりの自律的領野として把握し、その根底に、ある到達しがたい深みを見出すことに求められるであろう。たとえば、啓示によるか論証によるかその方法は別として、客観的事象のうちに真理と名付けられる固有の特質を見出すこと。あるいは啓示の主体に関して神の観念、または無限の観念を見出すこと(これらは客観世界に超越的な次元をうがつ)。さらには論証の無矛盾性に関して理性や自然の自己完結性を見出すこと(これらは客観世界に先験性の刻印を刻み付ける)。そして歴史と進化の過程、言語と社会の数学的構造を実証的に見出すこと(これらは客観世界から、自己同一性を導き出す自己言及的なあるいはト−トロジカルな運動の痕跡を剥離する)。
 これらの様々な「発見」を通じて、精神は、主観と客観を通底する名状しがたい力──ショ−ペンハウア−にならって「意志」とでも名付けるべき主体なき欲望の蠢動──を感得することになる。なぜなら真理であれ無限であれ、あるいは対象の自己完結性であれ自己同一性であれ、これらの観念はいずれも精神自身を超過する探究不可能な次元を指し示しているからである。言い換えれば、主客分離の予定調和的な世界を根底から覆す深層の次元を、これらの諸観念は精神にかいま見させるのである。
 かくして精神は、私たちの社会の骨格をかたちづくる第二の線分、すなわち表層区画の線分を「発見」し、確定する。ここで指摘しておかなければならないことは、精神自身もまたこの第二の線分によって表層と深層という二つの次元に区画されるということだ。そして客観世界に内蔵される深層構造が、ある不可視の回路を通じて主観としての精神の深層に息付く無意識の次元と通底し合っているということだ。
 このような精神と客観世界を通底する回路を表現する言語は、論理である。因果の法則を記述する言語が、個々の事象の間に相互関係性を外挿することが可能な実在的な場の上に──あるいはそのような場を仮構することによって──成立しているのに対して、論理は個々の「場」の構造的同型性(差異性及び相互変換可能性と言ってもいい)の記述を可能にする仮想的な場において成立する。そしてこの仮想的な場こそ、精神の第二の探究が展開される場所なのである。
 詳説しょう。精神はまず、客観的諸事象が生起する場に内蔵された深層を探究する。その方法は、精神の第一の探究の場合と同様、ある場の深層そのものについてではなく異なる場の深層との比較、それも機能的な内容に関する比較ではなく構造的な枠組みの比較を行うというものだ。次に、精神は異質な場を通底する抽象的な空間を発見もしくは仮構する。それは、いわば実在する諸事象間の関係の関係を写像して得られる仮想的な場所であって、ここにおいてそれぞれの場の構造間における同型的対応関係や相互変換関係、すなわち本稿でいう「論理」的関係が成り立つわけである。
 精神自身の内蔵する深層(無意識の次元)もまたここにおいて、客観世界の深層と、同型性を基軸とする関係(論理的関係)を取り結ぶことになる。探究する主観である精神が自らの深層による規制を受けつつ、これを一つの客観的な場としてとらえ他の場との関係性を探究すること──精神は最後にこのような不可思議な局面を切り開く。ここでは論理の自己充足的な一貫性は破綻するしかないであろう。なぜなら、因果関係を語る言語によっては説明できない断絶が物質と生命の境界面上に生じるように、探究の主体と認識客体が相互侵入する局面には、論理によっては記述不能な矛盾が生じるからである。単純に言えば、論証の対象が論証自身であるようなパラドキシカルな場面の逆転がそこには生じている。
 精神がこのような難局を乗り切る方法は二つある。一つは、世界の諸々の場(無意識の次元を含む)相互の関係性そのものの中に矛盾を解消する力を見出すこと。いわば弁証法的な論理過程を世界の内部に措定する方法である。いま一つの方法は、矛盾を解消する力を内部にではなく外部に見出すこと、そのために世界の内部に外部からの力が注入される特異点を措定することである。精神の運動は,自らの危機を回避するこれらの方法に従って、第三、第四の展開へと進んでいく。
 精神の運動の第三の展開は、探究する精神そのものの成り立ちを問い、その探究過程そのものを探究の対象とするものである。(あるいは、脳内過程が探究の主体にもたらす経験の意味を問うというものである。)
 第二の探究の過程を通じて、精神は探究の主体と客体が相互に侵入する閉じられた局面の中に自らを追い込んでいった。そこにはもはや客観世界をくまなく照らし出す光源は存在せず、精神自身をも含めあらゆる事象が相互に影を投げかけあい、陰影の重なりあいのうちにおぼろげに自己の姿を浮び上がらせている。精神は、客観世界に対して特権的な地位をもってかかわることをやめ、自律的に稼働する力を失うだろう。そこでは言語も精神の不安定なあり方を反映し、事象間の関係を確定しその深層を解明する力を喪失する。言語はいたるところで自閉し、その内部において自給自足的に意味を生産し消費するのである。
 ここで精神が自らを世界の一部分であると認め、森羅万象との連続性のうちに自己を見出すことができるならば、この難局を解消することができるかもしれない。共振する身体を媒体として諸事象との交感にまどろむこと、いわば身体への回帰を果たすことによって精神は自ら招いた難局から解放されるかもしれない。しかし、このような方法がもたらす境地は精神の死以外の何者でもないだろう。なぜなら精神の本質とは、繰り返し述べたように、物質性のまどろみから脱出し諸事象との錯綜した関係を断ち切り不断に自己の意味を問うという、果てしない探究への欲望が強いる運動に他ならないからである。
 精神が再び世界にかかわっていく力を回復するためには、世界の諸々の場の成り立ちのうちに、自らをつき動かす欲望の投射を見て取ることが必要だ。客観世界を組成する諸事象のうちに、精神自身の運動の痕跡を見て取ることが必要なのである。しかし、このような認識は推論の連鎖によって獲得されるものではない。それは危機に臨んでの決断、認識というよりは制作と言うべきクリティカルな飛躍である。
 精神は、この臨界的な決断を通じて世界における特権的な地位を回復する。だが、それと同時に精神は重大な岐路に立たされることになるであろう。というのも、その時精神は閉ざされた場の内部において、始めて自らの根底にうごめいていた欲望の力と直面することになるからである。
 精神は、自らの起源である欲望そのものを探究の対象とするに際して、第一と第二の探究過程において使用した比較という方法を施すべき素材を、もはや世界のうちに求めることはできない。なぜなら、世界の中に「見出すものは己れのみ」という、独我論的な状況がいまや精神を取り巻いているからである。
 したがって精神がさらなる探究を継続するためには、次のいずれかの方法を採用するしかない。すなわち、自らを一個の客体として、いわば欲望の力によって稼働する機械として観念し、時間軸に沿って展開される世界の弁証法的な成長・進化のプロセスを解析することによって、欲望の自在な噴出を統治する上位の法則を「発見」するか(その結果精神は世界精神とでも言うべき肥大した観念の中に、欲望のくびきを脱した自己の理想型を見ることになるであろう)、あるいはこの法則を空間的に翻訳し、無限に重なりあう層構造のうちに欲望の無定形な動きを整序することによって、欲望による支配を滅却した究極の精神の座を保持するか(その結果精神はより大きな精神──あるいはより大きな脳──によって包摂され、これによって「理解」されるという不可思議な回路を経て「救済」されることになろう)のいずれかである。
 これらは、世界を時間軸に沿って水平的に見るか、時間を空間的表現のうちに織り込み世界を垂直的に見るかの違いはあるものの、独我論的状況にある世界の内部に、世界を超越するより大きな力の作用する次元を仮構することにおいて共通している。かつて因果関係や論理的同型性の認識を表現した定式(A⇒B)は、世界の内部において展開されるプロセス全体の意味が、それが精神にもたらす経験の実質を含めて、この超越的な次元において解明されるという関係性を表現するものとなるのである。
 精神の第四の、そして最後の探究は、以上のプロセスを経て獲得された高次の精神とでも言うべき仮構物をめぐって展開される。その際、決定的に重要な役割を果たすのが他者という観念である。精神の運動の第四の展開は、他者を契機として、あるいは他者を媒介として、高次の精神を個別の精神としての自己のうちに回収する過程であると言えるだろう。
 自らの起源である欲望(果てしない探究への欲望)そのものへの探究を通じて、精神は世界をその内部に自己組織的なメカニズムを組み込んだ巨大な機械、もしくは生命体として観念するに至った。そしてこの世界の核心をなす高次の精神への通路を自らのうちに見出すことで、精神は主観と客観、表層と深層という枠組みを超越する特権的な地位を世界の中で保持することになったのである。
 ここで精神が、自己を高次の精神による支配の客体(欲望機械)として観念し自らの存在の意味を探究不可能な上位の法則のうちに委ねてしまうか、あるいは世界を成り立たせる階層を順次上昇し究極的には高次の精神と一体化することで自らの存在の意味を解明し得ると見るか(高次の精神へと成長する「種子」として、精神が自らをイメ−ジするかどうか)──世界に対する態度にこのような異なる二つの形態があることは既に述べた。しかしいずれの場合にあっても、世界がかくあるものとして存在し、また精神がこの世界のうちにあって現に存在していること自体の意味を、上位の法則や将来における解脱などにではなく、いまここで、直接的に体得することを断念している点で共通している。なによりも世界の現実的な動態、とりわけ私たちの社会において日々生起している出来事に対する実践的なかかわりがそこからは出てこないのである。
 もっとも、世界の弁証法的な成長・進化のプロセスを解析し、あるいは世界の層構造を究明することのうちに実践的意識を見ることができるかもしれない。しかしそのような探究が歴史の法則であれ精神の階層性であれ、なんらかの究極的な観念の仮構によって終結するとともに、実践性は失われてしまうのである。世界を動かすのは、そして私たちの社会を稼働させるのは、実は法則や層構造ではなくそれらをめぐる探究の継続のうちに、すなわち精神の営為としての言説の絶えることない交換と流通の過程のうちにある。このような言説の交換と流通を継続させる契機こそ、他者である。
 他者とは異なる精神(異なる脳)のことであり、高次の精神が支配する世界の、あるいは高次の精神が編纂する世界という書物の共同解読者のことだ。他者は客観世界の単なる一事象ではなく、探究する精神がその探究の光を到達させることのできない唯一の特異点である。精神は、他者との間に認識の関係を及ぼすことはできない。なぜなら、他者(異なる精神)と探究する精神との間に成立するのは、相互理解の関係だからである。(大きな精神に包摂され「理解」されることによって、欲望の支配から「救済」されるという不可思議な観念の反映を、他者の理解、他者による理解という関係のうちに見ることができるだろう。)
 このような他者との関係は、問題の共同仮構と、議論の絶えざる継続によって維持される。問題の共有とこれをめぐる果てしない議論にって形成される共同体、いわば「議論共同体」が、探究する精神たちが相互の「理解」を通じて実践性への契機を不断に自己の内部に繰り込む場なのである。
 ここで言う問題とは、たとえば「社会の自然状態」という仮構の設定を介して繰り広げられる社会秩序形成の原形式をめぐる問題であり、あるいは「運命」という観念の舞台上で展開される自由意志と決定論の相克をめぐる問題のことである。これらはいずれも議論継続のための「擬似問題」であって、最終的な解決は原理的にあり得ない。探究する精神たちはこれらの問題をめぐる議論を通じて、あらゆる事象に理解可能性の刻印を刻みつけ関係性の管理を及ぼすことによって、科学法則に関する命題であれ社会現象に対する仮説であれ──あるいは伝説・民話・神話・スキャンダルであれ──なんらかの「説話」を共同制作し、「説話」自体を新たな問題としてとらえ直し、さらなる議論の過程へと繰り入れるのである。そしてこの永久運動的な探究を通じて、個々の精神は議論共同体の外部に論証不可能な、しかし確実に存在するものとして高次の精神を見出し、そこから無尽蔵の力を自己の内部に汲み取るのである。
 このように、他者との遭遇を通じて、あるいは他者という観念の成立(仮構)を介して言説は社会的事象として産出され、流通し、消費される。そして、精神の運動の第四の展開は入れ子式に第一の展開へと組み込まれていくのである。というのも、精神の第一の探究が精神自身の生み出した諸事象をめぐって展開されるとき、それらは単体の精神によってではなく複数の精神による「議論」によって、またその総体のうちに示される高次の精神からの力の供給を介して、生産されるものであるからだ。
 (ここで、総体としての精神ではなく、単体としての精神によるアノマリ−な探究と生産の可能性について言及すべきであろうか。だが、このことについては、「私たちの社会」をめぐる考究を終え「この私の世界」を論じる運びとなった際に詳しく取り上げることとしよう。)
 かくして私たちの社会における言説過程の循環が成立した。この閉じた回路を装置として精神の運動を動機付ける欲望が──すなわち物質性からの解放、あるいは言語の形式的な連結規則から言語をめぐる経験の実質的な内容へと向かう意味の探究を精神に強いる欲望の力が──私たちの社会のあらゆる領域を覆い尽くし、すべての社会事象を因果・論理・意味・理解の諸関係による管理の対象とするのである。

 以上に述べた精神の運動の過程に対応して、言説には四つの類型がある。第一の類型は「説得」である。ここで言う説得とは、諸事象の相互作用の関係を時間軸に沿って説明することにより、そしてその関係性の網羅を通じて、私たちの社会においてあらかじめ成立していた主客分離の観念を改めて真理として受容させる営みのことである。説得の言説とは、たとえば「主」としての発語者が「客」としての言説受領者に対して、諸事象の関係性を「事実」として、科学的な真理性とともに強制することであると言っていいだろう。 言説の第二の類型は「論証」である。表層における諸事象の多様性をカテゴライズしその深層の構造を抽出すること、そして諸事象の関係の関係を深層構造のうちに写像することによって構造間の「論理」的関係を解明すること──このような論証の言説を通じて、私たちの社会における深層の諸構造が、相互の同型性や変換可能性といった形式のうちに関係付けられ、管理可能なものとして顕在化されるのである。
 しかし論証の言説によっては表現できない事柄がある。それは、深層構造の存在の意味であり、ひいては諸事象が社会的に生成し、あるいは産出されることのうちに孕まれている意味である。このことを言説そのものの形において明示するのが──具体的には、臨機応変の比喩や言葉の響き、あるいは発語者の身体に根差した力の発動を通じて感得させるのが──言説の第三の類型、すなわち「教え」の言説である。
 教えの言説が示すのは、主客分離の線分や表層区画の線分といった私たちの社会の枠組みを超越する高次の精神(個々の精神の集合体としての「世界精神」、あるいは個々の精神を包摂するものとしての「大きな精神=脳」)の存在可能性である。説得の言説によって記述される因果関係は、教えの言説が示すこの仮想的な場において、世界の弁証法的な成長・進化のプロセスを示すものとして、その実質的な意味が明らかにされる。また、論証の言説によって表現される論理的関係も同様に、究極の精神の座へと至る階梯を示すものとして、その本来的な意味が明らかにされるのである。
 ところで、教えの言説が、諸事象や諸構造の意味を最終的に解明する至高の場を示す特異な言説として社会的に流通するためには、なんらかの聖痕をそれ自体のうちに含んでいなければならない。また、教えの言説が、「語り得ぬ」領域への言及という私たちの社会における言語の限界を超えた営みを遂行しようとするものである限り、そこには個々の精神たちによる推論を介しての意味の補填、あるいは理解という作業が不可避的に伴わざるを得ないのである。
 教えの言説を他の言説から判然と区別する聖痕の所在を共通の問題として受容し(問題の仮構)、絶えざる議論を通して教えの言説が示すものの意味内容を補填し理解すること──このような「議論共同体」による共同作業の中心となるのが言説の第四の類型、すなわち「誘惑」の言説である。
 誘惑の対象は、他者である。言説の核心をなす対他性が誘惑の言説において純粋に、その極限に至るまで追求される。純粋であるとは、説得や論証のように、諸事象や諸構造の関係をめぐる「事実」「論理」といった、言説によって記述・表現される対象に依拠することなく、言説そのものによって──さらにはそれが発語される状況や言葉の響き、発語者の身体といった言説を取り巻く具体的な力の分布状態を利用して──他者に働きかけるという、誘惑の言説の本質に即した形容だ。(この意味で、誘惑の言説は教えの言説をその形態において模倣していると言えるだろう。)また極限的であるとは、奇計であれ詭計であれ他者を篭絡するための方法を選ばず、聖性破壊や聖性顕現といった価値転倒の手段にうったえることも辞さないという、誘惑の言説の徹底した技術性に即した形容だ。(言い換えるならば、教えの言説が臨機応変のレトリックを駆使して語り得ぬ領域の存在を示そうとする「方便」性を備えていることを、誘惑の言説は極限に至るまで模倣しているのである。)
 誘惑の言説は、教えの言説によって切り開かれた語り得ぬ領域をめぐる議論を継続させるとともに、このことを通じて私たちの社会に何らかの価値を注入しようとする。そして誘惑それ自体が目的となったとき、誘惑の言説は、問題の共有という原理の上に成立している議論共同体を価値の共有という異なる原理に立脚するもの、いわば「理解共同体」へと変質させ、実体化させる契機となるのである。
 以上に述べた言説の四類型は、推論の四類型に対応している。まず、説得の言説に対応するのは「帰納」 [in-duction] である。帰納において「A⇒B」という定式が諸事象の因果関係を表現していることは言うまでもない。第二に、論証の言説に対応するのは「演繹」 [de-duction] である。そこでは「A⇒B」という定式は、論理的同型性あるいは同値関係を表現している。第三に、教えの言説に対応するのが「洞察」 [ab-duction] である。そこでは「A⇒B」という定式は、その形式自体において意味関係を示している。最後に、誘惑の言説に対応するのは「生産」 [pro-duction]である。そこでは「A⇒B」という定式は、価値を媒介とした理解関係を表現している。(ここで重要なのは、第三の類型である。と言うのも、あたかも水晶球に映じた陰影を運命の痕跡として解読するように、珠玉の言説のうちに示されている叡知を私たちの社会の具体的な状況に即して読みとること──このような洞察の推論を通じて、私たちの社会を超越する存在の可能性が示唆され、これに依拠することで私たちの社会における諸価値の生産が開始されることとなるからである。)