メッセージ   2013年 7月14日

「離れて行きたいか」  (ヨハネの福音書 6章67節)

 「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私のうちにとどまり、私も彼のうちにとどまります」(ヨハネ6:54)。ご自身のこの言葉によって「弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行」ったことを受けて、さらにイエス様は十二弟子に「あなた方も離れて行きたいか」と問いかけられた。

 「離れて行く」の対局にある「とどまる」…ヨハネ伝のテーマとも言える言葉である。1章では「泊まる」と訳され、主イエスのバプテスマに際しては「聖霊が…とどまられる」と表現され、さらに15章のぶどうの木のたとえでは「つながり」を意味する言葉として繰り返し登場する。これはメノーというギリシア語で、「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」で知られる「残る」もメノーである。これは過去に完結した出来事によって始まり、それが続いていく状態…早い話が決定的な出会いによって招きいれられた私たちの信仰…主イエスとの関係を表わすのにふさわしい言葉だといえる。

 ぶどうの木のたとえでは、私たちは枝にたとえられている。そして主イエスは幹…ではなく「ぶどうの木」だと言う。考えてみれば、ぶどうの木は幹と枝の区別があるようなないような…そして言うまでもなく枝は自らのがんばりや努力で木につながっているわけではなく…。これまた私たちの信仰のありようを見事に表わしている。

 
神様によってとらえられて始まった私たちの信仰…ぶどうの木が農夫よって守られ育てられるのと同様、私たちの信仰も農夫である神様によって養い育てていただいている。それ故に信仰とは、私たちの都合でやめたり離れたりできるものではないのだろう。となると…主イエスからの「離れて行きたいか」という問いかけは実に重い言葉として私たちの胸に響く。