メッセージ   2012年 11月 18日

「実に十字架の死にまでも」
      
(ピリピ人への手紙2章3〜11節)

 ピリピ教会における不一致を解決するために、人となられたキリストにならうことをパウロは勧める。

 イエス・キリストは最高から最低へと下られた。永遠の神が時間の中に、無限の神が有限の中に、創造主が被造物に、絶対者が相対的な世界に・・・である。万物の主であられる方が、事もあろうに卑しい人間となられ、しかも仕える者となった。それに引き換え私たちの謙遜はせいぜい行き過ぎた自己評価を適正なところにまで戻す程度である。

  アダムは人でありながら神と同じようになろうとした。バベルの塔の物語も然りである。私たち人間はその生き様において身の程をわきまえず神のようになろうとする者である。また、私たちは人と自分を比べて小さな安心感や優越感に浸たりながら幸せを感じる。人と比べて落ち込んだり、嫉妬心を燃やしたりしてしまう悲しい存在である。

 十字架にかけられた者とは神にのろわれた者である。(ガラテヤ3:13)低くなるにしても何も神ともあろう方がそこまでしなくても…と思われるほどの徹底ぶりである。それはひとえに神が人を愛する故のことであった。そしてイエス・キリストはその謙遜の結果として、よみから天へと高く引き上げられた。

 後のものが先になることを語り、仕える者となるように勧め、自ら弟子たちの足を洗い、挙句の果てに「実に十字架の死にまで従われた」キリスト。その生き様に、そして神の愛にふれるとき、私たちは自らに誇るべきものなど何もないことに気づかされる。

 「互いに人を自分よりすぐれた者と」思い、愛の交わりを深めていくことこそがキリスト者の、そして教会のあり方である。そこまでしなくても・・・という枠を取り払った愛をもって、周りの方々との関わりを大切にしたい。