メッセージ   2013年 11月17日

「向きを変えて」  (マタイ18章1〜5節) 

 谷典(たに つかさ)姉の赤ちゃんが初めて出席するということでこの箇所を選んだ。誕生や命に関係する話ではないのだが…。

 「天の御国ではだれが一番偉いのでしょうか」…弟子たちによって何度かイエスに投げかけられた質問である。どうしてそんな競い合うようなことを…と嘆きたくなるところだがよく読んで考えてみると…。

 天の御国…これは単に天国を表しているのではなく、神様の支配を表す言葉である。つまりこの問いかけは、神様の基準、神様の目から見るなら、どのようなあり方が良しとされるのでしょうか…という意味に理解できる。神様に喜んでいただける生きかたとは? そのような質問でもあった。

 それに対してイエス様は「悔い改めて子どものようにならなければ」「子どものように自分を低くする者が」「子どものひとりをわたしの名のゆえに受け入れる者は」と、神様の視点を子どもと結び合わせて語られた。悔い改めて…これは今日のタイトルとなっている「向きを変えて」という言葉が使われている。一連の子どもと言う言葉は純粋とか素直といった良いと思われる面ではなく、弱さや無力さ、価値のないような存在…といった意味合いで用いられている。もちろん子どもの存在自体は無価値ではないが、この時代と今とでは見方も違ったことだろう。絶えず死と隣り合わせとも言える幼な子は弱くそして生産性の低い存在であった。自分の力や実績、努力に頼る、そこに一番の価値を見出すような生きかたは、神の国にふさわしくない。

 神の支配、すなわちイエス・キリストによる救いは、ただ恵みとして神様から一方的に与えられるものである。私たちの側のがんばりによってもたらされるものではない。自分への評価、神様との関係において、私たちは「向きを変える」ことが求められている。