メッセージ   2013年 3月 17日

「委ねるという選択」 
         (詩篇37篇5節 55編22節)

人生は選択の連続である。毎日選択を重ねて生きている。一瞬一瞬が選択と言っても良い。何を食べようか、何を着ようか。右か左か。買うか買わないか、するかしないか、今か後か…。

通る道や乗る電車などは小さな選択である。しかし何気ない選択や一瞬の判断が生死を分けることもある。稀なこととは言え、事故や災害を避けるための判断や見究めは人災を除き不可能に近い。それゆえ現代でさえ、日ごろの行いや、幸運・不運、運勢、占い、風水といった言葉にすがる向きもある。食べることの選択は、健康や命に関わるであろう。しかし健康や長寿との因果関係はいまだに、様々な説が唱えられている。雨男とか晴れ女、縁起を担ぐ、ラッキーアイテム等など…私たちは何とかして良い結果につながるようにと工夫?を重ねる。

人生には大きな選択もある。結婚するかしないか、この人かどうか、進学や就職、引越し・・・一生を左右するような選択である。もしも選びなおせるなら・・・などと考えても検証はできないが…。私たちにとって信仰や小野教会との出会いは人生を大きく変える選択だった。

一方、選べないものもある。性別、親、時代、国、顔、身体、性格、素質…後半は後天的な要素によって変わっていく可能性もあるが…そういったことも含め、私たちは良く生きたいと願うゆえに良いほうを選ぼうとしたり変えようと努力したりもするが、なかなかうまくいかないのが現実である。そこで、最後は委ねるという選択肢に行き着く。医者に、世論に、政治家に…。しかしそれはある意味危険である。運を天に任せる…などというギャンブルのようなものではなく、信頼できるお方…イエス様に父なる神様に・・・委ねる。たとえそれでだまされたとしても悔いはない…表現はよろしくないが、そういう境地にあるのがキリスト者と言っても良いかもしれない。