メッセージ   2013年 6月 9日

「ホントにそれでいいの?」
      
(ピリピ書 1章15〜21節) 

 「ねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいます」「純真な動機からではなく、党派心をもってキリストを宣べ伝えており…」初代教会においてそのような状況がすでにあった。にもかかわらずパウロは「見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます」と語る。現代と単純に置き換えて考えることはできないが、パウロの心中にはどんな思いがあったのだろうか。

 イエス・キリストを救い主と信じ、悔い改めてバプテスマを受ければ罪が赦され、永遠の命が約束される…福音はそれ以上でもそれ以下でもないのだが、バプテスマを受けても教会や信仰から離れてしまう人は少なくない。また牧師でありながら不祥事を起こし…という話も、日本でさえ毎年のようにある。

 以前、インサイダ―ムーブメントという宣教の取り組みを紹介した。 他宗教文化の中に入って証する…その宗教の中に留まったままでイエスを信じ、さらにその中で福音を伝えていく…。福音に混ぜものをするようで、変質させてしまう危険は感じる一方、神様から与えられた良きものを通して地域の共同体に働きかけていく…排他的になりがちなキリスト教会のあり方に一石を投じているとも言える。ただし、かつて教会が戦争に加担してしまった日本の歩みを振り返るとき、譲れない線をどこで引くかは大きな課題である。

 アメリカでは宗教の対立を超えて、イスラム教と融合しようとするキリスト教会の動きもある。当然それに対する批判も強い。とにかくバプテスマさえ受ければとか、バプテスマを受けなければたとえどんな良い人でも、といった極論ではなく、謙虚な確信と、み言葉を通して働かれる聖霊にゆだねて、神様のみ心を求め続けたい。