メッセージ   2013年 4月 28日

「和解をゆだねられた者として」
         (Uコリント5章18〜21節)  

 靖国神社の閣僚参拝をめぐる韓国や中国からの反発が激しくなっている。戦争責任や歴史認識の問題にとどまらず、双方の政治的な駆け引きや意図が見え隠れして話は単純ではないが、改めて、赦し赦される関係の難しさを痛感させられる。一旦赦しが成立したとしても、赦された側のその後のあり方次第では、話がこじれてしまうことにもなりかねない。

 さて、神様はイエス・キリストの十字架によって私たちと和解された。聖書が語る和解には「変化」という意味が伴っている。和解によって変える…変えられる関係から新たな展望が開かれ希望が生まれてくると言える。また「交換」という意味もある。人の側が抱える「罪と死」の問題と、神の側から差し出された「義と命」の交換である。神の子キリスト・イエスの尊い血によってなされた赦しは人を根本からつくり変える。

 それにしても、表現はおかしいが、言わば被害者である神の側から良きものが差し出され、それを加害者である私たちが受け取ることによって和解が成立した…というのはまったく逆の、本来あり得ない話である。ゆえに福音なのである。

 そしてその和解の言葉がパウロにゆだねられたのと同様に、今私たちにもゆだねられている。神の言葉によってこの天と地は、そして私たちは創られた。したがって罪からの回復=和解もまたその神の言葉によるのである。ゆだねられた神の言葉を携えて、親子、兄弟、夫婦、職場…人と人との関係において、さらには国と国との関係に至るまで、世にあって和解の務めを果たす者でありたい。