儀礼過程


 私たちの社会における諸主体は、名ざしあるいは名ざされることによって社会秩序を編制する。このような命名過程を開始させ稼働させる根源的な力は名付けの暴力(あるいは仮構としての社会事象をリアルな経験へと結び付ける権力)であった。暴力には、認識論的暴力として(あるいは主体の生成やその社会的表現それ自体にまつわる根源的・存在論的な暴力として)抽象的な不可視のレベルで行使されるものとともに、諸主体の意識や存在の上に具体的に行使される可視的なものがある。たとえば、ある主体の名にまつわる記憶の意識への強制や、その抹殺。そして、主体の物質的な基盤そのものに向けられた暴力──このような事実としてのむきだしの暴力が行使される対象こそ、身体である。
 ところで、身体はこれに対する直接的な暴力の行使、とりわけ死に至らしめる暴力の行使を契機として、始めて私たちの社会のうちにその謎めいた全貌をあらわすのである。と言うのも、命名過程における身体は、その顔相・面差という特定の部位のもつ意義が強調される抽象的な存在でしかないからだ。そこでは、身体はある特定の主体や集団の名あるいはその記憶と密接不可分に関係付けられており、顔相・面差がそのような身体のあり方を換喩的に表現する特別の部位である(記憶術の一手法としての観相術)。死に臨んでさえ、主体の名と共に共同体の記憶のうちにとどめられる身体の部位は顔相でありその動態としての面差である。だが、物理的暴力にさらされることで身体はその認識されざる実質をあらわにし、命名過程における社会秩序の統治を離れる契機を獲得するのである。そして、このような身体そのものに根差す社会的結合の過程が本節で論及しようとする儀礼過程に他ならない。

 身体は共振し、共鳴する。
 身体は諸力の様々な強度によって支えられる物質の集積体である。また諸力は身体という場で生成する。諸力は、その一つ一つが固有の振幅と振動数をもった波であり、それらは自在に連続し、かつ収斂する。時として諸力の渦巻きの中から新たな波、強力な力が合成され、拮抗する力との闘争を経て、主体の内省空間に浮上することがある。主体はこれを感覚あるいは感情と名付け、様々に分節し、管理しようとする。だが、力はこの統治作用をすりぬけて、主体を震撼させ、さらなる増幅と強度を求めて身体という場を超出する──異なる物質の集積体(他者の身体)との「間」、諸力が同調しあるいはせめぎあう場を目指して。身体は、自身を超え出た諸力が形成する間身体的領域からの反作用を受け、そこに充満する諸力の一部を再び回収する。身体が共振し共鳴するのは、この時だ。
 身体を考えるとき、そこにいくつかの異なったレベルを重層的に、あるいは錯綜した関係において見る必要があるだろう。
 第一に、身体とは宇宙をうずめ尽くす諸力と物質との交点である。諸力のレベルにおいて身体は多数の力の線分と連接し、異なる力と自在に交わり、あるいは増幅しあるいは吸収される。また多様かつ離散的に分布する物質のレベルにおいて身体は異なる物質と拮抗し、相互否定の関係を取り結ぶ。身体は、諸力を自らのうちに取り込むことによって集積する物質と、そのような物質の集積体を自らの生成基盤として活用する諸力との交換が持続して成立する交点なのである。(このような意味において、身体とは宇宙が自己を認識し記憶するためのメディアだと言ってもいいだろう。)
 第二に、身体は親和の原理のもとにある諸力と排除の原理のもとにある物質という異質な存在が通底しあう錯綜した交点から創発し、両者の交換を媒介する「場」である。
 第二のレベルにおいて、身体は諸力のせめぎあいによって間断ない物質的変容を強いられるにもかかわらず、場としての同一性・連続性を保持し続ける。このことは身体の成長──とりわけ性差の発現という御しがたい盲目的な力の噴出が強いる身体の変異──のうちに典型的に見ることができるだろう。既に述べたように、このような不断の自己否定を通じた身体の同一性・連続性のイメ−ジが主体の内省空間における自己知の淵源をなすものであり、また時間という、自己意識と密接不可分関係をもつな観念の起源ともなるものであった。
 ところで、主体の内省空間に表象された自己の身体をめぐる同一性・連続性のイメ−ジ──すなわち第三のレベルにおける身体──について語るとき、それも身体を契機とする社会的結合過程を考察するためにそうしようとする場合、身体をめぐるいま一つのレベルである間身体場(第二のレベルにおける身体が他の身体との「間」に切り開く場)の存在を見過ごすことはできない。なぜなら、身体の同一性や連続性が主体にリアルなイメ−ジをもって観念されるのは、それらが間身体場において他の身体との間に取り結ぶ関係、すなわち差異性に根差しているからである。
 差異性は、間身体場における他身体との同型性と相互否定性という二つの経験から合成されている。まず、親和の原理に基づく身体場の存在様式──すなわち共振し共鳴する諸力のミクロな過程の集積から創発するところの「模倣する身体」の存在様式──が、間身体場において他身体との同型性の経験をもたらす。次に、排除の原理に基づく身体の存在様式──すなわち拮抗し対立する物質間の関係から創発するところの「否定する身体」の存在様式──が、間身体場において他身体との相互否定の経験をもたらすのである。
 私はこのような同型性(親和)と相互否定性(排除)の関係を、と言うより両者の関係が主体の内省空間に表象されて生じる感覚あるいは感情の形式を、それぞれ「同情」及び「嫌悪」と名付けたい。そして諸主体の社会的結合の原形式をそこに見たいと思うのだ。 だが、ここで指摘しておかなければならない事項が二つある。第一点は、同情・嫌悪という異なる結合形式が実はある共通の基盤の上に立っているということだ。その共通の基盤こそ、差異性である。差異性とは同型性・相互否定性という異質な経験から合成される形式であって、それ自体として直接経験されるものではない。同型性の経験は相互否定性の経験を媒介とすることによって主体の内省空間に浮上し、同様に相互否定生の経験も同型性の経験を媒介とすることによって主体の内省空間に浮上する。このような同型性と相互否定性の錯綜した関係を安定的に維持するための形式として、差異性は機能するのである。
 同情であれ嫌悪であれ、社会的結合の形式はいずれも差異性を共通の基盤としている。このことを見失うと、同情・嫌悪がその形式性を喪失し実体化されてしまう。たとえば同情がその形式性を失い、いわゆる感情移入や自他未分の共生関係を含意するものとして実体化されると、身体を媒介とした他者との合一や性愛を通じた自他融合、ひいては他者との一体化を通じた自己完結性の「回復」といった愛をめぐる説話が、同情を原形式とする社会的結合関係の究極のあり方を示すものとして流布することになるだろう。あるいはまた嫌悪がその形式生を失い、他身体への否定的なかかわりが一方向において実体化されると、他者の排除を通じた自己の一貫性や唯一性の「補償」という暴力的攻撃をめぐる説話が、嫌悪を原形式とする社会的結合関係の究極のあり方を示すものとして流布することになるだろう。
 社会的結合の原形式をめぐって第二に指摘しておかなければならない事項は、自己の身体の同一性・連続性のイメ−ジが成立する根底に、同情や嫌悪の共通の基盤である差異性の形式が潜んでいるということだ。すなわち、諸力と物質の交換を媒介する場としての第二のレベルにおける身体と、主体の内省空間に表象された同一性・連続性のイメ−ジとしての第三のレベルにおける身体とを結び付けるのが、間身体場において合成される差異性の形式である。
 同情であれ嫌悪であれ身体を契機とする社会的結合の原形式が成立する際、それに先立って自己の身体という観念が成立しているわけではない。差異性の形式を媒介として、他身体との同型性の経験が身体場の同一性のイメ−ジに、他身体との相互否定の経験が身体場の連続性のイメ−ジにそれぞれ対応しあう。そして身体場の同一性・連続性のイメ−ジが身体の第三のレベルにおいて、「自己の身体」という観念を合成するのである。
 同様に、時間という観念も、したがって自己という意識もまた差異性の形式に根差しており、間身体場での他身体との関係がもたらす経験をぬきにして、純粋に自己の身体場の内的過程から生成するものではない。(このことは性差の発現という現象が、ことがらの本質上、他者の身体とのかかわりを無視しては語れないものであることから容易に察することができるだろう。)
 身体という場に根差す時間は、諸主体にとって常に取り返しのつかない、あらかじめ過ぎ去った「過去」として立ち現れるものであった。過去とは言ってもそれは直接的な経験の伴わないもの、記憶の痕跡を一切とどめない純粋の「忘却」として、遡及不可能な所与として立ち現れるものではあるが。──それと同じことが間身体場における差異性の形式にも言えるだろう。つまり、差異性の形式は他身体との同一性の否定を介して成立するのだが、このように否定という操作は常にそれに先立つ論理的対象の存在を欠いては成り立たない営為である。相互否定の経験とは異なって、否定そのものは直接的経験の世界にではなく、経験に対して事後的に成り立つ論理的な操作の世界に属している。したがって否定を介して「他身体との同一性」という観念が差異性の論理的前提として要請されることになり、このような論理的操作の世界での観念が内省空間に投影されることによって、忘却の彼方の始源において成立していたものとして「他身体との同一性」が実体的な様相を帯びてそこに立ち現れるのである。(非Aが成り立つためには、まずAという観念が成立していなければならない。Aは非Aを包含している。あるいは、非AはAと同値である。ここでA=神を代入すると、神は自らの否定を包含する。あるいは、神はその否定のうちに宿る。)
 このように、時間はあらかじめ失われた時の「忘却」の上に流出する。そして忘却の彼方には遡及不可能な時の始原がひかえている。そこで、主体は始原の探究という不可能の技を、いまだ到来しない時に向けた探究によって代替しようとする。つまり時の終末を過去に反射させることで、遡及不可能な時の始原を「再現」しようとする。終わりという観念を介して、始まりという観念を獲得しようとするわけである。
 時の終末は死という事実の発見、あるいは死という観念の獲得を通じて見出されるだろう。死は時間の終点であり、同時に身体を媒体として保存・伝達される記憶──主体の記憶、主体についての記憶──が可塑性をもって社会的な記憶として流通を開始する契機でもある。また、死はそのような記憶をめぐる解釈がそれ以前とは決定的に異なった様相を帯びることとなる契機でもある。(たとえば、問題の共有と教えの言説によって結びついていた教団が、教組の死を契機として、「教え」の真の意味をめぐる説得と論証の諸言説とともに分裂し、あるいは問題を仮構する誘惑の言説を通じて増殖するように。)
 しかし、時の始まりが遡及不可能な始原のうちにあったように、死は主体の意識にとって直接経験することのできない本来到達不可能な出来事なのである。(ある反芸術家の墓碑銘に刻まれている言葉をかりるならば、死とは常に他者の死に他ならない。)そして当面の考察対象である身体について言えば、死とは腐食と消滅の長いプロセスであって、時の終わりとしての死という観念はこのような有機体から無機物へと至る連続した時間に裂目を入れ、消滅しつつある身体から剥離することで制作された仮構でしかないのである。
 このような死の観念、すなわち終わりという観念をもたらすのは権力だ。あの名付けの暴力を行使する謎めいた権力がここに反転して再現されるのである。名付けの暴力が同一性・連続性に楔を打ち込み、これを分断するものであったのに対して、終わりという観念を仮構する権力は差異としての諸身体を死の観念を通じて一体化し、諸身体に同一性・連続性を強制するのである。
 また終わりという観念を仮構する権力は、諸身体の結合過程のうちにいま一つの観念を刻印する。それは「目的」である。なぜなら、目的こそ遡及不可能な始原の探究を時の終末の探究でもって代替させること、本末転倒させることを可能にする観念だからだ。(間身体場を流れる多数の時間の平行線は、目的という無限遠点において分岐し、かつ邂逅するのである。)
 時間の終期をめぐるこのような仮構性・暴力性は、その反射によって制作される時の始まりという観念のうちにも見ることができるだろう。時の始原とは身体の生誕の時に他ならない。身体を産出するのは、身体である。身体を再生産=模倣する身体とは、性的身体である。すなわち男・女という異なった「役割」をもった二種類の身体の結合を通じて、新たな身体は産出される。そしてこの事実こそが、少なくとも主体にとっての時の始原なのである。(そもそも時間は身体という物質と共に生成するのだと一般化して言っても、おそらく間違いではないだろう。)
 だが、死が主体の意識にとって直接経験不可能な出来事であったように、生誕やそれに先立つ性的結合も主体の直接的な経験の埒外にある出来事だ。しかし、死が将来において確実に到来する出来事として主体に意識されるように、生誕やそれに先立つ性的結合も過去のある時点において確実に生起した出来事として主体に意識されるだろう。そして身体が主体にもたらす経験は──とりわけ身体の性的な成熟へと至る経験は──この推論の正しさを文字通り身をもって論証し、主体に受容させるであろう。
 受容に至る道筋は二つあると思う。第一に、主体は自身の生誕に先立つ生殖行為という生々しい出来事を、神話的ともいうべき想像力を駆使することによって、聖なる男女の婚姻譚として物語る。そして身体に刻印された性差を、いわば聖痕として受容し、来たるべき婚姻の場における自身の役割をあらかじめ受容するのである。婚姻は性的身体にとって究極の「目的」である。(もしそうでないならば、なぜ諸身体は男・女という二つの類型に分割されているのだろうか?)婚姻においてのみ、分割された身体は一なるものへと再び統合されるのである。性差の発現は、このような婚姻を遂行する聖なる「役割」の発現でもある。
 第二に、主体は自身の生誕をもたらした出来事の動かしようのない偶然性を唾棄すべき汚点として否定する。また、身体に刻印された性差についても自身の不完全性を表示する徴憑として排除しようとする。そして、時の始原をめぐる偶然性と身体の欠損を憎み、自身の行為による失地回復を試みるのである。しかし身体の成長はこのような主体の思いを粉砕し、裏切るだろう。そこで主体のとる戦略は三つに分岐する。最初の戦略は、否応なく引き受けさせられた性的身体──すなわち分割された身体の一方──の意義を強調し、片割れの身体に依存することなく、自足的に、完璧な時の始原を再現しようとするものである。その行為は他性に対するあくなき支配権の追求という(サディスティックな)動機に導かれたものとなるだろう。二番目の戦略は、これを裏返しにした動機──つまり他性による支配を介して自身の欠損を補填しようとする(マゾキスティックな)動機──に導かれ、規範的な力であれ物理的な力であれ、自己を超えた力によって緊縛された身体の受苦的状態のうちに、時の始原を再現しようとするものである。三番目の戦略は、支配する性と支配される性の一致を自らの身体を媒体として実現することで、時の始原を再現しようとするものであり、その行為は対立項の相互引用による和解──と言うよりは対立の無効化──の追求という(ナルシシスティックな、あるいはオナニステイックな)動機に導かれたものとなるだろう。
 (これら二つの受容の型はしかし同一の平面上に位置付けられるものだ。と言うのは、いずれの場合にあっても性差を「役割」の相においてとらえ、分割された性の合一をもって時の始原をシュミレ−トしようとする点で同じ基盤に立っているからである。)
 以上の道筋を経て、本来事後的に仮構された「始まり」という観念が、身体のもたらす経験を通じて主体の意識のうちに遡及効をもって外挿される。そして、終わりの観念をもたらすものが権力であったように、始まりの観念をもたらすものも権力である。なぜなら性差を身体に刻印された「役割」として観念させることは、(認識論的)暴力に他ならないからである。ここで、一般に考えられているほど性の決定が確定的で一貫性をもったものではないことに思いを及ぼすならば、まさしく「役割」の観念こそ、あの名付けの暴力に比肩し得る根本的暴力を多数多様な力のせめぎあう身体に行使し、そこから決定論的な性差を紡ぎ出させる、権力の武器であることが見て取れるに違いない。(私が言おうとしているのは、性の役割分担が社会的・文化的な力によって身体に強制されるということだけではない。むしろそのような強制力が行使される基盤を問題にしている。すなわち、染色体数で言えば極く僅かな部分で決定されるものでしかない性差が──しかも遺伝子のレベルだけでなく内分泌物や環境の作用とあいまって事後的に決定される、その限りで不確実性をもった性差が──身体にとって本質的な識別項として観念されるという、そのような身体認識のあり方そのものが、暴力性・仮構性を孕んでいることを言いたいのだ。)
 間身体場を流れる時間という観念は仮構性をはらんでいる。それは、始まりと終わり、生と死という二つの無限遠点で連結された多数の時間の平行線に目的と役割を外挿することで、私たちの社会の結合過程を統治しようとする。同情と嫌悪という諸主体の結合様式に関する二つの原形式は、目的の共有と目的実現のための分業からなるシステムのうちに統合され、そこに見出されるのは規格化された諸身体の同一性という観念である。
 (身体の生誕と死の間に流れる時間──始まりと終わりによって区画された時間──という観念は、間身体場に流れる時間を認識し表現する際の原象徴として機能するだろう。たとえば、社会「体」であれ政「体」であれ国「体」であれ、諸主体の様々な結合過程を通じて編制される私たちの社会を提喩的に表現する語彙のうちに、このことは見ることができる。年代あるいは年号による時間の統治が政治的身体とでもいうべき特定の人物の生死をもって遂行される場合、このことは単なる語彙の問題、比喩の問題を超えて、実体的に、まさしくシンボリックに表現されるのである。)
 身体はもはや排泄し、情交し、眠り、貪り、汚れや聖性や香りに包まれた「肉」ではなく、同一性という観念によって仮構された人工物である。性差であれ人種による身体の違いであれ、およそ肉としての身体、自然としての身体の痕跡をとどめる要素は、役割の観念によって整理されるか、あるいはヒュ−マニスムその他の普遍的観念によって無視される。また、身体場あるいは間身体場を組成する要素である諸力はいま一つの要素である物質との相互交換の通路を遮断され、「心」という領域によってことごとく統治されてしまうのである。その結果諸主体の結合様式としての同情や嫌悪が身体という物質的基盤から遊離し、単なる感情やあるいは「人間性」といったレベルで考えられるようになる。物質性との相互交換のうちにあるべき諸力は、快感や生きる意欲、あるいは攻撃性という名を与えられ、同情や嫌悪を主体の心の領域のうちに発現させる「本能」の座におしこめられるのである。
 このような身体の同一性を基礎として展開される社会過程は、したがって、諸力を身体場あるいは間身体場から切り離し規律するための仕掛けを不可欠の装置として組み込んだものとなるであろう。というのも、本能としての諸力は方向性も形式ももたない盲目的・恣意的な奔流でしかなく、ともすれば身体は諸力に突き動かされ、目的と役割からなる社会の結合システムを撹乱することになるからである。
 諸力を物質としての身体から切り離し規律するための装置とは、儀礼である。身体は儀礼的行為としての振舞いに習熟することにより、同一性をいわば内在的に再生産=模倣するのである。
 私が言う儀礼とは、何事であれ過去に実際に起きた出来事の外形的な再現や歴史的記憶の象徴的再演をいうのではない。儀礼は過去との連続性を装った形態のうちに現在を、その生成のプロセスをも含めてまるごと「再現=模倣」するのである。伝統の枠内にあるという形式性を過剰なまでに墨守しながらも、儀礼を組成する振舞いは、伝統や規範にがんじがらめにされた状況を切り開きその亀裂に「今」をふきこむ事件、すなわちタクトに満ちたパフォ−マンスなのである。
 儀礼は忘却の海から記憶を掬いあげる手段ではない。逆に忘却を仮構することで記憶を共同的に制作するための媒体なのである。それは、かつて存在したことのない都市の考古学的痕跡、あるいは一度として書かれたことのない書物の断片の集成である。──私がいう儀礼的行為とは、したがって、常に原初の行為の再現=模倣として私たちの社会を更新し、新たな現在を噴出させるものだ。(前節で述べた命名行為もまたこのような意味での儀礼的行為であった。)
 また儀礼は、仮構をリアルな経験を通じて受肉させ、あるいはリアルな経験のもつ仮構性を暴き出す──逆説的に言えば、複製物=模倣物の仮構によって、これに先立つものとしてのリアルな経験を制作する──媒体である。

 儀礼には四つの類型もしくは過程がある。第一の過程において、儀礼は、人々の振舞いという儀礼を構成する具体的素材の細部に着目することから開始される。細部の動きそのものを凝視し、それらの連接を通じて上位のレベルに現象させられる振舞いの成り立ちを凝視する。そして緩慢な振舞いが、実は極限に近い速度をもった諸力の運動の合成体であることを見て取るのである。その時、振舞いはもはや自然でなめらかな動きではなく、ぎくしゃくとした無定形なとらえどころのないもの、仮構性を帯びたものとなるであろう。儀礼は、無意識のうちに反復されていた日常的な所作を、いったんその下位のレベルに分解し、そこにうごめく諸力の自在な運動を解放するとともに、それらを再構成し、振舞いとして意識的に反復させることから始められるのである。
 このような儀礼の第一過程を、「反復」と名付けることにしよう。日常的・自然的な所作を振舞いとして反復させるためには、タクトが必要である。タクトは、自在な方向と極限の速度を持つ諸力の盲目的な運動が展開される混沌とした領域における、文字通り死を賭した「修業」を通じて獲得されるであろう。諸力との闘争において、主体は、主体としてはいったん死ななければならない。しかも、死を通じて、主体は自らを意識的に再構成し反復させるためのタクトを身につけなければならない。このことが不首尾に終わると、主体は修業の途上でたまたま遭遇した強力な力に憑依され、二度と再び自己を見出すことのできない暗闇へとひきずりこまれてしまう。主体は諸力の換喩的な連鎖のうちに封じ込められてしまうのである。また、修業が不徹底だと、タクトは自意識という心理的・表層的なレベルにわだかまる力によって、その働きを弱められしまうであろう。
 儀礼を成り立たせる第二の過程は、諸々の振舞いを集約し、それらの連鎖を通じて儀礼そのものという上位の象徴的なレベルを仮構することである。このような儀礼の第二過程は、「再現」と名付けることができるだろう。振舞いはもはや儀礼を構成する具体的素材であるにとどまらず、儀礼そのものの分割不可能な部分となって全体の中に位置付けられる。いわば、類−種関係という提喩的・論理的な関係性を契機として、振舞いは儀礼というシステムの中に位置付けられ、目的−役割の体系のうちに再現されるのである。
 反復の過程においてタクトによって仮構された個々の振舞いは、再現の過程を通じて主体にリアルな経験を与えることになる。すなわち、上位に儀礼という象徴的次元を仮構することによって、個々の振舞いはその下位としての諸力の運動のレベルから見られたときに被らざるを得なかった自らの仮構性を脱するのである。
 儀礼を成り立たせる第三の過程は、仮構として成立した儀礼に意味を与えこれを稼働させること、つまり自己充足的なリアルな存在根拠をもった社会事象として実在させることである。神話であれ歴史的事件であれその表現形態は異なるにせよ、儀礼を儀礼たらしめる意味体系・準拠枠を上位に仮構することによって、儀礼はその象徴性の実質的内容を獲得し、個々の振舞いはそれぞれに割り振られた役割遂行によって担うべき意味を全体的布置の中に占める位置関係のうちに実現することができるのである。このような儀礼の第三過程を、「再生産」と名付けることにしよう。と言うのも、上位の意味体系・準拠枠の仮構によって儀礼は自ら稼働するための力を生産することになるのだが、この力とは、そもそも儀礼を組成する振舞いの下位レベルにおいて固有の法則に従って自律的に運動していた諸力──反復の過程によって活用=制御され[harness] 、再現の過程によって身体=物質から分離され統治された諸力──の変形物に他ならないからである。
 振舞いは超越的な不可視の次元から注入される力を得て、現実世界と仮想世界との境界上を自在に往来するメタフォリカルな意味の連鎖を表現する媒体となる。この段階に至って、儀礼はこれに参加する者たちの非日常的な感覚を覚醒させ、日常性の亀裂の彼岸に意味生成の現場ともいうべき非在の領域を垣間見させるのである。
 儀礼の第四の過程は、「複製」の過程である。再生産の過程において仮構された儀礼の最上位のレベル(意味体系・準拠枠)を最下位のレベル(諸力の運動)へと連結し、いわば非日常的な時間を日常的な時間の根底に据えるアイロニカルな機制を、ここでは複製と名付けた。複製過程には二つの様相がある。第一のそれは、儀礼のクライマックスのうちに顕現した──厳密に言うと、そのようなものとして感得されるべく再生産過程において共同制作された──不可視のレベルを、神話的過去あるいは超越的高みにおける原体験あるいは原型の「写し」として観念させることであり、第二のそれは、この不可視のレベルを儀礼という場に共在した人間集団の共通の記憶として、日常の社会生活を発現させるいわば遺伝子として観念させることである。このような複製の働きによって、再生産過程において仮構された儀礼の最上位のレベルは、時間的あるいは空間的な連続性をもった共同体の記憶あるいは構成原理として、リアルな実体性を獲得するに至るであろう。そして儀礼を経験した人間集団は、儀礼共同体とでもいうべき自給自足的な意味の生産・流通・消費体として社会的に実在することになり、また個々の構成員は、共同体の記憶を刻印された身体として、役割体系のうちに同一性を強制された社会的・人工的身体としてのみ観念されることになるのである。
 以上のプロセスを経て、儀礼は成就する。その結果、身体場や間身体場にうごめいていた諸力は共同体を稼働させる力のうちに捕捉され、また共同体によって管理された時間の流れのうちに整序されるわけである。
 儀礼の四過程は社会的結合、とりわけ性的結合の四類型と相同的だ。奔流する諸力と物質の集合体としての身体の分離と再統合のうちに遂行される「反復」的結合(ここでは他者の身体はいまだ固有の実質を備えたものではない)、目的−役割体系のうちにあって器官的結合へ向けた一連の手続きを経て遂行される「再現」的結合、あらかじめ喪失された原初の全的一体化への到達──あるいは生を包摂するものとしての死への帰還──といった根源的な力との接触を希求する「再生産」的結合、そして互いの身体を道具として、あるいはイメ−ジとして利用する相互自涜的な「複製」的結合が、それぞれ儀礼の四過程に対応している。(ここで重要なのは第二の類型である。自己の身体をシスマティックに構成された物質の集積体として了解するためには、鏡像としての他者の身体との相互引用的な接触が不可欠である。また、間身体場にうごめく諸力を統治するためには、他者との共同作業によって、諸力の噴出する通路たる器官を特定しかつ管理することが必要である。このような、性的結合をいわば社会的結合として表現するための決定的な一線を超えるのが、「再現」的結合に他ならない。)