表象作用


 私たちの社会が稼働を開始する端緒は、諸主体の内省空間における無意識の領野と表現の領野とを連結する表象の作用である。このような表象の作用によって、語り得ぬ領域から語り得る領域へと浮上するのは、自己という意識(あるいは「私」と発語する権利)であり、身体(あるいは性差の刻印を帯びた身体のイメ−ジ)であり、精神(あるいは精神の運動としての言語)であり、欲望(あるいは生命力)である。これらの表象物は、諸主体の内省を通じて意識の対象となるのであって、いずれも既に無意識の領野に無定形なかたまりとして存在し、諸主体に語り得ぬ実在感を与え続けてきたものである。いや、正確に言うと自己・身体・精神・欲望といった、表象のメカニズムによって諸主体の意識の対象となるものは、諸主体の内部にあらかじめ実在していたものの現れとして──再び[re]現れるもの[presentation]として──諸主体によって意識されることをもって根本的な特徴とするものなのである。そしてそのような意味において、これらの表象物は諸主体にリアルな経験をもたらすのであり、諸主体をして行為の表出へと駆り立てる原動力となるのである。
 私たちの社会の諸主体は、様々な動機から社会事象を産出するプロセスに自ら参入し、またはその意図にかかわらず組み込まれていく。社会過程はこのような諸主体の種々雑多な行為によって組み立てられているのであるが、ここで行為と一括して呼ばれるものには多様な形態があるだろう。単なる物理的現象としての、あるいは何らかの感情の表現・表明としての身体の動静や、その偽装としての演技、さらには偽装を装った振舞い、言語を伴ったもの──語ることは言うに及ばず、書き綴ること読むこと聴くことをも含めて──等々。行為とは何かを一言で論じることは困難だ。場合によっては単に定義の問題であるだろう。この論考において考察するそれは、内省とその結果獲得される観念の表現とからなり、社会的交通の空間において生起するものととらえることにしよう。すなわち、行為とは諸主体の内側へ向かう意識作用と外側へ向かう意識作用とから合成される「事件」である。
 ところで意識とは何か、その作用が内側や外側へ向かうとは一体どういうことか。陳腐な比喩だが、ここでは意識を発光器にたとえることで当面の考察を進めることにしたい。 意識の作用は光の進行方向に応じて四つに分割されるだろう。すなわち意識の中を照らし出すもの[in-spection] 、外を照らし出すもの[extro-spection]、後方ないしは起源を照らし出すもの[retro-spection]、そして前方ないしは将来を照らし出すもの[pro-spect] の四つの作用である。このように、光は空間的な次元と時間的な次元の交錯する場において照射される。
 単純化して言えば次のとおりだ。光はまず照射される。あるいは漏出する。この時点ではまだ方向という観念は成立していない。次に光は何であれ実質的なまとまりをもつものにぶつかり、あるいは吸収されあるいは反射される。ここにおいて対象の存在が推測もしくは確定される。それと同時に、光の進行方向が示唆されもしくは確定されるのである。意識作用を光線にたとえる比喩は、実はこの時点から妥当するものだ。というのも、意識が常に何か(対象)についての意識であるとするならば、対象の定まらない、したがって方向の定まらない光線に相当する意識は、いまだ闇から分化されない「無分別」とも言うべき場にたゆたうものでしかないだろうからである。(もっとも、私は意識に先立つ主客未分の無意識状態が諸主体の内部に想定されるべきだと主張しているわけではない。私が前章で命名した「無意識の領野」とは、そのような「無分別」の場を意味しているわけではない。それはあくまで私たちの社会を分析するための仮説的な場として、表象作用という道具を入手するために架設されたものでしかないのであって、前章での私の立場は、そのようなものとして無意識の領野の存在を前提にして議論を進めるというものだったのである。)
 さて、対象を獲得した発光器は、以後集中的にその方向に向かって探査の光を放ち、対象の分布状態を調査するだろう。
 私は自己意識の発生プロセスを記述しているわけではないのだが、ここで対象を他者に──と言うより、意識光線の照射に対してある規則性をもって呼応する対象に──限定すれば、さらにそのような対象との相互作用を詳細に分析するならば、人はいかにして自己という意識を獲得するのかをめぐる、よくできた「説話」をこしらえることができるかもしれない。
 (そして「説話」が語る自己意識生成過程の認識の問題と、その存在の問題とを仕訳することの難しさを指摘することもできるだろう。つまり一般的な自己意識生成のメカニズムの説明は、この私にとってよくできた説話以上のものではあり得ない。自己意識とは、分析したり生成過程を認識したりする対象であるよりも、まず自らに帰属するものなのであって、この私の存在から切り離すことはできないものなのだ。また、ともすれば説話に登場する他者が既に意識を自らに帰属させており、いわば教師として意識未分化の状態にある素材に関与するものであることも、私に異和感を与える理由である。極めて素朴に言うならば、自己意識の生成を促す他者が──他者性という契機においてではなく、他者という実体的な存在性において──あらかじめ自己意識を内蔵しているのだとしたら、説話は結論先取りの誤謬を犯した論証でしかないということだ。)
 だが、ここでは自己意識そのものについては論じないで、発光器としての意識が次にその探査光を自らに向けて照射するに至ることを述べよう。──すなわち、探査の結果得られた対象の分布状態には、一点、と言うより一つのまとまった領域が空白のまま残されることになり、発光器はやがてこの謎めいた領域の中に光線を照射するに至るのである。
 このような探査光の作用は、検閲[inspection]と呼ぶことがふさわしいものだ。というのも、自らに向かう探査光はそこに同一性と連続性の働きを見出し、これらを統治しようとするからである。検閲の作用は、自己をめぐる知──すなわち自己の同一性と連続性という観念──をもたらす。自己知が先にあって検閲の作用が後から稼働するのではない。生体における免疫の作用と同様、検閲は自己知に先立つのである。ところで、自己知はそれが発光器の中にとどまっている限り──言い換えれば、対他的にあるいは社会的に表現されない限り──かたちのない、とらえどころのないものでしかないだろう。しかも、それが何を起源とし、どのようなメカニズムによって産出されたか、そしていかなる力によって維持されるのかは全く不明なのである。
 ここに至って、発光器は次なる探査光を照射する。まず、自己知の起源を探査するために、発光器そのものを内蔵する物質的な基盤の方向へ、あるいはかつてそこにおいて遂行されたであろう意識されざるプロセスに向かって、探査光は遡行するのである[retrospction]。言うまでもなく、そこに見出されるのは身体という物質の集積体についての観念であり、あらかじめ失われた時間という観念である。
 身体は、探査の光が到達し得ないある奥深い部分を内蔵している。そこには、それぞれ固有の稼働法則をもった諸力がひしめいており、そのせめぎあいの中から力学的に合成された多数多様な運動が浮上し、かつ消滅している。すなわち、聴覚、触角、嗅覚といった感覚や知覚の力学的な相互作用を通じて、様々な強度をもった感情が時々刻々と生成・消滅しているのである。これらのプロセスはいずれも不可視であり、しかも常に「既に完了したもの」として経験される。自己知は、このような身体という物質性の暗闇の中で盲目的に遂行されるプロセスがもたらす経験に根ざしている。ここでとりわけ重要なのは、あらかじめ身体に刻印された性差の発現と性的身体のイメ−ジの獲得であろう。なぜなら、自己の同一性であれ連続性であれ、自己知を産出する検閲の作用は、性的身体が主体に及ぼす御しがたい力との確執を避けることができないからである。
 また、既に完了したプロセス──言い換えると、あらかじめ失われた時間という観念──がもたらす経験は、自己知がどこか知らぬ場に、あるいは関与できない時に、その起源をもつものであることを含意している。ここに至って、発光器は第三の探査光を外部への通路に向けて、第四の探査光を未だ到来しない時間に向けて照射するのである。
 外部を志向する光──すなわち外部観察[extrospection] の光──とは、いわば物質性のくびきから脱出しようとするものであり、思索[speculation] と呼ぶことがふさわしいものだ。それは、性差の発現という力の噴出との確執を介して獲得された自己(=身体)の同一性と連続性のイメ−ジを、精神という物質性をつきぬけた場に写像し、時間の経過による変化の根底に異なる種類の同一性や連続性を見出そうとする。このような精神の働きによって不断に見出されるものこそが、先に述べた自己知の実質に他ならない。そして精神の運動──すなわち思索──は、言語を媒介として遂行されつつ、言語そのものを産出するのである。──Aについての問いがAを制作する契機となる。すなわち「Aについての意識」が「Aという意識」をもたらす。私がここで精神の運動と呼んだ言語による思索は、このようなパラドキシカルなメカニズムをもって稼働している。たとえば、A=自己を代入すれば、自己についての問いこそが、自己の同一性・連続性を産み出す契機に他ならないことが見てとれるだろう。言い換えるならば、言葉の意味についての問いが、実は当の言葉に意味を与える契機となるのである。しかし、では最初の問いの中で言及された「自己」とは一体何か、そのような観念はどこから到来したのか、そしてまたこのような問いは何を産み出すのか──かくして、精神の運動は次なる探索へと向かう。
 第四の、未だ到来しない時間に向けて照射される探査光は、精神という場の根底に見出される自己の同一性や連続性をひとつの価値としてとらえ直し、これを異なる時空間へ投影しようとする。それは投機[speculation] であり、かつ価値の維持・増殖を目論む[prospect]欲望の光である。この最後の探査光を放つことによって、発光器としての意識は自らの存在の根拠を見出すことになるだろう。すなわち、自己知の基底である身体(あるいは性差の刻印を帯びた身体のイメ−ジ)と、自己知の起源にしてその生成メカニズムそのものである精神(あるいは精神の運動としての言語)を見出した意識は、最後に自己を維持しようとする欲望の力を見出す。そして、このような欲望を産み出し、かつこれに絶えず力を供給し続ける根源的な実質、制御不能の実体を、自己の内部にあらかじめ備わった本質として発見するのである。それこそ、生命である。
 かくて発光器は、いや意識は、自らの内側へ向かう探査を終了した。そこに見出されたのは根源的な力としての生命であり、生命を宿した物質の集積体すなわち身体であり、脱物質を志向し不断に自己知を産出し続ける精神の運動であった。そしてこれらを三位一体的に兼ね備えたもの──意識が自らを特定し、「私」と言明する権利を自認する実体──こそ、私たちの社会における「主体」である。ここで主体とは、先に発光器にたとえた意識が、その仮設的な自己探査のプロセスの途上において見出した空白の領域を、性差の発現に伴う時間あるいは目的、言語の使用に伴う意味、生命そのものに伴う価値という三つの観念によって充填したものに他ならない。
 このようにして目的・意味・価値を充填された主体は、次なる意識の光を再び外側に向けて照射するであろう。あの、いまだ方向さえ定かではなかった最初の光とは違って、いまや意識の光は明確な方向をもっている。すなわち、外部への志向を経て再び内側へ[intro-ject]──または内向によって見出されるもの、自己の根底にあって自己の存立根拠となるものの方へ[sub-ject]──あるいは自己とは異質なものの方へ[ob-jct]、後方へ[re-ject] 、あるいは前方へ[pro-ject]、光は照射されるのである。──とはいえ、これらの方向はいずれも既に発見され充填された意識の内側の反射でしかないものだ。つまり、外側へ向かう意識は、実はその働きによって「外部」という仮設的な領域を制作しているのである。そして、意識の内側に見出された時間の観念──あるいは変化を通しての自己(=身体)の同一性という観念──は、自己とは別の身体(=主体)である「他者」という対象の上に投影されることになる。したがって、主体は外側へ向けて意識の光を放つことで、他の主体と共に一つの社会を共同制作することになるのである。
 ここに至って、主体は社会事象を産出するプロセスに自ら参入し、あるいは組み込まれていく「権利」を獲得するわけである。権利とは、言うまでもなく私たちの社会において「私」と言明する権利、すなわち自己を主体として社会的に表現する権利に他ならない。 さて、以上で私たちの社会の表層において展開される諸過程を分析するための手がかりが得られた。再言すれば、諸主体は第一に自己を「私」と表明する権利をもっており、第二に身体(性)的な存在としてあらかじめ設定された目的実現のための盲目的な機構を宿しており、第三に言語を操って思索する──物質性から自らを解放し外へ出ようとする、あるいは自己の意味を問い続ける──存在であり、第四に欲望する生命という価値そのものであった。意識の外側に向けて照射される光の比喩を使うならば、主体とは第一に自己主張の権利をもつ主観[subject] であり、第二に性差の発現に伴う時間の経過の中で目的的に自己否定[reject]を繰り返す物資の集積体であり、第三に自己を異化しつつ対象[object]にかかわっていこうとする運動体であり、第四に欲望の成就を企図する[project] 生命体である。私たちの社会は、主体におけるこれらの分岐を起点として、四つの異なった社会過程を編制していくのである。


補遺


 インドの宗教的伝統において、人生には四種の目的があるとされてきた。ダルマ(法)・カ−マ(性愛)・モ−クシャ(解脱)・アルタ(実利)がそれである。カ−マとは性愛に関する欲望を意味し、人間の情緒的な衝動をあらわし、アルタは経済的な財貨に関する欲望、すなわち人間の所有本能をあらわしている。ヒンドゥ−教においては、これらの盲目的・本能的な欲望に方向を与え、人間を精神的な目覚めへ導くものがダルマであり、人生の最終的な目的がモ−クシャである。
 私たちの社会の諸主体の行為を導く四つのモチ−フ──権利主張、目的実現、意味探究及び価値追求──を、これらの「人生の目的」と対比させて説明することができるかもしれない。たとえば、性的身体が快楽あるいは生殖という目的を実現するために行なう行為をカ−マ(性愛)に、欲望する生命体としての人間が自己という価値の拡充を追求する行為をアルタ(実利)に、権利としての主体が社会的に自己を表現する行為をダルマ(法)怩ノ、思索する精神が身体性を脱却して自己の意味を探究する行為をモ−クシャ(解脱)に、それぞれ関係づけることができるだろう。
 だが、このような分類自体にはあまり意味がない。また、似たような分類ならば、いくらでも考案することができるのである。一例をあげれば、T.パ−ソンズの提唱した全体社会の四つの下位体系──経済体系、政治体系、結合体系、文化・動機づけ体系──と対比させることができる。すなわち、権利諸主体による秩序形成の過程を政治体系に、性的身体間の相互行為による社会過程を結合体系に、精神としての諸主体の言語を媒介とする社会過程を文化・動機づけの体系に、欲望する人間たちによる価値追求の社会過程を経済体系に、それぞれ関係づけて論じることが可能なのである。
 だが、やはりこのような分類作業には意味がない。というのは、「人生の四種の目的」にせよ「全体社会の四つの下位体系」にせよ、ともすればそれらが他と区分されて、それ自体独自の領域を形づくるものと考えられがちであり、さらには人間生活の場としての「人生」や社会的交通の場としての「社会」を、何か実体的なものとして想定させてしまうおそれがあるからである。
 もっとも、私は人生や社会を実体的なものとしてとらえる立場の是非については当面論じない方針で、この論考を書き綴っている。したがって次章において、私たちの社会の表層における四つの過程とこれらが遂行される社交空間という場について、あたかもそれぞれが実体的に存在しており、また明確に分節されているかのような記述をするにしても、それはあくまでも便宜上の方法でしかないのである。繰り返し述べたように、これらの観念はいずれも認識・分析のための「道具」、あるいは理論構築や「今ここにあるもの」とは別の社会を制作するための「工具」として、その限りで使用しているものなのである。 たとえ、人生や社会が単なる観念操作上の作業仮説ではなく、それ自体の根拠をもって実在しているものであったとしても、また、人生の目的や社会システムがいくつかの領域に分節されるものであったとしても、私が使用している道具や工具はそのような事態とはいささかのかかわりももたない。なぜなら、何物かについて認識し分析しようとする営みが、逆に当の何物かを制作する営みと同等であるという、そのようなパラドキシカルな営みを成り立たせる道具・工具として、それらは使用されているからだ。