模倣作用


 私たちの社会のダイナミクスをつかさどる第二の、そしてその中核をなす作用は模倣の作用である。模倣作用は、私たちの社会の表層において展開される社会過程──すなわち諸主体による諸行為の連鎖を通じて様々な社会事象が産出される過程──を稼働させる原理である。
 模倣作用は、四つの異なった社会過程を紡ぎ出す。それらは、表象作用によって諸主体の意識の網の目に捕捉された四つの表象物に対応している。第一に、自己という意識(あるいは「私」と発語する権利の行使)に対応するそれは、「命名過程」である。第二に、性的身体のイメ−ジ(あるいは盲目的な目的の実現)に対応するそれは、「儀礼過程」である。第三に、精神もしくはその運動としての言語(あるいは自己の意味の探究)に対応するそれは、「言説過程」である。最後に、欲望する生命力(あるいは生命という価値の実現)に対応するそれは、「生産過程」である。

命名過程


 私たちの社会における諸主体は、まず権利主体として社会過程に参入する。諸主体は、この一点において一つの場に共在している。「私たちの社会」において、多数の「私」が共在しているのではない。私と発語する固有の権利を自認する主体が、そのような権利を行使すること──先に述べたように、内部の投影によって「外部」という場を仮構し、かつ内部における自己(=身体)の同一性の観念あるいは時間という観念を「他者」の上に投影させることによって、他者と共に私たちの社会を共同制作すること──まさにこの一点において、諸主体は一つの場に共在していると言えるのである。
 権利行使としての行為は、あらゆる対象を名付けることをもって開始される。というのは、そもそも権利としての主体の内部における自己という意識そのものが、名付け得ぬ何かに対する名付けの欲望の上に生成するものであったからだ。再説しよう。まず、自己の同一性や連続性についての観念──自己知──は、検閲という意識作用によって産出されるものであった。だが、自己知は内部にとどまっている限り、形のない、とらえどころのないものでしかなかった。意識はこれを表現するために、発声器を内蔵した身体と、言語によって思索する精神と、欲望する生命を自らの内部に見出した。そしてこれらの観念を外部へ投影するための決定的な第一歩として、主体は「私」と発語し、自己をそのように名付けたのである。
 「名」は、後に生産過程を考察する際に述べるメディアとしての「説話」に類似した働きをする。このことは、たとえば神話に登場する神の名、土地の名に、典型的に示されている。それらの名は、神話編纂時をさかのぼることはるかな過去に実際に生存していた英雄や部族、現実に人々が住んでいた場所の記憶を、痕跡として後世に伝えるためのメディアだと言うことができる。神の名にせよ土地の名にせよ、単なる符合としてではなく、言語のみをもってしては伝えがたい歴史的記憶の総体を内蔵した、後代の人々によって読み解かれるべき、根源的な──身体的な場あるいは意識生成の現場にまで根をはった──いわば「原名」として、神話の中に刻印されているのである。
 名は単なる符合ではない。たとえ当初符合として考案された個人の名であっても、私たちの社会の表層における社会過程の中で繰り返し使用されるうちに、あたかも沈没船が海底での長い眠りから引き上げられたとき無数の貝殻に表面をびっしりと覆われているように、歴史的・集合的な記憶の集蔵体である深層領域にしっかりと根ざし、固有のイメ−ジをはらんだ響きとペルソナそのものと化した字形を獲得する。
 だが、このような説明はよくできた説話以上のものではない。それどころか、結論と原因を取り違えた倒錯性を秘めている。名前がまず符合として機能するという、一見もっともらしい議論の前提を私は疑う。なぜなら、そこでは命名という行為が本質的にはらんでいる権力性あるいは暴力性が決定的に見過ごされているからだ。
 名は社会的符合として機能する前に、まず神話に登場する神の名や土地の名のように、それを口にする者に根源的なふるえを覚えさせずにはおかない「原名」として立ち現れたのではないのか。あるいは命名行為とは、比喩的に言うならば原初の殺戮の反復・模倣という、戦きとともに再演される儀礼的行為なのではなかったか。
 命名行為が比喩的に「原初の殺戮」の反復であるという意味は、簡単に言えば以下のとおりである。──何物かを命名するとき、命名者は当の何物かを他と区別して「対象」として切り出す。存在や生の連続性に裂目を入れて、無定形な名付け得ぬ何かをそれとして分節する。このような命名行為を、私は「殺戮」にたとえた。またそれが「原初の」殺戮であるという意味は、命名が個別の行為ではなく、明示的にせよ黙示的にせよ、およそすべての命名行為の総体を前提にしており、その中に位置付けられなければ成立し得ないという事態を表現しようとしたものだ。個々の名は、それを名たらしめるル−ルをめぐる社会的合意の存在と、その現実的な流通という事実に支えられなければならない。名付けのル−ルをめぐる合意(名の使用をめぐるタブ−をも含めて)が成立しているとき、そのようなル−ルを共有する人々、言い換えれば、名にまつわる様々な歴史的記憶を共有する人々の集団──私はそれを「共同体」と名付けることにしたい──の構成員が、集団的アイデンティティの拠り所である共同体の「起源」を神話的思考を通じて表現するとき、そこに原初の、殺戮にたとえるべき根源的な命名行為が物語られるであろう。共同体の中で繰り返し再現される個々の命名行為は、いずれも本来、ふるえや戦きとともにこのような原初の命名行為を再現=模倣する儀礼であったと見るべきではないか──私が言いたいのはおよそ以上のようなことがらである。
 (ここで「儀礼」というのは、私が独自の思いを込めて使用している語である。このことは後に、性的身体としての諸主体が「役割」をめぐって展開する、盲目的な目的実現の社会過程を論じる中で詳しく述べたい。)
 このような共同体レベルにおける命名と主体レベルにおける命名とは、実は同じ構造をもっている。主体が自らを「私」と発語すること──すなわちそのように発語する権利を自認しつつ自己を社会的に表現すること──でもって、主体は自己の内側に決定的な亀裂を生じさせ、自己を「対象」として他主体の前に切り出している。主体は、原初の命名とともにその唯一性・単独性を喪失し、全体の中の部分として、すなわち「個」として自らを表現するしかない局面に身を置くのである。
 このように、自己を私と名ざすことは、実は共同体という実体化された社会によって名ざされることでしかない。あるいは自己を私と名ざすことによって、諸主体は自己に先立ってあらかじめ成立していた名付けのル−ルと、ル−ルを共有する人々の集団(共同体)に包摂された自己を見出すのである。
 (また個人の名がまず符合として社会的に流通し、しかる後に固有の響きやペルソナと一体化した字形を獲得するという「説話」は、心理的な真実ではあっても、実は倒錯した説明でしかない。名付け──あるいは自己名の認知──は、論理的な前提として、まず「私」の名ざしがはらんでいた自己の唯一性・単独性の表象という契機と、その一瞬の後の抹殺という根源的な出来事を反復・再現する儀礼である。命名行為がもつこのような儀礼性が以後繰り返し想起されることこそ、名前がもつ符合機能の根拠なのであって逆ではない。かつて一度として主体の唯一性・単独性を表象したことがないという「記憶」が、個々の主体に割り振られた名に固有性を与える契機となる──逆説的に言えば、このような事態が、いまや個と化した諸主体を「利己」主義ならぬ「自己名」主義へと駆り立てる。すなわち、共同体の歴史のうちに自己の名を──あるいは自己が帰属する血縁その他の集団の名を──とどめることによって、主体は死によって告知される自己の有限性を超えた永遠の生を実現しようとするのである。)
 自らを私と名付けることで、権利をもって自己を社会的に表現した諸主体は──そのために自らの「個」性や「対象」性を否応なく引き受けることになるのではあるが──引き続きあらゆる対象に名を与えること、あるいは対象の名を覚えることによって社会過程を編制していく。言うまでもなく対象への名ざしは、対象自体の分節、ひいては対象を対象たらしめる客観的な場への名ざし、あるいはそのような場の受容と不可分の関係を取り結んでいる。対象への命名は一個の主体の行為だけでは実現せず、文字通り社会的な過程を介して遂行されるのであって、いかなる主体も単独で命名行為を完了する至高の権力をもたない。(王といえども彼または彼女を王と呼び王として扱う臣下の存在をぬきにして、唯我独尊的に王として振舞うことはできない。)
 このような名付けの社会過程は、闘争と妥協、断念と武断に彩られた紛糾したものとなる他はないであろう。諸主体がいかにして共同的に命名行為を遂行し、名付けの体系を──社会秩序をと言うべきだろう──形成するのか。私たちの社会の表層において展開される命名過程は、まさにこの問題をめぐって稼働するのである。

 諸主体の共同行為による命名には四つの類型がある。第一の類型は、換喩的な命名である。換喩[metonymy]は、事実的・具象的な次元における事象間の関係に着目した比喩形象であり、空間的な部分−全体関係、あるいは時間的な先後関係に基づいている(部分で全体を、または原因で結果を表現するなど)。換喩的命名の典型は、約束・契約であろう。諸主体──あるいは諸主体の集合としての共同体──は、契約による命名を介して、特殊的・個別的な名の使用(たとえば財の名としての価格)を一般的・普遍的なものとして流通させることができる。
 契約には二種類ある。契約を成り立たせ、もしくは仲介する法や神の観念(あるいは言語)を共有する主体間──あるいは共同体間──で締結されるものと、異なる法や神の観念に従う主体、共同体の間で締結されるものがそれである。前者は、しかし私の言う換喩的命名方法としての契約ではない。それは次に述べる第二の命名類型、すなわち共同体の内部で遂行される提喩的命名の一種である。(個々の共同体は、たとえ異なる名で呼ばれているとしても、法や神の観念を共有する限り単一の共同体と考えてよい。)後者、怩キなわち異なる主体、共同体の間で締結される契約に基づくものこそが換喩的命名である。 (ところで、法であれ神であれ契約を成り立たせる媒介となる観念を共有しない主体、共同体の間で、いかにしてそのような名付けの契約が成立するのか。──私は契約成立と同時に隠蔽されたに違いない、ある事実をそこに想定する。それは、あの原初の殺戮に比すべき事実、すなわち名付けの契約の成立をめぐる暴力の介在である。)
 命名行為をめぐる第二の類型は、提喩的な命名である。提喩[synecdoche]は、広義では換喩の一種と考えることもできるが、ここでは次のように定義しておきたい。すなわち提喩は、事象間の部分−全体関係や先後関係を意味的・論理的な次元に変換することで得られる観念、つまり類−種関係に基づいている(類を示す語で種を表現し、あるいは種を示す語で類を「代表」するなど)。
 提喩的命名の例としては──ウェ−バ−の「支配の基本類型」になぞらえて──伝統に基づく命名、合法的手続による命名、カリスマ的人物による命名を挙げることができるだろう。これらは、それぞれ伝統を共有する共同体、手続の合法性についての了解を共有する共同体、特定の人物のカリスマ性の認知を共有する共同体の存在を前提とした命名方法である。換喩的命名が、個人間あるいは異なる共同体間の契約に基づくものであったのと異なり、提喩的命名は単一の共同体の内部において遂行される命名方法である。
 命名行為をめぐる第三の類型は、隠喩的な命名である。隠喩[metaphor]は、換喩と提喩を連結する働きをもつ。事実的次元に根ざす換喩を意味的・論理的次元に変換し、あるいは意味的・論理的次元に根ざす提喩を事実的次元へと変換する──このような「〜から〜へ」という動き[phore] そのものにメタ・レベルでかかわる比喩形象が隠喩である。契約当事者間で、あるいは共同体内において名の使用をめぐる紛争が発生したとき、これを裁定し紛争を終決させようとする営みの過程で、隠喩的命名は実行される。たとえば、複数の契約の成立という事実的次元の諸事象から命名をめぐる一般的なル−ルを抽出し、もしくは仮構することで(換喩的命名から提喩的命名へ)、または既存のル−ルの再解釈によって新たな契約締結の可能性を導き出すことで(提喩的命名から換喩的命名へ)、紛争は解消され、そこに命名行為をめぐる第三の類型が結実していることになる。
 (換喩的命名・提喩的命名・隠喩的命名という三つの類型は、それぞれ立法・行政・司法という権力の三分説に対応させて考えることもできる。しかしそれは、社会契約によって成立する疑似共同体たる市民社会という仮構を制作するための「工具」として、権力三分説を理解する限りにおいてである。命名行為をめぐる上述の三類型は、国家であれなんであれ、仮構性を喪失した実体的な共同体内部の自由主義的な政治制度として理解される権力三分説とは、いかなる関係ももたない。)
 命名行為をめぐる第四の類型は、逆喩的な命名である。逆喩もしくは撞着語法[oxymoron]は、本来「賢明なる愚者」のように、意味的に矛盾する語の併用によって事象の隠れた一面を表現する比喩形象である。しかしここでは次のように拡張して定義することとしたい。すなわち、逆喩とは、事象の具象的(可視的)次元と抽象的(不可視的)次元とを、否定を契機として連結する比喩形象である。事象の抽象的次元とは、たとえば「空の青さ」のように、意味的・論理的次元とは異なって、確かに実在する──あるいは感覚を通じて感得できる──事象の側面をいう。しかし空の「青さ」そのものは、実は不可視の、それ自体として直接には経験できない領域に属している。なぜなら変化する空の色は一刻たりとも同一の「青さ」ではないからであり、何よりも「青さ」の経験そのものが他の色との差異において成り立っているからである。一般に抽象的次元は、具象的次元における事象の多様性を否定することによって、かつ抽象的次元における事象相互の否定的な関係性において成立している。このことは、事象の名として割り振られた語が抽象語かどうかにかかわらない。直接的であれ否定を媒介としてであれ、およそ経験可能な事象に関する語は、常にこの二つの次元に両属している。逆喩は、このような語の両義性に根ざしているのである。(「賢明なる愚者」とは、愚者にこそ賢明さが見出せることを表現していると同時に、賢者が実は愚かな存在であることをも表現している。このように、意味の決定不可能性が逆喩の生命である。)
 逆喩的命名は先の三つの命名類型とは決定的に異なっている。それは、逆喩が語の両義性に根ざしており、いわば語そのものが産み出す比喩形象であると言うことができるのに対応している。諸主体の意識的な命名行為とはかかわりなく、名は自ずから変容し、自己否定を繰り返し、抽象的次元と具象的次元を行き交うのである。逆喩的命名の過程を通じて、共同体の内部で通用する名付けと名の使用をめぐるル−ルはその無根拠性を暴かれ、また契約による命名行為がその背後に隠蔽したもの、すなわち名づけの暴力と権力性が暴かれるのである。このような逆喩的命名は──その名にふさわしく──むしろ名の破壊、あるいは名付けの体系としての社会秩序を根底的に動揺させ、再編成させる契機という性格をもっている。
 (あるいは次のように言うこともできるであろう。──名は、部分−全体関係や先後関係に基づく換喩的な結合・交換を通じて、また類−種関係に基づく提喩的な包摂・排除を通じて、自ずから変容し、あるいは新たな名を産出する。さらに名は、語の抽象性と具象性を自在に往来する──もしくは取り違える──メタフォリカルな運動の中から新たな名を紡ぎ出し、あるいは新たな命名の対象を導き出す。このように、逆喩的な命名は他の三つの命名類型の基礎をなすものであると。)
 命名の四類型は、また記憶術の四類型でもある。事象間の事実的な連鎖に着目する換喩的記憶術、意味的・論理的な連鎖に着目する提喩的記憶術、アナロジカルな同型性・類似性に着目する隠喩的記憶術、そしてアイロニカルな反転性に着目する逆喩的記憶術がそれだ。(ここで重要なのは第一の類型である。たとえば、身体に剣で傷をつけ刻印を刻み、他と識別しあるいは記憶を喚起する指標とすること──このような換喩的記憶術の一手法は名付けの暴力の痕跡を可視化し、また言語の生成をめぐる原風景を「記憶」の底から浮かび上がらせさえするのである。)