メッセージ   2013年 4月 14日

 「嘆きの祈り」    (詩篇44篇9〜26節

信仰はバランスが大切である。神様の愛を語るには人の罪やそれに対する神の激しい怒りも語る必要がある。新約聖書と共に旧約聖書も大切にしなければならない。赦しと裁き、恵みと試練・・・等など。

さて、この詩篇には神様に対する不満や怒り、嘆きや訴えの言葉が並んでいる。キリスト者にとって、最終的には感謝や喜びにたどりつくことになるが、そこに至るまでにはいろいろある。何より最終的というのが天国であるなら、この世にあっては解決しない苦難も多い。

 その意味において、このような嘆きの祈りを捧げることは決して間違ったことではない。実は神に不満を述べることも大切な祈りなのである(詩篇13:2)。しかし、私たちはそのように祈ることはあまり良くないことだと考えがちである。心穏やかに捧げる感謝、敬虔な祈りこそが良い祈りだという誤解をしているかも知れない。

遠慮なく神に不満を述べる、嘆きや絶望も丸ごと神様にぶつける…この詩篇はそのような姿勢もまた祈りのひとつの姿であることを私たちに教えている。なぜならそのことにより、神様と人との関係がより深いものになっていくからである。神を信じている者は常に勝利する…キリスト教こそが一番であり、正しい・・・この姿勢はこれまでに歴史において悲しい過ちをたくさん犯してきた。しかしよく考えてみると、イエス様のこの世での人生は決して勝利ばかりではなかった。むしろ十字架の死に象徴されるようにこの世では敗者であった。しかし、だからこそ私たちの苦しみや困難を分かち合ってくださる方だといえる。

 苦しみつつ神様に問いかける、あるいは怒りの叫びをあげることは神様との交わりを深めることになる。バランスは大切だが、嘆きの祈りに引け目を感じる必要はない。それもまた信仰者の健全な祈り、信仰のあり方なのである。(ローマ書8:36)