メッセージ   2013年 10月27日

「『わたしはある』と名乗る神」
    (出エジプト記3章13〜14節
) 

モーセをイスラエルのリーダーとするために召しだされた神様は、モーセに名前を尋ねられ「わたしはある」と答えられた。もちろんモーセはいわゆる名前ではなく「あなたはどのような神様なのですか」という意味を込めて尋ねたのであるが、まさに神様の答えは「わたしは有って有るもの」(口語訳)だった。

ある…これは初めからあった、そして今もある、これから先もあり続けるという根源的な意味を表す表現である。天地万物を創造された神様を表すにふさわしい言葉だと言える。古代エジプトには二千もの偶像があり、それぞれ人によって名がつけられていたと言う。しかしイスラエルの神は人によって名をつけられる必要などないのである。

ところで、聖書信仰の土台とも言えるこの神理解が、日本人には厄介なのである。ゆえに福音宣教がままならないという現実が立ちはだかる。日本人にとって神様とは人が必要とするから存在するのであって、まず神があって人がある…という順序は受け入れ難い。それを受け入れると、物の考え方や生き方を根本から変えなければならず、さらには様々な習慣や行事とも一線を引くことになる。結果として和を大切にする日本の社会から浮いてしまう。明治維新や第二次大戦後、クリスチャンの数が飛躍的に伸びたのが、社会全体が変革を求められていたからである。

「わたしはある」という神様を、しかも主とする生き方を伝えることは容易ではない。とは言え、私たちはこうして聖書の信仰を持ち続けている。また、人生の変革を求めている人は私たちの周りに必ずいる。福音宣教にはこれ…と言うような有効な手段はなくても、福音を伝えるためのチャンネルはたくさん用意しておきたい。それぞれにふさわしい形で。