尾上神社 公式ホームページ
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尾上の松や尾上の鐘で有名な尾上神社、貴重な東山焼,尾上茶釜もあり尾上の鐘が聞こえる範囲の海岸一帯は響きの灘とも呼ばれます

 


尾上神社 兵庫県加古川市尾上町長田字尾上林518 Tel:0794-22-5676 Fax:0794-22-0433 http://www.eonet.ne.jp/~onoejinja
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尾上神社は昔、神功皇后が三韓(朝鮮)征伐をなされた時、住吉大明神が海上を守護されたため、皇后は御凱旋のみぎり、ここに上陸されたが、霖雨が降り続いて軍を進めることが出来なかった。そこで、皇后は「鏡の池」で斎戒沐浴して尾上神社を鎮祭し、晴を祈願されたという。以後、軍神として、又、海上の守護神として舟人の参詣する者が多かった。

播磨風土記に「昔大帯日子命、幸行別媛之處、道辺有長田、刺云、長田哉、故日長田里」(長田は尾上神社の所在地)とみえ、古くから発達した土地で、「高砂」という地名は、むかしこの辺一帯の総称で、尾上神社はいわゆる「高砂の尾上」といわれ、古歌・謡曲にも必ず「高砂の尾上云々」とうたわれた名所である。

醍醐天皇の御代、肥後の国阿蘇宮の神宮友成が上京のみぎり、尾上神社に参拝し、相生の松を探ねた時、尉姥二神が顕れ給い、夫婦睦まじく歳久しく住み給いしという、目出度い古説は、人□に伝えられ、丹青に画かれ、詩歌に詠まれ、婚礼には島台と名づけて此の形をとり、正月には蓬莱に並べて祝っている。

豊臣秀吉の三木城攻め(中国征伐)の際、毛利・小早川・吉川の軍勢がこの海岸に上陸して軍陣をひいた。この戦乱のため、社頭は荒廃していたが、慶長九年池田輝政が姫路の藩主となった時、初代相生の松の根の上に社殿を移して修築、更に寛永二年本多忠政が鐘楼を建立した。

江戸時代には、『播磨鑑』や『播州名所巡覧図会』にも紹介され、司馬江漢や伊能忠敬、勤皇の志士である清川八郎なども訪れており、多くの人が訪れる観光スポットとなっていたようです

名松林「尾上林」は、戦前には古松亭々として聳え、「松露」(松林に毎年春、秋になるとできるキノコの名前)の産地として知られ、また、長寿延命の「寿命餅」は、尾上神社の名物として賞味されていました。