メッセージ   2013年 8月4日

「主の戦いとジレンマ」
 
(Tサムエル記 17章45〜47節) 

 少年ダビデは、大男ゴリアテとの戦いを「主の戦い」と呼んだ。そして、誰がどう見ても勝ち目のない戦いに勝利した。まさに神様の勝利である。しかし、敵とは言えゴリアテが、そして多くの兵士たちが命を落とすことを私達はどう受け止めれば良いのだろう。もちろん色々な説明が可能ではある。限定された時代の、あるいは地域での、特殊な状況での出来事で…神様は大きなご計画の中で…あるいは、神に背く民はこのようにして…等など。しかし何れにせよそこには一種のジレンマがある。

 全国大会で鹿児島へ行った際に、特攻隊の基地で知られる知覧の平和記念会館を訪れた。尊い命を、国のため子孫のためにと犠牲にした若者たちの写真と共に最後の言葉が紹介されていた。そしてそれらのほとんどは、明るく誇らしげであった。「教育」の力を思い知らされた…と同時に、教育に関して国家の影響力を強めようとしている今日の日本に危機感を覚えた。個人の自由が尊重された結果が現在の日本社会において様々な問題となっている…確かに行き過ぎた一面はあったかも知れないが…国家あっての個人という考え方に移っていく時、やがて思想や信条、信仰、良心の自由は脅かされていく。ここにもある種のジレンマがある。

 全国大会でトレント・マクセイ氏(アーマスト大学准教授=新島襄・内村鑑三の母校)の講演にあった「明治時代、日本に入ってきたキリスト教は『和解の福音』、すなわちイエス・キリストの十字架による罪の赦しではなく、西洋文化であった」というくだりが強く心に響いた。それ故にキリスト教精神は日本の近代化に大きな影響を及ぼしたとも言えるが、複雑な心境…まさにジレンマ…である。

 信仰者としてジレンマとしっかり向き合いたい。