メッセージ   2012年 12月 2日

   「主の熱心」  (イザヤ書9章6〜7節)

クリスマスになると読まれる、イエス・キリスト降誕の預言である。救い主の誕生は「主の熱心」によって成し遂げられることが語られている。熱心という言葉は他の聖書箇所において「ねたみ」と訳されている。罪の結果としての裁きと滅びにつながる、神様の怒りを表すことばである。しかし、イザヤはそこに神様の救いの源を見出したのである。

 
アッシリヤからの攻撃により、滅亡へと向かっていた北王国イスラエル。偶像と不品行のなかにあった南王国ユダ。下されつつある神の怒り…希望も救いもないような現実の中で、イザヤは希望を見出す信仰を持つことができた。「生まれる」「与えられる」「肩にあり」「呼ばれる」と訳された言葉は何れも完了形が使われており、まだ見ぬことであるにもかかわらず、確信をもって語りきったのである。なぜそこまで語りえたのだろう。

 手がかりはイザヤの預言者としての召命の出来事にある。彼は神を間近に感じた時、恐れおののき絶望した。神の聖さにふれ、自身のけがれに思いが至ったからである。「神が共におられる」ことを私たちはすぐに平安と結びつけるが、イザヤはそうではなかった。義である、聖なる神と正面から向き合った彼の原点が、神のキヌア=「ねたみ」の中に神の「熱心」を読み取らせたのではないだろうか。

私たちも、厳しい現実を前にしながらそこに希望を見出せるような信仰を持ちたい。まずは神をおそれ、謙遜になるところから始めたい。