新聞の父 ジョセフ彦を訪ねて(播磨町)
幼名「彦太郎」は、天保8年(1837)に播磨町古宮に生まれ、嘉永3年(1850)江戸見物からの帰途、遠州灘で遭難し漂流すること50余日、アメリカ商船に救われサンフランシスコに着きました。
ワシントンでは、日本人としてはじめてアメリカ大統領(ピヤース大統領)に正式に会見しました。
その後、洗礼を受け「ジョセフ彦」を名乗るようになりました。
日本からの帰化第1号としてアメリカの市民権を得、アメリカ領事館通訳として帰国し、日米修好条約の締結や遣米使節の派遣など幕末の外交に奔走しました。
3度目の渡米より帰国後、元治元年(1864)に日本で最初の新聞「海外新聞」を発行しました。二つ折れの半紙4〜5枚に各国のニュースやアメリカ略史などを掲載し、慶応2年(1866)まで発行され、総発行号数26号を数えました。
このことから、ジョセフ彦は「新聞の父」と言われています。

参考文献
播磨町教育委員会発行 「ふるさとの文化遺産」

ジョセフ彦の胸像
(播磨町中央公民館前)

ジョセフ彦両親の墓
裏には英文の刻まれていることから「横文字の墓」と呼ばれています。
(蓮花寺境内)
浜田彦蔵の碑  
(播磨小学校校庭)



ジョセフ彦とともに永力丸で遭難した乗組員を供養する「怒涛を越えた男たち」の碑
(正願寺境内)
 嘉永三(1850)年十月
千六百石積廻船永力丸
遠州灘沖にて破船
太平洋上を漂流すること五十余日
 船頭万蔵ら十七名
米船オークランド号に救助され
サンフランシスコに上陸
異文化に触れ とまどい おののき
憧れつつも 遠き故郷の山河を思う
 鎖国から開国 動乱と混迷の時代
怒涛の果てを見た男たちがたどる
希望と失意 栄光と挫折の生涯
 歳月過ぎて 漂流より百五十年
その面影を
(イラストレイテッド・ニュース1853年1月22日刊)より写し
記念の碑とす
碑文より ->

閉じる