メッセージ   2012年 11月 4日

「信仰によって生きる」
       (ガラテヤ人への手紙2章20節)


 召天者記念礼拝に際し、改めて生きるということについて考えたい。私たちはなぜ生きているのだろう。その反対側から考えてみると…。   

 不登校傾向に加え「自分なんていなくなった方がいい」「死んでしまいたい」「家族に迷惑ばかりかけているから…」という具合にネガティブな思考の生徒がいた。成績は優秀なのだが、自分を否定する気持ちが強く、友達に合わせては疲れてしまい・・・と言った状態であった。医療機関やカウンセラーとの連携をとりながら、欠席日数にも特段の配慮をし、保健室登校も認める形でサポートした。生徒のありのままを受け入れ、それでも良いと認めることで、彼女に居場所をつくり、自分を受け入れる気持ちを育てていった。

 とは言え高校としての立場もあるし、話は決して簡単ではなかった。常に医師からの助言や励まし、ねぎらいの言葉をいただくことで、生徒を支えることができた。結果として、生徒自身、何とか前向きに生きていこうとする気持ちを持てるようになった。「一人の自殺者を出さずにすんだ」と言う医師からのねぎらいの言葉は重かった。

 人はありのままの自分が受け入れられているということを知るとき、生きる力が湧いてくる。人は支えたり支えられたりすることで生きている。旧約聖書における神様との関係=礼拝とは、動物の血を流すことであった。それなしに人は神様の前に立つことができなかった。なぜなら神の前に人は罪を犯しているからである。身代わりの血が流されることによって罪が赦される…そのことを神ご自身が、そのひとり子の血を十字架で流すことによって完成された。それは神が人を愛する故であった。結果として人は自分の弱さや心の貧しさ=罪に悩む必要はなくなった。神に愛されているのだから自分を否定する必要がなくなった。それが信仰によって生きる道である。

 同時にそれは、もはや死をも恐れなくて良いという道でもある。