メッセージ   2013年 7月21日

「神様の答え」  (Uコリント書12章7〜10節) 

「私は、高ぶることのないようにと、肉体にひとつのとげを与えられました。」(7節)とパウロは語る。それは身体の病や痛みだったかもしれない。そのとげのゆえに福音宣教が思うように進められない…そこで「私から去らせてくださるようにと、三度も主に願」ったのだろう。しかしパウロの願い=祈りは聞き入れられなかった。

 祈っても聞かれない…これには理由がある。「願っても受け入れられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」(ヤコブ書4:3)あるいは「あなたがたの咎が、あなたがたとあなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ書59:2)

 しかし、パウロの祈りが悪い動機であるとは考えられない。そう言えば、ゲッセマネの園で主イエスも三度祈った。そしてその祈りはかなえられず、十字架にかかられた。もちろんイエス様の願いが悪い動機であったはずもなく、まして罪のゆえにかなわなかったのでもない。


 パウロに対する神様の答えは、「私の力は、弱さのうちに完全に現われる」であった。そしてパウロは「弱さを誇りましょう」と告白する者へと変えられた。パウロの祈りが聞かれなかったことにより、この告白が生まれ、どれほどたくさんの人たちに勇気や希望をもたらせてきたことだろう。

 弱さや困難、痛みや苦しみ…そんな中にあるとき、私たちはよりいっそう祈る。ゆえに弱さは「キリストの力が私をおおう」時となる。「おおう」は「宿る」の意味である。つまり弱さや困難の中にあるとき、そこにこそキリストが共にいて下さるのである。たとえ願ったとおりの解決が示されなかったとしても、神様はより豊かな答えをその先に備えてくださっている。