メッセージ   2013年 3月 24日

「そこに神の御心を見る」
          (ヨハネ19章31〜42節)

  ローマの慣習によると、十字架刑は野ざらしにされたあと燃やして「処理」したそうだが、ユダヤでは「その死体を次の日まで残しておいてはならない」(申命記21:22~23)の言葉に従った。そのため主イエスと一緒に処刑された二人の犯罪人は「すねを折った」のだが、イエス様はすでに息を引き取っておられたため、折られなかった。それを見た、もしくは伝え聞いたヨハネは…おそらく後になってから…「彼の骨は一つも砕かれない」(詩篇34:20)や過越しのいけにえの「その骨を折ってはならない」(出エジプト12:46)といった旧約聖書の言葉が結びついて、預言が成就した、すなわちイエスがキリストであることをさらに深く悟り、聖書としてここに記したのであろう。

 さて安息日を翌日に控え、大急ぎで墓に納めなければ…と周囲の人々は思ったことであろうが、おいそれと口にできなかった。それにガリラヤ出身の彼らはエルサレムに墓など所有していなかった。そんな中で、議員の一人であるヨセフが埋葬することを申し出て了承された。彼は自分(家族)のために用意していたのであろう新しい墓地を主イエスのために提供した。そこにパリサイ人のニコデモもやって来て一緒に埋葬を手伝った。彼はかつて夜中にこっそりイエス様に質問に来たことのある人物であった。

 これまでイエスの弟子、あるいは信奉者であることが表に出ることを隠していた彼らだが、イエス様の最期を目の当たりにし、ここで踏み出さなければといういたたまれない気持ちになったのであろう。ずっと従っていた弟子たちが離れてしまったのとは対照的である。しかし、もちろんどちらが良いとか悪いという話ではない。両者共に弱さを抱えながら、それぞれ用いられたということでもある。神様のご計画を悟る心、関わる備えを常に養うことができれば幸いである。