私たちの社会の四作用


 私たちの社会の骨格をかたちづくる二本の線分について論じよう。とはいえ、これらの線分はあらかじめ私たちの社会を規制する超越的な枠組みとして外挿されたものでもなければ、私たちの社会に渦巻く諸過程の連鎖のうちに現われる内的な生成物でもない。これらの線分は、いわば私たちの社会を分析し認識するための作業仮説、あるいは解が見出された後に消去される補助線のごときものである。──もっとも、幾何学における補助線とは異なり、私たちの社会における補助線は、消去された後まで不在の境界としてリアルな実在感を私たちに与え続けるものであり、その限りでやはり私たちの社会の骨格をかたちづくるものではあるが。
 私たちの社会の第一の線分は、公共的領域と私的領域(あるいは、客観的領域と主観的領域)とを区画する。これらは先に述べた言語の二つの類型に対応している。すなわち、公共的領域はコミュニケ−ションの具として厳格な規約のもとに使用される公共的言語が流通する場であり、私的領域は個人的な経験を表明する私的・内省言語が生成する場である。
 第二の線分は、公共的領域と私的領域とを横断し、それぞれの領域にある深みをもたらし構造化する。それは深層と表層とを区画する線分、あるいは語り得ぬ領域と語り得る領域とを区画する線分であると言うことができるだろう。
 語り得ぬ領域という表現は誤解を招くかもしれない。先に私は「この私の世界」は言明不可能な世界であると述べた。それは、この私の世界について語る言語が存在しないということを主張するためであった。ところが、語り得ぬ領域はこれとは異なり、実は言明可能なのである。つまり語り得ぬ領域を語る言語は存在する。とはいえ、語り得ぬ領域をそれとして名指し、表現する言語が存在しているわけではない。もしそうであればそれは語り得る領域へ組み込まれるだろう。語り得ぬ領域とは、比喩を伴った言語、いわばメタ言語的なレトリカルな形態における言語の使用のうちに示される領域である。別の言い方をすれば、忘却が記憶と対になって観念されるように、語り得ぬ領域は語り得る領域との相互関係のうちに、語り得る領域の沈澱物として、あるいは語り得る領域を浮かび上がらせる深層構造として観念される領域である。いずれにしても言語の存在をぬきにしては語れない領域なのである。
 語り得る領域を語る言語は記憶を造形し、語り得ぬ領域を語る言語はいわば忘却を造形する。忘却が決して単なる記憶の残渣ではなく、それ自体自律した固有の生成・流通・使用過程を内蔵しているのに似て、語り得ぬ領域はそれ自体独自の経験を私たちにもたらし(深層心理あるいは無意識)、私たちの社会に独特の深み(集合意識あるいは構造)をもたらす。
 さて、これら二つの線分──以下第一のそれを「主客分離の線分」、第二のそれを「表層区画の線分」と呼ぶことにしよう──によって、私たちの社会の骨格が明らかになり、そこに異なる四つの領域が見出されることとなった。
    第一の領域は、私たちの社会を構成する諸主体の内省空間の奥深くに息づき、諸主体の経験に深みをもたらすとともに生命力あるいは欲望を供給する、無意識の領野である。
  第二の領域は、諸主体の内省空間の表層に位置付けられ、経験のリアリティが感得されるとともに、諸主体の社会的行為が企画され表出される場所、いわば表現の領野である。 第三の領域は、諸主体によるコミュニケ−ションが設営される公共的空間の表層であり、諸行為の連鎖を通じて経済・政治・儀礼・文化その他の社会事象が編成・解体・変換される場所、いわば社会的交通(社交)空間である。
 (第二の領域と第三の領域は、先に述べたように主客分離の線分によって境界付けられている。そしてこの境界面上において、諸主体の主観が行為を通じて表現され、諸行為の恫A鎖による社会過程を通じて重層的な織物として客観的な社会事象が産出されるのである。私たちの社会の中心は、言うまでもなく表現の領野と社交の空間が錯綜するこの境界面上にある。)
 第四の領域は、私たちの社会の深部にあって社交空間を支え、社会過程を稼働させる力を供給するとともに、社会事象の生成・変換の過程を通じて、いわば歴史的記憶の集合的な沈澱物として産出される語り得ぬ領域である。第四の領域は、主客分離の線分が私たちの社会の深層に延長された仮想的な境界線を介して、第一の領域と通底している。諸主体怩ヘ表層における社交を通じて相互の主観を交換し、客観的な社会事象を産出する。そして、深層における逆向きの交換を通じて、私たちの社会の産出物から力を回収するのである。
 ここで語り得ぬ領域という表現について先に付した注記を思い出していただきたい。すなわち語り得ぬ領域を語る言語──形容矛盾をきたしているが──とは、比喩を伴ったもの、メタ言語的なレトリカルな使用形態における言語であった。このような言語の使用によって表現されるものを記号と呼ぶことにしよう。(後に述べるように、記号は何かを象徴し<SYMBOL>もしくは指示し<INDEX >、何かと何かを類似の相において示し<ICON>あるいは異なるものの結合の相において示す<MASK>。そして記号表現のうちに示される「何か」こそが、語り得ぬ領域に由来するものなのである。なお、ここで述べた記号の分類は、C.S.パ−スによる記号の三分法に準拠している。私はそこに、「仮面」という第四の類型を付け加えた。記号表現ないしは記号的認識の基底に、具象と抽象、可視と不可視あるいは表現と隠蔽とが共在するアイロニカルな記号形態を見出すことができるのではないかと、私は確信している。)
 私たちの社会の第四の領域は記号によって認識される「「このような意味において、私はこの謎めいた領域を記号空間と名付けたいと思う。ところで、第一の領域すなわち無意識の領野もまた記号表現を媒介として示される、語り得ぬ領域であった。しかし、私の考えるところでは、無意識の世界の様態をそれとして示す記号は存在しない。第四の領域すなわち記号空間との交渉を通じて、そこから記号の供給を受け、その意味を解釈・充填することで、無意識の領野に渦巻く無定形な欲望を表象することが可能となるのではないか──私はおよそ以上のように考えている。第四の領域と第一の領域とを連結するこのようなプロセスを、記号交換の過程あるいは記号解釈の過程と呼ぶことにしよう。(もっとも解釈といっても、それは意識的かつ論理的な推論に基づくものではなく、無意識的かつ誤謬推論に満ちたものであるだろう。しかし私は、私たちの社会の深層において展開されているであろう誤謬推論こそが、表層における社会事象の産出過程と対をなす決定的に重要なプロセスであると考えている。)
 以上が私たちの社会を成り立たせる四つの領域である。次にこれらの四領域の相互関係を考察することで、私たちの社会のダイナミクスを認識・分析するための道具を入手することとしよう。
 ここで注意を要するのは、四領域をそれぞれ他の領域から独立したものとしてとらえ、固有の構造あるいは稼働法則を内蔵する自律した領域だと考えてはならないということである。というのも、ひとたび四領域を相互に独立した領域として確定すると、私たちはそこからありもしない問題(擬似問題)を導出し、その解決をめぐる議論の堂々めぐりに自らを招き入れてしまうことになるからである。
 ありもしない問題とは、たとえば次のようなものである。第一に、私たちはいかなる過程を経て、私的な言語を公共的な言語へと連結させることができるのか。言い換えれば、私たちの社会において、主観的な価値言明の総和がどのような機制によって、たとえば倫理命題や法規範などの客観的に妥当する価値言明──あるいは客観的に妥当すると私たちによって承認される価値言明──を産出するのか。このような問いは、ホッブス的秩序の問題、「見えざる手」の問題、民主主義の基礎付けをめぐる自己統治と他律のパラドキシカルな関係、あるいは根本的規範(憲法)の正当性に関する自然法的観念と事実としての権力との相克をめぐる問題など、私たちの社会の秩序を支える根拠(あるいは無根拠性)についての数多くのアポリアと同型的に対応している。
   また、そのコロラリ−として次のような擬似問題も例示できるであろう。すなわち、私たちの社会の一主体である私は、いかなる内的過程を経て自らの行為を他者にとって了解可能なものとして表現することができるのか、あるいは逆に他者の行為を理解することができるのか。さらにはこれらの問題に対する解を探求する過程で、第二の擬似問題に遭遇することになる。すなわち、はたして私的行為は私たちがそう思っているほどに自由な意思決定に基づくものなのか。私たちの行為は、深層領域における不可視の操作によってあらかじめ決定されているのではないか。あるいは「私たちの社会における(自由な)諸主体の一つである私」という観念は、まやかしなのではないか。
 言うまでもなく、このような問いは、私たちの社会の四領域を実体的にとらえる視点がもたらす擬似問題にすぎない。すなわち、第一の問いは主客分離の線分の設定に起因し、第二の問いは表層区画の線分の設定に起因する。
      私は、後にこのような擬似問題を生成する推論の過程を分析したいと考えている。しかしそれは、私たちの社会における「誤った」認識のメカニズムを暴露し、「正しい」認識へと導くためではない。というのも、私は擬似問題をめぐる議論を決して不毛であるとは思わないからだ。それどころか、そのようなパラドキシカルな諸問題を社会過程の中に繰り込むことこそが──いわば擬似問題の共有という事態の成立こそが──私たちの社会を生きたシステムとして稼働させる力を供給する原理であると考えている。また、そのようなパラドックスを身をもって生きることが、私たちの経験にリアリティをもたらす契機だと考えている。(たとえば、民主主義は自己決定性の逆説、すなわち最終的な拘束力をもたない自律倫理がはらむパラドックスの上に成立する。だが、このような基礎づけの不可能性にこそ民主主義の本質があるのである。私たちは自律と他律の、私利私欲を語る私的言説と全体社会の利益を語る公的言説との相克という擬似問題に直面し、この問題について議論することによって民主主義の精神ともいうべき経験を獲得するのである。)
 したがって私は、私たちの社会の四領域が互いに独立して存在し、隣接しあっているかのように(私たちによって)思われる、あるがままの姿において分析することから始めたいと思う。すなわち、極めて単純な図式を作業仮説として示すことで、私たちの社会の四領域の相互関係を考察する手掛りを得たいと思うのだ。
 ──まず、四領域を一枚のタブロ−の上に並置することから始めよう。次いで第一の領域から第二の領域へと向かう作用を示す矢印を引き、順次同様の作業を経て合計四本の矢印を図に書き込む。そして矢印が示す作用を、それぞれ表象・模倣・記憶・解釈と名づけることにしよう。かくして、私たちの社会のダイナミクスを分析・認識するための四つの道具が獲得された。