前口上


 随分前のこと、社会組織が「生きた実在」として稼働するための原理は何なのか、といった事柄について集中的に思いをめぐらせたことがあります。私なりの解は、そのような「問題」そのものを共同で考える「コミュニケーション過程」の継続性を担保する仕組みが組織のうちに構築されたとき、組織はその構成員や関係者に対してリアルな実在感を与えることになるというものでした。そして、この過程を「司法過程」ととらえ、それを継続させる仕組みを、立法・行政・司法に準えて「記憶」「模倣」「解釈」の三作用と考えたのです。

 ところで、司法過程が働くためには、個別具体的なレベルでの「問題」の継続的な供給が必要です。そうでないと、司法過程は形骸化し、組織は虚偽意識としての「共同体」の観念のうちにかすめとられてしまうでしょう。私は、そういった「問題」を組織に継続的に供給する過程が、実は司法過程にほかならないのだと考えました。つまり、司法過程における解釈作用とは、問題を解決する作用である前に、問題を「問題」として措定する(何が「問題」なのかを推論する)作用なのではないかということです。(ちなみに、私は、司法過程を通じて培われる機能――組織に外部性と他者性の視点を挿入し、「共同体」から「社会的なもの」へと不断に組織を組みかえる装置――こそが「経営者」なのだと考えました。)

 こうして、組織における司法過程の意味をつきつめて考えていくうちに、私は、第四の社会的作用としての「表象」(と仮に名づけた作用の重要性)を強く意識するようになりました。そして同時に、主として官庁や企業などの大規模な人間集団を念頭においた社会組織の仮構性とリアリティとの(そういってよければ「弁証法」的な)関係をめぐる関心が、「私たちの社会」そのものの成り立ちと稼働原理一般への関心に推移していったのです。さらに、おそらくは「表象」作用の意味を追究していくうちにクローズアップされていくに違いない「この私の世界」の謎めいた実質への関心が、「私たちの社会」との関係も含めて、私の脳髄を占領していったのです。

 以上が、今回掲載した「私たちの社会」を書くに至った個人的な事情です。ほぼ二年をかけて、当初予定していた分量の半分(「この私の世界」に関する考察まで含めると、四分の一)まで書いたところで中断しています。(要約版では、とりあえず最後までまとめましたが、これはあくまで仮のものでしかありません。)作業再開の目処は今のところ立っていませんが、その一方で、「私たちの社会」と「この私の世界」の根源にあると思われるもの――物質・生命・精神・意識が循環する「自然過程」と、その稼働原理となる「論理・数学的過程」――への関心(あるいは妄想)が強烈に高まっています。この先、どこまで考え続けることができることか。(1998.2.25 記)


#社会組織をめぐる考察については「補遺と余録」の【32】から【59】に(そのエッセンスは【58】・【59】に)紹介しています。また、「自然過程」や「論理・数学的過程」も含めた「私の体系」全体のラフスケッチは【3】で試みています。(そもそも「補遺と余録」と総称したエッセイでもって試みているのが、「この私の世界」をめぐる考察への手がかりの探求でした。)