メッセージ   2013年 6月16日

「キリストはすべての人の主」
    
(使徒の働き10章34〜36節)  

 清いか汚れているか…食べ物をはじめとする生活習慣や民族の違いに至るまで、これらを区別することに異常とも言えるほどの関心を払っていたユダヤ人にとって、すべての食べ物を清いとする神さまの呼びかけや、割礼を受けていない異邦人に救いが及んだことはまさに衝撃的であった。したがって、エルサレム教会の人々はこの直後、ペテロが異邦人と食事を共にしたことを非難している。

 人によって時代によって育った環境によって、こだわりはさまざまである。アメリカでは最近、同姓愛少年の入隊を認めるというボウイスカウト連盟の決定に、保守的な教会が設立したグループが相次いで脱退を表明しているとのことである。これだけは譲れない…たとえば日曜日の集会出席、日本古来の宗教的習慣や伝統行事との関わり等など…同じキリスト者でも様々な考え方がある。無理してがんばってストレスがたまり頑なになる…人に自分の基準を押し付けたり、自分とは立場の異なる人を裁いたり、合わない人を排斥したり…それらは良くないと思いつつも、ではどこで線を引き折り合いをつけるのか、とても難しい問題だといえる。

 「神にはえこひいきなどない」(ローマ2:10)というパウロの言葉を、使徒の働きの著者ルカも読んだかもしれない。ペテロが語った言葉として「神はかたよったことをなさらず…」と記している。自分たちだけが神に愛されているという先入観をここでユダヤ人たちは捨てなければならなかった。私たちにとっても然りである。

 異邦人への伝道…パウロよりもまずペテロが初めに…と読むこともできるが、何よりそれらの働きに先行して神がまず働かれたことに目を向けなければならない。私たちも神の備えや計画に気づかせていただき、それにあずかる者でありたい。