メッセージ   2013年 8月11日

「ジレンマと共におられる神」
 
ローマ書 8章15〜25節) 

  ジレンマ…板ばさみという意味である。先週の説教の続きでもある。

 パウロは「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行なっているのです。」と語る。神の律法に従いたいと願いつつ、内側に住む罪のとりこになっているゆえに「私は本当にみじめな人間です」という告白にいたる。当時すでにキリスト教会のリーダーであり、また出会ったことのないローマの人々への公同の手紙であったにもかかわらず、である。

 伯母がなくなり、親族だけでの葬儀が行なわれた。お坊さんが「お経は三途の川を渡るための船です。皆さんでご一緒に唱えてお送りしましょう」と話されるのを聞いて、なるほどと思わされた。お盆を迎え、何かと仏教的な行事…日本人としての慣習?に接する機会も多い。もちろん私自身、お経は唱えないし慣習とも一線は引くが、亡くなった方を悼む心、先祖を大切に思う心は尊重したい。とは言うものの…。

 改憲論が盛んになりつつある。かつての憲法下において戦時中、カトリック教会が「神社参拝は宗教行為ではないですよね」とお伺いを立て、文部省からの「教育的行為」との答えを受けて、カトリック・プロテスタント共に神社参拝を国民的儀礼として受け入れた経緯を振り返るとき、板ばさみと向き合うことの大切さを痛感する。

 『偽名書簡の謎を解く』〜だれだ?パウロの名を騙るやつは!〜という本が出版されたという紹介を複数見かけた。著者はかつて私たちの教会とささやかなつながりのあった方のようである。日本において少数派のクリスチャンの中にもいろいろな立場がある。比較的近い信仰の立場と思われる者同士でもさらに、聖書の読み方や解釈の仕方、各書巻の成立年代や著者の問題など、そこには様々な違いがある。 

 信仰生活において板ばさみになることは多い。しかし、挟まれて悩み苦しむことは大切である。時には「罪と戦って、血を流すまで」(ヘブル12:4)に。そこで祈るとき、そこに神様がおられるからである。パウロは心とからだの板ばさみの中で、突然、「ただ神に感謝します」と叫んでいる。イエス・キリストによる救いが「罪と死の原理から」解放して下さることにたどりついたからである。