この世界で「私」と言えるのはこの私だけである。私が世界の存在を告げる根源的な存在者である。私の到来とともに世界は稼働を始め、私の死とともに世界は再び沈黙する。 しかし、世界は私の前に私の意志とはかかわりなくあらかじめ存在していた。この事態は私にとって解き明かせない謎である。また、根源的存在者として世界にかかわる私がどこからこの世界に到来しどこへ去っていくのか。この謎に答えることも私にはできない。
 このような謎に比べると、次の謎はとるに足らないものであるように思われる。──この世界に、私と言えるのはこの私だけだと主張する、この私以外の存在者がいる。私の外にあって、その限りで私によってその存在を告げられる世界の一部にすぎない者が、なぜそのような主張をなし得るのか。あるいは、なぜ私は他者のそのような主張を正当であると承認しているのか。
 もっとも、私は他者の主張は正当でないと言うこともできるだろう。そして、その場合謎はもう少しこみいったものになりそうに見えるかもしれないが、実はそうではない。なぜなら、私は他者の主張を認めないだけで、他者の存在を認めないわけではないからである。すなわち、他者は私によって存在を告げられる世界の一部をなすものであり、その限りで私の前に存在している。この事実を私は否定しない。しかし、他者はけっして私と共に世界の存在を告げる根源的存在者ではない。端的に言って他者は私ではないのである。
 他者の主張を正当と認めない立場は、他者と私の存在のあり方の根本的な違いを論拠としている。言い換えると、私という語の二重性を前提としている。第一に、「私」は主語・述語の構造をもつ言明の中で主語の一つとして使用されるありふれた語である。(もっとも、すべての言明は必ず私という主語を明示的にせよ黙示的にせよ含んでいる。たとえば、小説や学術論文においてさえ「…と作者あるいは筆者である私は述べる」という文を挿入することができるのである。この意味で、「私」はありふれた語ではないと言えるかもしれない。しかし、少なくとも唯一の特権的な語でないのは確かである。たとえば「あなた」という語を考えてみればいい。すべての言明は必ず「あなた」という名宛人を示す語を含んでいる。「…と作者あるいは筆者である私は読者あるいは審査者であるあなたに対して述べる」という文の挿入はいつでも可能なのである。)
 第二に、単なる文法上の主語ではなく、世界のあり方の根本にかかわる主体として、私という語はある特別な経験の帰属点を示している。私の身体を内側から経験し、世界を私の前に開かれたものとして経験する主体の所在を、私という語は示すのである。私が他者の主張を認めないのは、他者がこのような意味で私と発語する主体ではあり得ないからである。第二の意味で私という語を使用する権利は、この私にしかない。
 ところで、他者もまた自らの身体を内側から経験し、世界を自らの前に開かれたものとして経験しているのかもしれない。このような疑問は、第二の意味において「私」と発語する権利を他者に認めない立場から見ても、正当に成り立つものだ。しかし、私は他者ではないからそのことを確かめようがない。そもそも私が世界にかかわっていくためにはそのことを確かめる必要がない。たとえ他者が私とは異なる経験の帰属点であったとしても、また他者が機械のようなものであったとしても──あるいは他者が私の経験を私とともに内側から身をもって(追)体験できる存在者であったとしても──そういったこととは無関係に、私は他者とうまくやっていけるのである。(他者が機械のごときものとして実感されたり、私の経験を追体験できる存在であると確信されたとしたら、私はおそらく狂っている。他者を機械のようなものかもしれないと思うことと、そのように実感することとは決定的に異なる態度である。)
 私は、他者が第二の意味で私という語を使用し得る主体であることを承認することもできる。現に私は承認しているし、私の世界ではこのような事態はあえて承認するまでもなく、自明の理として通用している。しかも、私のこれまでの主張自体、他者によって承認され得るのである。──このような事態は、しかし背理なのではないか。というのも、世界の存在の告知者たるこの私の唯一性あるいは単独性の主張が、当の世界の一部である他者によって承認されるというのであるから。いや、私は他者が私とは別の主体であることを認めると言っただけで、他者がこの私の唯一性・単独性の主張を承認する権利まで認めたわけではない──このように抗弁しても手遅れだ。なぜなら、他者が私とは別の主体であると認めることは、当の他者にとってこの私が他者であることを認めることに他ならないからである。そして、何よりもこの私が認めようと認めまいと、事実として他者はそのようにしてこの私を見ているし、今まさに表明しつつある私の主張をそれなりに筋の通ったこととして──あるいは筋の通らぬことながら、私がそのような主張を表明する権利を持つ主体であることは自明の理として──認めているに違いないのである。
 ここで、私という語の使用をめぐる第三の類型を用意することで、この私の唯一性・単独性の表現を確保することができるかもしれない。すなわち、自らの身体を内側から経験し、世界を自らの前に開かれたものとして経験する諸主体の中で、その存在のあり方が決定的に他と異なる者がいる。この者こそ、真に根源的な存在者の名に値する世界の告知者である。語の第三の使用類型において、「私」とはこのような存在者を指し示すのだと。 しかし、第三の意味において私という語を使用する権利を、この私は独占できるのであろうか。事実として他者がそのような意味で私という語を使用し得ることは、否定しようもないと私には思われる。というのも、私の表明しつつある主張は言語で語られており、そうである以上私の主張は他者に理解されるであろうから。そして、理解するとは、他者が私という語を、この私が言うところの第三の意味で使用できるということに他ならないからである。そうすると、先の問いは次のように言い換えなければならない。──第三の意味において私という語を自らに結び付けて使用することを、私は他者に対して禁ずることができるであろうか。
 私はこのような禁止は可能であると思う。たとえ、事実として他者が、世界の告知者の所在を示す私という語を自らに結び付けて使用したとしても、この私の世界では端的に言ってそのような言明は偽であり、ただ他者は自らを世界の根源的存在者だと誤って思っているにすぎない。そしてそのように言えるのは、まさに第三の意味における私という語の使用が他者に対して禁じられているからに他ならない。侵犯に対する制裁は侵犯行為が行われると同時にくだされている、いや侵犯行為に先立って既に他者に対してくだされているのである。
 私の主張を日常生活の場に翻訳するとどうなるのだろうか。「他者は私にはなれない。誰も私の身になって私について語ることはできない」──これは第二の意味における私という語の使用に関するものである。そして、この私の世界において、すべての他者はそのように主張する権利を認められている(たとえこの私に対してであっても)。「世界は私に名指されることによって存在を開始し、私の死とともに消滅する。他者による名指し、他者の死によってではない。もし他者が自らの名指しによって世界が存在を開始し、自らの死によって消滅するのだと主張しても、端的に言ってそのような言明は偽である」──これが第三の意味における私という語の使用に関する言明であろう。
 さてここまで来て、私はある不可思議な思いにかられることなく他者について考察することができない場面を想定するのである。それは、もしかするとこの私の存在自体が、ある特別な他者(と私によって思われていた根源的存在者)によって告知された世界のうちに属しているのかもしれないという疑いが、動かしがたいリアリティをもって私につきつけられる場面である。私がどのように抗弁しようと、他者(と私によって思われていた根源的存在者)は冷然と言い放つだろう。「端的に言ってそのような言明は偽であって、ただ君は自らを世界の根源的存在者だと誤って思っているにすぎない」と。私が(世界の根源的存在者としての)私について何を語ろうと、そのような語の使用は私のあずかり知らぬところで禁じられており、しかもあらかじめ侵犯行為に対する制裁はくだされているのである。さらにこの私の存在自体が、他者(と私によって思われていた根源的存在者)による告知・名指しを根拠として成立していることになり、「他者は私にはなれない。誰も私の身になって私について語ることはできない」という私の言明も、当の他者によって「そのように主張する権利は認められている」と保証されることになるのである。私の存在という自明と思われる事実が、他者(と私によって思われていた根源的存在者)によって告知される世界の一部をなす限りで成立するのである。(私はデカルトのひそみにならって、<私が私を何ものかであると思っているあいだは、彼は決して私を何ものでもないものとすることはできないだろう>という最後の言葉を口に出さずにはすまない場面へと、ついには追い込まれてしまうのだろうか。)
 このような場面──私の唯一性・単独性が、この私を超える根源的存在者たる他者によって危機にさらされる場面──に臨んで、私がとるべき振舞いは他者とのあくなき闘争であろうか、相互承認による友愛の追求であろうか、あるいは世界からの撤退であろうか。 問題を解決するために私が採用した方法は、次のようなものだ。──私は、「この私の世界」とは違うもう一つの世界、すなわち「私たちの社会」を他者と共同制作するのである。そこでは、私も他者もそれぞれの唯一性・単独性の主張を衝突させることなく、お互いにうまくやっていける。なぜなら、「私たちの社会」は「この私によって告知される世界」とはその成り立ちを異にする場だからである。そこでなら他者は自らを世界の根源的存在者であると(誤りなく)思うことができるし、そのような言明をすることも許されている。この私もまたそこでは他者から疑いのまなざしを浴びせられることなく、私の唯一性・単独性を主張することができるのである。
 しかし問題は本当に解決あるいは解消されたのだろうか。私は極めてあやうい場所に自らを追い込んでしまったのではないだろうか。というのも、そもそも存在の根拠を異にするこの私の世界と私たちの社会は、言語を媒介として同一領野に錯綜した関係を取り結ぶことになるからである。このことを詳しく見てみよう。
    私が、私たちの社会を仮構することで解決・解消を図ったのは、次のような問題に対してだった。──この私の世界が、実は他者(と私によって思われていた根源的存在者)の告知・名指しによって成立したものであるかもしれないという疑いに対して、私は有効な論駁をなすことができない。この疑問の前では、私がどのような主張をしても、少なくとも私が世界の根源的存在者であるという言明に関しては原理的に偽であるより他はない。私は自らの唯一性・単独性を疑いようもないものとして確信しているが、それは第二の意味において私という語が指し示すもの、すなわち自らの身体を内側から経験し、世界を自らの前に開かれたものとして経験している主体が、内部に[intro] 意識の光を向ける[spect] ときに立ち現れるありふれた経験を言語で表現したものにすぎない。したがって「私は唯一者・単独者である」という言明は、これを字義通り解する限り、この世界(私を超える他者によって告知される世界)においては偽とならざるを得ないのである。
 問題をこのように改めて述べてみて、私は次のような思いにかられる。──私を超える他者などいないのではないか。それは誤った言語の使用怩ノよる幻想の観念なのではないか。そうであれば、私はありもしない問題をでっちあげて、自らの仕掛けたわなにはまっているのではないのか。あるいは、言語が仕掛けたわなにはまっているのではないか。
 これに対して私は次のように考える。──そうかもしれない。そして、そのように解することができるなら、私の直面している問題は解消するだろう。しかし、ここでそもそもこの私の世界において言語とは一体何かに思いをめぐらせなければならないだろう。というのも、言語は世界の告知者たる私にとってさえ根本的な謎の一つだからである。この論考の冒頭で、私は二つの解明不能の謎を提示しておいた。その一つは、「世界の告知者たる私の前に、私の意志とはかかわりなく、なぜ世界は既にかくあるものとして存在していたのか」というものであった。そして、かくあるものとしての世界の中に、言語は不可分の一部をなすものとして内蔵されている。すなわち、私の意志とはかかわりなく、言語は既にして公共的に使用され私と他者との間で流通するものとして存在していたのである。そうであれば、「問題」を言語の誤用による擬似問題だと極め付けることで解消させたところで、私にとって問題がリアリティをもって感得されているという経験は解消しないのである。言語に対して外からかかわることで問題を解消させることは真の解決ではない。言語の中にとどまり、いわば内部からの解決をはからなければならないのである。
 かくて私は「他者(と私によって思われていた根源的存在者)」という、私自身の誤った言語の使用が生み出したのかもしれない仮想的な他者(根源的他者)との間で、私たちの社会という仮構を共同制作することによって問題の解決を図った。私たちの社会にあっては、言語は私たちの規約に基づいて厳密に使用されなければならない。まず、私という語をめぐる第一と第二の使用類型に応じて、言語は二つに分類される。第一に、主語・述語構造をもつ言明の中で主語の一つとして使用される「私」に対応して、言語は公共的に使用される。第二に、ある特別な経験の帰属点を示す語として使用される「私」に対応して、言語は私的に使用される。
 「私は世界の告知者であり、根源的存在者である」という私の唯一性・単独性を示す言明は、第二類型の言語において許容されるだろう。もっとも、それは内省する意識の前に立ち現れるありふれた経験を表現するものであるにすぎない。もしもそのような言明が、「私たちの世界」とは存在の根拠を異にする「この私の世界」の所在を示すものとして、公共的な場──すなわち第一類型の言語が使用される場──で表明されたとしたら、端的に言って偽である。(もっともそのような趣旨の思想を表明することは可能であろう。しかし私的な経験の表明でなく、客観的な実在について言及する思想として表明されるものである限り、私たちの社会の規約によって、そのような思想が真であることの論証を求められるであろう。そして、論証は原理的に不可能であるに違いない。なぜなら、この思想は私たちの社会のあり方を根底的に覆すものだからである。私たちの社会における論証の成功によって、この思想は自らの基礎を覆すことになる。)
 整理すると、私たちの社会では言語は二つの類型に分類される。第一のそれは公共的なコミュニケ−ションの場において、論理的整合性と論証あるいは実証可能性という規約に基づいて使用され(公共的言語)、第二のそれは私的な経験の記述・表明という局面において使用される(私的言語あるいは内省言語)。私という語の使用をめぐる第三の類型に対応する言語(根源的言語あるいは啓示言語とでも言うべきか)は「この私の世界」においてのみ使用可能なものであって、私たちの社会では使用不可能である。もし使用されたとしても、それはせいぜい内省言語の特殊例としてか、公共的な場に提示された哲学的つぶやきとして流通するしかないだろう。
 以上をもって、この私と仮想的・根源的他者との確執は回避された。他者と共に私たちの社会を仮構し、言語を厳密な規約のもとに統治することで、私は「問題」を解消させることができた。この私の世界は他者の懐疑のまなざしをすりぬけて、私のもとへと帰還するのである。
 しかし問題は本当に解決あるいは解消されたのだろうか。──私はここで強い疑念にとらわれたのであった。というのも、この私だけに使用が認められる第三の言語は、翻訳不怏ツ能なものとして私たちの社会から放逐されなくてはならなくなるからだ。そうであれば、この論考の冒頭に掲げた言明──この私を世界の告知者・根源的存在者として宣言したもの──は、私たちの社会においては偽とならざるを得なくなるのではないか。──い怩竄サれは当然の帰結なのだ。私はそのようなものとして私たちの社会を仮構したのだから。私が使用する第三の言語は、私たちの社会をいわば包摂する「この私の世界」において、他者による了解や受容を待つまでもなく自足的に鳴り響くのだ。
 しかし私の疑念ははれない。──私は私たちの社会で現実の生活を営んでおり、(時としてその明証性が揺らぐことはあるものの)生き生きとしたリアリティを感じており、ある時は御しがたい落胆を覚え、ある時は至福のひとときを享受しているではないか。そのような私のリアリティを記述・説明・承認する言語と、この私のみ使用しうる第三の言語との区別を私はどのようにつけたらいいのか。とりわけ私的・内省言語を使用するとき、私は「この私の世界」と「私たちの社会」のいずれに属しているのか判然としなくなるではないか。私たちの社会を仮構することで、この私の世界はやせ細り、沈黙するしかなくなってしまうのではないか。
 このような疑念の根本にあるのは次のような思いなのである。──私が他者と交わるのは私たちの社会に限定される。そのような場を仮構することで、私はこの世界の告知者としての地位をめぐる他者との確執を回避した。しかしその結果、この私の世界から他者が放逐されてしまった。他者がこの私に到達し得ないのと裏腹に、この私もまた世界の根源的存在者として他者にかかわる場を喪失してしまったのである。そして、それと同時にこの私自身が他者や言語とのかかわりにおいて感得しうるリアリティを失ってしまったのである。もっとも、そのような他者とのかかわりやリアリティは、私たちの社会における諸主体の一つとしての私のうちに帰属することになろう。だが決して世界の根源的存在者としてのこの私にではない。そうであれば、この私の世界で使用される言語は、他者であれ内省する意識であれその聞き手を失いひからびてしまうのではないだろうか。それと同時に、この私もまた当の私にとってさえよそよそしいものになってしまうのではないだろうか。結局、この私の世界は他者とのかかわりをおいては成立し得ないものだったのではないか。つまり「私たちの社会」こそが世界の真のあり方だったのであり、そこから逆に「この私の世界」という観念が仮構されて来たのではなかったのか。
 (そもそも「私たちの社会」の仮構に際して、私はいかにして他者の了解を取り付けたのか。相互に根源的存在者たることを自認し合う者どうしで、果たしてそのような共同作業が可能なのか。私の論考はこのような原理的な問題を素通りしている、「私たちの社会」の仮構によって、私は問題を解消させたのではなく、根源的他者の存在可能性を隠蔽しただけではないのか。)
 このような思いを断ち切るためには、第三の言語という類型を否定するより他はないだろう。すなわち、この私の唯一性・単独性を語る言語は(この私にとってさえ)存在しない。第三の言語は言明されたとたん、たちどころのうちに第二の言語──私的・内省言語──のうちに取り込まれてしまう。この論考の冒頭の言明でさえ、実は私たちの社会に内属している私が、私たちの社会でのある経験をそのように表現したものにすぎなくなるのである。
 私はこのことを認めよう。単純化して言うならば、この私の世界が私たちの社会の中の一つの主体である私の内部に、内省によって見出される領域のうちに、位置付けられるものでしかないことを(言明可能性の観点からという限定条件付きではあるが)私は認めよう。そして、その限りで「この私の世界」について言及する権利を他者とともに分かち会うこととしよう。
 取り違えてはならない。私が否定したのは言語の第三の類型なのであって、「私」のそれではない。言い換えるならば、世界の根源的存在者たる私の存在について語る言語を否定したのであって、そのような私の存在を否定したわけではないということだ。──それでは、「そのような私の存在を否定したわけではない」という二重否定の言明のうちに、その存在が主張されている「私」とは一体誰のことなのだろうか。もしそれが世界の根源的存在者たる私だというのであれば、私は矛盾した言明を行っていることになる。なぜなら、そのような存在者の存在について語る言語はないと、たったいま私は認めたからだ。──いや、そうではない。第三の私の存在について語る言語が、使用されるやいなやたちどころのうちに第二の私(自らの身体を内側から経験し、世界を自らの前に開かれたものとして経験する主体)の内的経験を語る言語のうちに回収されるしかない、ということを私は認めたのである。「そのような私の存在を否定したわけではない」という言明は、第三の私の存在を語る言語がないということを論拠にそのような私の不在を推論することはできない、ということを言おうとしたものなのである。
 (ここで、私は神の啓示を伝える言語や詩に代表される文学言語など、「私たちの社会」とは異なる「この私の世界」の実在を、共同体の経験として、あるいは個体の経験として表現する言語の可能性について考察したいという思いを強く抱く。だがこの問題は、先に述べた根源的他者の隠蔽という契機と共に、「私たちの社会」を仮構する際に決定的に重要となる第二の契機にかかわるものである。言うまでもなくその第二の契機とは、「私たちの社会」とその外部世界としての「この私の世界」との関係をめぐるものである。私はいずれこれらの論点について仔細に論じたいと考えている。)
 ともあれ私は、当面この論考を私たちの社会に内属する一個の主体の立場で書き続けることとする。そうすると、私が冒頭に掲げた解明不能の二つの謎は、次のように書き直さなければならなくなるだろう。──すなわち、私たちの社会はなぜかくあるものとして私の(あるいは私たちの)前に存在しているのか。また、私たちの社会において、私とはそもそも一体何者なのか。